発表要旨PDF

平成二十七年度
中世文学会秋季大会
研究発表要旨
『 慕 帰絵』 の制 作 意 図― 善如 の位 置付けを めぐ って ―
石井
悠加
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東京大学大学院生
『 慕 帰 絵 』( 全 十 巻 ・ 西 本 願 寺 蔵 ) は 、 観 応 二 ( 一 三 五 一 ) 年 正 月 の 本 願 寺 三 世 覚 如 示 寂 の 後 、
次 子 従 覚 ら の 手で わ ず か 九ヶ 月 後 に 完 成 さ れ た 伝 記 絵 巻で あ る 。
本発表は、もう一つの 覚如の 伝記絵 巻『最須敬重絵詞』や、覚 如が制作した曽祖父親鸞の伝記絵
巻 な ど と も 比 較 し つ つ 、 和 歌 と 絵 画 双 方 の 検 討 に よ っ て 、『 慕 帰 絵 』 の 制 作 意 図 を 明 ら か に す る こ
とを目的とする。
『 慕 帰 絵 』は ① 出 生 ・ 幼 年 期( 巻 一 ~ 二 )② 少 壮 期( 巻 三 ~ 五 )③ 老 年 期 ・ 入 滅( 巻 五 ~ 十 )
に 大 別され、最 も分量の ある ③は 、詩歌会や、親戚故旧と の和歌の贈答、 和歌の名所探 訪など 、歌
人と しての側面を描くこ とに画 ・詞と もに力を入れている。このことは、歌道を 重視した宗家日野
家に対する覚 如の強い帰属意 識を示して いる ものと従 来指摘されて いる。
ではなぜ『慕帰絵』は絵巻として 制作されたのか。画・詞に頻出する幼い童子・光養丸の存在に
新たに 注目したい。覚如と童子 の間に教義の口授のような師弟関係を示す場面は ないが、歌の贈答
を通じて 交流し、寺院の隆盛を約束し合い、そして臨終の 枕頭で悲嘆の表情にくれる童子の姿は、
彼が覚 如鍾愛 の 存在で あること を鑑賞 者に示して いる。この光養丸とは 、幼時より次期留守職に指
名され、覚 如の 入滅の後十九歳で 本願寺四世となった、従覚の 次子・善如の幼名で ある 。
伝記絵巻という形態は、描かれる人物の生涯を周りの景色・人物ごと絵画化することで、文字作
品を超える情報を鑑 賞者に示し 得る。覚如の没後直ちに『慕帰絵』を制作した従覚らの目的には、
故人追慕の念を記すことに加えて 、善如が故人の地位を継承することの正統性を明らかにすること
が あ っ た ので は な い か 。 そ して そ れ に 最 も 適 し た 作品形 態 こ そ 、絵 巻で あ っ たので は な いか 。こ の
点を内容の具体的検討によって 明らかにする。
(2)
(3)
良 基 連歌論 の受 容 ― 『紹 巴教 書』 まで ―
青山学院大学大学院生
寺尾
麻里
康永四年(一三四 五)成立の『僻連抄』以降二条良基によって 著された連歌論は 、連歌論の基盤
を つ く り 、 後 代 に 多 大 な る 影 響 を 与え た。 し か し 、 連 歌 論 書 の 受 容と い う 点 に 関 して は 、こ れ まで
ほ と ん ど 明 ら か に さ れ て い な い 。 そ も そ も 、 良 基 の 連 歌 論 書 は 現 在 、『 筑 波 問 答 』 を 除 い て 孤 本 に
近 い も の ば か りで 、 そ れ が室 町 期 に お いて ど の よ うに 伝 わ っ た かは 不 明 で あっ た 。
そ の よ う な 中 で 一 六 〇 〇 年 近 く に 成 立 し た『 紹 巴 教 書 』は 、宗 祇 に 仮 託 さ れ た『 連 歌 諸 体 秘 伝 抄 』
を受けて 書かれて おり、こ の 『連歌諸 体 秘伝抄』は良 基連歌論と 関係の深 いこ と が先行 研究に よっ
て 指 摘 さ れ て き た 。論 者 は こ の ほ ど 、
『 連 歌 諸 体 秘 伝 抄 』と 良 基 連 歌 論 と を 結 ぶ『 連 歌 八 十 体 之 書 』
の 存 在 を 「『 連 歌 八 十 体 之 書 』 考 ― 二 条 良 基 と 宗 祇 仮 託 書 を 繋 ぐ も の ― 」(『 連 歌 俳 諧 研 究 』 一 二 八
号 )に お い て 示 し た 。こ れ に よ り 、良 基 連 歌 論 が 宗 祇 仮 託 の 一 書 へ 至 る 過 程 の 一 端 が 明 ら か に な り 、
良 基 連 歌 論 か ら 宗 祇 仮 託 書へ 、 そ して 『紹 巴 教 書 』 へ と いっ た 一連の 流れ が 見えて き た 。
一 方 、 他 の 宗 祇 仮 託 書 で あ る 『 連 歌 秘 伝 抄 』 に も 良 基 連 歌 論 の 影 響 が 現 れ て い る が 、『 連 歌 八 十
体 之 書 』『 連 歌 諸 体 秘 伝 抄 』 の 系 統 と 比 較 す る と 、 異 な る 性 格 が 見 ら れ る 。『 連 歌 秘 伝 抄 』 は 良 基
連 歌 論 の 原 形 か ら 距 離 が あ る と い う こ と が う か が わ れ る の で あ る 。こ の 事 実 は 、
『連歌八十体之書』
『連歌諸体秘伝抄』に良基連歌論の影響がよく残ることと対照的で あり、このこ とは、同じく宗祇
に 仮 託 され た 書で あ って も、 異な る 人 物の 手 に よ って 書 か れ た 可 能 性を 示 す もの と いえ る 。
以上のような良基連歌論の受容のあり方を 、
『 紹 巴 教 書 』ま で 付 合 に 関 わ る 説 を 軸 と し て 検 証 し 、
南北朝室町期の連歌論書の系統の一端を明らかにしたい。
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夢想連歌―慶長 期を 中心 に―
帝塚山学院大学名誉教授
鶴崎
裕雄
古代から夢は 言葉とともに あって 、 神の啓示や我々の祈念や願望を 表す。外 国にはヤ コブの梯子
や 荘 子 の 胡 蝶 な ど の 夢 が あ る 。 和 歌 や 連 歌 に も 夢 想 の 歌 や 句 が 残 さ れ て い て 、『 新 古 今 和 歌 集 』 の
住吉明神の歌などよく知られて いる。今年(平成二七年)は大坂の陣 後、四百年にあたり、慶長年
間を 中心に 調 べるこ と が多かっ た。こ の時 期 、夢 想連歌 が多く残されて いる。慶 長期を 中心に 夢 想
連 歌 に つ いて 、 以 下 の 要 領で 考 えて み た い 。
一 夢 、夢 想と い うこ と
二、戦国期の終焉、慶長年間と元和偃武
三、朝鮮出兵(慶 長の役)前の秀吉の夢想連歌
四、家康の幼名、天野康景の下女の夢想、柳営連歌
五、慶長四 年二月、家康の一族・家臣団の夢想連歌
六、最上義光ほか、諸氏の夢想連歌
七、慶長一〇年『白山万句』に先立つ宗甫・明宗の夢想連歌
八、夢想連歌の課題・研究点、学際的研究
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悦子
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久 留 米 文 化 財 収 蔵 館 寄 託 『 平 治 物 語 絵 巻 』「 六 波 羅 合 戦 巻 」 に つ い て
伊藤
『 平 治 物 語 絵 巻 』「 六 波 羅 合 戦 巻 」 は 、 絵 と 詞 書 の 断 簡 十 五 点 が 現 存 す る の み で あ り 、 そ の 全 容
は東京国立博物館所蔵の白描模本(以下、東博本と記す)など数本の模本でしか知るこ とができな
い 。原 本が断 簡で し か 伝わ ら な い 現 在 、模 本の 研 究は必 要で あると思わ れる が、こ れ まで 代表模 本
で ある東博本が原本の補 助資料 的役割で 取り上げ られるものの、模本全体を対象とした研究は ほと
んど なかっ た。とこ ろ が、二 〇 一四 年に早稲 田大学図書館が彩色模 本(以 下、早大 本と 記す)を収
蔵し、 滝 澤み か氏が 早大本の紹 介・考 察にとど まらず、現存模本の調査をされて 、系統分類に つい
て も 触 れ て お ら れ る (「 早 稲 田 大 学 図 書 館 所 蔵 『 平 治 物 語 絵 巻 六 波 羅 合 戦 巻 』 に つ い て 」(『 早 稲
田 大 学 図 書 館 紀 要 』 号 、 二 〇 一 五 年 三 月 ))。 そ れ に よ る と 、 早 大 本 は 他 の 現 存 模 本 と は 異 な る
点が 多 いと い う。 奥 書に つ いて も 、宮 内 庁 書 陵 部 本 など の模 本 が、森 井善 太 郎・ 千賀 義徴 の名 を 記
して いるのに対し、早大本は千賀義徴の名が記さ れて いないと いう特徴があるとする。
稿 者 は 二 〇 一 四 年 四 月 に 、 久 留 米 文 化 財 収 蔵 館 で 資 料 調 査 を 行 っ た 際 、「 六 波 羅 合 戦 巻 」 の 略 式
模本( 以下、 久留米 本と 記す) を発見 したの だが、早大 本と 比較すると、奥 書を含めて 早大本が独
自 と す る 特 徴 の 多 く が 久 留米 本に も 共 通 して おり 、両 者 が 緊密 な 関 係 で あるこ と が 分か っ た 。 し か
し、僅かながら 異なる点も見受けられる。また、久留米本にも独自と思われる描写や奥書の記述が
ある。
本発表で は 、久 留米 本の 紹 介に 加え 、 早大 本や 断簡と の異同 、 および久 留米 本の特徴や系統 など
を明らかにしたい。
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抄 物 と 謡 曲 ― 惟 高 妙 安 述 『 玉 塵 抄 』・『 詩 学 大 成 抄 』 に つ い て ―
山東大学威海 校区 翻訳学院
佐々木
雷太
)
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いわ ゆる「 抄 物」 本報 告で は 、 室町期の 五山僧 による外典の 講義 内 容を 筆録 した書籍に 限定 す
る は 、従 来、 国語学に おいて 室 町期 の口 語資 料と して 活 用さ れるこ と が多 く、記載 内 容に ついて
の 研 究 が な さ れ る 機 会 は 乏 し か っ た よ う に 思 わ れ る 。 本 報 告 で は 、 こ の よ う な 現 況 を 鑑 み 、『 玉 塵
抄 』・『 詩 学 大 成 抄 』 に 代 表 さ れ る 、 惟 高 妙 安 一 四 八 〇 ~ 一 五 六 七 の 講 義 内 容 を 筆 録 し た 抄 物 を
対象と して 、 幸若 舞 曲・ 謡 曲・ 平 曲に 代表さ れ る芸 能関連の 記 載に 注目し 、 当該時期の五山僧 の芸
能に対する意識につき考察を試みる。
具 体 的 に は 、惟 高 妙 安 に よ る 抄 物 に は 、幸 若 舞 曲「 百 合 若 大 臣 」・「 烏 帽 子 折 」、謡 曲「 盛 久 」・「 熊
野」などについて 、先行 研究に 漏れた 言及も認められ、これらの概要につき報告する。また、惟高
妙安は、南北朝期の臨済僧、中巌円月が称揚したとされる「呉太伯後裔説 原克昭氏 」に基づき、
平 曲 を 語 る 座 頭 を 『 周 礼 』 の 遺 制 と 解 す る 見 解 に 立 つ こ と 。 更 に 『 玉 塵 抄 』・『 詩 学 大 成 抄 』 に 言
及 さ れ る 『 平 家 物 語 』 関 連 の 記 載は 、 謡 曲の 修 羅 物と 重 なる 傾向 が 高 いこ と 。 ま た 惟高妙 安は 、唐
土の 故事 に 依 拠 し た 「 唐 物」 の 謡 曲に は 言 及 しな いこ と など も 踏まえ 、中 世後期 の 五山 僧の 謡曲 お
よび『平家物語』に対する意識に ついて卑見を 述べたい。
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(
)
『極楽願往生歌』と 院政期の六波羅
奈良女子大学
岡﨑
真紀子
『極 楽願 往生歌』は、康治元年(一一四二)に西念と いう人物がしるした片仮名書き 自筆の和歌
で 、歌 頭 と 歌 末 に い ろは 四 十 七 字 を 置 く 沓冠 歌 に 一 首 を 加え た 四 十八 首 と 序 から なる 。 明 治 三 十 九
年( 一九〇六)に 現京都市東山 区小松町で 、紺紙金泥供養目録と白紙 墨書供養目録、青銅磬の 破片
とと もに出 土した。作者 西念は 、写 経・造仏・布施等の多 くの供養を積んだ末に出 家し、天王寺の
西門 か らの 入 水を 試 み た 後に 、 改 めて 往生の 地と 定 めた 場 所 に 、供養 目録 と 当該 和歌 を 埋 納し たの
だ と い う 。 こ れ は 、 院 政 期 に 盛 行 し た 埋 経 ( 経典 等を 書写 して 土 中に 埋め る 営 為 ) の 一 例と 言え る
が、埋納物に和歌が伴う類例は、他に見出しがたい。そこで本発表では、原本の調査を踏まえ、供
養 目 録 と 和 歌 表 現 を 検 討 し て 、『 極 楽 願 往 生 歌 』 が 生 み 出 さ れ た 背 景 の 一 端 を 考 え る 。
供 養 目 録 お よ び 序 の 記 述 と 、 一 首 一 行 書 き で 沓 冠 字 の 並 び を 料 紙 上 に 表 す 書 記 形 式 か ら 、『 極 楽
願 往生 歌 』の 根底に は 、経典の 一字 一字を仏とみ なす思 想と源を同じ くする 意識 があることがわ か
る。そして 詠作のなかには、閻 魔に思いを訴える 語句や、地蔵菩薩が往生への道を説いたと伝える
歌 ( 今 昔 物 語 集 ) に 通 ず る 語 句 が 見 出 さ れ 、『 地 蔵 十 王 経 』 に 繋 が る 発 想 も 読 み と れ る 。『 極 楽 願
往生歌 』の出 土場所すなわち西念が埋納した所は、六波羅蜜寺の寺域内であった。そこは地蔵信仰
の根ざ した極 楽往生を願う地と して 知られ、当時は平正盛が建て た阿弥陀堂をは じめと する私堂が
集 ま っ て い た 。 法 会 に 際 し て 詠 ま れ た 和 歌 も 存 す る 。『 極 楽 願 往 生 歌 』 の 表 現 は 、 六 波 羅 と い う 場
の も つ 宗 教 的 意 味 合 い と 深 く 結 び つ い て い る の で あ る 。や が て こ の 一 帯 は 、平 家 一 門 の 拠 点 と な り 、
そ の 後 中 世 に 至 る まで 武 家の 政 事 を 司 る 場と して 政治的意味合いを加えて ゆくが、そのころの六波
羅 で 詠 ま れ た 和 歌 は 、 あ ま り 多 く 伝 存 し な い 。『 極 楽 願 往 生 歌 』 は 、 詠 作 さ れ た 同 時 代 の あ り よ う
を映し出して いると 言えるのかもしれない。
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