すばる20号

発行
日本適応指導教育研究所
勁草学舎
親子マンボウの会
10 月 31 日特別講座の風景
ビジネスパーソンとして
果敢なるチャレンジ精神を持とう
グローバル化の時代に求められる人材とは、一言で言えば、専門性が高く、かつ創造力に富んだ
人材です。具体的に言い換えれば、新しい職場に移ったとしても、直ぐに能力と創造性を発揮し、
活躍できる人材ということになります。
戦後教育の問題は、こういう人材を育てられなかったことにあります。確かに知識偏重の詰め込
み主義は、「欧米に追いつけ追い越せ」のスローガンの下、少品種大量生産に邁進した高度成長期
の企業を支えた人材教育には向いていたかもしれません。そして、そういう人たちが戦後の奇跡的
な経済復興の原動力となったことも事実です。しかし、時代は変わりました。一糸乱れず行動でき
る正確さとシステムに対する順応性を持つというだけの人材では、グローバルな競争には太刀打ち
できません。そのような人材なら、もはや諸外国から日本の十分の一程度の賃金で確保できる時代
です。つまり、今求められているのは、高い人件費に見合った、高い付加価値を生み出せる人材だ
ということです。
私は、戦後の日本企業を支えた人材を「サラリーマン」と規定しています。サラリーマンは、終
身雇用、年功序列型組織を信奉し、社長を頂点とするピラミッド構造に絶対的価値を置きます。そ
して、その弊害は、派閥や根回しといった社内力学を象徴する言葉に集約できます。今日の国際競
争の激しい時代に、社内力学を優先順位のトップに据えるようなサラリーマンは不要です。端的に
言って使えないからです。今、真に社会で求められているのはサラリーマンではなく、専門性が高
く、創造力に富んだ「ビジネスパーソン」なのです。
価値の高い人材になるためには、まず一芸に秀でることです。例えば、マーケティング、販売な
ど一つの専門的な領域について圧倒的な強みを持った人材を目指すこと。今の仕事を徹底的に縦に
掘り下げていって、誰からも一目置かれるスペシャリストになることです。それには、10 年から
20 年はかかります。そして、スペシャリストとして認められたら、今度は横幅を広げていきます。
例えば、マーケティングを極めたら、今度は商品開発、財務、人事、総務と、専門外のことにもあ
る程度通じた人材を目指すのです。
では、サラリーマンとビジネスパーソンの本質的な違いは何か?
サラリーマンというのは、基本的に商品が「なぜ売れないのか」の理由(=自分の無能さの言い
訳)を考えるのが天才的にうまい。一方、「どうしたら売れるか」を考えるのがビジネスパーソン
です。つまり、ネガティブな構え(後ろ向き・非生産的)で仕事に対応するのがサラリーマンであ
り、ポジティブな構え(前向き・生産的)で仕事に臨むのがビジネスパーソンだと言えるでしょう。
しかし、ビジネスパーソンとして「どうしたら売れるか」を考えることは、決して簡単なことで
はありません。そのためには、まず「現状認識力」が必要です。現状が正確に認識・把握できなけ
れば、ビジネスが成功することはあり得ません。現状ぐらい誰でも認識できるはずだと思うかもし
れませんが、これがなかなか難しいものなのです。なぜなら、サラリーマンのほとんどが「供給者」
論理(「売らんかな・売ってやろう」の立場)に立ってものを見ているからです。本来、「需要者」
論理(「こんなものが欲しい」と要求する立場)に立たなければ、現状は把握できません。要する
に市場のニーズがどうなっているかがわからなければ、そして、それに見合ったものを出さなけれ
ば商品は売れないということです。こんなことは自明なことであるはずなのに、残念なことに、需
要者側に立ってものを考える人は極めて少数というのが現状です。とにかく需要者の視点から、客
観的に現状を認識・把握すること。これが「どうしたら売れるか」を考えるためのステップ1です。
ステップ2は「将来どうありたいか」を考えること。「将来こうありたい」という具体的な目標
を設定したら、次にここから「現状はこうだ」を引いてみます。そうすると、今の自分に何が不足
しているのかが分かるので、ステップ3として、「だからこうしよう」という対応策・答えを導き
出すことができます。数式の形で表せば、
「将来こうありたい」-「現状はこうだ」=「だからこうしよう」
となります。この「だからこうしよう」が、経営学でいう戦略です。戦略は仮説の構築ですから、
厳しく検証した上で、不都合があれば再構築しなければなりません。
では、この三つのステップで求められる能力とはどういうものでしょうか?
「現状分析力」は数学、将来像を考える「目標設定力」は哲学、
「だからこうしよう」という「仮
説構築力」はストーリーテリングの能力だから文学です。つまり、ビジネスパーソンには、数学、
哲学、文学の能力が必要だということになります。これらの能力を、自らの実践と経験と勘で埋め
られると考えるのは甘いというべきですし、またそのレベルでは、国際競争時代のビジネスの遂行
は困難です。
数学、哲学、文学と言うと、いささかハードルを高く感じるかもしれませんが、言葉を変えれば、
論理力や分析力、創造力ということになります。
それらの能力を磨くためには、何よりもまず「なぜだろう」という好奇心を持ち続けることが重
要です。そのためには、「会社」という狭い限られた世界の住人になりきってしまうのではなく、
広い世界の中で自分を磨くことが大切です。例えば、本を読む、映画を見る、旅行する。あるいは、
社外のいろいろな人と付き合う、ボランティアに参加してみる。多様な刺激を受けながら、「なぜ
だろう」と考え続ける。そこから創造力が生まれ、そこで創造性が育まれるのです。
ビジネスの世界での勝負は、他にはない付加価値を提供できるかどうか、が前提となります。そ
のためには、一芸に秀でることが必要です。これは個人レベルだけではなく、企業間競争において
も言えることで、ライバルには無い強みを持つことによって、初めて勝つ可能性が生まれてきます。
もちろん、必ず勝てるとは限りませんが。しかし、仮に結果的
に負けたとしても、堂々と勝負したのであれば、必ずそれは評
価されます。そして、チャンスは再び巡ってきます。次は勝て
るかもしれません。そのように勝ったり負けたりしながら、企
業も人間も育っていくと思うのです。
プロは結果がすべてだという人もいますが、私は結果には必
ずしもこだわるべきではないと考えます。プロセスが正しいか
どうか、考え方が正しいかどうかを私は重視します。単純なケ
アレスミスは論外ですが、新しいことにチャレンジした結果の
失敗は、むしろプラス評価をすべきです。だからこそ、若い人には勇気をもって果敢にチャレンジ
して欲しい。そのためにも、競争力の前提になる一芸を、是非磨いて欲しい。そして優秀なビジネ
スパーソンへと成長していって欲しいと思うのです。
繰り返し強調しますが、得意技をつくることが先決です。得意技を伸ばそうとせず、欠点ばかり
を補強しようとすれば、現代に適合しない中途半端な人間(均質で、これといった特性が感じられ
ない人間=高度成長期のサラリーマン・産業ロボット)をつくるだけです。各自の欠点はチームワ
ークの中で補えばよいのです。欠点をダメなものとして恐れてばかりいてはいけないのです。「得
意技の力>欠点」ならば、十分に折り合うのですから。
私は、このように個々人のあり方を考えているので、得意科目を伸ばすよりも不得意科目を克服
させることに重点を置く学校教育とは逆に、一芸に打ち込めるような風土を醸成する組織社会が一
番理想であると思うのです。
*
ジェームス・B・デュークの言葉
「ぐずぐず考えるな、すぐ始めよ!」
「明日に延ばすな、すぐ始めよ!」
「難しく考えるな、すぐ始めよ!」
「誰か他の人がやると考えるな、すぐ始めよ。しかし、生半可な考えで始めるな!
スタートに結集し得る全てのものを注ぎ込め!」
(注)ジェームス・B・デューク
19 世紀末に「たばこ王」と呼ばれたアメリカの企業家であり、晩年にはデュー
ク大学の設立にも尽力した人物。
日本適応指導教育研究所理事長・勁草学舎理事長
苅草
國光
厄介な「裏面的やりとり」
アメリカの精神科医エリック・バーンが創案した「交流分析(Transactional Analysis)」という心理療法
では、「やりとり」を次の三つのタイプに分類しています。
① 相補的交流(適応的交流)――送られたメッセージに対して、予想通りの反応が戻ってくるもので、
刺激と反応のやりとりが平行している交流。承認的反応であり、“的を射たもの”
② 交叉的交流(交差的交流)――人がある反応を期待して始めた交流に対して、予想外の反応が返って
くる場合をいい、そこではコミュニケーションが途絶え、発信者は無視された気持ちになる。
③ 裏面的交流(仮面的交流)――相手の一つ以上の自我に向けて、顕在的な交流と潜在的な交流の両方
が同時に働く複雑な交流。表面(社会的)ではもっともらしいメッセージを発しているようでも、そ
の主な欲求や意図、または真意は裏面(心理的)に隠されているのが特色。交流の中で二つ以上の自
我状態が働くものは裏面的交流のみ。“的はずれ”“鈍感”
“なまぬるい反応”
裏面的交流は、ウラとオモテ、ホンネとタテマエなど、円滑な人間関係を行うために、この種の交流が必
要な時もありますが、お互いに裏面的やりとりであることを自覚している限りにおいては、一面偽善的に見
えますが、相互にそれほどの齟齬が生じることはないと思います。
ところが非常に厄介なのが、カウンセリング場面や、生徒との大切な将来についての話し合いの時でさえ、
事実と事実のやりとりにならない、つまり裏面的交流になることなのです。
以前ある生徒から、「裏面的交流から脱却することの大変さは、たとえ井澤さんでもわからないと思う」
とか、「自分の中ではもう決まっていることだから、何を言われても同じなんです」と告げられたことがあ
ります。これは相手からのメッセージをそのまま受け取るのではなく、自分流に、私情に従って、都合よく
解釈してしまう、ということだろうと思います。そしてその生徒にそういう習慣がついてしまうには、それ
なりの環境が子どもに用意されていた、と考えるのが妥当だろうと判断したのです。その環境がどういうも
のなのかについて私は悩み続けているのですが、裏面的やりとりの習慣がない私には、納得できる答えが出
てきません。そうは言っても、子どもたちの置かれている状況について何とか理解せねばならず、文献の中
にある症例を参照してみることにしました。
R・D レイン(イギリスに生まれた精神科医)著『自己と他者』
(1975)「承認と不承認」より、
本著の中で、“的はずれ応答”の特徴について、リューシュは次のように書いています。
・ 答えが、きっかけになった陳述と、ぴったり適合しない。
・ 答えが、欲求不満を生じさせる効果を持つ。
・ 答えが、言葉や行動や、状況の文脈によって知覚し得るような、もとの陳述の背後にある意図と噛み
合わない。答えが、陳述の偶発的な一面を強調する。
<例 1>
5 歳の男児が、太い虫を手に持って母親のところに駆けて来て言う。
「お母ちゃん、ほら、すごく大きな太い虫を捕まえたよ」
彼女は言う。
「お前ったら汚いわ。あっちへ行って、すぐにきれいにしなさい」
この男児の感情という面から見ると、母親の応答は的はずれである。彼女は①「ほんとねぇ、なんてかわ
いい虫だこと」とは言わない。②「なんて汚らしい虫だこと、そんな虫にさわっちゃだめ。捨ててしまいな
さい」とも言わない。彼女は、虫について喜びも恐怖も、賛成も非難も表明しない。彼女は、彼が思いもか
けなかったこと、彼にとって直接重要でないこと、つまり彼が清潔であるか不潔であるかということに焦点
を合わせて応答する。彼女は、
「お前が清潔でなければ、私は虫なんか見る気にはなれない」とか、
「お前が
虫を持っているかどうかは、私にとってはちっとも重要じゃない。―私にとって一番大事なのは、お前が
清潔か不潔かということで、お前が清潔なときだけ、私はお前が好きになる」と言っているのかもしれない。
この的はずれ応答は、少年が自分の観点からしていること、つまりお母さんに虫を見せるという承認は失
敗している。虫を持つ少年に対する承認的応答が持続的に欠如することは、彼は精神発達的に多少回り道を
することになる可能性がある。彼が虫を持つことに対して、母親はあからさまに非難はしなかったけれど、
そのことに対する無関心が、少なくとも彼にある種の一過性の混乱や不安や罪責感を生じさせることになる。
このような特異な応答が、発達のこの段階での彼と母親とのやりとりを縮図化しているとすれば、自意識に
とらわれない、罪責感や不安から開放された、なんら反発的なところのない、真の感覚を持つことは、彼に
とって困難なものとなる。
彼はⅰ虫類を蒐集する決心をするかもしれない。ⅱ自分自身を清潔にしているときだけ虫類を蒐集できる
と感じるかもしれない。ⅲ一番重要なことは清潔にすることであり、母親の賛成を得ることであって、虫類
を蒐集することなど問題ではないと感じるかもしれない。ⅳ虫に対する恐怖症を発展させるかもしれない。
<例 2>
生後 6 ヶ月の子どもとその母親を観察し、微笑の生じる場面を注目した。子どもの方から母親に向かっ
て微笑するのに対して、母親が微笑でもって応えるということは、観察中に一度もなかった。母親自身が微
笑することによって、また子どもをくすぐったりあやしたりすることによって、子どもに微笑を起こさせた。
母親が子どもの微笑を誘発した場合には、母親も微笑を返したが、子どもが主導権をにぎった場合には、気
乗りのしないぼんやりした顔つきで応対した。
<例 3>
13 世紀の頃、シリヤにフレデリック二世という王がいた。この王は「人間はすべて自分本来の言葉を持
って生まれてくる筈だ」と固く信じていた。その自分の考えを実験で証明しようとしたのであろう。生まれ
たばかりのみどり児を何人も集め、それに幾人かの養育係をつけた。その養育の条件として、王は赤児に一
言も話しかけてはならぬと厳命した。これは養育者にとっても大変なことであっただろうが、赤児たちも辛
かっただろう。
言葉をかけられたことのない赤児たちは、自ら言葉を発することはむろんできなかった。それだけではな
く、やがてその赤児たちは次第に衰弱していき、遂にはみんな死んでしまった、という記録が残っている。
<例 1>①の応答は相補的交流であり承認的反応です。また直接的応答であり、“的を射たもの”です。
②は交叉的交流のようですが、直接的な拒絶は、愚弄したり、別な形でおとしめたりすることではなく、行
動を軽視したりすることでもなく、無関心や鈍感、と同義語ではない、とレインは言います。拒絶の理由を
事実のまま返し、子どもがそれを了解すれば、それは相補的交流と言えるでしょう。
<例 2>子どもへの働きかけは、どんな時も“子ども主導”であるべきで、「子どもたちは、見られるべ
きであって、聞かれるべきではない」のです。このような母のもとでは、子どもの主体性は育たず、母の望
む偽りの自己を育てるしかなく、自己は引き裂かれることになりかねません。
ことば
<例 3>聖書には「初めに 言 ありき」という有名な言葉があるそうですが、人間の言葉といえども、い
かに大切なものであるか、この例からもうかがうことができるのではないでしょうか。
現段階で井澤は、「裏面的交流とは、その時その場の事実に自らを賭けて言葉を発するのではなく、相手
からどう思われるかを優先した、言葉を軽視するやりとりの習慣である」と結論づけました。このやりとり
は人間関係を疎遠にし、上の例も示すように、精神発達的に見ても健全な自我は育ちません。
裏面交流という悪しき習慣を脱するために、どうぞ今日からは我が子としっかり噛み合うやりとりを心が
けてください。そのためには親自身が今、目の前の我が子に、心底何を伝えたいのかを自問自答した上で、
伝えるべきことを適切な言葉に結集させ、親の存在を賭けてやりとりをして下さるようお願いいたします。
勁草学舎主任カウンセラー・親子マンボウの会代表
井澤
真智子
空気を読む
・
・
子どもたちが、
「空気読めよ~」とか「○○は KY(ケーワイ:空気〈Kuuki〉読めない〈Yomenai〉
が転じて空気を読めない人を指すらしい)だよ」と話すのを耳にするようになりました。若者た
ちの間で流行語になっているようですが、もともとはインターネット、メール、テレビ(特にバ
ラエティー・お笑い番組)などを通じて広まった言葉のようです。
場の空気を読む力は、躾や教育の中で幼いころから鍛えられていくスキルです。例えば家庭の
中では“ご飯を食べている時はバタバタ騒がない”とか、学校の教室の中では“先生が教壇に立
ったらお話をやめる”など、例をあげればきりが無いほど、私たちは自然と場の空気を読みなが
ら生活をしています。先生が教室に入ってきたことに気づかずにおしゃべりをしていたら、いき
なり周囲がシーンとなって自分の声が教室中に響いて笑いものになる、なんてことはよくあった
ものです。笑いものになれば恥ずかしいので、次からは気をつける。そういう繰り返しの中で、
私たちは社会生活の術を学んでいくのだと思います。空気を読めるようになったら、その空気に
応じて適切な反応をできる人が“常識人”と言われる人なのでしょう。
ところで、先に書いた流行語の「空気を読む」は、使われ方を聞いていると、相手にただ常識
人であることを求める意味で使われているだけではないような気がしています。テレビを見てい
る時、外出をしている時、出演者や若者の話に耳を傾けていると不可解な会話が聞こえてくるこ
とがあります(仲間内で遊びに行く予定を立てている→ある人が「行けない」と言う→「お前は
空気が読めない」と言われる/何かの話題で盛り上がって皆が笑っている→ある人だけが笑わな
い→「空気読めよ~」と言われる)。ふざけ半分で言っていることもあるのだろうとは思いますが、
この場合の「空気を読む」は、常識的に振舞うことを求めているのではなく、その集団内での話
の流れに「合わせた」反応をすることを求める言葉であるように思います。そんな強制力を持っ
た言葉のやりとりが聞こえてくると、今の若者同士のコミュニケーションの難しさをしみじみと
感じます。友達ができることや集団の中に入れることは自分に自信を持つきっかけを与えてくれ
ますが、はたして本当の自信に繋がっていくのだろうかと思ってしまいます。
最近のお笑いブームが大きく影響してか、子どもたちの会話から「ボケがいまいち」、「ツッコ
ミ役がいないから面白くない」、「寒い」などという言葉がよく聞かれます。おそらく「空気を読
む」という言葉の流行も、そういうテレビの影響が大きいのだろうと思います。自分と他人の境
界があいまいなことも、盛り上がってワイワイすることが好きなことも、子どもの特色として理
解できます。メディアが発達した世の中だけに、その影響は非常
に強いものになります。だから、周囲の大人が彼らの言動をよく
観察して、相手の立場に立つこと、自分の気持ちをしっかり伝え
ることなどの、社会の中で必要になるコミュニケーション能力を
身をもって示し、語りかけていく必要があるのだと思うのです。
勁草学舎スタッフ
佐藤
勇弥
父と息子
勁草で日々生徒たちと関わっていると、ご家族との関わりもおのずと多くなります。と言っても、多いのは
お母さん方との関わりで、お父さんとの関わりはどちらかと言うと限られているように思います。お父さんは
仕事で忙しい、と言ってしまえばそれまででしょうが、そうは言ってもご両親の子どものことなのに、お父さ
んの姿があまりにも見られない場合があると、子どもと生活レベルで接することが多い僕たちとしては、非常
に心もとなく思う面があります。というのも、息子の立場としてですが、父親の存在は、心理学的にどうだか
ら、とかいうことではなく、実際に、子どもにとって何かしら決定的な重要性を持っていると思うからです。
(と言っても、これは、父親がいない子はどう、というようなことを言おうとしているのでは決してなく、い
るならば重要だ、ということが言いたいだけですし、今回書いた「父」はすべて「父的なもの」と置き換える
ことが出来るのだろうと思いますので、決して誤解なさらないでください。)
僕が言える範囲に限って話を繰り返させてもらうと、あくまでも「息子」の立場としては、父親の存在は、
肯定的な意味にせよ否定的な意味にせよ、息子の人生にとって絶対的に重要な意味を持っていると言えます。
....
(「娘」にとってのことは僕には分からないのでここでは書きません。僕に書けるのは、ただ、父と息子、の
話なのです。
)
自分と父親との関係を振り返って思うのですが、息子にとっては、父親がどのように物事と向き合っている
か、どういうものに興味を持っているか、どういう生き方をしてきて、今しているか、そういうことが、本質
的に重要なことになります。またもちろん、どんな言葉をかけてくれたか、どんなことをしてくれたか、とい
うことも重要です。
(ただ、それは多くを必要とするものではないような気もします。)どちらかというと大事
なのは、父親がどういう世界をこれまで見てきて、今見ているか、ということであり、それこそが息子の生き
る世界を作ると言っても大げさではないだろうと思います。いわゆる、「背中」というやつです。息子は、父
の背中をいつも見ているし、背中の前に広がる世界を見ています。
もちろん、千人お父さんがいれば千個の父親像があってしかるべきなのでしょう。そもそも、僕はまだ父親
になったことのない身ですから、何か「父親像」について云々するなんて、そんなおこがましいことができる
はずもありません。ただ、勁草でいろいろなお父さんと接したり、様子を聞いていると、どうも息子に背中を
見られていることに気づいていない、とか、見るのは自由だがそこから何を受け取ろうがそれは子どもの勝手
であって自分の知ったことではない、とでも言わんばかりのお父さんに出会ったり、話に聞いたりすることが
あります。それはとても残念なことです。そんなお父さんの「背中」を見ていると、こちらまで元気がなくな
ってくるのですから、当の息子さんとしてはなおさらではないかと思ったりします。何度も言いますが、だか
らと言ってここで、お父さんはこうすべき、などと言うつもりはありません。ただ、一人の息子の立場として、
.................
息子は父の背中を、生き様を見ている、その事実だけは分かっていてもらいたいと思うのです。
かく言う自分もまた、
「父」の背中から多くのことを受け取って生きてきた「息子」の一人です。最近にな
ってあらためて思うことが多いのですが、自分が思ってきた以上に、また、おそらくは父親自身が自覚してい
る以上に、息子の僕は父親の影響を決定的に受けているようです。父親が今の父親でなかったら、とイメージ
するだけでも人生が変わってしまうような気分になりますし、実際、そうであれば、僕の人生は根本的に違っ
ていただろうと思われます。
特に、人生にとって重要な決断の場面などにおいては、善かれ悪しかれ、その重要性は決定的になると思わ
れます。実際僕の人生においてそうだったし、周りを見渡してもやはりそれは間違いなかろうと思います。具
体的にイメージしてもらうための実例として、僕と、僕の父親とのことについて書かせてもらいたいと思いま
す。(その②に続く)
勁草学舎スタッフ
浅井
啓行
「悩める」若者と「悩まない」若者
今、勁草卒業生たちが「若者エンカウンターグループ」を立ち上げ頑張っています。何回か参
観させてもらいましたが我々親たちのグループカウンセリングに比べ(?)圧倒的に発言が活発
です。
各回毎に順番にファシリテーターとなって、テーマ決めや参加者への連絡、当日の司会と、自
主的にそれぞれの自分の役割を一生懸命こなしています。気づきも早く即行動の変化となって表
れています。子供が素晴らしいのか、大人が情けないのかなんとも言えませんが、ひとつ感じる
のは子供たちは常に自分の事として悩んでいるという事です。
「なぜ勉強するのか」
「友とは」
「働
くとは」。どのテーマでも、自分とテーマとの関係性の中で考えようとしているので、他者との違
いも判るし自分への理解も早いのだろうと思います。
例えば我々大人は往々にして「学校へ行かない子供」をどうし
ようと悩み、
「暴言を吐き荒れる子供」をどうしようと悩みます。
これを学校へ行かない子供に「勉強する本当の意味を伝えられな
い自分」に悩み、暴言を吐き荒れる子供の「本当の気持ちを理解
できない自分」に悩めば、子供の問題は自分自身の問題へとなっ
ていくと思うのですが。
もうひとつ感じるのは、勁草卒業生たちは「悩めている」とい
う事です。変な表現ですが、「悩む」事は、人間である証しであ
り、成長できる証しでもあると思うのです。「自分は大丈夫なの
だろうか?」と悩まない限り、「何とかしなければ」と考えたり
行動する事はないので成長のしようがないはずです。
私はつい最近まで 3 年ほど某化粧品工場で働いていました。かなり大きな工場で、下は 17 歳か
ら上は 65 歳まで 600 人近く(ほとんど女性)がパートタイマーとして働いていました。作業はベル
トコンベアーの前に座って、ひたすら蓋を閉める、箱を組み立てる、詰める、検品する等々です。
チャップリンの「モダンタイムズ」を想像してみてください。向き不向きはありますが 30 分も続
ければ誰にでも出来る仕事です。パートとはいえ朝 8:30 から夕方 5:00 まできちんと働いてい
るのですから、此処に勤めている若者は世間的に見れば何の問題もなさそうに見えます。ところ
が、「???」な人が沢山いました。
3 年近く働いているのにほとんど声を聞いたことのない 22 歳の人、あたりかまわずしゃべり続
けてひんしゅくを買っているのに一向に気づかない 25 歳の人、日本語の通じない(?)多くの若
者。一番目の人は他者と全くコミュニケーションをとろうとしません。仕事は同じことの繰り返
しなので問題はありませんが、指示されたこと以外は全く動かず、ミスして怒られても返事もせ
ず、何を考えているのか全然分りません。本人に自覚があるのか不明ですが、ふてぶてしく見え
てしまいます。いくら注意しても暖簾に腕押しなので、周りが諦めてしまい誰も関わらなくなり
ました。二番目の人は逆に誰彼かまわず一方的にしゃべりかけます。初めは人懐っこい人と思っ
ても、あまりに自分勝手な言動と話の内容が稚拙でとても 25 歳には見えません。この人も 3 年以
上勤めていて仕事に慣れているので一時はラインリーダー(一つの作業グループの責任者)にな
りました。責任のある役割を与えれば自覚が出るのではというベテランリーダーの配慮だったよ
うですが、実際には勝手に仕事の手順を変えたり、私語が多すぎる、人員配置を自分の仲の良い
人で固めるなど逸脱行為が多くなり、すぐに戻されました。
どちらも 20 代の女性、いずれ母親になるであろう若者で
す。しかし 3 年間二人の行動は全く変わりませんでした。
3 年間成長していない、「悩んでいない」わけです。
最後に、日本語が通じない(?)と感じるたくさんの若
者。例えば『今日は「蓋閉め」が 3 人なので「三個とび」
でお願いします』と指示されたら、初めての人でもベルト
コンベアーに製品が流れている状況を見て、「自分と同じ
作業をする人が三人いるので三個に一個が自分の分」と理
解できると思うのに、悠然と自分のペースで作業をして次
の工程の人が大変な思いをする、という事が度々ありました。慣れてなくて間に合わないなら焦
ったりして様子でわかります。そうではなく指示を聞いているだけ、指示の意味するところが解
っていない、つまり想像力の欠如という感じです。その証拠にこういう人は事細かに説明しても、
その時は「はい」と返事をするのに行動は一向に変わらないのです。これは「悩む」事すらでき
ないという感じです。(もっともこういう人は若者だけでなくその親世代にあたる 50 代のシルバ
ー派遣の人にも多くいました。何かつながりを感じます。
)
でも中には「鍼灸師の資格を取りたくて専門学校の費用を貯める為に働いている」と目的意識
のはっきりした人もいました。17 歳でも周りの人を見てどんどん仕事を覚える人もいました。で
はこの違いはどこから来るのだろう?
親御さんは我が子をどう感じているのだろう?
成人式
を終えたら「自己責任」といえばそれまでですが、子育てはすぐに結果の出るものではないだけ
に、それまでの親の役割の大きさを痛感する経験でした。
つくづく学校に行っていようと不登校であろうと、社会に出ていようといまいと、精神的成長
が出来るように「悩む」事がなければ、本当に生きていることにはならないのだなぁと思います。
そう考えたら我が子の事も、目に見える行動で一喜一憂することが無意味なことに思えません
か?
「ピンチはチャンス」肝心なのはこれからです。5
年後 10 年後の我が子を信じましょう。
若者エンカウンターにでるたびに「ここには真剣に悩む
事のできる若者がいるんだぞ~」と声を大にして叫びたく
なる私なのでした。
計画学習サポーター
T.M さん
交流のページ
●カウンセラーについて
カウンセラーとは何なのだろうか?
そんなことを今まで考えてきた。最初に考え始めた時、
真っ先に浮かんできたイメージとして、人の心を治す、救うなど、立派な人物と捉えていたのだ
が、何か違うという違和感も感じていた。そして今、漠然としたものだが、
「自分の根底に揺れな
いものがありながら、一人の人間として、人と対峙できる人物」ではないか、と思うようになっ
てきた。
人は日々、劣等感と向かい合い、闘っている。しかし過度な劣等感は、それだけでは立ち行か
なくなり、自己を否定的に見るばかりでなく、他者への否定へともつながり、また他者に対して
の傲慢さを伴った優越感を生むことになる。
考えてみれば、自己の肯定感が足りない(もしくはない)のならば、自分と含めた物を、相対
的な見方(周囲対自己)でしか捉えられなくなるというのは、仕方のないことだ。自らの中にあ
る基準に対する自信がないか、あるいは、その自信そのものすらないのだから。それがやがて行
き着く果ては、「他者の中の自己」「自己の中の他者」を過剰なまでに意識した堂々巡りであるだ
ろう。そこにあるのは、空っぽで、空虚な自己だけである。
だが、カウンセラーはそうではないのだ。カウンセラーになる人物には、先述した『相対的』
と比べるならば、全く反対の『絶対的』とも言える自己が必要なのだ。誤解しないでほしいのは、
この『絶対的』という言葉は、
「唯一」
「何の拘束も受けない」
「誰も受け入れない」という意味を
持つものではない。自己の中の感覚によって積み上げられてきた実感に対して、
(自らが)信じき
れる、という『絶対性』である。これは、
「他者がどうこう」ということは関係のないあくまで自
分の実感への信頼であり、それはまた自信と、自己肯定感を与えるものだ。この『絶対な自己』
は、ともすれば、
『傲慢、唯我独尊』とも間違われそうだが、内実はまったく異なる。なぜなら前
者は、自らの実感によって、物事を取捨選択してきた自己であるから、自己と他者がしっかり分
離されている分、理解できるものがあるのなら、素直に受け入れることができる。即ち、余計な
概念である「べき思考」も入ることなく、思考の部分においての相互間の了解さえでき、自分の
経験を元にした「共感」が、
「唯一絶対」にもならない。が、後者は、自らが、経験したもののみ
しか受け容れられないか(共感できないか)、それさえも受け容れることができないはずである。
この自己に対しての肯定感(絶対的自己)こそカウンセラーにとって重要な要素なのではない
だろうか?
もし、それを持たない先ほどの(「他者の自己」
「自己の中の他者」の中でという堂々
巡りとはいかずとも、相対的な中で生活している)カウンセラーが居たとしたら、その人は、ク
ライアントを、必要以上に「変えたい」
「助けたい」そう思うだろう。確かに、聞こえはいいかも
しれないが、これは受容でも共感でもないカウンセラー自身の、自己肯定感、自己充足感を補う
ための行動ではないだろうか?
そうだとするなら、これは単に、クライアントを自分のために
利用しているにすぎない。まさに、カウンセラーにとって、
「他者の中の自己」のためのカウンセ
リングに終始するだろう。
本当に自分に充足感を持ったカウンセラーならば、
「助けたい」
「救いたい」ではなく、
「何か力
になりたい(協力したい)」、そう思うのではないだろうか?
もっと言うなら、その前提として
あるものは、自らが出来ることは、クライアントを変えることではなく、変わることを信じるこ
とのみという自覚なのであろう。それは諦念にも似た自覚(他者と自己との分離に対する自覚)
であるといえるかもしれない。主導権をクライアントから奪わず(クライアントを利用せず)、相
手を純粋に相手(他者)として向き合うのだ。同じ人間として、同じ位置の人間として。
この視線との向き合い方は、クライアント側にとってどれほど心強いものだろう。心が暖かく
なり、自分のバックボーンが厚くなるような、そんな感覚すら覚えるのではないだろうか?
だ
が、おそらく、カウンセラーは、時として孤独であろう。クライアントの足場(人として拠って
立つ場所)を作るための、人間としての共有感や、根本の信頼関係の構築だけでなく、最終的な
自立のために必要である、自己理解を前提とした先を見通すという作業があるのだ。未来におけ
る相手のために、相手が見られない(見ようとしない)部分を提示し、修正し、自己理解を進め
ることは、相手とすれば、相当の苦痛を感じるはずである。ある時は敵意さえ向けられ、コミュ
ニケーションが成り立たなくなることさえあるかもしれない。
しかし、それらのアプローチが届かずとも、届くと信じてカウンセラーは、クライアントと向
き合い続けていく。その孤独な背中を支えていくものは、やはり積み上げてきた自己肯定感では
ないのだろうか?
では、我々は、どうしたらそのカウンセラーとしてだけではなく、一人間としても必須と思え
る自己に対する肯定感(絶対的自己)を得ることができるのであろう。個人的には、物事を経験
し、吸収することでしか得られないと考える。本を読むという経験、人と接するという経験、必
死でもがくほど自分と対峙し悩む経験など、真剣に取り組む中で、自己の感覚の中でよく咀嚼さ
れて出来上がった実感が、自己肯定、自信、ひいては自己充足感として吸収され、少しずつこれ
から自分の判断基準ともなりえる『確実な自己』
(まだ絶対的自己とまではいかないが)につなが
っていくのではないだろうか。
私にとってカウンセラーとは、このような自己に肯定感を持ちつつ、自己を見つめ、人を人間
として(他者として)捉えることのできる人間である。そして
これは、私がこれから目指したい人間像であるとも言える。私
のことを言わせてもらえば、今まで思春期からの私の状況は、
将来どういう生き方(仕事)で生きていくのだろうか?
とい
う悩みの中で、前方にあるのは、真っ暗な、暗闇が立ち込めて
いるばかりであった。しかし、その目指す像が(カウンセラー
になるかどうかは別として)、かすかに見えてきたことで、足元
さえ見えなかった遠い道の遥か先に、白くて、暖かい光が見え
てきた気がするのだ。
(ここに書いたカウンセラー像は、あくまで私見です)
勁草学舎卒業生
H・A
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●気付いたらいつの間にかもう年末となり、引越し、夏期講習、合宿と、慌しかった一年も締め括りの一月になりました。いよ
いよ寒さも本番、宇都宮スクールの教室から見える落葉樹の葉の色が週毎に変わっていくことや、那須の山並みをくっきり際
立たせて広がる澄んだ空と秋らしい雲を目にして、冬の到来をしみじみと感じさせられる今日このごろです。12 月はますま
す慌しいひと月になります。特に受験生は、ここからは体調との戦いです。なにしろからだを大事に、ストレスもためすぎな
いよう心掛けて、計画的に日々を過ごせるようにしましょう!
(編集部)
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