東京毎日新聞に入社 又吉が高輪の君塚町に引っ越した

東京毎日新聞に入社
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又吉が高輪の君塚町に引っ越したのは明治四四年一月、三七歳になっていた。引越
しをしようとした訳はいくつかあった。女房のイチをなくして、後妻につねを迎える
に当って、イチの香りがする本郷の家ではとつねに配慮したこと。家族五人が暮らす
には手狭になっていて広い家に住みたかったこと。仕事の都度で芝公園にある政友会
への出入りに便利な場所であること。社主小杉天外の白金台町に近いこと、銀座まで
の通勤便利なこと。家賃が安いこと。
交差点の手前左手、桜田通りと目黒通りに挟まれた窪地にある寺院が、清正公こと覚
林寺。「清正」とは、肥後熊本藩主として名高い加藤清正を指し、寛永八年(一六三
一年)、清正により朝鮮国から連れられた可観院日延上人が、この地に清正の位牌を
置いて創建したと伝えられる。この寺がいつの頃からか「清正公さん」と親しみを込
めて呼ばれるようになり、寺の愛称としてだけでなく、この付近の地名としても定着
するようになった。
その「清正公さん」の向かいの坂道を上がって高輪台に出る手前を左に曲がった奥の
一軒家を、小杉天外の婦人幸子さんが見つけてくれた。
結婚の申し入れは、日向代議士が請け負ってくれたが決まるまで一悶着あった。それ
は森山家では女が四人姉妹ですでに三人の姉たちは嫁ぎ、常一人が残っていたので、
森山家を継げる人でないと承知しないと、頑として母親が受け付なかったのだ。結局、
籍を抜く事はできず、婚姻はしたものの届出は出せなかった。この問題が解決するの
は戦後になってからだった。昭和二二年九月一六日に入籍した。それは妻の急死の一
ヶ月前であった。
「無名通信」社は元数寄屋町一丁目一番地(西銀座五丁目)から日吉町二〇番地(西
銀座八丁目)へ移転した。本郷に住んでいた時には市電一九番系統通称本郷線で須田
町に出て、それから本通り線で銀座に出ていた。この路線は明治三七年には開通して
いた。高輪台からでは、市電に乗ろうとすると、古川橋まで歩き、古川線(天現寺~
金杉橋)金杉線(三田~新橋)で明治四二年には開通していた。清正公前を通る目黒
線(四・五系統)(魚籃坂下 ~ 目黒駅前)が開通するのは大正二年九月、しばらく
不便が続く。そのため家賃も安かった。
所帯道具が入った。つねは江戸っ子、さっぱりした性格で、趣味は唄いだった。三味
線と唄本も持ち込まれた。家の中が華やかな感じに変わった。つねは初婚でもあり花
嫁衣裳を着て祝福されたかっただろうが、それは喪が完全に開ける七月以降に回した。
又吉はどうもつねという名前が気に入らなかった。そこで結婚を機会に町子と通称
名で呼ぶことにした。つねは新しい呼び名が気に入った。古臭い名前からモダンな名
前になったし、今まで背負ってきたものが振り落ちたような気分になった。町子にと
っては初婚にも関わらず、三人の子持ちになってしまい、おまけに末娘のマイはよう
やく一歳になろうとする赤子だった。まずはこの子らをしっかり育て、我が子にしな
ければ、本当に「お母さん」と呼んでもらえるようにしたかった。
又吉はようやく落ち着いて雑誌編集の仕事に集中できるようになった。
明治四三年十月号は「出世号」二〇〇ページの特別号。
「決斗五回 代議士日向輝武」
「明治の代表的出世人物伊藤公観、伊藤公は如何にして出世せしか 伯爵 大隈重信」
を書いた。
「決斗五回 代議士日向輝武」は又吉の保証人とも言うべき日向を評するのだから精
一杯持ち上げておいた。「伊藤公は如何にして出世せしか 伯爵 大隈重信」いかに
も伯爵 大隈重信が寄稿したかのようであるがそうではない。大隈伯が雑誌の寄稿す
ることなどあるわけがない。又吉がまず大隈伯の話を聞いて、それをふくらませて原
稿を起こし、大隈伯の名前で掲載するのだ。九ページ分もある力作だ。伊藤博文は前
年十月にハルピン駅にて銃弾に倒れちょうど一周忌にあたる。伊藤を評すると言うこ
とは、明治維新以来の政治史を頭に入れ、更に伊藤にまつわるエピソードを集めねば
ならなかった。大隈伯のところにゲラ刷りを持って行くと、ろくに読みもせずに「ま
あいいだろう。君が書いたのだから」と秘書に渡して、最終チェックを任せてしまう。
中央公論の大正五年九月号で「再び居据れる大隈首相」と題して大隈伯を書いた際
に、瀧田編集長に「小生に完全なる大隈評を書かせんとならば、願わくば、百余頁を
与えられたし。」と書き加えている。大隈に纏わる話に事欠かなかったのだ。
人物月旦の連載は十月十五日号で「雷太と角五郎」横着なことを正直に行う藤山雷
太、横着なことを横着に行う井上角五郎。十一月一日号では「朝野の両策士・山縣派
の番犬たる大浦、伊藤派の芝居猿たる原」政友会西園寺内閣の内務大臣原敬と桂内閣
の商農務大臣陰の内務大臣と称される大浦兼武、この二人を犬猿に喩えた評論は格調
を欠くものの面白い視点からのツッコミ方であった。
明けて明治四四年二月一五日号。「桂西に提携 進歩?退歩?」そして「妥協昔日
譚 山縣内閣と自由党の提携 秘められたる妥協顛末」。明治三一年組織された山縣
内閣は時の野党憲政党との連立を画策した。交渉にあたったのは星亨総務委委員であ
る。その顛末を学べば、今日、政友会が政府と妥協以上の提携をしたと、有頂天にな
っているが果たしてどうであろうか。山縣直系の桂太郎に騙されるなと、警笛を鳴ら
した。
内紛に巻き込まれ退社
■
この頃、四月に発売を予定している特別号「通人号」の編集をめぐって混乱が始まっ
た。
通人とは、江戸時代前期、上方町人がつくりあげた美意識を「すい」といい、後期
の江戸町人がつくりあげた美意識を「通」「いき」といった。「通」とは、人情の機
微に通じている といった意味。そこから、遊郭や芝居小屋など、遊びの分野での知
識と経験に長け、垢抜けたふるまいができる人々を指すようになった。
人情の機微に通じることを「訳知り」、遊郭などの特殊な世界での風俗に精通するこ
とを「穴知り」といい、このふたつに通じている者を「通人」といった。ま た、ど
ちらかいっぽうの分野にだけ精通していると「半可通」、どちらの分野にもまったく
通じてないと「野暮」と呼ばれた。
大辞林によれば一、 ある物事に精通している人。物知り。 二、 世態・人情に通じ
ている人。
三、 花柳界の事情に通じている人。通。粋人。
本来の言葉の使いから発展して、ある事柄、特に趣味的なことに精通している人。
「角界の一」のように使われた。
「有名号」「美人号」「秘密号」「出世号」と特集を組んできた。幅広く読者を獲
得するのが企画の狙いだ。「通人号」ではどんな読者層が開拓できるか。また既存の
読者を満足させるだけでなく、なるほどとうならせるものを集めたい。編集会議では
考えられる○○通をいくつも出しあった。中には、貸本通、高利貸通、化粧通などわ
けの分からない通があった。何しろ二〇〇頁の特集である。三月一日号には四月に特
集「通人号」を出す。その目次の一端を示す社告を出した。
「 本 誌 は 例に 依 り て花咲 ひ 鳥 歌 ふ四 月 一 日を以 っ て 大 増刊 を 為 し之を 通 人 号 と 名
づける。通人号の通は所謂、通の通に非ずして広義の通である凡そ世の中にありとあ
らゆる事と物と其の内容、性質、仕組み、来歴、掲載されずという事なし。興趣と実
益とを兼ね備へた春の読み物は通人号を措いて他にあるまじと信ず。内容一班左の如
し。政治通、経済実業通、教育文芸通。宗教通、軍事通、運動遊戯通、遊芸通、芝居
通、寄席通、料理通、その他(釣、網通、旅行通、宿屋通、勧工場通、見世物通、待
合通、藝妓屋通、遊郭通、銘酒店通、銭湯通、理髪通、葬儀通、婚姻通、煙草通、病
院通、園芸通、写真通、千里眼通、飛行機通等。)」
すでに通人といわれる人を列挙し順次訪問し原稿依頼をしたり、聞き取り取材が始
まっていた。その中間報告をする編集会議において担当者から進捗状況の聞き取りを
した。報告を聞いているうちに、又吉は顔が紅潮してきた。ついに声を荒げた。
「どうなっているんだ。そんな状態では二〇〇頁の内、一割しか集まっていないじ
ゃないか。原稿を書いてもらえなければ、君たちが聞き書きすればいい。言い訳する
暇があれば、走り回って面白い記事を書いて見給え。それもできないなら無能な奴は
即刻辞めてもらおう。」又吉は編集員を見回した。創刊二年、その間に新人が何人も
出入りした。島村抱月先鋭の紹介やら、早稲田大学の卒業生ばかりだった。
「編集長、通人に原稿を依頼し待っているのが何故悪いのですか。」
「原稿取りに何回行ったのかい。一度訪問して了解をもらったからと言ってすんな
りと原稿を書いてくれる保証はないよ。何度も催促してようやく書いてくれる、そう
だろう。」
「書いてくれなければ自分で書けっておっしゃいますが、この特集は有名人号と同
様に著名人に書いてもらうのが方針でしょう。」
「原理原則だけで雑誌が出来上がればこんな簡単なことはない。一〇〇個記事を集
めて本の載せるのは三〇かも知れない。通人たちが全て物書きの書くような文章をか
けると思うか。読者が興味を示す内容に編集し、読みやすいように原稿を添削して初
めて本に載せる原稿になるのだ。もっと汗水を垂らしてかき集めて来い。」
それから一〇日ばかり経っても一向に先行きが見えなかった。いつもと様子が違う。
三月五日号の予告は「通人号四月一五日発売」に訂正した。そして再び特集号の編集
会議を開いた。再び又吉は激を飛ばした。すると想像もしない反抗があった。
「大体、編集長こそ可怪しいじゃないですか。無名通信社は小杉天外先生や島村抱
月先生をはじめ早稲田の卒業生達が支えている雑誌ですよ。大隈さんの雑誌とも言え
る。従って野党立憲国民党支持の立場で論じるところ、編集長は反対に政府と政友会
の情意投合を評価したり、憲政党を分裂させ乗っ取った星亨などを復活評価するなど
全く社の方針に背く行動と言わざるを得ませんねん。皆さんそうでしょう。」と編集
担当に呼びかけた。一同はその発言に賛同するかのように首肯いていた。
「編集長、貴方こそ恥じて社を去ることをお勧めしますよ。」
又吉は一瞬この若者が何を言っているのか理解に苦しんだ。一同を見回すとどうも
彼らは事前に相談して編集長追い落としの合議を重ねてきたらしい。
「更に、編集長は二回も発売禁止処分を受け、社損をだしたにもかかわらず責任を
とっていないのはどうしたことか。」と詰め寄ってきた。
「奥さんをなくしたことは同情します。看病やその後の始末で仕事が手につかなか
った事もわかります。その間我々がどんなに苦労したか編集長からはねぎらいの言葉
も無い。それでは編集長についてはいけません。」又吉は情けなく感じた。なんと卑
劣な言い回しをしてくるのだろうか。怒る気力も失せてしまった。この若者たちと今
後も続けていくことはもうできない。彼らを放逐するか、自分が身を引くか、
「君たちが其のように仕事以外の私事についても追求してくるとは情けない。実に
情けない。君たちが本当に其のように思っているのなら、今後君たちと一緒に信頼し
て仕事をしていくことはできない。」又吉は沈黙した。
「死者に鞭打つ、今の発言は絶対に許せない。そう言って立ち上がると相手に向か
って鉄拳を打った。
「わしは辞める。」そう言い残して事務所を出た。高輪の家に帰って女房の町子に
会社を辞めてきた事を話し、これから辞表を書いて小杉天外先生のところに行ってく
るというと、女房はキョトンと顔をしたが、
「又吉さんの好きなようにしてください。私は又吉さんを信じてついていきますか
ら。どうぞ気兼ねなくおやりください。」ときっぱりと言った。
天外先生に事情を報告し、今回は自分の勝手を許して欲しい。先生にはこの二年間
公私にわたってお世話になりその御恩は終生忘れない。しかし、政治信条を曲げる訳
にはいかない。筆には筆でこの落とし前を付けさせて貰いたい。其のようなことを訴
えた。
「前田君。承知した。今までご苦労様でした。後のことは心配することはない。ど
うせ彼らだけでは雑誌は出せなくなるね。二ヶ月は止まるだろうが構わない。ところ
で君はどうするつもりなんだね。」
「どうするって、突然のことですから、これからのことなど何も考えておりません。」
「そうだろうね。どうだね、私の任せてくれないか。」
「えっ、先生に又ご厄介になるなど、心苦しい限りですが、私のわがままを聞いて
くださるのですから、先生にお任せいたします。」
二三日して天外先生から呼び出しがあった。
先生からこんな話があった。東京毎日新聞で政治記者を探しているのを思い出して
社長の武冨時敏に話をしたら、是非来てくれを即答があった。天外先生はこの時東京
毎日新聞に「闇を行く人」と題する小説を連載していた。その前には報知新聞にも連
載をしていて、報知、東京毎日とは昵懇にしていたから話が早かった。先生は新聞社
に入る条件として、一、無名通信社の編集兼発行人に前田又吉の名前を貸すこと。二、
今後も社外顧問として執筆協力をすること。三、二年間の功績に対してボーナスを出
すから受け取れ、とのことだった。又吉はありがたく全てを了解した。天外先生にま
たもやお世話になってしまった。
又吉にとっては新聞社への入社は法外な喜びであった。雑誌社は例の記者クラブ制
度の下では、取材が制限されたり、雑誌記者か、と一段下に見られ苦労の連続であっ
た。その環境下だったからこそ、又吉は取材の面談予約の取り付け方、初対面での聞
き出し方、相互信頼や情報源秘密厳守のルールを学んだ。新聞記者には何しろ記者ク
ラブに入っているだけで取材の自由が保証されていたし、名刺を出せば大概の人は面
談が可能だった。その苦労が無くなるだけ魅力的だった。しかし、一方では新聞記事
は自ずと文字制限があることもわかっていた。雑誌は四ページでも五ページでも書け
た。読者からの評価も伝わりどのような記事を書けばいいか、其のような文体を使え
ばいいかなど選択種も多かった。しかし新聞はいかにも単調に思えた。
東京毎日新聞に入社
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東京毎日新聞は日本最初の日刊紙を発行した横浜毎日新聞がその前身である。経営
困難に陥った際、社主島田三郎が大隈重信に頼んで買い取ってもらうことにした。そ
の結果、報知新聞の社主三木善八が報知の傘下に入れることにして、経営陣の一掃を
図り再出発したのが明治四二年の始めだった。ところが半年もしないうちに主筆の田
中穂積等が退任に追い込まれた。この辺の事情については、第六章で触れた。
さて、当時の新聞界の勢力図はどのようになっていたか。一位は報知新聞で二四万
部、二位は國民新聞で二〇万部、三位は東京朝日新聞で一七万部、これに続いて、萬
朝報一一万部、やまと一〇万部、時事新報九万部、東京毎夕八万部、二六 七万部、
都七万部、大阪毎日に買収されたばかりの東京日日新聞は四、五万部だった。以下中
外、読売、中央、東京毎日が三万部と続く。歴史ある東京毎日新聞と言っても、業界
最下位、本来であれば報知新聞に吸収されてもおかしくない状態だった。
新聞社は開通したばかりの有楽町駅の内堀側、報知新聞の敷地の一角にあった。又
吉が居た無名通信社は元数寄屋町一丁目だったから、外堀を挟んで数寄屋橋を渡った
向こう側にあった。
「新聞社の建物といえば暗くて、狭くて、汚いと相場が決まっていた。建物それ自体
が新聞社用に建築したものではない。出来合いの建物に入り込んだ結果不便極まりな
い事になったのだ。
そこで「報知」が先ず丸の内(現在の有楽町)理想的な新聞社の建物を立てた。つい
で「日日」移転を契機として、「二六」「読売」も新しい建物へ移った。
これが理想的な新聞社の建物かというと、「報知」では通信受付とそれを編集局へ
送付する設備とがかけているし、「日日」も外見は堂々たるものだが、編集局から活
版部へ原稿を送る設備が完全ではない。」又吉はかつて無名通信に書いた「新聞社の
建物」を思い出した。
場所は銀座が一等地だ。それも華やかな大通りにあれば宣伝効果は抜群である。丸
の内当たりに引っ込んでしまうのはどうかと思うと書いた。
「何故、明治 10
年から 20
年にかけて、銀座や有楽町周辺では大小約 30
社の新聞社が乱
立していたのか。これは、当時最先端の銀座煉瓦街の洋風の間取りが印刷機等を設置
するのに能率的であったからだ。さらに銀座・有楽町という土地には、その場所性に
おいて他の土地にはない有利な点が多くあった。
まず、近隣に新橋駅が開設されたことによって、横浜開港場と結ばれた。このため、
銀座・有楽町は海外の最新ニュースを手に入れることが容易な位置にあった。
また、東側の築地には外国人居留地があり、ここには文化学術面で貴重な情報源とな
る教会やミッション系学校があった。
さらに、銀座・有楽町の北側の京橋は江戸時代以来の経済中心地であり、経済情報
の迅速な入手も可能だった。
そして、外堀川西岸には新政府官庁街があり、政治に関する情報も得られた。この
ように銀座や有楽町は、政治・経済・海外情報・学術文化の多くを入手しやすい土地
だった。 」
時事新報社 京[橋南鍋町(銀座六丁目) 、]東京日日新聞 尾[張町 銀(座五丁目 )]
、東京
朝日新聞社 瀧[山町 西(銀座六丁目 )]
、読売新聞社 銀[座一丁目 、]毎日新聞社 尾[張町 、]
朝野新聞社 銀[座四丁目 、]中央新聞社 銀[座四丁目 、]萬朝報社 三[十間堀 、]自由新聞
社 京[橋尾張町 、
]郵便報知新聞 三
[十間堀(銀座六丁目 、]やまと新聞社 三[十間堀・
銀座四丁目 、]国民新聞社 日[吉町 西(銀座八丁目 、
麹町
)]都新聞社 後(の東京新聞社 )[
内幸町 、]曙新聞(尾張町・銀座四丁目)と新聞社が銀座界隈に集中していた。
銀座といえば文化の発信地、それは今も昔も変わらない。銀座四丁目の交差点に中
央新聞と曙新聞が対峙していた。三越と服部時計店の場所である。新聞社の業容拡大
で建物が手狭になったことなどから、広い場所を求めて有楽町周辺に新聞社が集まる
ようになった。
又吉は武冨時敏社長のところへ入社の挨拶に行った。武冨時敏は佐賀の人である。
大隈の子分である。明治二八年の第 回
1 衆議院議員総選挙で佐賀県第二区初当選、明
治二七年の立憲革新党結成に参加、後に立憲改進党を中心とする進歩党へと合流する。
明治二九年、松隈内閣で党人として初めての官僚となる。明治三〇年の政府と進歩党
の協調の結果、農商務省商工局長、同省商務局長、次いで大蔵省勅任参事官を歴任、
明治三一年の第一次大隈内閣ではこれまた党人としては初の内閣書記官長を務めた。
当時の政党政治家では珍しい財政通として重んじられた。
早速実務の責任者である編集兼主筆を紹介すると階下におりた。すると編集部を通
り越して建物の外に出て、報知新聞に入る。おかしなことになったと付いて行くと、
報知の編集者である村上政亮を紹介してくれた。東毎に入って、何故最初に報知の編
集長に挨拶するのか不思議に思った。だが直ぐに事情がわかった。村上政亮はなんと
報知の編集長と東毎の編集長を兼任していたのだ。
又吉は政治部の配属になった。担当は政友会ということになった。東毎・報知の政
治部と言えば花形は憲政本党担当者だった。憲政会記者倶楽部は桜田会と称していた。
しかし、又吉は政友会担当で満足だった。なんといっても又吉は子供の時からの自由
党贔屓。政友会には日向代議士の紹介で顔見知りが何人もいた。政友会の記者倶楽部
は十日会と称した。
又吉の給料は四〇円と決まった。仕事の内容は政界の消息や批判を主とする雑文を
担当した。報道記事書く任務は持たず「閑文字」と呼んでいた雑文を書いたから、あ
る者は又吉のことを「新聞記者ではなく旧聞記者だ。」と言った。
給料が四〇円というのが安いのか高いのか、当時の様子を知る人達の証言を取り上
げてみよう。
美
■土路昌一(朝日新聞社長)
明治か大正初期にかけの、新聞社の俸給というものは、まことに安いものでした。私
が朝日新聞に入社した時(明治四一年)が本給二十円、それに半年聞が試用期間で、
その間は車馬賃として十円くれて、六月のボーナスで五円貰ってガッカりしました。
編集の校正課にいた石川啄木が何かの本に、二十五円でとても食えないと書いていま
したが、当時の給料としては校正課長につぐ高給で、外の課員は皆十円台です。私の
部でも前からいる、いわゆる探訪の連中は皆八円とか十何円かいう給料で、まずその
頃の巡査の俸給が標準になっていたようです。
城
■戸元亮(大阪毎日新聞会長)
明治四十一年のことである。私の初任給が三十二円、その頃の部長級で、せいぜい百
円、大庭利公 後(に読売編集長、大正九年ロシヤで客死 も)、たしか、八十円位だった。
酒も一本十五銭位だったようだが、随分無理をして飲み廻った。奔放愉快な生活では
あったが、惨倍たる貧乏生活でもあった。毎日・朝日の信用は、やがて京阪神地方で
は、確固たるものとなったが、新聞記者そのものが、信用がないので、掛で飲ませて
くれる所なんか無い。ただ一件、社の前のそば屋と、ずっと後になって、焼き鳥が貸
してくれたようだった。
鹿
■倉吉次(大阪毎日新聞営業局長)私はその頃(大正三年)新聞は果たして、正業
なりやという疑問をもっていた。当時、帝大や慶応早稲田などの卒業生が新聞社入社
するようになってはいたが、その以前には、余程変った学生ならともかくまとも、な
ものは役所か銀行会社で、新聞社はあまり希望していなかった。壮士ぶったり、国士
ぶったりの自大野郎が、好んで新聞記者になっていたようだ。かねて私は内心にがに
がしく思っていた。
大阪に着任して、初め梅田駅前の金竜館に泊っていたが、いつまでも宿屋住居は出来
ないので、あちこち下宿を探し廻った。大正の初め、今の住宅難と違って、空間はも
ちろん、「空間あり」の張紙もいたる所に見られた。堂島で空間札の小ぎれいな家に
入って見ると、老婆が出て、空き間はあります。主人が帰ってから相談して見ます。
晩にも一度来て下さい」というので、再度訪ねると、老主人が「お貸ししてもよいが、
お勤めはどちらですか」という。
「新聞社です」と答えると、いやな顔をして、「他に希望者もあるから、その方と
相談してから返事をしたい」という。
城
■戸元亮(大阪毎日新聞会長)
私が毎日に入社した頃、京都支局長福良竹亭氏 虎(雄 は)、すでに大記者として知られ
ていた。私は敬意を表するため、紋付袴の第一装で、同氏の私宅を訪れた。たずね探
しあてた家は、実にむさくるしいあばら家で、玄関に入ると、障子は破れはてて見る
かげもなく、それを押しあけて現われたのは、おそまつなどてらを着用した福良氏で
あった。これが大記者の住居と風貌か、と事実、私はうんざりしたものであった。
美
■土路昌一(朝日新聞社長)
私が就職の話で、主筆や部長の私宅を訪問して見ると、何処でも古い平家作りの、小
さな家で、新聞の最高峰に達したとて、大概見当はつくのですから、初めから生活の
事などはあまり問題にしていないし、ある意味では今と違って他の職業に転じように
も使いみちのない、反骨の多い連中ばかりの寄り合いでありました。
彼らの証言からわかることは
一、新聞記者を志望する学生は余程変わった壮士ぶったり、国士ぶったりの自大野
郎である。
二、朝日の編集の校正課にいた石川啄木は、二十五円でとても食えない。大学出で
三〇円程だった。
三、社会的な信用という面では、掛売り等は応じてもらえず、借家を借りる際に新
聞社というと断られた。
四、大記者と言えども、むさくるしいあばら家にしか住めなかった。
又吉は三六歳になっていたし、雑誌に政治評論を書く程の力があったのだから、大
学出の連中と比較するのはおこがましい。またその経歴からして政治部の次長クラス
の待遇であってもおかしくない。そう考えると四〇円というのはちょっと安いのでは
ないか思ってしまう。
野村秀雄が早稲田を卒業して中央新聞に入社したのは大正元年一月。明治二一年 1
月生まれの野村と、又吉一回り以上違うが、お互いにその存在を認め終生の付き合い
となった。その野村が当時のことをこのように言っている。
「当時の政治記者は政党、貴族院、枢密院、各官庁を分担してはいたが、今の記者
の如く、克明にその担当方面をかけずりまわってニュースを収集するようなこまかい
仕事はしていない。新聞記者というよりも論者という方が当っていた。政党担当記者
は院外団的存在で、官庁担当記者はその外廓団的立場に在った。
当時の社会記者の多くは角帯をしめ、着流し姿であったが、政治記者はフロックコ
ートかモーニング・コートを着用するか羽織袴で山高帽を冠ぶっていた。これは一つ
には国会議員はフロックコートかモ ニ-ング・コートか、和服なら紋付羽織で袴を着
用する規定となっていたから、政治記者もこれを真似たのかも知れぬが、安月給の無
冠の帝王だから格好だけはもっともらしくても、型も古ければ色も醒めて今のサンド
ウヰッチ・マンを彷彿せしむるものが多かった。それというのも背広だと、今と違っ
て三つ揃いでなければならぬが、三つ揃の背広は古手でも相当の値段がする。フロッ
クやモーニングだと三つ揃わねばならぬことはない。変りチョッキ、変りズボンで済
まされるから古服屋に行って一つずつ買う方、安くて間に合う経済的理由があったの
で、好んでフロックやモーニンクを着用したのではなかった。だが、当時の政治記者
は格好だけ政治家気取りでなく、その気持も亦国士的、有志家的で小事に拘らず、鷹
揚に構えていた。それは当時の政治状勢、社会状勢がそうさせたので又それでやって
行けたのである。」
ここで言っている無冠の帝王とは、元々は新聞記者を指した表現で、これは、新聞
記者は特に地位や権力を有しているわけではないが、決して圧力に屈することなく、
世論を武器に権力者に対抗するという意味から名付けられたものである。
■
新聞社の仕事の方が楽だった。今まで雑誌は隔週発行であったから、期日の追われ
ながらの生活だった。新聞は毎日発行ではあるけれど、又吉が毎日記事を書くことは
ない。雑誌のように纏まった分量の記事を書くこともない。なんだか気が抜けたよう
な、楽しいのか、不安なのか分からない状態が続いた。
そんなある日の朝、高輪台の尾根道に出て三田へくだろうとした時に、光る物が目
に入った。目の前の、品川の海が、朝日に照らされてきらきらと光っていた。じっと
その海を見ていた。そして、此の光る海と同じ情景を思い出していた。故郷森山村の
畑で兄長吉に諭されたことを思い出した。
「それほど、学問をしたいならするより外はない、その代わりに小学問はするな。す
るからには充分やらねばならぬ。俺も覚悟する、先祖代々伝来の土地が少しあるのを
全部投げ出そう。もしお前がやり損えば、家は乞食になるぞ。その覚悟があればやっ
てみよ。苦学生になって小学問をする事だけは止めてくれ。」と涙を流して言った。
自分は恐ろしくなって呆然と立ちすくんでしまった。その時、有明の海が今日と同じ
ように光っていた。
又吉は、伝統のある新聞社に入ったことで小さな成功を得たと満足している自分が
いるのではないか。新聞社に入ることは手段であって、本来の目的は「筆一本で世の
中に立つ」事ではなかったのか。今はそれに向かって修行している時期と考えれば、
新聞という特性を生かした、限られて文字数で読み手に伝える文体を作り出す、絶好
の機会にあるのではないか。
「学問をしたい。」と故郷を飛び出した時は一六歳だった。それから二〇年経って
も未だ世の中で光る存在になっていない。このままでは光る存在に成れないかもしれ
ない。
桂首相は野党第一党の政友会と情意投合して懸案の政治課題をこなし、遂に八月二
五日に辞表を提出し総辞職した。新聞記者たちは桂の辞職を想定して取材活動を活発
に行っていた。又吉は政友会担当ではあるが、西園寺や原や松田に直接取材ができる
立場に無かった。しかし、彼ら政友会首脳につながる代議士を取材することはできた。
桂首相の後を桂は政友会総裁の西園寺を天皇に推挙したとの情報を得ていた。今後の
政局は政友会がまわしてゆく。そうなれば政友会担当の自分らが表舞台に出る絶好の
機会が来たのだ。悶々として過ごした数カ月、ポケットにためたクズのような情報も
生きる時期が来たのだ。
又吉は、大臣候補者の人物評を交えた予定原稿を書いて、政治部長へ上げ始めた。
すると、政治部長から「無関門」という政界の裏話をあつかうコラムに原稿を書け
と指示が来た。このコラムは何人かが代わる代わる書いている。それに加わるという
のだ。又吉はかねてから用意していた文体でこのコラムを書いてみようと思った。
▲例の古賀警保、此度は就職依頼甚だ謹慎の体に見ゆると言うので、至る所の話題
になっているが、政友会の一員之を評して「アレは謹慎せねばならぬ事情があるには
あるが、好きナ浪花節止めるに至っては、チト気の毒だテ」▲新内閣は凡て前内閣の
政策踏襲と言うのに、安楽総監だけは踏襲をしないと言って、大威張りに威張ってい
る▲如何にするのだと聞いてみると、近々断然と犬の口網を廃止するとサ、口あんぐ
りだネ、▲済生会寄付金申し込みの確定しない地方が尚五六県残っているが、政友会
は二六議会で、官吏に寄付金勧誘を禁ずべしという建議をしたので、迂闊に勧誘して
お目玉頂くのも馬鹿馬鹿しい事だし、」何としたものかと思案投首の知事殿もあると
は無理もないテ
政友会の田舎代議士のしゃべり方がおかしくて、その口調を真似て書いたのだが、
部長はすんなりと通して、記事になった。それ以来、廃止するとサ、口あんぐりだネ、
無理もないテ、などの語尾を交えて、業界雀があちこちで聞き集めた話をつぶやく、
そんなスタイルで書くと、以外にも面白いとの反応があった。
西園寺内閣は三〇日に発足した。政友会からは首相の西園寺、内相の原敬、司法相
に松田正久、文相に長谷場純孝、の四人の大臣に加え、拓殖総裁に元田肇、新任官閣
下が五人誕生した。九月五日の政友会総会は芝公園の本部で開かれた。控室を覗くと
平成あまり出席しない顔がたくさん見えた。総裁室には原をはじめとして大臣になっ
た代議士が入りなかなか顔を出さない。愈々総会が始まり西園寺総裁が挨拶をする。
又吉は総会の模様を雑観として原稿を書いた。
明けて明治四五年春。喧嘩別れをした「無名通信」社の編集長が代わった。新しい
編集長が又吉のところへ挨拶に来た。幾ら大隈系の雑誌といっても、時の政権を握る
政友会のことを記事にしなくては雑誌も売れない。新編集長は又吉が今や政友会の記
者クラブ十日会の中での活躍ぶりを周りから聴きこんで、「政友会の活動者」らの人
物評論の執筆依頼を持ってきたのだ。小杉天外先生から、今後共必要に応じて原稿を
書くようにと、言われていたから、それに応じた。原、松田、長谷場、元田、杉田、
大岡、尾崎、鶴原、岡崎、秋元、戸水、鵜原、奥、竹越、伊藤、野田、吉植などを評
論、三月号に掲載となった。
これを機会に新編集長とは昵懇の仲になり、双方の会社に出入りする事になった。
二人で盃を交わし政局の話をするうちに、「政友会の歴史について」書いて見ないか
という話になった。「良かろう」と請け合っては見たが、よくよく考えてみるとそれ
はかなり膨大な資料集めと時間がかかる作業になりそうだった。日頃は報道記者のよ
うな仕事をしているわけではないため、十分な時間は作れた。
新 聞 社 以 外の 雑 誌 に書く こ と に つい て は 一応新 聞 社 に も断 り を 入れて お こ う と 編
集長のデスクにいった。編集局長兼主筆は三浦勝太郎だ。
三浦は青森の弘前出身、日本新聞社を起こした同郷の先輩陸 羯南にあこがれ新聞
記者を目指し入社したが、明治三九年に日本新聞の社長が伊藤欽亮に代わると、その
運営に反対する社員のうち、三宅雪嶺らと共に政教社に移り『日本及日本人』の発行
に携わった。その後報知に転じ、報知から東毎に出向していた。三浦は弘前出身で弁
舌もさわやかではなく、風采もぱっとしない。しかしそうした外面とは違いいたって
まじめで、政治部員が居残りしていれば、自分も帰宅せず、仕事に付き合っていた。
名利を求めず栄達を望まず、常に清貧に甘んじている。新聞以外には何の趣味も道楽
も無く、少しも安閑としていない。そんな彼は仕事では、三浦が面会に行って会えな
かったためしは無い、と言われるほど政界では知らぬものはいないと言う人物だった。
三浦編集長は話を聞くと直ぐに了解してくれた。
「ところで、それには署名するのかね。」と聞いたので又吉は
「無名通信」は題字の如く無署名です。」と答えた。
「署名入りで原稿を書くときにはどうするのだね。」しばらく考えて
「そうですね。新聞社で署名入り原稿など書くことは考えていませんでした。だか
ら特に考えていませんが、俳句を読む時には、蓮山という号を使っています。」
「レンザンか。いい号ではないか。署名入り原稿にはそれを使ったらどうかね。」
蓮山という号の由来は、ふる里森山村の主峰、蓮華石岳にちなんでつけたものだっ
た。
任期満了に伴う第一一回衆議院議員総選挙が五月一五日と決まった。日向輝武氏か
ら又吉に選挙の応援の依頼が来た。政友会では群馬県の前橋に竹越與三郎、郡部には
武藤金吉、根岸君太郎、日向輝武の各氏を公認した。日向輝武の地盤は藤岡である。
又吉の前妻イチの出身地、室田地区も選挙区で、何度も日向の選挙応援に出かけたこ
とがあった。応援に行けば一週間は帰ってこられない。昔と違って新聞記者の倫理も
厳しくなっている。倉辻編集長に相談した。すると、休暇を許可するという、個人の
資格で、手弁当ならいいだろうということになった。そう言いながら、「前橋の竹越
與三郎の様子が気になるな。」とポツリと言い残した。
竹 越 與 三 郎は 明 治 三五年 第 七 回 衆議 院 議 員総選 挙 に お いて 新 潟 県郡部 区 よ り 立 憲
政友会から立候補して初当選、以後五回連続で当選を果たしていたが、今回は前橋か
ら出馬で注目を集めていた。
又吉は、日向から託された現金を持って地元に行き、選挙仲買人にあって票の取り
まとめを依頼した。一票三円が今回の相場だという。そうすると五〇〇票の取りまと
めに一五〇〇円は必要になる。とりあえずの軍資金は、一〇〇〇円はあるので、まず
は三人の仲買人に三〇〇票の取りまとめを依頼した。藤岡の選挙事務所に戻り、選挙
参謀に報告すると、金庫から五〇〇円を出して、「あと二〇〇票の取りまとめをして
くれ。」と言われた。翌日別の仲買人に会って、三〇〇円ずつ渡し、五〇〇票の票固
めを終えた。本当にどれだけ信用できるかわからないが、投票結果が出れば、票読み
と実際の投票行動が分析できるというから、仲買人も真剣だった。
又吉は帰京すると、東京府の候補者の人物月旦の連載にとりかかった。
泡沫候補者を除き順当に当選を果たすと予想される候補者を取り上げた。当選順に
並べると、高木益太郎、蔵原惟郭、鈴木梅四郎、中島行孝、星野錫、黒須龍太郎、関
直彦、三輪信次郎、古島一雄、稲茂登三郎、松下軍治、次点となったのは木村政次郎
だった。皮肉にも連載の第一回に取り上げたのが木村だった。そのタイトルは「木村
政次郎は前科者なり」これでは落選も当然だった。木村は通称ドロ政と呼ばれ「毎夕
新聞」を起こした事業家で、確かに数々の不祥事を起こしていたことも事実だった。
しかし、その後、政友会の応援を得て三回当選を果たした。
もう一人取り上げるのは蔵原惟郭である。阿蘇の宮司の出で、熊本洋学校時代に花
岡山で「奉教趣意書」に署名した所謂熊本バンドの一員である。この物語ですでに取
り上げている宮川経輝、金森通倫、小崎弘道、海老名弾正らの宗教家や、市原盛宏の
教育実業家、徳冨猪一郎は言論界に、浮田和民が教育者、思想家となるなかで、唯一
政治家として活躍しているのがこの蔵原だった。彼は貧乏選挙という言葉を生み出し
金のかからない選挙で当選を果たしていた。
五月一五日投票結果が出た。群馬では日向輝武が二八七六票で郡部では四位当選だ
った。一位は大田の武藤金吉、二位は伊勢崎の網野二郎、三位は根岸君太郎だった。
前橋の竹越與三郎は五四二票でトップ当選した。高崎では矢島八郎が四四八票で地
盤を守った。
選挙が一段落したところで、「政友会史論」の執筆に取り組んだ。ある程度原稿を
書いた時点で無名通信の編集長に見せたところ、七月から連載しようと決まった。全
一〇章になる「政友会史論」は七、八、九月号に三回に分けて掲載となった。
又吉は「政友会史論」の掲載された雑誌を資料提供してくれた関係者や政友会の幹
部連中にお礼のつもりで配布して回った。様々な反応があった。又吉自身も読みなお
してみると、まだまだ稚拙ではあるが、政友会を中心とした政権争奪史になっていた。
明治一八年伊藤博文をはじめとする歴代内閣の物語を書いてみたくなった。
政友会幹事長野田卯太郎氏と対談
■
明治天皇が七月三十日に崩御された。元号が明治から大正になった。桂太郎は外遊
中であったが急遽帰国をした。山縣一派は桂を内大臣兼侍従長に就任した。桂は余生
を宮中で終える決心であった。
政界は思わぬところからほころび始めた。それが「二個師団増設問題」であった。
大正元年秋十一月だった。政友曾幹事長野田卯太郎氏に又吉は初めて対談ずる機会を
得た。
麻布材木町の屋敷に氏を訪ねた。他に来客があったために先ず二階に案内された。そ
こは何もない狭い座敷だった。暫くにして階下の応接間に移った。テーブルと四五脚
の椅子がありそれは狭い部屋だった。
暖炉の上に長さ一尺ばかりの大葉巻煙草が、もっともらしく台に載せて安置してい
るのを見つけた。客を煙に巻くためかと、又吉は見たばかり早くも煙に巻かれかけた。
煙草好きな野田氏にと、某氏が氏の身体に似つかわしい大葉巻を特製して寄贈したと、
新聞で読んだことを思い出した。
狭き室に大きな物を見たのは実は葉巻だけではなかった。野田氏が現れ、まじかに
接してその姿に驚嘆した。野田氏は、大きな肘掛椅子に大臼のような尻をドツカと座
り、うちわのような手で、不器用に葉巻をつまみ、悠然自若、紫煙を吐はいている。
ヅボシは五月のノボリの大鯉のようで、四斗樽のような腹を包むチョッキは、五十
銭銀貨大の白点あり。よくよく見ればアラ不思議、破れ穴にて、白はチョッキの裏地
だった。更に観察すれば、赤土のような顔色、法螺貝のような厚くしてドス黒い唇、
正しく団子を取ってクツつけその鼻、ミミズが這ったようなその目、ソエのような髭、
薬缶のような頭額、三十貫を超える体重、何処から見ても残念ながら美男子とは言え
ない。
『何んでズか御用は』短刀直入に発した声は意外にも優しかった。又吉は少々面喰っ
てしまい答えに窮した。そこで
『二師国増設問題は何うなりますか』とでたらめの質問をした。彼は葉巻をくわえて
暫く黙っていたが
『ウワッハッハッ成るごと成るグイ、ウワッハッハッ』。私はその豪快な笑い声に面
食った。彼は再び葉巻をくわえて再び沈黙した。
私は予定の雑談に入らんとして、話題を過去に導きつつ、貴下は初期議会に出られた
時、議会の光景はどんなであったかと問うと、彼はおもむろに葉巻を口より離し
『ダイ 誰(〉でもソゲン思うちよるゲナ、ウワッハッハッ、吾輩が議会に出たのはツ
イ近頃でズよ、然うさ、三十一年タイウワツハツハツ』
何がそれ程可笑しいのか、又吉は手持無沙汰に不安を覚えた。彼は次第に調子づいて
きた。
『ソイでも吾輩は始終議会に出ちょったタイ。実際初期以来ヅーット議会に出ちよる
でズよ。アンタがソゲン思ふちよるのも無理ぢや無かタイ、クワツハツハツ』
又吉はその意味するところを理解できなかった。彼は続けて語る
『吾輩は十五六の時から今日まで、一日も政治から離れたことは無かとですズよ。毎
議会議席は持たんでも仕事はしておるケンノウ吾輩・は何時でもソグン言タイ、松田
(正久 な)どは、初めは官途に居ったケン、政議員としては吾輩よりも後輩ぢやって
ノウ、ウワッハッハッ』
頗る興に入れる彼はミミズの目と団子の鼻とホラ貝の唇と、目尻に皺をよせながら
『吾輩は自由党に入党の手続きしたコタ無かったけんど、何時の間にか党席に記入さ
れて、警視庁への届まで済んで居ったタイ、ウワッハッハッ。ソイでも吾輩は自由党
以来、一度も傍道に這入った事は無カケンノウ、ワワツハツハツ』、
そのウワッハッハッたるや、突然発し、談に筋道なくして言葉にムニャムニャが多い。
粗放かとみれば時に骨を刺す警句を発し、淡白かとおもえば、簡単には解けない秘密
の紐がある。不真面目の中に真面目を包み、真面目の中に滑稽を交じへ、この巨漢、
果して何者か。
これが野田卯太郎氏との最初の出会いだった。
野田は九州福岡三池の豆腐屋の倅であったが非常に活動的で、炭鉱関連で三井財閥と
関係を持ち、井上侯爵の知遇を得、その紹介で桂公爵と縁ができた。政友会の中にあ
って桂首相とのパイプ役を果たし、第二次西園寺内閣の成立に汗を流したことが評価
され、明治四五年三月の役員改選で奥繁三郎に代わって幹事長に就任した。この一一
月には、内閣は二師国増設問題をめぐって陸軍大臣上原勇作と対立した。その裏には
内大臣となった桂がいたことから、桂との調停に野田が動いている時だった。
彼の芸は大食と蘭の画と俳句である。号は大塊。又吉は彼が没する昭和二年まで十五
年間、政界の人脈構築、政界裏情報の情報源の一人として交流を続けた。
大
■正政変の中で
大正二年二月、尾崎行雄の政府弾劾演説によって第一次護憲運動が激しくなり、護憲
派の民衆が議会を包囲し暴徒化し、桂首相の御用新聞と言われた徳富蘇峰の国民新聞
などが焼き討ちになった。民衆の力で桂内閣を退陣に追い込んだ。
西園寺内閣辞職前後から政友、国民両党議員及びその他有志者によって行われた閥族
打破運動は一二月一九日歌舞伎座に於いて大会を開き参会者三千余名、この会衆を一
個の団体として「憲政擁護会」と称し次の宣言を決議した。
「閥族の横暴ばっこ、今やその極みに達し、憲政の危機目睫の間に迫る。吾人は断固
妥協を排して、閥族政治を根絶し、以て権勢を擁護せんことを期す。」
宮中より府中に戻り内閣を組織した桂に対して、閥族打破、憲政擁護の運動がおこ
り、国会では尾崎行雄の「玉座を障壁とし、詔勅を弾丸とし」と雄弁を振るい、民衆
の暴動も加わり、遂に50日の短命で桂内閣は辞職に追い込まれた。これを大正政変
という。
直ちに後継の首相を元老が推挙することになり、山本権兵衛に大命が降下した。
山本は内閣を組織するに当たり、西園寺に対して政友会の援助を要請した。
桂内閣を倒して、勝ちに乗じた党員は、政友会幹部原敬らが山本内閣に安易に取り
込まれるべきではない。むしろこの際は閥族内閣に徹底して反対し野党の立場になる
べきだと主張した。
政党を基礎としない非立憲的内閣には絶対反対、こうした内閣に入閣する場合は除
名もしくは脱党せよ。山本は政友会に入党せよ。との決議をして幹部の原敬らに詰め
寄った。それが大正2年2月12日の事だった。
閥族を打破し憲政擁護を目指す党員らは長閥を倒しながら、なぜ薩閥にすり寄るの
かと激しく幹部を突き上げた。
尾崎行雄を中心とした硬派の主張はもっともだと、同調した人物がいた。
貴族院内に「談話会」をつくり政友会の重鎮をなし、伯爵界や子爵界に大きな影響力
を持つ秋元興朝子爵は政治上では政友会員で、最も熱心な政党内閣主義者である。犬
養、松田両氏を尊敬することも深く、大正政変後、政友会が山本権兵衛伯と握手する
や、原敬を除名せよと絶叫したほどだ。
秋
■元子爵にであう。
政友会内部には非立憲内閣には絶対反対の動きがある中で、原敬の説得によって政権
への協力が合意された。
山本内閣は20日に組閣を完了し新任式を行った。政友会からは原敬が内務大臣、松
田正久が司法大臣、元田肇が逓信大臣として入閣し、入閣した大臣中高橋是清、山本
達雄、奥田義人の3名が政友会に入会した。尾崎行雄、岡崎邦輔ら24名はこれを不
服とし脱党した。
又吉は、閥族打破、憲政擁護の立場で、桂内閣の打倒を支持してきた。原敬の政友
会が薩閥の山本権兵衛と手を組むことは、心情としては、納得がいかなかった。原敬
は結局のところ権力志向の人だと軽蔑した。
この騒ぎの中で、原敬を除名せよと絶叫した秋元興朝子爵に興味を抱いた。そこで
野田卯太郎の紹介状を持って秋元邸を訪問した。
純西洋風の玄関、石段を二つ三つ上がってベルを押すと、静かにドアが開いて、取
次の人が現れた。初めての訪問にも関わらず、取次の人は、至極丁寧で、外套を脱が
してくれ、帽子をかけてくれる。立派な広い西洋室に通された。大きなストーブの前
で一本ふかしていると、やあこりゃどうも、と気軽に部屋に入ってきた顔の長い、色
の白い、目の細い、痩せた、五十余りの老紳士、ニコニコと向かい合って、安楽椅子
に腰をおろした、それが秋元子爵だった。
秋元興朝子爵は政友会の総裁の指名により協議委員を長いこと務めていた。子爵の
経歴はこうだ。
秋元 興朝(あきもと おきとも、安政 年
年 月
日)
4 月
5 日
4 ( 1857
5
26
-大
正 年
年) 月
日)は、明治時代から大正時代の華族、外交官、貴族院議
6 ( 1917
4
23
員。極位は正三位。戸田忠至(宇都宮藩家老で、間瀬和三郎と称する。)の次男。兄
に戸田忠綱。幼名は和三郎。号は蔚堂。正室は、南部利剛の娘宗子。継室は山内豊信
の娘の八重子。
明治 年
年) 月
4( 1871
9 日
9 、旧館林藩主秋元礼朝の養子となり、従五位に叙され、
翌日に元服して興朝と名乗る。同年 月
日、養父礼朝の隠居により、家督を継ぐ。
9
23
明治 16
年( 1883
年) 月
1 、外務省書記生としてフランスの在パリ公使館勤務となる
が、間もなく職を辞し欧州各地を遊学した。明治 18
年 12
月に日本に帰った。この間、
明治 17
年 月
7 に子爵を授けられた。
外務官僚として、明治 25
年( 1892
年) 12
月より弁理公使、明治 28
年 月
3 には特
命全権公使に昇進した。しかし、健康が優れず任地に赴かず職を辞し、明治 33
年( 1900
年)に伊藤博文の立憲政友会ができるとこれに加わって、東京支部長をつとめた。 明
治 42
年( 1909
年)貴族院内に「談話会」をつくり政友会の重鎮をなし、茶話会とと
もに貴族院内の有力会派になり、尚友会が伯爵界や子爵界に大きな影響力を持つ原動
力となった。
今回の政変や山本内閣に協力する政友会の事などを話題に取材をした。子爵ではあ
るが、威張る事もなく温厚で気配りのできる人だった。又吉の取材は人物の観察が主
だった。面談を終えて辞去の挨拶をすると、子爵は
「もうお帰りですか。それでは又どうぞ。」とにっこりと笑顔で再訪を歓迎すると
言ってくれた。
大
■正政変とある青年との出会い
再び政権は政友会主導に返り咲いた。又吉の動きも活発になり、朝、出社する前に通
勤途中の芝公園五号地の政友会本部へ顔を出し、帰りには、また政友会本部に立ち寄
るというのが日課になった。
四月芝公園の桜が満開になり、世間が花見気分でいるところを、政友会本部の一階フ
ロアーに、この一週間、毎日、浮かぬ顔の青年が押しかけてきているのに、又吉は気
がついた。又吉はフロックコートに身を包み、葉巻をくわえ、その青年に近寄った。
青年の身なりから書生風であった。下駄ばき姿に着流しながら、眼力があった。
「一体、なんの用件があって毎日やってくるのかね。」と話しかけた。するとその青
年が事情を話し始めた。
「日比谷の焼き打ち事件に連座して生活に困り、原総裁から小遣銭をもらうつもり
だ」という。更に詳しく聞いてみると
「約一カ月半ほどの未決監生活を、保釈で出所した自分は再び神田の松本亭に舞いも
どった。入獄中、神田の大火で自分のかつての下宿屋は丸焼けになるし、岐阜の両親
からは監獄に入るような不孝者は、今後一切かまわぬと、勘当をうけていた。松本亭
の女将は「伴ちゃん、裁判が決まるまでうちにいなさい」と気さくに言ってくれるし、
こちらは落ちつく先がないヘので、女将の親切に甘え居候をきめこみ、大橋図書館に
通ったりしてぶらぶら過した。ある日ふとこんなことを思いついた。
親から勘当を受けるほどの騒ぎをやったが、なにも政友会から頼まれたわけではな
い。あの騒ぎで桂内閣は倒れ、政友会は万々歳だが、俺はおかげで臭い飯をくわされ
た。こうやって松本亭では食わせてくれるが、小遣銭まではくれない。ひとつ政友会
とかけ合って慰謝料をもらうことにしよう。」更に
「芝公園五号地の政友会本部を訪れ、原敬総裁に面会を乞うた。すると院外団の猛者
連がでてきて「総裁はお留守だ。よしんばいても、お前には会わない」と玄関払いで
ある。」と今までの経過を話した。又吉は
「なるほど。君は面白い男だな。しかし、ここに来てもだめだよ。原さんは内務大臣
だから内務省に行きなさい。高橋という秘書官がいるから其の人に会いなさい。そん
な恰好では、あってもらえないとまずかろうから、私が紹介の名刺を書いてあげよう。」
「君、名前は何と言うのだね。」
「ええ、大野と言います。」
「名字は分かった。名前は」
「バンボク.バンは伴うで、ボクは親睦の睦です。」
青年は又吉が紹介を書きこんだ名刺を受取った。東京毎日新聞社政治部前田又吉。高
橋光威様、大野伴睦君を紹介します。話を聞いてやってください。」
「前田さん、ありがとうございます。早速内務省に行ってきます。」又吉が声をかけ
ようとする間もなく青年は走り出していた。
数日後、政友会本部に行くと先日あった青年が身ぎれいな格好で又吉の来るのを待ち
構えていた。
「前田さん、先日はありがとうございます。」と言って、出会いから以降の話を始め
た。
「前田さんの紹介で内務省を訪れると、高橋さんは気持よく会ってくれました。私の
話を一部始終聞いたのち「それはお気の毒です。原先生はご多忙だから、党の幹事長
を紹介しよう」といってくれました。そこで村野常右衛門氏への紹介状をしたためて
くれました。この村野さんは都下の三多摩が選挙地盤。そのころの村野さんは、横浜
倉庫会社の専務取締役で、横浜の青木台に自宅があった。東京では、内幸町にある胃
腸病院のうら手に植木屋という旅館があって、そこが定宿だという。
翌日、高橋秘書官の紹介状をもって植木屋を訪れると、村野さんは気持よく会って
くれました。座敷に通され、秘書官に話したように「政友会の犠牲である」とまくし
たてると村野さんはほほえみながら
「偉いぞ、 よく憲政を擁護してくれた。国家のためにこれからもしっかりやってく
れたまえ。」おりから、昼食どきとなった。酒やビールまでごちそうになりながら、
将来の目標はなにかと聞かれたから、図々しくも、私は生活費の援助を乞うた。「こ
の事件で大学は退学になりましたから、新聞記者か雑誌記者にでもなろうと思ってい
ます。ところが、どこも裁判が終るまで採用してくれません。それまでの一聞の生活
費をお願いしたいのです。」
ざっくばらんに希望を述べると、村野さんは嫌な顔もしないで「いくらいる」といわ
れた。
「三〇円ほど」
「よし、わかった。毎月二十五日にこの旅館に訪ねてこい。わしが不在のときは帳場
にあずけておく。今日はここに百円ある。机などを買いなさい」」
「ほう、それは良かったではないか。それで身ぎれいにしてきた訳がわかったぞ。」
又吉は青年が見違えるように穏やかな顔になり、人なつっこい愛嬌のあるやつだと思
った。
一カ月に二十五円もあれば生活できた時代だ。大野は毎月二十五日になると、植木
屋旅館に金をもらいに行った。そのうちに村野さんから、生活の様子を聞かれた。図
書館通いをしていることを話すと、
「図書館通いもいいが、政友会本部に遊びに来給え。本部には十日会といって新聞記
者の会もある。貴族院、衆議院の代議士や、院外団という将来政治に志を抱いている
有為の青年もおる。また、新聞雑誌はもちろん、碁もあれば将棋もある。ここに遊び
に来た方が、図書館に行くより君のためになると思うが」
村野さんのすすめで、間もなく政友会本部に出入りするようになり、次第に代議士や
院外団にも馴染みができていった。
大野伴睦は又吉との出会いなくして自分が政界に出ることはなかったと、終生又吉を
蓮山先生と呼び、機会あるごとに意見を求めた。戦後、保守合同に際しても度々蓮山
のところにやってきては長話をしていった。
話は遡る。大正政変で民衆が暴徒化し焼き討ち事件に発展し、ついに民衆の圧力によ
って桂内閣を退陣に追い込んだ。その焼き討ち事件に参加していた大野伴睦の証言を
聞いてみることで、当時の様子がよく分かる。
大正二年一月二十一日、休会明けの第三十議会が再開された。政友会、国民党は一
体になって内閣弾劾の決議案を上程すると、桂はただちに停会をもって臨んだ。
桂は自分の方の都合が悪くなると、すぐに停会という切り札をもち出す。尾崎行維が
「詔勅を弾丸とし、玉座を絡壁とし」の名演説をぶったのも、このときである。
停会期限がおわる二月十日、政友会は落閥内閣と対決の意気に燃え、不信任決議案
をたずさえて議場にのり込んだ。
私はこの目、同志らと午前中から日比谷の議事堂をとり囲んでいた。政友、国民両
党の代議土二百五十人はすべて胸に白パラをつけ、さっそうと人力車や馬車でやって
くる。そのたびに、私ら学生団や院外団が「白パラ軍万歳」と叫ぶ。桂派の同志会の
代議士が姿をみせると、人力車ごと「閥族を葬れ」ともみくちゃにする。
午後になると、次第に群衆も数を増し数万の人々が桜田門、虎ノ門、日比谷の三方か
ら押し寄せた。ことの重大さに警視庁は、四千人の警官をくり出して警戒するほど。
午後一時すぎ、再開議会がまたもや停会となったことを知った群衆の怒りは頂点に達
した。
「桂を出せ」と口々に叫びながら、議事堂周辺を十重二十重と囲んでいると、騎馬巡
査を先頭に警官隊が、群衆を追い散らそうとする。
「官憲がやってきた」というので、いよいよ興奮した群衆は「御用新聞をやっつけろ」
と、近くの都新聞社に殺到して火をつけた。二頭立ての馬にひかせた蒸気ポンプが消
化に駆けつける。放火者は次々と逮捕されるが、群衆の勢はおさまるどころか波とな
って都新聞社の前の日比谷公園に流れ込んでいった。ここで私も、一席ブッた。
ムコの良民が騎馬巡査に蹂躙されるとは、なんたることか。これぞ閥族政治の悪で
ある。「われら死して憲政を守らん。閥族桂太郎を葬れ。」
いま考えると、ずい分手荒い演説だが、血気にはやる青年だし興奮のるつぼの最中の
ことだ。止めてもやめるものではない。暴徒と化した群衆は、日比谷から銀座方面に
流れて、国民新聞、読売新聞を軒なみに襲った。襲われた新聞社も黙っていない。二
階から椅子やテーブルをなげつけ、抜刀して反撃する。ついに死傷者まででる騒動と
なった。
いわゆる「日比谷の焼き打ち事件」である。
このとき、私も逮捕された。私服刑事に外套に白墨で印をつけられていたからだ。二
人がかりで刑事に手をとられたのは、国民新聞社の前だった。
警視庁へ連行されてみて驚いた。私と同じように捕った連中が二百五十数人もいる。
仲間が大勢なので、初めの内はしゅんとするどころか、意気軒昂だ。留置場内で「閥
族政治、なにするものぞ。」と、いまでいうアジ演説をぶつものさえいた。
翌十一日は紀元節だ。時事新報や中外新報などの記者団や、東京弁護士会の有志が、
警視庁を訪ね、私たちを激励にきた。「諸君、ついに桂内閣は総辞職したぞ。喜びた
まえ。」
喜べといっても、こちらは寒い留置場にぶち込まれている身だ。万歳を口々に叫んだ
ものの、そろそろ気がめいりかける。
翌日、生まれてはじめて指紋と調書をとられ、市ヶ谷監獄に収容された。大学時代
の友人や学生連盟の仲間がかけつけて、差入れ弁当や毛布、着替えを持ってきてくれ
た。そうなると下宿屋にいるより居心地がいい。・・・
伊東巳代治と昵懇になる
■
「もうお帰りですか。それでは又どうぞ。」とにっこりと笑顔で再訪を歓迎すると
言ってくれた秋元子爵の言葉に偽りは無かった。毎回、「やあこりゃどうも」と言っ
て現れる子爵は又吉の意図する取材に素直に応じてくれる。そうすると不思議なもの
で、応援したくなるのは人情だろう。いずれまとめて人物評を書く時を頭に描いた。
雑談に入って、又吉は応接間に飾ってある書画をほめたところ、子爵は目を細め解
説をしてくれた。興に乗って話が飛ぶ中で刀の話になった。子爵の話は、
愛刀家の羨望の的「太刀銘長光」というのを持っていた。これは「地鉄は杢目に板
目まじり。刃文は互の目丁字乱れで 足がよく入る。鋩子は少々たるんだ大丸で小さ
く返る。映りが さかんである。彫物は表裏とも掻樋。茎は浅い栗尻で当初の鑢 目は
勝手下り。」と言われる名品である。
備前長光の在銘品はかなり多いが、門人の代作 によるものもあるが、本刀は弟子
の真長の代作と見られ、出色の 出来であると評判でした。
そもそも、この刀は筑前黒田家に伝来したものでありますが、祖父である館林藩主
秋元候に渡たり、私が所有しておりました。」何やら話は過去形で語るので何かある
と又吉は感じていると、
「 こ の 名 刀の あ り かを知 っ た 愛 刀家 の 伊 東巳代 治 子 が 是非 に と 懇願し て き ま し て
ね。私は多数の美術品を所蔵しておりますから、特別刀に思い入れはありません。そ
の中の1品を処分するのに何ら抵抗が無はありません。政治に少し金がかかり借金も
かさんでおりましたので、伊東巳代治子に売り渡したのが最近の話です。」
それ以来伊東巳代治子とは昵懇の仲だという。話題が伊東子爵に飛んだ。
「 伊 東 子 爵は な か なか気 難 し い 人だ と 伺 ってお り ま す が実 際 は どうな の で し ょ う
か。」
「そんなことは無いです。いたって気さくな方です。刀だけでなく、盆栽の収集家
でもあり、なかなかの趣味人ですね。」
「そうですか。世間では、新聞記者などは寄せ付けないと言われていますが。」
「それは違います。新聞記者がよりつかないだけです。貴方は伊東さんに会ったこ
とはありますか。」
「いいえ。ありません。私も長崎の出身でして、伊東子爵は同郷の先輩であります
から、一度は御挨拶申し上げたいと思っておりますが、未だに機会がございません。」
「そうでしたか。それでは私が紹介状を書いて差し上げましょう。」
そう言って立ち上がるとデスクに座って万年筆で手紙を書き始めた。
「ええと、前田さんは、名前は何でしたか。」
「ああ、はい。又吉と申します。」
「又吉さんですね。前田又吉氏を紹介します。と、・・・」そう言いながら書き終
えた紙を封筒に入れて、又吉に差し出した。
「前田さんの様な方ならきっと伊東さんも歓迎してくれますよ。」
そのような励ましの言葉まで添えてくれた。
「もうお帰りですか。それでは又どうぞ。」例によって丁寧な送り出しの言葉が又
吉の心に染みた。
伊東巳代治と言えば、新聞記者を引見せず、世人の印象に残るものは、かつて彼が
内閣書記官長時代のあの剃刀のような手腕と、隠検な官僚式人物と想像しているが、
果たしてどうだろうか。まずは伊東氏に会うに際して調査をしておこう。又吉は情報
収集をした。
年(安政四年)、肥前国 長(崎県 町)役人の子として生れた。
1857
伊藤博文の知遇を得て明治政府の工部省に出仕。
年(明治 15
年)に欧州憲法調査に随行、帰国後伊藤の秘書官として井上毅・
1882
金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画。
年(明治 22
年)に首相秘書官、 1890
年(明治 23
年)には貴族院議員に勅選さ
1889
れる。 1892
年(明治 25
年)に第 次
2 伊藤内閣の内閣書記官長、枢密院書記官長、 1898
年(明治 31
年)に第 次
3 伊藤内閣の農商務大臣等の要職を務め、政党工作に力を振
るった。
まあ、ここまでは一般的な巳代治の経歴として知れ渡っている。
また、 1891
年(明治 24
年)には、経営が傾いた東京日日新聞を買収、在官のまま
社長を務める。日清戦争以降は山縣有朋の知遇をも得て、 1899
年(明治 32
年)枢密
顧問官となり枢密院でも大きな影響力をもった。
もっと、巳代治の強烈な個性が出ている逸話は無いのか。
伊藤博文の事を知ろうと思えば、伊東巳代治に訊ねよ。彼は明治一三、四年より三
二、三年の約二〇年間、影の形に添うが如く伊藤公について回り、梟の如く暗所に目
を光らせ、蝙蝠の如く幕夜に飛びつつ、凡そ政界の機密にはことごとく参画した。彼
は伊藤公の単なる秘書ではなく顧問であった。
東京日日新聞を買収したのは新聞を利用した情報操作のためだったし、在官のまま
社長を務めたのは此の名目ばかりではなく、藩閥の出では無い自身がいつ何時放逐さ
れても身が立つように画策したのだ。
一三年も新聞経営に携わり、ある時には陣頭指揮で新聞を作ってきた男であれば、
新聞の強さも恐ろしさも十分にわきまえているはずだ。
又吉は、日清戦争後の下関での日進講和条約と三国干渉についての秘話を聞き出す
目的で巳代治に面談を申し入れることにした。
暑い夏の盛りだった。麻のスーツにパナマ帽をかぶり、身を整えて麹町区永田町の
邸宅を訪ねた。
巳代治は鋭い眼光で一瞥すると、
「秋元子爵の紹介であるからお会いするが、新聞記者には何もはなすことはない。」
と言って黙り込んでしまった。そこで又吉は、まずは丁寧に面談の機会を得て嬉しく
思う旨を述べ、自己紹介をすることにした。
「私は、子爵と同郷の長崎の諫早と島原の中間にある森山村の出身で、農家の次男
坊であります。長崎には柴田英語学校でモットと言う宣教師から英語を学び、長崎師
範学校を卒業して東京専門学校に行きました。小杉天外先生と懇意になったことで無
名通信と言う雑誌の編集長を三年ばかりやって、東京毎日新聞に入って、現在は政友
会担当の記者であります。」
「そうか、やはり俺に近づいて情報を取ろうとしているのだな。無駄なことはやめ
てさっさと帰れ。」と言って突き放した。
「子爵。私は自己紹介をしただけで、本日の要件までは話しておりません。」
「自分は新聞記者を理解しているという点では決して人に譲らない。しかし、新聞
記者が聞いてくることは、自分が話せない機密事項であり、会ったとしても希望がか
なえられる訳にはいかないから、貴重な時間が無駄になるだけである。話したことを
全く誤りなく引用すると言うことはほとんどない上に、オフレコだと言えば、掲載し
てしまう者もいない。それでは君たちの仕事にはならんだろう。」
「確かに子爵のおっしゃる通りです。子爵は滅多なことでは新聞記者に会わないし、
あっても質問には答えていただけない。と聞き及んでおります。それは枢密院や外交
の事など機密を要することには答えようがありません。聞く方が失礼です。」
巳代治が少し首を縦に振った。
「私は今日お伺いしたのは伊藤公の事について、伊藤公の顧問格であられた子爵の
当時の裏話を伺いたいと思ってきたのです。私は新聞記者と言いましたが、所謂報道
記者ではないのです。人物月旦や政治史のような雑文を書いております。新聞記者と
言うよりも旧聞記者と呼ばれています。」
「旧聞記者とは面白い事を言うではないか。わしは伊藤公の顧問をしていたわけで
はない。さりとて秘書でもなかったな。」
又吉は秋元子爵の言葉を思い出した。「前田さんの様な方ならきっと伊東さんも歓
迎してくれますよ。」
どうやら話のきっかけはできた様だった。それから日清講和条約や三国干渉のさな
かでの批准書交換交渉の話を聞いた。巳代治は昔のことを今そこで起きているかのよ
うに臨場感あふれるように語ってくれた。巳代治も又吉の事を少しは信用したのであ
ろうか。しかし別れ際にこうくぎを刺した。
「前田君。わしの話は巳代治から聞いたとは絶対に口外するな。それを約束しろ。」
「子爵。新聞記者は、情報源は絶対明かさないものです。但し私も旧聞記者ですか
ら、聞いたことをしまいこんでいたら仕事になりません。子爵が話す時にこれは口外
無用とおっしゃる内容はその通りにしましょう。それ以外は私なりに書かせていただ
きます。同郷のよしみと言うことでこれからもお付き合いさせて頂きたくお願いいた
します。」深々と頭を下げて礼を言った。
「よかろう。面白い奴だな。昔の話ならいくらでもしてやろう。」
こうして、伊東巳代治という難解なる人物との接点ができた。又吉は子爵から聞い
た話が、今後、どんな形で生きてくるか、その時は想像もできなかった。
十日会
■
政友会担当の記者倶楽部を十日会と称していた。そのメンバーは東京各社中でも、最
も老練の記者が所属していた。会員は十九名いた。新聞社は十二社、通信社は七社、
客員そして四名が登録されていた。
里見謹吾(国民)、日笠芳太郎(東京日日)、西村公明(やまと)、野村長一(報知)、
寺田市正(時事新報)、青塚栄一(東京毎夕新聞社)、黒沢十太(東京朝日新聞)、
猪股勲(都新)、浅野源吉(憲政新聞社)、藤井千代雄(中外商業新報社)、片平茂
市郎(中央新聞)、それに前田又吉(東京毎日新聞社)の一二名。
通信社では、遠山景福(朝野通信)、笠井作三(独立通信)、吉岡保範 帝(国通信 、)
小川亀吉(大東通信)、近藤基喜(自由通信)、青木精一(日本電報通信)、佐野金
儀(東洋通信)の七名。
後に政友会の代議士になったのは寺田正一(鹿児島)と青木精一(群馬)。
ここで少し当時の通信社がどういうものであったか知っておくことにしよう。
新聞社の存在を知らないものはいないが、その新聞社に大半の情報を供給する通信社
の存在は案外知られていない。ましてその事業配下に経営されているか、写真はいか
なる行動を執っているかを知るものは僅かであろう。
通信社は世の中の出来事を敏速に探知してこれを新聞社、会社、官庁、個人(政治
家、株屋、銀行員)そのたの得意先に報知することを仕事としている。従ったその事
業は多方面であって一面二面の書いた政治経済の記事から、情死、殺人、強盗、と言
った社会面の記事、個人の動向、株式相場等に至るまで取扱っている。新聞各社に情
報を提供する料金は一ヶ月一社、三円から三〇円となぜか幅がある。
その理由は、通信社は単なる通信情報の提供による収入では成り立たず、副業として
各社広告の取次をしている。この取次はたいしたもので、広告を多く取り次いでくれ
る通信社には多額の通信料を支払う仕組み担っているのだ。
何故、通信情報を買うのかというと、やはり一番早く新しい情報を手に入れる必要
があるからだ。世界的に有名なロイター通信は株情報を世界に配信することで成り立
っている通信社だった。
しかし、通信料を正規に徴収し得ない事業ではその経済状態は困難を極め、その事業
だけでは維持していけるものではない。
そこで、たいていの通信社は特定の団体、人物、官庁、などの権力者などの機関と
なって事業を維持している。
通信社は情報を提供する事業であるために、論説記者とか編集記者とかいう者はい
らない。外交記者のみによってできるのだ。
ここで言う外交記者というのは取材記者、探訪記者のことをさして、当時はこう呼
称していたのだ。その外交記者の取材活動とは、大きな事件であれば各社の新聞社も
取材をするからその情報では売れない。そこで各新聞社が情報取りをしていない小さ
な事件など提供した。新聞社ではそれらの情報を編集するから紙面の六割は通信社の
提供情報で作られているのだ。
通信社は情報を配布するのに一回 か
4ら ペ
6 ージの謄写版印刷を刷って毎日 回
5 くら
いを配信していた。事件が起きると新聞社も取材記者を出すのだが、漏れがないかを
確認するため、必ず通信社の記事を取り寄せていたという。
大 き な通 信 社 は海 外と 提 携 して ロ イ ター とか 満 州 とか 北 京 とか ベル リ ン 電報 と か
いうのがそれである。世界の異動、財界の変動、海外の大きな出来事、偉人の死、な
ど伝える。海外の大手通信社は世界中にネットワークを築きお互いに住み分けするた
めに支配地域を取り決めしている。日本はロイターと契約しないと政界情報をとるこ
とができなかった。
国内の地方新聞に対しては電話、電報、郵便によって通信を提供している。その通
信料はどうなっているかといえば、通信社では多くの王国を出させて、その広告料と
通信料を相殺してしまう場合が多いい。ここでも広告取り扱いが必須になっている。
では、通信社はどのくらいあるかというと、明治の終わり頃には 30
数社存在した。
通信社の社員は、まったくもって悪辣である。安い給料ではやって行けぬと恐喝ま
がいの威嚇をしてコミッションをとったりしている。要するに、金儲け、ゆすり、権
力志向、政治的権勢の利用以外は関心がないのである。
以上は「無名通信」明治四二年八月一五日号の記事を参考にした。当時の通信社の
実態だった。
東京には新聞社は一二社ではない。読売、二六新報、日本、萬朝報、などは記者ク
ラブに入っていない。入りたくて入れなかったのかどうかは分からない。記者クラブ
の歴史にも触れておこう。明治二三年秋に帝国議会が初めて開設された際、時事新報
記者らが主導して組織した「議会出入記者団」で議会の取材を当局に一致して要求し
たのが始まりと言われている。後に「同盟新聞記者倶楽部」と名称を変えた。帝国議
会開催中は全国のしんぶん一八三社、三〇〇人以上の記者が取材に集まり、「国会記
者会」の前身となった。中央官庁の記者クラブは明治二七年から三五年ごろにかけて、
外務省の「霞倶楽部」、農商務省の「采女倶楽部」、陸軍省の「北斗会」更に司法省
の「司法記者倶楽部」内務省の「大手倶楽部」「兜会」などは次々と組織された。政
党関係では政友会が明治三二年に結党して暫くして「十日会」という記者クラブがで
きた。
記者クラブは政府、官庁に対して力の弱い新聞社側が共同で戦線を組んで団結して
交渉し、情報を引き出す場とし、更に取材の前線に足場を持ち、本社との連絡基地を
確保するために記者クラブを作った。当局側も出入りの記者連中を一本化して官吏出
来るし、広報活動もまとめて出来るという利点を計算して、これを受け入れた。明治
後期から大正期に記者クラブの原型が出来上がり、それは現在も引き継がれている。
記者クラブが抱える問題は昔も今も本質的には変わっていない。特定の新聞社だけ
が情報を独占する報道、取材のカルテルであること。そして当局側の発表を垂れ流す
こと。個人としては新聞記者としての倫理が確立されないこの時期には、まだゆすり、
たかり、ちょうちん記事が横行していたことも事実であった。
野村長一(野村胡堂)との出会い
■
一二月十日は「十日会」の例会が紅葉館で開催された。例会の後は年末と言うこと
で忘年会となった。又吉の籍の隣に、でっぷりとした大男が座った。身の丈六尺、頭
の禿げた色白ではあるがすっきりとした顔立ちをしている。押出しの堂々とした紳士
ながら、心細やかな人柄に、又吉は日ごろから目をかけていた。報知新聞の記者で野
村長一と言った。
日頃は酒も飲まず、仕事が終わると帰宅の途中、神保町で市電を降りて、古本屋あ
さりをしている。それからクラッシックのレコードを集めているらしい。しかし、宴
会になると一升酒を飲む。此の男、盛岡の近くの彦部村の出身で盛岡中学から一高へ
そして帝大の法学部に入った。しかし、村長をしていた父親が進めた畜産振興の事業
が不調になり、その責任を一手に背負いこみ破産をしてしまったことから学業が続か
ず、二年で退学をしてしまった。そんな経歴を持つのだが、其の当時盛岡から日本女
子大付属高校へ転校してきた娘ハナと学制結婚をしたと言うのだ。そのハナと言う女
性はよくできた人で貧乏を全く苦にせず、新所帯というのに机と本箱の他には何もな
い閑散とした部屋、財布の中身は二三銭。これが二人の全財産だったが、「最初はこ
れでいいのだわ。この幸せは何と豊なのでしょう。」とクスンと笑っていたという。
そんな中でハナさんは日本女子大をなんと首席で卒業した。
「貧乏なんてなんでしょう。私には長一さんがある。」と
なんとも頼もしい人を伴侶にしたものだと又吉は感心したものだった。
野村は明治一五年生まれ。又吉より八歳年下。仕送りが途絶えてどうにもならなく
なった時に長女が生まれた。このままでは親子三人どうなる事か気をもんでみても誰
も救いの手を差し伸べてくれない。
そこで、中央新聞に原敬の紹介状を持って面接に行った。原敬は同郷で家庭もよく
知っており、甥の達が心配してくれて、中央新聞の編集長をしている横井時雄宛てに、
原敬の秘書が書いてくれたのだった。しかし、不在で会えず、そのまま握りつぶして
しまった。
丸ノ内、有楽町あたりを歩くうち、ひょっと郷里の先輩で朝日新聞編集長佐藤北江の
名が頭をかすめた。
佐藤北江とは面識があった。人間として立派で後輩の面倒をよく見る、という評判は
聞いている。知っているというだけのことで、いきなり就職を頼みこむというのも心
苦しかったが、吉報を待っているハナと淳を思うと勇気が出た。
佐藤はきさくに会ってくれた。
「警察回りならあるだろう」
長一はぎくりとした。
その言葉の響きが気になったが、「お願いします」と頭を下げた。
雑踏の中を浮かぬ顔で歩いていると、報知社 後(の報知新聞社 は)すぐそこだ。知人の
安村省
三が働いている。
「どうしたんだ、野村。ひどくやつれているじゃないか」
安村は腰を浮かせた。それほどひどかったのだろう。
事情を聞いて、すぐ上司の村上政亮編集長と高田知一郎政治部長のところへ連れてい
った。
「この男は寄席にばかり行っていてろくに勉強もしていませんが、ひとつ」
と切り出したのには長一は閉口した。
ところが雑談のうちに就職がきまってしまった。履歴書も戸籍謄本も出していない。
長一はまりの簡単さに呆然としてしまった。
報知入社のいきさつを又吉に話したのは大分経ってからのことだった。
初めて野村に会ったのは、東京毎日の編集長も兼務していた村上政亮編集長が野村
を連れてやってきた時だった。
「前田君。今度報知に入った野村君だ。政友会を担当することになった。会社は違
っても兄弟関係なんだから、一から叩きこんでくれたまえ。」そう紹介された男を見
ると、なんともあか抜けない。
絣の着物に足袋に下駄。その下駄も好き減って歯がもう無い。
「編集長。面倒を見るのはいいですが、この格好は何とかなりませんか。代議士や
官僚に会うのに、失礼ながら此のいでたちでは如何でしょうか。」
「それもそうだな。」そう言って財布から一〇円取り出して
「野村君。これで少し身ぎれいにして来い。」と言って行ってしまった。
又吉は野村の傍に近寄って眺めまわした。
「君と僕は体つきが似通っている。どうだね、洋服なら僕の着古しがある。それを
来たらどうかね。」野村は大きな体のわりにやさしい声で答えた。
「先輩。洋服は勘弁してください。ネクタイやら革靴など窮屈でたまりません。」
「そかね。この世界は見た目が九割だよ。初めて会う人がどういった印象を君に持
つかで、仕事が左右される事が多いのだ。新聞記者はまだまだ社会では認められてい
ない。ごろつきだと思っている輩もいることを知っておくことだね。」
あれから一年半たった。野村長一は政友会担当だけでなく陸軍省、農商務省も担当
するようになっていた。わずかな時間で仕事を覚え、一人前の記事を書くようになっ
てきた。さすがに帝大出だと又吉は感心した。
今日も二人は大酒を食らって話を弾ませていた。
野村長一は翌年三月から「人類館」という人物月旦を報知に連載をはじめる。政財界、
教育界、文藝界の著名人一三〇人を取り上げ七月までの長い企画になった。そこで友
人の金田一京助がペンネームを考えようじゃないかと言いだした。長一のバンカラぶ
りを見て「やあ、これはあらえびすだ。あらえびす、はどうだ。」「いやいや胡堂と
つけろ。胡馬北風に依るの胡だ。堂と言う字はそれ、木堂、萼堂などと言ってみんな
えらい人は堂をつける。それに決めておけ。」本人の意志そっちのけで決まってしま
った。ペンネーム野村胡堂はこうして決まった。野村はその後、この人物評がもとで
筆止め処分になってしまうのだが、報知の中では社会部長として、時事川柳を発案し
たりし、更に調査部長、学芸部長を歴任し、ようやく大正一二年に筆止めが解禁にな
り、報知に空想科学小説「二万年前」を書き小説家としても活躍のきっかけを得た。
昭和六年「銭形平次捕物控」で人気を博するようになったのは四九歳になっていた。
しかし、此の銭形シリーズは三八三編となり、未だにこの記録を越えるものはない。
■
一〇月一〇日夜、桂公爵が亡くなった。又吉は書いた。
「かつて憲政の賊と罵った政敵が、彼の死を見るに及んで、俄かに国家の損失と嘆
き、彼の人物を称賛するに至っては、不思議に堪えない。・・・そこで吾輩の故桂に
対する態度はどうかと言うと、吾輩は桂の死に対し同情し、彼の神霊に敬意を表する。
凡そ生として生きるもの誰とて生を惜しまぬものは無い。その惜しき生を捨てると言
うことは、人類同士が互いに同情に堪えぬところである。善悪を超脱したる神霊に対
して敬意を表する。」桂の評価は歴史家の批評に任せよう、と結んだ。
又吉は一年を振り返って、自分自身でも確かな手ごたえを感じることができた。
山本内閣発足に際しては、山本権兵衛首相をはじめ内閣の一員の人物評を書いた。
その後、「高明と新平」を4回、「正巳と広中」を5回、「三島弥太郎」の人物評。
7月には「大正の政界勢力」と題してこれから活躍を期待したい人材に焦点を当て、
一二回の連載ものも書いた。一二回の連載と言っても、書き始めたら幾らでも書くこ
とはあった。しかし一回に書く枚数は決まっている。限られた枚数の中に言葉を選ん
で世評とは違う一面をえぐった時は、読者からの反応も大きかった。
政治家と言っても様々、頭脳明晰だが冷淡に印象の人、本音を漏らさずはぐらかす
人、一見愛想がいいがいい加減な人、無口だが細かいことに気がつく人。多くの政治
家に接して思うことがあった。政治は政治家の人格の表現でないか。演説や文章で立
派な事を言っても、その人の人格を見なければ、信用はできないと。そのように思う
と日頃の接し方も変わってきた。最初のうちは、記事になりそうな話題を聞き出そう
としたり、誘導するようなことをしたりした。しかし最近は特ダネ情報などに対する
興味は全く無くなった。人物を観察することの方が何倍も面白いことだと思うように
なったからだ。
此の大正の世を創っていく政治家は、政友会の原敬、立憲同志会の加藤高明、国民
党の犬養毅の三人であろう。来春の議会を見据えて、三人の人物研究をしておこうと
腹を固めるのだった。
社主の交代で思わぬ事態に
■
大正2年もあとわずかな二四日、朝から社内がざわめいていた。武冨時敏に変わっ
て社長を務めていた報知新聞からやってきた三浦勝太郎が現れた。彼は明治維新の前
年に弘前で生まれた。郷里弘前の先輩日本新聞の陸 羯南を慕って新聞記者になった
男だ。
年(明治 39
年)、日本新聞の社長が伊藤欽亮に代わると、その運営に反対す
1906
る社員のうち、兼任の三宅のほか、長谷川如是閑・花田節・本間武彦・千葉亀雄・小
山内大六・渡邊亮輔・河東碧梧桐・梶井盛・掛場磯吉・武田勇・高木松次郎・井上亀
六・古荘毅・国分青崖・古島一雄・鰺坂定盛・荒木恒造・早乙女勇五郎・斎藤信・三
苫亥吉・三浦勝太郎が辞職して政教社に移り、三宅雪嶺主宰は、日本新聞の伝統をも
受け継ぐとして、『日本人』の誌名を 1907
年から『日本及日本人』と変え、政教社
を新発足させた。その後報知新聞に転じ武冨の後を継いで東京毎日の社長になってい
た。
その三浦社長の後ろに若い男が立っていた。三浦が話を始めた。
「当社の経営が厳しいことはみなさんも承知のとおりである。報知の幹部とも相談
の上で当社の経営を山本実彦氏に譲渡することにした。皆さん、これまで社の発展に
尽力頂き感謝します。」そう言って山本氏を紹介すると、姿を消してしまった。社員
一同あっけにとられていると、山本氏が挨拶を始めた。
「我が東京毎日新聞は、従来三浦勝太郎氏が経営してきましたが、今回、不肖山本
がこれを継承することとなりました。我が東京毎日新聞は、その創業は本邦に於いて
最も古く、報道は機敏で、所論は穏健であることから、識者の支持を得てきました。
不肖山本は、今、この名誉ある新聞を経営する光栄を得ました。これから努力して本
紙の面目の一新を期す次第です。その主義主張は独立独歩にして、党派に偏せず、時
流に流されず、新聞の新聞たる本領を発揮するようにします。」
社員一同あっけにとられた。「我が東京毎日新聞だと。」「党派に偏せず、とは笑
わせるぜ。」「何処から金を引き出したのだ。」と怒号渦巻く中、挨拶を終えてすた
すたと姿を消した。
山本実彦は明治一八年、現薩摩川内市東大小路町に生まれました。向学心の旺盛な
青年で川内中学校(現 県:立川内高校)に進学するが、家計が苦しく中退して、沖縄
で代用教員を務め、家に仕送りなどをした。明治三七年に東京へ出てきた。その時に
郷里の宮之城の先輩である時の逓信大臣大浦兼武を頼り相談に乗ってもらった。そこ
でまずは、働きながら大学へ通うことにした。明治四一年二三歳のときに「やまと新
聞社」に入社し、何でも書いた。政治評論、随想、紀行文、得意としたのは人物月旦
だった。二年後には特派員としてロンドンで一年間生活し帰国。四二年に山本亀城の
雅号で「政府部内の人物評」、四三年に「政界の寧馨児」という人物評論を博文館よ
り出版。
人物評論の伝統を守って、薩摩男児の南国的情念の奔漲に任せ、公明正衡は必ずし
も意とするところではなく、人を伝し、事跡を叱咤鞭撻しなくては、止まないような
ところがある。と評判を博した。しかし、彼の目標は政治家になることだった。大正
二年に東京市会議員に立候補し当選した。二八歳だった。地盤、看板の無い青年が初
めての選挙で当選したのは後ろ盾に大浦兼武の支援が無くしては成らなかった。その
勢いで東京毎日新聞の買収に乗り出したのだ。
社内の噂では、買収資金の調達が滞り、その一部しか支払われていないらしい。偉
そうなことを言って、買収が成功するとは限らないと言うのがもっぱらの情報だった。
彼は四年間東京毎日新聞の経営をするも結局これを手放した。そして大正八年四月
に「改造」を創刊したその人である。
大正三年、一面トップの連載始まる
■
正月は日ごろできない家族への接触に努めた。妻の町子は妊娠中で三月の末には出
産を予定していた。先妻が亡くなった時に四ヶ月だった末娘のマイ子ももうすぐ四歳
になり手がかからなくなっていた。町子は安産祈願のために深川の不動尊に初詣に連
れて行ってくれとせがんだ。帰りには新富座で守田勘弥の芝居を見たいという。家族
五人で此の正月に入れるのかと町子に問いただすと、町子はにこっと笑って、紙入れ
から札を取りだした。ちゃんと籍を取ってありますからご心配なく、とけろっとして
いた。どうやら町子は、初詣は口実で芝居を見に行くのが目的のようだった。又吉は
正月のお年玉だね、と一緒になって笑った。
三人の子供たちは後妻の町子に良くなついた。町子も我が子のようにかわいがった。
町 子 は 子ど も た ちが 少し 成 長 する ま で は自 分の 子 は いら な い と言 って マ イ 子の 面 倒
を見たのだ。初婚で三人の子持ちに嫁ぐのは苦労の連続だったが、先妻のイチの想い
を町子は苦しい時に思い出して励みにしていた。
四日、初出社もつかの間、政友会本部や代議士宅へあいさつ回りに追われた。その
中で、伊東巳代治子爵と秋元子爵への挨拶も欠かさなかった。
その秋元子爵を訪問した際の囲碁の話を記事にした。
「今雁金がきましてね、二目で勝ったところですよ。三目ではきっと私が勝つが、
二目では少しいけないと言うのが実力ですよ。」とたいそうご機嫌の態であった。財
政整理の事もあって最近では骨董いぢりと相撲道楽は家来から封じられてしまい、毎
日色々な人を集めては碁を打っておられる。二段以上の実力だそうだ。華族社会では
まず第一等だという。
と囲碁の話を紹介した。雁金というのは雁金準一と言って一九世本因坊秀栄の門下
で、一九世の没後、本因坊争いまでした人で、当時八段だった。そのような実力者と
二目で勝ったのだから相当嬉しかったのだろう。しかし碁と言うものは勝てばいいと
いうものでもない。「碁というものは形と色と味とがあります。形も色も味もよくな
くては駄目です。味を良く打とうと思って負けることもありますがね。」囲碁の奥深
さの話が続き席を立てなくなってしまった。
続いて「陣笠の政治観測」を二回に分けて書く。小久保城南(喜七)の事をあいつ
は陣笠だと評している。かつて自由民権運動に於いて加波山事件や大阪事件に関与し
たとされるが、その後茨城県議を経て明治四一年に衆議院議員に当選という経歴の持
ち主。政友会の中堅どころではある。その陣笠代議士に正月早々つかまってしまった。
波山事件や大阪事件どうの、星と陸奥宗光との関係はどうだ、大井憲太郎と高島鞆之
助との関係はこうだ、などと一時間ばかりされた後、「時に政界の前途はどうですか。」
と質問をすると、もっともらしく説き始めた。それを談話風にまとめたのだった。
また、社内がざわめいていた。「記者招聘」の社告が出たのだ。
「一、英文を能くする者一名。一、経済界の事情に精通する者二名。一、政治社会
記者とる希望を有する者数名、但しなるべく斯業に無経験にして学校卒業早々の者。
右希望者は一篇の自作と履歴書とを帯同当分の内午後三時来社ありたし。」
山本社長は単身で乗り込んできた訳だから、これから幹部の交代が始まるのという
意見もあれば、あの若造になにができると批判する方が多かった。
又吉はいずれどこかで、身の振り方を考えねばならない時が来るだろう。それまで
に良い仕事をして、独立して物かきになりたいと真剣に考え始めるのだった。
それは突然だった。一月二三日、第三一議会衆議院予算委員会で、立憲同志会の島
田三郎がシーメンス事件の件について厳しく追及した。
二月一〇日、野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を
上程した。その日、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれていたが、この決議案が
対 205
で否決されたことを聞くと、この大会に集まっていた民衆は憤激して国会
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議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突した。
新聞紙上ではシーメンス事件が閉める中、二月二三日から「議会の闘将」と名付け
た人物評の掲載が始まった。これは又吉が編集長に企画を提案して実現した。
三島弥太郎、犬養毅、平田東助、原敬、尾崎行雄、森久保作造、奥田義人、吉川重
吉、入江為守、花井卓三、竹腰三叉を取り上げ、人物月旦では漢文調の文体が主流の
中で、口語文体で書いた。新しい読者開拓という狙いもあった。又吉は署名入りを希
望したが、編集長は、記者の署名入りはしないと従来からの姿勢を崩さなかった。そ
こで特別に使っている匿名、「元龍山人」という署名記事にすることになった。二三
日の校正刷りを見ようと二面の政治記事を探したが見当たらない。ニュースが飛び込
んできて翌日廻しになってしまったのか。又吉は新聞をたたんで机に投げ出した。す
ると、一面のトップに「議会の闘将・元龍山人・三島弥太郎」と出ているではないか。
又吉新聞を持って編集長のところへ行った。
「これはどういうことですかね。」
「一面トップでは不満かね。」
「いいえ、驚きました。なんで、一面なのでしょうか。」
「社長から、紙面の刷新を厳命されてね。読者開拓になると思ってやってみたサ。」
「ありがとうございます。一面から外されないように、評判がとれるように書いて
見せますよ。」
「そうだ、その調子でやってくれ。期待しているぞ。」
人物評論犬養毅・原敬
■
又吉は二日目の予定原稿、「犬養毅」を読み返し、手を入れるのだった。
「▽その模型の大小は暫くおき、思想の新旧は預かりとして犬養と原敬は兎に角政
党的訓練のある闘将である。原が順風に春帆を揚げて走る時、犬養は危岩怪礁に坐し
て一歩も動かざるの慨がある、尾崎は逆境に処するの人ではなく得意に誇るの人であ
る。尾崎派大政党の人に非ずして、第三党の人である。犬養が演壇に立つの時は辛辣
なる決意がその隼の如き眼に現る、尾崎は何どきも聴衆を気にして拍手の声を聞くと
共に天を仰いで反り身になる。唯だ五つ紋、白足袋の稚気の脱するの日にあらずんば
勢力を代表して実際政治に携わる能はざるべき乎。
▽犬養もイクラか理想に傾き、民論に媚びる調子がある。憲政の神と崇めらるるな
どはその左券である。しかし一〇年逆境に処して一勢力を維持するにはその位の芝居
は必要であろう。そこになると加藤も同じ事だ。自分の理想は馬鹿に高いが同志会の
態度とは百里の隔てがある。加藤は政界の人としては未知数である。一苦労も二苦労
もしなければ大政党の首領にはなれまい。逆境に処しての奮闘は犬養にして初めて語
るを得べく、政友会の闘将もこの点派買って遣るがよい。
▽犬養はあまり支那浪人に関係ある処から思想が東洋流にのみ傾いて居る。支那と
いう国はアメリカとかドイツとか英国とかいう槓杆(梃子)と力とに動かさるる物体
である。物体のみ観察してその原動力のある所に眼を注がずば事実の判断を誤まるこ
ととなる。その鋭き眼をシベリア鉄道や太平洋にも及ぼして欲しい。幕僚にも気鋭の
人はあるが新知識として政治の実力をうごかして見たいと思う人はいない。
▽現在は犬養の心機一転時代である。と言うのもは、君は衆愚に擁せらるるの人と
してはあまりにも明察である。部下が局外者の説を聞くにもウムそうかナール程とい
う調子で打ち切る事が出来ない為めか世の有象無象はそれに難癖をつける。故に西郷
候や松田正久の人望のあるのも全くここだ。日本人は意識の国民ではない。感情の国
民である。自らえらがる人は嫌われ、御世辞にも謙遜する人は担がれるのである。
▽ソクラテスでも日蓮でも現在生存しているなら日本では人望がない。山本にして
も加藤にしても犬養にしてもその通りである。自分の力を自分で発揮しようとする人
は敬遠せられ、自分の力を他力で発揮しようとする人は歓迎せらるる。尾崎に居たり
ては他人の言はんとすることを測定して活弁する一の機器に過ぎない、その胸底には
国家を深く憂うる百年の計もなければ、国家として考えねばならぬ立場をも考慮しな
い。
▽党人としての犬養は成功しつつあり。しかし、犬養の経綸の実行を見るに至る日
があるかは疑問である。政権に接近するの決心を以て奮闘しなければ到底原の敵とな
ること錚はできまい。公人としては非難も多いがそれは寧ろ当然のことである。唯だ
今後は自己の輪郭を出来るだけ没して、そして子分に実力のある国士集めることを腐
心せねばなるまい。」
ざっと、こんな論評をした。読者や周りからの評判も上々だった。又吉は「平田東
助」に続いて四日目に「原敬」を書いた。
「▽加藤が同志会総裁になるの時、原が政友会の総裁になるのは何も不思議はない。
原は根が官僚育ちではあるが、頭脳の冷やかにして、採決のテキパキして居ることは
加藤と良く酷似している。この二人が大政党の総理の実権を把握しているのは政界の
現状より見て趣味あるものの一つである。両者共知恵の分量に於いても、事務を見る
の明にしてもその党内に冠絶している。一騎打ちをしても当然大関の格である。しか
し情味に於いては両者共に欠くる所があるように思わるる。伯山本も又しかりである。
▽加藤は世界の大勢に通じて居よう。少なくとも英国の政治の状態には通暁して居
る。しかし原に比せば政党的訓練に於いては及ばない所がある。加藤も原も尊大の風
ありと称せられて共に独裁的の分量が多過ぎるとの評であるが果たしてどうか。伊東
巳 代 治 は力 量 に 於い て加 藤 に 一眼 を 置 いて いる か も 知れ ぬ が 策士 とし て は 一枚 上 で
ある。わが国では段々とこの策士という類を嫌うようになった。また実際策士は策に
溺れ、国家は策士に誤まられる事が多い。
▽原は策士としては幾何の価値があるか、政友会では岡崎などは策士と称せられて
居るが日本での策士の定義が誠に狭い。人と人との関係を妥協して遣ったり、金銭の
関係から自由の行動を束縛するような事をしたりする。こんな小策ほもう新時代の政
治には駄目である。要は国是の赴く機微をとらえてそれに当てはまるような経策にで
なくては。
▽日本人には人に乏しい、殊に政治界に於いて然りである。政党総裁の候補者はあ
っても総理大臣として公平に遠大の経策を描く底の国士は居ない。東北から近年人材
が比較的多く出ている、敬、新平、斎藤、高橋、の如きはその錚々たるものであるが
原の後継者としては指を屈すべきものはない。菅原などではものにならぬから。
▽ 西 園寺 侯 復 党説 もあ る が 何に せ よ 恬淡 水の 如 き 人で 時 に は雲 水行 脚 を 解せ ら る
る程であるから衷心より復帰を希望してをることはあるまい。無理に推し付けた所で
就任するかは疑問である。まずそれよりは総裁の後任者である。後任と言うよりは原
が総裁となって行けるかどうかが問題である。加藤で行けるからには原でも行ける,
唯だ政友会はうまくやれるが、内閣が折り合いを保ちうるか、と言うのは宮内省と陸
海軍の問題である。海軍は先ず山本の後援でいけるとして陸軍がどうか、しかしもう
山縣も余程悟って来たからたいして意地悪く逆襲することだけは見合わせるだろう。
▽悪い時に殺傷事件があったものである。敬の敵は今の時機に於いて根底からその
勢力を覆そうとするのである。新聞社の側でもそんなに酷く原を追求する訳でもなか
っ た ろ うが 官 僚 式に そん な 事 実が な い 内務 大臣 と し て謝 す る こと は出 来 ぬ など と で
られたので喧しいことになってしまった。全く原に参謀その人が無かった故だろう。
内務大臣としてかかる殺傷騒ぎをなすに至らしめしは遺憾である。この点に於いて謝
するとアッサリでた所で別に大臣の威厳を落とすわけでもなかったろう。又巡査が斬
ったか、壮士が斬ったか判然としないと言うならそこを何とか工夫が出来たはずであ
ったのに。」
犬養論では原敬と加藤高明や尾崎行雄を引き合いに出し、原敬論に於いては加藤と
の違いを評することでそれぞれの人物を描こうとした。限られた紙面で読者に読んで
もらう書きものとしては完全なる口語体ではなく中途半端な文体になったしまった。
東京毎日新聞を退社
■
三月二〇日。東京大正博覧会が東京の上野公園不忍池の辺で大正天皇御即位を記念
して開催された。
三月二四日。山本内閣は予算不成立となり総辞職をした。
三月二八日。二男が誕生。後妻の町子にとっては初めての子、又吉は母子ともに健
全の知らせに安堵した。又輔と名付けた。上野の森では桜が五分咲き、浮き浮きする
一日だった。
大正3年3月山本内閣がシーメンス事件で退陣すると、山本首相はその後任として原
敬を上奏推挙した。元老はこれを詮議したが、山縣の強硬な反対によって否定された。
後任首相の選定に際して山縣は清浦奎吾を推したい腹であった。山縣はこれを胸の奥
に秘め、貴族院議長徳川家達を持ち出し、一同これを承認した。しかし、徳川はこれ
を辞退した。
一方同志会では加藤高明、尾崎一派は大隈重信を推し、後藤新平は伊東巳代治を担ぎ
出そうとしていた。
そこで山縣が動いた。
又吉は伊東巳代治を追いかけていた。
「昨日(30日)に清浦奎吾が訪ねてきたよ。」巳代治が情報をくれた。
「山縣が俺の腹を探るために清浦をよこしたのさ。彼は、“この際超然内閣のほかは
ないと思うが、山縣が明朝貴殿の御高見を伺いたいと”告げに来たさ。そこでこう言
って遣ったさ。“今日の時勢は、超然内閣は許さぬ。政党主義を論じ、山縣公が見え
たら自分は公に元老待遇の辞退を勧告するつもりだ”そう伝えてくれと言って追い返
したさ。」
「そうですか。しかし、後藤新平男が貴方を担ぎ出そうとしているそうですね。山
縣公も貴方を候補の一人に挙げるのではないでしょうか。政党主義と言われるのであ
れば政党に手を入れるつもりはあるのでしょうね。」
「この話は秘密だよ。分かっているね。」そう言って話をはぐらかしてしまった。
巳代治は政党政治を主義としながら、政党運営には大金を要することを知っていた
からきっと尻ごみするだろうと又吉は察した。
数日後、再び訪問すると、彼はその庭内に何百と並べた盆栽(一鉢数千円、数万円
という高価のものも少なくなかった を)ながめながら、
「これを売り払ってもヒト働きできるぜ。伊東が盆栽を売るそうだと聞いたら、世
間では、さア伊東が政界に乗り出す野心を起こしたといって、大騒ぎをするだろうな」
と高笑いとした。しかし、結局、彼は財産を政治に代える気にはなり得なかったのだ。
若かりし頃、藩閥に反感を有した彼は、もし藩閥が自分に無礼なことをしたら、い
つ何時でも辞職すると覚悟をきめていたが、辞職したら生活に困るというので、浪人
しても生活に困らぬだけの金を貯えることが先決問題と考え、毎月必ず給料の何割か
を貯え、将来値上がりの見込みある株券や土地を着々買い込んだ。「それが君、今日
大(正三年 で)は意外にも数百万円になっているようだ」
彼は主義を守るために財産を貯えたが、貯えてみると、今度は財産を守るために主
義は第二となり、主客転倒の状態になってしまった。結局彼は財産を政治に換える気
にはなり得なかった。
山縣が推した清浦奎吾は海軍の協力を得られずに組閣を失敗した。
そこで元老は大隈を推挙し、四月一三日に組閣の命を受けた。
そんなさなか、政治部長が突然退社すると言いだした。山本社長としばしば意見の
食い違いが出てしっくりいかない関係が続いていたようだった。話を聞いた政治部や
経済部の連中は社長の横暴と言い合い、部長一人を辞めさせる訳にはいかないと一緒
に退社しようと呼びかけをし始めた。又吉は山本社長の考えが分かった。単身乗り込
んで経営をし始めたものの、いうことを聞かないベテランを斬って、自分の意図を実
現する取り巻きを作りたいのだ。又吉はその取り巻きに入る気はない。そうであれば、
この際、部長と同時に退社をしよう。
女房の町子は赤子を抱えて乳を含ませていた。その姿を見て、自分の決意を語るの
を一瞬ためらったが、退社してきたことを告げた。これは決して後ろ向きの事ではな
く、新たな出発なのだと言い聞かせた。桜の花は散って若葉が芽吹いていた。富士山
が見えた。眼下の海がキラキラと光っていた。
参考文献
「無名通信」明治四二年八月一日から明治四四年六月一五日号
「新聞社と其の場所性」:小島龍一
「五〇人の新聞人」昭和三〇年七月一日 ㈱電通
「野村秀雄」昭和四二年六月二〇日 野村秀雄伝記刊行会 代表美土路昌一
「東京毎日新聞」明治四四年から大正三年
「政治は人格なり」大正十三年二月十日 前田蓮山 新作社
「歴代内閣物語」昭和三六年二月一五日 前田蓮山 時事通信社
「一老政治家の回想」昭和五〇年八月一〇日 古島一雄 中公文庫
「大野伴睦回想録」昭和二七年九月十日 大野伴睦 弘文堂
「日本叩き」を封殺せよ情報官僚・伊東巳代治のメディア戦略 二〇〇六年一〇月
原田武夫 講談社
「政変物語」大正六年三月一〇日 前田蓮山 文成社
「政友」大正3年一月号
「記者クラブの歴史と問題点」前坂俊之「記者クラブ」柏書房一九九六年一〇月
「銭形平次の心・野村胡堂あらえびす伝」一九九五年九月二〇日 藤倉四郎 文藝春
情
「改造社と山本実彦」二〇〇〇年四月一一日松原一枝 南方新社
「明治人物論集」筑摩書房 昭和四五年五月三〇日
「新聞経営の先人」二〇〇四年三月三一日春原昭彦 日本新聞協会二〇〇四年三月三
一日