「救いについて」1 いのち 「善なる師よ、我永遠の生命を得ん為に、何の善き事を為すべきか」(マトフェイ1 9:16)と、ある青年は我が主イイスス・ハリストスに質問した。つまり、救いを得 るためにどうすればよいかというのである。この問題は極めて重要なものであり、人が その地上の旅の途上で何よりも関心を持つべき問題である。洋々たる海を渡る旅人が絶 えず穏やかな港を思い起こすのと同様、この世の荒波を航海する我々も常に永世を思い 起こし、暫時の生涯の場を使って永世における良き運命を確保するための努力をしなけ ればならない。地上で獲得したもので永久に我々の所有であり続けるものとは何であろ うか。それはすなわち我々の救いである。富を蓄積するために生涯を費やした者は、永 世に移住するときにそれを置いていく。名声を獲得するために生涯を費やした者は、容 赦なき死によってそれを取り上げられる。ところが、救いを獲得するために生涯を利用 した者は、永世にその救いを持っていき、地上で得たものを天上にあって永遠の慰めと するであろう。 至愛の兄弟よ。我々は救いを得るために一体どうすればよいか。この質問にたいする 答えは、福音書に見出される。主のことばによると、ハリストスを信じない者が救われ るためにハリストスを信じることが必要である。また、ハリストスを信じる者が救われ るためには、神の誡めにしたがって生きることが必要であるという。ハリストスを信じ ない者は世々に滅び、また、口先でハリストスを信じても、主の至聖なる誡めを実践せ ず罪なる行いによって主を否定する者も世々に滅びるであろう。換言すれば、救いを得 るためには、ハリストスを信じる、生きた信が必要である。 イウデヤ人たちが「我等何を行いて、神の事を為さんか」とイイススに質問したとき、 主はこう答えた。「神の事とは、爾等が彼の遣わしし者を信ずること、是なり」(イオ アン6:29)。ハリストスを信ずる生きた信は極めて広範囲な「神の事」であり、そ れだけで救いが十分に達成せられるほどのものである。こうした信は人の全生涯、全存 在によって表現され、人の思い、心、行動のすべてを包み込んでいる。このような信を いのち たも もって「信ずる者は永遠の生命を有つ」(イオアン6:47)。「永遠の生命とは、即 ち爾、独一の真の神、及び爾が遣わししイイスス・ハリストスを知ること是なり」(イ オアン17:3)。生きた信とは、神を観、神を知ることである。生きた信とは、敬神 と、世に対して死することに生涯を捧げた生き方である。生きた信は、神の賜である。 ま 聖使徒たちが主に「我等に信を益せ」(ルカ17:5)と言ったとき、その大いなる賜 を主に求めた。生きた信によってのみ、人は陥罪した己の本性の「美」を捨て、新しく せられた本性にふさわしい知恵と行動によって主の弟子となることができる。 真の信たる霊的な宝が収められ、尽きることなく流れ出でる霊的な宝蔵といえば、一 1 訳注、五旬祭後第12主日(マトフェイ19:16―26)の説教。 つの聖なる正教会である。それゆえ、救いを得るため、正教会の一員でなければならな い。主のことばによると、教会に従わない者は「爾の為には異邦人と税吏との如くなる べし」(マトフェイ18:17)というのである。知の罪2を微罪と思う者がいるが、 大間違いである。霊が肉体より高度なものであるだけに、霊によって行なう徳は肉体に よって行なう徳より高度であり、霊によって犯す罪は肉体によって犯す罪より重大であ る。肉体の罪は一目で分かるものであるが、霊の罪はとかく見分けづらく、世の煩いに 没頭している人にとって時には全く見分けがつかないものである。それだけにその罪は 恐ろしく、破壊力があり、それによってもたらされる傷は癒えにくい。罪なる思いに冒 か された光の天使は暗黒の悪魔となり、天上の住み処から追放され、地獄に堕とされた。 また、考え方が偽りの見解に染った多くの天使と多くの人を同じ地獄に共に堕とさせも した。主は堕天使を偽りの父と称し、真実のうちに立たない者として人殺しと称した (イ オアン8:44)。偽りは永遠の死の源泉および原因である。それに対し、主ご自身に よると、真実は救いの源泉および原因である(イオアン8:32)。聖なる真実は、聖 なる教会に内在している。教会に属し、教会に従えば、神、人間、善悪、ひいては救い について正しい考え方を持つことが可能となる。救いについて正しい考え方を持ってい なければ、救いそのものも得られないことは自明の理である。救いの始めは、真実なの である。救いの始めは、正しい考えなのである。偽りの考えを受け入れて真実から遠ざ かることは、滅びることが保証されたも同然のことである。聖なる真実の教えから外れ、 その教えに反する考えを受け入れることはすべて、神を冒涜し、神を捨てるという恐ろ しい罪を伴う。その実例として、偽りの考えを受け入れることから始まった原祖の陥罪 や、あらゆる異端を挙げることができる。異端者の中では、我が主イイスス・ハリスト せきしん スの神性を否定し3、神の藉身4 に関する至聖なる教義を歪曲しようとすることで神を冒 涜した者があれば、人間を神格化することで神を冒涜した者5もある。また、聖神゜を 被造物と称することで神を冒涜した者があれば、教会の諸機密における聖神゜の働きを 否定し、それを人の作り事と呼ぶことで神を冒涜した者6もある。さらに、ハリストス の誡めにしたがって生きることの重要性を軽視することを要求し、狡猾にも信仰の教義 を黙殺し、信による行いの有無が死活問題である信を共に殺すことで神を冒涜した者も ある。「行いを兼ねざる信は死せるものなり」(イアコフ公書2:20)と聖使徒は言 う。聖使徒の教えによると、世の終末の直前、「己の救いの為に真実の愛を受けなかっ わざわい まよい いつわ た」人たちは究極の 禍 に遭うという。「神は彼等に迷謬の行為を遣わして、彼等が 誑 2 訳注、罪なる思い、教会の教えに反した考え方、見解をもつこと。 訳注、アリウス派の異端。325年、ニケヤ公会議で否認された。 4 訳注、神が身を藉(と)って人となったという教え。 5 カトリック。(訳注、ローマ法王に関するカトリックの教えのこと) 6 プロテスタント。(訳注、プロテスタントの諸教会では、正教会でいう機密(カトリックでは秘跡)と いうものはなく、礼典という名で洗礼と聖餐があるだけである) 3 よろこ りを信ずるを致さん、凡そ真実を信ぜずして、不義を 悦 べる者の罪の定められん為な まよい り」(フェサロニカ後書2:10―12)。その「迷謬の行為」とは、前代未聞の不法 者(アンティハリスト)7が君臨し、人々が彼を神として拝することである。悪者中の 悪者を神と認めることによって、人々はその知恵と心がどれほどの価値があるかを顕わ にするであろう。我々の考え方、我々の知恵が霊的であり得るのは、ハリストスを信ず る生きた信によって真実に達し、完全に真実のうちに立っている時のみである8。真実 から外れることは、霊的な天から肉の思いに、偽りの知恵に、滅びに堕ちることである。 至愛の兄弟よ。聖使徒たちに倣って、救いの唯一の手立てである生きた信を賜わるよ う、主に熱切な祈りを捧げよう。この賜を受けることを祈ると共に、それを獲得するた めの自主の努力によって、それを得たいという願いの真剣さを証明しよう。「悪を避け て善を行なおう」(聖詠33:15)。努めて心を罪から離し、努めて心に徳を植え付 けよう。今日、我々は聖堂において見えない神の前に立ち、救いのために必要なすべて のことを求め、得ることができる。だが、地上の生涯の責任を問われるために、全人類 とともに主の審判の前に立つ日はくる。そのとき、神がハリスティアニンに求める行い がない者、有名無実のハリスティアニンとして神の前に立ってしまうことがないよう注 意しよう。そうした偽善者のハリスティアニンには、主は次の恐るべき宣告を約束して い かつ し な いる。「その時我彼等に告げて曰わん、我嘗て爾等を識らざりき、不法を作す者我を離 れよと」(マトフェイ7:23)。アミン。 7 8 訳注、アンチキリスト、反キリスト。 シリアの聖イサアク、第28説教。
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