NHKアーカイブスの現状と未来展望

ディジタルコンテンツをつくる人材育成―ディジタル・アーキビスト
NHKアーカイブスの現状と未来展望
―放送・通信の融合とディジタル・アーキビスト―
大 井
抄
録
康 祐
ん島」等,中高年の方にはなつかしい番組の多くが,そ
NHKアーカイブスは,ディジタル時代における戦略
の一部しかアーカイブされていない。こうした事情は民
拠点として 2003 年(平成 15 年)2月1日にオープンし
放も同様で,組織だった保存への取組は,NHKよりさ
た。国民共有の文化資産である映像や音声コンテンツを
らに遅れてスタートした。
最新のIT技術で保存・活用していく世界最大級のフル
日本の放送界でなぜこうしたお寒いコンテンツの保存
ディジタルのアーカイブスだ。以来3年半,公共放送に
状況が長らく続いてきたのか,放送電波に乗せる直前の
ふさわしい新たな番組の開発に加え,放送と通信の一層
メディアであるビデオテープが,現在に比べはるかに高
の融合という時代状況を背景に,ネットワークへのコン
価で(昭和 30 年代後半,ビデオテープ一巻と国産の軽乗
テンツ提供等新たな試みも始まっている。そうした中「デ
用車の値段がほぼ同じであったという)あったため,収
ィジタル・アーキビスト」の育成が喫緊の課題となって
録した番組を消去した上いわゆる“上塗り”して何回も
いる。
使用せざるを得なかったという経済的な事情がまず挙げ
<キーワード>
られるであろう。保存や権利確保に費用がかかっても,
放送と通信の融合,アーカイブス番組,権利処理,
将来のビジネスチャンスに備えていくという豊富な資金
ディジタルコンテンツ,ブロードバンド,VOD
に支えられたアメリカ的企業意識も希薄だったといえる
≪はじめに≫
筆者は,1998 年からNHKアーカイブスの建設・整備
のではないか。加えて「放送」とはまさに“送りっぱな
し”であり,放送済みの番組はもちろん関係する映像素
事業に携わった後,2年前にNHKを退職し,現在は(株)
材を手間ひまかけて保存しようという「文化・哲学」が,
NHKエンタープライズに勤務している。(シニアエグ
日本の放送界には欠けていたということではないだろう
ゼクティブプロデューサー)本稿は,NHKアーカイブ
か。
ス完成に至るまでの経緯と現状を概説した上で,新たな
ヨーロッパの放送局は,それぞれに長い歴史を持つ「ア
時代に対応するディジタル・アーキビストの育成の必要
ーカイブス」を持ち,多くの「アーキビスト」を有して,
性を記した。当然のことながら文責は,筆者個人にある
戦前のフイルムも含め,テレビ放送開始以来の映像を「文
ことをあらかじめお断りしておく。
化財」として体系的に保存・管理し,データベース化し
ている。事物を保存し後世に伝えていくという彼我の伝
1
日本の放送番組保存の歩み
統・歴史と文化の違いを痛感せざるをえない。
ただ幸いなことにNHKには,81 年以前でもフィルム
NHKがテレビ放送を開始したのは 1953 年(昭和 28
で取材したドキュメンタリー番組等の一部が,ビデオの
年)のことだ。しかし,組織として番組や素材の保存を
ように“使いまわし”できない故に,さまざまな形で残
始めたのは,その 28 年後の 1981 年(昭和 56 年)からだ。
されていた。総計4万4千本余り。それらをNHKの最
テレビ草創期はもちろん,昭和 30 年代から 50 年代前半
新のディジタル技術を駆使して傷や色あせ等を修復・復
までに制作・放送された多くの番組は,ほとんど残され
元し,新たな著作権処理をして 2000 年4月から放送を開
ていない。例えば大河ドラマについていうと,昭和 30
始したのが,現在も続いている番組としての「NHKア
年放送の「赤穂浪士」は“討ち入り”の一回分しか保存
ーカイブス」だ。
されていないし,「事件記者」や「ひょっこりひょうた
OHI
Yasusuke:(株)NHKエンタープライズ (東京都渋谷区神山町 4-14)
- 45 大井康祐:NHKアーカイブスの現状と未来展望
写真1「NHKアーカイブス」毎週日曜日放送
写真2「SKIPシティ」全景
この番組は,その後のいわゆるアーカイブス関連番組
の草分け的存在であり,今も視聴者から多くの反響が寄
せられている。放送番組は,その時々の世相と時代を切
り取って映し出す鏡であるのみならず,時空を超えて,
人々に普遍的な感動を呼び起こす貴重な「公共財」であ
ることを改めてわれわれに教えてくれた。
2
NHKアーカイブスの建設・整備
NHKアーカイブスの建設計画は,1997 年にスタート
写真3「NHKアーカイブス」
した。建設予定場所は,埼玉県川口市にあった「川口放
送所跡地」。この地域は,昭和 12 年に運用が始まったラ
ジオ放送塔を中心におよそ 20 万㎡の用地があり,埼玉県
はここを利用して映像を核とした「さいたま新産業拠点
3
NHKアーカイブスの概要とシステム
NHKアーカイブスの建物は8階建て,延べ床面積は
整備事業=SKIPシティ」計画の実現をめざしていた。
1万8千㎡で,2階には埼玉県との共同施設として「番
筆者は,翌 98 年6月,報道現場から異動し,このアーカ
組公開ライブラリー」が設けられている。視聴者の皆さ
イブス整備の責任者をつとめることとなった。同年夏に
んにNHKの番組をビデオ・オン・ディマンドで無料で
は,埼玉県と地元川口市それにNHKの三者の共同事業
見ていただけるコーナーで,80 のブースにハイビジョン
としてこのSKIP計画を推進していくことで大枠の合
を含めた視聴端末が備えられている。オープン当初は,
意を取り付けた。並行して「NHKアーカイブス基本構
2,000 番組でスタートしたが,現在では公開番組数は,
想」を取りまとめた。その骨格は,①保存(貴重な映像・
ドラマやドキュメンタリー等 5,000 番組を超えている。
音声資産を次世代に継承していく),②活用(蓄積した
またアーカイブス本体と全国 54 のNHKの放送局を専
コンテンツを豊かで多彩な番組づくりに生かしていく),
用の光ファイバー網で結ぶことで,同様のサービスの全
③公開と社会還元(「番組公開ライブラリー」を通じて
国展開が実現した。IP回線を使ったハイビジョン番組
の無料公開とディジタルネットワーク等への番組提供等
の伝送は,世界でも初めての試みだ。
二次展開)で,これがNHKアーカイブスのいわば“基
本憲章”となった。
その後計画は順調に推移し,「NHKアーカイブス」
は,2001 年1月に着工,そして日本でテレビ放送が開始
されて 50 年目の節目にあたる 2003 年2月1日にオープ
ンした。同時に完成した埼玉県の「映像関連施設」には,
スタジオやホール,映像クリエーターをめざす若者たち
を対象にしたインキュベート施設等があり,毎年7月に
は,地元川口市等が主催する「国際デジタルシネマ祭」
写真4「番組公開ライブラリー」
が開催されている。
さらにこの「番組公開ライブラリー」では,広島・長
- 46 学習情報研究 2006.7
崎での被爆 60 年を迎えた 2005 年から「平和アーカイブ
るべく自動的に蓄積するべく開発されたのが「ディジタ
ス事業」を展開している。NHKは,これまで 400 本を
ル制作情報システム」だ。これは,提案から取材,編集
超える被爆や核関連番組を制作・放送し,国際的に高い
まで番組制作の全てのプロセスをパソコンとノンリニア
評価を得てきたが,これらの中から代表的なものを登録
編集機を連動させてディジタル化するというもの。これ
し,原爆の悲惨さ,平和の大切さを次の世代に伝えてい
によって番組に関する情報が一元化されてサーバーに蓄
こうという試みがこの「平和アーカイブス」であり,中
積され,共有化されることになる。映像に関するデータ
学生や高校生に総合学習や平和学習の一環として利用さ
ベース化に要する時間とコストの削減は,放送局のアー
れている。これに加えて今年度からは「環境アーカイブ
カイブスにとって共通の悩みだが,NHK制作現場で導
ス」も開始された。こうした試みは,公共放送・NHK
入されたこのシステムによって,「川下」にあたるアー
でなくてはできない事業であり,過去の優れた番組・コ
カイブスに,権利処理をはじめ多くの番組・映像情報が
ンテンツ制作の積み重ねとアーカイブスの誕生があった
自動的に流れ込み,保存・蓄積することが可能になった。
ればこその成果だ。ただこうした無料の番組公開であっ
このようにして「総合情報データベース」に蓄積され
ても,後述する複雑な「権利処理(著作権の許諾)」は
た番組・映像は,当然のことながら制作担当者,著作権
欠かせないことを付記しておく。
を含む権利業報,出演者,放送履歴等の各種情報,いわ
NHKアーカイブスの保管庫は,現在の放送媒体であ
ゆるメタデータをまとったディジタルコンテンツだ。こ
るディジタルテープに換算して 180 万本収容できるスペ
のことは,後述するインターネットとりわけブロードバ
ースを持っており,今後ディスク等,よりコンパクトな
ンドの世界への二次展開をスムーズに行えるだけのいわ
媒体への変更をみこすと,向こう 30 年間は対応できる設
ば「商品価値」を備えていることを意味している。放送
計となっている。NHKが現在保有しているコンテンツ
と通信の融合が進展する中,NHKアーカイブスが,通
数は,以下の通りとなっている。
信やIT関連業界から“宝の山”と評されている所以は
(世界有数の保存数もさることながら)この点にあると
表
いえる。
NHKが保有するコンテンツ数
平成 17 年度末
全 国
ニュース(項目数) 番組(タイトル数)
3,658,000
576,000
また,NHK放送センターのある渋谷と川口が直線距
離で 20 キロ以上離れているという地理的制約を克服す
川口アーカイブス
552,000
429,000
るため,センターとアーカイブスは,4ギガのIP回線
渋 谷
790,000
55,000
で結ばれており,ハイビジョンを含む映像が同時に8系
東京本部計
1,342,000
484,000
統伝送できるインフラが構築されている。(次ページ末
地域放送局
2,316,000
92,000
こうした膨大な保有コンテンツを管理するために,N
HKは最新のディジタル技術を駆使して,アーカイブス
尾のNHKアーカイブス・システム概念図参照)
4
ディジタル・アーキビストの育成と課題
の頭脳と心臓部ともいえるさまざまなシステムを開発・
こうした新たなシステムの開発・導入とアーカイブス
構築した。その中心が「総合データベース」だ。貴重な
の整備によって,NHK内部の映像コンテンツの利用数
受信料で取材・制作されたコンテンツは,大事な経営資
は,それ以前に比べ飛躍的に増えた。また復元・復刻に
源であり,これらを縦横に使った「豊かで多彩な」番組
よる「アーカイブス番組」だけではなく,過去の映像を
作りには,著作権関連も含めた複雑な映像関連情報を効
駆使した優れた番組が次々と制作・放送されている。
率的に検索し,選択し,
入手できるシステムが不可欠だ。
それまでのデータベースが文字情報だけの提供に限られ
ていたのを,「新」総合データベースでは,映像情報の
蓄積と提供を実現した。番組やニュースの制作担当者は,
自席の端末=パソコンで利用したい映像関連キーワード
を入力・検索すれば,番組の構成表やカットごとの代表
静止画や該当する動画(MPEG4に圧縮)をその場で
確認し,欲しい映像を直ちに発注できる。
さらにこうしたデータ入力をより人手をかけずに,な
写真5「新日本紀行ふたたび」「あの人に会いたい」
- 47 大井康祐:NHKアーカイブスの現状と未来展望
「新日本紀行ふたたび」は,総合テレビで毎週日曜日
こうした権利処理をなるべく効率的に行うためのシステ
に放送されている。旧作「新日本紀行」は,1963 年(昭
ム構築を含む対応策を講じているが,最後は地道な努力
和 38 年)から 1982 年(昭和 57 年)まで放送された長寿
による“人力”が決め手であり,放送現場のディジタル・
番組だった。今はもう失われてしまった日本の原風景,
アーキビストには,蓄積されている映像とそれにまつわ
そこで大地に足をつけて暮らす人々の営み。それらを記
る権利のありようを熟知し,それを処理する専門性がま
録した 16 ミリフイルムの映像をもとに,かつての取材地
すます必須となろう。
を再び訪れて撮影したハイビジョン映像。その鮮やかな
対比。なつかしいテーマ音楽で始まるこの番組に,自ら
最後にディジタルネットワークへのNHK番組提供に
の歩いてきた人生を重ね合わせて越し方を思い起こすと
ついて記しておく。日本のインターネット利用者は,8500
いう多くのファンがいる。
万人を超え,FTTH,DSL等ブロードバンドのエン
教育テレビで毎週土曜日に放送されている映像ファイ
ドユーザーは 2330 万人に達している。その利用料も世界
ル「あの人に会いたい」は,昭和の著名人へのインタビ
で最も低い水準で,今や有数のIT大国となった。こう
ュー映像をベースに構成されている。歴史に残る名言を
した中NHKエンタープライズは,昨年7月からNTT,
当時の息づかいそのままに伝えている。
KDDI,BBケーブル,JCOM等STB(セットト
昨年1月に放送されたNHKスペシャル「鼓の家」は,
ップボックス)によるVOD(ビデオオンディマンド)
1967 年(昭和 42 年)放送の「ある人生・親子鼓」をも
サービス事業者に対してNHK番組の提供を始めた。ま
とに,時代を超えて継承される伝統芸能,能楽鼓方と歌
たこうしたブロードバンド事業者に加え11月からは,
舞伎囃子方の技,それを支える家族の絆を見事に描きき
はるかにユーザー数の多い一般PC向けの配信事業者を
った秀作である。筆者は,この番組を見終えたとき,「ア
対象にした実験配信を開始した。これらは,いずれも事
ーカイブス整備に取り組んだ苦労がこうした形で報われ
業者側からの強い要請に基くBtoBモデルだ。こうし
た」と思ったことだった。同時にこうした優れたアーカ
たNHKコンテンツの外部提供(二次展開)は,すでに
イブス番組が,制作現場の側から提案されるのは当然の
行われているビデオテープやDVD等のいわゆるパッケ
こととして,“川下”にあるアーカイブスの主導で提案・
ージにつづく新たなサービス(=社会還元)の創出とい
制作される体制づくりの必要性を痛感した。保管・蓄積
ってよい。さらに学校教育等でのeラーニングへのコン
されているコンテンツを熟知し,注文に的確に応えるの
テンツ提供も始まっている。
はもちろん,番組提案と制作力を備えた「ディジタル・
ネットワークとりわけブロードバンドの普及が飛躍的
アーキビスト」の育成をNHKとして積極的に推進する
にすすむ中,リッチコンテンツとしてのNHK映像(動
よう要望したい。
画)の配信は,IT市場の更なる発展にも寄与すること
こうした専門集団の育成に関連して著作権問題につい
となろう。外部提供の窓口となっているNHKエンター
てふれておきたい。放送番組・ソフトは,多くの第三者
プライズでも,こうした新たな需要に即応できるディジ
の権利の“かたまり”といってよい。ドラマでいうと原
タル・アーキビストの人材育成は,今後の重要な課題だ。
作者,脚本家,俳優等の実演家,作曲家,演奏者等々で
ある。またドキュメンタリーでは,取材に協力していた
だいた方の肖像権,プライバシーがあり,これらは一義
的には放送のためだけの許諾(=権利処理)を得て制作
されている。従って番組を再放送する際や先に記した無
料の「番組公開ライブラリー」であっても,新たな許諾
が必要となる。まして番組をインターネット等の外部に
提供するには,「権料」の支払いも伴う全く新たな権利
処理が絶対条件となる。竹中総務大臣の私的懇談会「通
信・放送の在り方に関する懇談会」でも,こうした複雑
で費用と時間のかかる権利処理の現状を改善するための
方策が議論の一つの柱となったが,現行著作権法を含む
制度見直しにつながる問題だけに根本的な解決には,な
お時間がかかると見られる。NHK本体と関連会社では,
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NHKアーカイブスシステム概念図