~絵画とともに聴く古楽 須田 純一 (銀座本店) 第44回 海との結婚∼水の都ヴェネツィア ラッスス:ミサ曲「美しいアンフィトリト」 ハリー・クリストファーズ指揮 ザ・シックスティーン ▲カナレット「キリスト昇天祭に帰港するブチントーロ」 (イギリス、ウィンザー城王室コレクション) (アルバム「ヴェネツィアン・トレジャーズ(ヴェネツィアの至宝)」に所収) ■CD:COR 16053 輸入盤オープンプライス 〈CORO〉 呼ばれる豪華絢爛な船に乗り込み、海に向かっ 2011年から2012年にかけて、日本全国を巡 て「海よ、おまえと結婚する」 と宣言し、指輪を海 回する大展覧会「世界遺産ヴェネツィア展」が開 に投げ入れるというものでした。 これは当時も大 催中です(東京では、江戸東京博物館で2011年 イベントとして、 ヨーロッパ各国に知れ渡ってい 12月11日まで開催、その後全国5都市を巡回す たようで、当時の旅行者などの日記にもそのこと る予定)。都市が丸ごと世界遺産にも登録されて が記されているそうです。 いるヴェネツィアの芸術作品の数々が展示され るとあって、大きな話題となっている展覧会です。 このイベントの模様を18世紀ヴェネツィアの 大画家カナレットが描いています。海との結婚式 今回はこの話題のヴェネツィアの芸術を取り上 を終え、帰港する豪華なブチントーロ、それを取 げてみたいと思います。 り巻く華やかなゴンドラの上のきらびやかな衣 「水の都」 として現在でも屈指の人気を誇る観 装の人々、そして多くの見物人がこのイベントの 光都市であるイタリアのヴェネツィア。 「ラ・セレ 大きさを物語っています。当時の空気を伝えるす ニッシマ」=もっとも高貴な国や「アドリア海の女 ばらしい作品でしょう。 王」などの賛美の言葉が示す通り、海運業、貿易 業で莫大な財をなしたヴェネツィアは長きに渡 音楽でもこの「海との結婚式」 と関連があると り繁栄を誇ってきました。7世紀末期から1797 されている作品があります。それがラッススのミ 年のナポレオンの侵攻によって降伏するまでの サ曲「美しいアンフィトリト」 です。 ラッススはパレ 約千年の間、共和国という形態を保ちながら続 いてきたという事実は実に驚くべきことでしょう。 ストリーナと並ぶルネサンス末期の大巨匠であ り、音楽史的にもとても重要な存在でありなが 当時の他のイタリアの都市国家が、一部の王侯 ら、パレストリーナほど研究が進んでおらず、未だ 貴族が権力を握る君主制であり、またフィレン その全貌が明らかになっていないという、そうし ツェのように共和国と名を冠する都市も実際は た意味だけでも音楽史上の巨人と呼ぶにふさわ 一部の一族の独裁であったのに対して (フィレン しい存在です。 ミサ曲、モテットなどの教会音楽 ツェの場合はメディチ家)、 ヴェネツィアにおける に、 フランス語のシャンソン、イタリア語のマドリ 共和国というシステムは、世襲の禁止された ドー ガ―レ、 ドイツの歌曲と様々な言語による世俗音 ジェ と呼ばれる元首が選挙によって選ばれるも 楽など、非常に多岐にわたるジャンルで数多くの のでした。 作品を残しています。 この多ジャンルに及ぶ多作 ヴェネツィアではこのドージェが大きな権力を ゆえに研究が進まないのかもしれません。実際、 握ることになるのですが、厳しく監視され、 また貴 録音音源も他のルネサンスの巨匠たちと比べて 族たちによる評議会のようなものもいくつか設立 も少ないようです。 されていたので、 ドージェの権限は実質上かなり このように現在では若干不遇の存在となって 限定的なものだったようです。 しかもドージェは いるラッススですが、存命時は作曲家としての高 世襲制ではないので、一部の一族のみがその座 い名声を保ち続け、バイエルン宮廷のアルブレ を独占できないようになっていました。たいてい ヒト5世、およびヴィルヘルム5世らヨーロッパ の場合、年輩者が選ばれていたそうですから、あ 各地の王侯貴族らから寵愛を受け、神聖ローマ る意味、名誉職的な感じもありますが、それでも 皇帝からは貴族に叙列され、ローマ教皇からは 様々な行事を取り仕切ったり、当代随一の画家 教皇庁騎士に叙任され、黄金拍車勲章を授かる に肖像画を描いてもらったり、その姿が描かれた 金貨を発行したりと、 ヴェネツィア共和国の中で (音楽家では他にモーツァルトだけとのこと)な ど、 まさに大巨匠にふさわしい扱いを受けていま 大変重要な役割を担うとともに、それなりに権力 した。 ドイツの王侯貴族に仕えながらもヨーロッ も握っていたようです。 パ各地を飛び回っていたラッススですが、 ヴェネ さて、そのドージェがキリスト昇天祭に行う毎 ツィアにも何度か足を運んでいるようです。 年恒例の儀式に「海との結婚式」 というものがあ さて、 ミサ曲「美しいアンフィトリト」は、今では りました。これは海の覇権を握っていたヴェネ 失われてしまったという同名のマドリガーレを基 ツィアにとって海がどれだけ重要なものだったか にしたパロディ・ミサ(多声部の世俗音楽を基に を示す象徴的な祭で、 ドージェはブチントーロと したミサ曲) です。 これは2つの合唱隊のための 8声部の作品で、主に4声の2つの合唱隊の掛 け合いで音楽は進んでいきます。 タイトルに出て くる アンフィトリト とはギリシャ神話で海の神ポ セイドンの妻となる海の女神です。そうしたこと からミサ曲の原曲はヴェネツィアで作られた歌と されてきました。そのマドリガ―レに想を得た ラッススが作り上げたというものだというのです。 またこの曲の二重合唱という編成も、 ヴェネツィ アのサンマルコ寺院の特異な建築様式から生じ たヴェネツィア音楽特有の 複合合唱様式 から 想を得たものとされています。少し調べたところ、 ラッススが滞在時に感化されたヴェネツィア様 式を取り入れ、バイエルン宮廷での典礼のため に作曲したという説が有力のようで、それを再現 したアルバム (HELIOS CDH 55212) も発売され ています。 一方、原曲がヴェネツィアの歌と考えられるこ と、海の神ポセイドンと結婚したアンフィトリトを 題材としたマドリガーレを原曲としていることか ら、 ヴェネツィアの「海との結婚式」 と関連があっ たのではないかという説もあるようです。私自身 はこちらの方に説得力があるように感じます。 さらにもう少し想像力を逞しくしてみましょう。 原曲がヴェネツィアを象徴するようなものなら ば、ヴェネツィアで良く歌われたはずで、何らか の形で残っていてもよさそうなものです。 しかし それが失われているとされるならば、実はラッス ス自身が原曲さえも作曲しており、今では失われ てしまったが、 「ヴェネツィアで書かれたヴェネ ツィアを象徴するような曲を基にしている」 とい う逸話を創作し、 「海での結婚式」で使用される にふさわしく、作品に箔を付けたとは考えられな いでしょうか。いずれにせよ、海の覇権を握り、海 と結婚していたヴェネツィアにぴったりな作品と 言えるでしょう。 演奏はザ・シックスティーンの録音が、曲の推 進力を前面に押し出したすばらしいもので、海面 のきらめきを表現したかのような和音の動きの 表現も見事です。 またこの演奏が収録されたアル バムには16∼7世紀のヴェネツィアの教会音楽 が集められています。ヴェネツィア展をご覧に なった後にお聴きいただくと当時の雰囲気をよ り一層身近に感じられるかもしれません。
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