『失われた言葉を求めて』 について 南 嘉久 二 〇 〇 二 年の夏に 私は 自 分 史をベースとした 『 失われた 言 葉を 求めて』という 本を 出すことができた 。 被爆者である父のことと 私 の関わりを 書いたものである。 何 度も 言 うのを 聞いて育ったのだった 。 父の悲しみ 、 痛みの深さも 二 度 目は 大 学 二 年の時 だったか 、 原 水 爆 禁 止 世 界 大 会の長 崎 集 思い知らないままに。 会に参 加した 時に家に寄った 私に 父が ポツリと 言った 。「 原 水 禁 大 会とか平和行進とか年に一度おきま りのように外から 来て騒がんで もよか。長 崎の被爆者は原爆の日には、 静かに原爆で亡くなった 人 黙って聞いていた 。 私は 日 頃 封 印していた 父の悲 痛な 思いの 塊 に かたまり たちに祈りを 捧 げたかと ばい。」ひろ坊たちのことを 知っていた 私は 触れたよう だった 。 三 度 目は 私が 二 十 歳になった 年の長 崎 原 爆の日の夜のことであ る 。 帰 省して夕 食の後 、 父が私に真 面 目な 表 情で言った 。「 今日 話 しときたいことがある 」 父が 生 涯でたった 一 度 私に詳しい原 爆の話 子 野を 子 どもた ちを 探し 求め 、よ うやく 見つけたひろ 坊た ちも 息 をしたのだった 。 国鉄 長 崎 機 関 区で被 爆した 父が燃え 燻って熱い原 を 引き 取っていった 話であったろう 。た だ 私が痛恨に思ったのは、た 父は 長 崎 原 爆で幼い子 どもた ち 四 人を 失い、 自らも 原 爆 症のた どあった 。 めに一生苦しん だ 。その父が私に原爆のことを 話したことが三度ほ だったか 私は 完 全に忘れてしまったのだった 。 私は 自 分の未 熟さを った 一 度 だけ 父が 思いを 込めて私に語ったその話を どのよ うなもの く語って思い出すこともできない父の話(私にとっての父の「失われ 底の言 葉はいつか 育っていったのだろ う 。 父が 生 涯にた だ 一 度 詳し というひろ 坊の言 葉があった 。 私が二 人の子の父となる 中で心の奥 底には 父が幼い私たちに何度も語った 『おとうさん、今、 何時?』 きた 。 生 協の平 和 活 動にも 熱 心に参 加していった 。その私の心の奥 大 学 卒 業 後 私は 生 協で働き 出し 、 結 婚をし 、 二 人の子 どももで 激しく責めた 。 一 番 初めは 私が 小 学 校 五 、 六 年 生の頃 だったか 、 父が 長 崎 原 爆 焼け 焦 げ 、 頭 蓋 骨まで露になった 人がいた 。「こんなふうにして、 の写真 集を 見せながらの話であった 。 原爆の焦熱と 猛火の中で黒く 英 子た ちが 死ん どった ぞ 。」と 父がその写 真のす ごさに 息を 呑んで いた 私にポツリと 話した 。父はさらにかろうじて数日生き 延びた 次 男寛之のことを 語った 。 「ひろ坊がね、 死ぬほんの手 前だったが、 夜中に目をあけてね、 『おとうさん、今、何時?』そう 言って死んだよ 。」 自 分た ち 兄 弟は 、その時から 、 父がひろ 坊の今 際の際の言 葉を 86 た 言 葉 」)とその奥にある 父の思いを 私は 自 分のうちに取 り 戻さね れま すね。・・・」(ラジオ・ドキュメントでの父の話) ねと 言って私が 頭を さ すりながらやったのが 今でも 本 当に思い出さ 父と 幼い子た ちのささやかな 幸せの光 景があったのだろう 。その ばなら ないと 決 意した 。 私は 『 長 崎 原 爆 戦 災 誌 』をはじめ 多くの 原 爆の本を 読み 、 父の職 場と 元 同 僚を 訪ね 、 手 紙を 出し 、 父た ち すさま じい爆 風と 熱 線を 受け 即 死した 七 歳の啓 子と 五 歳の英 子 。 メ ートルの距離にあった 木造の鉄道官舎などひとたま りもなかった 。 幸せと 子どもたちのいのちを 原爆は 奪った 。 爆心 地からわ ずか五百 原爆は爆風や熱線や放射線というそのすさまじい威力 だけでなく の家の跡を 探し求めた 。 何よ りも 生きた 人 間の心 身に 与えた 悲 惨さが 語られなければなら 人た ちを 救 援 する 列 車の運 行 指 揮を 原 爆 投 下 後の極 限 状 況の中で 家の前の浦 上 川に飛 び込ん だ 後 、 荒れ狂う 紅 蓮の炎から 逃 げ 延 び 執 り ながら 夜おそくまで原 子 野を 探し 回った 。 長 与の救 援 所に 横 なかった 。原爆の人間的悲惨さを 深く理解するためには、私自身の 被 爆 者の父の苦しみを 私は 知る 。 精 神 的にも 肉 体 的にも 頑 健な 放射 線が体の深 部から 細胞を 破 壊していった 。父は 被爆して瀕死の 父であったが、原爆症のため死にかかった 頃「こんなに苦しいものな たえられた 息絶え々々の葉子は「おとうちゃんはま だでしょうか?」 た 十 三 歳の葉 子と 十 歳の寛 之 。よ うやく 生き ながらえた 二 人にも ら 線路に這って行って死にたいと思った 」という。永井隆の本を 後で ける三十 分前に手を 胸に当てたまま 息を 引き 取った 。冷たい体とな とか細い声で言って父の到着を 今か今かと 待っていたが、父が駆けつ 人 間 的 成 長が 必 要であった 。 原 爆の人 間 的 悲 惨さを 理 解 すること 読んで「 原子 放射線によって引き 起こされる 原子 病の苦しみは、 生 は父を 深く理解していくことでもあった 。 身をち ぎる ばかりの苦しみがある」と 知って私は 父の苦しみを 少し った 葉子を 抱きしめて慟哭する父がいた 。父はひろ坊を 護国神社の 果てに妻を 亡くし、 残された 五人の幼い子どもたちを 育てる父がい た。 ん、 今、 何 時?』とその時のひろ 坊の表 情が父の胸の底に一生 残っ て十六日の夜に死んだ 。今際の際に父にかけた 短い言葉『おとうさ 防空 壕の奥でようやく見つけ 出したが、そのひろ坊も黒い便を 出し は思い量った 。 た 。「 ・ ・ ・ 長 女の葉子が小 学 校 二 年 ぐらいから 母 親が病 気になっ 父の悲しみ痛む 思いを 私は知る。原爆投下の前に長い闘病生活の たもんですから 、六年まで結局四年半ですわネ、まあ 小さいそうい ま あ 、 夕 方 私が 遅 く 帰 り ま すと 子 どもた ちが 全 部 私のそ ばに 寄っ れども、それも今から 考えれば本当に簡単なものですわネ。そして たち兄弟が成長していくその顔に、いつまでも年取ることのないひろ の愛情をたっぷり 受けて私たちは 育った 。 父は 戦 争を 知らない自 分 父は 戦 後 再 婚した 母との間に四 人の子 どもた ちをも うけた 。 父 う 幼い手で才覚をし ぼりながら 夕御飯のしたくをしてくれましたけ てお 膳を 囲むよ うにして、そして一 番 すそっ子がカタコトまじりに 坊たちの幼顔を 重ね合わせていたのだろう 。 父は 私たちに原爆で死ん だ 四 人に代わるいのちの願いを 込めたの 『おとう ちゃん 、 う ちた ちゃおかゆの水のほう だけいた だいておと う ちゃんに 実のところ 残しといたとヨ』と 言ってお りました 。そう 87 だろう 。 被爆 二世の私たちは父にとって生きる希望の象 徴であった 豊 饒な 可 能 性を 求め、 出会う すべてのことから 学 び生きていこう 。 (な お 、この『 失われた 言 葉を 求めて』の本についての発 表 報 告を 第 五 て。 路 傍の草 花にも 優しくま な ざしを 注 ぎ 、そよ ぐ風にも 心を 震わせ 私のいのちにこもる 被 爆 者である 父の思いを 私は 今 知っている 。 ろう 。 回原爆文学研究会で行いました 。) 自他のいのちへの深いいとおしみを 私は今感じることができる。他者 世の一人として平和への深い思いを 私は 私なりにこれから 語っていこ への感 受 性こそほんとうに大 切なこと だと 学 び成長もした 。 被爆二 う 。何より 、すべてのいのちのいとおしさを 深く感じ、私のいのちの 88
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