佐々木常夫さんが語る 自分らしい生き方 幸せを感じる働き方/佐々木常夫氏

こうち男女共同参画センター「ソーレ」/講演会記録集
平成26年度男女共同参画推進月間講演会
佐々木常夫さんが語る 自分らしい生き方 幸せを感じる働き方
日時 平成26年6月15日(日) 13:30~15:30
会場 こうち男女共同参画センター 3階大会議室
株式会社佐々木常夫マネージメント・リサーチ代表取締役 佐々木常夫さん
1969 年東大経済学部卒業、同年東レ入社。6度の転勤、破綻会社の再建や事業改革など多忙を極め、
それに対して全力で取り組む生活。2001 年東レ同期トップで取締役、2003 年より東レ経営研究所社
長となる。独特の経営観をもち、現在経営者育成のプログラムの講師などを実践する一方で、内閣
府の男女共同参画会議議員などの公職も務める。
著書に「ビッグツリー」「部下を定時に帰す仕事術」「そうか君は課長になったか」「働く君に贈る
25 の言葉」
「リーダーという生き方」
(いずれもWAVE出版)など多数。
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ビッグ・ツリー
皆さん、こんにちは。佐々木です。
私は定年まで東レという会社に勤めていました。たまたまですけれど、そこで3代の社
長に仕えるという経験をしました。その後、経営研究所というところへ来て、3年ほど前
に辞めて今の会社へ来てます。
本を書いたのは会社を辞めてからというか、最近のことなんです。7年前に「ビッグ・
ツリー」を書きました。私のことを週刊誌「AERA」で知った出版社の社長さんが、私のと
ころへ「佐々木さん、本を書いてください」と言って来ました。
この人しつこくて4回来ました。4回目に、
「家族のために本を書いてみませんか」と言
った。私は、家族のために本を書けと言った意味がよく分からなかったのですが、我が家
にもいろんなことがありましたので、出版するしないは別にして記録を残しておこうと思
いました。けれど、昔のことは忘れていますので、家族に「あのとき、どうだった」と聞
くと、家族は手紙や日記を出してきて「あのときはこうだった。お父さん、気がつかなか
ったでしょう」と言われて、
「えっ、そうだったのか」と私は当時の家族の状況、彼らの気
持ちを改めて理解しました。家族は家族で、
「お父さん、そんな大変な仕事やってたの」と
私のことを理解してくれた。そういうやりとりをしてるうちに、大げさに言うと、家族の
きずなが深まってきました。出版に反対していた2番目の男の子と妻が原稿を読んで、
「お
父さん、この本出そうか」と言ってくれた。私は、家族のために本を書きなさいと言った
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意味がよく分かりました。
自閉症という障害
私には子どもが3人います。一番上の子は自閉症という障害を持って生まれました。自
閉症というのは、こだわりがあることとコミュニケーション能力に欠陥があるという特徴
があります。うちの子どもは自分の好きなことはやりますが、それ以外のことはやりませ
ん。好きなこともそんなに多くはありません。
小さいときは車が大好きで、毎日ミニカーを 50 台も 60 台も並べて、来る日も来る日も
車と遊んでいました。意味のないものを順番に覚えていくくせがあります。小学校2年の
ときに、漢和辞典を1ページから読んで、3カ月ぐらいで中学3年までの漢字を全部覚え
たり、一度山へ連れていきますとすごく喜んで、毎週土曜日は家族5人で家の近くの六甲
山へよく行っていました。
学校はトラブル続きで、幼稚園は2カ月で退園させられました。先生が面倒見切れない。
みんなと一緒にやりませんからね。小学校もいろんな問題を起こしたので、毎月のように
学校へ行かなくてはいけなかったし、PTAの集まりはほとんど出ました。中学校に入っ
て、いろいろありました。いじめがあったり、不登校になって、学校の成績は最悪でした。
高校に入ったら急に授業に興味を持ち、得意の暗記が始まりました。学校の成績が上が
ったものですから、この子はちょっと変わっているけど何とかなるかなと思ったんですが、
高校3年のときに幻聴が聞こえ出しました。自閉症の中には幻聴が聞こえるという子がい
ますけど、うちの子どもの幻聴は結構きつくて、やっと高校を卒業し、大学への進学はあ
きらめました。
彼は本を読むのが大好きで、2日に1冊ずつ読んでいきます。得た知識を誰かに話をし
ないと落ち着かないので私と妻が1日2時間ぐらい彼の話を聞いていました。 だんだん
幻聴がひどくなって一時入院させたことがありますが、退院後、施設の近くにアパートを
借りてひとり暮らしをさせました。私は横浜市の自閉症者親の会に出入りして、頼まれて
副会長をやりました。当時お父さんは1人も来ません。来るのはほとんどお母さん。父親
は会社の仕事をしているだけでいいのか、自分の家族やコミュニティに対する責任はない
のかと思います。
そのころ、私は大阪に転勤になり、毎週金曜日には家に帰る単身赴任生活でした。彼も
アパートから帰ってきます。金曜土曜は自宅にいて、日曜の午後、彼のアパートへ行きま
す。1週間ぶりですから、掃除や洗濯をしたり、買い物をしたりしますが、一番大事な仕
事は彼が1週間読んだ本の話を聞くことですけど、これが長い。1週間分ですから4時間
ぐらいかかりますね。その日は新横浜のすぐそばの彼のアパートへ泊まり、月曜の朝6時
15分の新幹線で大阪へ戻ります。9時にはオフィスにおります。これ毎週ですからね。
結構つらいものがありました。
自閉症というのはめったにないと言われましたけど、最近は高機能自閉症とかアスペル
ガー症候群とか、IQが高いんだけど障害ということが分かってきて、今や 100 人に1人
と言われています。
私のパートナー
私のパートナーは1984年に急性肝炎で、ほぼ3年間病院生活。1997年に肝硬変
とうつ病のために3回入院。98年以降40回ぐらい入院してます。1回の入院が1カ月
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半ですから、大体1年のうち半分ぐらい病院生活です。うつ病と分かったのは2000年
ごろ、この年に自殺未遂をしています。その次の年にまた2回やりました。最後の自殺未
遂は普通なら死んでいたのですけど、たまたま娘が見つけまして、
「お父さん、お母さんが
大変なことになってるから、すぐ帰ってきて」。
私は代々木に住んでいたので、救急車ですと6~7分のところに慶応病院がありました。
娘に「救急車呼んで、慶応病院に入れなさい。お父さん直接病院行くから」。私は日本橋で
仕事をしていたので、タクシーをつかまえて 30 分ぐらいかけて病院に行ったんですが、救
急車が来てない。後で聞いたら、出血がひどくて、止血の応急処置に手間取ったというこ
とでした。午後3時から手術が始まり、終わったのが夜の 10 時半。7時間半に及ぶ手術で
した。
私は何もすることがなくて手術室の前に座っていましたが、さすがの私も自分の人生半
分終わったかなという絶望感の中にいました。この人は今日助かっても、また明日やるか
もしれない。既にもう3回やっています。私は仕事がありますから、24時間彼女を見張
っておくわけにはいかない。この人は死ぬんだなと思いました。
なぜうつ病になったかというと、いろんな要因が重なっていますが、この人は典型的A
型人間、完璧主義です。家の中いつもきれいです。料理は絶対手を抜かない。そういうこ
とにまたプライドを持っていた人でした。そういう人が何もしないでただ病院で寝ている。
仕事で忙しい夫が家事をやり、障害の子どもの面倒をみている。自分はいない方がいい。
自分は離婚した方がいい。自分は死んだ方がいい。自分を責めるんですね。
私は最初大阪に18年間いたんですが、87年に東京へ行って、大阪と東京をたびたび
転勤しています。彼女はこのころ入院していますけど、同じ時期に長男も2回入院してい
まして、午前中は横浜の彼の病院に見舞いに行って、午後から東京の彼女の病院に見舞い
に行くということをやっていました。
84年からの3年間、我がパートナーほとんど病院生活でした。この苦境をどうやって
乗り切ったか振り返ると、当時は給食なかったものですから、毎朝5時半に起きて、子ど
もたちの朝食と弁当を作ります。この年に私は課長になりましたので、部下より1時間早
く会社に行きます。みんなが出てくる前に自分の仕事と部下の仕事の段取りを決めて、あ
とは一直線に仕事をやる。夕方6時には会社を出ます。家に着いて、食事をさせて、宿題
をやらせて、お風呂に入れます。土曜日は病院に見舞いに行きます。1週間に1回しか行
けませんからなるべく長い時間います。日曜日は1週間分の掃除と洗濯と買い物です。
会社の仕事はできるだけ計画的、効率的なやり方に切り替えた。このころから私は、部
下に「ビジネスは予測のゲーム、これが起こったら次に何が起こるかということを考え、
先手、先手で仕事をやりなさい」と言ってきました。
娘の存在
私にとって非常にラッキーだったのは、小学校5年の女の子が母親譲りの料理大好き人
間だったことです。私の料理の手伝いをしていたのですが、そのうち自分で料理の本を買
ってきて、煮物、揚げ物、焼き物、順番にマスターしていって、3カ月ぐらいで主婦顔負
けの料理を作れる腕前になりました。私の帰りが少し遅くなっても、この子が料理を作っ
て待っていてくれました。私は彼女のことを「戦友」と呼んでいますし、最大のサポータ
ーでした。
うつ病の症状もいろいろあるのですが、うちの場合は同じことを何回も言う、すぐ死に
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たいと言う、夜は寝ない。そうなると家族は疲れてしまう。
「戦友」だった娘が、こんな家
は嫌だと言って出ていった。私は1人でできると思ったんですが、次の年からあのすさま
じい入院が始まりました。3回に1回は救急車です。そこで計画的、戦略的な行動を徹底
しようと思ったんですが、私は残念ながら経営企画室長をやっていました。経営企画室で
私の直接のボスは社長ですけど、それ以外に会長、副社長、専務がいる。この人たちが私
にいろんなことを聞いてきたり、指示します。私に上司が7~8人いるような感じです。
当時の東レは会議の数が多い。会議が長い。使う資料は読み切れないほど出てきます。私
はそういうのは大嫌いなのですが、それを決めるのは私ではありません。トップマネージ
メントです。私は定時に帰れないです。
ただ、私が両親に感謝をしたのは、もって生まれた楽観主義でした。神様は私に試練を
与えたというか、ちょっといたずらをしたけれど、そのいたずらはきっとどこかに行って
しまう。来月になったら、来年になったら、きっといい日が来るだろうと思ってやってい
ました。まさか足掛け7年もこういう生活が続くとは思いませんでした。 娘は私に似て、
明るく前向きで友だちたくさんいます。でもちょっとメンタルが弱くて、このころ友だち
のことで悩んで鬱っぽくなったことあり、私は精神科のお医者さんに連れていきました。
ある日、2番目の男の子が「お父さん、最近みぃちゃん、死にたいって言ってるよ」と言
うから、「ちゃんと見といてくれよ」と頼んだ。その2日後、電話があり、「大変だ。みぃ
ちゃんが死ぬって言って飛び出してった」
。私は慌ててアパートへ駆けつけたのですけど見
つからない。警察に届けましたが、
「探しようがないからそこで待ってなさい。どこかの警
察から電話がありますよ」。その夜8時半、警察から電話があり、「お嬢さん、預かってい
ます」。その近くの山の上から飛び降りたけど、下が砂地で助かったということでした。
私は電車乗り継いでその町へ行って、警察へ行って、病院へ行ったら、0時を回ってい
ました。次の日の朝、どうしても早く会社へ行かなくてはいけない用事があったので、も
う娘と話ができない。夜中に娘に手紙を書きました。朝の6時、枕元に手紙を置いて東京
へ戻った。私はそのことをすっかり忘れていました。本を書くときに、娘が「この手紙使
ったら」と言って持ってきたのは、ぼろぼろの手紙でした。
「どうしたの、これ」と聞いた
ら、2年ほど手帳に挟んで毎日持ち歩いていたそうです。私はすっかり忘れていた手紙に
10 年ぶりに再会しました。事件が起こった直後で、少し気が高ぶってやや大げさに書いて
いますけど、うそは書いてない。この後、彼女は精神科へ行かなくなりました。後で聞い
たら「あの手紙を読んだら、自分は何とつまらないことで悩んでいたんだろう。人生観を
変えよう。自分にはすぐそばに大切な人がいる」と思ったそうです。彼女は今7人の従業
員を雇うエステの経営者になっています。
消えていく神様のいたずら
あれだけ入退院を繰り返した我がパートナー、2003年以降、一度も入院していませ
ん。この年は、私が東レ経営研究所の社長になった年です。私は社長ですから、会社の仕
事のやり方は私の指示に従ってもらいます。つまらない会議はやらない。会議は極力短く、
資料は簡潔に。ビジネスは予測のゲーム。先手、先手で仕事をやる。忙しい時の残業は仕
方がないですけど、通常は全員定時に帰ってもらいます。
家から1日に大体3回ほど携帯に電話が入ります。不安を訴えるんですね。東レにいた
ときには帰れませんでしたが、今度は社長ですから、やりくりして帰りました。3回続け
て帰ったら、「もう帰ってこなくていい」。彼女にしてみれば、7年も8年もの間、ただの
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1度も帰ってこなかった夫が3回続けて帰ってきた。毎日早く帰ってくる。自分はサポー
トしてもらえるという安心感が、彼女のうつ病を治していきました。
私は家族のために自分の時間を確保しなくてはいけなかったんですが、それは皆さんも
同じですね。映画を観たい、本を読みたい、自己啓発の勉強をしたい。いろいろやりたい
のにできないその大きな障害のひとつが、長時間労働と非効率労働です。仕事の成果と長
時間労働とは必ずしも関係がありません。ある脳科学者のレポートを読んでいたら、一般
の人は自分の脳の能力の6%しか使ってない。94%の脳細胞をたたき起こして、戦略的、
効率的に仕事をやらないといけないということです。
それから、周りには重荷を背負っている人が案外多く、私がカミングアウトしたら、た
くさんの人が「実はうちの家族も」って言ってくれました。みんないろんな事情を抱えて
生きています。一生懸命やっているんですけど、みんながみんな結果が出るってわけじゃ
ないんですよ。
身体障害者、精神疾患の方は、日本に750万人います。この750万人の障害者のう
ち、民間企業で働いている人は何人だと思いますか。40万人ですよ。750万人いるの
に40万人しか民間企業で働いてない。日本は障害者を閉め出して成り立っている社会じ
ゃないかと思います。障害や病気を持っているということは何も恥ずかしいことではない
し、誰でも等しく持っているリスクです。それに障害者は仕事ができないということはな
い。やり方さえ工夫したら、いくらでもできるようになるんです。ちょっと手を差し伸べ
ることが大きな救いになります。
ワーク・ライフ・バランスとは
私の家族の話が少し長くなりましたけども、きょうの本題に入りたいと思います。
生き方や働き方のことなんですが、最近いろんな会社や組織で「ワーク・ライフ・バラ
ンス」という言葉が使われています。「ワーク・ライフ・バランス」というのは、「仕事と
生活の調和」と訳されます。これは自分の仕事は定時に終えて、自分の生活を充実しよう
ということではありません。
「ワーク・ライフ・バランス」というのは、個人も会社も共に
成長する経営戦略です。ですからそれまで残業をしていた人が定時に帰っても、今までと
同じかそれ以上の結果を会社に残さなくてはいけない。つまり「ワーク・ライフ・バラン
ス」というのは、仕事の改革があって初めて実現できる戦略なので、きちんとしたタイム
マネジメントをしなければなりません。
タイムマネジメントとは、
「最も大事なことは何かを正しくつかむこと」です。会社の仕
事はピンからキリまであります。雑用は拙速にやって、肝心かなめの仕事を完璧にやる。
ですから、タイムマネジメントは時間の管理ではありません。仕事の管理です。
計画先行
タイムマネジメントをするためには、まず計画先行です。今年やるべき仕事を決めます。
部下全員と2~3日議論して、例えば優先順位の高い順に 10 個決めたとします。次にその
計画を上司に報告し、意見を聞きます。上の方はまた違った考え方を持っていますから、
計画を修正します。1年経ったらフォローアップをします。その計画はどれだけできたか、
なぜできなかったか、どうしたらできたのか。それをふまえて、次の年の計画を立てます。
同じ仕事をやっても2週間かかる人と1週間で済ます人がいますが、それは能力の差で
はなく、その仕事をどう考えているかという価値観と段取りの差です。私が課長になった
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時、最初に部下 13 人がどんな仕事にどれだけの日数をかけたかという分析をやったことが
あります。私の課は、1週間の業務報告をする習慣があったので、それを1カ月単位にし、
その仕事に大体何時間かけたか、自分の仕事の中でどれくらいの重要度かランキングをつ
ける、ということをやりました。
A君は、私から見たら、重要度ランキング2か3の仕事を3週間しています。彼は「課
長、これは重要度ランキング4です」と反論します。
「君が挙げた自分の仕事は全部4か5
じゃないか。会社の仕事で4や5というのはたくさんはないんだよ。これは2か3なんだ」
。
社員は、自分は大事な仕事をしていると思っていますし、上の人がそれを指摘しません。
そんなこと言うと、モチベーションが下がりますからね。だから、過剰の仕事をしてしま
う。ちょっと手書きで渡せばいいものをパワーポイントにした瞬間に5倍の時間がかかる。
こうやって、すべての仕事にかけるべき日数を合計しました。所要時間は実績の 4 割。
つまり、この仕事を何日間でやると決めて、その通りやれば4割の時間で、ただ会社の仕
事はやってみなければ分からないところがありますから、大体半分でできるということで
す。残業をやるどころか、毎日4時に帰れたことになります。これからは私に業務計画書
を出しなさい。つまり私は部下に仕事を発注します。部下は私から仕事を受注するという
ことです。周りの管理職はやり方もかける日数もすべて部下任せです。10 人以上の部下を
持つ管理職はプレイングマネージャーをやる暇はありません。
管理職の仕事
管理職というのは、その組織を構成する全体の和を最大限に持っていくというミッショ
ンを持ってます。部下の監督と成長のための時間が要るんです。仕事は、発生した段階で
その品質基準を決める。全部終わってから報告を受けのではなく、必ず中間段階でチェッ
クして、無駄な作業をさせないようにしなくてはいけない。部下がどんな瞬間に仕事のモ
チベーションが上がるかというと、その仕事を通じて自分の成長を実感しているときです。
ですから上の方は、目標管理をきちんとしていかなくてはなりません。しかし、部下に仕
事を発注するような上司にはほとんどお目にかかったことがありません。そんなことを上
司に期待しても無理だということのようですね。では、どうするか。
部下がやるんです。「部下力をつけなさい」。部下が上司を使って、上手に自分の仕事に
結果を出すこと。一番大事なのは上司の注文を聞くことです。1年の計画を立てたら、そ
の計画を上司に報告し上司の意見を聞きます。仕事が発生したらその品質基準を聞きます。
その仕事の背景を聞きます。重要な仕事は途中まで来たところで「ここまで来ましたけど、
この方向でいいですか」ということを聞きます。だから、計画が大事だということですね。
効率的な仕事のやり方
昔、伊藤忠の瀬島さんが、部下に徹底したことがあります。資料は1枚、結論を先に書
け、要点を3点にまとめろ。大きな会社で「資料1枚」を通したというからすごい人です。
物事が分かっている人の話は分かりやすくて簡単です。分かってない人の話は長くて複雑
です。会社、組織の事務処理、管理、制度、資料、会話、メール、すべてシンプルをもっ
て秀とします。
私は 30 代の初めに他社の再建の仕事に行った後、東レの企画部署に戻りました。その時
最初にやった仕事は書庫の整理です。すべての書類を読み、半分を捨てました。1カ月か
かりました。そこには、経営会議とか開発会議とか何とか事業の分析とか非常に貴重な資
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料がありました。残すべき書類はカテゴリー別に重要度のランキングをつけて、ファイル
リストを作りました。
さて、机へ戻りました。仕事が来ます。私は仕事を言われたら、それならあそこのファ
イルを取り出して、そこに書いてある考え方、フォーマット、着眼点、これらをいただき、
最新のデータに置き直して自分のアイデアを乗せます。仕事は早くて、できがいいに決ま
っています。先輩の優れた作品を盗みなさい。優れたイミテーションをやってくうちにイ
ノベーションにつながっていくということです。
皆さんも会議の内容を上司に報告するとか、部下に連絡することがあるでしょう。会議
のメモは、終わってからではなく会議の最中に書きます。会議では自分に関係ない議論と
いうのが続くことあります。そういうときに書くんです。会議が終わってもできあがって
なければ、5分か 10 分会議室へ残ってメモを書き上げます。戻ってきて、「きょうの会議
の結果はここに書いてある通り。ポイントは何と何。終わり」です。仕事は発生したその
場で片づけます。
仕事は発生した段階で片づける、または品質基準を決めると言いましたが、一番いいの
は、その仕事をやらないことです。会社の仕事でやらなくてもいい仕事があるのかなと思
うかもしれませんが、これもやりようです。
繊維関係の第3回アジア国際会議が開催されたとき、私は会長の初日冒頭の挨拶原稿を
書けと言われ、過去2回の議事録を読んでみました。すると第1回の冒頭の挨拶がすばら
しい。初めての国際会議でみんなの知恵が入っていて、格調の高い文章だった。私はこの
優れた原稿の日時と場所を直して、そのまま持っていきました。「これでいこう」。会長は
3年前にやっているのですが、何年前だろうといいものはいい。私がその原稿を一から書
いたら3日かかります。私が要した時間は1時間。もっといいことがあります。私は上か
ら「佐々木は仕事ができる」と評価されます。
仕事が発生したら、これをやらないで済ます方法はないのか、よしんば自分がやるとな
ったとしても、このことで一番詳しい人は誰だ、一番詳しい資料はどこにアクセスしたら
データが取れるか、そのやり方を知っておくことが大事です。
社長から「君は営業の経験ないから、行って勉強してこい」と言われ、私はいきなり営
業課長になりました。私は着任する前にやったことがあります。当時東レには営業の神様
といわれた人が5人ほどいました。この5人に丁寧なメールを打ってアポイントを求めま
した。
「私は営業の経験が全くありません。あなたは営業の神様と聞きました。私に営業と
は何であるかを 30 分でいいので教えてください。」5人とも会って、私のために営業とは
何であるかを教えてくれました。誰からも何か似たような話が出るんです。
「お客様との約
束は必ず守りなさい。クレームが発生したら直ちに連絡しなさい。時間は必ず守りなさい。
嘘をついてはだめです。
」なんだ、営業といっても、人間として基本的なことをちゃんとや
るだけではないか。私は自信を持って営業へ出ました。トラブル発生。また、この5人に
聞きました。今度は具体的なテーマがありますから、貴重なアドバイスをたくさんいただ
きました。私は一時期東レの中に優れたメンター5人を持っていたことになります。最近
の若い人は先輩が教えてくれないとか、会社の中にメンターがいないと言いますが、それ
は当たり前です。誰も教えてくれる人はいません。自分でつかみ取っていくということで
す。
お勧めはしませんが、私は会議に出ない、人に会わない、書類を読まないようにしてき
ました。私が会社の中で出た会議の3回に1回は出る必要のない、後で議事録を読めばい
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いものでした。そういう会議には出ないことに決めました。どうしても出なくてはいけな
い会議のときは、自分の仕事を持っていってアルバイトをやります。
私は審議会の委員をずっとやってきました。審議会の前に課長と担当者が事前説明に来
たいと言います。私は全部断ります。代わりにデータで資料をもらって読んでから、電話
で話をします。その仕事をするために、本当にその人に会わないといけないのか。ひょっ
としたら丁寧なメール1本、丁寧な電話1本で済むかもしれません。その仕事の質に応じ
て、人に会うことを決めなくてはいけないということです。
上司とのつき合い方はサラリーマンにとって大事です。私はできるだけ上司とコミュニ
ケーションをとり、2週間に1回必ずアポイントを入れ、簡単に最近のことを説明する時
間を取りました。皆さんがやらないのは2段上の上司です。課長だったら部長の上、部門
長とか取締役ですね。上司はなぜ大事かというと、私の評価を決め、異動を決める人だか
ら。この2段上の上司というのは、それひっくり返す人です。嫌な上司を飛ばしてくれる
人です。そこと仲良くやらなくてはいけないですね。
自分らしい生き方
自分を生かす生き方でまず大事なことは、自分の考えを確立することです。スティーブ
ン・コヴィーが著書『7つの習慣』に書いています。
「ミッションステートメントを書け」
。
つまり、自分の考え方、自分の目標、そういうものを鮮明にしなさい、それを伝えなさい
ということです。
私は「自分は何者であるか、どういう生き方をしたいのか、どういう働き方をしたいの
か」こういうものを考えるには決意と覚悟が要るもんだと思っています。自分の人生です
から、自分で選び取っていかなくてはいけない。ですから 30 歳の時、課長になった時、結
婚した時とか節目に、自分に問うてみる必要があります。
私は 40 代から、毎年1回自分に問うことにしました。年頭所感というのを書くんです。
今年はこういう考え方で、こういう仕事をやる。A4の用紙1枚にちょうど入るぐらいに、
練りに練って書きます。出社したら、この年頭所感を上司、部下全員に発信します。一緒
に仕事する仲間ですから、共有化してもらわなくてはいけない。それに、自分の考え方を
人に伝えるということは責任を生ずることです。これを毎年繰り返したら、自分の成長が
よく分かります。
私はビジネスマン時代を通じて、自分が最も成長したのは 40 代だと思っています。その
人の人生観、仕事の進め方、コミュニケーションの取り方、これを私は「成長角度」と言
っています。20 代、30 代というのは成長角度が高いんですが、残念ながら経験が少ない、
知識も足りない。回り道をします。ミスをします。だんだん賢くなって、40 代になるとし
なくなります。20 代は一生懸命仕事をやりなさい。40 代はしなやかに生きなさい。40 代
になると、人によっては管理職になります。なるべく部下に仕事をやらせて、自分の時間
を見つけて自己啓発をする。本を読んだり、人に会ったり、家族とつき合ったり、体調管
理をしたりということが大事じゃないかなと思います。管理職は時間に余裕を持つという
ことが大事です。課長が忙しく働いていると、部下は相談に来ないし、情報も入ってきま
せん。
私は課長のときに部下と面談を年に 2 回やっていました。最初はプライベートのことを
聞きます。今なら個人情報の問題になるかもしれませんが、私は部下を自分の家族だと思
っていますから、その家族のために何かしてあげられることはないかという気持ちが相手
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に伝わり、かつ、彼らが私に言ったことがどこにも漏れない。そしたら、いくらでも話を
してくれます。次に仕事の話です。部下というのは、いろいろとプライベートな事情を抱
えている。それを理解してから、仕事の話をしなくてはいけません。
仕事の効率化の両輪はコミュニケーションと信頼関係だと思っています。コミュニケー
ションというのは、さっき言った品質基準をきめること、途中でチェックすることです。
信頼関係があったら、情報はすぐ入ってきます。信頼関係のない職場は極めて効率が悪い
です。大事なことは、人はみんな違うわけですから、その人に合わせた対応をする。その
人の強いところを伸ばすということが大事だと思います。
例えばタイムマネジメントについて、私が考えたのではなく、私は考える場を提供しま
した。「この仕事を効率的にやるためにはどうしたらいいか、みんなで議論をしよう」。10
人もいれば1人2人ぐらいいいこと言う人がいます。それにまた誰かが知恵を重ねて工夫
されて、
「効率的にやるためにはこうすればいいじゃないか」というのが大体分かってくる。
しかもいい点は、みんなで議論しますから、全員で共有化できるということです。私はみ
んなで議論したものを財産として持って次の職場へ行って展開しますから、次の職場でも
っと上がっていくということです。多くを聞くことによって、すごく知識が上がっていき
ます。会社が変わろうと思ったら、トップがその気になり、現場が動くような仕組みを作
らなくてはいけません。タイムマネジメントだ、ワーク・ライフ・バランスだと言うだけ
で、どうやってするかということをみんなで議論していない。マニュアルをつくるとか、
成功事例をみんなで共有化するということをやっていかないといけないと思います。
野村監督はあんな人ですけど、名監督、名リーダーですよね。組織の中で仕事をやる、
生きていくということは、全人格をみんなに見せて生きてるんです。演技したって始まり
ません。そんなに構えるよりもっと大事なことは、志を持つことです。いくら怒ったって、
その部下を成長させたいという志を持ってる人の怒り方っていうのは愛情溢れているんで
す。暗くたって、このチームを良くしたいと思っている人の暗さは別に暗くない。だから、
自然体で自分流のやり方でいったらいいということです。
幸せを感じる働き方
よく会社に入って2~3年で、仕事が合わないとか、会社辞めようとか考える若者がい
ます。私は「四の五の言う前に働きなさい。与えられた仕事に全力で取り組みなさい。こ
れを5年か 10 年やると見えてくるものがある」と言います。そのときにお金を貯めたいと
か偉くなりたいなど欲を持つのは結構でしょう。そういう欲が仕事のモチベーションにつ
ながってくということもあります。だけど、人は欲で仕事をやっていると仕事に結果がつ
いてこない。周りの人やお客様が、その人が何のために働いてるかということを感ずるか
らです。仕事というのはこのチームのため、お客様のため、世のため、人のためという志
がなければ結果がついてこない。30 代も後半になってくると気がつくんです。そのときに
志を持ちなさい。
人は何のために働くか。私が 40 歳ぐらいのときに、マズローの『欲求の5段階説』とい
う本を読みました。マズローは、人は何のために働くかを5段階に規定しました。1段階
目は生理的欲求、2段階目は安全の欲求、つまり生活のために働く。これは当たり前です
ね。それがだんだん3段階、4段階へ行って、最後は自己実現欲求。人は自己実現のため
に働く。これは説得力がすごくあり、私はその通りだなと思いました。その後に、私はケ
ント・M・キースという人が書いた『逆説の 10 カ条』という本を読みました。その中に、
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「それでもなお正しいことをやりなさい。それでもなお弱い人の味方になりなさい」
、それ
でもなおという 10 カ条がありました。私はそれ読んで、9つは少しまねができるかなと思
ったのですが、1つだけまねができないものがありました。それが第1条「それでもなお
人を愛しなさい」です。
相手のことを好きになれば相手が私を好きになり信頼してくれますから、私はなるべく
たくさんの人を好きになる。10 人のうち8人、9人ぐらい好きになりますけど、1人ぐら
い嫌なやつがいますよ。どうしても好きになれない人。その最後の1人まで好きになった
らどうなりますか。そんな神様みたいな人が世の中にいるのか。ちょっとだけいましたね。
マザー・テレサとかガンジーとかイエス・キリスト。私はガンジーの映画を観て驚きまし
た。インドのほとんどすべての人がガンジーを尊敬し、ガンジーを愛しています。それは
ガンジーがあらゆる人を愛したからです。インドで最も幸せな人はガンジーだなと思いま
した。
今、目の前にある難しい仕事にチャレンジして、結果を残していく。ちょっとそりの合
わない人ともパートナーシップを組んで、きちんと仕事をやっていく。そういう難しいこ
とをしながら自分を磨いていく。マズローの欲求の5段階説、
「自己実現欲求」よりも1つ
上がある。それは「人は自分を磨くために働く」ということ。
自分を磨くためということは、成長するためです。人は自分を成長させるために働いて
いる。もう1つ、先ほど言った「世のため、人のため」、つまり何かに貢献するためです。
自分の会社、自分のお客様、自分のコミュニティ、自分の家族、何かに貢献するためと自
分を成長させるために人は働いているんではないのかなと今でも私は思います。
私の人生観の真ん中にあるのはこの言葉です。「運命を引き受けよう」。私は6歳で父を
亡くしました。母は19でお嫁に来て、4人の男の子をもうけ、27歳で夫を亡くし、大
変苦労して、子ども4人を大学まで出しました。愚痴を言うこともなく、彼女はいつもに
こにこ笑って私たちにいろんなことを語りかけてくれました。その中で一番多かった言葉
がこの言葉です。
「運命を引き受けよう。運命を引き受けて頑張ろう。頑張っても結果が出
ないかもしれないけど、頑張らなかったら結果は出ないんだよ」。
我が家にはいろんなことがありましたけど、最後に神様にプレゼントをもらいまして、
大変幸せな毎日を過ごしています。
ご清聴ありがとうございました。