市川 博嗣君のこと 大学時代の親友 山本 俊一 今から21年前の5月の

市川
博嗣君のこと
大学時代の親友
山本
俊一
今から21年前の5月のことだったか。1981年、埼玉県草加市の独協大
学に入学して初めてのクラスコンパが行われた。私は市川と同じクラスで、髪
を短く切った豆タンクみたいな彼の印象は、あまり強いものではなかった。ク
ラスコンパがどこで行われたのか定かではないが、兎に角座敷にあがり、クラ
ス50人近くのうち半数以上が参加したと思われる。たまたま彼と私は背中合
せの位置に坐った。
そして、どのくらい時間がたったのだろうか。始まって1時間かそれ以上か。
いきなり彼が何か言って来た。
「☆☆☆して ええか?」市川とは結局20年ぐ
らいの付き合いになったのだが、その時何と言ったのか知ることが出来なかっ
た。聞き返した。「えっ?」。同じことを言うのだが分からない。彼は不思議な
顔をしていたが、不意に「(わしがしゃべっているのは)長州弁じゃろうか?」
みたいなことを言って「背中、そちらに寄りかかってもいいか?」と聞いてき
たのである。何とも無礼な、しかしいちいち断ってくる、変な奴だなぁという
のが最初の思い出である。
その後どういう経緯で親しくなっていったのか。
今でもはっきりと憶えているのはコカコーラのライトカバーである。と言っ
てもなんのことか分からないだろうが、部屋の吊り下がっている電球の幌とい
うか、覆いというか。なんで大学生になって誕生パーティを、と思いながら皆
で祝い合うようになった。その1月9日生まれの彼へのプレゼントの品だった。
越谷のロジャースで買ってきたものだ。赤い提灯のような不思議なものである。
それが今でも目をつぶると浮かんでくる。ステレオ、テレビの部屋ではなく、
ベッドの部屋のぼんぼり。コカコーラのライトカバー。白熱球の光を吸収して、
部屋をあたたかく染めていた。みんなで寄せ書きをしたのかな。黒いマジック
で何やら書いた記憶もある。
誕生パーティだけでなく、テストに際しては合宿と称して皆で勉強をしに集
まった。なぜ市川の家なのか、というと不思議なのであるが、とにかく集まっ
た。
独協は入学が簡単だが卒業は難しい、という言われ方をする。私が留年した
のは2年から3年に上がる年だった。市川は2年に上がる年だった。他の仲間
もそれぞれいろいろだった。そんなこともあって仲良しクラブではないが、脛
に傷持つ身、仲間としての団結があり、そしてその勉強会になったのであった。
大学時代の友というのは勉強での付き合いもさることながら、アルバイトで
親しくなることも多い。市川の紹介で行ったアルバイトは、毛皮屋さん(東欧
商会?)でのタグつけのバイトから始まって、人形秀月の駐車場呼び込みのバ
イト、家庭教師のバイトなど。バイト以外で一緒に何かをしたのは、というこ
とを振り返ってみると本当に数少ないことしかないのだから、専らバイトをし
て、夜は集まって映画を見たり、酒を飲んだり、といった普通の生活をしてい
たのだと思う。
ハイツ新善には思い出があった。階段をとんとんとんと登っていき、突き当
りの部屋がステレオ、コタツ、テレビの部屋。ここに皆が集った。自分がその
時代を生きていたことを証明しようと思ったら、あの時のあの部屋を思い出せ
ばいい、そういう部屋だった。主は、市川はタバコを吸わないのだが、我々が
吸うため灰皿も用意して迎えてくれた。自炊の思い出というのはあまりないの
だが、九州ラーメン「うまかっちゃん」
(だったか?)はなんとなく憶えている。
市川がつくったのだか、その辺はおぼえていないのだが。なんでもこちら(関東)
では売っていないから実家から送ってきたんだよ、とかいいながらみんなで食
したような・・・。
そう、その湯気の向こうに見えていたのが市川の顔。テレビはベストヒット
USAがかかっていたかなぁ。アメリカのポップスヒット曲を聞きながらラー
メンを食べた。
市川は結構いろんなことで威張るタイプだった。それは決して嫌味なことで
はなく、お父さんが、バドミントンが上手い話だとか、好きなカトリーヌ・ド
ヌーブの話だとか。自分のことで威張るのではなく、どうだ、だからドヌーブ
って凄いだろう、というような威張り方である。自分の父親のことをこうやっ
て威張れるというのは、さらっとして、あっけらかんとして、爽やかだった。
筆舌に尽くしがたい、とか枚挙に暇がないとか言うのだろうが、本当にそう
だ。今自分が 40 年以上生きてきて、その中の 5 年間にわたる学生時代の思い出
は1/8のことだけれど次から次へと思い出が浮かんできてとどまるところを
知らない。
ゼミが一緒だった。ことも大きな理由である。
社会人になってから、市川と会うようになったのは市川義塾が出来てからだ
った。転勤があったりで、なかなか会えなかったのだが松戸に戻ることになっ
て以来、年に一回ぐらいのペースで会っていた。金町でカラオケ朝までなんて
ことも何度かあった。3年か4年前か憶えていないが塾の先生がインドに行く
というので壮行会を兼ねたカラオケの宴で朝まで飲んで歌ったこと。塾の関係
なんだから、と1円もお金をとらなかった。金町の駅から京成線に沿って柴又
まで歩いたことも何度かあった。
そうそう一番びっくりしたのは、私が優加と一緒に松戸のファミリーレスト
ラン「ガスト」に出かけた時の事。夜8時だったのか9時だったのか。はたま
た10時だったのか。全く記憶にないのだが、駐車場で降り立つ市川と奥さん
にばったり出会った。わざわざ松戸まで来るなんて、なんていいながら何を食
べたのか。奥さんが採点とかがあって時々利用するのよ、なんてことを言って
いた。市川は「むふふ」と笑っていた。忙しい時間だったのだろうに、四方山
話をして。
最後に会ったのは、平成13年の1月か、それとも12年の12月か。とに
かく寒い季節だった。私はインターネット関係の仕事をしていた。市川義塾で
もパソコンを導入したらどうなんだ、というようなことを言いたくて、電話し
たら一緒に飯でも食べよう、と。中野のジムに通っているから中野の駅の近く
にしようか、ということでステーキハウスに二人で入った。もう一人寺山とい
うのが合流する予定だったのだが、仕事の関係で来れなくなってしまった。あ
の後寺山は市川に会ったのだろうか?皮のパンツに皮ジャンを着て、ジャラジ
ャラといろんなものをぶら下げていた市川は、大会が近いんだ、というような
ことを話していた。ボディビルだった。羽生の結婚式の時その姿を見せた市川
は、大会に向けてトレーニングに精を出していた。葛飾からわざわざ中野まで
通っていた。食べ終わって私がタバコを吸っていると、煙たそうな顔をして身
体によくないんぞ、と言った。
市川との付き合いは一旦ピリオドを打った。もう暫くは会えそうにもないか
ら。あと何十年先になるのか。しかしながら、彼との想い出はとどまることを
知らず、むしろどんどん深くなっていくような気がしている。ああ、そういえ
ばそういうことがあったなぁ、というような曖昧な記憶のかけらから、その時
を客観的に見ながら意味を考える、メッセージを考える。写真1枚はその瞬間
だけを撮ったものだけど、当然その瞬間には続きがある。今まで自分の心の中
の想い出箱に入っていた、その写真のような瞬間、瞬間が今、少しずつ動き始
めている。こうやって記憶と対峙して、それを捕らえようとしてみると、本当
にゆっくりと動き始めている。