35 / -u .jp c a . i ki a s ro a c.h c . n um h / / : http 2016 目 次 【論 文】 国際航空旅客動態調査を利用した国際航空旅客市場特性の検討と課題 ……………………………………………………………大 橋 忠 宏 1 付与効果と保有コストの下での中古住宅市場均衡: 地方部における空き家の固定化と政策効果の理論分析………………………飯 島 裕 胤 13 準市場の優劣論と社会福祉基礎構造改革論……………………………………児 山 正 史 25 【翻 訳】 ブリュッセル欧州理事会(2015年10月15,16日)に向けての 連邦首相アンゲラ・メルケル博士のドイツ連邦議会での政府演説 ……………………………………………………………齋 藤 義 彦 43 【研究ノート】 中村廣治のリカード研究…………………………………………………………福 田 進 治 53 【論 文】 国際航空旅客動態調査を利用した 国際航空旅客市場特性の検討と課題 大 橋 忠 宏 要 旨 本研究では、国土交通省による航空旅客動態調査を利用して、日本発着 OD に関する 国際航空市場を対象に、個々の空港や路線の特徴を考慮しうる枠組みの下で、当該市場 特性を応用計量経済学的手法により検討した。推定の結果、係数の一部で符号条件に課 題のあるものの、輸送密度の経済性については統計的に有意な結果が得られた。この結 果は、ICAO の OFOD を利用して日本発着 OD に関する国際航空市場特性を検討した大 橋(2014)とは異なるものである。統計的な検定結果等については本稿の方が良好である が、大橋(2014)と同様に利用データや空港選択行動の考慮等の課題も指摘される。 1 .はじめに 国際航空輸送では、オープンスカイ協定と呼ばれる市場への参入等の自由化が急速に進んでい る。首都圏空港将来像検討調査委員会(2010)によると、全世界でのオープンスカイ協定締結数は 2008年に約500地域間に達しており、市場規模では旅客数の半分以上である。同委員会では、オー プンスカイ推進による LCC(Low Cost Career)の新規参入等が容易となり、運航頻度の増加や運 賃の低下などによる旅客数増加への対応などが課題とされている。 このような動向に関して実証的な先行研究としては、運賃関数を通じたコードシェア拡大や独占 禁止法適用除外が市場に与える影響に関して研究蓄積がなされている(たとえば、Brueckner et al. (2011) 、Brueckner(2003) 、Wharen(2007) 、Bilotkach(2007)、内田他(2013))。伝統的議論で は、コードシェア拡大や独占禁止法適用除外は市場支配力を上昇させるため運賃は上昇する可能性 がある。しかし、上記の先行研究の結果は、コードシェア拡大や独占禁止法適用除外による市場支 配力の上昇による影響より輸送密度の経済性による費用低下効果の方が卓越的である可能性を示唆 している。運賃関数の推定を通じた政策分析以外にも LCC 参入による FSC(Full Service Career) あるいは市場全体への影響に関するものとして、Oliveira and Huse(2009)や Murakami(2011)、 Pels et al.(2009)などの研究がある。ただし、以上で挙げた先行研究では、理論研究で言及される 1 ことの多い輸送密度の経済性 1 などの市場特性に関する明示的な言及はされていない。 以上のように市場環境が変化する中で、日本の空港政策として、羽田や成田等の主要空港の整備 や首都圏や近畿圏での空港機能分担などに関する議論が活発に行われている。空港の機能分担やハ ブ空港に関する議論を行うためには、個々の空港や路線の特徴を考慮しうる枠組みの下で市場特性 を十分に検討した上での分析・評価が不可欠であると考えられる。しかし、日本を中心とする国際 航空市場に関する市場特性の検討などの実証分析の蓄積は十分であるとは言えないと考える。そこ で、大橋(2014)では個々の空港や路線の特徴を考慮した分析を行うために ICAO の OFOD を元に したデータを元に日本発着の国際航空市場を対象に市場特性を検討した。しかしながら、予想以上 にデータ欠損が多いなどの問題もあり、市場特性に関しての十分な検討及び結果は得られていない。 そこで、本研究では、ICAO の OFOD に比して地域等が集約されるなど課題はあるもののデータ 欠損は殆どない国土交通省による国際航空旅客動態調査を利用して、個々の空港や路線の特徴を考 慮しうる枠組みの下で、国際航空旅客市場の特性を応用計量経済学的手法により検討する。 以下、本稿では、大橋(2011a)などを元に国内航空市場に関する枠組みを国際航空市場に拡張 したモデルを使って、日本の国際航空旅客市場の特性を実証的に検討する。具体的には、2 . で大橋 (2011a)を元にした実証モデルについて説明し、3 . でモデルの特定化並びにデータ作成について説 明する。4 . で推定結果を元にして、日本発着 OD の国際航空旅客市場特性について考察し、5 . で研 究結果を総括し今後の課題について説明する。 2 .モデル 航空旅客市場を Brueckner and Spiller(1994)や大橋(2011a)に倣って次のように仮定する。 まず OD ペア毎に航空旅客市場が存在するものとする。各市場に参入する航空会社は同質的な財を 生産しているものとし 2 、各市場は独立であると仮定する。このとき、逆需要関数を次のように定 義する 3。 1 (1) Brueckner and Spiller(1994)では、輸送密度の経済性とは、路線需要の増加に対して追加的費用が低下す る特性として定義される。米国国内航空市場では、規制緩和後にハブ・スポーク・ネットワーク形成が促進され、 寡占化が進行したことが知られている。彼らは、輸送密度の経済性が当該ネットワーク形成の促進と寡占化の 進行をもたらしたと指摘している。日本でも規制緩和後に新規参入の一方で路線再編や JAL・JAS 統合など、 米国との共通点もみられる。 2 現実には、FSC や LCC など同じ市場で同質的ではないサービスが供給される。国際航空旅客市場に関して、 航空会社毎のサービスレベルに関するデータは入手不可であり、本稿では路線毎に平均化して議論する。 3 Brueckner and Spiller(1994)では、需要関数の傾きとして市場毎に異なる bm が設定されているが、本研究で は大橋(2011a)と同様に式(1)のように特定化した。 2 ここで、qm は市場 m での航空需要量とする 4 。逆需要関数の切片 am は以下のように特定化する 5。 (2) ここで、POPPOPm は市場 m の両端の人口の積、FREQj は路線 j の運航頻度 6、ACC_FAREm は日本側 出発地での空港までのアクセスの運賃、ACC_TIMEm は日本側出発地での空港までのアクセス時間 とする。L (m) は与えられた m の旅客が利用する路線からなる集合とする。APREGDum は日本側主 t 要空港ダミー変数及び外国側地域ダミー変数からなるベクトルであり、a-0123 = ( a4, a5, ...) とする。 逆需要関数(式 (1) )の傾き b の符号は負を想定している。次に、逆需要関数の切片(式(2))の符 号について、a1はプラスを想定している。その理由は、市場両端地域の人口積の上昇は、市場の潜 在的規模を表すと考え、当該変数の増加は潜在的需要量を大きくすると考えるからである。a2の符 号については、路線運航頻度は市場の潜在的規模やスケジュールコストに影響を与えるものと考え られるためプラスを想定している。a3の符号については、旅客にとって費用に相当すると考えられ るためマイナスを想定している。 航空会社の費用についても、Brueckner and Spiller(1994)を元に次のように考える。すなわち、 航空会社の費用については、簡単のため運航に係る費用は路線ごとに独立であると仮定する。この とき、ネットワーク全体での運航費用は路線での費用の和として定義される。ただし、航空旅客市 場は路線ごとではなく OD ペア毎に存在するから、市場 m 毎に次のように特定化する。 (3) ここで、αim は航空会社 i、市場 m での限界費用のうち、輸送密度の経済性以外に関する要因(路線 距離や空港特性など)とする。 次に、限界収入 MR は、式(1)から次のように書くことができる。 (4) 先行研究と同様に均衡ではクールノーの寡占競争を仮定すると、限界収入と限界費用が等しいと 4 国内航空旅客市場では代替交通機関の影響が無視できないので、Yamaguchi(2007)、大橋(2011a)、(2011b)、 大橋(2012)では、航空シェアを導入することで代替交通機関の影響を考慮されている。他方、今回は国際航空 旅客市場と対象としており、近距離では船舶との競合があるが、他の代替交通機関の影響は無視できると考える。 5 APREGDum として推定結果に利用しているのは、国際航空旅客動態調査で分類されている20方面(北米西海 岸、北米東海岸、ハワイ、グアム・サイパン、香港・マカオ、台湾、韓国、中国、マレーシア、シンガポール、 タイ、ベトナム、インドネシア、フィリピン、西南アジア、中近東、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカ、中 南米)及び調査でトランジットが考慮される日本の空港(NRT、KIX、NGO)である。 6 式(2)に含まれる路線運航頻度 FREQj は、厳密には qm の関数である。今回はモデル展開およびデータ処理を 簡単化するため、Brueckner and Spiller(1994)と同様に qm とは独立な変数、すなわち、外生変数として扱う。 3 いう以下の式が得られる。 (5) なお、今回は需要に関して航空会社毎のデータは入手できないので、航空会社については市場毎に 平均化して問題を考える。すなわち、両辺に参入企業数 nm を乗じて整理すると、 限界費用の切片 (6) について、式(7)のように特定化する。 (7) t ここで、α-01 = ( α2, α3, ...) とする。ラインホール時間の係数 α1の符号としては、ラインホール時間 の増加は燃料費の増加を意味すると考えられるのでプラスを想定している。 輸送密度の経済性を表現する は、路線需要量を使って次のように特定化する7。 (13) 式(13)は、輸送密度の経済性が卓越している場合 (β1 + 2 β2Qj < 0) には Qj に関して減少関数となる。 他方、混雑効果が卓越している場合 (β1+2 β2Qj > 0)、すなわち、輸送密度の不経済性が働いている 場合)には Qj に関して増加関数となることを想定している。 3 .利用データ 分析での利用データ一覧を表 1 に示す。OD 交通量(qm)は、国土交通省の国際航空旅客動態調査 の年間拡大データの往復の平均を利用する8。具体的には、OD 交通量は出国日本人と外国人から構 7 付録に記載している出国日本人のみを利用した推定では、路線需要の代わりに運航頻度を使って、 と特定化して分析を行っている。理論的には、Brueckner and Spiller(1994)や大橋(2011a)などでも行われ ているように、輸送密度の経済性を表現する場合、路線需要を使って表現するのが正しいが、出国日本人のみ を利用する場合には、路線需要に相当するデータは入手できない。したがって、結果的に路線の運航頻度を代 理変数として利用することにした。 8 日本を起終点とする入手可能な国際航空旅客輸送に関する純流動データとして、国際連合の下部組織である ICAO(International Civil Aviation Organization)が作成する OFOD(On Flight Origin and Destination)と国 土交通省が作成する国際航空旅客動態調査の 2 種類が存在する。ICAO の旅客データとしては OFOD の他に TFS(Traffuc by Flight Stage)が入手可能である。OFOD は発券ベースのトリップデータであり、TFS は路線 の利用者データである。OFODはどちらかと言えば純流動データに相当し、TFSは総流動データに相当する。デー タ作成方針としては ICAO のデータはすぐれているものの、大橋(2014)で議論したようにデータの欠損が非常 に多く、分析に利用するには問題が多い。 4 成される。出国日本人については居住地別出国先別旅客数を元に居住地別出国空港構成と最寄りの 空港の就航路線等を元にしてデータを作成している9。外国人については出国空港別日本国内最終訪 問地別旅客数を元に出国空港別出国直後地構成を利用してデータを作成している10。 路線需要量については、OD 交通量で利用したデータに加えて、成田と中部、関空で得られるト ランジットを加えたものを利用している。 都道府県及び海外方面地域の人口の積(POPPOPm)については、国内出発都道府県の人口(国勢 調査)に外国側起終点の地域の人口であり、World Bank の World Development Indicators(以下、 WDI データ)を基本として次のような計算を行っている。すなわち、北米東海岸 / 西海岸の米国分 及びハワイ州の人口については、内閣官房11の資料を使って WDI データを元に案分している。北米 東海岸 / 西海岸のカナダ分の人口については、Statistics Canada の資料12を利用して案分している。 台湾の人口については中華民国(台湾)外交部の資料13を利用した。ただし、オセアニアに含まれ るフランス領ポリネシア(タヒチ)についてはデータ未入手である。 運賃や運航頻度、所要時間、HHI のデータは、OAG あるいは JTB 時刻表及び OFC タリフシリー ズから作成している。HHI は供給便数に関するハーフィンダール・ハーシュマン指数であり、1/HHI を平均化した市場での参入企業数(nm)として利用している。運賃(pm)には PEX を利用している14。 ラインホール時間(LTIME)は一般に往路(時刻表左欄)と復路(時刻表右欄)では異なるが、簡単 のため、往路で最も運航頻度の多い航空会社の値を利用している。なお、国土交通省データを利用 する場合の集計する場合、HHI や運賃、LTIME のデータとしては、簡単のため便数で重み付けした 平均を採用している。 9 出国日本人について、居住地別出国構成を見ると、居住地ですべての利用者が同じ空港を利用しているわけ ではない。この問題を解決するためには、別途出国空港に関する選択行動をモデル化する必要があるが、今後 の課題としたい。本稿では、最寄りの国際空港での就航路線から各方面への路線が就航していれば、最寄り空 港からの出国と見なし、最寄りの空港に路線が就航していない場合には居住地別出国空港構成で最も利用者の 多い空港から出国したものとしてデータを作成している。 10 外国人について、出国空港別日本国内最終訪問地別旅客数を利用しているが、当該データには「その他」と いう最終訪問地に関する分類不能なものが存在する。 「その他」は全体の 5 % 未満ではあるが小さくはない。さ らに、外国人の OD 交通量データを作成するためには、当該データに出国空港別出国直後地構成を利用して方面 別に振り分ける作業が必要となるが、出国日本人と必ずしも整合的では無いため、集計不可能な箇所が散見さ れる結果となっている。この問題についても、出国日本人の場合の問題と同様に空港選択行動をモデル化する 必要があるが、今後の課題としたい。 11 www.cas.go.jp/jp/seisaku/doushuu/kuwari/dai6/siryou3.pdf(2014年 9 月参照) 12 www.statcan.go.jp/tables_tableaux/sum_som/l01/cts01/demo02a_eng.htm(2014年 9 月参照) 13 www.roc-taiwan.org/ct.asp?xltem=149546&ctNode=3591&mp=202(2014年 9 月参照) 14 運賃データとしては、PEX 以外にも各種割引運賃が利用可能である。しかし、推定してみたところ、割引運 賃を利用した結果についてはPEX運賃に比べて統計的に有意では無い。さらに、本来は特定の割引運賃ではなく、 さまざまな運賃から合成される実勢運賃を採用すべきであろうと考えられるが、実勢運賃は入手不可能である。 5 表 1 利用データ一覧 変数 データ出所 OD 交通量(人) 国際航空旅客動態調査(出国日本人/外国人)15 路線需要量(人) 国際航空旅客動態調査(出国日本人/外国人/トランジット) 都道府県人口(人) 国勢調査 海外人口(人) World Bank : World Development Indicators 運航頻度(便 / 週) OAG/JTB 時刻表 所要時間(分) OAG/JTB 時刻表 運賃(円) OFC タリフシリーズ 地域・空港ダミー 当該地域 / 空港なら 1 、それ以外 0 の値をとる。 4 .推定結果 式(1) 、 (6)を三段階最小二乗法により推定した結果を表 2 に示す。 4 種類の推定結果を掲載し ているが、これらは符号条件をある程度満たしたもので輸送密度の経済性の有無について段階的に 当該経済性に関する項が変化したものである。 式(1)の推定結果を見ると、需要関数の傾き(OD 交通量の係数)b の符号は想定通りマイナスで あり、統計的には 1 % 未満で有意である。人口積の係数の符号は PEX1 以外では想定通りではなく、 統計的にも有意ではない。これは、出国日本人のみを OD 交通量とする場合の推定結果として付録 に掲載している結果とは異なるものである。一つの理由としては、外国人の OD 交通量のデータ作 成の際に、利用データの説明で述べたように分類不能な箇所があり、データの精度を落としている ことが考えられる。この件については更なる精査が必要となるが、今後の課題としたい。アクセス 時間及びラインホール時間の係数については想定通り符号は負であり、統計的には 5 % 未満で有意 である。乗換回数については PEX1 でのみ考慮している。乗換回数は、実質的な経由地の増加及び 所要時間の増加を意味すると考えられるため、想定ではマイナスを考えていた。しかしながら、推 定結果を見ると係数の符号はプラスであり、統計的には 1 % 未満で有意である。この意味として は、多少強引ではあるが、一般に乗換回数が多いほど日本から遠いことを意味し、日本と異なる魅 力が高くなるため需要を増加させる効果をもたらすと解釈される。NRT ダミー変数については、 関東地方以外の成田空港利用者は基本的には羽田あるいは成田での乗り継ぎを必要とする利用者で あり、直行便に比べて多くの費用を必要とするため需要にはマイナスの効果が期待される。推定の 結果、NRT ダミー変数の係数は想定通りマイナスであり、統計的には 1 % 未満で有意である。方 面別ダミー変数については、韓国を基準として他の19方面について考慮して推定しているが、すべ 15 出国日本人と外国人とでは、統一した概念でデータ作成されていない。そこで、参考として付録に出国日本 人のみを OD 交通量とする場合の推定結果を掲載している。 6 表 2 国土交通省データ(出国日本人+最終訪問地別外国人+トランジット)を利用した推定結果 7 ての方面でプラスであり、かつ統計的には 1 % 未満で有意である。 式(6)の推定結果について見ていく。限界費用関数の構成要素の内、輸送密度の経済性に関連し ない係数( )について見よう。所要時間の係数の符号はプラスを想定していたが、想定とは異 なってマイナスとなった。ただし、統計的には 1 % 未満で有意である。地域ダミーの係数について は、韓国を基準として19方面について考慮している。各係数の符号はプラスであり、統計的には 1 % 未満で有意である。限界費用関数の構成要素について、路線により変化する要因として LTIMEm を考慮し、空港要因として空港ダミー変数及び海外方面別の地域ダミー変数を考慮してい たが、特に路線により変化する要因については想定通りの結果となっておらず今後の再検討が必要 である。 次に輸送密度の経済性に関する要素について見ていこう。PEX1, 2 は輸送密度の経済性の二次の 項まで考慮したものであるが、符号は同じではあるものの係数の大きさは異なる。さらに、PEX2 では輸送密度の経済性の係数は統計的に 5 % 未満で有意であるが、PEX1 では統計的には有意では 無い。ここで、PEX2 の推定結果によれば、β1 + 2β2Qj < 0 なら当該路線では輸送密度の経済性が卓 越的であると解釈され、β1 + 2β2Qj > 0 なら輸送密度の不経済が卓越的であると解釈できる。計算の 結果、方面毎に多くの路線集約を行っている地域もあるので解釈は難しいものの(集約した)路線 の路線需要が年間35.2万人より少ない場合には輸送密度の経済、それ以外は輸送密度の不経済が働 いていることになる。PEX3 は輸送密度の経済性の一次の項のみ考慮しているが、路線需要の係数 はマイナスで統計的には 1 % 未満で有意である。すなわち、路線需要の増加は限界費用を低下させ るということが言える。ただし、モデルの特定化によって輸送密度の経済性が統計的に有意な場合 もあれば有意では無い場合もあるため、モデル選択についての検討が今後は必要となる。 5 .おわりに 本稿では、日本発着 OD を対象に国際航空旅客市場において、従来から指摘されることの多い輸 送密度の経済性等を明示的に考慮しうる枠組みの下で需要関数と供給関数の同時推定を行い、市場 特性について検討した。推定の結果、日本発着の国際航空市場において輸送密度の経済性は統計的 に有意であることが確認された。 ただし、分析には、幾つかの問題が残されている。 一つは、利用データ及びモデルに関するものである。前述のように OD 交通量のデータ作成の際 に、データ制約の問題に依存するが空港選択行動はモデル化していない。そのため、ある特定の地 域からの旅行者の空港選択についてはall-or-nothingであることを仮定してデータ作成と分析を行っ ている。しかしながら、実際には、同じ方面であっても複数の空港から出発している可能性が高い ことは否定できない。さらに、外国人についてはモデルの前提としては出発国とのラウンドトリッ プを前提としているが、国際航空旅客動態調査によると複数の訪問地を周遊している場合が多いこ 8 とは明らかである。したがって、今後の課題としては、実証分析にこだわるのであればトリップに 関する意思決定の各段階をより丁寧にモデル化して議論することが必要となると考えられる。ある いは、より経済理論を元にしたモデル開発を行うことで、データを代替できるようなモデル拡張を 行い、検証するようなことも考えられる。 この他にも、大橋(2014)で述べたように、運賃データについても議論の余地が残されている。 上述したように運賃については実勢運賃が入手できなかったため、PEX 運賃を利用したが、入手 可能なデータとしては PEX 以外にも各種割引運賃が入手可能である。ただし、大橋(2014)での分 析ではある特定の割引運賃を利用したとしてもモデルの当てはまりは PEX 運賃を利用した場合の 方が良好であることが示されている。今後の詳細な政策分析につなげるためには実勢運賃の入手が 必要であると言えよう。 さらに、今回の分析では輸送密度の経済性の存在についての検討を一つの目標にしていたが、国 際航空旅客動態調査は都道府県別・20方面別に集計されたデータであり、今回の枠組みで輸送密度 の経済性が議論できたかどうかについては問題がある。 二つ目は関数の特定化及びモデル選択についてである。今回の分析では Brueckner and Spiller (1994)や大橋(2011a)などに倣って線形の関数に特定化したが、関数が線形の場合には、どうし ても運賃や需要量を再現した際にマイナスになる可能性がある。政策効果を定量的に評価するため には、この点についても改善する必要がある。 以上のような問題はあるものが、これまで殆ど実証的に議論されてこなかった日本発着の国際航 空旅客市場について一定の成果を提示できたと考えられる。 謝辞:本研究は、JSPS 科研費24530288を受けている。本稿は応用地域学会2014年大会での発表を 元にデータを追加作成して更新して再推定を行ったものである。応用地域学会2014大会では、川崎 晃央氏(鹿児島大学) 、内藤徹氏(徳島大学)から統計データや利用変数について有益なコメントを いただいた。2014年度地域分析研究会では、安藤朝夫先生(東北大学)、宅間文夫氏(明海大学)か らはモデルや推定結果、今後の方針に関する助言をいただいた。ここに記して感謝の意を表するも のである。なお、本稿に関するあらゆる誤りや責任は筆者に帰属するものである。 付録:出国日本人のみを利用した場合の推定結果 国土交通省国際航空旅客動態調査データについて、前述したように、出国日本人と外国人の OD 交通量に関するデータは必ずしも整合的では無い。そこで、出国日本人のみを OD 交通量とする場 合についても、式(1) 、 (6)を三段階最小二乗法により推定した。推定結果を付表に示す。 式(1)の推定結果を見ると、需要関数の傾きの符号は想定通りマイナスであり、 1 % 未満で有意 である。人口積(POPPOPm)の係数について、符号は想定通りプラスであり、 1 % 未満で有意で ある。アクセス時間と所要時間の和の係数については、符号は想定通りマイナスであり、 1 % 未満 9 で有意である。運航頻度の係数については、符号は想定通りプラスであり、 1 % 未満で有意であ る。空港ダミー変数としては多方面へ国際線を展開する成田と関空を導入し、それぞれの係数はマ イナスで統計的には 1 % 未満で有意である。当該ダミー変数については、乗り継ぎに伴うコストや 空港施設使用料などの存在が考えられるためマイナスになったと考えられる。地域ダミーについて は、中南米以外の全地域について導入し、統計的にはすべての係数について 1 % 未満あるいは 5 % 未満で有意である。当該ダミー変数は POPPOPm 以外の地域特性に違いがあることを示していると 考えられる。 次に、式(6)の推定結果を見ていく。限界費用関数の構成要素の内、輸送密度の経済性以外の係 数について、4. の推定結果と同様に、所要時間の係数の符号は想定と異なるマイナスとなった。た だし、統計的には 1 % 未満で有意である。地域ダミーの係数については、PEX3 のアフリカダミー 変数以外では 5 % 未満で有意である。限界費用関数の構成要素について、路線により変化する要因 として LTIMEm を考慮したが、想定通りの結果となっておらず今後の再検討が必要である。 次に輸送密度の経済性について、PEX2, 3 の推定結果を見よう。PEX2 は輸送密度の経済性の可 能性のみ考慮した結果であり、PEX3 は輸送密度の経済性及び不経済性の可能性を考慮した結果で ある。輸送密度の経済性 / 不経済性に関する係数は運航頻度の係数 β1及び運航頻度の二乗の係数 β2 であり、それぞれ統計的には 1 % 未満で有意である。PEX2 の結果についてみると、β1の符号はマ イナスであり日本発着の国際航空旅客市場では輸送密度の経済性が統計的に有意に働いていると解 釈することができる。次に、PEX3 の推定結果については、β1 + 2 β2 FREQj < 0 なら当該路線では輸 送密度の経済性が卓越的であると解釈され、β1 + 2 β2FREQj > 0 なら輸送密度の不経済が卓越的であ ると解釈できる。計算の結果、方面毎に多くの路線集約を行っている地域もあるので解釈は難しい ものの(集約した)路線の運航頻度が週151.2便より少ない場合には輸送密度の経済、それ以外は輸 送密度の不経済が働いていることになる。ここで、週151.2便より多いのは、成田-北米東海岸、 成田-中国、成田-韓国、関空-中国の路線であり複数路線を集計した地域間である。 10 付表 国土交通省データ(出国日本人)を利用した推定結果 ※推定には EViews 7を利用している。 11 参考文献 Bilotkach, V.: Price effects of airline consolidation: evidence from a sample of transatlantic markets, Empirical Economics, Vol. 33, pp. 427– 448, 2007. 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Yamaguchi, K.: Inter-regional air transport accessibility and macro-economic performance in Japan, Transportation Research Part E, Vol. 43, pp. 247–258, 2007. 12 【論 文】 付与効果と保有コストの下での中古住宅市場均衡: 地方部における空き家の固定化と政策効果の理論分析* 飯 島 裕 胤 1 .問題意識 総務省の「平成25年 住宅・土地統計調査」によれば、日本の総住宅数は6063万戸、総世帯数は 5246万世帯となっている。総住宅数が総世帯数を上回っており、空き家率は平成10年に初めて 1 割 を超えて11.5%となった後、平成25年には13.5%と過去最高となっている。日本は急激な人口減少 と少子高齢化のただ中にあり、出生数が死亡数よりも圧倒的に少ないため、空き家は構造的に増加 する傾向にある1。 しかし、空き家は、なぜ空き家なのだろうか。通常の経済理論が想定する、需給が価格下落によ り調整され住宅として利用されるシナリオは、なぜ描けないのだろうか。物理的には住宅として十 分使えるにも関わらず、何が障害で空き家は固定化してゆくのだろうか。 本稿は、まず、空き家が固定化する原因を理論的に明らかにする。中古住宅所有者と需要者(の 少なくとも一部)に典型的な思考をモデルに落とし込むことで、価格が下落して需給が調整される メカニズムが作用しない現象を導く。そして、このような固定化空き家のモデルに基づいて厚生分 析、すなわち金銭的補助政策の効果の理解を行う。 空き家は、住宅の「失業」とみなすことができる。よって、たとえばサーチ理論を援用すること で摩擦的な空き家、つまり需給調整を待っているタイプの空き家の存在は理解できる2。ただしこれ は都市部の空き家の分析に適用されるべきであり、地方部の、つまり調整される見込みがない中で 存在・発生する空き家には、別のモデルが用意されるべきである。本稿は単純な需給分析ながら、 住宅に対する付与効果と保有コストを仮定することで、恒常的な超過供給現象を理解する。 さらに本稿では、非金銭的補助政策、具体的には「空き家バンク」 「空き家の住民利用」といっ た地域創意型の需要喚起策を理解する。両者について簡単な解説(ここで著者が行ったインタ * 本稿は、青森県西北地域県民局による委託研究(題目は「住民参加型の空き家可視化方法の検討及び事例調査」 である)の成果の一部である。本研究のきっかけを作り、多大な支援を頂いた青森県西北地域県民局にお礼を 申し上げる。 1 とくに今後の地方部においては、空き家の発生地域を一括再開発すれば(過去の都市部がそうであったように) 高層住宅・オフィスになることなどは、全く見込むことはできないであろう。 2 サーチ理論については、たとえば 今井他(2007)を参照。 13 ビュー調査結果の一部にも触れる)をした後、これらの政策の成否は、所有者の付与効果への働き かけと、保有コストを凌駕する需要喚起の成否にかかっており、両者の相乗効果がその効果を高め ることを明らかにする。 近年、 「空き家バンク」を中心に、空き家政策に関する研究が盛んである。(地域活性化センター (2010) 、斉藤(2011) 、周藤(2014) 、清水(2014)など。)しかし、空き家固定化に対する理解を 基礎としていないので、政策の成否に関する見通しが晴れない 3。本稿の分析は、付与効果や住宅保 有コストが需給に与える影響を考察することで、空き家政策に対する見通しを打ち出す。 本章の構成は以下の通りである。第 2 節で付与効果と保有コストのあるモデルを提示し、空き家 の固定化について論じる。その上で、金銭的補助政策に関する厚生分析を行う。第 3 節では、非金 銭的補助政策である「空き家バンク」 「空き家の住民利用」について、簡単な解説を行った後に、 前節の分析にもとづいた考察を行う。最後に、第 4 節で結論を述べる。 2 .モデル、空き家の固定化、金銭的補助政策 以下の図 1 は、 (中古)住宅に関する需給曲線である 4。これは、分析対象とする住宅群の「需要 (図の D, D’) 」と「供給(図の S, S’) 」を、それぞれ表している。また、需給曲線の交点は「均衡 点」であり、ある社会環境において長期的に落ち着くであろう住宅価格と住宅取引の成立状況を表 している。図の D と S は当初の需要と供給を表し、D’ と S’ が今後起こるであろう人口減少後の需要 と供給を表している。 図 1 (中古)住宅に対する需給曲線と均衡点 3 ただし、先行研究は住宅政策上の広範かつ細部にわたる工夫が良く示されており有用である。 4 本稿の分析対象は空き家であるから、ここでは専ら中古住宅について言及している。以下単に住宅とよぶが、 中古住宅を指している。 14 この図の需要・供給曲線は、通常の需給分析で想定されるものとは異なる形状をしている。これ らは、地方部の中古住宅という、本稿が主に想定している特性を反映したものである。この特徴的 な形状が、固定化する空き家(価格の下落で調整されることのない空き家)を説明する。 ここには次の 4 つの特徴がある。第 1 に、供給曲線が「垂直」である。今後の地方部の中古住宅 の場合、住宅価格の値上がりによる売却益目的で転居することは考えにい。むしろ供給は住宅価格 によらず居住者が入院・死去することで発生する。垂直の供給曲線は、価格に関係なく供給量が決 まる状況を表している。なお、原点と垂線の間の「横幅」は中古住宅の存在量を表し、これと需要 の差は「空き家」を表している。 第 2 に、供給曲線が屈曲している。これは行動経済学が示す「付与効果(endowment effect)」 を表している。住宅所有者はその住宅に対する「思い入れ」が強く、また「片付けの労力(場合に よって更地化コスト等を含む) 」が存在することもあって、一定水準以下の安価な状態では、供給 をやめしまう。空き家について所有者や付近の住民に聞き取りを行うと、親の死去により住宅を相 続したが、親と過ごした住宅に対する思い入れや、家財や書類などの片付けの面倒さから放置して いる事例は、かなり広範にみられる。 (そしてこれらがいずれ「危険空き家」になるのである。)屈 曲した供給曲線は、所有者のこのような思考・状況を反映している。 第 3 に、需要曲線が横軸を「突き抜けて」いる。通常の需要曲線は、選好の「非飽和性」から、 価格がある程度下がると(少なくともゼロ近傍において) 「水平」になるとされる。通常の財サー ビスであれば、価格が非常に安ければ買っておいて損はないと多くの消費者が考えるからである。 しかし住宅の場合、固定資産税や維持・管理の労力などの「保有コスト」が大きいから、価格が安 くても、さらには負でも買おうとしない事態(迷惑財化、負の需要者価値)が多く発生しうる。と くに今後の地方部では、このような事態が多くみられるものと考えられる。突き抜けた需要曲線は 「保有コスト」の存在とそれに起因する潜在的需要者の行動を表している 5。 第 4 は、外部不経済による需要曲線の「シフト」についてである。多数の空き家の存在は、周辺 景観・環境を顕著に悪化させる。すると、当該地域の住宅需要はさらに低下する。この現象は、空 き家が多数発生すると需要曲線が「左」シフトするものとして描かれる。 A 空き家の固定化 上記の需給曲線は空き家の固定化、つまり価格の下落によって需給が調整されない現象を説明す る。図 2 に改めて示すように、空き家が発生しているにも関わらず、住宅に対する供給者(所有 者)の価値が需要者の価値をつねに上回り、空き家が使われる見込みがない。 5 すべての住宅のすべての需要者にとって価値が負になるという意味ではない。固定化する空き家の場合につ いて述べている。 15 図 2 なぜ空き家は「空き家」なのか 問題の原因は、①供給曲線が「屈曲」して価格下落の余地がないこと、②選好の非飽和性が満た されず価格が下落してもなかなか需要量が増えないことにある。いいかえると、所有者の「付与効 果」 (当該住宅に対する思い入れなど)や、潜在的需要者にとっての「保有コスト」(さらにそれに 起因する需要者行動)が問題の原因である。 命題 1 ①住宅保有者に「付与効果」があり、供給曲線が「屈曲」して価格下落の余地がない、 ②需要者が「保有コスト」を考慮するために需要曲線が価格の下落に対してあまり需要量が増えな い形状をしているとき、価格の下落によって需給が調整されず、空き家が固定化しうる。 このような固定化した空き家に対する政策の成否は、A) 「付与効果」への働きかけが十分効果的 か、B) 「保有コスト」を凌駕する需要の創出がなされるかどうかにかかっている。 B 金銭的補助政策:厚生分析 以上の枠組みを使って厚生分析を行う。金銭的補助(助成)を需要者ないし供給者に実施した場 合、その効果が補助のコストを上回るかどうかが、ここでの焦点である。 分析は次の 3 パターンに分けて進める。すなわち、(1)摩擦的空き家を対象に補助政策を行った 場合、 (2)固定的空き家を対象とし、需要者に向けて補助政策を行った場合、 (3)同じく固定的空 き家を対象とし、供給者に向けて補助政策を行った場合である6。 まず第 1 のケースである。取引にともなって一時的に空き家であるものの、需給は一致してお 6 第 1 のケースは、需要者・供給者いずれに向けて補助政策を行っても同じ効果である。 16 り、時間が経てば確実に空き家が解消するケースである。このケースを図 3 に示した。 (図 3 は需 要者向けの金銭的補助政策を表している。 ) 図 3 摩擦的(一時的)空き家に対する政策の効果 このような摩擦的空き家に対する補助政策は、住宅価格を変化させることはあっても、空き家数 には変化を与えない。ゆえに外部不経済の緩和もない。これは、需要者向け、供給者向け、いずれ の金銭的補助政策でも同じである。そして、補助対象(図 3 では需要者)の余剰を引き上げるが、 その引き上げ幅は補助コストと同額である。つまり、補助対象への所得移転に過ぎないことがわか る。 命題 2 摩擦的空き家を対象とした金銭的補助政策は、所得移転に過ぎない。補助のコストを上 回って補助対象の余剰が増加することはない。 次に、第 2 のケースである。固定化空き家、つまり、住宅の供給者に対して需要者が少ないが価 格は下落せず、機能上は使えるにも関わらず長期にわたって使われない住宅を考える。このような 空き家を対象に需要者向けの金銭的補助政策を行うと、図 4 で確認できるように、空き家数を減少 させることができる。 17 図 4 固定化空き家に対する政策の効果:需要者向け金銭的補助政策 需要が喚起され、均衡点は A から B に移る。また、このとき空き家数が減少するから、景観・環 境悪化の外部不経済もおさえられ、結果的に均衡点は C に移る。 ただし厚生効果(改善・悪化)は両方の可能性がある。需要者の余剰は必ず拡大するが、もし外 部不経済の緩和効果(点 B から C への移行)がなければ、厚生はむしろ悪化する。外部不経済緩和 による需要者余剰の追加的拡大効果が十分大きいときに限って厚生が改善する。 命題 3 固定化空き家を対象とした需要者向けの金銭的補助政策が厚生を改善するかどうかは、外 部不経済緩和による需要者余剰の追加的拡大効果の大きさに依存する。追加拡大効果がなければ、 厚生はむしろ悪化する。一方、追加拡大効果が十分大きいならば厚生は改善する。この場合は金銭 的補助政策が経済学的に正当化される。 最後に、第 3 のケースである。住宅の供給者(所有者)の一部に向けて住宅提供に対する補助を 与える政策である。これは図 5 に描かれている。この政策も空き家数を減少させうるし、外部不経 済緩和による需要者余剰の追加的拡大効果が十分に大きいときには、厚生が改善する。 18 図5 固定化空き家に対する政策の効果:供給者向け金銭的補助政策 命題 4 固定化空き家を対象とした供給者向けの金銭的補助政策が厚生を改善するかどうかは、外 部不経済緩和による需要者余剰の追加的拡大効果の大きさに依存する。追加拡大効果がなければ、 厚生はむしろ悪化する。一方、追加拡大効果が十分大きいならば厚生は改善する。この場合は金銭 的補助政策が経済学的に正当化される。 以上をまとめると、空き家に対する金銭的補助政策がプラスの効果をもつのは、固定化空き家に 対してのみである。しかも、外部不経済緩和の効果が十分大きいときに限られる。 次節で非金銭的補助政策を考察するが、いずれにしても、空き家数の減少がすなわち厚生改善で はない(コストに見合わないことがあるからである)ことには注意が必要である。 3 .非金銭的補助政策 金銭的な需要・供給の補助政策の他に、情報発信や新用途の掘り起こし等の需要・供給の拡大策 がある。次にこのような政策のうち「空き家バンク」 「空き家の住民利用」について議論する7。 A 空き家バンク 空き家バンクは、空き家の売却・賃貸情報を、インターネットを活用して広く周知するしくみで 7 他に、公営住宅や留学生住宅としての利用などがある。なお、 「空き家バンク」 「空き家の住民利用」には一部 金銭的補助が含まれる場合がある。とくに前者において移住奨励金の支給などがある。ここでの(非)金銭的補 助政策の定義は、政策と補助金額が完全に一致している(完全には一致していない)ものとする。 19 ある。ホームページ上に情報をストックし、空き家を一覧できるようにすることから、 「バンク」 と名付けられている。情報通信技術の普及により、遠隔地居住者にも簡単に空き家情報を提供でき るようになった。 移住を想定することが多いが、同じしくみの中に、商業利用(店舗、宿泊施設等)も含めること も可能である。 なお、移住を促すために、 「 (周辺)地域情報の発信」、「移住希望者に対する現地案内」、「職業紹 介」 、 「奨励金の付与」のいくつかを付加することが多い。多数ある移住先の中から当該地域を選ん でもらうためには、努力と工夫が必要である。 空き家バンクが期待する効果と考えられるコストを簡単に整理しておく。 まず効果だが、若い住民が増加し、地域の担い手になることがある。また、ひいては税の担い手 になることも期待する。付加的には、空き家バンクを運営し情報発信作業をすることで発信者自身 が地域の魅力を再発見するという効果も考えられている。 コストは、まず改築・改装費が挙げられる。住居・店舗として利用するためには、水回りと内装 の大幅な改装が必要とされることが多く、さらに耐震補強が必要な場合もありうる。また、移住促 進のための奨励金は自治体の負担になる。移住者からの将来税収がそれ以上になるとは限らない。 加えて奨励金に頼った移住促進は自治体間競争も招きやすく、注意が必要である 8。さらに、人的コ ストとして大きいのが、空き家紹介・斡旋の労力である。移住促進を目指す場合、その仕事量を考 えると専従職員を置くことも検討せねばならない 9。最後に、新旧住民のトラブルも想定せねばな らない。人が接する限り「揉め事」はつきものだが、「よそ者」との軋轢はこじれやすい。 空き家バンクは、金銭的補助により需要をその分引き上げる政策ではない。改装・改築費の補助 や奨励金等を支出するものの、情報発信や移住者間の相乗効果を通じて、支出以上に需要を引き上 げることを期待する施策である。 (ただし、逆に、費用の割にほとんど効果がない事態も起こりう る。 )潜在的移住者に対して需要をどれだけ追加的に高められるか(あるいは高められないか)が ポイントである。 B 空き家の住民利用 空き家の住民利用は、利用可能空き家を(売却・賃貸がつくまでの期間) 、住民が少額で利用す るものである。趣味の場に使うのもよいし、団欒の場でもよい。希望があれば店舗・宿泊施設とし てもよく、さまざまな使い方がある。そして、利用と同時に住宅の維持・管理(換気・通水など) や点検(外観、室内)を、安価に(ほぼ無料で)行うしくみである。 8 現に一部地域で自治体間競争が始まっていると、「空き家バンク」の成約件数が多い地域でのインタビューで 伺った。 9 移住促進のための働きかけは行わない、というスタンスもありうる。次項「空き家の住民利用」において実 例を述べる。 20 未利用資産である空き家を住民が使おうという理念は、海外の先行事例「空き家仲介団体・ハウ スハルテン」 (ドイツ、ライプチヒ)で次のようにうたわれている。「本来、空間は使われることで 初めて価値を持つ」 。そして利用を通じて、たとえば雨漏りや害虫・害獣の早期発見など、住宅の 維持に大きく役立つ作業を安価に行う。 国内の先行事例には、 「松島みんなの家」 (青森県五所川原市)や「尾道空き家再生プロジェク ト」 (広島県尾道市)がある。前者は、周辺住民が少額の利用料の下で空き家を利用するしくみで ある。ここでは簡単なゲームなどを実施しているが、 1 か月あたりのべ60~80名の利用者がいる。 後者は、尾道市中心市街地の(主に特徴的な)空き家を自らの手で再生して利用することを目的と した事業である。よって改装・改築(その前の片付けも含む)は自分たちで実施し(DIY 方式)、 これを楽しみにしている10。 このしくみが期待する効果は、住民の満足・価値を向上させることにより地域の魅力を高めるこ とである。尾道市の事例では、それによって空き家バンクの移住促進にも寄与している11。 一方で次のようなコストが考えられる。まず、利用するためには、片付けや家具の移動をしなけ ればならない。多くの労力を必要とする。また、改装・改築が必要な場合がある。(ただし、尾道 空き家再生プロジェクトの場合、 「楽しみ」として実施しているようである。)さらに、利用にとも なって電気・水道代が(基本料金も含めて)必要であるし、清掃もしなければならない。最後に、 破損・汚損のトラブルは、たとえ故意でなくても発生する。 C 非金銭的補助政策 「空き家バンク」 「空き家の住民利用」ともに対象とするのは固定化空き家である。(摩擦的空き 家を対象にして、単なる所得移転を目的にするとは考えにくいからである。)前節での固定的空き 家に関する理論的な理解が有用である。 先に命題 1 として、①住宅所有者に「付与効果」があり、供給曲線が「屈曲」して価格下落の余 地がない、②需要者が「保有コスト」を考慮するために、需要曲線が価格の下落に対してあまり需 要量が増えない形状をしているとき、空き家の固定化がみられうることを示した。この命題を演繹 すると、固定化する空き家が使われるためには、A)供給曲線がより下方にシフトして価格下落余 10 空き家活用で最もよく成功していると思われる事例として、同プロジェクトの「あなごのねどこ」を紹介する。 これは、自らの手で再生した空き家を、カフェ併設の宿泊施設にした事例である。懐古的な内装や、夜間に宿 泊者同士が談話する空間をもち、月間平均して数百人の宿泊者が訪れる(管理者への聞き取り調査にもとづく。 事実、調査時も若者を中心に、ひっきりなしに宿泊手続きに訪れていた)。その理由は多々あると思われるが、 根本的に重要な一つが、破格に安価な宿泊料であろう。全国的な大手格安チェーン・ホテルの半額程度であり、 空き家という安価な未利用資産を上手に活用した仕組みである。 11 尾道空き家再生プロジェクトの評判が確立した尾道市は、現在、移住促進のための働きかけはとくに行わず、 移住を希望してきた人に情報提供と手助けを行うというスタンスをとっている。尾道市役所の担当者によると、 以前は市役所が働きかけをしても希望者が少なかったとのことである。 21 地をもつこと、B)需要曲線が価格の下落に対して需要量が増加するようになることが必要である。 この観点から、「尾道空き家再生プロジェクト」を例にして、政策効果を読み解いてみよう。こ こではまず、価値ある空き家を安価に再生するという理念、そして実際に利用することで、 「保有 コスト」を凌駕する需要の創出がなされた。そして、この評判から尾道への移住が喚起されるとと もに、住宅保有者の「付与効果」が緩和され、空き家の提供希望者が増加するというプロセスをた どっている。 図 6 は以上のプロセスを需給曲線内に落とし込んだものである。両者の相乗効果は、政策の効果 を高めることが分かる12。 図 6 固定化空き家の利用プロセス このように、地方部における固定化空き家が使われるためには、 「保有コスト」を凌駕する需要 の創出がなされ、また保有者の「付与効果」が緩和されるという 2 条件のうちの少なくとも一方、 可能なら両方が満たされる必要がある。需要側、供給側双方に存在するボトルネックを解消できた 地域のみが、固定化空き家の「罠」からのがれることができる。 4 .結論 本稿では、住宅に対する「付与効果」と「保有コスト」を想定して、空き家が固定化する原因を 12 「空き家バンク」 でも同様のプロセスがみられる。域外住民の移住に成功して空き家に新価値を生み出すことの できた地域では、空き家の提供件数も多くなる。対して価値を生み出せない地域では、空き家バンクに空き家 が集まらない。開設したものの物件が集まらずに事実上「開店休業」のバンクも数多い。 22 理論的に明らかにした。①住宅保有者に「付与効果」があり、供給曲線が「屈曲」して価格下落の 余地がない、②需要者が「保有コスト」を考慮するために需要曲線が価格の下落に対してあまり需 要量が増えない形状をしているとき、価格の下落によって需給が調整されず、空き家が固定化しう ることを示した。 また、この固定化空き家のモデルに基づいて厚生分析、すなわち金銭的補助政策の効果の分析を 行った。まず、摩擦的空き家を対象とした金銭的補助政策は、所得移転に過ぎないことを示した。 次に、固定化空き家を対象とした金銭的補助政策が厚生を改善するかどうかは、外部不経済緩和に よる需要者余剰の追加的拡大効果の大きさに依存することを示した。 そして、 「空き家バンク」 「空き家の住民利用」などの非金銭的空き家政策を通じて地方部におけ る固定化空き家が使われるためには、 「保有コスト」を凌駕する需要の創出がなされ、また保有者 の「付与効果」が緩和されるという 2 条件のうちの少なくとも一方、可能なら両方が満たされる必 要があることを指摘した。 (両方が満たされれば相乗効果も発生する。)需要側、供給側双方に存在 するボトルネックを解消できた地域のみが、固定化空き家の「罠」からのがれることができる。 参考文献 浅見泰司編(2014) 『都市の空閑地・空き家を考える』プログレス 飯島裕胤、曽我亨編(2015)『住民参加型空き家可視化方法の検討及び事例調査 成果報告書』弘前大学地域未 来創生センター 伊藤雅春他編(2011) 『都市計画とまちづくりがわかる本』彰国社 今井亮一他(2007) 『サーチ理論:分権的取引の経済学』東京大学出版会 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では、利用者やその近親者が供給者を選択する型(利用者選択型)を指すことが多い。(児山 2004) イギリスでは、1990年代には、準市場の評価の基準や成功の条件を示した上で、それらに照らし て現実の準市場を評価・分析する研究が行われていた(Le Grand and Bartlett eds. 1993など)。ところが、 2000年以降になると、準市場の代表的な研究者であるルグラン(Julian Le Grand)が、公共サー ビスを供給する他の方式と比較して、準市場(利用者選択型、以下同じ)が優れていると主張する ようになった。この主張は日本でも注目を集め、2000年以降のルグランの著書が翻訳されている (Le Grand 2003, 2007)。 しかし、準市場の優位というルグランの主張は、理論的にも実証的にも論証されておらず、準市 場の優劣に関する研究は多くの課題を残していた(児山 2011a)。また、日本とイギリスの学校選択 の事例に基づいてこの主張を検討した研究でも、明確な結論は出なかった(児山 2011b-2015)。 ところで、日本では、2000年前後に、保育、介護、障害者福祉において、利用者が供給者を選択 25 する制度が相次いで導入された。従来は、市町村が、保育に欠ける児童を保育所に入所させる措置 をとること、要介護高齢者や障害者に対して居宅サービスの提供や施設への入所の措置をとること 「措置」という言葉が用いられていたことから、「措置制 などが規定されていた( 1 )。この制度は、 度」と呼ばれる。これに対して、1997年 6 月の児童福祉法の改正(1998年 4 月施行)、1997年12月 の介護保険法の成立(2000年 4 月施行) 、2000年 5 月の身体障害者福祉法と知的障害者福祉法の改 正(2003年 4 月施行)により、児童の保護者が入所を希望する保育所を市町村に申し込む制度、要 介護高齢者がサービスを受ける事業者を自ら選定する制度、障害者が支援を受ける事業者・施設に 利用・入所の申し込みを行う制度が導入された( 2 )。本稿では、これらの制度を「選択制」と総称 する( 3 )。 日本の社会福祉の選択制については、導入時に活発な議論が行われ、また、導入から15年前後が 経過して、その効果・影響に関する実証的な調査・研究も蓄積されてきた。このような議論や調 査・研究は、準市場の優劣論を検討するための豊富な材料を提供しているが、これらを用いてルグ ランの主張を検討した研究は見られない。日本の社会福祉の選択制については、ルグランの1990年 代の研究と同様の枠組を用いて、制度や実態を評価・分析した研究があり(佐橋 2006、李 2015)、ま た、介護に関しては、介護保険制度の導入の目的に照らして、2009年までに発表された実証的な調 査・研究の一部を整理したものがある(岸田・谷垣 2010)。しかし、2000年以降の準市場の優劣論を 踏まえて、日本の社会福祉の選択制に関する議論や最近までの実証的な調査・研究を体系的に整理 したものは見られない。 そこで、本稿とそれに続くいくつかの論稿では、準市場の優位というルグランの主張に沿って、 日本の社会福祉の選択制に関する議論や実証的な調査・研究を整理する。まず、本稿では、1990年 代末頃の「社会福祉基礎構造改革」をめぐる議論を整理し、社会福祉の選択制について実証的に明 らかにすべき点を挙げる。その上で、次稿以降では、介護、保育、障害者福祉の各分野ごとに、選 択制に関する議論や実証的な調査・研究を整理する。 本稿で扱う社会福祉基礎構造改革の考え方は、1998年 6 月に中央社会福祉審議会社会福祉構造改 革分科会が公表した「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」(以下、「中間まとめ」)にお いて体系的に示された。 「中間まとめ」は、個人が自らサービスを選択する制度を基本とすること などを提言した(構造改革分科会 1998a:7, 12, 14)。これに先立ち、1997年には児童福祉法の改正と介護 保険法の制定が行われ、保育と介護の分野に選択制が導入されていた。その後、2000年に「社会福 祉の増進のための社会福祉事業法等の一部を改正する等の法律」 (以下、社会福祉事業法等の改正) が成立し、身体障害者福祉法と知的障害者福祉法の改正により、障害者福祉にも利用者の選択制が 導入された(社会福祉法令研究会編 2001:45)。 本稿は、日本の社会福祉の選択制に関する総論として、 「中間まとめ」をめぐる議論を中心に整 理する。以下、第 2 章では、準市場の優位というルグランの主張と「中間まとめ」の内容を概観 し、第 3 ~ 5 章では、ルグランの主張に沿って社会福祉基礎構造改革をめぐる議論を整理する。 26 2 .概観 (1)ルグランの主張 準市場の優位というルグランの主張は、おおむね次のようなものである。(児山 2011a) ルグランは、準市場( 「選択と競争」とも呼ばれる)を含む 4 つの公共サービス供給方式(モデ ル)を比較している。準市場以外のモデルは、 「信頼」モデル(専門職が良い公共サービスを提供 すると信頼するもの)、 「命令と統制」モデル(上級管理者が階統制における下位者に指図するも の) 、 「発言」モデル(利用者が不満や満足を供給者に直接伝達するもの)である。 ルグランによると、良い供給方式は、供給者に誘因を与え、利用者を活動的な行為主体として扱 うものである。まず、供給者は利己的な動機を持つかもしれないので、誘因を与えなければサービ スの量・質が低下するおそれがある。次に、利用者を行為主体として扱うべき理由は、政治家や管 理者に言われなくても供給者が質の高いサービスを提供する方式が望ましいこと、利用者のニーズ や欲求への応答性(responsiveness)を達成し、また、すべての人が思慮と目的を持った行為主体 として尊重される権利を持つとする自律性の原理を充たすために必要だということである。 そして、供給者への誘因と利用者の行為主体性という 2 つの観点から 4 つの供給方式を比較する と、これら 2 つの要素を備えるものは準市場であるといえる(表 1 )。 表 1 2 つの観点からの 4 つの供給方式の比較 供給者への誘因 利用者の行為主体性 あり なし あり 準市場 命令と統制 なし 発言 信頼 まず、準市場は、政府・供給者・利用者の間に交換関係があり、利用者が供給者を選択するの で、供給者への誘因があり、利用者を行為主体として扱うといえる。次に、「命令と統制」は、上 位者が下位者に指図するので誘因はあるが、利用者を行為主体として扱わない。逆に、「発言」は、 利用者が不満・満足を伝達するので利用者の行為主体性があるが、供給者への誘因はない。そし て、 「信頼」は、専門職を信頼するので、供給者への誘因がなく、利用者を行為主体として扱わない。 さらに、準市場は、供給者に誘因を与え、利用者を行為主体として扱うことなどにより、他の方 式と比較して、質、応答性、効率性、公平性の点で良い公共サービスを提供する可能性が高いと主 張されている。まず、供給者は、利用者に選択されないことによって資金を失うなどの不都合な結 果に直面するなら、サービスの質を改善し、利用者のニーズや欲求への応答性を高めようとする。 また、準市場は、教育や発言力に恵まれた者に有利な「発言」よりも公平であるとされる。準市場 が効率性を高める理由は説明されていないが、投入される資源が一定であれば、質の改善によって 効率性も向上すると考えられる。 27 ただし、準市場が実際にこのような結果をもたらすかどうかは、いくつかの条件に依存してい る。まず、利用者が供給者をうまく選択し、それが質、応答性、効率性の向上をもたらすために は、多数の供給者が存在するなどの意味での「競争」が存在し、利用者が質に関する「情報」を持 たなければならない。また、公平性を損わないためには、費用のかかる利用者への差別( 「いいと こ取り(cream-skimming) 」 )を防止する必要がある。 以上のようなルグランの主張をまとめると、次のようにいえる。準市場は、供給者に誘因を与 え、利用者を行為主体として扱うことなどにより、質、応答性、効率性、公平性などの点で、良い 公共サービスを提供する可能性が他の供給方式よりも高い。ただし、準市場がこのような結果をも たらすためには、競争、情報、いいとこ取りなどに関する条件を充たす必要がある。次章以降で は、このようなルグランの主張に沿って、社会福祉基礎構造改革をめぐる議論を整理する。 (2) 「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」 社会福祉基礎構造改革の考え方を体系的に示した1998年の「中間まとめ」は、公費負担を維持し ながら、利用者の選択制を導入することを提案した。また、選択制によって質や効率性が向上する と主張するとともに、そのような効果をもたらすために情報提供などの条件整備が必要であると述 べた。 まず、措置制度においては、福祉サービスの利用者と提供者の間の法的な権利義務関係が不明確 であるため、利用者と提供者との対等な関係が成り立たないとした。そして、今後の方向として は、利用者と提供者の間の権利義務関係を明確にすることにより、利用者の個人としての尊厳を重 視した構造とする必要があると主張した。具体的には、個人が自らサービスを選択し、それを提供 者との契約により利用する制度を基本とし、その費用に対しては、提供されたサービスの内容に応 じ、利用者に着目した公的助成を行う必要があるとした。また、契約制度への移行により、公費負 担が後退するようなことがあってはならないとも述べた。 そして、契約による利用は、利用者の選択を通じて、利用者の満足度を高めるとともに、サービ スの向上、事業の効率化にもつながると主張した。同様に、利用者の選択を通じた適正な競争を促 進するなど、市場原理を活用することにより、サービスの質と効率性の向上を促すとも述べられた。 その上で、利用者による選択に基づくサービス利用の仕組みを実効あるものとするためには、 サービス供給体制の計画的な整備が必要となるとも述べた。また、利用者による選択を通じた提供 者間の競争がサービスの質の向上につながるようにするためには、利用者による適切な選択のため の情報を提供者にわかりやすく開示させるとともに、利用者がサービスに関する情報を気軽に入手 できる体制を整備する必要があるとした。同様に、利用者による適切なサービスの選択を可能にす るため、サービスの内容や評価等に関する情報を開示するとも述べられた。(構造改革分科会 1998a:8, 12–4) 以上のような「中間まとめ」の内容は、ルグランの主張と重なっている。まず、「中間まとめ」 28 が提案した制度は、サービスの費用を政府が負担する(公費負担)一方で、当事者間に交換関係が ある(個人がサービスを選択し、提供者と契約して利用し、サービスの内容に応じて公的助成す る) 、準市場である。そして、このような制度は、自律性の原理(利用者の個人としての尊厳)を (4) 、質、効率性を高めると主張している。また、この 充たすとともに、応答性(利用者の満足度) ような効果が生じるためには、競争(サービス供給体制)や情報という条件を整備する必要がある と述べている。ただし、ルグランの主張とは異なり、準市場が公平であるとは主張しておらず、い いとこ取りという条件には言及していない。また、他の方式と比較して準市場の方が優れていると は主張していない。 次章以降では、ルグランの主張に沿って、社会福祉基礎構造改革をめぐる議論を整理する。ただ し、供給者に誘因を与えることや効率性への効果については、議論が見られなかったため省略する。 3 .利用者の行為主体性 「中間まとめ」は、利用者がサービスを選択し、供給者と契約する制度を提案したが、これに対 しては、福祉サービスの利用者は行為主体として行動する能力が不足しているという批判や、公的 責任・権利性が低下するという批判があった。これらの批判には対応策や反論が示されたが、対応 策の問題点も指摘された。以下、 2 つの批判に分けて議論を整理する。 (1)行為主体としての能力 まず、福祉サービスの利用者は、サービスを選択し、供給者と契約する能力を持たないと批判さ れた。福祉サービスの利用者は自己決定・自己責任の能力の持ち主であるとは限らない(古川 1998: 66) 、福祉サービスの利用者は身体や判断能力が衰えている人たちがほとんどで、サービスを見て 回る気力・体力がなく、適切な情報を得て適切な選択をしうる現実的可能性がない(伊藤 2000:231)、 自立していない弱い人間は福祉サービスを利用する能力に乏しく、福祉利用制度から排除されるか 低福祉で甘んじなければならない(浅井 1999:58)などである。 この点について、 「中間まとめ」は、契約による利用制度の適用が困難な者については、それぞ れの特性に応じた適切な制度とする必要があり、自己決定能力が低下している者の権利擁護の仕組 みなど、契約制度を補完し、適切なサービスの利用を可能とする制度が必要となると述べていた (構造改革分科会 1998a : 12)。厚生省の担当者も、判断能力の不十分な利用者が適切にサービスを選択で きないという批判は的を得ているとした上で、そのための支援策として、成年後見制度、福祉サー ビス利用援助事業を挙げ(炭谷 2000:161–9)、また、緊急時のために措置制度を残したと述べた(古 都 1999:26–7、衆院厚生委 2000. 4. 26:五島-今田) 。これらの制度の概要は次のとおりである。 第 1 に、成年後見制度は、精神上の障害により判断能力が不十分であるため、契約締結等におけ る意思決定が困難な人について、判断能力を補い、権利や利益を擁護する制度である。1999年12月 に、民法の一部を改正する法律、任意後見契約に関する法律などが成立し、これらに基づいて、 29 2000年 4 月から新しい成年後見制度が始まった。新しい制度は、法定後見制度と任意後見制度から なる。前者は、判断能力の不十分な状態にある本人について、主として本人や家族の申立てによ り、家庭裁判所が適任と認める者を成年後見人に選任する制度であり、後見・補佐の制度(従来の 禁治産・準禁治産制度を改正)に加えて、軽度の状態にある者を対象とする補助の制度が新設され た。後者は、新たに創設された制度であり、本人が契約の締結に必要な判断能力を有している間 に、自己の判断能力が不十分な状況における後見事務の内容と後見人を自ら事前の契約によって決 めておくものである。(小林・大門編著 2000:1, 20–6) 第 2 に、福祉サービス利用援助事業は、2000年 5 月の社会福祉事業法等の改正によって法定され た。この事業は、精神上の理由により日常生活を営むのに支障がある者に対して、無料または低額 な料金で、福祉サービスの利用に関し相談に応じたり、助言を行ったり、福祉サービスの提供を受 けるために必要な手続や費用の支払に関する便宜を供与するなどの援助を一体的に行う事業である (5) (社会福祉法 2 条 3 項12号) 。 第 3 に、児童福祉、介護、障害者福祉の各分野において、例外的な措置制度が存続した。児童福 祉については、都道府県は、児童相談所長から報告のあった児童につき、児童養護施設に入所させ るなどの措置を採らなければならない旨の規定が残された(児童福祉法27条 1 項 3 号)。また、介護と 障害者福祉については、市町村は、要介護高齢者や障害者が、やむを得ない事由により、事業者や 施設を選択してサービスを利用することが著しく困難であると認めるときは、サービスの提供や施 設への入所などの措置を採る旨の規定が設けられた(老人福祉法10条の 4 1 項 1 号、11条 1 項 2 号、身体障 害者福祉法18条 1 項、 3 項、知的障害者福祉法15条の 3 1 項、16条 1 項 2 号) 。(倉田 2001:20–1、豊島 2008:198–9) 以上の対応策のうち、成年後見制度と福祉サービス利用援助事業については、利用の可能性や対 象などが批判された。まず、成年後見制度については、後見人の不足や費用負担の問題により、十 分に活用されていないと批判された(伊藤 2003:42、竹原 2005:96、山本 2001:83–4)。次に、福祉サービス 利用援助事業については、精神上の理由により日常生活を営むのに支障がある者に対象が限定され ていること、その一方で、援助の開始にあたって契約を結ぶ必要があり、本人に一定の判断能力が 求められること、また、施設入所者は対象外であること、利用料を徴収されることなどが批判され (6) た(松久保 2003:50、白沢 1999:64、田中 1999:86–7, 101、伊藤 2003:43、竹原 2005:96、山本 2001:81)。 (2)公的責任・権利性 措置制度から選択制に移行することによって、地方自治体の公的責任や利用者の権利性が低下す るという批判もあった。先述のように、措置制度の下では、地方自治体が利用者を施設に入所させ るなどの措置を採らなければならないことが規定されていた。そのため、措置制度は、地方自治体 の責任で利用者に必要なサービスを給付する仕組みであるとされた。また、地方自治体が施設入所 などの措置を採る義務を負うことから、利用者はサービスの給付を請求する権利を持つという解釈 が学説では有力であったとされる(伊藤 2003:19–21)。他方、選択制への移行後は、地方自治体が施 30 設入所などの措置を採らなければならないという規定は例外的なものになった。そのため、公的責 任によるサービス提供の義務や権利保障がなくなり、福祉サービスの量・質の確保、事故などにつ いては、行政の責任ではなく個人の自己責任の問題にされると批判された(同上37–8、横山 2003:57、 成瀬 1999:56–7) 。 以上のような批判に対して、選択制への移行によって公的責任は低下しないという反論もあっ た。 「中間まとめ」を作成した分科会は、1998年12月に「追加意見」を公表し、国・地方自治体は、 利用料助成やサービス供給体制の基盤整備などを通じて、国民に対する福祉サービス確保のための 公的責任を果たすことになっていると説明した(構造改革分科会 1998c:2)。2000年に改正された社会 福祉法でも、国・地方自治体は、福祉サービスを提供する体制の確保に関する施策、福祉サービス の適切な利用の推進に関する施策などの措置を講じなければならないと規定された( 6 条)。厚生省 の担当者が編集代表を務めた解説書によると、福祉サービスの提供体制の確保に関する施策とは施 設整備補助金などであり、サービスの適切な利用に関する施策とは情報提供や公的な費用負担など である。そして、上記のような責務規定を設けることにより、公的責任はむしろ明確化したと述べ られている(社会福祉法令研究会編 2001:112)。なお、事故については、地方自治体が規制権限を持つ ことから、国家賠償責任が認められる余地があるという説もある(豊島 2008:195–6)。 しかし、分科会の「追加意見」や社会福祉法の規定に対しては、国・地方自治体の公的責任は、 福祉サービスの提供という直接的なものから、利用者の購買力の補充、情報提供、利用援助などの 間接的なものに縮小されたという批判もあった。(伊藤 2003:36–7) 以上、福祉サービスの利用者を行為主体として扱うことに関する議論を整理してきた。 利用者がサービスを選択し、供給者と契約する制度に対しては、福祉サービスの利用者はそのよ うな能力を持たないという批判や、公的責任・権利性が低下するという批判があり、これらの批判 への対応策や反論、さらに、対応策への批判や再反論もあった。 これらの議論を踏まえて、社会福祉の各分野において実証的に明らかにすべき点は次のとおりで ある。まず、利用者が行為主体として行動する能力については、利用者がそのような能力をどのく らい持っているか、また、能力の不足している利用者への支援策(成年後見制度、福祉サービス利 用援助事業)や、支援策を受けてもサービスを利用できない利用者のための措置制度が、どのくら い実施され、有効であるかである。また、公的責任・権利性については、政府が、施設整備補助 金、情報提供、公的費用負担などを通じて、必要なサービスの利用を確保しているかどうかである が、この点については、条件の充足(競争、情報)や良いサービスの提供(公平性)の問題として 扱う。 31 4 .条件の充足 (1)競争 利用者が供給者を選択するためには、競争という条件を充たす必要があるが、この条件は充たさ れない、条件を充たすことによって問題が生じるという批判があった。以下、これら 2 つの批判に 分けて議論を整理する。 ①競争の不足 競争という条件については、サービスの量や供給者の数が少ないことが指摘され、これらを増や すための対応策も示されたが、その問題点も挙げられた。 まず、サービスの量や供給者の数が少ないことが指摘された。 「中間まとめ」の公表後に開催さ れた社会福祉基礎構造改革シンポジウム(全国社会福祉協議会が主催、厚生省などが後援)では、 選択を行うにはサービスの供給量が不足しているため、特に高齢者・障害者の施設について早急な 基盤整備が望まれるという意見が出された(全国社会福祉協議会 1998:82)。また、保育についても、都 市部では待機児童があふれ、入園できるかどうかが問題であり、選択の余地は少ないと指摘された (下村 2002:30)。逆に、過疎地や利潤の上がりにくい地域では、利用できる事業体が生活圏内にきわ めて少ないとも予想された(浅井 1999:14)。さらに、競争の結果、力のある事業体が存続し、弱い 事業体を駆逐するため、寡占化・独占化が進むと主張された(同上:13)。 サービスの量や供給者の数を増やすための対応策として、参入規制の緩和、施設整備費用の調 達、計画的な施設整備、利用者からの要求などが示された。 第 1 に、 「中間まとめ」は、社会福祉事業の規模要件や社会福祉法人の資産要件の緩和、社会福 祉事業の経営主体の範囲に関する規制の見直しを提言した(構造改革分科会 1998a:10– 1 )。(7) まず、社会福祉事業は社会福祉(事業)法で列挙され( 2 条 2 、 3 項)、その多くは利用者数の規 模要件が定められているが(同条 4 項 4 号)、障害者の通所授産施設の規模要件が20人から10人に引 き下げられた(厚生省2000:210、社会福祉法 2 条 4 項 4 号、社会福祉法施行令 1 条)。また、社会福祉法人の資 産要件は厚生省の通知で定められているが、小規模通所授産施設やホームヘルプ事業を行う社会福 祉法人の設立の資産要件が 1 億円から 1 千万円に引き下げられた(厚生省大臣官房他 2000b:505、厚生省 大臣官房他 2000a:510)。 次に、社会福祉事業の経営主体の範囲については、法律上は変化がなく、第 1 種社会福祉事業 (高齢者・障害者の入所施設の経営など)は原則として国・地方自治体・社会福祉法人に限定され、 第 2 種社会福祉事業(居宅介護や保育所の経営など)は制限が設けられていなかった(社会福祉法 2 条 2 、 3 項、60条、社会福祉事業法 4 条、社会福祉法令研究会編 2001:80, 227) 。ただし、民間の保育所の設置主 体については、1963年の厚生省の局長通知により社会福祉法人に限定されてきたが、この通知が廃 止され、社会福祉法人以外の者による設置が可能になった(杉山・田村編著 2009:68、厚生省児童家庭 局 2000)。 32 第 2 に、 「中間まとめ」は、社会福祉施設の設置者が、サービスの対価として得られる収入を、 施設整備に係る借入金の償還に充てることができる仕組みにすることを提案し、この点は運用事項 として実施された。従来、施設整備費の 4 分の 3 を公費補助、 4 分の 1 を設置者の自己負担とし、 自己負担分は寄付で賄うことを原則としていたが、寄付で賄うことは事実上困難であるとされたた めである(構造改革分科会 1998a:13、厚生省 2000:210)。しかし、施設整備のための借入金の返済に充て る分、利用料が引き上げられたり、職員の人件費やサービスに充てる費用が削減されたりする可能 性が指摘された(白沢 1999:64、芝田 2000:19、垣内 1999:16、田中 1999:79)。 第 3 に、 「中間まとめ」は、利用者の選択に基づくサービス利用を実効あるものとするためには、 サービス供給体制の計画的な整備が必要となると述べていた(構造改革分科会 1998a:13)。そして、社 会福祉事業法等の改正に関する国会審議では、2002年度を目標とする障害者プランに基づいて着実 にサービス量の整備を進めているという大臣答弁があった(衆議院本会議 2000. 4. 14:中林-丹羽大臣)。 しかし、国が障害者施設の待機者の現状を把握していないこと、市町村の障害者プランの作成が進 んでいないこと、在宅障害者のデイサービスセンターの目標が大幅に未達成であることなどが指摘 された(参議院本会議 2000. 5. 18:井上、衆議院厚生委員会 2000. 4. 26:瀬古-今田政府参考人、瀬古)。 第 4 に、厚生省の担当者は、選択制になると、選択したくてもサービスがないという批判が強ま り、サービス増加への政治的・社会的圧力が高まり、行政機関はその努力を余儀なくされるという 考えを示した(炭谷 2000:160)。しかし、利用者と施設が直接交渉・契約する制度では、行政は待機 者を把握せず、施設整備のニーズも把握しなくなるとも指摘された(峰島 1999:29)。 ②競争による問題 競争の結果として、供給者間の連携の弱まり、供給者の撤退・倒産、不採算サービスの提供の困 難などの悪影響が生じるという批判もあった。 第 1 に、競争状態にある供給者が相互に連携をとるとは考えにくく、競争が激化すれば、地域に おけるネットワークの視点が欠如し、住民の社会福祉の権利の保障から遠ざかると批判された(伊 藤 2003:39、浅井 1999:86)。 第 2 に、競争の結果、供給者(特に営利企業)が撤退・倒産し、利用者の生活に大きな影響を与 「中間まとめ」を作成した分 えると批判された(古川 1998:71、浅井 1999:37, 68, 88)。これに対して、 科会では、競争が確保されていれば、経営者が交代したり、利用者が他の事業者を選択したりする ことができるという意見や、利用者に迷惑がかからないように、施設閉鎖の場合に備えた一時的な 受け入れ施設を整備するなどの方策をとればよいという意見が出された(構造改革分科会 1998b:34, 38)。 第 3 に、「中間まとめ」は、社会福祉法人に対する規制・助成について、他の事業主体との適切 な競争が行われる条件の整備に配慮する必要があると述べる一方で、一般事業者が大幅に参入する ことが見込まれない領域があるため、社会福祉法人がサービス提供において中心的な役割を果たす 必要があるとも述べた(構造改革分科会 1998a:10–11)。これに対して、民間企業と非営利団体を同列に 33 扱うことは、後者の運営条件・環境を厳しいものとし、上記のような役割を期待しにくくなると批 「中間まとめ」を作成した分科会でも、施設で迷惑をかける利用者は事業 判された(田中 1999:76)。 者が利用を断る場合もあり、社会福祉法人が引き受ける必要があるが、人手や経費がかかるため、 減税や助成措置は残してもらいたいなどの意見が出された(構造改革分科会 1997–98:117)。厚生省の担 当者も、社会福祉法人が現在行っている事業を残すためには、競争条件を全く同じにするつもりは ないと述べた(大泉・門廣 1998:16)。 以上、競争という条件に関する議論を整理してきた。 まず、サービスの量や供給者の数が少ないという批判に対して、参入規制の緩和、施設整備費用 の利用料からの調達、計画的な施設整備、利用者からの要求という対応策が示されたが、対応策が 不十分であるという批判や、施設整備費用の調達のために利用料の上昇や人件費の削減が生じると いう批判もあった。サービスの量や供給者の数がどのくらいあるか、対応策によってこれらが増加 したかどうか、また、問題が生じたかどうかは、実証的に明らかにすべき課題である。 次に、競争の結果として、供給者間の連携の弱まり、供給者の撤退・倒産による利用者の生活へ の影響、社会福祉法人による不採算サービスの提供の困難が生じるという批判があったが、これら の問題が実際に生じたかどうか、逆に、問題を回避するために競争が制限されたかどうかは、実証 的に明らかにすべき課題である。 (2)情報 利用者が供給者をうまく選択し、それが質の向上をもたらすためには、利用者が質に関する情報 を持ち、質を判断しなければならない。しかし、この条件は充たされないという批判があり、対応 策が提示されたが、その問題点も指摘された。 まず、公開されている情報は限定的であるため、高齢者・障害者は施設・サービスに関する情報 をほとんど持たないことや(茅原 2000:106)、過剰な広報活動が行われる可能性(古川 1998:217)が指 摘された。( 8 ) 情報を提供するための対応策として、厚生省の担当者は、事業者による情報提供(事前説明、契 約時の書面交付など) 、国・地方自治体による情報提供体制の整備、誇大広告の禁止などを挙げた (古都 1999:27、参議院国民福祉委員会 2000. 5. 25:堀-炭谷政府参考人)。そして、2000年に改正された社会福 祉法では、情報の提供に関する事業者と国・地方自治体の努力義務、利用契約の申込み時における 事業者からの説明の努力義務、利用契約の成立時における事業者からの書面の交付義務、サービス の質の評価に関する事業者と国の努力義務、誇大広告の禁止が規定された(社会福祉法75~79条)。 しかし、情報提供のための対応策については、情報提供の責任は事業者にあり、その責任を果た させるための措置を講ずることに公的責任が限定されているという批判や、評価に関する罰則規定 がないという批判があった。(浅井 2000:78、衆議院厚生委員会 2000. 4. 27:松友参考人)( 9 ) 34 以上のように、情報の不足や過剰な広報活動が生じるという批判に対して、社会福祉法に基づく 情報提供や広告規制という対応策が示されたが、情報提供のための対応策が不十分であるという批 判もあった。実際にどのような情報が提供され、利用者がどのような情報を利用しているか、ま た、対応策がどのくらい実施され、有効であるかは、実証的に明らかにすべき課題である。 (3)いいとこ取り いいとこ取りとは、費用のかかる利用者に対する差別であり、公平性を損う要因の 1 つである。 日本の社会福祉の選択制についても、いいとこ取りが行われるという批判があり、対応策が示され た。 まず、契約制の下では事業者側にも利用者を選ぶ権利があり(10)、特にサービス不足の状況下で は、人気のある事業者が、自己負担分の支払いが困難な低所得者、介護負担の大きい重度・重複障 害者、逆に、要介護度が低いため介護報酬も低くなる利用者を排除する可能性があると指摘され た。(浅井 1999:13, 86、田中 1999:100、岡崎 1999:83、下村 2002:30、伊藤 2003:83) この点について、 「中間まとめ」は、低所得者や援護に困難を伴う人のサービス利用の確保に配 慮した事業実施が必要であることなどから、社会福祉法人がサービスの提供において中心的な役割 を果たしていく必要があると述べた(構造改革分科会 1998a:10–1)。社会福祉法人のこのような役割と 競争条件の整備との関係が議論になったことは、先述のとおりである。 また、障害者福祉に関しては、国会審議において、供給者が利用者の申し込みを拒絶することが できるか、重度障害者が優先的に施設に入所できるような方法は考慮されているかという質問が出 され、利用の申し込みがあった場合には正当な理由がない限り拒んではならないことを指定事業者 の指定基準に盛り込む、施設サービスの費用の額の設定に障害の程度を反映させる、障害者の求め に応じて市町村がサービス利用のあっせん・調整を行うという答弁があった(衆議院本会議 2000. 4. 14: 土肥-丹羽大臣) 。 以上のように、いいとこ取りが行われるという批判があり、対応策が示された。いいとこ取りが どのくらい行われているか、また、それを防止するためにどのような制度が設けられ、どのくらい 実施され、有効であるかは、社会福祉の各分野において実証的に明らかにすべき課題である。 5 .良いサービスの提供 本章では、社会福祉の選択制が、質、応答性、公平性の点で、良いサービスの提供につながるか どうかをめぐる議論を整理する。 (1)質 利用者の選択によってサービスの質が向上するという主張については、供給者間の競争によって 質はむしろ低下するという批判があったが、これに対する反論もあった。 35 まず、供給者間の競争は価格競争の形をとり、価格の低下はその大半を占める生産費用の低下を もたらすとされた。特に、労働集約的な社会福祉事業では、費用の大部分は人件費であるため、賃 金の低下、労働条件の悪化、雇用の不安定化、無資格者の採用などを引き起こすと主張された。そ して、これらは、労働者の意欲の低下、人材の獲得力の弱まり、サービスの質の不安定化などを通 じて、サービスの質を低下させると批判された。(茅原 2000:108、岡崎 2001:29–30、伊藤 2003:40、竹原 2005: 94–5) このような批判に対して、介護保険制度では介護報酬という形で価格が固定されているので、価 格競争ではなく質の競争が行われるという反論もあった。(駒村 2000:44–5) 社会福祉の選択制の下で、価格競争が行われ、人件費をはじめとする費用の削減を通じてサービ スの質が低下したかどうか、あるいは、質の競争が行われ、質が向上したかどうかは、実証的に明 らかにすべき課題である。 (2)応答性 応答性とは、利用者のニーズや欲求に応答することである。この点については、応答性が向上し ないという批判と、応答性が向上することに問題があるという批判があった。 まず、さまざまな理由から、供給者は利用者のニーズや欲求に応答しないと指摘された。契約の ほとんどは事前に用意された契約書類に署名するだけであり、当事者が相互に具体的な内容を協議 して決めるわけではない(浅井 2002:107)、契約締結時に確定した実践内容しか保障せず、日々変化 する利用者のニーズへの対応を軽視する(浅井 2000:88、浅井 2002:111)、契約締結時には事業体と個人 の間に対等な関係があっても、その後はサービス提供側が圧倒的に優位な立場にある(浅井 1999: 58、黒田 1999:18)、競争に勝ち残るために、各事業体は経営効率を重視して福祉実践のマニュアル 化を進め、利用者の実態に即した労働は非効率だとして排除する(浅井 2000:85、真田 1999:12)など である。 次に、供給者が利用者のニーズや欲求に応答することへの批判もあった。幼稚園の自由競争の結 果、早期教育やスポーツ教室などの「見える保育」に人気が集まっていることから、事業内容が多 様化せず均一化・平準化する(浅井 1999:14, 66)、英語教育などの英才教育型の保育園が現れている ことから、子ども集めのために保護者の受けを狙った保育が広がる(下村 2002:30)などである。 以上のように、選択制の下で応答性は向上しないという批判と、応答性が向上することへの批判 があったが、実証的に明らかにすべき課題は、応答性が向上したかどうか、利用者のニーズや欲求 に応答してどのようなサービスが提供されたかである。なお、利用者のニーズや欲求に応答した サービス(保育園での英語教育など)をどのように評価するかは、規範的な判断を含む問題である。 (3)公平性 公平性とは、社会経済的地位などのニーズと無関係な違いに関わらずサービスを利用できること 36 である。日本の社会福祉の選択制については、供給者が利用者を選別し、ニーズの高い利用者が放 置されると批判された。措置制度の下では、ニーズの切迫した緊急性の高い利用者に対して、行政 の責任で優先的にサービスを提供していたが、選択制の下では、個々の供給者が優先順位をつける ため、このような利用者に必要なサービスが行きわたらなくなるとされた(浅井 2000:77、伊藤 2003:35)。 いいとこ取りによって、また、利用者の行為主体としての能力の不足、競争や情報の不足などに よって、利用者が必要なサービスを受けられないことがどのくらいあるかは、実証的に明らかにす べき課題である。(11) 6 .おわりに 本稿は、準市場の優位というルグランの主張に沿って、社会福祉基礎構造改革をめぐる議論を整 理し、実証的に明らかにすべき点を挙げた。 ルグランによると、準市場は、供給者に誘因を与え、利用者を行為主体として扱うことなどによ り、質、応答性、効率性、公平性などの点で、良い公共サービスを提供する可能性が他の供給方式 よりも高い。また、社会福祉基礎構造改革の考え方を体系的に示した「中間まとめ」の内容は、ル グランの主張と重なっていた。そして、ルグランの主張に沿って、社会福祉基礎構造改革をめぐる 議論を整理したところ、実証的に明らかにすべき点として、主に以下のようなものが挙げられた。 第 1 に、利用者を行為主体として扱うことについては、利用者が行為主体として行動する能力を どのくらい持っているか、能力の不足している利用者への支援策(成年後見制度、福祉サービス利 用援助事業)や代替措置(例外的な措置制度)がどのくらい実施され、有効であるかである。 第 2 に、準市場が成功するための条件のうち、競争については、サービスの量や供給者の数がど のくらいあるか、対応策によってこれらが増加したか、競争によって問題(供給者間の連携の弱ま り、撤退・倒産による影響など)が生じたかである。また、情報という条件については、どのよう な情報が提供され、利用者がどのような情報を利用しているか、社会福祉法に基づく情報提供や広 告規制などの対応策がどのくらい実施され、有効であるかである。そして、いいとこ取りに関して は、それがどのくらい行われているか、いいとこ取りを防止するためにどのような制度が設けら れ、どのくらい実施され、有効であるかである。 第 3 に、準市場が良いサービスを提供するかどうかについては、まず、社会福祉の選択制の下 で、価格競争によってサービスの質が低下したかどうか、質の競争によって質が向上したかどう か、また、応答性が向上したかどうかである。そして、公平性については、利用者の行為主体とし ての能力の不足、競争や情報の不足、いいとこ取りなどにより、利用者が必要なサービスを受けら れないことがどのくらいあるかである。 以上のように、日本の社会福祉の選択制については、実証的に明らかにすべき多くの点がある。 介護、保育、障害者福祉の各分野ごとに、選択制に関する議論や実証的な調査・研究を整理するこ とは、次稿以降の課題である。 37 注 ( 1 ) 従来の規定はおおむね次のとおりである。市町村は、児童の保育に欠けるところがあると認めるときは、 その児童を保育所に入所させて保育する措置を採らなければならない(児童福祉法24条)。市町村は、65歳以 上で日常生活に支障がある者に居宅でサービスを提供するなどの措置を採ることができる。また、65歳以 上で常時の介護を必要とし、居宅で介護を受けることが困難な者を特別養護老人ホームに入所させるなど の措置を採らなければならない(老人福祉法10条の 4 1 項 1 号、11条 1 項 2 号)。市町村は、障害者につき、 必要に応じ、居宅において日常生活を営むのに必要なサービスを提供する措置を採ることができ、施設に 入所させる措置を採らなければならない(身体障害者福祉法18条 1 項 1 号、 4 項 3 号、知的障害者福祉法15条の 3 1 項、16条 1 項 2 号)。 なお、市町村は、自ら居宅サービスを提供したり、自らの設置する施設に入所させるだけでなく、他の 者に居宅サービスの提供や施設への入所を委託することもできた(老人福祉法、身体障害者福祉法、知的障害 者福祉法の上記の各条項) (保育所への入所については、児童福祉法の上記の条項に市町村からの委託に関す る明文の規定はなかったが、老人福祉や障害者福祉と同様であると理解されてきた(倉田聡 2001:23–5、倉 田賀世2009:36) )。 ( 2 ) 新しい規定はおおむね次のとおりである。市町村は、児童の保育に欠けるところがある場合において、 保護者から申込みがあったときは、その児童を保育所において保育しなければならない。保育所における 保育の実施を希望する保護者は、入所を希望する保育所などを記載した申込書を市町村に提出しなければ ならない(児童福祉法24条 1 、 2 項)。居宅や施設のサービスを受けようとする要介護被保険者は、自己の選 定する事業者からサービスを受けるものとする(介護保険法41条 3 項、48条 8 項)。障害者は、居宅支援事業 者や更生施設に利用や入所の申込みを行い、居宅支援や施設支援を受ける(身体障害者福祉法17条の 4 、17条 の10、知的障害者福祉法15条の 5 、15条の11) 。 なお、措置制度の下でも、実態としては利用者が供給者を選択していたという指摘もある。保育所への 入所については、保護者からの申し込みによるものが大半で、多くの自治体で保護者が希望する保育所を 書いて申し込みを行うという実態があったとされる。また、ホームヘルパー派遣についても申請書を提出 する手続がとられていた場合が多く、特別養護老人ホームの入所申し込みが申込者の希望を書いて行われ ていた自治体もあったとされる。(伊藤 2003:21) ( 3 ) 保育所への入所は、保護者が各保育所に直接申し込むのではなく、市町村に申し込むが、いわゆる「学 校選択制」 (公立小中学校の選択制) も同様の制度であるため、ここでは選択制と総称する。学校選択制とは、 文部科学省の定義によると、市町村教育委員会が就学校を指定する場合に、就学すべき学校について、あ らかじめ保護者の意見を聴取するものである(児山 2012a:104)。 ( 4 ) 利用者の選択を通じて利用者の満足度が高まる理由としては、利用者のニーズ・欲求に応答することだ けでなく、サービスの質が高まることや、選択自体に満足することも考えられるが、ここでは応答性の意 味も含むと解釈する。 (5) 都道府県社会福祉協議会は、各区域内においてあまねく福祉サービス利用援助事業が実施されるために 必要な事業などを行うものとされた(社会福祉法81条)。同協議会が同条に基づき行う事業は、1999年から実 施されたモデル事業の名称から、 「地域福祉権利擁護事業」とも呼ばれる。(社会福祉法令研究会編 2001:80, 280–2) ( 6 ) 地域福祉権利擁護事業実施要領によると、福祉サービス利用援助事業は、判断能力が不十分な者が地域 において自立した生活を送れるよう援助するものであり、この事業の対象者は、援助に係る契約の内容に ついて判断し得る能力を有していると認められるものであり、この事業におけるサービスの利用料は原則 として利用者が負担する。(厚生労働省 2001:532, 534) (7) 社会福祉事業を経営することを目的として社会福祉法人を設立することができ、社会福祉事業や社会福 祉法人は税制上の優遇措置などを受けることができる。(社会福祉法令研究会編 2001:102, 218–26) 38 ( 8 ) 利用者の判断能力には幅があり、特に知的障害を持つ場合、高齢者・障害者が情報を正しく理解し判断 することは困難または不可能であるとも指摘されたが(古川 1998:217、茅原 2000:106–7)、この点は利用者 の行為主体性の問題として位置づける。 (9) 情報提供について、社会福祉法では、「社会福祉事業の経営者は、福祉サービス(中略)を利用しようと する者が、適切かつ円滑にこれを利用することができるように、その経営する社会福祉事業に関し情報の 提供を行うよう努めなければならない」(75条 1 項)、「国及び地方公共団体は、福祉サービスを利用しよう (同条 2 項) とする者が必要な情報を容易に得られるように、必要な措置を講ずるよう努めなければならない」 と規定されているが、厚生省の担当者が編集代表を務めた解説書では、情報提供を行う責務は第一義的に は事業者に課されるとしている(社会福祉法令研究会編 2001:266)。また、評価については、社会福祉事業 の経営者は質の評価を行うことなどにより良質なサービスを提供するよう「努めなければならない」 、国は 質の評価の実施に資するための措置を講ずるよう「努めなければならない」旨が規定されている(社会福祉 法78条) 。 (10) 措置制度の下では、居宅サービスの事業者や施設の設置者は、市町村などから委託を受けたときは、正 当な理由がない限り、これを拒んではならない旨が規定されていた(老人福祉法20条、児童福祉法46条の 2 、 身体障害者福祉法28条の 2 、知的障害者福祉法21条の 4 )。選択制の下では、介護と障害者福祉に関するこの規 定は、例外的な措置制度だけに適用されるようになった。なお、児童福祉に関しては、選択制の導入後も、 この規定が保育所における保育に適用された。 (11) なお、サービスの費用の一定割合を利用者が負担することや、より良いサービスを利用者の自己負担で 購入できる仕組みに関して、低所得者の問題が指摘され(伊藤 2000:232、構造改革分科会 1997–98:84、浅 井 1999:86) 、前者については公費負担を維持すると説明された(構造改革分科会 1998a:12、衆議院厚生委員 会2000.5.10:石毛-今田政府参考人、炭谷 2004:72)。ただし、これは準市場というよりも市場(費用を利用者 が負担し、当事者間に交換関係がある方式)の問題である。 参照文献 浅井春夫(1999) 『社会福祉基礎構造改革でどうなる日本の福祉』 (日本評論社)。 ―(2000) 『新自由主義と非福祉国家への道』 (あけび書房)。 ―(2002) 『市場原理と弱肉強食の福祉への道』 (あけび書房)。 李宣英(2015) 『準市場の成立は高齢者ケアサービスを変えられるか:日韓の比較実証分析』 (ミネルヴァ書房)。 伊藤周平(2000) 『介護保険と社会福祉』 (ミネルヴァ書房)。 ―(2003) 『社会福祉のゆくえを読む』 (大月書店) 。 大泉博子、門廣繁幸(1998) 「社会福祉基礎構造改革の展望:中社審『中間まとめ』について」、『月刊福祉』、81 巻10号、12–23頁。 岡崎祐司(1999)「『基礎構造改革』は、社会福祉の未来を約束するか(2) :個人契約と利用料助成システムの問 題点」、『部落』、51巻 7 号、80–85頁。 ―(2001) 「介護保険と自治体福祉、地域福祉の課題:社会福祉『基礎構造改革』も視野に含めつつ」 、 『日本 医療経済学会会報』 、20巻 1 号、24–32頁。 垣内国光(1999)「社会福祉基礎構造改革とは何か:福祉措置制度を解体するということの意味」 、 『賃金と社会 保障』、1250・1251号、4–23頁。 茅原聖治(2000) 「『社会福祉基礎構造改革』の経済学的考察:主として社会福祉サービスへの市場原理導入につ いて」、『社会福祉研究』 、78号、104–109頁。 岸田研作、谷垣靜子(2010) 「介護サービス供給体制」 、宮島洋、西村周三、京極高宣編『社会保障と経済 3 社会サービスと地域』 (東京大学出版会) 、127–148頁。 倉田賀世(2009) 「保育所入所の法的性質をめぐる考察:1997年児童福祉法改正を契機として」 、 『季刊社会保障 39 研究』、45巻 1 号、36–45頁。 倉田聡(2001) 『これからの社会福祉と法』 (創成社) 。 黒田研二(1999) 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私たちは、まったく到達点から遠く離れているのですから、欧州経済通貨同盟設立の際に生じた 瑕疵を改める努力を怠ることは許されません。4 そのためには例えば、欧州での経済政策の協調を 改善し、強化する作業を進めなくてはなりません。なぜなら欧州統合のプロセスの中で下された決 定の中で共通の通貨は、いかに、どの程度私たちが私たちの価値と利益を主張できるかという問題 に対する最も有効な回答となっているからです。このことは困難を極める外交安全保障政策上の課 題に直面する現在ますます重要です。 このことはウクライナ情勢を見れば明白です。私たちは、フランスと共同し、ノルマンディース タイルで、欧州や大西洋の連携国と意見を調整しながら、ミンスク合意の実施に向けて作業を進め ます。これには私たちの対ロシア制裁の進め方がまさに、今後もこのミンスク合意の実施に紐づけ 43 られているということが含まれます。 9 月から続く大方遵守されている停戦、重火器、小火器の撤去の開始、分離派支配地域での選挙 実施の撤回ないしは選挙日の延期は、私が 2 月に、ミンスク合意が調印された時に言及し、実現し た、希望の兆候です。私は依然として希望の兆候という言葉を使います。それは文字通りのもので す。しかしこのことは、政治的解決という道筋をたどって進んでいくという機会を与えてくれてい るのです。ミンスク合意の枢要な目標は、違法にウクライナに駐屯している部隊や傭兵の完全な撤 退とウクライナによる自国国境の完全な管理です。私たちの目標はこれからもウクライナの自由な 自決の回復と領土の保全です。5 今日始まる欧州理事会では私たちはイギリスの国民投票に向けての今後のプロセスについても話 す予定です。私たちがその際イギリス政府と建設的に協力することは当然です。このことを私は先 週金曜日の訪問の際にあらためてイギリス首相デイヴィッド・キャメロンに再確認したところで す。しかしまた取り引きできないことがあることも当然です。例えば移動の自由や差別禁止の原則 などの、取引材料にはなりえない、欧州統合の成果があります。このことももちろん私は明確に伝 えました。 数週間以内に自らの内容的な見解を改めて正確に表現することが、現在イギリス側に求められて います。6 私は最後には合意可能な妥協を見つけることができると確信しています。私はイギリス が今後とも強い欧州の中で積極的なパートナーであり続けることを望んでいます。なぜなら私たち が克服しなければならない、困難な外交安全保障政策上の課題に直面し、私たちは、分裂する欧州 ではなく、より緊密になる欧州を必要としているからです。 欧州が多くの難民に直面して、克服しなければならない課題がいかに大きなものであるか、いか に私たちに要求を突き付けているかが今日明白になっています。ですから私たちは、私たちの周辺 での戦争や迫害などの課題にいかに対応するかという問いに欧州としての回答を見出さなければな りません。この課題を欧州の存在を試す歴史的試練であると言っても過言ではありません。この存 在を試す試練の克服は、私たちが並行して多くの場所で、あらゆる段階で対応して初めて可能にな ることは明らかです。地方自治体で、州で、連邦で、また外交開発政策においては欧州で、グロー バルに対応しなければなりません。なぜならこの課題を成功裏に克服するための、一度の転轍です べてを解決できるような転轍機など存在しないからです。 21世紀ではインターネットのおかげで閉鎖もまた幻想にすぎません。7 閉鎖はドイツにとっても EU 全体にとっても理性的な選択肢ではないでしょう。あらゆる段階での共同行動のみが、私たち 44 のグローバル社会、デジタル社会の課題に正しく対処し、そうすることによってこの歴史的な試練 を克服する唯一の道なのです。過去数週間に私たちはこれに関していくばくかのものを達成しまし た。いずれにしろ過去数カ月ないし数年までよりもより多くのものです。実効のある決定を下すこ とができなかった今年 4 月23日の臨時首脳会談のことを想起するだけで十分です。当時多方面から の批判がありました。800人が地中海で溺死したのです。そこから引き出されたものはほとんど何 もありませんでした。 国内レベルでは、今日連邦議会に採決のため提出される、各州との緊密な協議を経て成案ができ た現在の一括法案には、多くの中心的な内政上の措置が含まれています。成案作成の作業に携わっ た人全員に感謝を申し上げます。私たちの国が、金融危機に際し、迅速に、柔軟に、そして連邦、 州、市、地方自治体相互の協力精神に基づき対応できるだけでなく、私たちは、すべてのことが問 われている時、私たちの基本価値の中核と内容が、つまり私たちのドイツの基本憲章、欧州の基本 憲章が問われている時には行動できるということを示したのです。これは人々にとっていい知らせ です。 ここで私たちの一括法案が予定している重要な項目を紹介したいと思います。一つは、州と地方 自治体に対する財政支援のための連邦の義務です。つまり実際に収容された人員と申請処理の期間 に応じた一人当たりの補助金の導入です。また社会福祉のための住居建設の支援、保護者のいない 未成年の難民の保護における支援、滞在申請が認められる可能性が高い人々のための社会統合教室、 言語習得支援、労働市場への参加を容易にする措置。そして滞在許可が下りる可能性が低い人々の 手続きの迅速化、これには手続きが終了次第これまでよりもすみやかに送出国に帰還させることが できようにという目的が含まれます。純粋に金銭を目的としてドイツを目的地とすることを促すよ うな刺激の低減は、例えば第 1 次収容施設で主に物品提供をするということを意味します。8 これ らが今日私たちが採決し、迅速な行動の範例となるべきいくつかの項目です。 こう言っていいでしょう。連邦と州は良い国民的総合法案で合意することに成功しました。私は 今日その採決を求めます。はっきり申し上げますが、国内の当事者を助けることになる問題で棄権 することは私から見て選択肢とはなりえません。 非常に短期間で、つまり一カ月以内に成案を得たこの一括法案によって今年11月 1 日から、経済 的困難から私たちのところに来て私たちの亡命庇護権を不当に請求する人々がこれまでよりも早く 私たちの国を離れる条件を改善します。その目的は実際に戦争と迫害から逃れ私たちのところに避 難してくる人がこれまでよりもよりよくより効率的に私たちから支援を受けられるようにすること です。 45 連邦と皆様は、親愛なる同僚議員の皆様、連邦の財政的支援を拡大するという決定によって、私 たちは皆この課題を国民的努力に値すものであり、国民的共通課題であると考えていることを、 はっきりさせることになると信じます。実際その通りなのですから。 長期的に私たちのところに滞在する人々を支援するためにこそ、社会統合がより速やかによりよ く進められるように一括法案を作成したことは重要です。それは私たちの憲法、私たちの価値、私 たちの法律の基礎に立つものです。ただし、ジュネーブ難民条約では内戦地域からの難民の滞在地 位はまず 3 年間に限定されており、その後外交的条件が改善されたかどうかを検証することになっ ていることを改めて確認しておきたい。 私たちの一括法案のあらゆる措置がいかに重要で、いかに正しく、いかに不可欠のものであるに せよ、さらなる措置がやがて必要になるでしょう。私たちは目下のところ国境地帯での通過手続き という選択肢を含む二つの EU 指針の実施について議論しています。しかしこれらの国民的措置が 私が先ほど述べた歴史的試練を克服するためには全く不十分であるということは紛れもない事実で す。そのためにはより多くの措置、そのためにはなかんずく全欧州による対処を必要とします。私 はその必要性を 9 月23日に開催された前回の臨時欧州首脳会議で訴えました。連邦内務相は前回の 10月 8 日 9 日の内務相理事会でそれを繰り返しました。私は先週もフランス大統領オランドととも に欧州議会でこのことを訴えました。まさにこの事柄を私は今日定例欧州理事会で断固として表明 するつもりです。 具体的には今日ブリュッセルでは、 9 月23日に採決された決定の実施を検証し、必要であれば、 追加的な措置を検討することになります。私はここでユンカー欧州委員会委員長に、重要なプロセ スを含み正しい方向を示している多くの具体的な一連の措置を提案してくれたことに対し、大いに 謝意を表したいと思います。 私たちのグローバル化世界で、私たちからは遠い世界のことだと思われていた戦争、紛争、展望 の喪失がますます頻繁に私たちの家の戸口までやってきていることを、私たちはこれまでになく直 接に経験するようになっています。欧州に向かう目下の難民の動きの最大の原因はシリアでの戦争 です。このテロと暴力によって恐ろしく痛めつけられている国の状況を安定化し、長期的には平和 をもたらすためには、もちろん私たちは、ロシアや他の国際社会の当事者、地域の当事者をも巻き 込む政治的対話のプロセスを必要としています。9 あらかじめ確認しておきますが、これらのことはすべて忍耐を要求します。それも多分長期にわ たる忍耐が必要でしょう。 4 年以上前のシリアでの内戦の開始以降数百万人の人々が難民になる事 46 態を私たちは経験しなければなりませんでした。これは失望をもたらしました。私たちは、これま でのあらゆる外交努力が全く成果を上げなかったことを認めざるをえません。また、人々がアサド と IS にいわば挟まれている国の惨憺たる状況において、近い将来良い方向に向かって何か決定的 なことが起こる可能性についても何ら私たちを勇気づけてくれるものはないと言わざるをえません。 それでは私たちはこの状況を甘受すべきでしょうか。これ以上の努力を続けることをやめるべき でしょうか。放棄すべきでしょうか。いいえ、それは理性的な選択肢ではありえません。ですから 私たちはこの選択肢を選びません。むしろ私たちは国際共同体と協力して、それが僅かのもので あっても、政治的対話のプロセスが開始されるよう貢献したいと考えています。この貢献のために 連邦外相がクウェートを訪問し、ここ数日中にイランとサウジアラビアを訪問することになってい ます。この貢献のために私はトルコを訪問します。 私たちは同時に、現在シリアからの難民の大部分を受け入れこれからも受け入れを続けるであろ う国々を支援する努力を強化しています。それはなかんずくトルコであり、レバノンであり、ヨル ダンです。これらの国はシリアの内戦から逃れてきた人々を支援していることに対し大いに称賛さ れるべきです。そしてこれらの国々は私たちの支援を受ける資格があります、それも具体的な形で。 これによって私たちはこれまで以上に財政支援をするよう求められます。ですから 9 月23日の臨 時首脳会談で私たちは現地で活動している援助団体に追加的に十億ユーロを供与することを呼びか けました。欧州機関は迅速に行動しました。緊急手続きを適用し欧州理事会はすでに今年度の予算 から追加的な 2 億ユーロの支出を承認しました。この提案に昨晩欧州議会も同意しました。来年は EU 予算からの人道支援額をさらに 3 億ユーロ増額することになります。ドイツはさらに自国の貢 献額をすでに 1 億ユーロ増額しました。到来する冬に向けて食料品供給をさらに引き上げる必要が 出て、この貢献額では不十分であれば、私たちは追加的な手段を投入する用意があります。なぜな ら難民の故国の近くで人道的な条件や生活の展望を確保することに成功すれば、欧州への危険な道 を選ぶという決断を迫られる人々が減るでしょう。 この状況の中で決定的な役割を担っているのがトルコであることに疑いはありません。なぜなら トルコは現在200万人を超える難民というシリアからの難民流出の最大の負担を担っているからで す。EU にやってくるほとんどの戦争難民がトルコを経由して入国してきます。ですからトルコと の協力なしに難民の動きを制御し、抑制することはできません。このことは私たちがトルコに対し 難民の扶助と人道的支援のためにより多くの支援を供与することを意味します。このことはまた、 私たちが国境管理と犯罪的手引き集団の撲滅にあたって協力することも意味します。なぜならトル コの海岸とギリシャの島々との間、つまり二つの NATO 加盟国の間のせまい海峡が目下のところ 47 手引き集団に支配されているという状況を許容することはできないからです。 EU とトルコの協力を強化するために欧州委員会は行動計画を提案しました。これを私たちはす みやかにトルコと合意しなければなりません。昨日欧州委員会副委員長のティマーマンスがトルコ を訪問しました。連邦政府はこの努力を支援するために、あす最初の話し合いが予定されているド イツ=トルコ移民対話を開始します。私は日曜日にイスタンブールを訪問し、今日開始される欧州 理事会の成果についてトルコの代表団と会談することになっています。 トルコとの審議の中で欧州が難民問題の目下の利害を表明するだけでなく、私たちの価値を主張 することもできるのかどうかという点について私たちの多くが懸念していることを私は承知してい ます。このことに関してトルコとは EU 加盟交渉が進行中であることを確認しておきましょう。確 かなことは、これは自明のことですが、Pacta sunt servanda、つまり契約は遵守されるというこ とです。EU とトルコとの交渉は結果を定めたものではありません。このことに連邦政府は拘束さ れており、私もまた同様です。 この精神で私はこれまでトルコとの対話を進めてきましたし、日曜日も同じことになります。日 曜日にはシリア情勢、ビザの自由化、安全な出身国や第三国、テロに対する共同の戦い、トルコで の人権状況等すべての問題が議題となります。しかし私たちはトルコ経由で欧州に向かう難民の移 動のみに注目するという誤りを犯してはなりません。私たちは、正直に告白すれば、春にはつまり 数か月前までは、あまりにも長く、イタリア経由で北部ヨーロッパに向かう難民の移動にのみ注目 していたのです。 グローバル時代ではあらゆることをあらゆることと関連付けて考えなければなりません。ですか ら私たちは、特にアフリカの他の多くの通過国、出身国との協力を強化しなければなりません。11 月中旬には私たちはアフリカの連携国とマルタで EU アフリカ首脳会合で出会います。私たちはそ こで具体的で効果のある進捗を期待しています。欧州理事会は今日この会議も準備します。アフリ カでの難民発生原因がよりよく除けられるように、EU が18億ユーロを供与することを目指して私 たちは作業を進めています。そこで問題になっているのは、現地で生活している人々の経済的展望 が改善されること、犯罪的手引き集団に対する戦いでアフリカ諸国が対応能力を強化することです。 ここで改めて EU の問題に戻ります。この問題には、私たちが EU 対外国境の状況を改善できる よう断固として作業を進める必要があるということを含みます。ダブリン合意で私たちは大部分欧 州の対外国境に管理を委任しました。それは私たちが与えた信頼の証しだったのです。しかし私た ちは今日、対外国境の管理は機能していないことを認めざるをえません。ですから国境管理は欧州 48 共同のものにしなければならないし、より効率的のものにしなければならないし、私たちがより多 くの人員を提供しなければならないのです。欧州委員会は最大1,100人の人員を要請しています。 しかしそれに答えたのはドイツやオーストリアなど数カ国にすぎません。しかし私は、これが今回 の欧州理事会の結論とならなければいけないのですが、すべての国が応分の貢献をするということ を期待しています。これは自明のことです。これには私たちが欧州国境防衛庁 Frontex を強化する ことが含まれます。加盟国は、すでに述べたように、人員を派遣する必要があります。Frontex は 加盟国が人員を提供することによってはじめて成立しているのです。各国の回答は失望させるもの でした。既に言及したことろですが。 そのためにはホットスポット(第 1 次収容施設)を設置する必要があります。最初の作業は始 まっています。この対地域外国境ホットスポットで欧州に到着した難民は、皆様がご存じの通り、 直ちに収容され、登録され、庇護が必要か審査されます。私たちは首脳会議で、このホットスポッ トが11月末までには完全に機能すべきであると合意に達しました。最初の施設が、数は少ないので すが、曲がりなりにも進捗しているのです、その間イタリアとギリシャで仕事を始めています。ド イツは、私たちがイタリアとギリシャに人員と物資の面で支援することにより、ホットスポットの 構築に寄与しています。ここでも強調しますが、これも私たちが全欧州の課題であると理解して初 めて達成できることです。 いわゆるホットスポットはいわば公平な欧州における分担の第一歩なのです。私たちは論争の 後、異論のあった採決の後に16万人の難民の分担を決議しました。法務相と内務相のこの重要な決 議の実施が開始されました。先週末にエリトレアからの最初の難民がイタリアから、スウェーデン に移送されました。ギリシャからルクセンブルクに移送される人々がこれに続きます。 これが最初のささやかな始まりにすぎないことを私はもちろん知っています。しかしこれによっ て大綱が定められたのです。2015年 9 月の臨時首脳会議以降この問題に関して重要な措置が実施に 移されました。私は、これは内閣全員の意見でもありますが、欧州委員会が提案したように、私た ちは欧州で持続的で拘束力のある分担メカニズムを必要としていることを確信しています。ですか ら私たちはさらに実現に向けて作業を進めます。まだ多くの説得作業が必要となるでしょう。しか し私たちは手をゆるめません。 公平で連帯的な分担と並んでもう一つの非常に重要な全欧州の議題は、EU で庇護請求権を持た ない人々の送還です。EU の送還率は昨年は40% 以下です。10 この数字は満足できるものではあり ません。私たちには改善の余地があります。しかし私が数字を詳しく見たところ、ドイツはどの数 字でも首位にはありません。ですからまず私たちから改善する必要があります。私たちの国民的一 49 括措置はまさにそのために役立つためのものです。 私はすでに欧州議会でダブリン手続きが実際には機能していないと申し述べました。ですから欧 州委員会が来年初めにダブリン合意の修正を提案すると予告したことは、良いことであり、正しい ことです。私たちは私たちの提案を示してこの作業に参加します。 議長、親愛なる同僚議員の皆様、私たちが今日ブリュッセルでの欧州理事会で話し合う議題は、 私たちが、全欧州の課題を個々の加盟国の問題とするのではなく、連帯する欧州を必要としている ということを改めて明らかにしてくれます。自らの価値と利益を世界的に主張するために、グロー バル化世界の中で自らの責任を果たすような欧州は、連帯的な欧州でなければなりません。さもな ければ欧州は失敗するでしょう。 この連帯を引き受けまた生命を吹き込む欧州は、困難なプロセスとなるでしょう。しかし私は私 たちは成功を収めることを信じています。この基礎の上で働く欧州は、この危機に見舞われた時よ りもより強力になって危機から脱出することを信じています。私は今日欧州理事会でそのために注 力します。皆様全員の支援をお願いします。 訳注 1 この演説の中で言及されている一括法案は、ドイツ単独では庇護権のある難民の入国を制限しないという方 針のもと、EU レベルでは難民の受け入れ管理体制を強化しようとするものである。このバルカンルートで欧州 に庇護を求めてくる戦争難民を原則的に受け入れるというメルケル首相の基本方針はジュネーブ難民条約やド イツ基本法の精神に沿うものであり、左派党を含む連邦議会の幅広い支持を得ている。ただしこれは同時に EU レベルでは加盟国ごとの分担数を決めることによって、自動的に受け入れ上限数を予定するものでもある。ま た安全な送出国からの受け入れの拒否を強化するため、マケドニア、コソボ、モンテネグロを新たに安全国の リストに追加している。しかしこの基本方針が示された後も、内政でも外交でも難民政策を巡って混乱が続い ている。 連立与党(キリスト教民主同盟 CDU、キリスト教社会同盟 CSU、ドイツ社会民主党 SPD)間のすり合わせの うえで成案となったこの法案は、野党である緑の党も含め議会の圧倒的多数で成立した。野党の緑の党(バー デン=ヴュルテムベルク州政府を代表している)と左派党(チューリンゲン州政府を代表している)も国民的 難民対策案についての合同協議にも参加し、法案を政権外から支える立場をとっている。緑の党も左派党も難 民受け入れ制限には批判的だが、メルケルの基本方針に対して協力的な立場を示している。同盟の内部、特に CDU 右派と CSU が、難民受け入れ人数の制限を求めて、公然と原則的な批判を繰り返しているのに対し、野党 である緑の党と左派党がメルケル首相の原則受け入れ政策を支持するという奇妙な事態が進行している。これ は2005年にメルケルが首相に就任して以来初めての事態である。この法案の可決後も、通過地区(国際空港の 手続きに倣って入国前に難民の審査手続きを行う施設)の設置を巡って同盟と社民党との間で論争があった。 拘束を伴う施設を国境に設置すること(CSU が提案)に反対する社民党は、名称の変更と設置場所を国内に限 定することで同盟と妥協した。しかしこの 3 党合意の直後、ドゥメジエール連邦内務相が内閣府とすり合わせ をせずに、シリア難民の地位を制限する(滞在期間の 3 年から 1 年への制限と、家族呼び寄せの禁止)と発表 し内閣不一致を世論の前に示す結果となった。その後内閣府の指示で発言を撤回した内務相に、ショイブレ連 50 邦財務相とキリスト教社会同盟幹事長ショイアーが、メルケル首相の権威を否定する形で、公然と理解を示す 発言をした。11月13日のパリ連続テロ事件の直後にメルケルを招いて開かれた CSU 党大会で、ゼーホーファー・ バイエルン州首相(CSU 党首)は、公然とメルケルとの意見の相違を強調し、メルケルに受け入れ人数制限を 実施するよう改めて要求した。 欧州理事会でもメルケルの提案は強力な抵抗を受けている。昨年末からシリア周辺国難民収容施設での待遇 悪化があり(国連・国際援助団体への約束された資金が未達) 、また地中海ルートでの難民大量溺死が続いたこ とから、難民の流れはトルコからギリシャに流入するバルカンルートに移動した。これに対しバルカンルート 通過国のひとつであったハンガリーは単独行動に訴え 8 月に国境を封鎖し、実質的に難民の流入を阻止した。 メルケルは 8 月末に、ユダヤ人迫害、東部ドイツからの強制退去、ベルリンの壁というドイツ固有の歴史的教 訓からこのハンガリーの単独行動に反対し、これもドイツ単独で、原則的難民受け入れを表明した( 「私たちは (難民受け入れを)やり遂げる。難民受け入れを拒否する国は私の国ではない。 」 )その後毎日数千人の規模で難 民がドイツへ向けて移動を続けている。その数は2015年百万人を超えると予想されている。トルコから流入す る EU 域第 1 通過国はギリシャだが、ダブリン規定(難民は第 1 通過国で登録、難民申請をしなければならない) はイタリアも含め今年に入り機能していない状態が続いている。その後メルケルを支持するユンカー欧州委員 会委員長提案によって本演説の中でも言及されている難民政策措置が EU で実現したが、その際にも、イスラム 教徒の受け入れを拒否すると公然と表明していたオルバン・ハンガリー首相は、この難民問題は、欧州の問題 ではなく難民受け入れを表明したドイツの問題であるとメルケルに対し批判を繰り返した。難民政策措置は、 慣例を破り、難民受け入れは国内問題であると主張するハンガリーやスロバキアなどの反対を押し切って多数 決で採択された。今回の首脳会談でもオルバン首相は、ハンガリーはこの問題の傍観者であると表明している。 その後政権交代のあったポーランドでは(難民政策が選挙の争点となった) 、政権交代が起こり、新政権は前政 権が約束していた七千人の受け入れを撤回することを、パリ多発テロ事件を引き合いに出し、表明している。 EU レベルで難民分担問題が解決しなければ、シェンゲン協定が崩壊することをメルケルも認めざるを得ず、そ うなればドイツの国境管理をさらに強化し、難民受け入れ人数制限に追い込まれることになる。2015年末まで にドイツに流入する難民の総数は100万を超えたとみられる。 2 ドゴール・フランス大統領による理事会ボイコット(その後妥協成立) 、デンマークやアイルランドでの基本 条約批准の失敗(その後再投票で批准成立)などがあった。またメルケルが首相に就任したのは、シュレーダー 前政権時代の2005年 5 月から 6 月にかけてフランスとオランダという EU 中核国で欧州憲法条約の批准が国民投 票で失敗し、ドイツ総選挙が 1 年前倒しで行われた結果であった。 3 ギリシャのチプラス首相がギリシャ救済を審議する欧州理事会から離脱し、救済策を国民投票で否決させた ことを指している。これに対しショイブレ財務相はギリシャのユーロ離脱を勧告する案を提案した。しかしそ の後チプラス政権は審議の場に復帰し、第 3 次救済策に合意した。 4 共通通貨ユーロを導入する際、財政同盟設立の手順を決めなかったこと。1998年の財政規律を定めるユーロ 安定成長協定では 3 % 条項(単年度赤字は GDP の 3 % 以内とする)などで合意したが、この取り決めを主導し たドイツを含め、違反国が続出した。 5 2015年11月に入りウクライナ・ロシア関係は再び緊張した。クリミア半島への送電線の破壊工作事件、ロシ アによるウクライナへのガス供給ストップ、ウクライナによるロシア機に対する上空閉鎖などがあり、しばら く続いた緊張緩和が再び転機を迎え、ミンスク合意の進展はストップしている。 6 イギリス政府が発表した内容は、制限的移民政策、ユーロ危機や難民危機の影響、つまり財政負担を危惧し た消極的なもので EU を失望させるものであった。 7 難民の多くがスマートフォンを所持し、各国政府の難民政策やルート検索などについて活発に情報交換をし ている。 8 いわゆる日当(現金支給)を公共交通機関の利用券や通信カードなどに代替しようとする試みがある(バイ エルン州)が、事務費が嵩み現実的でないという批判が強い。 9 ウィーン会議で初めて主要な関与国が初めて同じテーブルについた。バルカンルート難民の大量発生とロシ アによるシリア沿岸ロシア基地の拡充とシリア空爆がきっかけとなった。クリミア問題、東部ウクライナ問題 で国際社会で孤立したロシアが IS に対する統一戦線の構築を促した側面(国際社会での復権を企図)も強いが、 51 難民問題を抱えるドイツがこの調整では主導的な役割を果たしている(この難民問題の主因はシリア内戦であ る) 。利害が対立するイラン(アサド政権を支援し、派兵)とサウジアラビア(アサド政権に対立し、スンニ派 反体制勢力を支援し財政的支援と武器供与)、ロシア(アサド政権を支援し、反体制派を空爆)とトルコ(アサ ド政権に対立するが、クルド勢力の拡大を警戒し、トルコ系反体制派を支援。IS との関係もあいまい)も参加 して期待が高まった。しかしその後も、ロシア民間旅客機のテロによるシナイ半島上空爆発墜落事件、レバノ ンのヒズボラを標的とする自爆テロ事件、パリの連続テロ事件、チュニジアの大統領警護隊を標的とするテロ 事件など各地で IS によるテロ事件が頻発しており、緊張はむしろ高まっている。同じ統一戦線を組むべきトル コ空軍がロシア軍機を領空侵犯で撃墜する事件も起き、周辺国は結束には依然として程遠い状態にある。アサ ド政権の評価を巡ってロシアと対立するアメリカとフランスも原則的立場を維持しており、この政治プロセス が何らかの成果を生み出すか全く不明である。 10 2015年には例えばバイエルン州での送還率は25% 前後である。 52 【研究ノート】 中村廣治のリカード研究 福 田 進 治 はじめに スラッファ編『リカードウ全集』 (1951–1973)刊行後、日本のリカード研究はスラッファのリ カード解釈から多くの知見を獲得しながらも、やがてスラッファの影響を克服し、日本独自の道を 歩んできた。すなわち、日本の研究者たちは、スラッファの初期リカードの利潤理論に関する「穀 物比率論」解釈を批判的に検討し、独自の初期リカード解釈を確立するとともに、初期以降のリ カードの労働価値理論の発展過程を綿密に検討することによって、欧米には見られない独自のリ カード研究の成果を生み出してきた。最初にスラッファの「穀物比率論」解釈を批判し、その後の 日本のリカード研究史の中で中心的な役割を果たしてきたのが、羽鳥卓也(1922–2012)であるが、 羽鳥から影響を受け、羽鳥と論争しながら、羽鳥とともに『リカードウ全集』刊行後の日本のリ カード研究を牽引してきたのが、中村廣治(1931–2014)である 1 )。 2012年12月に他界した羽鳥を追うように、2014年 7 月に中村は他界した。日本のリカード研究は 相次いで大きな 2 本の支柱を失ったのである。日本のリカード研究者たちは例外なく、羽鳥と中村 から学問上の多大な恩恵を受けてきた。羽鳥と中村がいなかったなら、今日の日本のリカード研究 はまったく違ったものになっていただろう。羽鳥が他界したときと同様、多くの研究者が中村の他 界を惜しんでいる 2 )。筆者も然りである。後に言及するように、中村はリカードの労働価値理論の 成立の論理について、 「連動論に基づく連動論顕化否定の論理」 (中村 1996, p. 24)という一種の生 産費説解釈を提示した。筆者のリカード解釈は中村のこの解釈を継承し徹底することによって生ま れた 3 )。この解釈を含めて、中村のリカード研究は欧米には見られない卓越した貢献であり、今日 でもまったく色あせていない。 本稿の課題は、こうした中村のリカード研究を振り返り、その貢献と理論的意義の再評価を試み ることである。中村のリカード研究は多くの論点を含み、各々が極めて詳細であるから、本稿でそ れらすべてを検討することは適わない。以下では、中村のリカード研究の特色を明らかにするであ ろう論点に絞って検討する。また、羽鳥と中村の関係を検討しながら、中村が日本のリカード研究 史の中で果たしてきた役割について考える。その上で、日本のリカード研究の特色についてあらた めて考えてみたい。 53 1 中村廣治のリカード研究 最初に、中村のリカード研究の経緯を概観しておきたい。中村は1931年、福岡県に生まれ、地元 の九州大学に進学した。1958年、九州大学大学院を修了し、大分大学に着任、その後、広島大学、 熊本学園大学と移籍し、九州産業大学で大学教員としての経歴を終えた。しかし、その後も中村は 研究の手を緩めることはなかった。この間、以下の 3 冊の研究書を上梓した。 ◦ 『リカァドゥ体系』 (1975) ◦ 『リカードウ経済学研究』 (1996) ◦ 『リカードウ評伝-生涯・学説・活動-』 (2009) このように中村は生涯にリカードの研究書ばかり 3 冊刊行している。中村は大学院では古典派の貨 幣・信用論史を研究していたが、大分大学着任後、リカード研究に取り組むようになった。その後 も中村は一貫してリカード研究を推し進めていった。中村は決して多作家ではなかったが、各々の 著書は極めて充実した内容を含んでおり、しかも後の著書になるほど重厚になっている。どうして 中村はリカード研究に取り組むようになったのだろうか。恐らくは、羽鳥の影響が決定的であった と思われる。1965年、羽鳥は小樽商科大学で学会報告「初期リカードウの分配論」4 )を行うととも に、論文「初期リカードウの価値と分配の理論」 (羽鳥 1965、羽鳥 1972に所収)を発表し、スラッ ファの「穀物比率論」解釈を世界で最初に批判した。後に触れるように、中村は羽鳥のスラッファ 批判に衝撃を受けたと述懐している。そして、羽鳥のリカード研究を検討することが契機となっ て、中村のリカード研究の歩みが始まった。その最初の成果が1975年刊行の『リカァドゥ体系』で ある。ここで中村は羽鳥の影響を受けて、それ以前は受け入れていたスラッファのリカード解釈を 批判的に検討しつつ、羽鳥のリカード解釈にも同意することなく、独自の初期リカード解釈と『原 理』の理論構造に関する解釈を提示した。この頃から、羽鳥と中村は互いに相手の研究から刺激を 受けながら各々のリカード研究に取り組むライバルのような間柄になっていった。中村は羽鳥の研 究から刺激を受けて、ますます精力的にリカードの労働価値理論の発展過程に関する研究に取り組 むようになった。その成果が1996年刊行の『リカードウ経済学研究』である。ここで中村はリカー ドの労働価値理論の成立の論理と「修正」の問題を検討するとともに、価値論以外の論争的な諸問 題についても検討し、彼独自のリカード解釈を確立しようと試みた 5 )。晩年の中村はそれまでの彼 自身のリカード理論の研究成果をまとめるとともに、リカードという人物の全体像を描くことに精 力を傾けた。その成果が2009年刊行の『リカードウ評伝-生涯・学説・活動-』である。タイトル が示すように、ここではリカードの生涯、経済理論、議会等の諸活動についてまとめられており、 中村のリカード研究の集大成と呼ぶにふさわしい内容となっている 6 )。 以上のように、中村は1960年代後半頃から羽鳥の影響を受けて、スラッファのリカード解釈を批 判的に検討しながら、彼自身のリカード研究を開始した。その後、羽鳥と中村は互いに相手の研究 から刺激を受け、まさに切磋琢磨しながらリカード研究に取り組むようになった。後年、羽鳥がス 54 ミス研究やマルサス研究にも取り組むようになったのに対して、中村は一貫してリカード研究に取 り組み続けた。晩年は、中村もマルサス研究に手を付けたが、それもリカードと関係する論点に限 られたものだった 7 )。こうして羽鳥と中村は互いに切磋琢磨しながら、『リカードウ全集』刊行後 の日本のリカード研究を牽引してきた。羽鳥と中村のスラッファ批判やリカード研究は、日本のリ カード研究の特色を規定することになった。 以下では、中村のリカード研究のうち、中村が彼独自の理論的貢献を示そうと試みた『リカァ ドゥ体系』及び『リカードウ経済学研究』の内容を検討し、その後、羽鳥と中村の関係をあらため て検討したい。 2 リカード研究の開始 ─ 『リカァドゥ体系』 (1975)─ 本章では、中村の『リカァドゥ体系』の内容を検討する。その前編「リカァドゥ体系の生成」で は、初期リカードが地金論争に関わる議論から出発し、一般的利潤率の決定に関する議論を経て、 労働価値理論の形成に向かう過程が検討され、後編「リカァドゥ体系の理論構造」では、 『原理』 各章の相互関係と論理構成が詳細に検討されている。これらのうち、以下では初期リカードの利潤 理論及び『原理』の理論構造に関する中村の研究を概観する。 スラッファは『リカードウ全集』 「編者序文」 (1951)で、初期リカードの利潤理論に関する「穀 物比率論」解釈を提示した。すなわち、初期リカードは農業部門の投入と産出がともに「穀物」の みからなると仮定して、利潤率の決定の問題を議論していたという(RW, I, pp.xxxi–ii)8 )。こうし た「穀物比率論」解釈は、欧米のリカード研究において支配的な解釈となった。しかし、1965年、 羽鳥はその「穀物比率論」を批判した。羽鳥は1814年のリカードとマルサスの往復書簡や1815年刊 行の『試論』の内容を検討した結果、これらの文献に基づいてスラッファの解釈を正当化すること は難しいと主張し、さらに当時のリカードはスミスの支配労働=価値尺度説を克服していなかった とする彼自身の解釈を提示したのである(羽鳥 1972, pp.196–213)9 )。こうした羽鳥の議論を受け て、中村はスラッファの初期リカード解釈に対する批判をより体系的に展開した上で、彼独自の初 期リカード解釈を提示した。その中心的な論点の一つが1814年 6 月26日付のリカードのマルサス宛 書簡(50)に見られる次の叙述に関わるものだった。 「穀物の輸入に対する諸種の制限の効果は利子率を低下させる傾向をもつという点を疑って おいでですが、この疑いには賛成できません。資本が増加しないのに、穀物の価格というより も価値が上昇すると、穀物の価格にともなって他の商品の価格も(徐々にですが)確かに上昇 するでしょうが、たとえこの上昇がなかったとしても、それらのものへの需要は必然的に減少 します。資本が同じなら、生産も減少し、需要も減少するでしょう。需要は需要される諸商品 に対して支払をする力の欠乏の他に限界をもっていません。生産を減少させる傾向があるもの はすべてこの力を減少させる傾向があります。利潤率と利子率とは、生産にとって必要な消費 55 に対する生産の比率に依存しなければなりません。─この比率はまた、本質上、食糧の安価 さに依存しており、この食糧の安価さこそ、我々が[その作用に]どのくらいの時間を認めよ うと自由ですが、結局、労働賃金の一大調整者であります。」 (RW, VI, p.108) ここでリカードは、利潤率は「生産の比率」に依存すると述べながら、同時に「食糧の安価さ」に 依存すると述べている。スラッファは「生産の比率」が「穀物比率」を意味するとして、この叙述 が「穀物比率論」解釈を正当化する間接的証拠であると主張したが、羽鳥は、それは必ずしも「穀 物比率」を意味しないと主張した(羽鳥 1972, pp.197–98)10)。中村はさらに踏み込んで、リカード は農業の収穫逓減を前提として、穀物輸入制限が総生産量の減少させ、利潤率を低下させるという 実物タームの議論を展開しながら、同時に、 「食糧の安価さ」が利潤率を規定するという価格ター ムの議論を提示していると主張した。そして、リカードは実物タームと価格タームが混在する議論 の中で、不十分ながらも、 「賃金-利潤相反論」の基礎を獲得したという(中村 1975, pp.50–75)。 こうした中村の初期リカード解釈は非常に綿密に構成されたもので、スラッファの解釈とも羽鳥の 解釈とも異なる独自の解釈である。その後、中村は彼自身の解釈を放棄し、千賀重義の「部門別利 潤率規定論」(千賀 1972)を受け入れることになるが、価格タームの議論と「賃金-利潤相反論」 の成立を基軸とする視角はその後も一貫して保持することになる11)。 リカード『原理』の理論構造の問題については、スラッファはやはり『リカードウ全集』 「編者 序文」で、 『原理』前半部の理論的諸章の構造を「価値と分配の理論」として把握する解釈を提示 した。この問題についても、羽鳥はスラッファの解釈を批判し、独自の解釈を提示した。 『原理』 各章の配列が複雑であることは以前より知られており、多くのリカード研究者を悩ませてきた。そ の前半部の理論的諸章は以下のとおりである。 第 1 章 価値論 第 2 章 地代論 第 3 章 鉱山地代論 第 4 章 価格論 第 5 章 賃金論 第 6 章 利潤論 第 7 章 外国貿易論 これらのうち、第 2 章地代論及び第 3 章鉱山地代論(第 3 章は第 2 章の補論)が第 1 章価値論と第 4 章価格論に挟まれる位置に置かれており、いかにも不自然である。スラッファは、リカードは賃 金と利潤の分割の問題を単純化するために、第 1 章価値論の直後に第 2 章地代論を置いて地代の問 題を先立って捨象しようとした、第 4 章価格論はもともと第 5 章賃金論の序章にすぎなかったと主 張した(RW, I, p.xxiii) 。このとき、第 1 章価値論から第 3 章鉱山地代論までを「価値の理論」 、第 4 章価格から第 6 章利潤論までを「分配の理論」として把握することができる。しかし、羽鳥は、 こうしたスラッファの説明は不十分であるとして、リカードは労働価値理論の立場を正当化するた 56 めに、第 1 章価値論の前半で純粋な労働価値理論の論理を提示した上で、第 1 章価値論の後半で資 本構成の相違に関わる問題を検討し、続いて第 2 章地代論で土地の肥沃度の相違に関わる問題を検 討したと主張した。こうして羽鳥はリカード体系を「労働価値理論に基づく所得分配と資本蓄積の 理論」として把握する彼自身の解釈を提示したのである(羽鳥 1972, pp.272–81)12)。中村の解釈は こうした羽鳥の解釈を継承し、発展させたものである。すなわち、中村はマルクスの二重構造の価 値-価格論を意識しながら、リカードの価値論を「剰余価値論」 、価格論を「自然価格論」として 整理しようとした。そして、第 1 章価値論を「価値・剰余価値論」、第 2 章地代論を「特殊・具体 的な形態における剰余価値論」と呼び、第 4 章価格論は「現実・具体の複雑な事情のうちに剰余価 値論の原理が貫徹することを立証する」とした。このとき、第 1 章価値論を基本的ケースとして、 第 1 章価値論と第 2 章地代論を「広義の価値論」として把握し、第 4 章価格論を「自然価格論」と して把握した上で、これを方法的基礎として、第 5 章賃金論と第 6 章利潤論を「分配論」として把 握する解釈が可能になる。こうして中村は羽鳥の解釈を徹底させ、 「価値論」と「価格論」の二重 構造の視角に基づいて、リカード体系を「自然価格論」と「分配論」として把握する彼自身の解釈 を提示したのである(中村 1975, pp.191–201)13)。 3 リカード研究の新展開 ─ 『リカードウ経済学研究』 (1996) ─ 本章では、中村の『リカードウ経済学研究』の内容を検討する。その前編「リカードウ価値論の 成立と展開」では、初期以降のリカードの労働価値理論の成立とその「修正」の問題が集中的に検 討され、後編「リカードウ経済学の諸問題」では、リカードの貨幣数量説、賃金論、需要論、租税 論といった価値論以外の論争的な諸問題が検討されている。これらのうち、以下では中村の最も独 創的な解釈、すなわち、リカードの労働価値理論の成立の論理及びリカードの賃金論に関する中村 の研究を概観する。 リカードの労働価値理論の成立の論理に関わる問題は、スラッファが十分に扱わなかった問題の 一つである。スラッファは、リカードは『原理』では「穀物」に代わって、「労働」によって異質 財の価値を集計するより一般的な労働価値理論を採用したと述べるに留まっていた(RW, I, xxxi– ii) 。羽鳥はこの問題を探求していたが、中村は羽鳥の研究から多くの知見を獲得しながらも、羽鳥 の研究に満足していなかった14)。中村はリカードがいかにしてスミスの「連動論」(賃金の変化が 諸商品の価格の比例的変化をもたらすという原理)を克服し、 「賃金-利潤相反論」を確立したの かという問題を探求していた。そこで、中村は1815年 3 月27日付のリカードのマルサス宛書簡 (87)に見られる次の叙述に注目した。 「地金に関するパンフレットでも述べたように、多くの人は貨幣はただ一個の商品にすぎな いもので、他の諸商品と同じく需要供給による価値変動の法則に従うものだと考えると言いな がら、貨幣について推理をあまり進めないうちに、実際には貨幣を何か特殊な─他の商品に 57 影響する原因とはまったく違った諸原因から変動するものと考えていることを暴露しないこと は滅多にありません。あなたも『第一にすべては穀物と他の諸商品との関係に依存するが、労 働と穀物はすべての商品に入るのであるから、穀物と他の諸商品との間の差額は穀物の貨幣価 格に比例して増大するということはできない』とおっしゃるときに右の誤りに陥っておられる のではないでしょうか? もし貨幣が商品であるとすれば、それの価格または価値の中に、穀 物と労働が入っていくのではないでしょうか? もし入っていくとすれば、貨幣が穀物や労働 のように他のすべての商品と同じ法則に従って変動しないというのはなぜでしょう?」 (RW, VI, p.203) ここでリカードはマルサスの見解を批判しながら、貨幣が労働生産物であることを前提として、貨 幣は他の諸商品と本質的に同じ一商品であるから、他の諸商品と同じ原因に依存して変化するに違 いないと主張している。すなわち、賃金が変化したとき、他の諸商品の生産費が変化し、それらの 価値は変化するが、同時に貨幣の生産費も変化し、その価値も変化するという。このとき、諸商品 の価格が諸商品の価値と貨幣の価値の比率であることを前提として、両者が比例的に変化する限 り、結果的に諸商品の価格は変化しない。中村はこうした論理がリカードの労働価値理論の成立の ための決定的な基礎となったと考えた。これらの関係を図示するなら、以下のとおりである。 商品の生産費(賃金×労働量)→ 商品の価値 貨幣の生産費(賃金×労働量)→ 貨幣の価値 → 商品の価格 ここで賃金の変化が諸商品の価値の変化をもたらすという「連動論」は価値レベルで保持されてい るが、まさにその結果として、価格レベルでは消去されている。中村はこれを「連動論に基づく連 動論顕化否定の論理」と呼んだ。そしてこのとき、賃金の変化は利潤率の逆方向の変化をもたらす という「賃金-利潤相反論」が成立し、同時に、投下労働量の変化は価格の変化をもたらすという 労働価値理論の基本的命題が成立するのである(中村 1996, pp.20–27)15)。こうした中村の解釈は、 生産費が価値を規定することを承認するものであり、リカードの労働価値理論を本質的に生産費説 であると主張する極めて独創的な解釈だった。そして、こうした解釈を前提として、中村はリカー ドの労働価値理論の「修正」の問題の解明に取り組み、卓越した研究成果を生み出していった16)。 ところで、こうした労働価値理論の解釈は、中村の立場が当初のマルクスの価値論の立場から大き く離れていったことを意味している。ここに至って、羽鳥は自分の立場と中村の立場が大きく異な るという事実を認めざるをえなくなったようである。なお、冒頭でも述べたように、筆者はこうし た中村の労働価値理論の解釈を徹底させることによって、筆者自身のリカード解釈を生み出すこと ができた(福田 2006, pp.106–14) 。 リカードの賃金論に関わる問題は、その決定の原理が難解であることや、リカードが当初、 『原 理』の第 4 章賃金論として執筆していた文章を刊行直前になって第 4 章価格論と第 5 章賃金論に分 58 割したという事情からも、リカード解釈の難点の一つであったといえるが、スラッファも羽鳥もこ れを十分に検討していなかった17)。そこで、中村はリカードの労働商品とは何か、労働の自然価格 とは何かという点から探求を進めていった。そして、中村は労働商品の「価格調整機構」の問題に 辿り着いた。中村は『原理』第 9 章原生産物租税論に見られる次の叙述に注目した。 「もしも市場にある帽子がその需要に対してあまりにも少なければ、価格は騰貴するであろ うが、しかしそれはほんの短期間のことにすぎない。なぜなら、 1 年も経つうちに、その事業 により多くの資本を使用することによって、帽子の分量にいくらでも適当な追加を行うことが でき、それゆえにその市場価格は長らくその自然価格を大幅に超過することはあり得ないから である。しかし、人間についてはそうはいかない。資本が増加する場合に、人間の数を 1 年や 2 年で増加することはできないし、また資本が減退的状態にある場合に、その数をすみやかに 減少させることもできない。それゆえに、労働維持のための基金は急速に増減するのに、働き 手は緩慢に増減するから、労働の価格が穀物及び必需品の価格によって正確に左右されるまで には、かなりの時間的余裕がなければならない。」 (RW, I, p.165) ここでリカードは、一般の諸商品と労働商品では、価格変化(賃金変化)に基づく供給量の調整の ために必要な時間が大きく異なると述べている。一般の諸商品はすみやかに調整されるが、労働商 品は極めて緩慢にしか調整されないのである。しかし、両者は調整時間が異なるだけではない。中 村はそれらの「価格調整機構」は「その作動の動因や仕方においても、その作動の場ないし次元に おいても、著しく異なっている」と指摘した。すなわち、一般商品の供給量は、総資本を一定と仮 定して、需要の変化に対応して資本の部門間の配分が変化することによって調整されるが、労働商 品の供給量は、社会全体の総資本=労働需要の変化に対応して、労働供給=人口が変化することに よって調整されるという。これらを踏まえて、中村はリカードの労働商品の把握は「完全に転倒し ている」と述べた。リカードは労働供給を内生化した経済モデルを形成しようとして、労働力を自 然価格の論理によって基礎づけようとしたが、そこには大きな困難があったのである(中村 1996, pp.249–53) 。なお、中村は言及しなかったが、リカードが『原理』第 4 章価格論で一般の諸商品の 調整の問題を扱い、第 5 章賃金論で労働商品の調整の問題を扱っていることを想起するなら、中村 が指摘した問題は、リカードが第 4 章価格論と第 5 章賃金論を分割した理由を説明する材料になる かもしれない。また、 『原理』第 4 章価格論と第 5 章賃金論に大きな断絶があるということ、ある いは第 5 章賃金論が、中村が指摘するような他の章に見られない特殊な性格をもつ議論であるとい うことは、中村が以前の『リカァドゥ体系』で提示した『原理』の理論構造に関する解釈を再検討 する必要があることを示唆しているというべきかもしれない18)。 4 リカード研究の系譜─羽鳥卓也と中村廣治─ 本章では、羽鳥と中村の関係について検討する。すでに述べたように、1970年代以降、羽鳥と中 59 村は互いに相手の研究から刺激を受け、互いに切磋琢磨しながら、日本のリカード研究を牽引して いくようになった。以下ではそうした関係の内実を見た上で、羽鳥のリカード研究と中村のリカー ド研究を比較しながら、羽鳥から中村を経て今日の世代に繋がる日本のリカード研究の系譜につい て考えてみたい。 1965年、羽鳥は学会報告「初期リカードウの分配論」と論文「初期リカードウの価値と分配の理 論」において、スラッファの初期リカード解釈を批判した。当時、欧米のリカード研究者はもちろ ん、日本の研究者たちも、ほとんどがスラッファの解釈に何ら疑問を抱いていなかった時代であ る。このことについて、1972年の学会シンポジウム「リカードゥ研究における西欧と日本」19)にお いて、羽鳥は述懐している。すなわち、羽鳥は、当初はスラッファの解釈を歓迎していたが、内田 義彦の下で支配労働価値説と投下労働価値説の関係を再検討していたこともあって、スラッファの いう初期リカードの「穀物比率論」から労働価値理論への転換に違和感を感じるようになったとい う(入江 1973, pp.11–12) 。こうしてスラッファの解釈を批判するに至ったということであるが、 その衝撃は大きかったであろう。中村は同じシンポジウムで次のように述べている。 「スラッファから受けた衝撃と同様の衝撃を、私は小樽商大での羽鳥さんの報告から受けま した。それまではスラッファで良いんじゃないかと思っておりましたところ、それじゃいかん と言われるものですから、これは大変だと思って、もう一度検討してみますと、それまでも何 となく居心地が悪い気持ちがあったんですけれど、それを正面から出されまして、このままの リカードゥ研究を続けても意味がないと思いまして、それならば羽鳥さんの作業仮説が本当に 生きるだろうかという問題で、始めたわけです。」 (入江 1973, p.13) こうして中村は羽鳥のスラッファ批判に衝撃を受けて、羽鳥のリカード研究を後追いするように なったという。やがて、羽鳥と中村に多くの日本のリカード研究者たちが続き、羽鳥と中村は互い に切磋琢磨しながら、彼らを牽引する役割を果たすようになった。羽鳥は1982年刊行の『リカード ウ研究』 「あとがき」において、次のように中村に対する謝辞を述べている。 「私は畏友中村廣治氏のお名前だけはここに記さずにはおられない。氏は多年にわたって、 本書のテーマとほぼ重なり合うテーマを追求されておられるが、絶えず新鮮かつ意欲的な諸論 著を発表されて、私に大きな刺激を与えて下さったばかりではなく、最近の十年あまりの間、 私が発表した諸論著のほとんどすべてについて、その都度綿密に検討されて、あるいは直接の 会話の中で、あるいは長文の私信によって、私見に対する忌憚のない批評を惜しみなく加える 労をとって下さった。私は氏の御教示によって数えきれぬほど多くの論点について蒙を啓かれ たのであった。 」 (羽鳥 1982, p.425)20) これに説明を加える必要はないだろう。羽鳥と中村がいかに互いに切磋琢磨していたかが非常によ く分かる文章である。中村も『リカードウ経済学研究』 「はじがき」において、次のように羽鳥に 対する謝辞を述べている。 「とりわけ羽鳥教授には、本書のもととなった論考作成の段階から度々目を通していただき、 60 生来の軽忽ゆえの誤りをはじめ、さまざまの論点にいたるまで巨細にご指摘・ご教示、ご批判 くださった。本書中にかりにも何ほどなりとも見るべき点があるとすれば、それはひとえに教 授の学恩の賜物である。のみならず、ともすれば挫折を口実に怠慢に陥りがちな私を、あるい は叱咤、あるいは激励していただいた。 」 (中村 1996, p.ii)21) こうして羽鳥と中村は互いに切磋琢磨しながら日本のリカード研究を牽引してきた。羽鳥がいなけ れば中村のリカード研究はなかったかもしれないし、中村がいなければ羽鳥のリカード研究もな かったかもしれない。上に述べたように、最初にスラッファのリカード解釈の衝撃があった。その 衝撃を受けながらも、羽鳥はスラッファの批判を開始した。羽鳥のスラッファ批判の衝撃を受けた 中村が羽鳥に続いた。そして、羽鳥と中村のリカード研究から衝撃を受けた今日の世代の研究者た ちが羽鳥と中村の後を追っているのである。このようにして、スラッファの衝撃は日本のリカード 研究の中に吸収されていった。その流れの中核を担ったのが、羽鳥と中村の系譜的または相互的な 関係であった。 日本のリカード研究におけるスラッファのリカード解釈の吸収の形は、世界的に見ても異例で あったと思われる22)。それは羽鳥と中村の貢献であるというべきかもしれないが、それではどうし て羽鳥と中村はスラッファの解釈を全肯定も全否定もすることなく、その成果をバランス良く吸収 することができたのだろうか。羽鳥は彼自身のリカード研究の方法についてまとまった叙述を残し ているが、中村にはそれがほとんど見当たらない。羽鳥は1963年刊行の『古典派資本蓄積論の研 究』 「序説」他で、古典派の現代的意義を明らかにするためにこそ、歴史的事実に忠実でなければ ならないと述べていた(羽鳥 1963, pp.7–11)23)。恐らくは、こうした羽鳥の方法を受け入れながら、 中村は『リカァドゥ体系』 「はじめに」でわずかに次のように述べている。 「本書は、このような時代に生き、その時代の課題に敏感に反応しつつ、生成し、確立する リカァドゥ体系を追跡するうちに、スミスからリカァドゥにいたる古典派経済学展開の軌跡 を、いわばこの個体発生のうちにその系統発生を、およぶ限り綿密に、しかも展開の筋道に注 目しつつ解明し、これに基づいて、リカァドゥ体系の内的編成を照射することを目的とするも のである。 」 「本書のこのようなアプローチからして、叙述は、すぐれてリカァドゥに内在し、ときどき の主要著作を環節とし、おりおりの書簡(とりわけマルサスとの往復書簡)がこれを連還する 役割を果たしつつ進められるだろう。リカァドゥがそれぞれの時期=段階に到達しえた理論的 な高み=深みを確定しつつ、しかもそのうちにはらまれる展開の内的動因の剔抉につとめなが ら。 」 (中村 1975, pp.1–2) ここで中村は、古典派の理論史を解明するためには、リカードに内在しなければならないと述べて いる。そして、そのためにはリカードの主要著作だけでなく、それらを繋ぐものとして書簡につい ても検討し、リカードの各段階の理論的な到達点を明らかにしなければならないという。やはり中 村も現代的(理論的)意義を明らかにするためにこそ、歴史的(文献的)事実に忠実でなければな 61 らないと述べているようである。羽鳥も中村も、このように現代的意義と歴史的事実のバランスを 重視するという方法を自覚的に採用していたからこそ、スラッファの貢献をバランス良く吸収する ことができたのではないかと思われる。そして、こうした羽鳥と中村の方法は、今日の日本のリ カード研究にとって貴重な財産となっているに違いない。 おわりに 以上より、中村のリカード研究の特色が一定程度明らかになったものと思われる。中村は羽鳥の スラッファ批判から刺激を受けてリカード研究を開始し、その後も羽鳥の研究から刺激を受け、羽 鳥と互いに切磋琢磨しながら、羽鳥とともに日本のリカード研究を牽引してきた。そして、羽鳥と 中村は、リカードの労働価値理論の発展過程に関する研究を始めとする欧米には見られない独自の リカード研究の成果を生み出してきた。羽鳥と中村が今日の日本のリカード研究に及ぼした影響は 大きい。 中村のリカード研究は、当初、羽鳥のリカード研究の後追いという形で始まり、また、マルクス の価値論を意識した解釈が目に付いたが、羽鳥の研究を吸収しながら、より綿密な検討を重ねてい くにつれて、次第に中村独自のリカード解釈を打ち出すようになった。1960年代後半から1970年代 にかけて発表された( 『リカァドゥ体系』に所収された)中村のリカード研究は、主として羽鳥の リカード研究の後追いとして着手されたものであり、綿密ではあるが、中村の独自性が十分に発揮 された研究であるとはいえない。しかし、1980年代以降に発表された(『リカードウ経済学研究』 に所収された)中村のリカード研究は、十分に独創的であり、恐らくは、羽鳥の研究やマルクスの 立場から距離を置くことを厭わず、中村なりにリカードに内在した結果に違いない。 中村のリカード研究の方法は、羽鳥の方法と同様、現代的意義を明らかにするためにこそ、歴史 的事実に忠実であろうとする、現代的意義と歴史的事実のバランスを重視する方法だったといえる だろう。羽鳥も中村もリカード理論の現代的意義を明らかにすることを目指しながらも、綿密な文 献的調査を行うことによってリカードに深く内在しながら、彼ら自身のリカード解釈を形成して いった。ただし、中村の方が羽鳥よりも理論的志向が強いリカード研究を目指していたように思わ れる。徹底的に文献的調査を行いながらも、徹底的に理論的整合性を重視していたからこそ、中村 は羽鳥の研究を乗り越え、マルクスの立場から距離を置くようになり、結果的に羽鳥よりも独創性 の強いリカード解釈を生み出すことができたのではないだろうか。 日本のリカード研究にとって、羽鳥と中村の存在はかけがえのないものだった。スラッファのリ カード解釈の重要性については論を待たないが、日本のリカード研究がスラッファの衝撃をバラン ス良く吸収することができたのは、羽鳥と中村の存在があったからこそである。スラッファの衝撃 は羽鳥と中村の研究によって十分に吟味され、千賀以降の日本のリカード研究者たちに受け継がれ ている。こうしたリカード研究の系譜は、 『リカードウ全集』刊行以来、今日に至る日本のリカー 62 ド研究史において重要な位置を占めている。 [謝辞]筆者も大学院生だった頃から中村廣治教授から懇切丁寧なアドバイスやコメントを度々頂戴したばかり でなく、中村教授のリカード研究から大きな影響を受けた。中村教授のリカード研究がなかったなら、筆者の リカード解釈もあり得なかった。ご冥福をお祈りする。なお、本稿は、科学研究費補助金基盤研究(C)「日本 のリカード研究の独自性と多様性に関する研究」 (課題番号15K03376)の助成を受けた研究成果である。 注 1 ) 『リカードウ全集』刊行後の日本のリカード研究史については、真実 2000 ; 水田 1985 ; 中村 2007 ; 千賀 2006 を参照。また、筆者の研究として、福田 2008 ; 福田 2014 ; 福田 2015を参照。 2) 千賀重義氏は『経済学史学会ニュース』第45号に追悼文を寄稿した(千賀 2015)。また、佐藤有史氏は『マ ルサス学会年報』第24号に追悼文を寄稿した(佐藤 2015) 。この他、リカードウ研究会は2016年中に追悼シ ンポジウムを開催することを計画している。 3 ) 筆者は中村のリカード労働価値理論の成立の論理に関する解釈に基づいて、筆者自身の理論モデルを定式 化し、これを基礎として、リカードの労働価値理論の修正の論理や『原理』の理論構造について検討した(福 田2006, pp.106–14, 170–86) 。 4 ) 羽鳥は1965年の第29回経済学史学会大会において、報告「初期リカードウの分配論」を行い、スラッファ の「穀物比率論」解釈を世界で最初に批判した(1965年 9 月25日、小樽商科大学)。 5 ) 『リカードウ経済学研究』については、深貝 1997 ; 佐藤 1997を参照。 6 ) 『リカードウ評伝』については、水田 2011 ; 千賀・佐藤 2010を参照。 7) 晩年の中村はマルサス研究の論文を多数発表した他に、2012年の第22回マルサス学会大会において、特別 講演「マルサスとリカードウ、等しからざる関係」を行っている(2012年 7 月 8 日、佐賀大学)。 8) スラッファによると、初期リカードは「穀物比率論」を採用していたために、価値決定の問題に煩わされ ずに利潤率の決定の問題を扱うことができたという。そして、スラッファはこうした解釈を正当化するために、 1814年 6 月26日付のリカードのマルサス宛書簡(50) (RW, VI, p.108)、1814年 8 月 5 日付のマルサスのリカー ド宛書簡(54) (RW, VI, p.117) 、1815年 2 月刊行の『試論』の「地代と利潤の増進を示す表」 (RW, IV, p.17) という 3 つの「間接的証拠」を挙げた(RW, I, pp.xxxi–ii)。 9) 羽鳥はスラッファが挙げた間接的証拠を検討し、リカードが「穀物比率論」を採用していたというスラッファ の解釈に疑問を付した(羽鳥 1972, pp.196–213) 。福田 2008, p.46 ; 福田 2015, p.168を参照。 10) 後年、羽鳥は書簡(50)の叙述について、農業部門の利潤率は「生産の比率」に依存し、製造業部門の利 潤率は「食糧の安価さ」に依存するということを意味していると主張して、千賀重義の「部門別利潤率規定論」 解釈を擁護した(羽鳥 1982, pp. 23–25, 43–44n) 。 11) 千賀は「初期リカードウにおける価値と貨幣の理論」 (千賀 1972)において、初期リカードは農業部門につ いては実物ターム、製造業部門については価格タームで利潤率の決定について議論していたという「部門別 利潤率規定論」解釈を提示した。当初、中村は千賀の解釈に反対していたが、羽鳥の主張を受け入れて、羽 鳥とともに千賀の解釈を支持するようになった(中村 1972 ; 羽鳥 1982)。福田 2008, pp.47–50を参照。 12) 羽鳥の『原理』理論構造の解釈については、福田 2015, p.170を参照。 13) スラッファと中村の『原理』理論構造の解釈については、福田 2006, pp.166–69を参照。なお、中村は『原理』 第 7 章外国貿易論は「利潤論」の一環をなし、リカードの経済学体系を完結させる位置にあると主張した(中 村 1975, pp. 197, 267–73) 。 14) 羽鳥もリカードの労働価値理論の成立の論理について、スミスの支配労働=価値尺度論の克服という視点 から検討を積み重ねている(羽鳥 1982, pp.108–52) 。福田 2014, pp.9–11を参照。 63 15) 中村のリカードの労働価値理論の成立の論理に関する解釈については、福田 2014を参照。 16) 中村はこうした労働価値理論の解釈を基礎としながら、トレンズとリカードの論争やマルサスとリカード の論争を綿密に検討し、リカードが賃金の変化にともなう価格の変化の問題(中村は「修正Ⅰ」と呼ぶ)から、 資本構成の相違による価格の相違の問題(同じく「修正Ⅱ」 )に議論の重点を移していく過程の詳細を明らか にした(中村 1996, ch.2–5) 。 17) リカードの賃金論をめぐる問題については、福田 2006, pp.132–42を参照。 18) リカード『原理』第 4 章価格論と第 5 章賃金論の相違について、筆者は第 4 章価格論は部門間調整による 均等利潤率の成立の論理を説明するものであるから、第 1 章価値論の前提であり、第 5 章賃金論は他の諸章 に見られない動学分析の原理を扱うものであるから、リカードの分析を動学分析に拡張する要素として位置 づけられると考えている。福田 2006, pp.187–94を参照。 19) このシンポジウムは、1973年の第36回経済学史学会大会において開催された(1972年11月12日、松山商科 大学) 。このときの報告者は、羽鳥卓也、中村廣治、千賀重義、討論者は、真実一男、時永淑、森茂也、坂本 弥三郎、溝川喜一、豊倉三子雄、司会者は玉野井芳郎という錚々たる面々で、後日、入江奨がシンポジウム の記録として「学界展望」 (入江 1973)を作成した。 20) 羽鳥は1995年刊行の『リカードウの理論圏』 「あとがき」でも、中村に対する謝辞を述べている(羽鳥 1995, p.196)。 21) 中村は同じ『リカードウ経済学研究』「あとがき」でも、論文執筆の経緯を説明する中で、羽鳥に対する謝 辞を述べている(中村 1996, pp.349–50) 。 22) 『リカードウ全集』刊行後、欧米ではスラッファのリカード解釈が支配的見解となり、やがてスラッファの 解釈をめぐる激しい論争がリカード研究史を特徴づけるようになったが、日本では、羽鳥と中村を始め、多 くのリカード研究者たちはスラッファの解釈を冷静に受けとめ、批判的に吸収していった。福田 2006, pp.1– 5 ; 福田 2008; 福田 2014を参照。 23) 羽鳥は1963年刊行の『古典派資本蓄積論の研究』 「序説」において、 「およそ経済学史研究の目的は ・・・・ 究 極的には資本主義経済社会のメカニズムの解明そのものにとって有効な迂回手段を提供することにある」、 「批 判的研究は、それが行われる前に、あらかじめ批判すべき対象そのものの忠実な理解に達していなければな らない」等々と述べた(羽鳥 1963, pp.7–14)。また、羽鳥は1972年刊行の『古典派経済学の基本問題』 「あと がき」においても、同様の研究方法について論じた(羽鳥 1972, pp.411–19)。福田 2015, pp.173–75を参照。 参考文献 Ricardo, D., Sraffa,P.(ed.)1951– 73 , The Works and Correspondence of David Ricardo, 11 vols, Cambridge : Cambridge University Press. 堀 経夫他(訳)1969–99『デイヴィド・リカードウ全集』全11巻,雄松堂書店 Sraffa, P. 1951, Introduction, in Ricardo, D., Sraffa,P.(ed.)1951–73, vol 1, pp.xiii-lxii. 堀 経夫他(訳)1969–99, 第 1 巻,pp.xxiii–lxxxiii. 深貝保則 1997「〈書評〉中村廣治『リカードウ経済学研究』」 『熊本学園大学経済論集』3( 3 / 4 ),pp.81–90. 福田進治 2006『リカードの経済理論』日本経済評論社 福田進治 2008「日本の初期リカード研究」 『人文社会論叢 社会科学篇』20, pp.41–62. 福田進治 2014「日本のリカード研究─労働価値理論を中心に─」 『マルサス学会年報』23, pp.1–33. 福田進治 2015「羽鳥卓也のリカード研究」 『人文社会論叢 社会科学篇』33, pp.167–78. 羽鳥卓也 1963『古典派資本蓄積論の研究』未来社 羽鳥卓也 1965「初期リカードウの価値と分配の理論」 『商学論集』34(3),pp.91–151. 64 羽鳥卓也 1972『古典派経済学の基本問題』未来社 羽鳥卓也 1982『リカードウ研究』未来社 羽鳥卓也 1995『リカードウの理論圏』世界書院 入江 奨 1973「[学界展望]リカードゥ研究における西欧と日本」 『経済学史学会年報』11, pp.11–20. 真実一男 2000「我国の戦後リカードウ研究の回顧」 『経済学史学会年報』38, pp.76–82. 水田 健 1985「リカードウ研究」 『経済学史学会年報』23, pp.13–22. 水田 健 2011「[書評]中村廣治『リカードウ評伝:生涯・学説・活動』」 『マルサス学会年報』20, pp.119–24. 中村廣治 1972「Intermezzo ─ 初期リカァドゥ利潤理論にかんする千賀説の吟味─」 『経済論集』24(1),pp.1–12. 中村廣治 1975『リカァドゥ体系』ミネルヴァ書房 中村廣治 1996『リカードウ経済学研究』九州大学出版会 中村廣治 2007「わが国におけるリカードウ研究」 『商経論叢』43(1),pp.67–77. 中村廣治 2009『リカードウ評伝─生涯・学説・活動─』昭和堂 佐藤有史 1997「[書評]中村廣治『リカードウ経済学研究』」 『経済学史学会年報』35, pp.159–61. 佐藤有史 2015「[追悼文]中村廣治先生の思い出」 『マルサス学会年報』24, pp.209–13. 千賀重義 1972「初期リカードウにおける価値と貨幣の理論」 『経済科学』19(3),pp.91–114. 千賀重義 2006「デイヴィッド・リカードウ」 , 鈴木信雄(編)『経済学の古典的世界 1 』日本経済評論社 , pp.175– 222. 千賀重義 2015「[追悼]中村廣治会員」 『経済学史学会ニュース』45, p.19. 千賀重義・佐藤有史 2010「中村廣治『リカードウ評伝-生涯・学説・活動』」 『経済学史研究』52(1),pp. 88–94. 65 弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』の刊行及び編集要項 平成23年 1 月19日教授会承認 平成26年 5 月21日最終改正 この要項は,弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』 (以下「紀要」という。)の刊行及び編集に 関して定めるものである。 1 紀要は,弘前大学人文学部(以下「本学部」という。 )で行われた研究の成果を公表することを 目的に刊行する。 2 発行は原則として,各年度の 8 月及び 2 月の年 2 回とする。 3 原稿の著者には,原則として,本学部の常勤教員が含まれていなければならない。 4 掲載順序など編集に関することは,すべて研究推進・評価委員会が決定する。 5 紀要本体の表紙,裏表紙,目次,奥付,別刷りの表紙,研究活動報告については,様式を研究 推進・評価委員会が決定する。また,これらの内容を研究推進・評価委員会が変更することがある。 6 投稿者は,研究推進・評価委員会が告知する「原稿募集のお知らせ」に記された執筆要領に従っ て原稿を作成し,投稿しなければならない。 「原稿募集のお知らせ」の細目は研究推進・評価委 員会が決定する。 7 論文等の校正は著者が行い, 3 校までとし,誤字及び脱字の修正に留める。 8 別刷りを希望する場合は,投稿の際に必要部数を申し出なければならない。なお,経費は著者 の負担とする。 9 紀要に掲載された論文等の著作権はその著者に帰属する。ただし,研究推進・評価委員会は, 掲載された論文等を電子データ化し,本学部ホームページ等で公開することができるものとする。 10 紀要本体及び別刷りに関して,この要項に定められていない事項については,著者が原稿を投 稿する前に研究推進・評価委員会に申し出て,協議すること。 附 記 この要項は,平成23年 1 月19日から実施する。 附 記 この要項は,平成23年 4 月20日から実施し,改正後の規定は,平成23年 4 月 1 日から適用する。 附 記 この要項は,平成24年 2 月22日から実施する。 附 記 この要項は,平成26年 5 月21日から実施する。 執筆者紹介 大 橋 忠 宏(情報行動講座/地域科学・交通経済学) 飯 島 裕 胤(経済システム講座/金融論) 児 山 正 史(公共政策講座/行政学) 齋 藤 義 彦(国際社会講座) 福 田 進 治(経済システム講座/経済学史) 編集委員(五十音順) ◎委員長 足 達 薫 飯 島 裕 胤 池 田 憲 隆 大 倉 邦 夫 河 合 正 雄 齋 藤 義 彦 佐 藤 和 之 杉 山 祐 子 ◎保 田 宗 良 山 本 秀 樹 李 梁 人文社会論叢 (社会科学篇) 第35号 2016年 2 月29日 編 集 研究推進・評価委員会 発 行 弘前大学人文学部 036-8560 弘前市文京町一番地 http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/ 印 刷 やまと印刷株式会社 036-8061 弘前市神田四-四-五 35 OHASHI…………………… Tadahiro An empirical study on the characteristic ………………………………………………………………………… aviation markets …………………… of international ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… IIJIMA Hirotsugu house market equilibrium with endowment effects …………………… Secondhand ………………………………………………………………………… costs of house ownership …………………… and maintenance ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… KOYAMA Tadashi Quasi-market and reinventing social service in Japan …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… SAITO Yoshihiko von Bundeskanzlerin Dr. Angela Merkel …………………… Regierungserklärung ………………………………………………………………………… Rat am 15./16. Oktober 2015 in Brüssel …………………… zum Europäischen ………………………………………………………………………… Bundestag am 15. Okt. 2015 …………………… vor dem Deutschen ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… FUKUDA…………………… Shinji Nakamura on Ricardo ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… …………………… ………………………………………………………………………… ISSN 1345-0255 1 13 25 43 53
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