主 日 の 福 音 16/02/28(No.814) 四 旬 節 第 3 主 日 (ル カ 13:1-9) いちじくの木に協力しない大地をかばう園丁 厳 し か っ た 冬 の 山 場 も よ う や く 峠 を 越 え た 感 じ が し ま す 。今 週 四 旬 節第3主日は、2つの部分から成り立っていますが、後半の「『実のな らないいちじくの木』のたとえ」について考えてみたいと思います。 黙 想 会 、 本 当 に ご 苦 労 様 で し た 。 参 加 し た 方 々 の 中 に は 、 20 日 と 21 日 の 信 徒 発 見 劇 で 踏 み 絵 を 踏 ん で い た 浦 上 キ リ シ タ ン の よ う に 、「 あ ーこれで一年の務めを果たした」そんな気持ちになっている人もいるか もしれません。その人たちも含めて、黙想会を通して生活の中で信仰に 土台を置いて生きる必要性を確認し、再出発できたなら幸いです。 と こ ろ で 信 徒 発 見 劇 の 観 劇 の た め に 用 意 し た バ ス で は 、い ろ い ろ ハ プニングがあったと聞きました。中には夜6時半から劇が始まるのに、 夜6時半に出発するのだと勘違いしていた人がいたり、整理券を家に置 いてきたままバスに乗ろうとしたりした人がいたと聞いております。 つ い で で す が 、貸 し 切 り バ ス は か な り の 費 用 が 必 要 で す 。今 回 バ ス 利用者があまりいなかったので効率の悪い貸し切りとなりました。場合 によっては、バスを借りるのではなく、タクシーで乗り合わせて、あと でかかった費用を払い戻したほうが安くつくかもしれないと思いました。 話 変 わ っ て 、浜 串 教 会 の 聖 櫃 で す が 、本 当 に 心 配 し て お り ま す 。聖 櫃のために寄付してくださった方も気を揉んでおられるに違いありませ ん。何とか御復活までにはと思っていましたが、現時点で御復活までに 必 ず 新 し い 聖 櫃 が 届 く と い う 保 証 は あ り ま せ ん 。大 変 心 配 し て お り ま す 。 さ て「 実 の な ら な い い ち じ く の 木 」 で す が 、黙 想 会 で 話 し た こ と と 結びつけて考えてみたいと思います。ぶどう園の主人が、いちじくの木 を植えておき、実を探しに来ました。しかし実は見つかりません。この 状況に、神さまの救いの御計画を重ねてみました。 ぶどう園の主人を父なる神ととらえるのは問題ないと思いますが、 御独り子イエス・キリストはどこで表されているかがカギになります。 園丁ととらえるのが通常だと思います。いちじくの木は人間であり、3 年間ありったけの努力をする園丁のとりなしにもかかわらず、いちじく の木は今にも切り倒されようとしています。 わ た し は 、今 回 違 っ た 考 え 方 で と ら え て み ま し た 。い ち じ く の 木 も 園丁も、イエス・キリストを表していると考えたいのです。ぶどう園の 主人に例えられる父なる神が、地上に御独り子イエス・キリストを植え てくださいました。しかし大地はいちじくの木に実をつけさせる協力を 拒み、実をつけさせてくれないのです。 大 地 が い ち じ く の 木 を 拒 む の で 、園 丁 は 木 の 周 り を 掘 っ て 、肥 や し をやってみます。これは、イエス・キリストを拒む人類に代わって、イ エス・キリスト自身が実をつけるためのあらゆる手を尽くしていると考 えてみたのです。人間がどれだけイエスを拒もうとも、イエスは人間を 救うためにできるすべてのことを尽くそうとします。 こ の 部 分 は 、黙 想 会 の 最 初 の 講 話 で 「 蜘 蛛 の 糸 」 と い う 小 説 を 引 き 合いに出したところを思い出してくださればと思います。わたしたちの 信仰の理解では、小説の「蜘蛛の糸」とはイエス・キリストであり、神 は差し出した救いの唯一の糸であるイエス・キリストを決して切ること はないという部分に重なってきます。 「 来 年 は 実 が な る か も し れ ま せ ん 。も し そ れ で も だ め な ら 、切 り 倒 し て く だ さ い 。」( 13・9)イ エ ス は 最 終 的 に は 切 り 倒 さ れ て い け に え に なる十字架の木なのです。そのことを、園丁といちじくの木の両方を合 わせることで表すことができると思いました。 イ エ ス・キ リ ス ト と い う い ち じ く の 木 を 父 な る 神 が 地 上 に 植 え て く ださいましたが、人類を表す大地はいちじくの木に協力せず、実をつけ させてくれませんでした。 それでも神さまの側から木の周りを掘って、肥やしをやってみて、 実をつけるあらゆる努力を試みます。それでも大地は神の努力に答えよ うとしないので、最後はいちじくの木は切り倒されてしまいます。神は わたしたち人間が実をつけるために、実をつけるいちじくの木であるイ エス・キリストを植えて、わたしたちの協力を待ったのですが、それも 無駄に終わりました。 そ こ で 神 は 、み ず か ら 植 え た イ エ ス ・ キ リ ス ト を 切 り 倒 し て 人 類 の 忘恩をイエス・キリストによって償いとしてささげさせたのです。神の 愛は、人間が実をつける手段として与えてもらったイエス・キリストを 拒んでもなお、人類への愛を諦めなかったのです。どんなに愛深いお方 なのでしょうか。 わたしたちが神の期待に応え、いつもいちじくの木であるイエス・ キリストに協力して実を結ばせるなら、父である神の心配はなくなるは ずですが、わたしたちは神様の期待に十分応えられないのです。十字架 の神秘は、とうとうわたしたち人間が神さまの愛に応えられず、神さま 自身が命をささげた神秘です。神の愛に感謝することしか、わたしたち にできることはないのだと思います。 黙 想 会 を 通 し て 、ま た 今 週 の 福 音 朗 読 を 通 し て 、神 の 愛 が ど こ ま で もわたしたち弱い人間を覆っていることを考えました。わたしたちは弱 いながらも、神さまに繋がってこれからも日々を生きていきましょう。 い ち じ く の 木 に 、十 分 身 を つ け さ せ る ほ ど の 力 は な い に し て も 、せ めていちじくの木に繋がる大地であり続けましょう。神が人間の大地に 植えてくださったイエス・キリストは、わたしたちの弱さをよくご存知 で、ぶどう園の園丁のように、今も、いつも、父である神にとりなして くださいます。 四 旬 節 第 4 主 日 (ル カ 15:1-3,11-32)
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