「セネガル訪問でアフリカを近くに感じた」 G 組 田中(野田)陽子さん 今年2014年4月10日から18日までパリ経由でアフリカのセネガルへ行きました。夫が来年夏まで理事を務めて いる IAAF(国際陸上競技連盟)理事の会議が行われたからです。当然同伴者も行って良いということになっていま したので私も滅多に行けないアフリカ西部で興味津々行きました。 セネガルは隣にマリ、コートジボワール、高熱病が流行っているギニアなどの国に囲まれ、WHO で警告が出てい る中、マラリアの飲み薬とムヒを持ち、A 型肝炎のワクチンもしての出発となりました。 首都はパリ-ダカール・ラリーでおなじみのダカールです。セネガルへ行ったら どうしてもゴレ島へ行くように言われていました。 ゴレ島は首都ダカールからフェリーボートで30分程西にあります。ユネスコの 「負の世界遺産」となっていますが三角貿易と言われている黒人奴隷売買が 3 世紀に渡って行われていた島です。アフリカの一番西に位置するこのゴレ島に、 アフリカのあちこちから強そうなアフリカ人を集めてここで売買が行われていま した。 ゴレ島へ向かうフェリーで 船が着くと島の女性や子供達が奇麗な民族衣装で出迎えてくれ、そして若者達は太鼓や民 族楽器でサンバのリズムで明るく音楽を奏でていました。決して観光客に媚を売るというの でなく、心からリズムに乗っていました。なんて明るい人たちなのだろうというのが第一印象 でした。 民族衣装での歓迎 そのあとその日の目的である奴隷の家へ行きました。 “文化庁奴隷の家”とフランス語で書かれた門をくぐりそこの館長さんの説明を聞 きました。 先ず見せられたのが、奴隷達が詰め込まれていた小さな石造りの部屋でした。逃 げられないよう窓はたったの1~2cm の幅の細長い小さな窓で、8畳程の部屋に 18人以上も詰め込まれていました。息も詰まるような狭さです。何の希望も無い まま鎖につながれ家畜のように餌を与えられ、強く大きくさせられ、奴隷として高く 奴隷の家 売られるよう約 3 ヶ月間閉じ込められていたそうです。 一階には女性用、子供用の部屋もありました。二階は白人達が住んでいたそうです。 “戻らずの扉”があってその奥に船着き場がありました。その言葉通りそこから先はアフリカへは戻れないという扉で す。3 ヶ月かかって奴隷船が戻って来たそうです。その扉から大西洋の水平線がみえるのですが、真っすぐ西に行 ったところにキュラソー島(ベネズエラから60キロ北)があります。アフリカとアメリカとを結ぶ最短距離に二つの島 があります。奴隷達はキュラソー島の奴隷の家へ連れて行かれアメリカ大陸へ売られて行きました。 “戻らずの扉”をくぐる時に、逃げようとした奴隷達は鎖をしたまま海に飛び込みサ メに食べられてしまったり、奴隷商人にピストルで殺されたり、悲惨な出来事が繰 り返し起こったことが想像できます。どのような思いでこの扉をくぐっていたのか。 女性には船に乗らなくてすむたった一つの救いがありました。白人の子供を身ご もれば島を離れなくていいということでした。どんなにか辱められたことでしょう。 ”戻らずの扉” 300年間で売られた奴隷は1200万から2000万人と言われています。過去の我々人間が犯した過ちを見るのは 苦しいことですが、今回そこで会ったゴレ島民は実に明るいのです。 最後に案内してくれた青年が話してくれました。 “私達今はとても幸せです。どうかここで見たことをお友達に話して、ここを訪れるように言って下さい、又私達は9 5%回教徒ですが、穏やかで他の宗教を受け入れられる回教です。このことも忘れないで伝えてほしい。” 一緒に行ったヨーロッパ人達や中南米の人達は、祖先の犯した残酷な出来事を目の当りにして、私以上に心痛を 覚えたに違いありません。スエーデンの友人は小さい声で“酷いことね!!でも私達スエーデン人はこんなことして いないのよ”と話していました。確かに誰も認めたくない人類史の汚点です。 船着き場にもどると、また若者達のグループがサンバ音楽を奏でていました。自 然に身体も軽く、明るくなり、リズムに合わせて島民と別れを惜しんでダカールへ 戻りました。広場にある樹齢1000年以上もあるというアフリカの木(バオバブ)の 回りには若い島民達、赤ん坊、子供達が大勢エネルギッシュに遊んでいました。こ んなに凄い悲劇があったのに、それを押し付けない態度、今が幸せだと言える前 向きな態度に学ぶことが多々ありました。 バオバブの木 セネガルでは既に学校で英語とフランス語で教育受けていますから国際舞台で活 躍できる人たちが育っています。色が真っ黒で、背が高くて逞しい人種でした。 今回は、アフリカがとても身近に感じられた旅になりました。 セネガルの学生たち
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