教育方法学的にみた幼児教育, 幼稚園教育,保育の関係 児 玉 衣 子 はじめに 現在の日本において幼児教育,幼稚園教育,保育という三語の区別は必ずし も明確でない。巷間には単純に幼稚園を幼児教育,保育所を保育といって済ま せる論さえ認められる。しかし,保育という語は,明治期にそれまで全く知ら なかった幼児教育なるものを,幼稚園によって開始するにあたり新しく採用し, それによって普及した語であり,後述するように幼稚園関係者自身,現在も日 常的に自分達の実践を保育と述べている o 法用語からみると,現在,幼稚園を規定する学校教育法においては,幼稚園 の目的を規定する第2 2条において「幼児を保育し」と述べ,続く第 2 3条におい て「幼稚園における教育は前条に規定する目的を実現するため,次に掲げる目 標を達成するように行われるものとする」と述べている o そして,第 2 5条にお いて「幼稚園の教育課程その他の保育内容に関する事項は第2 2条及び第 2 3条の 幼 規定に従い,文部科学大臣が定める」と述べて,これを受けて作成された r 稚園教育要領』においては幼稚園教育という語が用いられている。これに対し 4条および第 3 9条,児童福祉施設最低基 て,保育所に関しては,児童福祉法第2 準第3 5 条の規定を受けて作成された『保育所保育指針』等に一貫して保育とい う語が用いられている。 他方,実践に目を向けると,現場では幼稚園も保育所も共に自分達の実践に 保育という語を自明的に用いている。幼稚園において,自分達の実践を「教 育」と自称すると違和感を覚えるという保育者は非常に多い。そこには,幼稚 園教諭達の,学校教育とも早期教育とも異なる保育という実践のあり方に対す る,強い誇りと愛情が認められる。 そこで,本論では,まず教育方法学的観点,より具体的には教育課程構築の 観点から明らかになる幼児教育の構造を述べる。次に,わが国における保育と 教育方法学的にみた幼児教育,幼稚園教育,保育の関係(児玉) - 83- いう語の採用の歴史を探る。その上で,これら 2観点、の論から明らかになる幼 児教育,幼稚闘教育,保育の関係を述べることにしたい。 なお,これらの語の区別に関する先行論として,例えば無藤隆は現行の 3 歳児以上の保育を,幼稚園と保育所との区別を問わず幼児教育と捉え, 0 歳か ら 2歳児については保育として教育性に関して態度を保留している。筆者は, これらの語を,幼稚園および保育所の法・行政管轄,発達心理学等の観点から ではなく,教育課程構築の観点、から検討した関係論として述べる。 I プレーベル ( F .W.A .F r o b e l,1 7 8 2 1 8 5 2,ドイツ) 以前の保育の,教育課程構築の観点から見た特色 保育所の世界的鳴矢は 1 7 6 9年,フランスのオーベルラン牧師の設けた編物学 校付設の幼児学校とされる。 2名の女教師が遊び,糸紡ぎ,編物,聖書および 地理の話等をする中で信仰と道徳,標準語の指導等を行ったという o これを教 育課程構築の観点からみると,大人の考える成人の条件(教育目的)がまず存 在し,次にその教育目的の実現のために子どもの獲得すべき教育内容が提出さ れ,その教育内容を具体的な範囲,程度,順序等をもっ教育内容にするために 子どもの発達等を勘案して計画化し,子どもをその計画に乗せるという形式を 取っている。すなわち学校教育課程を構築する際の基本形式に則っているので 幼児教育ではなく早期教育であるということができる。なぜなら,学校教育の 場合の教育課程構築は,基本的に以下の図式(1)ような構築の道筋を有して いるからである o 図 式 (1) 教育目的(大人による設定)→実現を図るための教育内容(大人)→教 育目的の目標化および教育内容の範囲,程度,順序の設定(大人)→教 授・学習(子どもの個人的発達状況や個性等に対する配慮はここで初めて 行われる)→評価(大人による子どもの達成度評価) また,幼児教育の先駆的実践として, 1 8 2 0年,ウィルダースピンにより英国 で開始されたインファント・スクール(幼児学校)は, 3R ' s,幾何,地理, 天文等の教科,統制された授業等から成り立っていた。この学校教育課程と同 型に構築され,また学校と同じ教授・学習形式をとった幼児学校は,学校教育 を学齢以前から関始したというべきだろう o - 84- 龍谷大学論集 このように,オーベルラン牧師による編物学校付設幼児学校もウイルダース ピンによるインファント・スクールも,教育方法学的観点、からすれば保育でも 幼児教育でもなく,早期教育および学齢以前から開始された学校教育というこ とになる。 I I プレーベルにおける乳幼児教育の創造 フレーベルは 1 8 4 0年にキンダーガルテン(邦訳:幼稚園)を創設した。現在, 世界的に幼児教育と呼ばれる教育のあり方の開始である。その数年後に彼が著 した『母の歌と愛撫の歌J (推定 1 8 4 4発刊)は,乳幼児向付の遊戯歌と遊戯と 挿絵からなる一見他愛ない遊戯歌絵本である。しかし,同替は,乳幼児と母親 向けの遊戯歌絵本でありつつ,同時に,プレーベルが彼の乳幼児教育を体系的 に表現している唯一の単行本である。同書の中で,彼は,子どもの誕生から学 齢期に入った辺りまで r勉強 J r稽古J rしつり」等,大人の意図と内容と方 法を子どもに意識させ,それに従わせて展開するという従来の教育および学校 教育のあり方を採らない。そうではなく,乳幼児期の子どもは,発達に従って 内発的に生じる動き,興味・関心,親愛等を充たすことのできる生活を通して 初めて十全に成長することができるとして,そのようなあり方を同曹の中に体 系的に展開しているのである。 プレーベル自身,別の機会に同書の意図的構築に言及して次のように述べて いる。すなわち r 真に子どもおよび人聞を発達に即して教育する意・識的陶冶 の出発点=根源点を示しているだけではなく,また,この人間陶冶の手段ない し過程と方法,目的と目標を示しているだけではなしさらにまた,実際に幼 児期を育むそのような家庭生活の最も重要な瞬間々々をも例示している Jo す なわち,教育目的・目標,子ども,期間,内容,方法,評価の視点、といった, 今日の教育方法学的観点、から見て教育課程構築に必要な要素とその組み合わせ 方を,同書の中に意図的に組み込んだと彼は述べているのである。 事実,同書を教育方法学的観点、から検討すると,子どもの発達の様子から保 育の目標,内容,方法等を導き出して,体系的に彼の抱く教育目的の実現を図 っており,実に精織な構造に組み立てていることが明らかになる。つまり,そ こから明らかになるフレーベル乳幼児教育の教育課程的内容とは,教育課程構 築に必要な要素を学校教育と同じだけ有し,しかも,その組み立て方が学校教 育とは異なるということである。だからこそプレーベルは教育の新分野として 乳幼児教育を創造したということができ,また,今日の私たちは,教育の一分 教育方法学的にみた幼児教育,幼稚園教育,保育の関係(児玉) - 85- 野でありしかも学校教育とは異なる教育のあり方として乳幼児教育が存在する といい得るのである o では,子どもの発達に従う教育課程の構築とはどのような組み立て方なのか。 同書中の r r r母の歌と愛撫の歌』への指示」における彼の論をみると次の図式 ( 2)のように展開されているロ 図 式 (2) 子どもの本質の考察(神によって具えられた人間の本質を有して誕生) →教育の目的(神の子として教育し,教育して神の子とする)→どのよう にして実現するのか?→親は既に子どもの発達を次のカッコ内の 3側面に おいて気づいている(身体・運動・知覚:他者への親しみ:精神)→だか ら,子どもが見せるそれらの発達を壊さずに充実させて望ましい方向へ導 く。すなわち、乳幼児期全体を通して,今現在見せるさまざまな発達的諸 状況からそれらを充足させて至るべき短期諸目標へという道筋を重ねてい く。大きく 3段階の成長課題の時期を経る→少年・少女期へ これを教育課程構築の観点から見ると下の図式(3)のような組み立てをし ているということができる o 図 式 (3) 教育目的→子ども→子どもの発達的欲求を充足させる(内容は子どもの 発達から生じる諸特徴を大人が見出して取り上げることにより作り出され る。方法は内容と子どもの発達の見計らいとから作り出される)→目標→ 評価(対象は子どもの成長だけではなく,同時に大人も,子どもの発達的 状況を何に見てとり,それを損なわずに充実させるためにどのような内 容・手段を講じたのかという点で対象になる)。 つまり,プレーベルが創始した乳幼児教育は上掲の 2つの図式から明らかに なるように,教育課程の構築に次のような特色を有している。 l 教育目的と子どもの発達とは対等対置。 2 教育目的の実現のために,次に子どもの発達的状況を何に見てとるかと いうことが出されるロその意味で,発達に従うという方針は乳幼児教育の 実践を導く教育理念と見ることができる。 3 教育内容は,基本的に子どもの発達的諸特徴から掬い上げられる。もち ろん r r 母の歌と愛撫の歌』においても神話・伝承話・聖書物語のような - 86- 龍谷大学論集 既存文化財の採用や労働・職業への導き等,大人の有する価値観に基づく 教材は多々存在する。ただし,それらは全て子どもの発達的状況に見合っ て,また,生活の中の必要に見合って出されている。この意味で,発達に 従うことが乳幼児教育の内容をも方法をも導いている。 4 乳幼児教育は乳幼児期において完結する教育ではない。教育的配慮の内 にある乳幼児期を過ごし,それの至った時期として示される少年・少女期 は,同書の中で幼児期後期から学齢に入った辺りと目される。プレーベル が最晩年に「連絡学校」期として述べる時期に相当する。その意味で,乳 幼児から学齢児への移行は間然と行われておらず移行期間を有する教育課 程であるということになる o しかも,本論ではふれ得ないが,この移行期間は「情操・性格・意志の 訓練の段階J として挙げられており,学校教育とは異なる基礎的人間形成 の成長課題・目標が示されている。 では,プレーベルにより創始されたキンダーガルテンによる幼児教育が日本 へ持ち込まれた際,日本ではどのような経緯を経て保育という語になって定着 したのだろうか。見も知らない新教育のあり方を慌しく幼稚園,保育,保婦等 の聞き慣れない語に託して日本の幼児教育は発足した。以下,その経緯を概観 する o I I I 日本の幼稚園に「保育」という語の採用,定着の経緯 近代日本の就学前教育の鴨矢は 1 8 7 2 (明治 5)年「学制」に設けられた「幼 稚小学」であるが,これについては具体的内容が設けられなかった。そのため 実践例はなしと思、われていたが修了証の希少例が存在する o ただし,その実践 内容については全く不明である。 幼稚園という全く新しい,それまで見たこともなかった教育のあり方を翻訳 8 7 6 (明治 9)年,開設に至った際 によって輪郭をとり 1 r 保育」という語が 採用された詳しい経緯は現在なお明らかではな ~lO 保育という語は,それまで貴族・皇族に用いられることのあった語であるら しく,一般には知られていない語であった。しかし, 1 8 7 6年 1 1月1 6日の東京女 子師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園の仮開業の直後, 1 1月2 8日付で 文部省学務課から東京府に対して出た「仮定之規則及時間割表J には「保育 料 J r保育規則」の記載がある。また,仮開業から 1年後, 1 8 7 7 (明治 1 0 )年 教育方法学的にみた幼児教育,幼稚園教育,保育の関係(児玉) - 87- 1 1月2 7日に挙行された同園開闘式において,文部大輔田中不二麿は「……凡保 育ヲ求ムルノ児常ハ……」と演説した。すなわち,幼稚園の教育を「保育」と いう語において公に示したわけである。ちなみに,この時に行啓のあった皇太 后は「訓育J,皇后は「育方」という語を用い,さらに,答辞を述べた東京女 子師範学校摂理中村正直は「幼稼教育」および「幼稚育方 J という語を用いて おり r 保育J という語を用いていない。いいかえると,全く新しい教育の開 始に際して文部省関係者が「幼稚小学」という旧来の教授形式や学校教育を連 想させる語を退け r 保育」というそれまで一般人には知られなかった語を採 用している。そこには,全く新しい教育に応じるために新しい語の意図的採用 が感じられる。 さらに,同園初代監事関信三は,幼稚園発足の直前, 1 8 7 6 (明治 9)年 7月 に『幼稚園記』計 3巻を翻訳したが,そこには「保育」という語は全くなく 幼稚園師 J (保婦のこと…筆者註)等の訳語が用いられている。そし 「教育 J r て,翌 1 8 7 7年 7月に翻訳した r幼稚園記附録』において,彼は「保育」という 8 7 8 (明治 1 1 ) 年1 1月の彼の最初の著書『幼稚園創 語を初めて lか所に用い, 1 立法』になると,冒頭から「幼稚園はゼルマン国の大教育者フレデリック・フ レベル氏の発明した稚児を保育する楽園」と誇らしく述べて同書中に何度も保 育という語を用いている。 その 3年後,前年秋に関信三が病没し小西信八が第二代監事になった 1 8 8 0 (明治 1 3 ) 年の文部省年報東京女子師範学校記事欄になると,改正された 幼稚園規則に新設の「保育課程」が示されている。 これらの記事から,プレーベルの創始した幼児教育というそれまで全く知ら れなかった新しい教育を,幼稚園という場で r 保育」という語によって日本 に根づかせていった過程が窺われる。 保育J r 保婦J 等 このような過程を経て少しずつ知られていった「幼稚園 J r の語ではあるが,では,現在の保育所保育の源になる託児所,幼児預かり所等 の場合,どのような経緯を経て「保育」という語が定着していったのだろうか。 I V 日本の保育所における「保育J という語の使用,普及 本邦初の保育所はド・ロ神父(18 4 0 1 9 1 4,仏)が長崎・外海地方の出津に 1 8 8 0 (明治 1 3 ) 年頃から設けた「愛児国 J とされる。しかし, 1 8 6 8 (慶応 4) 年,故国フランスから長崎に着任したド・ロ神父は, 1 8 7 1 (明治 4)年から - 88- 龍谷大学論集 1 8 7 3年にかけて横浜着任の期間があるものの再び長崎に戻り,終生,長崎を離 れなかった。出津という元々隠れキリシタンの住む交通難所に作られた同園に, 「保育」という語が速く届いた形跡はない。 また, 1 8 9 0 (明治2 3 ) 年,日本人初の保育所設置とされる赤津鍾美の私塾 「新潟静修学校J 付設の幼児預り所が,通学生の背中の弟妹を預かるために, 鍾美の身内の女性逮により始められた。しかし r当時の役所の感覚ではその 行為が余計なこと,見て見ないふりして通り過ぎたい事柄を取り扱う事業が小 面憎く感じたもののようで J,鍾美は「政府に楯突く犯罪者並みの警句を言わ れたことも一再ではなかった」という。そこには,必要な人々にとってありが たい託児施設ではあっても,まだ一般的に求められる状況ではなかったのであ ろうという世相が窺われる。同幼児預かり所が正規の託児事業にされたのは 1 9 0 8 (明治 4 ] ) 年と遅く,また,上述のような経緯からすれば,たとえ次に述 べるようにお茶の水幼稚園分室が 1 8 9 2 (明治2 5 ) 年から開設されていたにしろ, 役所を通して等,早くからこの語が届いたとは考え難いロ 現在の保育所保育を先取りし,しかもそれを当初から「保育J と呼び,託児 事業においても保育の内容とこの語を定着させたきっかけになるのではないか と考えられるのは, 1 8 9 2 (明治 2 5 ) 年,女子高等師範学校(現お茶の水女子大 学)附属幼稚園に作られた分室である。本国そのものが日本全国にこれから造 られるはずの幼稚園の模範として開設され,その後,模範幼稚園であり続けた が,新設の分室についても全国に簡易幼稚園の普及を図り,その模範を示すた めに設置されたものであって,分室では週 3 3 " ' " ' 4 3 時間,地域の日銭労働者の子 保育法 J r 保育料 J r 保 女を無料で保育した。この分室では最初から「保育J r 婚」等が用いられた。 また,華族女学校幼稚闘保婦であった野口幽香および森島峰により私的に 1 9 0 0 (明治 3 3 ) 年,麹町に開園された二葉幼稚園は,街頭に遊ぶ貧児のために つくられ,最初から幼稚園年齢(満 3歳以上小学校入学まで)から外れる幼い 子も就学年齢だが就学できない年長の子も入園させて保母が保育を行ったロそ の財政は寄付により賄われたところから,支援を通して託児事業についても保 育,保締等の語に慣れていった人々の数は多かっただろうと考えられる。なお, 同幼稚園は 1 9 1 6 (大正 5)年,二葉保育園と改称した。 これらの簡易幼稚園という理解の下に我が国託児事業の草分けおよび見本に 保育」等の語が用いられたことは,後 なった所で最初から自明的に「保婦 J r に普及していくことになる託児事業において,これらの語および概念が浸透す 教育方法学的にみた幼児教育,幼稚園教育,保育の関係(児玉) ー 8 9- るのに影響を及ぼしたであろうと推測される。 0 4 ) の際,各地に戦時託児所が設けられたが,とりわ この後,日露戦争(19 け幼稚園の盛んであった京阪神 3市では,連合保育雑誌においても積極的に戦 時託児所の報告がなされている。京阪神 3市の保育会は平索から連携が密であ った。この中でも神戸幼稚園園長望月くには東京女子高等師範学校出身であり 進取の気性に富み,母校と 3市保育会との連携についても密に行っていた。ま た,大阪市も元々実践的で進取の気性に富む土地柄であって,大阪市保育会に は学校教育関係者も積極的に加わり活発な保育活動および保育会活動を展開し ていた。それらの事情も預かっていたのだろう, 3市の各保育会報告および連 保育J 合保育会記録には,戦時託児所に関する討論記事において既に「保婦J r 等の語が自明的に共有されて論議に用いられている o この後,関東大震災(19 2 3 ),農繁期託児所運動(19 2 5頃から)等の折にな ると,これら「保育 J r保婚」等の語は『幼児の教育』のような全国的な保育 誌においても託児所の語として当たり前に用いられているので,託児所におい ても全間的に共有されていたのだろうと推測される口 V 幼児教育,幼稚園教育,保育の分離およびカリキュラムの 必要性への言及 戦後, 1 9 4 7年 3月3 1日新設の「学校教育法」により,幼稚園は学校教育機関 の中に位置づけられた。これに伴い,保婦というそれまでの呼称も幼稚園教諭 に変更された。しかし,保育自体については学校教育法第7 7条に「幼稚園は, 幼児を保育し,適当な環境を与えて,その心身の発達を助長することを目的と する」と規定され,実践を保育と呼ぶことについては明治期の幼稚園開園以来 の伝統が維持された。 1 9 4 8年 3月,文部省から「保育要領」が出された。これは幼稚園と保育所と の両方を視野に入れて作成されたものであって,副題はー幼児教育の手びきー になっている。また,その内容構成を章名だけでも見ると,ー はじめに,二 幼児期の発達特質,三幼児の生活指導,四幼児の生活環境,五幼児の一 日の生活,六幼児の保育内容-楽しい幼児の経験七家庭と幼稚園,と なっている。すなわち,現在の「保育所保育指針J に通じる懇切さを有してい る。各章の内容も具体的であり,特に,六幼児の保育内容は副題を-楽しい 幼児の経験ーとしているが,旧法での「保育項目」に倣って諸活動が名称で 1• 見学 2. リズム, 3. 休息 -9 0一 能 谷 大 学 論 集 4 . 自由遊び,等々 1 2 種類にわたって挙げられ, 詳細で具体的な解説がされている o 1 9 5 6年 2月,文部省は「保育要領」を「幼稚園教育要領」に切り替え,内容 についてもそれまでと大きく体裁を変えた。すなわち目次の章を挙げると,第 I章 幼 稚 園 教 育 の 目 標 , 第 1 1章 幼 稚 園 教 育 の 内 容 , 第 凹 章 指 導 計 画 の 作 成とその運営,である o 幼稚園教育という呼称を採用するとともに,保育の内 容(第 1 1章)を,それまでの活動名称を前面に出す表現から,望ましい経験を 社会J r自然 J r 言語 J r 音楽リズム J r 絵 前面に出してそれを六領域「健康 J r 画製作」にして示す表現へと大きく切り替えている。六領域とも各領域の内容 は(ー)幼児の発達上の特質, (二)望ましい経験,から成り立っている。 また,指導計画に類するものとしては 生活 r 保育要領J で は 五 幼 児 の 一 日 の においてデイリープログラムに類する計画が示されていたが,これが新 しく年,月,週,日等の指導計画へと,望ましい経験を組織的に構成して展望 9 6 4年 3月改訂された「幼稚 を持つことが求められることになった。そして, 1 閤教育要領 J から教育課程編成が求められて,より意識的に展望の計画化を行 うことが求められている o ただし,実践については, 1 9 4 7年学校教育法第7 7条に述べられた文言は 2 0 0 7 年1 2月に改定された同法第2 2条においても「幼稚園は,義務教育及びその後の 教育の基礎を培うものとして,幼児を保育し……」と維持されている。 他方,保育所の保育については, 1 9 6 3年 1 0月,厚生省児童家庭局と文部省初 等中等教育局との両局長による共同通達により「保育所のもつ機能のうち,教 育に関するものは,幼稚園教育要領に準ずることが望ましい」とされた。 1 9 6 5年 8月,厚生省児童家庭局による「保育所保育指針」が,保育所保育に おけるガイドラインの 性格を持って出された。その中で,計画の必要性が述べ e られ,保育計画の作成(第 l章)および年,期,月,週,日等の具体的な指導 計画の作成(第 1 0章)が求められている D また, 2 0 0 8年 3月に厚生労働大臣告 示として改定された「保育所保育指針」から,保育計画は保育課程に改められ て現在に至っている白 V I 教育方法学的観点による幼児教育,幼稚園教育,保育の関係 以上のような経緯と教育課程構築の観点からすれば,現在,日本で用いられ ている幼児教育,幼稚国教育,保育の 3語は,次のような関係にあるというこ とができる。 (1) 幼稚園教育,保育所保育を問わず,子どもを一定期間受け入れる中で, 教育方法学的にみた幼児教育,幼稚闘教育,保育の関係(児玉) - 91- 子どもの状況(発達,個性等を含む)から保育目標へという道筋を作り,そ こに生じる保育の目標,期間,内容,方法,評価等を構築するあり方は教 育・保育課程(カリキュラム)であり,その意味で,幼稚園も保育所も共に 教育の一分野に在る。かつ,それらは学校教育でも早期教育でもなく乳幼児 教育である。 (2) 幼稚闘,保育所を問わず, (1)の教育・保育課程構造を持って行われる 実践を保育という o 本稿は,日本教育学会第69聞大会 ( 2 0 1 0 . 8 . 21~22 ,於広島大学,一般発表 の部)において発表した拙論「教育方法学的観点による幼児教育と保育との関 係」に検討,加筆を加えたものである。 註 (1)無線隆『双書新しい保育の創造幼児教育の原則 一保育内容を徹底的に考 えるー』ミネルヴァ書房, 2 0 0 9, 1頁 - 3頁 。 ( 2 ) 岩崎次男「第二章近代幼児教育施設の誕生」梅根倍監修『世界教育史大系』 2 1巻,講談社, 1 9 7 4,7 8頁 -80頁参照。 ( 3 ) 学校教育課程と同型の構築過程をもっ幼児教育のありかたを通常早期教育と呼 び,幼児教育と分けている。 ( 4 ) 岩崎次男,上掲論文,向上, 8 0頁' " " ' 1 2 1頁参照。 { 5 } 荘司雅子,藤井敏彦訳「リナが読み方を覚えたやり方に示されている発達に即 して教育する人間陶冶の精神」小原因芳,荘司雅子監修『プレーベル全集』第 4 巻,玉川大学出版部, 1 9 8 1,6 7 3頁 。 また,プレーベルのこの言を本書解説の鍵にして児玉衣子著『プレーベル近代 乳幼児教育・保育学の研究ーフリードリッヒ・プレーベル『母の歌と愛撫の歌』 の教育方法学的検討から一』現代図書, 2 0 0 9 。は本書内に存在する体系性を明ら かにしたものである { 6 } 註( 5 ) 児玉上掲替, 4 0 5 頁' " " ' 5 8 3 頁 。 ( 7 ) 註( 5 ) 児玉上掲脅, 2 9 1頁. . . . . . . . 2 9 4頁 , 4 0 7頁' " " ' 4 1 2頁 。 ( 8 ) 註( 5 ) 児玉上掲書, 2 3 8 頁 。 ( 9 ) 旧「皇室典範 J ( 18 8 9,明治2 2 ) では未成年の天皇および父親のいない幼少皇 族男女に関して「保育」という語が用いられていた(第 2 6条,第 3 7条 ) 。 1 ( ) 0 東京都立教育研究所『東京教育史資料大系』第 3巻 , 1 9 7 2, 1 2 6頁. . . . . . . 1 2 7 頁。な 0年 7月になっている。 お,最初の「幼稚闘規則」の発行日付は明治 1 ( 1 ) > r 朝野新聞』第 1 2 7 6 号 , 1 8 7 7 (明治 1 0 ) 年1 1月28日 。 1 ( 2 ) 関信三訳『幼稚園記附録』東京女子師範学校, 1 8 7 7 (明治 1 0 ) 年 7月 , 4 0頁 。 なお,本箇所の検討については岡吉栄『日本幼稚園史序説 関信三と近代日本の -9 2 龍谷大学論集 繁明』新読書社, 2 0 0 5,281 頁-291頁に詳し~ ) 0 1 ( 3 ) 関信三 r 幼稚園創立法 J, 1 8 7 8 (明治 1 1 ) 年 1, 4, 8, 9頁等。 ( 1 4 ) r 文部省年報 J 明治 1 3 年度には東京女子師範学校附属幼稚閤[規則ノ事]につ 4年 7月「其保育課程ニツキ改正スル所アリ」と初めて保育課程という語 き明治 1 が用いられ,第 8条保育諸課各週の度数左ノ如シ」と各科(恩物等の各種活動) 度数表が示されている。この後,保育課程とは,各種活動の名称とそれらを 1週 当り行う回数を示す度数表を指すことになった。文部省『幼稚園教育九十年史れ 1 9 6 9,5 3 2頁 -533 頁 。 15 ( ) ド・ロ神父はプチジャン神父に呼ばれて 1 8 7 1年1 8 7 3年横浜へ行ったことがあ るが,その後終生長崎を離れることはなかった。出津における保育事業は日本へ 来てから知ったのではなく故国フランスで知っていたからなされた事業であろう。 さらに「保育」という語が出津まで伝わったとは考え難い。矢野道子『ド・ロ神 父黒革の日々録』長崎文献社, 2 0 0 6 .参照。 16 ( ) 赤沢保育園創立 1 1 0 年記念誌 rあかざわ..D 2 0 0 0, 3頁4頁 。 1 ( ) 7 文部省 r幼稚園教育九十年史J 1 9 6 9,6 4 3頁 -654頁参照。 18 ( ) 上笠一郎・山崎朋子『光ほのかなれども一二葉保育園と徳永恕一』社会思想社, 1 9 9 5,1 9 4頁 -199頁参照。(初版朝日新聞社刊, 1 9 8 0 )。 ( I9 ) 倉橋惣三「子供讃歌 J r 倉橋惣三選集』第 1巻,プレーベル館, 1 9 6 5,1 8 1頁 " " ' 1 8 5頁 。 側 日露戦争時の戦時託児所については 1 9 0 5 (明治3 8 ) 年 1月大阪市保育会議員会 記事に「出征軍人家族幼児の保育方法J r婦人慈善会の保育所へ幼稚園保婦の保 育補助 J r長時間の保育」等々の会話が記録され ( f京阪神連合保育会雑誌』第 1 5 号明治3 8 . 1 1,2 2頁-26頁),同 1 6 号「浪華婦人会軍人家族幼児保育所報告 J には 6号,明治3 8 . 1 2,2 2頁)。 「保婚」と自明的に使用されている(同 1 関東大震災後,急搭えの託児所保婚のために倉橋惣三等も加わって講習会が開 かれたことが後に語られている。新庄よし子「参観記-東京玉姫町市民館一」 r 幼児の教育J 3 1巻 4号(19 3 1,昭和6 . 4 ) 日本幼稚園協会刊, 1 7 頁。;さらに, 農繁託児所に関する記事は r 幼児の教育』誌においては第2 9巻 5号(19 2 9 . 5 )か ら見られるが,この頃には「託児所保育座談会 J ( 同3 1巻 6号 ) , r託児所保婦の 任 務J ( 同3 2巻 8 ・9号)等,幼稚園,常設保育所,季節保育所の別を問わず 「保育J r保婚」等の語は定着している。 惚~) r 幼稚園教育要領』では教育課程 r 保育所保育指針』では保育課程という語に より,実践におけるカリキュラムの必要性を指示しているのでこのように表示し ている。なお,本稿で教育課程という場合,幼稚園教育課程のみを指しているの ではなく保育所保育課程をも含めて,教育の一分野である乳幼児教育におけるカ リキュラムという意味で用いている。 ω キーワード幼児教育幼稚園教育保育 教育方法学的にみた幼児教育,幼稚園教育,保育の関係(児玉) - 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