スワニルダの笑顔

心から楽しいと思える時、人は笑顔を作る。
けれども、楽しいと思えない時でも笑顔を作ることはできる。
言葉にすれば「笑顔」という同じ単語。
しかしその差は天と地ほども違うということに、真子はまだ気付いていなかった。
川崎真子は、平凡な中学3年生だった。
3歳の時からクラシックバレエを習っていて、専らの楽しみは踊ること。
「好きなことは何?」
「やっていて楽しいことは何?」と聞かれれば、すぐさま「バレエ!」
と答えられるくらいだ。
それ以外は、全く普通の中学生だったのだ。少なくとも、2週間前までは。
真子の名前は「真実を貫き通せる子」という意味を込めて付けられた。
そんな両親の願い通り、真子は今まで、
「正しいこと」を常に念頭において行動し、おか
しいと思った事はすぐさま確認をとるようにしていた。
小学生の時、ひいきをすることで有名な先生にクラス全員の意見を伝えた。
中学1年生の時、
髪の毛を必ず耳の下で二つに括らなければならない事に疑問を感じて、
校長室に向かった。
その二つの事柄は、どちらも真子にとって良い方向に向かった。小学校の先生はひいき
をやめると生徒全員の前で約束したし、中学校の校則は少し緩められた。
けれども稀に、この性格が仇となって被害を受けることもある。今回の一件は、正しい
ことを追い求めるこの姿勢が仇となってしまった。
事の発端は、クラスの中でもリーダー格のある生徒が、クラス内の誰かを苛めよう、と
取り巻きに提案したことだった。それに大した理由は無く、単に「暇つぶし」と言っても
良いくらいのものだ。
そしてその標的に、真子の友達が選ばれた。最近成績が上がって先生からも一目置かれ
ていたから、結局はその妬みが理由だったのではないだろうか。真子は、そう思っている。
自分の親友が苛められるのが許せなくて、真子は彼女に意見した。
「暇つぶしに人を苛めるなんてどうかしてる。他の人の気持ちを考えないなんて、最低だ
よ」
彼女は真子の言葉には答えず、ポツリと言った。
「あんた、調子乗ってんじゃないよ」
そして、苛めの標的は真子に変わった。
別に、大して不愉快なことをされたわけではない。ドラマにありそうな、トイレで水を
かけられるとか、靴の中に画鋲を入れられるとか、そんな展開は無かった。
しかし、クラスメイトのほぼ全員が、その日を境に真子を避け始めたのだ。
まるで真子が壁やドアの一部になったかのように、ほとんど誰からも話しかけられなく
なった。
先生も一瞬不思議に思ったらしく、真子も何があったか何度か聞かれたが、バカらしく
て答える気にならなかった。
――感じ悪い。
自分の意見が通らないだけで真子に苛めを仕掛ける幼稚なその少女も、自分が標的にな
るのを恐れて苛めに加担する臆病なクラスメイトも、こんな小さな事で騒ぐ大袈裟な先生
も。
真子にはそうとしか思えなかったのだ。
学校へ行くのが面倒になってきたのは、5月の初め辺りからだろうか。
なぜ、わざわざ無視をされに学校へ行く必要がある?
あたしが好きなのは、バレエだ
け。そのバレエができれば、充分じゃないの?
そこまで考えて、真子は結論を出した。
――学校へ行くのを、やめよう。
よく新聞などで見る「不登校」というものに、まさか自分がなるとは思っていなかった
が、きっとこれは正しいことなのだと真子は思った。
――苛められる為に学校に行くなんて、間違ってる。
それから2週間経ったが、真子は一度も学校に足を踏み入れていなかった。
真子の母親も正しいことを貫き通す人で、おまけに真子のことを理解してくれていた。
だから、真子が学校へ行かないことを告げた時も大騒ぎはせず、
「あなたの正しいと思うことをすればいい」
と言ってくれた。
ただ、時々少し悲しそうな目でこちらを見ることはあったけれども。
母親は仕事のため、朝の8時ごろには家を出る。帰ってくるのはいつも夜の8時頃。
真子は1週間のほとんどをバレエに費やす。バレエ教室に行く時は、大体5時くらいに
家を出ていた。
つまり、真子は朝8時から夕方5時まで、ずっと一人で家にいることになる。
しかし真子は、一度も「寂しい」とか「暇だ」とか思ったことはなかった。いつもバレ
エ公演のビデオを見て、今度の発表会の振り付けをなぞっていれば、それだけで時計の針
は進んでいたのだ。
学校に行かなくなって、真子は更にバレエに対して親しみを覚えるようになっていた。
こうして、物語は冒頭に遡る。
今下っているこの坂道は、バレエ教室に行くためにほとんど毎日通っている。真子はこ
の道に、通学路よりも親しみを覚えていた。
教室の中に入り、さっさと着替えを済ませ、髪をまとめる。
その頃にはもう真子の頭の中に気だるさは無く、代わりにバレエをすることへの意気込
みや楽しみが居座った。
レッスン室の中に入ると、知らない顔の女の子が一人いるのに気がついた。
小柄で色白の、真子と同じ年くらいの女の子。髪をぴっちりと結い上げ、自分の居場所
が分からなくて少々戸惑っている様子だ。
――新入生だ。
真子の通うバレエ教室には、このように半端な時期から練習に参加する、言わば転校生
のような生徒も多かった。
そのような生徒のことを、真子は「新入生」と呼んでいたのだ。
少しおどおどしながらも好奇心に満ち溢れるその少女には、いかにもその言葉はピッタ
リだった。
声をかけようか迷っているうちに、先生がやって来た。
「皆、いつもの位置について。今日は新しい子が来てるからね。安藤皐ちゃんです。皐ち
ゃん、自己紹介してくれるかな」
「安藤皐、中3です。1週間前に引っ越してきました。バレエが大好きです。早く皆と仲
良くなりたいので、よろしくお願いします」
皐はそう言って、ニコリと笑った。
名前の通り、すっきり晴れた青空のような爽やかな笑顔に、温かい声。
からだ
真子は聞いているだけで、優しさに身体を包まれるような気がした。
「じゃあ……皐ちゃんは、真子ちゃんの後に行ってくれる? えっと……真子ちゃん、手
を上げて」
先生に言われ、真子は手を上げた。周りの子が少し羨ましそうにこちらを見る。
――きっと、少しでも早く新しい子と仲良くなりたいんだろうな。
そんな皆の積極的な気持ちも、真子は好きだった。
「はい!」
元気な声で皐が返事をして、こちらに向かって歩いてくる。
「よろしくね」
皐がそう言って、またニコリと笑う。
真子も笑顔を返した。
しかしその後は皐とも大した会話は無く、レッスンが進んで行った。
飛ぶように時間は過ぎて、レッスンが終わるまで残り40分。
「じゃあ、発表会の練習を始めます」
先生のその言葉がスイッチとなったかのように、生徒全員から笑顔がこぼれた。
真子の通うバレエ教室では毎年8月に発表会があり、半年前には練習を始める。
今は5月も中旬だから、振り付けも全て終了し、表現力などを指導され始める時期に差
し掛かっていた。
今回真子たちが演じるのは「コッペリア」という舞台だ。
コッペリアは有名なバレエの一つで、舞台は少女コッペリアにフランツという青年が興
味を持つことから始まる。フランツはコッペリアに毎日話しかけるがそれを彼の恋人スワ
ニルダは気に入らず、明日の結婚式も延期しようと言い出す。スワニルダはコッペリアの
家に忍び込むが、コッペリアが実はコッペリウス老人の作った人形であることを知る。同
じ時フランツもコッペリアの家に忍び込み、コッペリウス老人に薬を飲まされ魂をコッペ
リアに移されそうになる。しかしコッペリアに扮したスワニルダが彼を助け、仲直りの後
無事に結婚式を挙げる、という話である。
生徒の中で一番年上の真子は、今年主役のスワニルダを踊ることが決まっていた。
今日はコッペリアのエンディング――結婚式の場面の、スワニルダのソロを練習するこ
とになっていた。今月に入ってから、まだ一回も練習していない場面だ。
「じゃあ真子ちゃん、音楽に合わせて踊ってみて」
先生に言われ、真子は踊り始めた。
レッスン室の正面には鏡があるが、それは見ない。自分の感覚だけを頼りに、どの角度
が美しく見えるのかを最優先に考えて、満面の笑みで踊る。
ひとしきり踊り終わると、先生が言った。
「1ヶ月前よりずいぶん上達したね、真子ちゃん。
でもまだ少し役になりきれてないかな。
この場面のスワニルダは幸せの絶頂だから、もっと喜びが溢れ出ている筈なの。もっとス
ワニルダになりきって、元気いっぱいに、幸せいっぱいに踊らなきゃ」
「そう……ですか。ありがとうございました」
ハアハアと息を弾ませながら、真子は頷いた。
自分では役になりきっているつもりだが、それがまだ伝わりきっていない、という事が
分かり、少々残念だった。しかしもっと練習を重ねれば自然と身に付くはずだと思い、真
子は次の子に場所を譲るために壁際まで移動した。
あっという間に今日のレッスンは終わった。
着替えて帰り道を歩いていると、小鳥が留まる様な軽さで肩を叩かれた。
「お疲れ様!」
そう言われて振り向くと、皐が笑いながら立っていた。
お疲れ様。
バレエを踊った後に皆で交わす、合言葉にも似た挨拶だ。
これでしか表現できない相手への気遣いが込められていることもあり、真子はこの言葉
とその独特な雰囲気が気に入っていた。
「あ、お疲れ様。一日目のバレエ、どうだった?」
「ああ、
真子ちゃん凄く上手だったよ! 見てて感動するくらいだった。
あれが発表会で、
衣装着ててライトにも照らされてたらホントに綺麗だろうなあって」
「やだ、そんな事無いよ! 皐ちゃんも凄く上手かったもん。皐ちゃんがもっと前に来て
たら、私スワニルダ踊れなかったかもしれないし」
素直に褒めてくれる言葉は嬉しかったが、後の言葉はお世辞ではなかった。皐は真子と
同等か、もしくはそれ以上の技術を持っていて、真子は良いライバルができたと嬉しくな
ったのだ。
「そう言ってくれるの、嬉しいな。同じ学年なんでしょ?
これからよろしく」
「うん、よろしく!」
「そういえば真子ちゃん、どこの中学?
近いかなって思って」
皐は何気なくそう言ったのだろうが、真子は少々ぎくりとした。
ここで不登校という事が知られたら皐にどう思われるか、それが不安だった。
「ああ、ちょっと遠くの私立に行ってるの。あんまり有名じゃないし、名前聞いても分か
らないんじゃないかな」
そう言った時、皐の表情から笑顔が消えた。
無表情になったのでもなく、怒った様子もない。
ただ思いつめたかのように、唇をかみ締めていた。
「皐ちゃん……?」
不思議に思って真子が尋ねると、皐は口を開いた。
「……知ってるよ」
「え……?」
「ホントは知ってるよ。真子ちゃんが、どこの中学校にいるのか。あたしが転校して来た
中学校、そこだから」
「……ホントに?」
皐は頷いた。
緊張したのとも話すことが無くなったのとも違う奇妙な沈黙が、二人の間を流れている。
「全部、聞いたの?」
更に質問を重ねると、皐は再び頷いて話し始めた。
「転校してきてから3日くらいかな。川崎真子、って名前の子を全然見ないから、恵ちゃ
んに聞いてみたの。そしたら、もう1週間以上学校に来てないって。恵ちゃん、私のせい
だって泣いてた。私を庇ったから、真子ちゃんが苛めの標的になっちゃったんだ、って」
恵ちゃん。真子が庇った親友の名前だ。
「それから今日初めて、真子ちゃんに会ったの。不登校だって分からないくらい明るい子
だなって思った。嘘ついたって分かった時も、嫌な気分では無かったよ。誰にでも、人に
言いたくない事なんていくらでもあるんだもん。あたしはそんなの根掘り葉掘り聞くよう
なしつこい子じゃないから」
皐はそう言って笑った。
「どうしてあたしが転校してきたか分かる?あたしね、前の学校で真子ちゃんと同じよう
な目に遭ったんだ」
淡々と言った皐のその言葉が、氷のように真子に降りかかった。
「皐ちゃんが……?」
真子は驚いて、ただその言葉を言うことしかできなかった。
「そう。あたしは逃げちゃった。だけど、真子ちゃんに同じ思いをしてほしくないんだ。
真子ちゃん、レッスンの時に先生に注意されてたよね?スワニルダのように、幸せいっぱ
いに踊らなきゃって。そのためには、自分が楽しむだけじゃ駄目なの。相手を、観客を、
見てくれる人を、心から楽しませようと思って踊らなきゃいけない。ただ笑顔を貼り付け
るんじゃなくて、見てくれる誰かもその舞台に引き込められるくらい、心からの笑顔で踊
らなきゃいけない。今の真子ちゃんにそれができないのは、まだ独りよがりで踊る自分が
いるからだよ」
ふいに誰かに水を浴びせかけられたかのように、真子は身を震わせた。それだけ、皐の
発した言葉の衝撃が強かったのだ。
ずっと、分からなかった。誰よりも自分の踊りを知っている自分さえも、分からなかっ
たことだった。
周りの人も、自分の踊りを見てもただ「上手だね」と言うだけだった。真子の内面を、
心の中を見てくれた人なんていなかった。
けれど、まだ会って数時間しか経っていない皐には、それが分かるのだ。
ただ真っ直ぐ突き進むことしか知らなかった自分。それがどれだけ自己中心的なものな
のか、考えもしなかった。自分が楽しむだけで、バレエで人を楽しませることを忘れてい
たのだ。
自己中心的な行動をとらない。その言葉だけを聞いて、それを自分に当てはめたことな
どなかった。
皐がそれを――どれだけ自分が自分勝手だったのかを、気付かせてくれた。
一緒にいた時間なんて関係ない。相手がどれだけ自分の事を思ってくれているのかが、
「友達」であるかどうかの基準なのだろう。
「ごめんね、何か説教したみたいになっちゃって。だけどあたしは、真子ちゃんに学校に
来てほしいから……それだけを言いたかったんだけど、いざって思ったら上手くまとまら
なかったな。じゃあ、またね」
皐はそう言って曲がり角を曲がり、暗闇に吸い込まれるように見えなくなった。
真子は誰もいない十字路で、一人呆然と立ち尽くしていた。
次の日、真子は1ヶ月前と同じ時間に起き出した。
学校へ行くことを決めたのだ。
「真子、あの時より笑顔が増えたわね」
出掛けに母がそう言ってくれたことで、真子はさらに気分が高揚した。
学校に着くと、やはり全員の視線が集まった。
あのリーダー格の生徒の驚いた顔も見られる。きっと真子を不登校に追いやったことで
勝った気になっていたのだろう。
「あんたなんかに負ける私じゃないよ」
心の中で、そう呟いてやる。
その他は大した反応はしなかった。真子の頭にあるのは、あの親友に会うことだけ。
思ったとおり、安藤皐は教室の奥で、真子の友達と一緒に待っていた。
「お疲れ様」
皐はあの日と同じ、春の日差しのように爽やかな笑顔でそう言った。
――おめでとう。よく来たね。
そんな言葉より、何より皐の嬉しさや祝福が分かる言葉。
真子も笑顔で、それに答えた。
今なら――いや、今からなら、満面の笑みでスワニルダを踊ることができそうだ。