詩 でなくとも柳川では の匂いに敏感になる。柳川を縦横に巡る堀 割( 路

【ページ公開⽇:2009年3⽉13⽇】
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い。
詩⼈でなくとも柳川では⽔の匂いに敏感になる。柳川を縦横に巡る堀
割(⽔路)の総距離は約500㎞。江⼾時代に利⽔と治⽔を⽬的に造られた
⽔路は、有明海に⾯した筑後地区特有の⾵景を形作る。北原⽩秋⽈
く、「この⽔の構図、この地相にして、はじめて我が体は⽣じ、我が
⾵は成った」(⽔の構図)。
明治37年(1904年)、19歳で柳川を離れ東京に出た⽩秋は詩作に没頭。
牧⽔、啄⽊らと交友を重ね、24歳で『邪宗⾨』、26歳で『思ひ出』を
刊⾏する。その『思ひ出』の中の⼀篇、「柳河のたったひとつの公園
に」で始まる詩、「⽴秋」の碑が、まさにその詩に詠まれた「懐⽉
楼」跡に⽴っている。
懐⽉楼は藩祖を祀る三柱神社前にあって、その後「松⽉」という名の
料亭となり、帰郷の折に⽩秋も遊んでいる。「⽉の出の橋の擬宝珠に
⼿を凭せ」と詩に描いた「擬宝珠」も、神社へと渡る⾚い欄⼲の上に
そのままに残る。
「松⽉」は平成6年に料亭を廃業。平成10年から2階と3階に⽂学資料を展⽰する「松⽉⽂⼈館」となった。⽩秋を慕って料
亭を訪れた多くの⽂学者が、何事かを書き連ねて飲⾷代の代わりとした、のどかな時代の⾊紙も飾ってある。窓の外では、き
らめく掘割の⽔にゆらりとどんこ⾈が漕ぎだして⾏く。かつて酒宴のひとときに⾈遊びに興じたのが今の「柳川川下り」の始
まり。そのため、どんこ⾈の多くは現在も「松⽉」前が出発点だ。
500㎞のうち川下りに利⽤される⽔路は約4㎞。当初は広い堀幅も
柳川城堀⽔⾨をくぐるととたんに細くなる。「⽔のべは柳しだる
る橋いくつ⾈くぐらせ涼しもよ⼦ら」(⽔路⾈⾏)。⽩秋が我が⼦と
ともに⾈遊びを楽しんだときの歌だ。掘割はますます細く狭ま
り、家々の裏軒が⾈べりに迫ると、⽊々の影を映す⽔に緑が深ま
り、「汲⽔場(くみず)」へと降りる⽯段には⽔草が、⼟⼿には季節
の花が⾹る。⾈から⾒る空は⾼く、落ちてくる⽇差しを⽔⾯がや
さしく照り返す。⽩秋はそれを「⽔照(みでり)」という⾔葉でいく
つも短歌に登場させる。⽩秋の記憶は、いつも柳川の⽔に溶けて
いくようだ。
ときにはまた堀幅が広くなることがあり、その変化のリズムが⼼地よいのか、同⾈の⼈が
「ああ、ゆったり気持ちいい」と声に出した。どんこ⾈に⾳はない。竿をたぐるきしみさ
え静かだ。⾒ると、⼟⼿をそぞろ歩く⼈が⾈を追い越して⾏く。⾈の速度はそれほどゆる
りとしている。⽩秋が作詞した童謡のひとつ、「ゆりかごの歌」を思い出す。どんこ⾈は
⼤⼈の⼦守唄のように⼈の⼼を安らかにし、柳川の清浄な⾵物を⾒物させ、4㎞70分の旅
を終える。
どんこ⾈の終着点は沖端(おきのはた)。両岸に
にぎやかに店舗が並ぶこの町で北原⽩秋は明治18
年に⽣まれた。⽣家は酒蔵などを営んだ裕福な商
家。その家屋は「北原⽩秋⽣家」として残され
「⽩秋記念館」と併設する形で詩聖を偲ぶ⼈々を
迎え⼊れている
沖端(おきのはた)は⼭⾨郡⼭間部と有明海をつ
なぐ交通の要衝であり、また有明海漁業の中⼼地
でもあって、海路を通じ異国の⽂化も流れ込んで
いた。⽣家の建築はその活気を伝えるかのように
重厚な佇まい。⼀⽅の記念館は外壁になまこ壁を
あしらった近代的な造り。その中に時代別・テー
マ別に⽩秋の⽣涯を展⽰し、『邪宗⾨』や『思ひ
出』の初版本も並んでいる。
⽣家周辺の鮮⿂店をのぞくと、⾒る⼈を驚かせるメカジャやワ
ラスボやイソギンチャクなどの有明海の珍味が並び、クチゾ
コ、シャコ、ワタリガニも顔を揃える。そして名物「せいろ蒸
し」の名店も沖の端に集中している。ご飯にうなぎのタレをま
ぶして蒸し、そこに蒲焼をのせ再度蒸し上げる柳川独特の調理
法で仕上げるその味は、⽢く、濃厚で、⾹ばしい。
また、掘割をひとつ超えれば藩主⽴花家別邸の「御花」があ
る。⽩秋も旧交を温めたという佇まいを残す屋敷や庭園(松濤
園)、あるいは⽔⾯になまこ壁を映す「殿の倉」の⾵情も楽し
んでおきたい。
⽩秋は、「⽔の柳河の最もゆかしい情緒は、単に市街路を素通りした
だけの旅客にとっては、さして⼼ゆくまでは味わえないであろ
う」(『⽔の構図』より)と記している。幾⽉でも滞在し、柳川の⽔
を探勝することで、初めて柳川の魅⼒が分かるということだろう。さ
すがにこれは旅⼈には無理だろう。そこで裏堀を巡ることをおすすめ
したい。
⽣家の⾓を裏道に⼊ると、やがて⽮留⼤神宮という⼩さな神社に⾄
る。⽔路をはさんだ向かい左⼿が⽮留⼩学校で、いわばこのあたりは
⽩秋の通学路と遊び場。その右⼿には「⽩秋詩碑苑」があり、⽩秋が
昭和16年の帰郷に際し作った「帰去来」の詩を刻んだ⽯碑がある。
晩年にいたってなお故郷への思いを募らせた哀感せまる⼀篇だ。
⽯碑を囲む⽣け垣には葉の先に⻘い棘を纏ったからたちが⽣い茂って
いる。⽩秋の「からたちの花」の詩を⽣んだ裏堀だ。
「からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかったよ」
詩聖・⽩秋の故郷・柳川は、限りなく優しかった。そして、その優し
さは、いまも⽔の匂いの中に漂っている。⽩い⽩い花が咲くころ、ま
た訪れてみたい。
(取材協⼒:柳川市、柳川観光開発株式会社、北原⽩秋記念館、柳川
御花)