見知らぬ観客36

むかし見せ物小屋の余興に覗きからくりというものがあった。もともとエディソンが発
明した映画の原型も箱の中を覗いて見るものだったという話は以前に本欄でも紹介し
た。映画を見る深層心理には、きっと人間が本来的にもっている覗き趣味が潜んでい
るのではなかろうか。日本の探偵小説の父といわれる江戸川乱歩にも覗き趣味が
あって、ある意味で好奇心の発露であると考えられるが、実際に乱歩は双眼鏡を愛
用していたらしい。作家の小林信彦は若いころに乱歩からヒッチコック・マガジンの日
本版編集長を任されたことがある。それで、乱歩邸を訪れたときのこと、乱歩が双眼
鏡を持って現れ、済ませてしまいたい用事があるから少し待って欲しいと告げてから
小林にそいつを手渡して、「それで外でも眺めていたまえ、おもしろいものでも見える
だろう」と言ったという話がある。いかにも怪人二十面相の作者らしいエピソードであ
る。そもそも乱歩がレンズ、鏡、幻灯といったものに強く惹かれていたことはよく知られ
ており、乱歩もまた動く幻灯としての映画が好きだったようだ。
そのヒッチコック・マガジンの発行人であるアルフレッド・ヒッチコックも覗き趣味の親玉みたいな人であった。伝記映画「ヒッチコック」
(12年)の中でヒッチが隣室を覗く場面が何度か出てくる。第三者として岡目八目の立場から興味の対象を凝視する。いくばくかのスリル
と好奇心。それがもっとも露骨に現れたのが「裏窓」(54年)だろう。
「裏窓」は心理サスペンスの名手として知られるコーネル・ウールリッチの短編小説がもとで、アパートの玄関側とは反対の側面につ
いた窓を裏窓といい、そこから向かい側のアパートの個々の部屋が見えるし、裏庭を見下ろせる。片足を骨折した冒険写真家(ジェーム
ス・スチュワート)は看病に訪れるガールフレンド(グレース・ケリー)とおしゃべりする以外は動くこともできないので、裏窓から外を眺めて
いるほかすることがない。正面のアパートのいくつもの窓が見渡せるから、そこで生活する人びとの一日を望遠レンズで観察するのが今
ではすっかり日課となっている。そのひとつひとつの部屋で繰り広げられる住人の喜怒哀楽が写真家の覗く望遠レンズを通してわれわ
れ観客にも紹介され、それを見ているだけで楽しい。様々な職業の老若男女が住んでいて、その中にちゃっかりヒッチコックが来客でた
たずんでいたりして笑わせる。われわれもまた覗きの共犯と化しているのである。
ところで、写真家は向かいのアパートの一室を観察しているうちに異変に気づく。病気で寝たきりの妻が姿を消し、夫は夜遅くに大き
なトランクを抱えて外出する。第六感というやつで犯罪のにおいを嗅ぎ取った写真家はガールフレンドやマッサージにやってくる看護師
(セルマ・リッター)にその話をするが、暇人の妄想だと相手にされない。見舞いに来た友人の刑事にも相談するが、確たる証拠があるわ
けではない。
しかし、写真家の確信は深まるばかりで、ガールフレンドや看護師も話を聞かされるうちに疑惑を抱くようになり、探偵ごっこを始めるの
である。夫が留守の間を見計らって、写真家の指示を受けたガールフレンドがとうとう向かいのアパートに侵入し、証拠となるものがない
か調べるという大胆な行動に出る。そこへ、夫が帰って来たからたいへんだ。くだんの殺人犯にはギョロ目でいかつい身体をした若き日
のレイモンド・バーが扮した。のちに日本のお茶の間でも好評を博したテレビの人気ドラマ「弁護士ペリー・メイスン」でブレイクする前であ
る。男は彼女を問い詰め、暴力を振るおうとする。写真家は彼女を助けるために機転を利かせて警察に通報し、ガールフレンドは駆けつ
けた警官によって住居侵入罪で現行犯逮捕されてしまう。ここで、つくづくうまい演出と思わせるのは、ガールフレンドが向かいのアパー
トに探りを入れに行くところを主人公の部屋から主人公の目線で捉えている点だろう。普通ならガールフレンドの視点か、あるいは彼女
の挙動を近くまで寄って撮るところを、ヒッチはそういうありふれた表現を使わない。視点
をぶれさせないのである。したがって、この映画のシチュエーションはアパートの一室に
限定され、部屋の中と裏窓から見渡せる範囲が世界のすべてである。つまり、観客は足
を骨折して動けない主人公と同一の環境におかれ、そこから外界へ踏み出せない足か
せをはめられる。ここにはヒッチ一流の計算が働いており、ラストで正面の住人(写真家)
に犯行を勘づかれたと知った犯人が写真家の部屋を訪れるサスペンスの秀逸さは、そこ
に起因している。われわれもまた主人公同様、その部屋からもはや逃れられないという
暗示をかけられ、主人公との間に恐怖の共鳴が起こる。かくして、観客はヒッチの罠にま
んまとはめられて、最後に悲鳴を上げるのだ。
さて、ガールフレンドの窮地を救ってほっとしたのも束の間、向かいの窓に気づいた男
は写真家の住む部屋までやって来る。この場面のサスペンスはヒッチの「匠の神わざ」と
もいうべき名人芸で、廊下から聞こえる靴音で男が徐々に部屋に迫り来ることを知らせる
とか、写真家が咄嗟に部屋の電気を消して息を忍ばせ男の襲来に備えるとか、観客を巻き添えにした恐怖の瞬間を演出するのである。
ドアが開き、男が写真家を襲撃しようとすると、写真家は手元のカメラを取り上げてストロボをたいて相手の目くらましをやる。ここは映画
史に残る名場面だ。抵抗むなしく、男に担ぎ上げられた写真家は裏窓から外へ投げ落とされる。既にガールフレンドから事情を聞いて急
行していた警官が裏窓の真下に待機していたことから、写真家は丈夫なほうの足も折るという犠牲だけで済み、階上では男が警官隊に
取り押さえられていた。ところで、写真家の一室からついぞ出ることがなかったロバート・バークス(撮影監督)のカメラは、このときだけ部
屋を離れて裏庭に墜落したカメラマンを捉えるのだ。因みに、バークスは全盛期のヒッチ映画を女房役として支えた名手で、インナー
(室内劇)ものの代表作「裏窓」以外にも、「知りすぎていた男」(56年)、「めまい」(58年)やアウトドア(屋外アクション)ものの代表作「北
北西に進路を取れ」(59年)などで流れるような華麗なカメラワークを披露し、ヒッチコック・ファンを魅了した。
一件落着したラストシーンは、冒頭片足にギブスをはめてベッドに横たわって登場した写真家が両足ともギブスをはめて横たわって
いるというヒッチ一流のユーモアで閉める。 (2014年12月1日)