企業価値向上と人的資本(日刊工業新聞2007/7/23、7/30、8/6掲載)

企業価値向上と人的資本
第1部:人件費上昇リスクに備えるために
1-1.採用難が初任給を上昇させる
昨日、某テレビ局から、新卒採用市場がバブル期と類似してきているのではないか、という質問を受
けた。それに対する回答は、バブル期とは根本的に企業側の対応が異なっているが、売り手市場になり
つつあるという意味での類似性はある、としたが、その根本部分について質問されなかったことが残念で
はあった。
採用難の原因についてはニートやフリーターの増加があげられることが多いが、若年初任人口の減
少が原因の最たるものである。その減少スピードは 1999 年時点を底にして(対前年マイナス 4.0%)、
2006 年にマイナス 1.7%にまで改善するが、2009 年に再びマイナス 2.8%にまで落ち込むことになる。
18歳~24歳の人口変遷
14,000,000
0.06
0.05
13,000,000
0.04
0.03
12,000,000
0.02
0.01
11,000,000
0
10,000,000
-0.01
9,000,000
-0.02
-0.03
-0.04
-0.05
19
89
年
19
91
年
19
93
年
19
95
年
19
97
年
19
99
年
20
01
年
20
03
年
20
05
年
20
07
年
20
09
年
20
11
年
20
13
年
20
15
年
20
17
年
20
19
年
20
21
年
20
23
年
8,000,000
18歳~24歳人口
このような人口減少の結果として、人件費の上
昇が生じる可能性がある。若年労働者の代わり
に結婚等によりリタイアした女性や定年退職後の
シニアを活用するべきという意見もあるが、代替
が効かない職種も数多くある。
結果として、需要に対して供給量が減少するこ
とで、その価格=初任給が上昇することは今後
対前年増減率
の必然となるだろう。実際に、初任給増減率は
総務省統計局 2005 年国勢調査より作成
2004 年度を底に、2006 年度には増加に転じてい
初任給増減率
る。復調しつつある経済動向がその傾向を後押
2.5%
しする可能性も高い。
2.0%
1.5%
1.0%
0.5%
0.0%
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
-0.5%
-1.0%
-1.5%
男子平均
女子平均
厚生労働省 2006 年賃金構造基本統計調査結果(初任給)の概況より作成
-1© Selection and Variation
1-2.人件費が企業価値にとっての大きなリスクになる
では初任給の上昇は企業価値にどのような影響を与えるだろう。初任給の上昇率が社内の既存
人事制度における年次昇給率(賃金改善だけでなく評価結果に基づく給与改定を含む)に近づく
場合、社内全体の賃金テーブルの見直しが必要となる。実際 1991 年の初任給上昇率は大卒男子
で 5.6%であったことから、2 年目社員との逆転が生じた会社も見受けられた。
重要なポイントは、初任給はあくまでも月払い給与であり、賞与による調整が難しい点である。
そのため、2006 年度の初任給平均上昇率 1.7%(男子女子平均)をもしそのまま賃金テーブル
に反映した場合、人件費が純粋に 1.7%増額する。ただし多くの場合、初任給上昇による賃金テー
ブル見直しは若年層を対象とした部分にとどまるので、増額率は 1%未満となるだろう。また毎年で
はなく数年間の動向を見ながら修正することも多い。この程度の水準であれば収益率に対する影
響も小さく、企業価値を毀損するにはいたらないと思われる。
より重要な問題は、初任給上昇傾向が継続する場合である。この場合、わずかな人件費増加で
あったとしても、長期にわたる企業価値は大きく毀損する。詳細な計算は会社によって異なるが、
仮に売上げに占める人件費率が 25%とするならば、人件費増加率の企業価値への影響はおよそ
4 倍~5 倍になる。上場企業の場合、0.6%の人件費上昇によって、株価が約 3%低下する可能性
が生じるということである。
1-3.代表的なリスク回避策と注意点
もちろん企業価値に影響する指標は人件費以外にも数多く存在するため、単純に人件費が上昇
したといってただちに株価が低下するわけではないだろう。しかし、ともすれば短期的な利益額へ
の影響が取りざたされることの多い人件費について、
で対策を検討するこ
との意義を理解していただきたい。
今では一般化した成果主義人事制度は、高業績者の就業維持と惹きつけ効果があるとともに、
低業績者について相応の報酬にできるため、会社にとっての人件費リスクを低下させる。
従業員にとっては生活リスクが高まるが、合意が形成されていれば、改善努力を引き出すことが
できる。
しかし一方で成果主義人事制度活用時に注意すべき点が明らかになりつつある。
そこでの代表的な問題は、『チームワークの崩壊』と『ノウハウの属人化』である。
個人の業績を処遇に連動させる割合を高めることは、結果として社内での協力関係を阻害する
という研究結果もある。また、業績をあげた個人がそのノウハウを抱え込み、社内に広めない弊害も
多く出てきている。これを解消するために、組織としての業績に連動した報酬部分を拡大するとか、
あるいはノウハウ共有に対する評価を行うなどの制度変更が実施されている。
このような制度変更に比べて、評価に連動しない処遇部分を拡大する(たとえば年功処遇割合
を高めるなど)ことは、従業員のモチベーション向上につながらないだけでなく、中長期の人件費リ
スクを高める結果となるため、大きな危険を伴いお勧めできない。
-2© Selection and Variation
また、従業員自身の生活リスク不安が高い場合も成果主義がうまく機能しない。その場合の対応
としては、生活リスクにおけるイベントごとに会社としての支援策を設けることが有効である。たとえ
ば従業員傷病に対する収入保証であるとか、介護負担に対する補助などである。これらの制度に
ついては処遇に対するオプションとして計算できるため、実際の支出以上のモチベーション効果を
従業員に対して発揮することができる。
人件費リスク
従業員生活リスク
デメリット
年功主義
上昇
低下
優秀者採用難
成果主義
低下
上昇
チームワーク阻害
ノウハウ共有阻害
生活イベントへの
会社支援
評価基準改定
年功主義へ逆戻りすることは人件費リ
スクを高めるだけでなく、優秀者採用
を難しくする危険を伴う。
第 1 回 以上
-3© Selection and Variation
第2部:人的資本の含み益で考える
度
2-1.若年初任人口の増減と景気の波との奇妙な一致
就9摘性
岩戸
オリンピック
いざなぎ
景気
11,500,000
10,500,000
就9摘態
バブル
景気
9,500,000
8,500,000
7,500,000
6,500,000
5,500,000
1950
1955
1960
1965
1970
1975
1980
1985
1990
1995
2000
2005
2010
2015
2020
厚生労働省 2006 年賃金構造基本統計調査結果(初任給)の概況より作成
2-2.人的資本の定義と含み益の源泉
性000
-4© Selection and Variation
度000
就
就000
性果
性
就000
×
果
就9指果
2-3.転職市場の拡大が含み益創出を難しくしている
就9果果
果9
-5© Selection and Variation
就
社外
社内
生涯年収増
見込み
昇給見込み
賞与見込み
活躍機会増加
見込み
昇進見込み
従業員
成果主義の浸透と転職市場の拡大により、従業員は社外
転職と社内に滞留する場合とを『個人にとっての人的資
本』の視点で比較することが可能になった。
就
-6© Selection and Variation
第3部:人的資本の含み益を創出する改革
第1回、第2回を通じて、若年人口増減が人的資本として企業価値に与える影響を考察してきた。
終身雇用と年功序列を前提とした『人的資本の含み益』が好景気を作る一因であったと筆者は指
摘した。一方で2020年以降まで続く日本国内の若年人口減少、成果主義人事制度と転職市場の
拡大などが、『人的資本の含み益』を生み出せない状況を作る可能性があるとし、そのような環境
変化を踏まえた上で企業が成長するための方法を提示する。それが『人的資本の含み益』を創出
する経営である。
3-1.時価評価に耐えるにはマネジメント力が必須
3-1.時価評価に耐えるにはマネジメント力が必須
人的資本の含み益とは、従業員が就業期間を通じて生み出してくれるプラスの貢献額のことであ
る。『含み』であるからキャッシュが手元に生まれてくるわけではない。しかしバブル前の土地の含
み経営のように、人的資本の含みも企業価値に大きく貢献してくれる。
一方で成果主義の浸透や転職市場の拡大などは、人的資本が時価評価されている状態と言い
換えることができる。
この二つの経営の最も重要な違いは、時価評価経営は含み益経営に比べて、高いレベルのマ
ネジメント力が求められるということである。時価評価の最大のメリットは透明性であり、多くの利害
関係者に説明責任を果たすことができるようになる。ただしその労力は並大抵ではない。
図1
企業価値への影響
好況期
人材の含み益が 含み益が自然に再
投資され、成長しや
ある状態
すくなる
人材を時価評価
する状態
不況期
含みを調整しながら
企業価値を維持し
てゆける
好況・不況を問わず、マネジメント力
によって企業価値が決定する
成長の原動力
ビジネスモデル
マネジメント力
もしマネジメント力に自信がないなら、含み益経営を目指す必要があるだろう。そのための方法は
方法であり、
大別すると2つある。
である。
-7© Selection and Variation
3-2.採用力を高めると擬似的にバブル前に戻ることができる
他社がどうであろうと、自社に限定して優秀な志望者が数多くいれば、若年初任人口の減少は
影響しない。そのような状態を作り上げるために『採用力の強化』が有効に機能する。
就職人気ランキングを見れば自社の位置づけが確認できる。そして就職人気ランキングが高け
れば、時価評価的な成果主義を導入せずに、後払い型の賃金設計が可能になる。結果として若
年層の含み益が生み出されるわけである。
ただしこのような企業になるには、採用のホームページを改善したり、面接官のスキルを向上さ
せても一時的な改善にしかならない。特に近年の就職人気ランキングでは、自分達の生活に関わ
る企業の割合が増している。化粧品、自動車、旅行、家電、飲料などなど。貴方の会社がこういうカ
テゴリー別で3本の指に入る企業なら問題はない。しかしそうでないとすれば、取り扱い商品に頼ら
ない対策が必要である。
就職人気ランキングを分析してみれば、短期的な充足感を初任就労者が求めているという仮説
を立てることができる。例えば『私はこの商品に関わっている』と直ちに確認できる状態を求めてい
るということである。
企業の採用力を改善するには、この『直ちに確認』という志向を重視する。初任就労者に対する
メッセージは、せいぜいその数年先輩から発信されることが多い。そこで、
わけ
である。何も生活に密着する商品を扱っていないからといって悲観する必要はない。『あの会社は
若手に面白い仕事を任せてくれる』といううわさが立てばいいわけだ。その情報元はもちろん、その
仕事に実際に携わった入社数年目の人材本人達でなくてはいけない。
3-3.人材ポートフォリオで総合職から卒業
より本質的に人的資本の含み益を創出するには、人材ポートフォリオの設定が必要になる。これ
は一言で言えば、総合職一括採用・処遇からの脱却である。
企業側から見た人的資本という観点で重要なことは、企業にその従業員が在籍している期間の
み貢献額と支払額が計算されるということである。故に、人的資本の観点から構築する人材ポート
フォリオは、採用(Recruit)から始まり退職(Replace)で終わる期間設定を必要とする。その上で、そ
れぞれの人材が設定期間中に退職しないように惹きとめる(Retain)施策が必要になる。
これを3つのRとして筆者は定義している。Recruit、Retain、Replace の頭文字である。
-8© Selection and Variation
製造業のバリューチェーンをもとに
人的資本ポートフォリオを設定した例(概要)
図2
商品
設計
製造
流通
販売
アフター
サービス
採用
Recruit
博士課程卒
or他社からの
引き抜き
高校~大学
新卒
高校~大学
新卒
大学新卒or
中途採用
中途採用
惹きとめ
Retain
市場価格に見
合った高報酬と
特許報酬
年功型報酬
と福利厚生
年功型報酬
と福利厚生
業績連動型
報酬
年功型報酬
と福利厚生
退職
Replace
成果に基づく
入れ替えあり
定年まで雇用
定年まで雇用
早期希望退
職制度
有期雇用更
新型
図3
付加価値大
付加価値小
含み益を
最大化する
人事マネジメント
時価に基づく
人事マネジメント
(報酬水準高)
販売
商品
設計
時価に基づく
人事マネジメント
(報酬水準低)
含み損を
発生させない
人事マネジメント
アフター
サービス
製造
流通
大
図2は図3のようなポートフォリオ定義を元に3つのRについて人事マネジメント方針を設定した例で
ある。付加価値を生み出す商品設計と販売のそれぞれについて希少性を鑑み、販売職について
含み益最大化を志向している。
これはあくまでも一例でありすべての製造業にこのポートフォリオを適用できるわけではない。し
かし若年人口減少と転職市場の拡大という二つの環境変化を乗り越えるためには、総合職として
採用し、同じ雇用条件で各職務に配置するだけでは対応しきれない。そのために、
ことが有効である。
4.総括 人事も企業価値から検討する
以上3回にわたる記述を踏まえ最終的に筆者が提示する結論は、企業が今までのマネジメント
を踏襲していたのでは少なくとも2020年まで日本に好景気の波が来ない可能性がある、という分
析である。
移民を受け入れない限り、若年人口は絶対に増えることがない。来年出生率が改善したころで、
-9© Selection and Variation
彼らが就労できるのは2026年以降である。
だからこそ、企業側はなんらかの形で付加価値を生み出す方法を変更しなければいけない。そ
して付加価値が高まった結果は企業価値として測定できるので、マネジメント方針も企業価値向上
の視点で検討しなくてはいけない。
しかし残念ながら、重要な経営資源である人と企業価値とをつなぐ考え方は未だそれほど多くは
ない。その数少ない考え方のひとつとして、本稿をこれからの企業価値向上に役立てていただけ
れば幸いである。
第3回 以上
- 10 © Selection and Variation