親驚と息子善驚 - ECHO-LAB

万
仁ゴ
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号
tえ
親驚と息子善驚
はじめに
之入
7
井雅晴
(筑波大学名誉教授)
く﹁もう一回やりなおそうじゃないか﹂みたいなことになったとき、元夫に﹁私が勝手なことをしたために離婚
究をされている方がこれは男尊女卑ではないと。では何かというと、女の人が再婚するとき、元夫が未練がまし
としてあっかわれてきました。つまり、夫が自分勝手に妻を離縁するんだというふうに。ところが、三下半の研
とき、よくご紹介するのが江戸時代の離婚状として有名な﹁三下半﹂。これはずっと江戸時代の男尊女卑の史料
みくだりはん
歴史は変わる。社会の常識が変わり、研究が進むことによって歴史も変わるんだというお話をさせていただく
歴史は進歩する
によって変わるのです。
いろいろな社会問題も起きています。文化系でも進歩します。親驚聖人の伝記、あるいは浄土真宗の歴史も研究
るのです。理科系ですと、例えば私たちは携帯電話の進歩のおかげで便利な生活をしていますが、それによって
仏教とはこうなのだと、教科書に書かれたことが頭のなかにイメージされてしまいます。ところが学問は進歩す
に書いであったことがずっと頭のなかにありますね。日本史でいえば鎌倉時代の歴史、あるいは親驚聖人と鎌倉
皆さま方は中学なり高校なりで教科書を使って歴史を学ばれたと思います。教科書を読むほうとしては、そこ
ます。
終的な目的にして、歴史学の立場から親驚聖人と浄土真宗の歴史を見るという観点からお話をするつもりであり
本日は親驚聖人と善驚との親子の関係から、どのようなことを私たちは学ぶことができるのかということを最
聖人﹂と敬称を付けなければと思ったのですが、善驚との関係で敬称を抜きにさせていただきました。
今井でございます。どうぞよろしくお願いいたします。本日は﹁親鷲と息子善驚﹂と題しております。﹁親驚
•
らないのだけれども、私たちの視点を変えることによって、歴史が
いうのです。要するに﹁弓一下半があった﹂という過去の事実は変わ
ど弱くなく、女の人がしっかりした権利を持っていたことを一不すと
せたのが三下半だと。つまり、江戸時代の女の人は私たちが思うほ
になってしまいました﹂と、女の人が自分の権利を守るために書か
思います。
代の私たちは何を学べるのかということをこれから申し上げたいと
史への見方は変わって当然だろうと。この父と息子の関係から、現
でのイメージを固定するのではなく、研究を進めることによって歴
けるかたちで、親鷺聖人と善驚の親子関係を見つめなおす。これま
はあるだろうと。過去の歴史と現代とを行ったり来たりして結びつ
を大切にしよう﹂と日本中でいってますが、これを八百年後の歴史
頼し、関東の初期真宗教団の問題を鎮めるために派遣したはずなの
いわゆる﹁善驚異義事件﹂の従来の見方は、親驚聖人が善驚を信
現代の視点から﹁善鷺異義事件﹂を見なおす
変わって見えてくるのです。
また、江戸時代に﹁貞女は二夫にまみえず﹂ともいっている。で
は、江戸時代の女の人はあまり再婚も浮気もしないのかと。ところ
家が見たとしたら﹁ああ、西暦二O O九年はいのちを大切にしてい
に﹁ミイラ取りがミイラになる﹂みたいな変な方向に走ってしま
が、これは当時の儒学者が強調したものでした。現代では﹁いのち
たのか﹂と思うのが普通ですね。でも、そうではないですよね。
い、父である親鷺聖人とは異なる教えを説き、更に教団を混乱させ
私の考えを最初に申し上げておけば、関東の門弟と善鷲と、どち
今、いのちを大切にしない状況があるからこそ﹁いのちを大切に﹂
前回の宗祖七百回御遠忌の頃は真宗十派(真宗教団連合)として
らが正しく親驚聖人の教えを受けとっていたかというと、私は善鷺
た。父に背き、真宗の教えにも背いた。聖人も初めは信用していた
﹁戦争はやめよう、差別はなくそう﹂と強調されていました。私は
だと思います。なぜかというと、善鷺が関東へ向かったとき、おそ
といわれている。﹁貞女は二夫にまみえず﹂も同じ。儒学者の﹁こ
差別や戦争などの問題が全部解決したとは毛頭思っていません。し
らく親鷲聖人は八十歳ぐらいで、善鷲の年齢はおそらく五十歳ちょ
けれど、やがて半信半疑、とうとう聖人はいわゆる﹁善鷲義絶状﹂
かし、それから五十年たち、社会も変わって新しい問題が起きてき
っと越したぐらい。そのときまでに父親驚から何年にもわたって教
んなことはよくない﹂というキャンペーンに後世の私たちまでが乗
ています。昨日にはなかった問題が、今日にはもう生まれている。
えを受けておられたに違いない。関東の門弟たちは親驚聖人が京都
を書いて善鷲と親子の縁を切ったとされている事件です。主口驚は真
特に現代で非常に重要な問題は﹁人間関係﹂だと思います。家族、
へ帰られてから二十年間ぐらい会っていない。たまに京都へ行って
せられて、﹁そうか、江戸時代の女の人は再婚しないのか﹂と思っ
親子、職場での問題です。﹁人間関係の回復﹂の問題をどう解決す
会った門弟もいたかもしれないけれど、日常生活をしている関東と
宗の歴史のなかで一番悪いやつだと、そういうことですね。
ればいいのか、私たちは親驚聖人に開きなおさなければなりませ
いう地域の状況によっては、信仰も変わると私は考えています。
てしまっているのです。
ん
。
私はこれまでの真宗教学を壊そうという考えは毛頭ないのです。
今、申し上げているようなことを申し上げたからといって、決して
•
このように社会が違えば、また研究が進歩すれば歴史も変わって
くる。浄土真宗史でも親鷲聖人と善驚について見なおすべきところ
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親驚聖人の教えを庇めることにならない。決してなりません。そう
できるのです。善驚についても、例えば善驚は有り難い存在だとか
も有り難い。どんな子どもであっても、その子どもから学ぶことが
私も娘二人の親ですが、早い話、子どもはどんな子どもであって
-
でなくて、むしろよりよくいろいろなことを私たちは理解できるよ
無理矢理に思うつもりはないのですが、どのように見ればいいだろ
るようになると思います。
だきます。
では義絶状の再検討ということで、本文をちょっと読ませていた
﹁善鷺義絶状﹂ の再検討
うかということを、最後のところで申し上げたいと思います。
うになる。真宗風のいい方をすれば、より深くいただくことができ
私たちは現代に生きているわけでありまして、早い話、江戸時代
的な見方で現代のことを解決しようと思ってもだめに決まっていま
すよね。善鷲の問題も同じ事です。現代の社会問題なり、家庭問題
なり、あるいは私たちの常識で考えていくべきだろうと。しかし、
現代の、私たちの常識だけで鎌倉時代の常識に生きた親驚聖人のこ
とを判断して勘違いしてしまうことのないよう、私たちは聖人の活
躍された時代背景を知らねばなりませんし、その上で聖人の教えを
ず、しらぬことを、慈信一人に、よる親鷲がおしえたるなり
(前略)慈信房のほうもんのよう、みょうもくをだにもきか
義絶事件を見なおすとき、まず第一に史料の問題があります。親
と、人に慈信房もうされてそうろうとて、これにも常陸・下野
第二に事件を把握する視点。これは先ほどからしつこく申し上げ
と、ことにあきましきことなり。ょにありけるを、ままははの
う。(中略)ままははにいいまどわされたるとかかれたるこ
しあわれてそうらえば、今は父子のぎはあるべからずそうろ
(虚国)
驚聖人が書かれたとされる﹁善驚義絶状﹂、本物だろうという意見
の人々はみな、しんらんがそらごとをもうしたるよしを、もう
ておりますが、事件をどういったふうに見るかという問題です。例
へ継母)
えば親子の縁を切るという﹁勘当﹂。江戸時代では勘当は大きな意
あまのいいまどわせりということ、あさましきそらごとなり。
(聖典六一一 i一一頁)
﹁慈信房﹂とは善驚のことですが、夜中に父親驚から自分一人だ
第三に善鷲の評価。﹁父親驚に勘当された親不孝者﹂という善鷲
まで嘘をついていたことになってしまったと。だから﹁父子の義は
陸・下野の人々はみんな﹁親鷲が虚言を申したる﹂、親驚聖人は今
け正しい教えを伝えられた、と人々にいっていると。そのため、常
のイメージは、勘当が社会的に有効であった時代に作られ、強調さ
驚が誰かに送ったという手紙があるのだそうで、そこには﹁継母に
﹁ままはは﹂とは恵信尼さまのことであるとされていますが、善
あるべからず﹂、親子の縁を切ったと。
ているのかという観点で見るべきだろうと思うのです。
評価するのか。先走るようですが、善驚は私たちに何を与えてくれ
れたものでした。では、現代の視点で善鷲をどのように見なおし、
どういう意味があるんだろうと私は思っているのです。
なっているのに、親鷲聖人が息子を勘当したと強調して、いったい
とか義絶といっても、家庭的にも意味を持たない。そういう時代に
は前回の御遠忌頃までか、あるいは昭和四十年代頃まで。今は勘当
味がありました。しかし、勘当が家庭でも社会でも意味を持ったの
(義)
が強いのですけど、私は偽物だろうと考えています。
学んでいくべきだと思います。
四
言い惑わされたる﹂、父親驚は継母恵信尼にだまされていると書い
だろうと思います。
は、前半と後半では文体が違う。前半は候丈です。例えば﹁父子の
昔の手紙を偽物かどうか判断するときは文体を見ます。義絶状
つまり、この手紙によれば、恵信尼さまというのは善驚の実の母
義はあるべからず候﹂、今風の感覚でいうと﹁さようでございます﹂
てあると。それは﹁あさましき虚言なり﹂、これは嘘だと。
親ではないということになります。善鷲は親驚聖人と恵信尼さまの
﹁何々でございます﹂と。ところが、後半には候文がなくなる。例
でございます﹂で後半は﹁そうなんだよ﹂と、親鷺聖人がご自身
子どもだと思っていらっしゃる方も多いと思うのですが、これによ
てののしりますか、皆さま方だったら。五十歳くらいの善驚が、七
で、一つの手紙のなかで前半と後半を違えてお書きになるでしょう
し、候文だったら﹁思いきりたり候﹂となるはず。前半は﹁さよう
十歳代の恵信尼さまと親子げんかしたとして﹁このママハハが﹂な
か。まずないだろうというのが一番大きな根拠ですね。しかし、本
えば﹁思うこと思いきりたり﹂、今風なら﹁そうなんだよ﹂と。も
んていうだろうか、実の母親に向かって。平均寿命をとっくに越し
当に親驚聖人の書かれた義絶状があって、それを顕智さんが写した
るとそうではない。これを﹁善驚が嘘をいっているのだろう﹂とさ
た、いい大人が。だから私は本当に継母だったのだろうと。親驚聖
のかもしれない。顕智さんは信頼できる面授の門弟であることを根
れる方もいます。しかし、自分の母親とけんかするときに何といっ
人が恵信尼さまと結婚する以前に、京都で別の女性との聞にも、つけ
拠に﹁善驚義絶状﹂を本物だという意見もあります。
親鷺聖人のお手紙は四十二通(または四十三通。﹃親驚聖人行実﹄四
をつくっていいのかとなりますね。しかし、昔は偽物をつくるとい
いうものをあとからつくる人がいるわけですよ。今の常識なら偽物
れるというのが昔の人の書き方です。私の考えですが、親子義絶を
な偽物はつくらない。本当のことを書いて、一つだけ偽のことを入
昔の人が偽物をつくるときには誰が読んでも偽物だとわかるよう
夜中の法門
た子どもが善驚だと私は考えているのです。
二四1五頁参照)、その内ご真筆が十一通あるとされております。こ
う意識はなくて、鎌倉時代・室町時代は﹁親鷺聖人はこういうこと
事実にしたい。そのために本当のことも入れる。例えば﹁夜親驚が
れはそのとおりなのですが、しかし、どの宗派でも宗祖のお手紙と
のだ﹂という意識がかなり許された時代だったのですね。
をいいたかったんだろう、だから私は宗祖聖人に成り代わって書く
ろが、親驚聖人がそんなことをするはずがないという人がいます。
夜中に聖人がこっそり善驚一人だけに教えを伝えた、夜に一人だけ
では、なぜ夜なのか。昔は仏教あるいは神道も含めて、大切なこ
るのです。ところが半分以上が偽物です。偽物かどうかを調べるこ
蓮さんが書いた﹁あれは偽物だ﹂となかなかいえないわけです。親
とは暁どきにやりとりをおこなうのが、もっとも適しているとされ
教えを授けたと書いているけれど、それはおかしいと。
鷲聖人のお手紙四十二通につきましても、ご真筆十一通は別とし
ておりました。﹁暁﹂というのは現代の感覚では太陽が出る前の少
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し明るい頃ですが、昔は違うのです。太陽が出てくるのは﹁曙﹂
あけぼの
のしか残っていないお手紙の真偽を問題にするのはなかなか難しい
とは、今は非常に簡単にできるのですけれども、日蓮宗のなかで日
例えば日蓮宗では、日蓮さんが書いた手紙などが九百通ぐらいあ
教えたるなり﹂、これは﹁夜中の法門﹂といわれております。とこ
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て、あとになってから写したもの、あるいは木版刷りで印刷したも
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今は曙と暁がごっちゃになってますが、夜中の真っ暗なときでなけ
れば暁といいません。
かみほとけ
暁どきに神仏が出てきてくださる。日本風のいい方で﹁暁﹂、も
いな内容で偽文書がつくられたのではないでしょうか。
次世代に伝えるために
に、﹁康元二歳丁巳二月九日夜寅時夢告云﹂、﹁弥陀の本願信ずべ
音菩薩が出てきてお告げをくださいますよね。また八十五歳のとき
き、六角堂にこもられて﹁九十五日のあか月﹂(聖典六一六頁)、観
善驚の義絶を知らせる﹁義絶通告状﹂(聖典五九六1八頁)は活字に
一一一)頃に高田専修寺の宝庫で発見されました。また、門弟たちに
いわゆる﹁菩鷲義絶状﹂というのは、大正九、十年(一九三 O、
の書写、あるいは親驚聖人のご真筆があるのだったらこんなことを
なって、それは室町時代の木版刷りとして、つまり書かれたとされ
寅の刻とは、午前四時を挟んだ午前三時から五時にかけての約二
し﹂(聖典五 O O頁)という﹁夢告讃﹂を寅の刻にどなたかからいた
時間をいいますが、そのとき、例えば神社やお寺にこもっている
のだし、ちょっと考えなくてはいけないと。だからといって、これ
申しません。通告状が本物かどうか、室町時代に初めて出てきたも
まで親驚聖人のお手紙とされてきたものをどうこうするというので
はなくて、私は歴史学の立場として﹁これは本当なのか﹂と問題に
てくださるだろうと。ですから今の国会も重要な会議は夜の十時、
す。神さま、仏さまご臨席の上で決める。もし間違っていれば教え
こともない。もう、私たちは覚悟しなければなりません。もし、浄
そのまま信じ込んでいても、次の世代は信じてくれないし、伝わる
今の社会で、最新の研究で﹁違う﹂とわかっていることをずっと
するべきだと思うのです。
十一時から始める。寝ている議員がいると昼間ゃれよと思います
土真宗の教学以外のところで研究されて広く認められるようになっ
にされていく。研究も進歩しているのです。どういった状況で親驚
が、しかしそうではなくて、やっぱり伝統があって重要な会議は夜
ですから、善驚にしてみれば夜中に父親驚に大事なことを教えて
聖人が、善驚が、恵信尼さまが、あるいは初期真宗教団の門弟たち
たら、それは受け入れていこうと。ただし、教学に直接関わるとい
もらってどうして悪いのかと。﹁夜中の法門﹂は決して非難される
が活動されたかということで、明らかになったことがあるのなら、
中におこなう。十時頃から始めると、議論を尽くして、では決定し
べきことでも何でもない。ここで教えられたことはたいへん重要だ
うことはほとんどあり得なくて、その周りを取り巻く状況が明らか
から、関東へ行ったらこれをみんなに伝えようと。これは誰も非難
んだ。これまでいわれ続けたことが正しいのだ﹂と突っぱねても、
の親驚聖人のイメージと違う﹂というでしょう。これを﹁だからな
しからん﹂と。そんなことを親驚聖人はやっていないと。﹁私が夜
それでは次の世代に何も伝わりませんよ。
私たちは受け入れていかないと次の世代が﹁それは嘘だろう﹂﹁今
中にこっそり教えたと善鷺はいっているけれど、それは嘘だ﹂みた
できない。だんだん﹁夜中の法門﹂の意味が忘れられて﹁善鷲はけ
ようというときにだいたい暁どきになっている。
ださる。平安時代など朝廷で重要な会議は昼間やりません。夜中で
当時、人聞社会で大切なことは暁におこなう。神仏が見ていてく
聖な時間帯なのです。
と、仏さまや神さまが出てきてお告げをくださるという、非常に神
る鎌倉時代からこ百年も経つてはじめて出てきます。もし鎌倉時代
l'
だいたと。
う一つ別のいい方では﹁寅の刻﹂です。親鷲聖人が二十九歳のと
•
'
-
でも何でもない。それに、これまで親鷲聖人のお手紙とされてきた
らもう、取り入れるべきところは取り入れていこうではないかと。
状況であるかという見方が、視点が時代と共に変わってくる。だか
教えは変わらなくても、その周りを取り巻く状況が、どういった
身で確認しているわけではないのです。
とを書いてある手紙があったなどと聞こえてくるけど、聖人がご自
ね。そういう話が伝わってきた。いろんな手紙が来たり、こんなこ
とあります。つまり親鷺聖人がご自分で見たわけではないのです
ない。しかし、続けて﹁聞こゆること﹂、それから﹁伝え聞くこと﹂
同六月廿七日到来.
(女は親鷲筆、・は善驚筆、 Aは顕智筆とされてきた丈)
義絶状の最後にある奥付のところを見てください。
善鷲の問題も同じです。﹁夜中の法門﹂というのは非難されること
ものであっても、ひょっとすると偽書があるのかもしれないのです
から。
義絶状の疑わしさ
五月廿九目安在判女
建長八年六月廿七日注之・
慈信房御返事女
嘉元三年七月廿七白書写了企
ごとにみなすてまいらせたりときこゆること、まことに
た人が書かれています。そしてこの手紙を善驚は﹁建長八年六月廿
れた。﹁在判﹂、ここに聖人の花押があったと、この義組状を写され
親驚聖人が建長八年(一二五六)五月二十九日にこの手紙を書か
(聖典六一三、一 O九一頁。﹃親驚聖人行実﹄ 一八五頁)
ほうほうのとが、(中略)このことども、ったえきくこと、あ
七日﹂に受け取ったと。次に﹁嘉元三年七月廿七日書写了﹂、これ
ありはん
さましさ、もうすかぎりなければ、いまは、おやということあ
は高田の顕智が義絶から四十九年後の嘉元三一年(二二 O五)に書写
(誇法)(普)
るべからず、ことおもうことおもいきりたり。三宝・神明にも
したと。これについては長い間、いろんな議論がなされてまいりま
を鎌倉幕府へ訴えたものとされてまいりましたが、その確実な証拠
様ですね。誤解される方もいるかもしれませんが、﹁この手紙は本
たかとか、誰が写したとか書いているものは他にない。これだけ異
親驚聖人のお手紙四十二通のうち、こんなに詳しくいっ受け取っ
した。
はありません。いかにも善鷲が鎌倉幕府、あるいは京都の六波羅探
物です。本当に聖人が書いた手紙です﹂ということを、この奥書は
強調しているように私には思えるのです。偽物は面白く、本物より
題まで伝えたみたいな書き方をしていますが、善驚が訴えたという
そして﹁第十八の本願をば萎める花にたとえ﹂、これは正直いっ
もわかりやすいというのが多いのです。相手を信用させるために。
証拠はないのです。
﹁鎌倉なんどに披露せられたる﹂、これは善鷺が対立する門弟たち
(ZJ)
うしきりおわりぬ。(後略)(聖典六二一頁)
り。(中略)第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人
(花︺
・かまくらなんどにひろうせられたること、こころうきことな
(前略)まことにかかるそらごとどもをいいて、六波羅のへん
義絶状の検討に戻りましょう。
七
て判断のしょうがないです。これに関する史料は浄土真宗には一切
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うじゃないか﹂といったに違いない。当然、面授の門弟たちのメン
ツがつぶれる。二十年も一所懸命、それぞれの生活のなかで親鷲聖
関東はどういった状況であったのか。そこには二十四輩という親驚
人も息子なら大丈夫だというので関東へ送られたのだろうと。では
年、二十年と父親から教えを受けておられたわけですから、親驚聖
だろうと申し上げました。善鷲は父親鷲が京都に帰られてから十
本日の最初に、親驚聖人の教えを正しく身につけていたのは善驚
と手紙をどんどん送ったに違いない。善驚もそれに反論するかたち
﹁まことに申しわけないけれども、善驚というやつはけしからん﹂
驚が間違っていたのではないけれど、面授の門弟たちは親鷲聖人に
子さんかもしらないけれど何だあいつは﹂と思われるでしょう。善
て来て﹁違うじゃないか﹂といわれたら。おそらく﹁親鷲聖人の息
では、皆さま方だったらどうされますか。いきなり京都からやっ
人の教えを受け伝えてきたのに。
聖人から直接教えを受けられた面授の門弟たちがいました。特に二
ある鹿島の順信。このゴ一人は軍人と初期真宗教団にとって重要な門
弟でした。
ょう。そして順信と鹿島門徒は鹿島信仰がとても強い地域の門徒集
った集団が、親驚聖人の教えを受け入れていたということなのでし
強調される人もいますね。しかし、これも善光寺信仰の影響下にあ
寺信仰の影響が強いといわれ、親鷲聖人は善光寺聖だということを
人の教えを受け入れている集団でした。また真仏と高田門徒は善光
真言宗の強い影響下にあり、真言宗の教えを全部は捨てずに親鷲聖
さほどにおおくのひとびとのたじろきそうろうらん、不便のよ
のさだまらざりけるとききそ、つろう。いかようなることにて、
いかなるようにてさようにはそうろうぞ。詮ずるところ、信心
坊のかたへとて、中太郎入道をすてたるとかやききそうろう。
ぶの中太郎のかたのひとびとは、九十なん人とかや、みな慈信
ひごろの念仏はみないたずらごとなりとそうらえばとて、おお
慈信坊のくだりて、わがききたる法文こそまことにてはあれ、
ざしの銭五貫文、十一月九日にたまわりてそうろう。(中略)
団です。ですから鹿島神宮の神さまを拝み、尊敬しなければとても
うとききそうろう。(後略)(聖典五七五頁)
け入れていた集団だったのです。(今井雅晴﹃歴史を知り、親驚を知る
では、善鷲はどうなのか。私は善鷲はとてもまじめな人だったと
と思われます。とてもたくさんのお金を善驚は送っている。歴史学
①親驚聖人と東国の人々﹄、三 O O九年、自照杜出版)
思うのですね。関東へ行ってみれば、昨日まで聞いていた父親鷲の
と、ものすごいお金を。なんと親孝行じゃないですか。その善鷲が
つあるからには、善鷲は何回も親驚聖人にお金を送っていただろう
か。関東の問題を何とか鎮めてくれよと親鷲聖人から頼まれていた
関東で﹁私が父親驚から聞いた教えこそ本当のことだ。あなたたち
ではこういう考え方をするのですが、お金を送ったという記録が一
として。善驚はおそらく﹁あなたはおかしい。父親鷲の教えとは違
教えとは違う信仰生活をしている。皆さま方だったらどうされます
銭五貫文とは、だいたい一人六カ月分のお米が買える価値がある
生きていけない。鹿島門徒も鹿島信仰のなかで親驚聖人の教えを受
性信は親驚聖人が一番信頼された方です。ところが横曽根門徒は
九月廿七日の御ふみくわしくみそうらいぬ。さては、御こころ
で手紙を送る。それに対する親驚聖人のお返事が残っております。
誰が正しく親鷺聖人の信仰を体現していたか
•
十四輩の第一である横曽根の性信、第二である高田の真仏、第三で
J
¥
の念仏はいろんな教えが混ざっている。そんないたずら事、くだら
ないことは嘘だ﹂といったという。
すると﹁おおぶの中太郎﹂の門弟九十何人かが善驚のほうへ行っ
息子善鷺の役割
九十何人かは﹁信心のさだまらざりける﹂、信心がしっかりしない
いる限りでは坂東本﹃教行信証﹂とあと一、二点ぐらいしかない。
親鷲聖人が関東時代に書かれたとされているものは、現在残って
からだとほかの門弟たちから聞きました。どうしてそのように信心
わりから八十歳代になると急に書かれるようになる。﹃真宗年表﹄
京都へ帰ってからもあまり書かれなかった。ところが七十歳代の終
てて逃げたのでしょう。
つたのか、じゃあ﹂と、善鷺のほうが正しいと判断して中太郎を捨
て﹁違う、父親驚の本当の教えはこうだ﹂と。九十何人は﹁そうだ
の教えを受け入れて総合的に指導していた。だけど善鷲がやってき
ね。その地域に即した地元の信仰のなかで生活をしながら親驚聖人
中太郎も一所懸命やっていたから九十何人も集めたんでしょう
ですと、何と八十パーセントが集中して書かれている。それはなぜ
きを中心に書かれたものです。八十二歳から八十六歳までの五年間
ら八十五歳までの三年間、まさに善驚事件が起きたとされていると
残っている聖人の書物の内、なんと六十二パーセントは八十三歳か
(大谷大学編、二一丁二ハ頁)を見ますと、お手紙は別として、現在
ると、これまでの善鷲観とはまったく逆のことがいえる。善鷲は父
生を振り返られたのではないかと。振り返る方法が、ご自分が書か
生き方が間違っていたかのかと、非常に不安に思われて、自分の一
いない。聖人はなぜこんなことになったのかと、私の信仰生活が、
親鷺の教えを一番正しく受けていたからこそ、支持する門弟もいた
では、現代の私たちがこんなにたくさんの親鷲聖人の書物をいた
れたものをもう一度書きなおしたり、新たに考えられたことを書か
対した門弟たちは﹁善驚はけしからん﹂と。だけど、誰が善驚を非
だくことができるのは誰のおかげかと。聖人のおかげ、それはそう
のです。善驚はそうやって関東の人々に父親驚の教えを伝えようと
難できるのでしょうか。みんな違うじゃないですか。面授の門弟た
なんだけれど、何といっても善鷺のおかげですよ。善驚がいなけれ
れるということだった。それが八十一一歳からの五年間にたくさんの
ちが聖人の信仰を正しく体現していたのでしょうか。親驚聖人の教
ば聖人がたくさんの書物を残されることはなかった。なんと善驚
された。そのなかで親鷲聖人の教えとは違うことを善鷲がいってい
えとぴったり同じ人など誰もいない。それまで信仰していた宗教を
は、ありがたい存在なのかと考えるべきだろうと思います。父と息
書物を残された理由なのだろうと思います。
完全に捨てた門弟がどれだけいたのでしょうか。一人、善鷺だけが
ょ、っか。
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と、現代に生きる私たちはそのように受けとめるべきではないでし
だということを、親驚聖人と善驚との関係は示しているのだろう
子は葛藤によってお互いに育つ。お互いに真剣にぶつかり合うべき
るように見えることもあったのでしょう。それを捉えて、善驚と敵
これは早い話、さっきの三下半でありませんが、見方を変えてみ
かというと、とにかく善鷺は関東の門弟たちを騒がせたことは間違
ふびん
が動揺したのか、﹁不便のよう﹂、気の毒なことだと聞きましたと。
てしまった、どうしてそんなことになったのだと。結局のところ、
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非難されていいのかと私は思っているのです。
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義絶事件が、勘当があったかのか、なかったのか。これは最終的
には義絶状のご真筆が発見されなければ解決しない問題です。だけ
どそれを超えて、現代の私たちは善驚をどう受けとめるか。私は善
鷲を有り難い存在として考えるべきだろう、そのように見なおすべ
きだろうと。善鷺は勘当されたから悪いやつだとする考え方は、も
ー現代の私たちに対して│
うやめようと申し上げたいのです。
おわりに
りがとうございました。
高倉会館日曜講演抄録
三O O九 年 十 月 十 一 日
(いまいまさはる)
話を申し上げました。これで終わりにしたいと思います。どうもあ
と思うのです。そういう観点も含めまして﹁親驚と息子善鷺﹂のお
お互いに助け合い、くるみあっていこうと。それが今の時代だろう
の対立だとか勘当だとかで浄土真宗を考えるのはもうやめようと。
物史観という方法が通じるような時代ではないと。親鷺聖人と善驚
観に基づいた共産主義の国々はずいぶんつぶれました。今はもう唯
結果はどうだつたでしょうか。ソビエト連邦をはじめとする唯物史
勢力を倒し、労働者・農民の社会をつくろうとする。だけど、その
と労働者、支配者と被支配者の対立。革新勢力が立ち上がって保守
対立の観点で見るという唯物史観がとても強い時代でした。資本家
最後になりますが、前回の宗祖七百回御遠忌の頃は、人聞社会を
+
を感じる。(教学研究所嘱託研究員松林至)
ましきだけでない、今の自分のあり方を問、ってくるような雰囲気
い問題を抱えている。﹁スコレ l﹂という時間に単なる余暇の羨
のクセを持った白分が仏法を﹁学んでいく﹂というところに根深
もたくさんある。しかし、何かを身に付けねばならないという心
けてきた。生産活動と密接なところで学、はなければならないこと
私もそういった効率や目的を求めるなかで学びのクセを身に付
る
。
じられず通う学びの場であれば﹁スクール﹂は社会そのものであ
った雰囲気をもっ場所は少ない。﹁スコレ l﹂という味わいが感
ていると思われるのである。社会とは切り離された﹁余暇﹂とい
とが求められる場所として、すっかり功利的な発想に呑みこまれ
スクール﹂といえば社会で役立つスキルを効率よく身に付けるこ
間のあり方ではないかと考えさせられる。学校もしかり、﹁00
生産性や利便性と結びつかないことを学ぶことが難しいような世
﹁余暇﹂などとは無縁の時代かもしれないが、今では、社会の
のことは今の社会においてなかなか示唆的であると思う。
性や利便性から隔絶されたものであったともいえるわけだが、こ
こうした語源にたずねるならば、学ぶという行為が社会の生産
の﹁スクール﹂の語源であるとされている。
﹁余暇﹂のことをギリシャ語で﹁スコレ l﹂といい、これが英語
という。多くの哲学者のうまれてくる土壌ともなったそうした
た時間的な余裕において、教養を高めたり、議論を競わせていた
家の人々は、基本的な生産労働の多くを奴隷に行わせることで得
古代ギリシャにおいて多くの哲学者がうまれた。当時の都市国
﹁
不 E砂
目﹂
Z
-喝事時時間,﹃
•
第三種郵便物認可
六O頁)
開会 午前九時三十分)
高倉会館 今後の予定
V日曜講演企
一月三日(休会)
一月十日﹁先祖供養のすすめ﹂
大聖寺教区事撮寺住職 出 雲 路
一月十七日﹁﹁釈親驚﹂の遺産相続﹂
大谷大学教授加来
一月二十四日﹁親驚聖人越後配流の背景﹂
大谷大学教授草野顕之
一月三十一日﹁名号の他には、何事の不足にて、
必ず経を読まんとするや﹂
帯広大谷短期大学長中川陪三郎
九州大谷短期大学副学長三明智彰
二月七日
一一月十四日
大谷大学教授延塚知道
二月二十一日(休会)
二月二十八日
大谷専修学院長 狐野
一月二十日(水)午後六時三十分より
場所高倉会館
講師小川一乗(高倉会館長・教学研究所長)
テキスト﹃願生偶﹄
V高倉同朋の会企
雄
鬼の思索の一つの中心になっていく﹂(田中久文
﹁九鬼周造﹄、ぺりかん社、一五八頁 ) 0
九鬼は﹁日本的性格﹂において、日本文化の特
色の一つとして﹁自然﹂を挙げ、次のように述べ
ている。
頁)
︹略︺自然に従ふといふことは諦め初基礎を
なしてゐる。︹略︺なほ親驚に﹁自然﹂とい
ふ思想があるのもそこから理解することがで
きる。︹略︺行者のはからひでなく自然の利
益であるからそこにおのづから諦念が湧いて
来るのである。︹略︺(﹃九鬼周造全集﹄第三巻、
二八三│二八四頁)
ここでは﹁諦念﹂との関係において﹁自然﹂が
静的なものとして語られている。だが、一方、九
鬼は、﹁自然﹂のうちに﹁生きる力の意気といふ
動的な迫力﹂をも見る。﹁自然﹂には静的な面と
同時に、動的な面もあると一言、つのである。
︹略︺自然とはおのづからな道であった。道は
たとへおのづからな道であっても有くも道で
ある以上は踏み行かなければならぬ。その踏
み行く力が意気である。︹略︺(同上、二八六
イ
多
之
秀
存
教学研究所嘱託研究員
九鬼周造は著書﹃﹁いき﹂の構造﹄で知られる
哲学者である。九鬼は一九三一五(昭和一 O) 年に
発表した﹃偶然性の問題﹂の結論において、突然
に﹁浄土論﹄に言及している。九鬼は﹃浄土論﹄
のうち﹁観仏本願力遇無空過者﹂(聖典一三七
頁)を引いて、次のように述べている。
︹略︺﹁遇ふ﹂のは現在に於て我に避遁する汝
の偶然性である。﹁空しく過ぐるもの無し﹂
とは汝に制約されながら汝の内面化に関して
有つ我が未来の可能性としてのみ意味を有っ
てゐる。不可能に近い極微の可能性が偶然性
に於て現実となり、偶然性として堅く掴まれ
ることによって新しい可能性を生み、更に可
能性が必然性へ発展するところに運命として
の仏の本願もあれば人間の救ひもある。︹略︺
(﹁九鬼周造全集﹄第二巻、岩波書応、二五九i 二
九鬼にとって偶然性は動きのない、静止したも
のではない。偶然性は、必然性へと飛躍する、動
的なものとして語られている。このような偶然性
一
年
一
一
一
先の﹃偶然性の問題﹂では前後の文脈に関係な
く、実に突然に﹃浄土論﹂が引かれていた。な
ぜ、﹃浄土論﹄なのだろうか。!│ここからは推
測になるが、親驚聖人の言葉に触発されて、九鬼
は偶然性を動的なものとして理解したのではない
だろうか。﹁自然﹂についての理解が先にあっ
て、その後、偶然性を動的なものとして理解して
いるかのようである。﹁偶然性の問題﹄に﹃浄土
論﹄が引かれていることも九鬼が親驚聖人に遇っ
たという一事を念頭に置かなければ、説明がつか
ないように思われる。
編集・圃宗大谷派教学 研究所
発行aヨハ宗大谷派宗務所代表 安 原 晃
先 真宗大谷派宗務所財務部(ともしび)
口座番号 O一O一OlOi二六O八
お問い合わせ先
﹃ともしび﹄の内容、﹁高倉同朋の会﹂について
教学研究所 O七五三七一!?八七五 O
﹃ともしび﹂の申し込み・支払い・発送について
東本願寺出版部 O七五│三七一│九一八九
*
祐
介
川知釈に関連して興味深いことは、九鬼が
﹁自然﹂をも動的なものとして理解していること
である。田中久文氏によれば、﹁九鬼は既に﹁偶
然性の問題﹄において、偶然と必然とをつなぐも
のとして﹁自然﹄や﹃運命﹄というものを問題に
していたが、この﹃自狭山というものが晩年の九
種郵便物認可
*
藤
井
二O一
O (平成二十二)年一月一日発行
第一
*
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