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元旦礼拝でお会いできなかった方もいるので、もう一度、「明けまして

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●題:「信仰に生きる:信仰によって救われる」 ●聖書:
●聖書:使徒
書:使徒 16:1616-34 ●2015 年 1 月4日
序
論
●元旦礼拝でお会いできなかった方もいるので、もう一度、「明けましておめでとうございます」と申し
上げたい。
●さて、今年のイースターは 4 月5日となるが、今後、春のパーム・サンデー、イースターに向かって
の冬、および初春の基本的なメッセージ・プランは、再びリック・ウォーレンの「Purpose Driven
Life」 のテーマに戻ることである。
●同書からの次のテーマは、「私たちは神様に仕えるために造られた」である。どうかそれぞれの読書に
よる準備をそろそろ再開して頂きたい。
●しかし、そこに戻る前に、「Purpose Driven」の本を超えた、WIJC 自身の、今年一年の総括的目標
とも言うべきテーマを紹介し、それについて学ぶ数週間のときを持ちたい。
●それは、極めて基本的、かつ月並みな目標であるが、WIJC が、そのメンバー個人個人においても、
また教会全体としても、「信仰によって生きる」ということが徹底したものとなることである。
●「信仰によって生きる」と言うことが、単に頭の納得であったり、単なる心の中の願望(即ち、I wish
の世界)で終わったり、口での信仰告白のレベルで終わったりすることがないようにしたい。
●今年の私たちの目標は、この「信仰によって生きる」ということが、何とかして、苦闘し、失敗しなが
らも、信仰に生きることを、今まで以上に、実際生活の中で、実践し、経験していくものとなるべく
励まし合いたい。メッセージもそのための方向と示唆と力を与えるものでありたい。
●今日はその方向を定めるための第一回目として、そもそも、私たちの信仰の入り口、信仰のスタート
である「主によって救われる」という経験は、ただ「信仰」によるものであることを学びたい。
●聖書箇所は使徒の働き 16 章 16-34 節である。そこに出てくる出来事は、パウロが、ヨーロッパの
「ピリピ」という町で、ヨーロッパ初の宣教活動をしたときのことである。
1.「ピリピ」は、ギリシャの北にある町で、金山で発展した富裕な大都市であった。そこではすでに、
ルデヤという金持ちの夫人がとその家族が救いに導かれていた。
2、しかし、宣教が進むに連れ、パウロと同僚のシラスの働きへの激しい反対運動も始まった。
3.その結果、彼らは、偽りの訴えをされ、政府の役人に捕まえられ、よく調べられることもしない
で、有罪とされ、裸にされて、幾度も(severely)鞭打たれた上に、恐らく血だらけ、傷だらけの
状態のままで、奥深くの牢獄の中に入れられ、更に足かせをつけられ放置された。
4.その晩、真夜中ごろ、そんな状態の中であったにもかかわらず、パウロとシラスは、神様に祈り
ながら、しかも、泣き言の祈りでなく、賛美をしていたのであった。
5.余りの光景に周囲の囚人たちは、普通なら「うるさい!」とどなるところだが、シーンと「聞き入
っていた」。一方、看守は、そんなパウロやシラスに何の関心も示さず、ただ眠り込んでいた。
6.そのときであった。突然、辺りに大地震が起こり、その振動で牢屋の鍵がはずれ、戸が開いた。
おまけに、囚人たちをつないでいた鎖まで解けてしまった。
7.びっくりしたのは看守であった。地震で目を覚ました看守は、牢獄のドアがみな開いているのを
見ると、「アーみんな囚人が逃げてしまった」とすっかり思い込み、剣を抜いて自害しようとした。
(当時、囚人を逃がしたら、その責任をそのような形で取ることになっていたからであった)
8.そのときパウロは言った。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と。彼は灯りをつけ
てパウロとシラスの前に入ってきてひれ伏して言った。「先生方。私は救われるためには何をし
なければなりませんか?」と。
9.そのとき、パウロとシラスは言った。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家
族も救われます」と。
●これが、今日の鍵の聖句である。即ち、使徒の働き 16 章 31 節、「主イエスを信じなさい。そうす
ればあなたもあなたの家族も救われます」。即ち、「信仰による救い」が今日のテーマである。
●私たちの信仰生活は、イエス様を、私たちの神、救い主と「信じる」ところから始まるのである。
●私たちは、今日このことを、このピリピの町で、パウロとシラスが放り込まれた牢獄で看守をしてい
た男と家族の救い・入信の出来事から学びたい。
1
本
論
Ⅰ.この男の「信仰による救い」のことを考えるために、まず、最初に、この男の救いの背景について考えたい。
A. 第一に、この男は、宗教とか、神とか、救われるなどという問題にはまったく無関心な男であった。
1.16-23節を読むとき、その文脈から、この看守にはパウロとシラスが投獄されたのは正当
な理由でないことが明らかであった。
(1)つまらないと言いたい宗教的習慣の違いから、或いは、宗教的な理由をつけてはいても、
その真相は商売人たちの利己的な利益追求からの偽りの訴えからの理由であること。
(2)少なくとも、こんな厳しい罰に当たるような悪いことをする人物たちでないことは明ら
かであった。
(3)この時点で、この看守は、彼らに、宗教的、信仰的、内面的な意味で、特に何の関心も
示さなかった。
(4)彼がしたことは、無実にもかかわらず、不当に痛めつけられ、傷つけられているパウロ
とシラスを、更に、苦しめるべく、命令に忠実に、牢獄の中でも一番奥に押し込め、更に
足かせをはめたことであった。
2.しかし、この看守の宗教的なこと、内面的なことへの無関心さは、次のことで更に明らかに
なる。それは、25-27 節に記されている。
(1)パウロとシラスが普通の人たちとは違う人物であることは、彼らがなぜ投獄されたかに
ついてよく理解していない、すでに牢獄に収監されていた囚人たちにも明らかであった。
(2)尊敬するべき聖人であること、神の人であることが言わなくても感じられたのであろう。
(3)だからこそ、彼らが、真夜中に傷つき、痛む体を抱えながらも、「神に祈りつつ、賛美の
歌を歌っている」パウロとシラスを見ながら、聴きながら、静まり返るようにして、「聞き
入っていた」。
●これは奇跡である。
●普通なら、囚人たちは、そんなことに無関心か、冷たくせせら笑う程度である。
●或いは、「今何時だと思っているんだ。静かにしろ」と怒鳴るところである。
(4)しかし、ならず者と言いたい囚人たちが、パウロとシラスの姿に心惹かれ、聞き入って
いたのにもかかわらず、肝心な、本当は起きていなければならない看守が、パウロとシラ
スの信仰的姿には、まったく何の関心もないかのように、ただ寝込んでいたのである。
2.私たちはどうであるか? 私たちの回りの人はどうであろうか? 余りに多くの人々が信仰
的なことに、宗教的なことに、人間の内面的なことに無関心で生きている。
B.これに関連しているが、この人物に関して、第二に言いたいことは、彼の関心は、宗教的なこと、内面的
なことより、むしろ、目の前のこと、具体的には自分の仕事に対して忠実であること、それがすべてであった。
1.上述したような、あらゆる状況があったが、それらが指差す人間の内面性の問題より、彼に
は、今目の前の仕事に忠実であることが重要であり、最大の関心であった。
2.彼のような人は、今も昔もこのように思う。「そんな内面的なことは、センチメンタルで、
情緒的なことに過ぎない。宗教などと言うものは、所詮人生においてあってもなくても良い
もの。時には毒にこそなれ、ほとんどの場合アクセサリー程度のもの」と。
3.更に、「人生で、大事なこと、中心、基礎は、やっぱり物質的なことである。何だかんだ言
っても、結局、食べられなくては、住むところがなくては、生きていけない」。
4.「だから、結論として、私たちのするべきことは、たとえ、時折目の前にちらつく内面性、
信仰的な生き方への必要性を感じさせる出来事があっても、感情的にそんなことに惑わされ
ることなく、ひたすら目の前に与えられた仕事に忠実に生きることである」と思うのである。
5.これは、正に、諺(ことわざ)にあるように「衣食足って礼節を知る」の姿勢である。
C.即ち、この男は、宗教的なこと、信仰的なこと、神様とか、信仰的なことに全く、或いは少なくとも余り関
心のない人物の代表であった。(勿論、「宗教的」と言う時、宗教習慣に加わった可能性は否定しないが)
Ⅱ.第二に、ご一緒に見たいことは、この人物のような生き方は人生の様々な「荒」に通用したかについてである。
A.人生には「嵐」がやって来る。
2
1.島崎藤村は、自伝的小説「嵐」の中で登場人物を通して叫ぶ。「家の内も外も嵐だ」と。
2.イエス様も、岩の上に家を建てる人と砂の上に家を建てる人を人生に譬えて、どちらの人生
にも「嵐」が来ると語られた。
3.「嵐」とは、私たちの人生を襲う様々な試練である。嵐が家を破壊する可能性があるように、
人生の試練という嵐は、私たちの人生を破壊しかねない力を持っている。
4.その例は:職業を失うことであり、試験やテストで不合格になることであり、長期の重い病
気にかかる・ガンのような死を覚悟するような病気を宣告されることであり、難しい上司や
同僚の下で働くことであり、誤解や無理解、不当な批判や処遇を周囲の人々から受けること
であり、その他様々なことが挙げられるであろう。
5.その形や種類に違いがあっても、その頻度数や、激しさは異なっても、すべての人の人生に
「嵐」がやって来る。
1.それは、ある日、ある時、突然やって来た。
(1)それまで、彼の人生はすべて順調であった。さながら、それまでの彼の生き方が正しか
ったことを証明するように。
(2)しかし、嵐はある日突然、彼を襲った。
●パウロとシラスが投獄された日も、上述したように、彼は今までの彼の持っていた価値
観と人生観をもって、即ち、内面的なこと、下手な正義感など振りかざすこともなく、
目の前の仕事第一の方針で、いつものように彼らを扱った。それですべてが順調に行
くはずであった。
●しかし、そこに彼の全く予想しないことが起こった。突然起こった地震である。
●それによって、牢屋の鍵が壊れ、ドアが開き、囚人たちの鎖が解けた。
●彼は、その瞬間、囚人たちがみな逃げたと思ったのである(後でそれは間違いだと分か
ったが)。これが彼の人生を襲った「嵐」である。
●彼は、そのとき、自分の人生は終わったと思った。何もかもがすべて終わったと。なぜ
なら、その当時ローマの法律では、もし囚人を逃がしたなら、その囚人の刑を全部責
任者である看守が負わなければならなかったからである。
●だから彼は自殺を試みたのである。
2.このような人生の嵐は、全く、この看守の男が、予想もしなかったできごとであり、人生の
成り行きであり、結末であった。しかし、荒しは確実に彼にやってきたのである。
B.この男にも「嵐」がやって来たのである。
C.そして、この男のそれまでの生き方、彼の人生観・価値観をもって建て上げてきた人生の家は、残念ながら、
その嵐に耐えられなかったのである。
1.その証拠が、彼が自殺・自害を試みた事実である。
2.彼がそれまでこれで良いと思っていた生き方・人生は、嵐が襲った瞬間、音を立てるように
彼の目の前で崩れて行ったのである。絶望したのである。だから命を絶とうとしたのである。
1.神様は私達が嵐の中で駄目になっていくのを「よい気味だ」「私を信じない・私に従わないと
こうなるんだ」と喜んでおられるのではない。そんなために私達が嵐に遭うことを許してお
られるのではない。
2.彼の人生同様、私たちは平穏・順調な時、これで大丈夫・OKだと思い込んでいる。しかし、
それは「平穏・順調」というカモフラージュの布がかぶされているだけである。錯覚である。
3.それが証拠に一旦逆境・人生の嵐が私たちの人生を襲うとき、そのカモフラージュの布が取
られて、私たちの裸の姿、ありのままの姿、真相が明るみに出るのである。
4.しかし、ある人は言うであろう。試練にあった時は極限に追い込まれパニックに陥った時、
おかしくなった時で、私達の正常の姿ではない。平穏な時こそが私達の本当の姿だと。
5.しかし、そうであろうか?? 私たちの教会に誰かキリスト教に反対するファナティックな
輩が、突然進入して来て、リーダー、牧師である私に機関銃を突きつけて「殺すぞ」と脅し、
D.しかし、同時にこの事実こそが、彼の人生の真相を明らかにしたのである。
3
「これでもキリストが、神で救い主だと言うのか?!」と問い詰められた時、私が命惜しさに信
仰を棄てるような告白したらどうであろうか? 人々はどう思うか? 「あれは、本当の先
生の姿ではない。パニックに陥ってあんな風に言っただけだ。本当の先生の姿は別だ」と言
うか、それとも、「あんな特殊の状況ではあったが、何か本当の先生の姿を見た気がした」と
言って恐らく沢山の人々が、失望してその次の週から教会に来なくなるのではないか?!
6.人生の「嵐」こそが、私達の真相、即ち、私達が神を必要としている姿、神のところに帰る必
要、神と共に生きる人生の必要を明らかにしてくれるのである。
7.言い換えるなら、人生の嵐は、彼が、私たちが神様に救われる必要を明らかにしたのである。
Ⅲ.そこで最後に学びたいことは、彼は、彼が救われるために何をしたかである。
A.このことは、彼とパウロとシラスとの会話の中で明らかになる。
1.彼
1.彼は、今まで大丈夫だと思っていた自分が、実は一皮むけば惨めな救われなければならない
は、今まで大丈夫だと思っていた自分が、実は一皮むけば惨めな救われなければならない
存在であるという真相を知った時、「先生方。救われる為には、何をしなければなりません
か」(30)
か」(30)とパウロとシラスに言った。
(30)とパウロとシラスに言った。
2.そのときのパウロとシラスの答えが
2.そのときのパウロとシラスの答えが 31 節にある。即ち、「主イエスを信じなさい。そうす
節にある。即ち、「主イエスを信じなさい。そうす
ればあなたもあなたの家族も救われます」であった。
3.そして、34
3.そして、34 節に聖書は記している。「全家族そろって神を信じた」と。
4.即ち、救われるために彼したことは「信じる」こと、もっと厳密に言うと「神を信じる」ことで
あり、「主イエスを信じる」ことであった。
1.それは第一に、イエスを「
1.それは第一に、イエスを「神」と信じることである。
(1)ペテロの有名な信仰告白の中でも言われている。「あなたは生ける
(1)ペテロの有名な信仰告白の中でも言われている。「あなたは生ける神の子です」と。
ペテロの有名な信仰告白の中でも言われている。「あなたは生ける神の子です」と。
(2)イエスは、単なる宗教の開祖者でも、偉人でも、聖人でもない。
(2)イエスは、単なる宗教の開祖者でも、偉人でも、聖人でもない。
(3)イエス様は、世界の、宇宙の、万物の、そして私たちの「創造者」「支配者」なる神である。
(3)イエス様は、世界の、宇宙の、万物の、そして私たちの「創造者」「支配者」なる神である。
2.第二に、それは、イエスを「救い主」と信じることである。
(1)キリスト教信仰における救いとは何か?
(1)キリスト教信仰における救いとは何か? それは罪からの救いである。
(2)
(2)罪とはハマルティア、的はずれ、即ち、人間のあるべき姿から外れていることである。
(3)その罪の生涯そのものから救い出され、神に立ち返ることが救いの本質、中心である。
(3)その罪の生涯そのものから救い出され、神に立ち返ることが救いの本質、中心である。
(4)その
(4)その救いの
その救いのために、
救いのために、私たちが
ために、私たちが神から離れ、背いていた罪そのものと、
私たちが神から離れ、背いていた罪そのものと、それ故に、
神から離れ、背いていた罪そのものと、それ故に、その間
それ故に、その間
に神と人との前に犯した罪の赦しを与えられることが救いである。
(5)私たちが神の前に罪赦された者となるめに、私たちの身代わりに、あの十字架の上で、
(5)私たちが神の前に罪赦された者となるめに、私たちの身代わりに、あの十字架の上で、
罪人として、神の前に呪われ、見捨てられて、私たちのすべての罪の代価・刑罰を受け
てくださったお方としてイエス様を信じ、受け入れることである。
てくださったお方としてイエス様を信じ、受け入れることである。
3.もうひとつ最後に大切なことは、「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます」とは、
3.もうひとつ最後に大切なことは、「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます」とは、
私たちが救われるためには、信仰、即ち、上述した意味でイエスと言うお方を信じる以外に
何もいらない、何をする必要もない言うことである。
4.即ち、私たちが救われるために:(1)
4.即ち、私たちが救われるために:(1)私たちは特別な高額な献金をする必要もないし、
(1)私たちは特別な高額な献金をする必要もないし、(2)
私たちは特別な高額な献金をする必要もないし、(2)教
(2)教
会のために特別な奉仕活動をする必要もないし、(3)
会のために特別な奉仕活動をする必要もないし、(3)クリスチャンらしい品格・人格を持っ
(3)クリスチャンらしい品格・人格を持っ
ている必要もないし、(4)
ている必要もないし、(4)何か教会内外において褒められるような善行をする必要もない。
(4)何か教会内外において褒められるような善行をする必要もない。
5.ただイエス様を私の罪のために十字架にかかられた救い主と信じ受け入れるだけでよいので
5.ただイエス様を私の罪のために十字架にかかられた救い主と信じ受け入れるだけでよいので
ある。あの日、ピリピの町の牢獄の看守とその家族が経験したことは正にこのことであった。
B.この最後のポイントで、私たちが学びたいことは、主イエスを信じるとは何か、どういうことかである。
結
論
●先日クリスマスの日に、私たちの家族は、フィラデルフィアの娘の家の近くの映画館で Unbroken
と言う映画を見た。それは、かつてはオリンピックの
と言う映画を見た。それは、かつてはオリンピックの長距
、かつてはオリンピックの長距離ラン
長距離ランナー
離ランナーとして世界に知られたが、
ナーとして世界に知られたが、第二
として世界に知られたが、第二
次世界大戦
世界大戦中に日本軍
中に日本軍の捕虜 POW となり、日本軍
となり、日本軍からの過酷
からの過酷、かつ
過酷、かつ不当
、かつ不当と言うべき
不当と言うべき労働
と言うべき労働と
労働と拷問にも
拷問にも
不屈の
不屈の精神をもって耐
神をもって耐え打ち勝った正に Unbroken の米国の
米国の War
War Hero の物語
の物語である。
●彼の名前はルイス・ザム
彼の名前はルイス・ザムペリ
ザムペリーニー
ペリーニーである。アン
ーニーである。アンジェ
である。アンジェリ
ジェリーナ・
ーナ・ジョーリ
ジョーリー監督による
ー監督によるこの
によるこの映画は
この映画は基
映画は基本
的にここで
的にここで終
ここで終わる。しかし、実は、これにはもっと大切な後日談
わる。しかし、実は、これにはもっと大切な後日談が続くのである。
4
●彼は確
●彼は確かに日本軍
かに日本軍の不当な
不当な扱いにも屈
いにも屈せず Unbroken な勝利者として
勝利者として米国
者として米国に
米国に帰国した。しかし、実
帰国した。しかし、実
は敗北者であったのである。彼は、
敗北者であったのである。彼は、毎
者であったのである。彼は、毎日のように受けた拷問
日のように受けた拷問の
拷問の悪夢に
悪夢に悩まされていた。それが高じて
妻の首絞めるところまで行った。その
首絞めるところまで行った。その苦
めるところまで行った。その苦しみを避けるために酒
けるために酒に溺れるようになる。離婚寸
れるようになる。離婚寸前であっ
婚寸前であっ
た。そんな中、妻
た。そんな中、妻が隣人に薦
人に薦められて参加
られて参加した
参加したビ
したビリー・グラハム
ラハムの大会でイエス・キリストを信じた。
彼女は言った。私は、イエス・キリストを信じ変
は言った。私は、イエス・キリストを信じ変えられたので、もうあなたとは離
えられたので、もうあなたとは離婚
あなたとは離婚しない。あなた
もぜひこの集
ひこの集会に出て欲
会に出て欲しいと熱
しいと熱心に誘
心に誘った。彼はしぶ
った。彼はしぶしぶ参加したものの、
ぶ参加したものの、途
したものの、途中でその席
中でその席を立った。
拒絶したのである。しかし、その後の
拒絶したのである。しかし、その後の熱
したのである。しかし、その後の熱心な誘
心な誘いについに再び参加
いについに再び参加。神様に
再び参加。神様に捕
。神様に捕らえられた。その晩
らえられた。その晩、
イエス様を救い主と信じ受け入れた。
●その晩
●その晩から、その瞬
から、その瞬間から、彼の生涯は全く変
間から、彼の生涯は全く変わった。それまで毎晩
わった。それまで毎晩のように彼を
毎晩のように彼を悩
のように彼を悩ましていた悪夢
ましていた悪夢
をその日を境
をその日を境に見ることは全くなくなった。その結果
に見ることは全くなくなった。その結果最
結果最早アルコー
アルコールは必要でなくなり、その中
コールは必要でなくなり、その中毒
ルは必要でなくなり、その中毒か
らも救われた。自分を不当
らも救われた。自分を不当に
不当に苦しめた日本軍兵士
しめた日本軍兵士たちに
軍兵士たちに対
たちに対して抱
して抱いていたあれほど
いていたあれほどの
ほどの憎しみが消え、
赦しと愛
赦しと愛の心に変
の心に変わった。それを伝
わった。それを伝えたくて日本を訪
えたくて日本を訪れる。すべてが変
れる。すべてが変わった。主にあって内
わった。主にあって内側
主にあって内側から
まことの Unbroken な勝利者となったのである。
勝利者となったのである。
●主イエスを信じたときに、
●主イエスを信じたときに、本人も、家族も救われたすばらしい一例
本人も、家族も救われたすばらしい一例である。救いは私たちの行いによ
るのではなく、信仰である。
●私たちの行いによるのなら時間がかかる。いつまでかかるのかも分からないし、
●私たちの行いによるのなら時間がかかる。いつまでかかるのかも分からないし、ど
いつまでかかるのかも分からないし、どこまでや
こまでやったら救
われるのかも不確
われるのかも不確かである。
不確かである。
●しかし、信仰によるものであるから、信じたその瞬
●しかし、信仰によるものであるから、信じたその瞬間に起
間に起こるのである。勿論
こるのである。勿論、その
勿論、その現
、その現れ方は千差
れ方は千差万
千差万
別であり、一瞬
別であり、一瞬にしてすべてが現
にしてすべてが現れるように見えるときもあるし、徐々
れるように見えるときもあるし、徐々に
徐々に現れることもある。
●「主イエスを救い主と信じる」ときすべてが変
「主イエスを救い主と信じる」ときすべてが変わる、変
わる、変わり始
わり始める。この信仰の原点
める。この信仰の原点に立ちたい。たち
原点に立ちたい。たち
続けたい。そして、この教会にそのような信仰を持つ人、救いを体
けたい。そして、この教会にそのような信仰を持つ人、救いを体験する人々
験する人々が陸続と
陸続と起こることを
祈りたい。
5
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