- 18 - 怒でしかなった。 後にトル-マン大統領も激怒したが、既に米ソ

怒でしかなった。
後にトル-マン大統領も激怒したが、既に米ソ対立の枠組みが出来上がっており、
「 鉄 の カ - テ ン 」 と 言 わ れ 、 東 西 陣 営 の 対 立 、‘ 冷 戦 ’ が 長 い 期 間 続 き 、 何 度 も 第
三次世界大戦勃発の危機があった。
結果としてヤルタ会談はスタ-リンの一人勝ちになってしまった。
ソ連軍はポ-ランドは全土を占領、ドイツは東西に分割され,首都ベルリンの封
鎖、空 輸作戦の実 施、ベルリ ンの壁とい うようなス タ-リン首 相の強硬な 政策が推
し進められ、連合国側はその対策に振り回させれた。
1955 年 、ワルシャワ条約に基づきソビェット社会主義共和国連邦を盟主とした
東ヨ-ロッパ諸国が結成した軍事同盟「ワルシャワ相互防衛援助条約機構」が出来、
北大西洋条約機構と完全な対立構図が出来上がってしまった。
1989 年 、 冷戦 終結 に伴 い東欧革 命が始 まり、1991 年 3 月、 軍事機構 を廃し、 正
式解散となった、1991 年 12 月 25 日、ソビェット連邦は崩壊した。
その間最大のモノは、1962 年 10 月 14 日から 28 日での 14 日間、キュ-バ危機で
はアメ リカ・ケネ ディ-大統 領とソ連・ フルシチョ フ首相の息 詰まるよう な交渉が
続き、 両軍とも臨 戦態勢に入 り核ミサイ ル発射準備 をしながら の交渉で第 三次世界
大戦は 必至と世界 中が固唾を 呑んで見守 った事件が あった。
WBC で 強 豪 キ ュ - バ は オ ラ ン ダ に 破 れ 姿 を 消 し た が 、 世 界 が 平 和 だ か ら こ そ 出
来るイ ベントで、 平和の尊さ を充分に実 感できた。
ヤル タ会談にお ける日本に 関する取り 決めとして 、極東密約 というスタ -リン首
相の提唱で出来た密約がある。
対日戦にソ連参戦の要請、これはル-ズベルト大統領からの要請として、ドイ
ツ敗戦 後三ヶ月以 内に参戦し て欲しいと 要望、これ は南方に点 在する島々 の日本軍
守備隊 が猛烈な反 撃で玉砕す るまで戦い 抜く不屈の 精神に驚愕 、特にサイ パン島、
ペリュ リュ-島の 攻防戦の犠 牲者の多さ に、さらに はヤルタ会 談中にあっ た硫黄島
の攻防 戦では玉砕 した日本軍 の戦死者数 より米軍の 犠牲者の方 が多かった くらいの
大損害を被り、作戦通り日本上陸した場合は 100 万人位の犠牲者がでると予想され
た。
さらには満州には精鋭関東軍が存在しこれを駆逐するには更に大きな代償を払わ
なければならないと大統領は頭を痛めていた。
‘玉砕’というキリスト教徒には全く理解できない価値観の軍隊と戦う不気味さ
で犠牲者を少しでも減らす方策としてソ連赤軍の参戦を要請した。
この時点ではマンハッタン計画で原爆の完成予想の見通しは立たず、従来通りの
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