宗 菩提心に つ 教 日H い て 衆生の遼源性に就いて・ レト 朝鮮巫俗の現地研究序詮 封象と方湊T∼ ・−す 明治初期の太政官諜者 −−−所謂禁教高札紳−産前夜の一考察 羽黒山の霞場と檀那場について 修身訓育作業としての宗教々育 宗敢闘係主琴文献目録 目 − 逗第 第年 年五 十第  ̄百 ノ\−一一一一 l一 続韓 西 伊 藤 義 男⋮︵完︶ 雄⋮︵一︶ 雄⋮︵一三︶ 章:・︵九五︶ 山⋮へ莞︶ 隆︰・︵買︶ 和 田 安 稟 村 川 一 歌 戸 本 梅 藤 菩提心 に就て ︵こ 一研究賓糧と叙述の方針 ︵≡呈︷2妻弓lご一y已室−与っ︵≡︶ 即ち無上iE等覚の反 菩損心に就ては、夙に阿含経に其内容的記連立見出し得ると息ふが、然し是が菩提心と銘打って、眞に重要視 せられるに至つたのは、繹脅威道時の阿縛多羅二義二重摸 省・信解・砧得の重要さを痛切に想到した諸法の発覚思想家達の、彿陀の悌教に立ち還れとの連動に初まると恩 ふ。彼等は、上座部系統が停続を形式化して生彩を快ける上に、悌教法義の研究も法の術語化と定義附けに専念 し、終に煩鎮にして抽鹿化されたる所謂阿見達層論議に終始し、剰へ律や法議C解繹や翫鮎の相違に拘泥して他 を顧みず、苦しめる衆生に救の手を垂れる主恩少、多く部薫宗派に分れ.和合0輩たる檜伽白憺の意義と使命と を賢際上破るに至れる結果、生ける併教精神が日々に共はれ来った彿教界0首相に不満を感じ、斯る宗派的数台 を離れて繹尊の本旨に還らんとの数台聾正澤動之起すに至ったと考へられ.るゥ此れ般若経系の諸経典が表面的に 菩提心に裁て 重要視され数倍化されるに至った所以であり大罪遅効の起った所以でもある。徒て大栗道凱の由心目標が悌陀の エアウ 菩提心一い拙〓﹂ ニ 請仰L軒先に㍉少、僻陀︹研究が、特にL﹂・与つべ苧へ即ち⋮曇準三■C百、苦学〆房陀如来兜らLめた無上正等菩 撲とに注が、ウニ.二重つ︷÷一とは、亦富貴∵予らナ。苔東京蒸には勿論、可たむ古くよ巨行はれた印度固有?業論 と結付いて物語られ爽った多く︵り併陀C本生霹が、草附転∫Lて考へら九乗て乃る口も不思議とするに足ゎない。 然も人が指釆穐陀たろべき撃墜﹂﹂折されろには営擁立転に一定C痙切りが必琴ご・山る。即ち人が菩薩餌ち党有情 と稲せられる党しこ・心付、か﹂二言ゝごこ﹂か問打ニヒ怯む、かくて聖に畳ほ僻L′后る ことを念屑卜理想とすること、人が ︵・〇つぐ 悌と成るといふに冒党やご三郎ち人∴イ嘘たらL吾たそり長上C法たろ熊上悪守撃叉成就せんとする念寧で琴丁 や∵∵鳥併土、善書珪石心至鼓した襲撃こ、此‖イ東成Lて悌とをつ舞e菩薩の和行等 七言、\㌦此聖書撞心が璽妥上せられいご去らたものL勇へてよ∴ごナウ﹁一む﹂入渠遺朗和明に蒙れた般若詩経輿に専 ら告阿指多二元二歪揖心土 0′r、. 心が、更こ写扁、筈投心±して竹一望葦J苦衷︰で一附せら計るに至つた河山示岳炭前に明にLよ とが中心に語ら点てうl∴リロ守∴ 比が焉l∵.ヤハ︶。 但し争、こC 少ノ\﹂丁工祀二Lては、揖宝窪土、㍉・函充填荘・蕪⊥伝痙・不 う±思へば、寵横艮告ご圭一?て±童へ∴∴十﹁長末横丁︹辟∵﹂エ巾心ヤー性感恥性詣恩ギ、互ど・こ︵り琴パJ上こ、系統的 に細密こ御宝しな︰了汁曇.†ら一三二三付こ此か牽こ﹂﹁ 増不減産・睾短痩起品孝三∵丁∴−訂土−÷﹂・‡重三一㍉?捷詣・備埠訂二、一㌍正憲豊里章二−、エ︺憲して究明トニけ江 ﹁菩提心﹂.詑を明、かにして見たいと恩ふ。然し更にかく ばたら㌧。洪L持寄は他に此+孟−サろ+∵ −∴今三雲闇﹁苧準一三迂﹁菩持心﹂土軽打って論述丁る請定論つみ之 Cノモて、に 中 心に、菩提心︰てのもの性格見井上基祖域の 菩提又は芸鴇心之紬打って†り結締著作も亦決Lて少LとLない。私が一應眼立通しに文/ざも初期般若系統q詰痙 I写っ ︵大前二吾、同繹経論︵大空〓ハ︶、︵四︶ 菩提資糧論 論つ外二︶入法界品、︵二︶文舞師利菩薩問筈鴇捷︵一名菩提寒行遠大jE一閃所収︶と此が繹萎たる文殊師利菩 薩間筈韓璧椚︵大空一ぺ所収︶−三︶椙思惟梵天所閉経 ︵十三︶菩揖心論︵大正ニ≡︶−︵十叩︶葉書撞心 ︵九︶菩碍行経美空二二、琴不もナ︺且、︵十︶大乗巽要蒸論︵大草二二︶、︵十t︶ ︵大空二二ヽ ︵一軍︶墾害繰言準軍﹂八重二二し、︵こ大熊法界韓差別詣︵大正二二︶、︵七︶菩措心閉繹︵大空二二︶、 ︵八︶菩損心出潮論こ八重二二﹁ さ讐莞這笥議︵大空二二﹁へ十二︶唐澤書椙心論こ人望二二﹁ 略譜堤蓮︵大正一七︶、︵十五︶′ギ対頂玲閥巾室阿毒多羅三筑二吾鴇心■婆′大草二二\︵十エこ菩鴇心義︵大jE四六︶ ウ如きがもゎ︵以上畏軸盲順.位は本思想○語犀謹撃三嘩不すもつと考へる。但し密教的着色の濃厚のものは略 000000 共他案繹、未詳等は数多く肯する。此等?甲、菩鴇及び菩確心の要撃灯廟明に比較的護って叙 すろ事にLた︶っ 述して乃ると息はれろものは、第二の文殊締利害蔭間菩演繹と北へ㌍弼.第六の大乗法界無差別論、第七の菩提心 潤経と第八の菩韓心訣相論、舅十六つ菩桔心義等でぁらうかと恩ふっ然し私は此等の詣作の二の論述を紹介す るの甲l誓言人他三強って、今は、初甥大栗経典C代表としての大品窟著窪と其鐸論たる大智定論に於ける菩鴇心 旦闇する開運、空中心に見つ㌔他︹蒜諾洞と、特に金剛般若痙︵金剛経はよく流布されてゐるが故に之をも顧みて 菩揖の程苔と無上菩提 菩持心⊥墓相らんと†るには、尭づ菩托が研究されねばたら−ない。三し此菩鴇に就ては、大品般若窪︵智皮五三、 二 置きたい︶モも随時に接用Lて利巧害強心C青学宣明にしたいと息ふので季つっ 000JO 芋詩心に萄て 王SI 芋提心∵璧、 凹 大正二五、四三七貢︶に去㌍韓一L車、∴里誓る。m樟には之・三重に㍍ト一義とトては﹁一着柔順忍l二 者無生忍、竺二軍警誓﹂′こ言ってチふ、王L巾、三㌍喜托七は・㌍肩・黒丸・備C=恵拒ご昔l前望詣葱と 二リl∵∵㌔堕し撃っに攫竺二無害損に即しては、小 燕生忍わ二十点、聖露に学芸出仕中に壬、‡■C∴一㌧‡∵即■っ誓琶︵凄詞寝︶が般岩波羅蜜モ行ヰ去時に椀 −ずべき一頭送還梵ヰ二親に朴て、此二惹位吏薫差してラハ∴′・ ︵”詣巻九﹂1大空一七−門九﹂責中︶主昆、 軌送呈号精細に明トた大毘葵持論にも此‡ホ呈三索両八l大正二十−二五一買上\苦学三毒Lて﹁貴官・燕 生恕モ託きて菩誓長く、巳に究売Lて四窯学長丁宗故に﹂ 更に進ん一・﹂輯聖火・餌党燕C二諌言路に比Lて俳書帯り侵秀抜ね†性孟付空し、鴇宙と昭党と?菩提は下智と中 患とを以て絞性を開察した結果、持するもqてたり、柿告把は上智之以て此た釣菜した結果持するもeごlごど ︵巻五五、大正三雪二八=華甲︶とし、詰郁Cノみが苧孟等琴亡空r﹂、ナ\嵩めてウニ婆望芸呵大空一 七、二七九軍上、竜一.八二、大華一七、九一三頁下等︶。 大官望㌍∵ごし・Å碍虜に於てこC二二葉藷誓長房L試いて屠り∵紀して義Hわ望霞清洋舞望言が故に名 ︵=澗党 けて菩托L亮ご看農窟空﹁大空京、望≡月中︶与㌻呈ろてはうるが、然し一賠に般蓋ヰ恕療語草虚に 車間票差俳蔓 す。唯伸一人C盛挙りみ阿撃竃竺塑二菩指﹂∴琴\主音∴〓智夏、﹂人些一五.・一三工員山︶L喜って居ちじ投に の無聾者は無明字空皿Lて始り無しと難も﹁一切智もて諸法を正通知せぎるが故に阿汚多羅二重二害摸とは名け 道︶墓口準毒と空論工隅して・宇軍兵烹ノ﹂春雲竃−大正二王、八圭貢ヰ︶三こ。葦理由は、些衰退 嘗誓二言ふ晴美撃恕菩指ヤ書芸誓﹂綿羊アLて∵排撃拍○子羊琶準主ざ∴・訓ち 1Sご 於て成僻モ唯一目橿とする大乗備衷王は、阿置多琴二琴二菩投身一の丸菩提として取扱ふべきであわ、取扱はれ発 つたことが砥知される。 二、得る方位 種少三生 三、倍行期間 師に由る 四、得講方法 舵 身 唯、煩悩障解脱身 五、解除の果 因みに筏世、葦招宴艶話︵巻七、大正三七、五一六革甲︶にこ夷菩撞を五条により罷則する。此を表示すれぼ、 六起草巧方位 鵜鮎利 ﹁.依止の租 葦聞菩提 多分行甚澤持恵方使買掛 自利利他無師礪璧 身障 所 如 障 解 牽照 凋監事疫 未明牢番巧方佗 三大阿倍企椰 耶菩提 等と言ふのである。 及療 菩提心に華て 四に出到菩鴇と名く。般若波羅蜜申に於て方便カモ得るが故に、亦般若波羅蜜にも著せす、一切の煩悩を滅し わ、所謂る般若波羅蛮の梢なりっ 三に明菩確と名く。三世の詩学で疲じて本と末、舘柁と利用を分別し無量して諸法貰梢を得て畢寛清掃なるた 二に快心菩提と名く。諾の煩悩と闘じ英︵煩悩︶心そ降伏して詣の波羅寧/=一行する・ノ﹂いふ・なり。 此は因︵喪心︶中に具︵菩提︶、古記くたむ。 ﹁一に喪心菩韓と名く。察量の生死申に米て喪心して阿置多羅二義二重提の薦にす。故に名けて菩提と零す、 も五程の菩摸の別売建立してラQ。有壁軍雪雲〓大正二五、四三八真上︶に、援五琶菩提有少として さて前の二重轟は三粟乾性に嘩で匂男の別に相應する三冠菩提であー蔦が、これと具ゎて同一の菩薩燕内に於 法瞞 五 ISミ 竿接心∴満て 六 て一切十方︹詫野呂ル、無生法忍モ得て三豊烹⋮ご誓芸︵⋮±j㌢㌢一切習性︶に到るものな少。 吾﹂燕上菩粍L.一名/\。増巧に坐Lて横幅﹂/暫し′妄信じ岡持素話薫塑二害掩壱得い?迂か﹂ し呈一三へ㌧㌻ノ⊥⋮つて、こサ心、鞘詩縄口円柱土薫位に宰完け行瞳得上︹壷なる要項、モ真整葦に分別したも?し﹂考へる ことがⅢ苑よう。・即ち此は害持C二門寄主悠心善臣位±偽書鹿し﹂分つて五類別したものに外ならない。尚更に降っ て、法華玄論巻下に、書経む法報避む三キに配分して﹁伽耶成道の、を臆彿菩提といひ、十他の行渦じて常浬繋の 撃㌧得たろモ撰印譜圧とhq加奈撃..∵ハノ性浮崇宗一法椀筈撞と名く﹂と言ふが如亨b空エノ?し、更に此を整理 並に害措心と祁 して、大燕義章毎十八、顛上等柁表わ如きに諒ては.方位菩提﹂′癌薄菩拍とC二菩緯あゎとすろに至つてゐるも 言議︵筈鴇滝掩︶ つもあるのは、周知の通りで,為ろ。 三 萄くも外道たらーず、甲こる凡夫でち・貴く、﹂八預備撃で信じ往生成悌主芯十/も0、自ら大燕侍待と碑する程の者 ︵筈ぷ︶阿毎多準二讃二重鴇の寄に是人は大心モ聾す。是を以ての ●● は何人たりとも、萱億としての白党がなけ九ばならーず、此自覚がある限り何人たりとも菩薩と稗すべきであらう。 大品般若窪にも、﹁何等字霊苫琵と稲するやっ の略稀一丁ぁるが、菩掟薩塵にに就ては同魔の頒 故に名けて害持と焉す、亦一切○法、一切程の澗た知るも是中に亦著せざるものた■り﹂︵智彦論告五三、大正二五、 四二豆頁下︶と言rL︶、菩薩とは詳しくは善報荏婚︵一一=ユニ㌢麦ノ■=︶ 中で﹁一切諸悌の法たろ智慧及び璃と定との能く一印を利益す革も?是を名けて菩鴇︵︼r⋮≡︶と焉す。異心 IS.l L妄?ト﹂ と言つてゐ 且妄ぶ声長上迫ヘリ寄︰りC故に琶心モ空し修行するなり一とい省い、又、 は封、かすヾ・ナhTずして顎ノ、東通C葦に忍じ、珊ぜす亦破せら宜ざる是心モー薩掩︵=〓▼ノl︰−︶ る。琴掃こ二等攣乍‡薫写衆生±言ふっ l琵建一ヱ\心土名く、鳥人、が大心・モ誓し垂上菩沌一ノ﹂求−バて、而−、ヱ小︰花得ざるが敢に菩鴇琶婚と名くる■こり﹂と言 って乃る。.即ち害琶とは、血∵﹂苔鴇∴.1痔て諾○俳邁つ功徳≠桑く待んと放し僻遺、宣伝じ行−下ろ衆生にして、又、 ●● は一般に・人相∴′−着Jヱ?から、此こ′1貞生皇苧ふは嘗薫l∵ラつが、此⊥イ真心±補するは、大東特に般若では衆生○梢 Q’ 此八つ心は毀持すべからす端境▼丁べ、ナらぎろこと金側山つ如亨亡以て、こつ菩準︼三嘩掩即ち大心とも言ふ。菩薩 ○ と、∵人山膏′′ふ心ウ湖±かの差別を燕纏十るつ︷︺は、こいが、雄鳥し此に田丸たい、から、斯ろ語?用法が樋 虞に存す する〇一∵苧つ。斯くて害碓積弊即ち菩宅は利他し自利し、一切の衆生を圧し、一切諸法の詫性壱知りて、阿詩多 羅二元三筈絹へ﹁り軍︰▲L行す至有lごご二し、こはやがて一切賢望に讃歎されるに重いつのごのる。換言し更に言へば、 一切衆生モ生麦元つ苦よ貢雛附せしむろが故に阿薄暮羅三読三菩鴇心意起し併道⊥了勇むるに至った人が、この菩 一切紫生救済c大与痍主事して ︵二.︶其心が何時如何なる田苦に道学丁るも剖托することなく 撞薩頭と碍丁?訳生ご直る。侶し人が筈韓琶撞±宿せら九ろには大智虔論に二詑が・存する。尭づ繹論○所託とし て第一詑は、︵こ 不封心とたり常恒サ・け持潰L、︵三︶大半誓域耽っ篤史小倍々命竿精通Lて一歩も準ご仏い、皇苧三一條件が具は 見よレ此∴が害指哀痛L姦冊L筈三∵二するっ斯く甲空し大害鱒宣起した人之鋸ち るに挙らたけノれば菩薩し﹂筒L待∴べ∴∵三∴っっ比1こ封して有人つ記,ヰ.竺人が若し一義常に作僻して﹂一切衆生を 崖十べし≒三上還最古起キけ 和事心C菩薩上梓十∴つが、此に封して更に、此大書僻心が不封士た−玖,韓遭Lて不退とな九ば、此人、モ阿弊政致 ‡賃 心に窮て + 七 ヱS5 ○ ∴ ㌍投心て ?. 甲・二卜退頼C告烏±侶L、此二亦....〓葦琵LJb宿せ∧Lニュつ?∵い心 ﹁勲草江に導導﹁′﹂べき工㌧一・車やいら墾紺や持法の て二言つてうい︹㌔ べし土敬二しウつ︵﹂∴此九、∵∵八九真申下︶っ さて、斯る人即ち毎言責菩薩が無上害鴇即ち傭筈準急至芸去に至れば、前釆笹通するが如く俳陀如来と成る Lて、普賢仁寧.1佑召して、鞍上軍王位すろ二得せL︺ご ●●● あ♪、自らかく﹁章匡ワ.吉苧やLて、擁室根モ峯空︼∴勺︰﹂三岡時こ、﹁無量イり詰︹∵禦生○、筏つ名抗を聞く育た 魯●○ 無上道を求むべき﹂て一正わ、﹁克つ㌍−六甲三恒ニL、・不定亭±い出し、菩薩行走行じて、鞍上道、毛先売す﹂べき一−﹂ 法するに至る口一∵ネるが、文藻が善肘に示十橙独巾に、此予正喜∵∴莞具草匡は岬由7、六大去心\︶悲心−ノ姦て、寄ら ●●●●●● ●●● 準朽入法界品こ︰里て迂、章財章三﹂が文鎮抑利幸⋮攣り㌣二∵出て・帯た心、㌣起して、乃ぎ有﹁∵ニT八っ善知誅モ零東関 言はく、菩薩行とは、阿毒素羅二講三善綻ハり行ユノハ1貞す、た三洋琶トロと鱒﹁■ はんが琴′ごりり/、やがて無上答申宇屈託せえが焉に外Jナ∵∴いハ︺大蒜般・詩経六書賃撃八束、六五四頁下︶に、﹁蜘 に、菩提心、ヱ整せし有情※∵諸賢嘩が、 描く金川︰県芳に琵い∵宗祀に運ぶいっが如き心近㍑すべしとするは、彿道に適 るが敢に、常恒に綜法に仕毒さ︰つべく、■襟に位十∴鳥町燕′\Lて斗庖に辞澤心七生すべLと言ゝいのである。要する 一切椚・予一浩かて掟に燕桝任心∴更生し一プべしと・丁ち玩−鱒う笹法声色三悪行い法乃至いれ隼雲埜二小型二筈拒も凡て無所得、㌧亙 に持すべ亨ひ,モ金剛綜C−−人十二樟罠に六÷と、眞、り芋巨予二川法C 珂ろ竿踪0青票L壷屋養に耽て廿∵キト︹∴打.迅∴ニ⋮㍗十手レ、但たFこ∵ヰ㌫=⋮隼二稲十い㌣・I︺Cが干草てロ心念む如何 tキニ︶位L﹂、不堅持位‡1阿押鞋㌍主に﹂∴︹二位∴.⊥宍巨∵ウニき∴る。 此第二絶たる有人叩託に障れに、※い位に利賀心1一t占わ追ぃ、千ノ︰︶位C′桝謂︰ハレ準1ミ机武州辞鎧モ⋮三二≒〓■=■丁=こ〓圭一 昔稗指摘 ︵⋮∴=r≡十≒号ニ⋮ニごぎ〓ノ・=︶ ′し の一であるが、薫らば、曇心0菩薩土偶にL石欄導薫別はい▼かに。 一般に菩薩は未だ一切智性之得す、.備は一切勢性一︺あい?誹ら、此鮎ふら言へば、芋薩と悌とに一大差別がある 七一八頁中︶ と言ひ得るけれども、前蓮?御く、菩薩が蛇に築上正寄書提心、モ空し菩提の行⊥ご行−下るといへば、彿と殆んど襲 わたーい、何魔に具餞的㌢掠的に萱畦上僻土?莞別之詰むる、か。大品般若︵智彦巻九四、大牢一年 ︵一切転智を得 ﹁荒し一切粒智モ如け/、この一切在智・モ得て一切わ煩悩土習と之即する、菩薩 ●●●● に莱ては、須菩提が此奴間之以て僻に質問してラ勺。此に封Lて悌は、汝C所言つ如く、﹁菩薩法は亦是.几僻法 一ごゅる﹂とするが、薫し、賀一に ●●○●●●●●●●● とは是の準モ常に得べきものであり﹂、此に封して﹁怖は一念机臆C芸、ン﹂以て一切法、王知り巳りて て︶、阿繕季語三訊三書経−疋︵巳に︶得たも〇一∵あ∴ど。即ち﹁恵与芋窪﹂/廊とC差別之琴T﹂と言ひ、第二に筈 小技と俳L5串所は、l邑∴ば同道と澤県と異るが如くで・誓︹㌔是二人∴γ一侭に聖人と符丁﹂けれL′も、﹁蓄積屋詞産 だ論は舅一に﹁.智崇高利純﹂の差に於て異有る手兵すと見、﹁菩薩は如㌍に即ち は無願遷︵離ち無間賃︶中に行するもじで是と菩提磨詞経と名け、解脱摺苗・にあゎて一切C闇京あるこ﹂轟き. 是を僻七翳す﹂と言つてぉろっ 偶の如く・﹁.波羅蛮⊥竺¶ナや㌧而も未だ週通し筒底することが出不ない、即ち未だ一切種智の門に入ることがm 釆たい、草根に菩薩−宅備と省けないが、志し華転が巳に一切屯智の門に入り一、語法責相中に入って、〓心佃態口 密雲∴王以て阿毒素罠ニニ飢ニ≡ロ托モ得、一切︵り煩幅、二習﹂﹂シ︰一軒じ、詩法に自在力≡得れば、問Cノ時、名けて怖と馬 十四日の月も満月と共に月たるが如ノ\菩薩し晶仰も共に賢0智慧の清けずざ?トし0が有るけれ 王S7 す﹂C∴‡ろL薫岸し、■攣一二は、lた宇土補と﹂鳥恰も清ロり直前ハリ十四誓︰二?二▼高月七つ如く、這に向ニ︰甲屁土樽黒 の果位とへ︰一椚造一一\ 菩提心いト批て 九 苦抱心一∴几こ 菩提C語穿と案内容意黄 ︵大正二 は、略して阿樗菩鴇とも栴し、漢詩に無上jE通知、無上 違はいかゞ一︺去らう、か。叩、、明い︵︶河毒雰羅三撃二菩根上は一罷何、‡指・丁ふ、如何−笥る読で且らうかっ 四 阿持多羅三羽二重操︵ニ=主⋮〒≡=ソ.ニ﹂⋮⋮︼⋮≡︶ 荘原道、無上jE等覚等とも踊じ、無上筈縄、無上正等菩揖等とも名くるが、此語義に就ては智虔論巻二 五、七二真上、中︶に阿繹多羅︵≡⋮芸⋮・エとは菜エH.無上﹂とも﹁舞答﹂とも銅すとする。無上とは一切此と ISゝ どこ、利童心より牟冊喩定モ椙亮に車言た蕎半廃藩・同道う行軍︺′入りリー未だ謂椰つ法を完全に且克せす威力ム′ハ=元 ≒‖トレて・、∵雪 号にむ㌣し得たいが、童淳一芸エり牢空∴十†一、守明て︰‡㌧.寵く′十方黒土J票草三貴出せLむろつ一∵即ち一切法 中に竹串C■㌍寧こヾ、了知宇・−ごー一丁・ご.ノ燕きこ至∵ノご。∴亮七日仰L手で1 ︰ 阿昌幸章二貌三菩提の葦丁真裏とに由わて罷制されること 二言、、垂㌻とは宰何たろ季につ圭、闘が比ふf得す成すと言、ごう得す成−ごと は、河童美売−三軍二等碍つ葬芋=雲﹂一環㌍飛圭.壷羞二軍ご一二が〓煎る。此嚢∵凡夫又は二燕が四声雰轟二義 は、前∵這違う定率.L論じ﹂﹂宰こ明子﹂∵烏り一∵∴∵.。止こより十露高巌ご放て、凡夫二葉±章苧二沸上の相違 −こC仰蔓とた声。更二芋窪︷亘・宍ユ昔二筆±つ判て 菩薩一・∵、女川軍票皿tて軽州︸︷∴小ば、河岸事撃二墾二撃墜︶イ痩た即ち僻と鵬せられるから、菩薩と悌とは萎と得 ● は何か、どう、さっ?か。彗と得とは未満月Lノ満月、向積憤し﹂得票位Lろ干拓王一膝明であるが、未頚と室との相 三筈掩モ至芸す、苔た烹之空軍1■ ● 等しきもの無しとの撃∵ある。無答とは繹多羅︵主≒1︶ ﹁答ふ可く破す可く寮に非 ⊥γ二呑﹂の撃三取って、悌法は﹁答ふべからす破すべ からす一切の語言の道を毒蛇L而も亦琵にして滴薄なるが敦に﹂、一切つ外道の法が す清浮に非ぎる﹂に謁して、鱒法声野草享ワニ言宇ルとするのl一∵、阿一軍重箱とは言語道断心行斯減の養ある鼻明 したものと見ることが出席る。此故に阿持碁羅即ち無上は又僻の十名璃の一とさ九去。蓑をいへば、無上とは ﹁諸法中無上−二る浬撃ご亡し、又、衆生中の無上たる悌をきす﹂つ−ごヤつっ而して、悌は﹁是控繋を他より開か ず白如し亦、衆草五指きひ導きて担架に至らLむる﹂から悌は亦無上なりL癌せられろ。 七一頁下参照︶。 三琴二菩提︵蔓=レ.ニ︼ハ圭;ご⋮≡︶の三煎︵竺≡よご一ハ︶は﹁正﹂と間じ次の三︵竺ヱはり等﹂又は﹁過﹂と瞞じ、 ﹁等﹂、菩招は党で苧つから、正道党、正等党、等正等党なとと稀すと言れる︵智産室﹁ ・次にこC蕪上正等覚又は辣上正通態とは、部Yヱ卯提督に外たら.‡い。即ち智医琴八五︵大空一九、ナ、五四真 上︶に二切定番とは即ち是正阿繕多羅三謂三吉凍てあ旦控苧若︵⋮⋮jコぎ三切替︶で五わ、解法・傍遵であ って、皆是︵専︶は一切荘智︵り英軍′ご∧ソる﹂と言ってラつ。大品般若経菩荏行品︵大正二五、六五五男上︶にも、 ﹁緩攻こ謂僻つ所有︵り故に菩提と名け、:・:藷悌の正通知の故に名けて菩提と馬す﹂と言つてゐるゥ此中、諸彿 不増不消滅.てる才一知る知でう去。不壊絹とは一 の正通知土塁二彗二悌陀︵蔓=王室与=±㌻︶一︺・一山り、智度論巻二︵大止二五、七一頁下︶には、正通知とは 二︶甲賀詣つ類言知でカリ三︺一軍誓法っ‡二Lて不・肇彗 切諸学︺心行空囲、言語道誓︰∵して浬㌍攣り不重信る如きモ言ふ、でり、諸法C心行C分別真−誓−吉軍票禦完言 ざる浬賀相の如ざ軍絹を如革新を言ふ。更に正通知とは一切十方諸世界の名東と、天・人・修羅・猷鬼・畜生・持 芋授心に就て l 菩提心に些﹂ 一二 鱒獄Jて道所瞞つ粟立n名草﹂﹁一切・粟立C堰きC正J甲稲﹂兵東世に半−で?唱叩L二切−り十方粟生C心棚と諾 結掟と詣C書出±詣C出世ヘリ窒墨守C・是C如き一望∵詫3蔓別㌧三芯︰加∴∵舌予二∵‡∵∴/、布⋮上音指王琉じ㌍ 苧イ一得かば期る正遍加モ謁坤丁ごここ−∵?三日心炸トてうぅ∴宰三し菩提豆、㍍鞘正道如何讃C法上トて期C如 き内容、功徳・力∴イ真備するものとされろことが知ら、れ︰つ。 菩提C義・内容壱傭智としてC一切撃骨、一切有性七見るは如上の語蓑つ上からも常箪ご︰∵つが、更に此彿官 ︵二︶有人言く﹁蓋甘﹂ノ轟生甘と⊥羞口持と は何モ指すかに就て智暖論にはぺ異論之垂げてうる。論巻八五︵大正二五、六五五貢︶に有人と記L[て ︵一︶有人言く﹁奉畳は生?霊苦痛るから是モ菩柁主名く﹂し㌔ 名く﹂し−。︵ニコ有人言く﹁無悔㍍柁、モ菩推上・ブで㌔何モ艮てヘリ故に、しーつ草柁、†一得九ば、一班婆ん竺﹂皆通達 すればなゎ﹂と。︵四︶有人は﹁E燕桁智は見れ苦学、・甘。何之以ての故にり粕が諸法吉相芦川いつは産れ訴無擬 ︵葦︶四無而涙享dて具足L 餌、諸法の名相分別を知るは是正法無弼絹、種々C語言之分別して票芋ノ∩亡てブイ一得しむるは是牛ノ・盃毎扁痕と 名付け、記法教化する仰の璧粥にして無事■kるもの有るは是モ空説無悔絹と名くっ て衆生を利益するが故に菩摸と名くるたり﹂と。︵五︶有人言′\﹁廟口上・力四蕪所長・閏燕距智・十八不共法・ 大意・大悲・一切種智︵等︶C是の如き無量つ悌法モ蓋く菩投与や︵、っ何を以てC故に、有毒が大を?亡以ての 故に︵此等の︶諸法は皆菩擢と名くるなゎ﹂と。︵こ有人言はく﹁虞の菩揖は悌の無漏○十智に名く、是十智 と相應すろ受想行隷と身口意○︵ニコ莞土及び心不用應の諸行も皆菩摸L名く。︵此専は︶共緑共生にして共に 輔佐助するが故に皆菩揖と名くるなか﹂と。 くり 以上の六詑が皆菩持た精神力たる智の名立以て表はしてゐるに対してー第七の有人は言はく、﹁菩揖の拳は無 筆雫遭にして、噌怖へ︺み能く通知し、舘人は其少分モ知る0み。讐へば時唇三つ葉城中C諸寧モぱ難く分別して 其慣∴イ南る者無きも、宝玉C寧モ出して・へに隅ふが故に、iEしく黄門待と?八▼知るが如し﹂土。而して以上七 異詑の中、般莞窪の所論は、第七託に同するもの有りと考へられる。即ち般若違によ北ば単に僻甘0革山イ点て に、頂菩鴇が﹁何り萎の故に菩提L長くるや﹂との質問に討して、怖は、﹁二︶芸の讃 のみ.㍍らず、攻わ如く智の名に非ざる表撃ご以て苦操0撃ノ﹂明にしてやつ︻︶大品般若経菩薩行品︵智軍挙八五、 大草一七、﹂へ五五男上︶ は是れ菩提の撃なり、︵二︶如の議、︵三︶法性の襲、︵四︶安保の琴︰⋮︵五︶名相言詑︰︰︰︵六︶不可壊・不可 分別なる⋮⋮ ︵七︶諸法串艮相にして不識・不異なる、是れ菩撞の襲なゥ⋮・﹂と言ってウ′Q。勿論、智の名壱以 て菩摸を表はさなくとも此が彿菩鴇であゎ、一切種智を表すものtご心ることと相違すや三亨ごじではない。現に 龍樹の繹文に於ても﹁茎・如・法性・賢際を名けて菩提と馬すのは、室二昧と欄臆する昔智慧が如・法性・葦隠 を緑すればなゎ。菩操は穿智慧と名く。ニ〓索の︶華道人は未だ煩悩・㌣函ぜざれば智慧有りと錐も名けて菩提と ︵此の般若経中に於ては︶阿軍/雷撃三鶉三菩持と名く 焉さす。三︵粟︶無壁人は無明永志して練り無きが故に︵モの︶智害モ名けて菩提と焉すも︵共中、聾間・結党 ●● の︶ 二無婁人は一切智の諸法モ正通知する⊥孟愕ざるが故に る、計痔す。唯、伸一人つ智慧のみ、モ阿繹多羅二豪二重損と名く﹂と言ってラつからであ︰つっ然し乍ら智と表現す れば一見、能讃の法モ表し、茎・如・法性・穿障と言へば一見所詳C法⊥了衰はすと考へられ易い、又屡斯く所謂 嘗提心に就て 法であるかの如き開法もないではないに拘らす、霹が強いて此混雑し易い用語之以て﹁基・如・法性・穿陳を名 、し・_ 菩良心に聾し 古 けて音響勇す﹂Lこ育て手品には、軍に謹C硝語つ不望叫.環雄±∴言山上?意謹n#する何がない′∵為らう か。尚更に苧加・法怯∴㌫仰叶清栄誓壬し昼首然有川語言七超ゆろー1︶ナリし主し嬰、力詑する仰をつに拘■らす ﹁苧如・法帖∴▲=瞑C轟は畏れ書経C空音﹂と定襲する直後に放て﹁名相言語は是れ菩提の撃亨り﹂と主張 する。両者C恵輩はこれ亦=禁‡甲丁やもつホらすやとゐ群問が這撃っぎるふ蒜ない1去らう〇期の如き混耗 又は矛盾と見ゆろ発表は、だ美品聖還C傍屑C不精寧小由意に外ならすとは考ふべきご払い。矛盾撞着は吾 印得は即ち是れ道にして即ち畏れ晃、即ち畏れ阿縛望警車重撃号、法性不項口故に﹂と 論に言 は,ひ、繹 れ香草讐=、二八五頁下︶る。大品一心具箪行品︵串撃八七−六七〇真下︶に、俳は彗畏に答へて、﹁無 所望・演壇Lて見ようっ竿芸一く大品では十八雲車・りれい宗、十八雲は無間有にトて般若波羅蜜と不具とせら 見望見るから、此は後に訟哀て吟味すラ==1して、吾‡嘉こ琶於ける基の葬は菩提の萎なりとす去他0 々凡愚の分別の鏡面に起る。期つ加三見矛盾又サ追撃勇へられる語の用法が他の重要なる法相の詑明中に Jウニ ●●●●●● これを﹁悌の答へは正しく無所有挙占てす。︰⋮・若卜舞桝有空足ば、苦学美学も阿指多彗垂壷提も亦 皆基無所有な少⋮⋮﹂といひ、窪つ重囲得⊥義邦有C責と甲3しと解して、件の答は﹁無所有は即ち是れ道・ 意を明にLてラ︹∼。又、帽輯品︵脅威巻両︹一、大正二汽、四九九真上︶に﹁有所得なれぼ阿持参撃垂二菩揖無 諸法箕相を破填せざるが故に﹂と言÷誘でぁると折トて為る。盈にも無上菩縄が基部ち無断有益と諸法蜜柑たる 法安絹望芸巾に入るご乍㍑∴涼籍甲碍・≡叫ご、印う畏れ遥、部ち是工具1酎毛長上阿薄多羅二重二筈空音、 ● 即ち是皐畢∵即う是れ阿軍素謡三墾二菩柁た正一。草し入、畏れ有所得た少是れ無所有なり、とネ紬せざかば、諸 ● ●●●●● し:⋮・﹂とあるを繹論は﹁所以はいかん、阿縛多羅二頑三菩提は寂滅相・無所得相・尊貴清滞相なればなゎ﹂と ︵智度怒九巧 七一九頁中︶ に須菩損が語法の如茸の相 し、清浮と笠とに充ては﹁基は即ち畏れ望見清浦。不彗不壊にLて武論簸きこと虚基の如し﹂︵智度論撃ハ三、 大正二五、五〇六真上︶とする。又、・誉m般若四諦品 ●●● 法は基にして法権0見る可きもの無しと祝するなゎ。是性中に任すれば阿指多畢二攣二筈滝を得、何を以ての故 モ祝する諸法室の基とは何等の苧三等ヰの誉ん彿は笛へて﹁白相挙仏わ、是章毎は是の如き智慧を用って一切 ● に。無性相は是れ阿詩多羅ニニ碧雲鴇なればなP三・﹂と亨ごく記樹が繹論中に、是菩薩は是の如き︵甚深の 基中に入る︶法を得、一切法は皆基なかと観じ、一字こして僅の任予可きも有手記見ざれば阿縛多羅二義三菩提 モ待っ諸法を軍で言と阿繹多重二瀦三言揖0如くするな少。阿持多寧二翫三善撮も亦自性室にして、僻の所作 に非ず大萱撞の所作にも⋮⋮阿羅漢辞表悌つ所作にも非す、常寂滅の相にして武論語言簸き一なむ﹂と言つてゐる ︵大正二五、七二一真申︶。 以上は普く、空事は即ち是れ菩提の嚢とするの二三の例之引用したのである。 次に如の寮は是九芋損の警仏少と言ふに就ては、大品般若憶廃品︵智虔七四、大正二五、五八三真申︶に、須 菩縫が悌に何等が阿持碁琴二墾二菩滝なゎやとの問に怖が筈へて﹁一切法の如桶は畢〆南持多琴二重二菩提と・名 く﹂L喜ひ、更に是を数恋して﹁色の如相、愛想行隷の如相乃至漫盤の如相は畏れ阿持多羅三墾二害鴇なり。こ の如相は亦不増不滅なり、須菩程よ、長芋琶摩詞薩は般若波羅蜜㌃品讐隼ず︰⋮・﹂と言ひ、此、已繹論に﹁色等乃至 控撃−長等の語法の如は郎是れ寂滅︹崩にして郎、ち是れ無上学︻仏りっ相?竃準とは不檜不拭不高不下にして諸頗 菩提心に就て Ⅰウニ; 菩提心に満て 偶の動論を洒L、劃せす壊せす障擬する桝野草乞い、ご仏ウ︰⋮﹂と琴してゐる。 法性と直艮との袈が菩挨の輩たらとするに就きては別に孝子呈1日、ふ必要七三︰けいでやbうが、如・法性・賢隙が常 長れ諸法景相打貴名豆あゎ︵智暖撃二二、大正二五、二九七貢下︶−﹁一切法C葺椚を名けて法性と篤す﹂︵智度巻 九〇、大空孟、六九二真上︶と言ひ、﹁諸法中には皆浬繋性㌧むゎ、是九−計一法性と名く︰⋮・若し青を得ろ時、法 と言ってゐる。又、此等と茎との関係 性の如く・左れば則ち畏れ冥際なゎ。援次に法性とは無量無題にして心々教法C主宰′つ所に非す、是モ法性と名く、 妙、此に極まれば是モ虞濠と名く﹂︵智度巻三二、大止二五、二九九頁上︶ 重言へぼ﹁畢発茎は即ち畏れ如・法性・袈隙なり﹂︵智圧巻七四、大草一五、五七八真下︶と言ひ、又、﹁若し相 有ること無くんば是中には無桝.得、無得・なるが故に無甲なり、若L注が無碍無印︼亨乱ば即ち是れ無垢無揮なゎ、 とて自性 若し無垢無滞・写れば則ち法D性無し。岩L法に性無くんば巨りち是九日相室、若し法が白州基なれば即ち是れ法の ○■● ●●●●●● 常自性牢なり。若し法が常自性基なれぼ即ち法性・如∴宣振と同じ﹂︵巻六一、大正二五、四九五真申︶ には以上の関係⊥牢出めて ﹁悌の智慧は是れ畢竜茎・如∴法性・貰際・無 基と法性・如∴葺隙との同〓r一論いてゐる。憐の智憲は前述の如く一切榎智にして即ち無上菩提に外ならぬが、 智度論奄八五︵大空豆、六充四真申︶ には言ふ○で‡る。芹÷這妄、般若撰羅芸と蕪上菩韓上口関係に裁ては 相にLて所謂寂滅つ相た首﹂主音ひ、かくて、此﹁一切痙智は額面有・串想・寮念・燕生・索示なり﹂と大品般 若荘道顔品︵大信二一五、﹂二手二見下︶ に、﹁話C華薩は和喪心よわ一切短智を求め、其中間に於ける諸法貧相 であつて、この憲は僻所得の智慧に因つて、因中巣・計一説くが故に、般若波羅蜜は ﹁智彦論巻十八 ︵大jE二五、一九〇真上︶ を知るの憲が是の般若波羅寧﹂ Ⅰウヰ ﹁悌の心中に在わては名を婆へて一切種智と名く﹂るのである。故に他には簡単に﹁般若波羅蜜は成伸時に韓じ て一切種智と名く﹂︵智彦巻四ニ﹁三七一男上︶と皇芸。其廃位に於て名に差別が存するが、然し諸法資相を知 か、又畢責基であゎ尊貴軸なる性質に於ては両者同じである︵智度巻七八、六一票上参照︶。 次に、以上阿樽多羅二義三菩鴇と基・如・法性・貨際と及び般若波羅蜜との関係を明す中に明である如く、又、 大品般若経︵論考五四、四四七真下︶にも﹁諸事は般若波羅蜜に非す、般若波薙蜜申聴者無し、諸彿の阿持多羅 三琴二菩提は無事無論なゎ﹂と詑くが如く、無上菩撮は一切の語言を離れ、所謂語言道断心行所滅とされるに拘 らす、一方に、先の般若経の定養中に示す如く、名相文字との関係もまた説かないのではない。例せぼ.智度巻 七八︵大正二五、六一一貫上︶に、﹁法案は即ち是れ阿持多羅三貌三菩提なるが故に。若し法案無くんぼ則ち供 宴も無く、若し僻賓無くんば則ち倍贅も無し、若しこ衰無くんば則ち一切諸法無L﹂と言ふ。此関係から、名相 ● 文字も亦、法家なる面に於て無上菩鴇に塙せられる。故に﹁諸法茸相は転々の名字を有す、或は基と説き、或は 尊貴基と詑き、或は般若波羅蜜L′疫き、或は阿持参羅二義二重提と設けばなゎ﹂︵智彦巻七九、大正二五、六一八 ●●●●●●●●●● 真申︶と言ふ。又﹁一切撞智は是れ悌智なれば、一切種智は一撃二世法中に通達L無擬にして大・小・精・寧灯 ●●●● 知わ、事として知らぎる無し﹂と言ふ。又、憐は告ら一切稜智の萎に二程の相有りと詑く、一は諸法資相に通達 ●●●●●●●●●●●● するが故に寂滅の相誉つをいふ︵恰も︶大湛水の中は風も動かすこと能はぎることあるが如し。甚深なるを以て ●●● ●●●●● の故に波浪起ら▼ず、一切種智も亦長の如く戯論の風の動かす能はぎる所なれぼなむっ二は一切諸法の名相文字言 誇を以て了々に通達して無糖なる可きをいふ。有と無との二事を席するが故に、一切程智と名く⋮⋮﹂と言つて 菩提心に就て Ⅰ95 菩提心に耽∵ ▼二▲■轟こ‡りて了二準隼王奨学L得土讐り零∵?:三明にしたもつ ラつ︵号㌍巻八四、∵四九頁中︶がl此中、克っは一切積壱は実演再辻Lて一切?肇聖三丁によいつ拭軍書棋るゝ 苧了、∵l︸1︰︺∵∵十二月宇岩バこ車γ三妄量叫l −1ニ三貢上︶C海に﹁詣望は加ンに語少、 一′﹂や㌔・釧−三︺こ言∵言〒招蔓讃㍍去二里㌍雪空﹁三言沌毒ユ笥法㌣高上有∵∴女≡望昌外に﹁備語は皆 ﹂・誉り﹂ェ去呈壱二八、二二・定員上︶L′二言い、響け露草﹁︵大正二話 ′j′ニ、、圭賃言首苗は﹁一切︵り語は知∵㌧号りこと言㌔が故に﹂一といふふイ一諾する中、多面阿伽度は 閥もⅡ元.江に託く、草′﹂以てつ軍に鱒雲夕陀阿伽嬰r≡.ぎ呈こ︶と克く﹂﹂′二言ひ、大童漬菜嵩波記法晶に扇蒜 .、 ● に使甲︶亡乱来った謹・梢・周つこ毎による鴇明が軍ごも試みられてよいと恩ふっ薫上空守害滝の罷と言ふは、茎 此に充て瀧パ左通べ葬った此燕上申等芸鴇論立間畢詣遺する馬に、徒釆彿数々相室上、堤、、﹁法﹂董之明かす くさ几てうろ?一、﹂は急いが、L、ナし以上○桝引文子ヱ八喝十遠指、‡明むるに必−ずしも不充分でなからうと思ふ。 三﹂Eな害彗二≧章撞つ声軍り紀流言、天品最悪毎に於ても大昔農詣に於ても、決トて以上の間引之以て塞 官に井二ら■こ早耳隼モ云は十もつと克夫ことがH元志。 ペい、汁望茸赤加二﹂記担ユ芸とLて紳謹三世′㌫∵い、曇﹂ユ、阿軍碧空二碧雲椀とも言ひ得、栗菩塁引の一切在 与つが㍑に話法∵甜エ・ラ\冥サご㌧いけれども、託に望章±詔治ら・㍑る人、琉中、鱒叩郊主音ば凡て波羅慧に滞 此三号八具六〇電卓貢詣華=薄い完相違つ詣絹がヶヲ\垂エ、持論に結う、弓、刊令話中Thノせざる、モ得ないことも っ葦言鱒皆詰れ如Hたろが故に、布∵託流露豪と名く﹂︵、茸崇讐、王−大正二束、き一〓月下︶とも言つてゐる。 函塞二言∴竺﹁或は.や.㌫吉享∵琵類本‡言、ゝ∵︰︰坦完詑2羞.諒と電く是非−ず∴卯 00■○●●d00000 詑湾嵩宜し一一は是㌧投岩た簑 Ⅰウ6 ﹁東雲の如し﹂とも宿せられるが、允、意味は決して轟顛・燕内容、字音擁するもの ︵畢華芸︶、如・法怯・責障・話法責絹として畢竜清浮であり、垢・還・頬帖・召気等は全く有Lないと表濁せら 宜るも?矛二三㌔此綻ば埠ごて ではなく.∵成要は霜一に一切と包容し、詩学正して、非が色法如いっ物叩不在と考へら九るものでも、心法即ち精 0∩−︹−00︵−ロ0︹︸︹︶つ0︹一 神的のもつでち凡て声血中に包暮し、各々共産義持せしいり、串∵.への臣節旦給山持せしめて薫も相互に撞着せしゃず、 矛盾貴立古L誉たい、窮頼自在ならし︰?つ︵︺で㌧ウつが、同時にレ髭窒ト[呂管﹂語法とも亦矛盾撞着は布せず、額掩自 在予ごデ丁とは言ふ追もたい。此が大詔肌捏軋㍉に貴ける﹁基﹂の琴ごりレ、所謂﹁東洋的無﹂の性格であゎ、即ち如、 法性・肯︰はにして、話法∴上欄望倶態で■持わ妙有一ご︰りー・リ、燕上正三等苔摸○燕騒b穆とされる甲である。 無上正等音程e相は饉の而で為ろ。鰯雲は此之誓醸すべ1き何等の伯C法は存在が・這い。〓珊にLて顛相である。 基・畢責基が凡ての滞空班れて一朝にして燕闇とさ宜ることに試ては、多誰、≦讐ク必要はない、如・法性こ貫ほ 語法貸欄も亦同じでゐるから、無上jE串菩提バ∵燕硝にして一相、不二の諦、一指即ち不二梢にして無相なること ば折る迄も.こい。大品般岩音瞳品︵大正二五、六九五真申︶にも﹁宕し菩薩鹿討毎にして二相た行すれば、阿縛 多琴二軍二等鴻重し。若し今別して二分と持せば阿持碁琵主雄二書経熊し。宕⊥不二・不分別なれば諸法は則ち 是九阿誇多撃二撃二事準こゎ。芋摸は是−∴不二.描にして不培相たゎ⋮︰⊥、と言ってウ︹r。此無欄一相不二相、乞第 一に黎㌍Hに早れば、時間的に、三世烏二羞㌣っゝことで・古=㍉香草榊には、一切法C時間︰両眼定制限b取すべきも 0相も詰電0心法︵挿画的現負︶ ?摘も寄せーず、此等に駁すべき又 のなく、此等、箪琴ゆるモ意疾し、肯定的には、一刊試に蕪防○過去も無防の兼煎も詔宇丁ることであるっ此之雲 間的︵量的︶否定的には邑法相︵物的軍票 菩提心に哉て Ⅰ97 ○ 菩提心に裁て 二〇 は著すべき限定制限の存在を否定する即ち多郎﹁全即個であるが、肯定的には二物又は忘、一法に無量 無限の相を把撃ヱぎ︸と一郎多、個即金であゎ、一輪の花にも天地宇宙を認諾するが如きである。質的否定的に は、一法として、清澤とか塙桟とか書とか悪とか高とか下とかの別は存しない。大品般若経︵大正二五−七二四 賀上︶にも頒菩撞の言ふ如く﹁一切法性無所有なるが故に。世尊−無所有中にも、無垢無渾、所有中にも亦無垢 が無上苦境の相である。 一一の時間的創造性、巷間的には普遍的具儲にして、質的には平等同一にして一法に園満相を具足する 評と最第一養に裁ては後に述べる︶。即ち客鰻的に見た無上正等菩鴇の無相にして一相不二相の肯定面は、諸法 って、平等法の畢責清浮、善悪、塙浮を絶した絶封最高の理想善たる淫楽相である義を明にしてゐる︵経中の世 ●●●● て、一切の名字語言雷撃を悉く節す、何を以ての故に、諸法平等は見れ無戯論にして寂滅の相なればなゎ﹂と言 なゎ。菩薩は是の平等︵不垢不浮︶中に入少て、心に憎しみと愛と︵の糾︶無し⋮⋮長の平等の義は不可詮にし 一養に非ず﹂︵大牢三彗七二四貢上︶と言ひ、此を繹して﹁諸法寮相・如・法性・法任・法位・賓際は是れ平等 法任・法位・茸隈は悌︵の出世︶有るも彿の︵出世︶無きも法性常任な少−是を浮と名く。世辞の故にして最第 是れ浮なゎと説く。頒菩損よ、何等が是れ浮にして是れ諸法平等なりや。所謂如にして不異不訴なる法 控に悌の示す如く、是の諸法は不垢不浮なるも﹁是の諸法の平等相︵即ち一切不垢不浮、無有高下︶なるを我は と無し、是を阿縛多羅三貌三菩摸と名く﹂︵大正八、七五一頁下︶と簡明に言ろてゐる。燃し此を質的肯定的には 無滞なゎ。世尊、無印有中市所有中にも亦無垢無滞である﹂と。此瓢を金剛跨が﹁是法は平等にして高 Ⅰ98 第二に此無上韮等菩撃紅主鰭的に見れぼ、無性相と言ひ、無住又は不住を相とすると言ふ。一浩とLて性の任 すべきもの有ること無きを親ヰ′れぼ阿縛多羅三琴二菩掩を得る。金剛控にも﹁旛無所佳両生苦心﹂︵大正八、七四 九真下︶と簡明に言ひ、又﹁菩薩は一切の絹を離れて阿霹多羅二頭三菩提心を黎せぼ、應に色に任して心を生す べからす、宴・香・味・簡・法に任して心を生すべからす﹂︵大正八、七五〇真申︶と言ふ。所謂、随所に主とな れぼ立所皆眞であり、不住浬奨である。任せないことは、止まらす停滞しないことである。此は亦大生命の本質 ヽヽ たる生き抜くことである。放逸、怠惰の停滞、止任は生命の死であゎ、自己の生命の自己停止であゎ生けるしか ヽヽ ぱねに外ならない。それかと言って焦燥するのでもない、辞にして劫するのであゎ、割にして静なること、 の生命の中枢も枝苛も即ち心械・肺臓・消化器・細胞等の如く不断活動して息まざるが生命の生ある所以の如く、 吾人の精神も一虎不住忙して到るざら所なく、不断の精進専任をなす根基が即ち不住捏磐であゎ、無上正等菩提 無上正等菩鴇の用と言ふべきは、此が智的行的方面であり、一切種智に於けるが如く又、正通知に就て説 の無住にして無性の相なのである。無上正等菩揖を得た僚陀は衆生救済の焉に浬婁に寸時も止任しないのであ支㌔ つ が如く、一切法の如賢相、虞賓相に徹し通達するから、一切の平等相も一切個々の差別の細相も知悉して此に基 く行としては大慈悲心を以て一切衆生を凍り無く数滴安心せしめ各々無上正等菩塊を得せしめて験す所無きに至 るのであろ口腔に諸所庭静くが如く無上苦学生得た僻如釆は、﹁衆生を賓際に建立する﹂のであク、侶麺衆生の 苦を滅せんが焉のみの故に大悲心を奪し、無始無給に大悲行を行するのであま㌔ 以上無上正等菩鴇の内容を髄・相・用の三態に分って繹明したが一法に無上正等菩提は詩体の所詮の法である 菩提心に裁て Ⅰ99 芋提心∵︰㌣机て こ二 ㍉ら、 謂棉に且頭声莞∵三郎ヱ諸事‡符二し、垢︰いて兄事C二門客が旦、讐工芸1一ドーはたいか、とC異聞が一腔 情陀L一燕王室罠上京生 起るかも如九・︸、kい。比に山武ては、′㍗∵㌫轟′孟﹁エヰ票肯経とC二十軍′ハニ肯龍匡前・に明にしたけれはたらtたい。 五 休陀が舞上卒寿小津準イ痔たほ、北結果土Lて如何になるかは詣繹三っ撃−、に詑誓∴︵﹀巧†一〃ろが、今苦学で一中 心に語ろ経とLて﹁文持姉別問等捉荘︵大正一門、四八貢以下︶し東天刊祥︵大空一六、三二八真山下︶の簡単 に普ぐる研によれば、琵に﹁鶉れ阿持碁詔三王室菩纏ナ痛、一切智慧を得て呵・持巳に邦じ、詣の重婚⊥〆一陣き.諸 C有の撞学イ疫わ、無明モ摂して迂ハ明、︰で一得、詣2削霊崇=て消夏を折じ、法草.〃﹂成じ、法学︶γ垂ち、法螺≠蒔き て串鱒主導亭㌧生死C撃了一時じて淫整の性を元し、邪道モ間喪Lて語帰﹂ノ㌧印︶一︼こ、詰の罪円モ捏九﹂し稲田モ示せ ゎ﹂と。此経文?甲、一切智慧士得るC中三八親は十七拉に閃いて繹明してウQが、今共趣旨・l〆・由りてポ托すれ ば、今悌は二元投劫釆、一切軍≡苫3兵悲?警呈・満足トて、発つ真綿呵成に原田する一切の苦危C重荷モ下 ・ろL、書く一切の詔b有・即ち存在つ時事芋ウ煩悩つ障準ン七折H︹t、文典叩たキュ切替C薩弼∴イ函じ、虞の明智 によ♪て如貴○妙法ヰ涼し、一切口邪L阜邑葦軍イ一拍得ち、清盛に基く㌍誓願捌∴王宮ほし︵以上日利、巨愛開画︶、 一切東軍√義芯て要撃樺土に同はLむべき法股上してつ招世拍づ智垂芳醇姦し、達郎‡打撃トて妙法の精モ輯じ、 妙へなる音盤語言を聾して.人琴八心0撃せ三切の悪堤罪撃イ障伏し、眞加√∵n寝に達ふ二判0正ト、からぎる道 理を破して、無鴇以衆生死の惧ほに沈流す一三切?積木煩転寓−断じ、世間に於てもH世周に於ても、普く憶博す ヱ0つ ろ最防の理想境たる妙法控嚢の性車高由し、即しまたる津、誤わ迭ひ惑へる邪道、モ開墾して、衆生0斯る邪法道 道に取著するものを、此より解散し、正しく哲蔓的足元古見囁︵正見︶と、最高の伶理道徳︵再思幡・正語・正 業︶と⊥で打立てて正しき生活法︵正命︶竺不L、一切○怠惰放泊盲燕からしめ︵正精準︶、生活に於ける能率の増 ︵以上利他、他愛周画︶ ると言ふのであいつ。 進、壁間技術の進歩彗星口寛一めの塁滞︵正念正定︶た示す八正道モ開盃し、凡ての想0母胎モ離れて、衆生の結 韓富国の極宗たる悌・法・悟三宝の稲田を示現す 然し以上の如く適すると、前述0如く、何人が此害琴三甲し、英人は如何なる智によりて此菩緯と話し、文語 せらるべき菩技とは何ぞやの罪問が生するであらう。此に封して、此語、は、此人・智・法の三法は顛資鰐にして 分列すべきものあること顕しとし、菩提は、人の身た以ても心之以ても得るのでもなく、身心を捷れても菩提を 得る0でない、身は罷是れ不買にして心は幻夢C如く又肯饉たしとするが放である。此糞は大栗が人法二基にし て、菩緯も亦畢軍挙一はりとする撃から雷鳥つ桝違七島云が、特に所森高菩韓に就ても﹁菩摸とは但名字のみあり、 世俗の故に論く。撃蕪く、色無く、成すること究く、行ずること燕く、入スざこと無く、不可見・不可依にして去 来の道を断じ、詩の言語音惑ぎ、ニ恵与痛手、見舞く関東く、覚無く、著すべき無く、観衆く戯論た凍れて詳ひ 轟く示すべき無く不可親、不可見、響き薫く、芋重く言語道を詩去﹂と言つてゐる。表現文句の重複⊥で兎阜忘い が天親は亦此、笠一十二転に閃いて㌍−てウ︹−っ要十るに、軍人凡倍C恩糖分別憶翠真書三重鴇望空知・法性・ 資際・賢福一即ち語法皆茎なる壱如く箪撃′二宏欝Lたものに外たら・こい。即ち轡討つ法としてり菩鴇もないから能 記者もない。我が不可得であゎ程茎であるからこれ又嘗然である。能記者あゎとするも亦世俗の故に詑くのであ 菩提心に荊て ヱ0Ⅰ 菩提心に託て 二田 る。繹︵大空三、三二九頁下︶には﹁筏壕に人の讃するもの無く、何周の謂も無く、亦讃す可き法もない﹂と 言って菩拒C油極寧〆一明にLてカる。かくて、大品天主品︵大些孟、西四−八頁上︶にも﹁是の法中、諸彿の得 する阿繹多撃二撃二菩提は相た諒く可からす、是の中には詑苛も無く譜く苛も無く知る者も無し﹂と詑く所以で ●● あるが、文殊師利問菩揖控は、直積に積怨面として、此く能記入と所用の詔智と新語の法と凡て無しと﹁是の如 く通達すれば是た名けて阿撃要撃二墾二菩摸を得﹂とて、反つて此に能讃の人と所用の謂智と所詮の境界とを明 してゐる。即ちかく讃する法は即ち︵畢竜︶清掃にして寂静なゎとする。 達人が禰嘩するときは、布濁する者も寒く、禰濁することも無く布濁する物も無き境涯、所謂二病室寂に廃し て布確するから、大功徳あゎと憤波羅蛮を詑明するが、善行を零しっゝ、我れ善をなせゎとせす、善とは是れな Dとも観ぜす、詑の馬にどんなに書をしてやつたとの考へもなくして、善を作す。斯る施や善行馬は自然法爾の 確であ且膏であつて、何等の報洲も瑚得せす、期待せすとのと慢心も亦微少だにない。かく無所得行、無作の犬 用を自ら成ずるのは、是れ凡て此菩鴇の性格に基く。無断得のところ類書痛であり、無用の大用、無作の大作が 白ら行ぜられる所以である。武文は牽の達人が武文は萎の至境は無心の境であると言ふ。恩恵分別を超えた無我 ヽヽ 無心の境地から創造されるわざや牽能が無敵の張さとなり無比の垂術創作と字Q。斯る手近の事例の功能を普遍 的に廉く深く切下げたのが、展墓は妙有なりとの語の表す内容である。此境地境涯が應無印任両生其心であゎ、 随鹿馬主、立鹿骨虞であ斗個々の生活に於ける創造行であわ、無上菩鴇の硯成であ玖.諸法資相の端的である。 諸法資相妙有の至境は、墨であわ無相であわ無住であり無我無心であるから、有心有差別心でなく、概念や言語 20ヱ の如き、種々の規定や制限に拘束される思惟分別の認識機能のみで把へ得る以上のものである。此意味に 思惟分別、による見聞覚知の差別的蓑撃で惑ゆる、二疋の差別相があれば此は基とは言ひ得ないが故に︵智度奄七八、 六一一男上︶此は燕差別であぇと言はれ一乗差別であるから無稽即ち一相にして平等であるとせられる。故に大 品般若経平等品︵智度奄九五−七二五男上︶にも、頒菩損が彿に白して言ふ﹁我れ悌より聞く研の如きんばー彿 寧こ法案と愴賓と諸法L毒しくして異ること無し。世尊よー長の悌賓と法賓と檜宴とは即ち是れ平等な少、是法 ●● は皆合しもしなけれぼ散じもせす、色無く形も無く相対すること築き一相にして● 所●謂 る無相なり。憐は是 が故に能く無相なる諸法の廃朋を分別して、是れ凡夫人なゎ是れ阿羅漢なゎ畏れ辞表彿なり是れ菩薩摩詞 と言つてゐる。此が一切種智である。ニ要は一饅であると共に無上 是れ諸僻なりとす﹂といふ。悌はこの須菩授の所説を印可して﹁是の如し是の如ト、諸悌は阿持多羅二重 を待て諸法を分別せざるなぞ︰︰﹂ 提其他の法と三賓とも平等無差別にして一相であると言ふ。繹論もこの一切法平等相が清浮であ旦・諸法 如・港性・蜜際は即ち平等であると言ひ、﹁諸法平等は是れ無整珊にして寂滅の相であり﹂、﹁平等は是 ぁゎ、法賓は即ち是れ悌賓檜賓である。何を以の故に、未だ︵平等︶法を得ざる時は名けて彿と馬さすー平等法 を得るが故に名けて彿と焉す﹂と言ひ、而も﹁是平等活計一得るが故に分別してこれ須陀淫乃至これ菩薩 彿な少﹂と如賓に了知すると言つて、悌智が無差別平等中に差別し、無分別によわて諸法を分別するを明 る。此れ平等中の差別であか、無分別の分別l無用の大開である。此に封して凡夫の平等二相を得ざる分別差別 〇.〇〇 の智は虚妄知と解せられる。故に悌智を、諸法賽相の加算智と辞しー﹁悌は寂滅の不二の相を知ると錐も、亦能 書経心に裁て 203 芋提心に抑○︸ 二六 とも罵鐸するっ大品般若渾彿閣 であつて にも、﹁筈沌は即ち畏れ道、道ヒ即ち荒れ憲提﹂で㌧▼めつて、方法手段又は過程と結 ﹁怖は.即ち是正菩提、菩提は即ち畏れ悌﹂ に ニウ・i く寂械相中耳軍法七分別Lて而も櫛完⋮エ琶せユご∴苧几五、大正二束、七二七頁︶ 土品︵大正二五.七〇三見︶ 果の区別はなくして而も・冒ら此間障然たろ机モ施設ト、又 よわ摘出するのである﹂とする。龍梯は ︵誌砕︶菩蒋⋮侵詞小ほ餌ち観音顎重文珠の如き大害蔭は、衆生の であゎ、﹁齢布いつも俳簸きも詩法の法相は常陸一′ごのるが、衆 能評者と研讃の法とは無二一能で、診るが同時に北、.甲日ら持然たや望別C花㌍が、空つ。故に又同上の経中に言ふ、 ﹁一切法は不生であり﹂.﹁無生・無印作・燕坤起﹂ 生が是法任・法相、いイ一知らた一いが故に、是焉の故に ●●●●●●●●●●00 ︵輪廻C一翻泥︶ に、更に表芸mは即ち是九五衆の琵相たゎ、一切法は皆菩提に入るが故に、 焉のみの故に芋托の道む虫じ、是泣言戻託て畢生た生死 繹論巻九二 ︵大正二五、七〇八買上︶ 是の故に侍は即ち是九菩提、菩撞は即ち是れ僻−茂り二といパい、﹁党に三十二用有少て身モ荘厳し六波羅蜜等の功 徳が心を荘厳するから名けて彿、疋名 く︶つ○ではない、菩提ふイ瘍るが故に之⊥イ癌と名く﹂と老婆心による鐸をなし、 但し凡夫の凡夫たる顆以は、彿と菩摸と衆生C三者0平等一澗なる、−定知らーず、心中に此等⊥忙分別して異わあゎと ︵大正二五、三三一男︶ 菩揖の三者無差別を明にトてゐる、智彦論蛮七一︵大空云、五五二男上︶には、浬紫郎ち無等と僻と諸法賢相 は﹁僻は即ち是れ蔭耽芸彗琶憲芳は郎ち是車僻、菩提は即ち畏れ琶ぢ若,産茎葉は即ち是れ菩韓なり﹂と僻・智・ 言った如くでちるが、︰総じて邦密書たろ嘉童麺︵壬±幸三■.:アリ亦、不二?君雄臆孟 斯くて能話C僻と印譜0菩提とC不二一周三言∴つ丸∵こ、らす、能話C智たる一切電智が菩揖であることも前に する所にある、とC袈た明、かにして︰Jる。 ● との一餞無別室言ふ。但し震適する如く、斯る平等不二無蓋別の境嘩︶忙得ればこれ彿であり、件の立場であつて、 此モ得・誓ぃつが迷へる凡夫衆草なのであるから、此モ得た怖が大悲心、︶ご以て、凡愚の衆生救済の薦に僻への道を 琴不するのである、豊近傍法倍わ三賓上伸の菩揺曳び菩拒へ○準と衆草・二が詑かれるっ凡夫、からは革なる差別階 程とも見られるが、悌ふら見れば皆是れ無差別中の羞別である。かく俸・法・悟、悌・菩鴇・道、悌・浬柴・諸 法疑相隣・智・菩提の燕欄不二一個頬差別q高攻元の境涯、から、智度論の法身・法性身・法建生身悌・虞僻・植 木虞悌が譜婆京相・なDと†る擁身論五自ら魯得さ九るで・あらう。而も衆生の智の通産に封際して、此法身・虞彿 は或は諸法音相即ち法身と了讃し得るし、或は此が辞身∵或は應身又は生身、化身化僻と應現し、又は斯く感得 するとて無差別申の差別が花軍さ九てあることも明とならう。蓋し虞僻は唯悌輿彿で吾人の智と行が其境涯にま で高曇り深まら・温ければ、此真義することは揖釆ぬ。而して一度、諸法貨相に契合する所の高次元の境涯を得、 些向い境涯から見れぼ、讃すべ早空港も修すべき皇道も爵にはない、無修無謂無得■なのである。然らば何が故に 菩操を得べしと言ひ或は此を諾した又は得たと言ふかと言へぼ、此は世俗の道理思想に應じ凡愚外道に通する言 語⊥紅以て、生死に沈活して苦しめる衆生を導き解脱せしめんが焉の方便である。大品般若平等品︵大正二五、七 二四頁上︶に悌望音はく﹁世俗ごノ⊥以てC故に、憐は是︵の阿持多羅二窃二妻提︶法・ンバ湧、花わと説くも.是法中に は法の得べきもつ無し﹂と説く所以である。 此故に菩韓を語九ば偽、モ語バリ、箱智としてウ琵婆苦衷び一切種智を語♭、彿遺の橿を語るのであり、悌を語れ ば彿智を請わ菩提之明すこと≡笠︶。能語草こ所詮の法と能讃の智とは不二一題で熊差別であるからである。党 菩提心に就て 二っ; 菩提心に就て 二八 に菩撃壷に大心と稲したことも、一切程智の因位に於け晶呼なる般岩波羅蜜た行する菩薩が亦J二輪無差別 06 ︵一 基寂として、或は法を以て或は智を以て表現され得ろ場合も有わ得るし、共闘に何等の矛盾の存しないこし﹂ 掃出来る■︼どあらう。︵未完︶ 衆生の還源性に就いて 伊 男 敢に私は衆生を暫く彿に封して揮ぼれた人間一般といふ意味に解し、かかる衆生の依って以て現成する根源と は一億何であるか、又その根源か衆生に封して如何なる意義と債値とを有ってゐるか、主として起信論を結して 論究してみたいと息ふ。 衆生の構造といへぼ、一般には五経とか、行作的に見れぼ三業とかが考へられるが、これを大別すれぼ心身に ょって衆生は成立つともいひうるであらう。心は身幸三とし、依虔としてそこに宿る賓の如きものとも考へられ るが、善書の身的行業は凡て心の命するところに随って営まれるのであるから心⊥了一憤って筒めて身も身たhソニソる といはねば■写らぬゥモれ故﹁欲修葦身者。克正英心。﹂︵大挙︶といはれる。心正Lければその行ひ正しく、心直 からすんばその行ひまた直茄らすと考へられる所以であるっまた﹁人之有道也。絶食暖衣。逸居而無数。則近於 禽獣。﹂︵孟子巻五︶といはれるのも、人倫を尊び、仁義を重んすべきことを教へたものであつて、人の心その虞 衆生の邁渡性に就いて 207 ・栗丘の遠雷性に就いて 三〇 ,之得す.八つ道行は生はければ人間も望見偽廿∴完﹁ごつもので・−直るから人間が人間として禽架から搾ばれる所以 はへ伶つ至ユ買否、ごニラ二いサやにけ九ば∴らね。も上よわ心つみ㌧■追つて治Lも身こ九に量はぎ血豆心C欲す るL三ろ膏にのみ詰ろて号に一∵ゲ斗γ、心ハ流言b甲∫洋三り十全性・三明L通いに字叫導.互いが、心−七草︺は.㍍くし て主と章へ、卑∴‡代車には貧し義損すこたは吊7こ﹂も草津申立彗へ方に根ざしてウ苫一いはたければならね。そ れぎ再るから五辟に就いていへば白組万一身とすれば幹C向轟は心であゎ、中でも詩経が受恕行の三率ぃら翫別せ られて特に心王L﹂宿せられるつは、隷嘉が精細作用のうちでもとジ頂け主饉的と考へられるし﹂ころから、これに 帝王0寧イ貞へたが罵めでちらう。また彿陀は、宅建調子○托寝室鵠が身口恵三罰のうち望別売も重く.蒼罰最 も霹Lといへるに罰し、三栄中青学更売も重しとして身口二糞壱こ九石下筐に置けるが如きは︵中阿含雪二十三 傑裟招惑︶、凡て心、モ主とし身、宅従とする聞合に本づくものと膏なければ、浣ら・謁。つ主ウ八問は肉娼的に生きる のみならす、精細的に生き、而も精締約に生き・ア﹂ころ鱒甫めて人間が人間L[て生きる阿山が、やつ七考へられ るわけである。 ところで心,た主とし、そこに眞の生命の根渾がゐると考へて、−ての本性之把握せんとした不断の帯索は何も悌 ではない。印度長吉?文献映陀に貴けるこ与⋮や蔓こ二幸⋮?如き素朴な観念のうちにも夙にその所芽を 宗聖に聞達L浸潤せる根本蟹讐克つて、印珪の思想兜は斯様な主騒?胃壁兜であるとさへ看ることも強ち不普 我と呼ぼ九る析のもCは人間の主催たるべ亨bOの呼構に外なら掲。かかる主饉の探究は印度のあらゆる哲彗 数のみに限つたことでは■這く、慣ゎに印庁古風相菱⊥王願てもモの泊苧イ虚然と指摘することができる。一般に自 二〇S 看取しうるで季b、1。ト、㌣し今はその詳細に亙って論⊥デべき婆⊥旦長から・杭誓蕗に封釈的と考へられる一 二っ思想を尉富にL′壬めてき∵っ一三思ふ。菜づ吾菩に注意せらるべきは防錆−jE彗によつて詑か軋るアートマン 丁+て でうるが、こ九人間つ諺ホ主靂、と考、→2べ誓言に〃芸ら−Jの∴÷苛つて、周知︵蒜く、出入息、関目l関目、 エ′ 革命、青石空こ、盟筈やヴ還巧遅遠賀−箕−曙−意東力など人間d身心上に預れ孟韻易から絶してこ九 グドープ・一ノ㌧ らつ背後にこ几ら差﹁度しニ・喜二\享苧†誉陪グー椋鳥字‡っや二考へら九た○でユる︵㌍絹違,ニ三丁四。 一化繊にキ†、︶菩ご一ご﹂空こ、ニ高二更∴る豆知+貞て丁号 ∴㍍遠望竺・一二〇′∵は こnア1卜てン十−二∴詫筈。隼人息、閂”∵苧へ叩、目論、崇祈、埠、雪剖二三卓榊甜。悪者抑。云何有情入息等粕。 .京王.棚板っ則知有紳。軍ぺ以統率霊莞竃宴箪所草屋敬。則知有細っ是敬称 F蒜常無。溝豊北∴︰∵れ、≡∵註。望菩拝︰っ二巾J韓、讐・仕晶っ一三比三〇二烹・︶として又、﹁優擦迦︵⋮トi二名 一を︺己︰一一︶ 言。貴市和語っ以揖人見㍉祀肩、訂 悪者。二百論憲上。大聖−Oi一七〇下︶として崇八畑J警た警リノ⋮もの︰ご九で、備裂から不倶戴天祀されてゐ るのは周知云ことであ︼ミ TIト↓㌧︶ 亭≡蓋完売=薫三誠がや、箪∵写、′誹り︶、更︵感党︶以外に寺志すべきこ三毒申三皿して請託せんとL、 宍?叩く運べて三︶ウニ⊥兎がこ■り苧■こ三宝誓怖︵り詰厚甲′←謹皇したいっに、寄毎怖∴ノ︰ニ誓写るこ三は﹁故実 や泣望占︺持潰によつて撃つゥ又こた重苦賃■冊・11ら撃?U宅−他つ仕方では警J声い。責た記憶の情緒 莞十モ記憶Lてうて母乳、モ渇望ナる は前﹁き蒸け至傍習・這Lエ崇言1一つ一言、1▼J︵元叩垂二・丁一九︶と∵いI﹁諸にいは?壷哉は前身 から妾ちて技、他身モ望﹂∵謹∵′∴誓享り几∵警手塗ぎ車言重言 未生け還澤茂∴禿いて 2⊃9 衆生の還滑性∴就いて 三こ のである。だから︹前の︺鰹が械するも電報は漬しない。︹前0︺鱒の械後も同港に存在してゐる﹂︵同室≡︶ と語少、賢兄が生れながらにして音茸怖の情、−疋琵はすとか、母乳、己渇望する如きいはば人間の本能も霹我が耐生 に於けるこれらの諸鐙鱒い〆一記憶してゐるからであつて、この消息は中農我C傲有性と常住性とを許すことによつて ︵正理経二丁二・二七︶内拝具たる意︵正 理証一・一・九︶しLも畢字Qものであるが、この恵は非遍在、嶋⊥であむ、静銀と合して桝知を人我︵蛋我を意 γ・︶タハ・tリラナマナれ 甫めて理研されるといふ。またこの蛋我は身性内に於て?み柁現する γ.ワイププルシャ すイ.7 γヌ 味する︶に僻遠する媒介であつて、意モのものには知的能力は・軍ご元撃堅テ二・五、八︶。また意は知少手で ある惑我が遍在であるに反して、徴であるから︵韮理詰二丁二・二〇︶.封象と接髄した放と更に甚鴨し、斯くし ︵▲lニ■l・ぎ芋誓言ナ︶ ︵⋮享≡==重義こ㌢人音−ニ︶、﹁私はモのもの之識別する﹂ 係はる私は記憶の保持者であゎ、その記憶のままを再認癒するのも依然として同一の私である。飴人ではない。 ︵くijぎぎ■y隻≡1⋮−邑蔓ニー︶、﹁私はモのものを知つ、空︵ニIj弐を官≒=書・−⋮−⋮己;室︶といはれる場合に、三時に の私であゎ、また﹁私はモのものを知る−∵あらう﹂ と更に﹁今現に私が見てラ?二同じこのもクー土いふ第二石見が成立・ち、こ孔ら三つe知の知少手はやは少同一 たならば﹁私は曾て見、声﹂土いふこと埠成立たたい、従って聖では宮てつ見と﹁見0同想﹂ 曾て見た﹂︵≡一1.巴ぷニ⋮≡=⋮⋮〓土三■霊ン三=三1室≒ご二三・小吉=山︶といはれる場合に、・冒己の見が同想されなかつ ら︵jE理詰一・二九︶、人甲り損嘩旧主醍∵Qベきも〇一ご追つて、﹁今現に私が見てゐると同じモのものを私は である︵正理夢二ニー・八︶。斯様にして蚕我は一切の見者、一切の経験者.一切の知者、一切の覚知者であるか ガティ て認知せられた所知を霹戟に俸達するのであつて、意を搬と看るからモこに意の割きが認められねぼならぬわけ 2:つ 鋲人の知や記憶モ私が再認隷するCではない︵正理詰二丁一二五㌔かかる私は過去の私も現在の私も未発の私 もやはわ同一の私であると考ゝで勺如き私一∵・苧Q。岩−しも私が三時に五つて首尾二貰した能統〓看でないとすれば 私は一利部と粍も行焉し音芸心することは不可能でふらう。正珪の論話せんとする震我とは凡モ斯くの如きもので あるが、普通私として意識される私とは斯程な私セあらう。斯くの如き私はなるほど人間の主饉であるには相違 ないが、これは他と矛盾し閲関する私でゐるから難溌一着であゎ乍らなはやはり矛盾撞着を免れない軍なる通常 の吾吾の主饉た串間人我であるのみたらネ、正琴が論語方準︶叉自派の室要な中心課顧となす結果、論語としては 棲めて精緻に連行されてゐるにも拘らず、論語は要するに論語であか、論語せられたものは畢責論語せられたも のであつてその故に直ちにモ九が僻存するとはいn︶えない。かかる主醒の常住性と買有性と・︶だ硯箕に於て明確に 自覚することは到底不可能・なことである。寡に軍魂の常任性といふが如きは素朴な古代人の切なる要請でもあつ たであらう。講話や要請に本づくものは存在すべきものではあるにしても、それが直下に即今に於て存在するも のといふことはlできない。存在するものと存在すべきものとは解答に峻別せねぼならぬ。また比丘部党は弼蘭陀 ︵V・ゴ⋮︹ニハ1⋮・︶つ︺書三iニー王墓鼓︼ミ・;∴コ︶ と がr感魂は存在するか﹂︵ノ・⋮㌻■富1ニ三≡ユニ⋮t、ゴ、i︶と問うた時に﹁大王よ、賢に第一養よりいへぼ雲魂は存在しな い﹂ ︵l≡≡≡〓蔓−⋮〓∵≡〓﹁≡㌢一斉阜:、王墓ユ≡=て〓■≡ユニ≡−−だ︶ 答破Lてゐるが、聖にいはゆるヴューググー即ち琴翼は雷我と同じ性格のものと考へられるが憐教ではこれを全 フドぢヲ く撥窮する。亭に小栗照子部の誰く如き非緋非範頼我︵補特伽羅︶と宿するものも要するに個人我たる人間の主 韓に名づけたも︵りであつて、これを不可詮蔵となすC庄、かかるもeが存在せざるをえないことを要請して梯て 衆生の蓬帽性に就いて 2ⅠⅠ 衆塵の還滑性に就いて 三田 られたことを賽賽きするものであつて、内容の上からいつて寄書の憮焉たるは阿よわ、其に慨存するものとはい ひ薙い土いはぬばなら望例へば、鏡台論・彼我執晶。中論・然可蛮品第十六偶︶。蛋我にしてもヴェーダグlに ﹁曹肇﹂ ︵ぎ一√ として語られるもので. これはもとシャタ。ハタ・ブラーフマナー〇・六二こに奉げられてゐるが、そこでは語法は硝とこれと異なる。 教﹂︵姿阜孝三皇宮︶︵これに関しては苧已一⋮〒芝l・箪.Ⅰ.︻l・甲︼.コ一望告・にも見ゆ︶ 新一ごJの梵我︼知能に封する最古の璧一一品チャーンドーグヤ使波虎沙土第三篇第十四華に﹁シヤーンディルヤ 巴色一ハ叫︶も拉披尼沙土と同棲、霹我の藁になわ法るとさへいひうるのである。 ナも述べてゐるやうに︵義理註二・一・こ、罪惑等0論理単に関する箇所を紀かなかつたならば 土が訟王手ノ主音若しくはニ・きレさ二千まキ㌢と呼ばJLるのはモの放できっ。jE理○如きにしてもプアーツヤーヤ 鮎に空し全く異質的なもdといはねばなら醤。寛に匠波尼沙士は覇我の探究に路始するといつてよく、廃液尾沙 念に本づいてゐるには相違ないが、いはゆる梵我一如といはれる如く、璽我の内容に梵の性格を風興せLめたる ぅするにしてもモの性格に於て全く寧〆真にするもの一丁ゐる。優波尼浄土0蛋我も固よわ地上的人間的蜜我の戟 ら望別に璽我詑が・㍍かつたわけで望互い。しかし匪波尼沙土に於ける蛋我は璧醐、韮理のそれとモの呼稀を斉 悪報詑は勝論によつて別唱されたもの専ての姉妹撃派たる正理がこれ・之基礎づけ饉系化したのであるが、こ て根源的未森雨主鰻に遺帽辟入せしめんLテるにあるといふべきであらう。 ての主憶はこの様なものと考へられるが、解散ではかかる主韻が璧粥の意味に於て盛宴なることを登らしめ、以 しても或は喜八補特伽羅にしても田よむ何らか人間の主讐言べきものであゎ、通常吾書の意諭する如き私とし 2Ⅰヱ これ心持?円部に存するわが撃完カ。これ葦なりノ。この世を去少て筏− ちチャーンドー㌧グヤ第三筒第十帽章第臣節に、﹁一切計一作カ、一切を愛し、一切モ睨ハぎ、一切・モ昧ひ、この一切 之包括し、語去たく著することなきもC㍉ 予はこの︹我に︺合ニラベし、と︹斯く志向︺あらん者には、茸に糞3ることなし。斯くシヤーンディルヤは言 ヽヽヽ、ヽヽヽヽヽ、ヽ へゎ、シャナンディルヤは言へゎ﹂といひ、明かにアートマンは梵と同一視されてゐる。 * 蔓コ≠︼ハ弓≡コ蔓︼■イ已ハぎ︼島:季⊇雪雲妄≠主二≡一一⋮⊥≠舌苔コさごi身三己J︼−笠妄−ご虫ハ竃⊥1ヨぎー・2e蔓⋮p崇≡己 ︺エーコユー;董干草邑一ニー已〓︼き三▼2〓〓■古︺妻lソゴきーこ童与訂ノ告ぎ⋮i・iti苫エリ1つ■童己、邑亭笹≡ノユci︼ハitち芝iとi ︼l小一芸・l弓㌻一芸旦j宮古五色jざー一︶. 右の本文に於て、王室一は挙γ指すのではなくしてアートマン三忘峠することはシャンカラが三2ござ〓ぎ2=itこ︶芸−ぎ ︼ざ c︼亘▼㌢ヨ〓・︵エ宅已与i萱号訂くi汁呈上〓i・ご、ン︰ニュむ±−と琴了苧⋮し一っによつて明白で李︵㌔・また今はシャタパタ・ブラー 倉∽ フマナの原本が手許にないので架方聖芦田十三憲節操の英語に徽するに、それには旨まエC−〓しf〓禿ヱ︺ご・i什︵ニー・⋮t︼−︶ ン已⋮ぎ篭 iエ三三≧︰菖−きまご完コ■ノ′・董ご主〓㌻≡昌づ﹂[乙1墓じ言乙−ニ言邑一∵﹂学ハーから同等にもアートマンとあき﹂とは明 かでき㌔ところでオルデンベルクは ︵lrこ乙.三キ空元︰ゴ才一L乙−1・¢旨−二エ一撃ニュ1宣⋮一ご乙ユiC ≧〓エ≡;︶声ヨ︶、自己の我が苧=芸撃なることは砲く言で現賀の事蜃であるにも拘らず、﹁この世を去旦﹂稜、予はこ の我に︹合こすべし﹂と語ってゐ乙のは、硯軍か再び未知へ達去かつたかに恩はし治ら九二分鮎に於て矛盾を悉ぜぎるを えないと疑ひ、また、この矛盾打解決ほ、世界と経射的本質と竺闘停を如何に表象し‡この世界に於て絶対的本質が現 れてゐー9・・・︼︼と多とを如何に銅諭せんと試チたかに印すゑ打合的な研究を軍んでゐ−e、と語tl/、この矛盾の解決は藍で はまだ試みられえないとたしてゐる。 いふまでもなくシヤーンディルヤに於て?竺kらす侵波尼沙土には嘩虎に梵と我との合致を蓑明してゐるが、 衆塵の迂河佐に就いて 2Ⅰ3 ・笑止∴逗澗他に砥いて ブリハド・プーラヌヤカにも﹁或は又これ偉大にして不生の率蒜り、不老、不域、不死−無賃なり。梵は貴に無 貨な少、篭は琵た燕蜃た五。明く知九る者は梵と、亨ごし乞いはれる。 ㌧い 芸ノユ︹薫一⋮己lギ:告∴き〓七j≒こご≡lきご〓三こ二ニ≡ソさこ一・己〓=ユニニ;ンゴ一つノまご⊇ht=ン二︶ごっ﹁≡叫二こノ︸2.‡コll〓こコ 二︼壬生■iヨ雪2]一≦㌢ぎ.亡こ︼2J.コ一■㌣L。J● 斯くて使波尼浄土の買或は椙論、定理C÷−九と全く畢なり、梵にま三向められた性格を有することは明かで、 梵﹂土仏る私とか、飛に合二1や私上▼小はこC嘉ぷ我とは別個の私一∵乃つて、経と此とは本釆別のもの一ご直り、それ らが現琵に於てか兼梵に於てかともかく合一すると考へら九てラ勺。モれ故梵我一如といはれる場合C我は個我 C意味に驚ける我であつて、室我ではなく、こC佃我が梵荒しくは買我と合二1ればモれはも早や個我ではなく 電報である。斯様に見釆たるたらば僻糞のいはゆる傭札一指し﹂いふことと梵我一如とは全くモの るともいへないものであー篭∴寧ろ彿に還るといふべきであ葱 はない。本来悌と異なつたものであれば悌に成るといふことがいへるが、本来異たちたものではないから資は輯 ふことは稽であゎ、暇である。それ故、成彿といつても衆生とか凡夫とかが悌と合二qるとか悌に韓成するので か合一するとかではなくして箪ろ凡夫が俳であることが本禾わことであつて、凡夫が凡夫であつて彿でないとい 回よわ、悌と凡夫とは本姉別なものではなくして一如的であ少、もともと悌と異質的な凡夫が僻と一謂になると 秩序を保たしめいつ不可見C力一ごヤつと、”ヤコービのいゝ㍉様な自然の竜感覚的背景モなす如きものとかlTないのは 意味を異にするといはねぼなら笥。悌数にいふ研の悌は梵の如くに宇宙別遣の根本原理であるとか宇宙の一切の して梵′∵あり㍉ ヱⅠ4 そ仁嘗否はともかく若しも梵我一如の思寧ミステイクの名を以て呼ぶならば、傭故に就いては決してさうはいへない と思ゝ㌔ 二 凡モ悌数は人間にヨ︰完封批判†言望見するとい守るで詰らう・。罪悪生死0凡夫とか無明とか生滅と、冒 以てし間之呼ぶし﹂い、義は日己三モ過信ト、空言も人間中心的こ考へる者には方しく晴天 なら屯。写に人間が白己・目身害違二して一切モ律せんと†ろ限りは決tて憐弊へ的覚酸めは喚撃完ないといは ねばなら・り。 起居論に於ても人間が人間とは全く他なる、超越的な彿によつて否定されるのではないにし 有季去り、生滅性のもので予言される。しかし乍らた讐﹂れだけで人間の存在が成立ってゐ てタない。論が衆生心を呼ぶに摩詞街の法学品てすろのは、響にもいつたやうに衆生の構造 はいひ乍らそつ主撃イ身に置かすして心に置くべきことを物語るものとも看られ、また大罪 もすると衆竿三呈く異なつモ超越的対象的たものと考へられ易いから、吾吾の現貨の心以外 如きものの存在しないこ、と・要撃めたも0と看ろことも冨毛この衆生心は阿黎耶識と呼ば九るものと同じ位置 を占めちがl ﹁所謂衆生。依心意意識韓故。﹂とい払、﹁依如来頼政有生械心。所謂不生不滅興生滅和合非一非異。 名馬阿黎耶識。﹂といはれるやうにーこれらは無明若しくは生滅として現成はするが、た讐 ・賓旦︹一望汚性に荒いて 2Ⅰ5 衆生の罠滑性け遠いて 三八 ゐるかといへぼ、さうではたくして眞如とか不生不械とかを基礎とせすしては決して成立たないも 衆生が無明を沸試して無明から解陀するといふ能力といふ頼なものが考へられないわけである。間 れぽならぬであらう。若しも虞如とか彿性とかが衆生本有でないとするならばどういふことになる 方便的な理由を巷ぐるにとど幸吉といふべきであつて∵しの鮎に於て僻性論は起居論に一誌を橡す︼?といは一誌け るが、これらの理由は起信論が展如の本有性之習峯的に基礎づけてゐるのと封此すれば、ただ衆生此度C薦めの また僻性論は衆生に僻性の存在する理申モ詑いて五穏0過華〆盛れしめ.五痘0功寧蛋香しめるといつてはゐ 義記懇中︶とも、﹁故須行依僻行。心誓併心返本遭源。斯は凡習。﹂︵原人論・思潮眞渦彗こともいはれてゐる。 て衆生の究極の目的はかかる根渾に撃⋮ころにあゎとせられ、﹁令随染本寛之心逐即遣滑成淳浮也智﹂︵起債論 こに沸教的韓身がある。而もかかる輯身は他者的超越的0それではなくして、自著的内在的のそれである。掩っ 無明とか呼ばれて腰部せられたに反して今は却つてこれ考察拐し、殴陣してゐること⊥定見出すこ り、更にまた﹁今約宣教。原之方党本管蒜。﹂といはれる如きものである。斯橙にして衆生は帝に 心とは﹁籠−切有情。皆有本党眞心。無姑巳釆。常任滑浮。昭昭不味。了了常知亦名彿性。亦名如来席。﹂であ 原ねて﹁屏英人道竺心焉本﹂︵原人論教職鋒序︶といひ、忘を以て人間の搾って立つべき相涌と考へlその一 謂清掃也。﹂と僻繹してゐる。ま、㌍原人論は人間0樺建と蹄撃妄論じたも0−Tぁるが、モれには人間の根渦を 本素性若しくは埴持とはして空払い。論には﹁以発心渾H。負義光。﹂といひ、葦記は﹁言党心渾者染心之源。 てゐる。それであるから衆生の墟滑壱如来強心手長は白蟻清浦心七呼ぶのであつて、無明とか生械 コⅠ丘 は修行⊥疋摘めてはゐるが、外軍去エ′遠望ユ昌でない、鵠ら自力とか他力とかからいへば/て九が一枚のものに なつてゐる。起信論は自力修行た埠窮したも○といふ見方にも私は直ちに詰同できもした示し、他力救清、︼牢究極 に於て主張すjっものである主音見絹にも輿みすることはごぎはい。絶対自力でもなけ九ば謁対他力でもない、 全くモ九が一枚になつてウつL′兎は考へる。内田に主撃孟且いた撃含に暫く自力し義へら九、外柁に童撃γ塵い た時に他力と感ぜられるだけ○ことで・詩つて、内田と外持とは相h呼臆する、も0ご括れ空言雪白力修行と いふことも外綜近侍たすしては不可能たことであり、また外掠のみによつて敷は九云といふこともあ曽三仏いわ けである。それ故自力はむろんのこと他力の可能な禎招古一挺どこに求むべきかに立ち亨三言ば起信論は衆生 に於ける虞如の本有性を以てこれに答へ壱であらう。 三 衆生口碑汚が顛明でたくして軍票宣宣、雨もこ九に沼薄軍人せし㍗三∵一三sつに撃宮詣の百目が空・干し与る ならば、然らばか、かる見知は一罷どこにモ○喧才真如去手長天うか。電信託に﹁白居己身布置如法﹂と、−、いト、大 、リ∵J−.・ゥ い冒‖上空﹂一っ?か ヽヽヽヽヽヽヽヽ 預入樗伽痙たは﹁修誉泥中詑加不穏本堕誓け。常空中師彗個帯箋。塁二十二絹。在寮一切衆生身中っ賃弦畢巧化塙 衣顆讃。貪詳療等妄分別鴇之隼汚染﹁﹂︵大王十十∵耳元九中︶と三やってうるJいら、長雨諾しくは加重慣は、衆 生?望饉つ中に為る土いふ風た表書、∴てうるっゃ露雪中に予るといつても軍嵩には何一警∵、−′””∴ト”−. 四肢に・靖るか丹田にあるか。今日C生理壁土・表芸∵と′チトらいへ、は転置に心が語ると栄へられるであらうっLか 聖堂予選澤性∵乾いて  ̄ ̄ ■/ ヽ 如ともいはれる所以でぁいつ。持つて心の所在をつきとめさへすればモこに虞如があると考へてよいわけである。 大股捏塁窪にも﹁療法亦闇。悉唐有心。凡有心者定常得成阿腎多羅二義三菩拇。以是莱故。我常宣託一切衆生悉 有彿性。﹂︵大平†二・五二Pq下︶と述べてラQ。斯くて、虞如○蛮は、衆生の身中にあるとはいひ乍ら贋密には 心?っちにあると看ることができる。しかし一概に心といつても如何なる心であらう、か。﹁異心撞木己釆。自性 清浮。而有無明。焉無明所染有箕凄心。雉有決心而常恒不攣。畏敬此義唯僻能知﹂といはれるから、心が無明に ょって染せられて染心として謁成してゐる場合でも虞如は不生不滅であるから常恒不整に存在Lてゐるには相違 ないがー染心はやはゎ染心であつて虞如モれ白頒ではない0であるから、かかる決心としての心に於ては未だ勝 養の意味に於て虞如が陽にされてゐるとはいへない。モこでは虞如はなほ潜在的であるといふべきである。また、 ﹁心和恵﹂とか﹁心起﹂とかいはれるが、さういふ心は貴は起きてゐるのではない、起きてゐると息ふことその ことが無明の然らしむるところであゎ、全く資有性のないものであるから虚偶とか虚妄とかいはれるわけであつ て、かかる心は妄心とも念とも不覚の心とも呼ばるべきものである。意、意識といはれるものは凡てさういふ心 に外ならぬ。常に心を離れて虞如はないとはいつたが、果してかかる心に虞如の堕があるかどうか。 2王S ・睾七:。叫諜性一一紙いて し富来芸紳錦丹C法主結すや、・ヱ∵ふ﹁心モ足心に・モさめて稚く宙一?靖を清ナ⊥とか﹁心火モ降下して丹田及び 芭心こ取持よ﹂たど土いぃ、また﹁心・モ左つ箪つ上工ぉくべし﹂などとも語︵二しうる甲からみると、心は手足や ヽ 索清浄旧に置くことも強ち不可能一∵はないとみユる。呵七起信詣では衆生心し﹂か如釆戒心とかいはれて乃るやう ヽ に、見知は心のうちにあるといふ夙に考へられる。心の弄するところどこにでも虞如があると考へられる。心慮 ヽ 起信論では虞如の蛮は念起上にあるのではたくして、凝念とか無念とかいはれる心の上にあると考へられてゐ る。有念〇心も心であるには相寧ないが有念C心は本死ないも0であつて、有念の心を主饅とする自己が普通の 自己であ少、無念の心ふ王工程とする私が虞つ私︵虞衷︶であ少、無念0心モこに眞如があると考へられてウつ。 斯撹に血那生0展の主騒が虞如に外なら拍とするたらぼ、かかる主餞は衆生にとつて決して客観化することがで きな、いものであるから、モれに就いて言託したゎ、心緑することは不可能なことである。言祝するとか、心繚す るとかは凡て有念上のことで迅つて無念上のことでは■ない。それ乾さういふものを眞に理解するには私自身が無 念に.‡る以外に方法は.這いこととなる。﹁若凄於念名馬得入﹂といはれる所以である。衆生心や阿黎耶隷に於て は眞如はそれらと別に外在的超越的に存在する如きものでないにしても、なほやはわモこでは超越的である。内 在的とはいひ乍ら普通は超越的と考へられてゐる。かかる内在的超越者が虞に超越的でなくなることが待人であ ゎ、発するとか記すー︷エ﹂かはさういふ意味計一もつものである。﹁以離念境界唯諸相應故。﹂といはれるのもこれが 薦めである。無念に成るとか虞如に成るとかいはれるものは斯様な消息を語るのであるが、﹁成る﹂といへぼ元 来さうでないものが、さう成るといふ意味に僅ミ解せられ易いけれども、衆生は本釆展如であつて虞如以外に私 はないのであるから﹁成る﹂とはいふが寮は成るし﹂もいへないわけである。寧ろ虞如に遣る、本来の自己に通源 ヽヽ するといふべきである。経ってかかる自己はも早や無我ではなくして無我といふ虞我であゎ、浮欒我常の勝果を ヽヽ 得るのである。無上依脛︵巻上、書経品第三︶にも﹁阿撞。有四穏菩操無上勝果。何者焉四。一昔景浮。二者贋我。 ニ著妙柴。四者常任﹂︵大正十六・四七一上︶と語ってゐる。 衆生肴踵滑性に就いて ヱⅠ9 ヽ 栗丘の還相性に就いて しかし乍ら期憎に席如が有念J心D上に票こL丘蛇に明・やとたつたがl、萱孟志の心にしても心を翻れて 虞如はないのであ怠ら、若しも、㌫急が日己Cうちに蟄居トて望如きもの与る・驚ば、﹁捷念椰者。等 虚基界。無桝不礪﹂といはれるのほ如何を差障に㍍さ票き言らうか。鶉記︵中学十五男︶は本文を﹁虚 内とか外とかがあゎうることとなる。然るに大股浬繋綻︵馨三十七︶にも﹁虚基無故非内非外。彿性常故非内非 であらう、か。虞如は善書ミニ警∵日華ユ岩言怠ら誓言虞如夏が虞三助0外界は葉であつて、虞如に 度如醍無有可遥。竺切法悉皆虞故。亦頻可三っ目二切法皆同如故。﹂といはれ って今はまだ虞如は主嘩㌍T・J写真て二叩エー三軍︺うちに内在してチノ主上解する・篭ぼ、更にr此 るが如くに凡警−いネ主説から鹿五七何底に盲弼苧こ言いふ意味に郎撃∴⋮とは冨ないわけである。躍 下︶と録せると同埠言らう。耕∵、て虞如は絹在三三三てもー言古・汚虚基があらゆる基底に礪満す 適確誓如虚基。又如土鋳金詰っ此=転宅申蒜等皆芸。基底不別むっ有無別異性っ﹂︵大空至・七九六 いが、この解繹は要す歪軸性論に﹁燕則男建喪。凡夫・宝。菩提約分別。心性 ものと看なければならねっまた﹁撃議凡軍−三.在招円陣性恒撃−。﹂との峻別に就いてはモの厳密性を期し難 るが故に無際なると異たつて、体位は常任言去ら額誓⋮±いふ意味言わ、これは虞如の常任性墓相る =芋七にも﹁虚慧⋮故非三世栃。棉性常故非三世概﹂芙正小二・五八〇︶L′■いつてゐるヤうに虚塞が尊貴、無な 基有二轟。以況於木見。一同堪講。謂鞘獅三陸日通凡宅船章票景肇彗二璧箭車 云法空相也。﹂と節して⋮が、﹁楕描三日﹂んは虞如には前穫申陸なきこと一 コ2⊃ 外﹂︵大1E十二・五八〇︶といはれる如く、悌性如ち虞如には内Lナか外とかは・ない。内外のあるものは凡て時間基 間に制約さ望遠常生域?もつ一ご言・弟ら一∵や亘﹀モ九政見如ほ嚢 ‡に講 ウ っち の心 みあ つて外に.揮い襟なもの 手芸い土・斗考、∵っ斗弓∵鱒L乍、妄⋮面、㌢り考へ至言は、望芸・粟立C心とは細何なる性格わもわである 二饉喜吾C心に封する外界とは如何たるものであえか。外界と 、や宣更に探究す云ことによつて、青書がl嬰に外界上考へてぉる如きものも穿は外界ともいへないもの一ではない 、か、さういふことが開署にされうるわけで・や亘∨ いへば一般望遠,宣指す主巧へら九るが、十、璧豊喜が青空uノると膏土に拘らす存在するかといふに膏に起信論 に於てのみたらサニ貰節撃∵は亨っいふ風には考へら九て至心い。吾吾の心は外界によつて律せらるるに非す して却って外界を達少出すも︹︶ごりる。それであるから短信論には﹁三界虚惰。唯心所作。塵心則無六盛境界。﹂ ㌧ト といはれる。 関するワレザーの見解は確に開幕に催するものを含んでゐる。如ちワレザーほオルデンベルクか撃〃姦して・参ユハ冥壷l、、 、√ こ品息は絶起系列に於ける掛と掛かとの悶何に於てもいほれうる嘉一へられる︰か、既に留意された這う lt よつて何か主音し苦るといふ状・憲に立三言こ⋮はで去吾∴㌔とこ1芸意訳学といへば表象¢現象的存在に対する僻定 にして、﹁籍撃円の試は甲か純粋づ哲¢も芝肯甲アも忙に愕はるのであ挙っ然るに駁癒は常にその となしたに圧して︵〓・亭ぎー重義︰茸ユ亭山一・︸声望J、白からはこれを。ぎ一コl星毒宅・こ絹じ、その間竺学歴を明か 、ヽヽ ヽL■ G=l・主義0声ま妄弓つ︼l≡一≦こ⋮≡㌔●王といつて一望缶。円よⅥ姦にいふ所の心と構とが同じと と考へられl由ことによつて、甲Lご﹁志せし号りものとして理野すき.言ができヱ︵ン㌻:苫〓︵萎∴l︶iヱ・芝−妄旦li邑︼0 0 意琉といふ西洋哲童の術語∵∵㌣かろ意味︰−妄言れてぁるか否か私の能く関知しうー¢所でないが、結起系列に於ける﹁攣 衆塵の遼据性に就いて .22Ⅰ 衆生の遠浬性に就いて には方しく能造的な作用壱具へてゐると考へられる。こけ斯で正理派の詣くいはば打開論は約数め考へ方とは全く ものであつて、境は既に外から輿へられたものであぃ一、それを根や烹を稚′軒としてアートマンが認試す︼芸で てアートマンには培㌃品聖り出す如き似きは仝然謎められ・ぬといはねばならぬ。 しかし乍ら若し外境が唯心C糟葎ならは外境は心一Tあるべき筈であるゎに却って心を見すして心外に法を見る と嫁してゐ卑。六撃叉分印するのは群は弓己の心之分別するに外ならぬ。六学年自己の ︹∵、・はれる所以ご芸。何寧かにゐるものである・忘らば、それ以外0ものは虞如 のである。また何慶にもあるから何鹿にもないものともいふことができる。 とはいへない即ち妄であるから一切法が度如であるといふことは成立たない。伺虞にもないから何鹿にも在るも 形相。十方求之。絡不可得。﹂ は、これが虞如であると取り轟げ三払いことであるから虞如は何庵にもないともい哲っるものである。﹁以心無 や身中の何虎かに内在すると考へられる如き心ではないであらう。斯くて一切法が虞であ少如であるといふこと とはいふが、さういふ心は右の如き意味での心一でなけれぼなら苺のであつて、外界から裁断せられて菩吾の臓髄 論に於ては心の如た語ることによつて一切法の如がいはれるわけである。期待にLて眞如は青書0心に内在する て、却って客髄若しくは外界の能造となる如き主醍を意味すい勺ものと看なけれねばならぬ。それであるから起信 論が一切の法を摂し、一切の法五重すとかいはれるのも、人間e虞?玉髄は外界に封立する如き主題ではなくL 心と異なると見るのは妄念分別によつて起るのである。それ故訳生心が一切の世間出世開法を猿すとか、阿黎耶 心不見心。無相可得。﹂ のは何故かとの寮惑が起るから起居論は更にこれに答二し、﹁以一切法皆従心超。妄念生。一切分別部分別自心。 222 斯様にして程伊川のいはゆる﹁敬﹂とか﹁圭一無適﹂とか孟子の﹁ヒ人心地。義人路地。舎其路而弗由。放其 心而不知求。哀哉。人有弟大赦。則知求之。有放心而不知求。峯間之道無他。求其放心而己実。﹂︵孟子幾寅十こ といふ﹁求放心﹂なるものにしても又琉伽に﹁嘩定とは其虞に於ける心一境性な少﹂︵⋮r21=・∼吾毒⋮一生ぎ鼓 とかいはれ、或は きyぎ⋮・Y▲宅・主審・ユ・−u・に︶とか二二昧とはこの︹祀定︺モのものが︹用観の︺境のみとな少て輝き、本性基 の如きなゎ﹂︵ぎl=・ニ∴三.㌻圭一さJ⋮1i一±・ぎ−壱芋一一山・号ニ■・ぎ1レ室二′一ニ・室−宣ごアir−コ﹁霊 といふが如きも皆散乱心を一所に鋳め乗って心をして本釆の虎た得せしむべきこ また起信論に﹁心若馳散郎嘗併発健於正念。是正念者。嘗知略心無外境界。⋮⋮久習渾発其心得任。以心任故。 洒繭疲利随順待人虞如三昧ご とを教ふるものに外たらぬが、これはなほ虞如腎得への一楷梯と見るべきものであつて究極のこと−﹁J.はない。重 ヽヽヽ ヽヽ た斯様にして党許せうれた心源に就いて.﹁如是衆生自性清浮心。因無明風動。心輿無明。倶無形相。不相指離。 とか或は ﹁衆生亦爾。無明遥故。謂心焉念心貸不動。 ヽヽ 而心非劫性。﹂とも﹁一切染法。所不能染。智髄不動。具足無漏。重嘉生故。﹂とも或はまた﹁無明菓相。以依不 ヽヽ とか語られるのは眞如が不動性に遺源するところに虞如の本然の相 覚故心勧説名馬業。党則不動り動則有苛。異不凍因故。﹂ 宕能観察知心無念。郎得随順入虞如門故。﹂ が存すぺきことをいはんとするもの一tある。つま∂虞如は本釆不動性のものであつて、モれが効けぽそこに業生 じ苦が逸ると考へら凡てうる。割くとも封建は虞如の室外的性格に唇することと考へられて蔓つ。しかし乍ら虞 如が内に癖在Lて不動の塵を産むるといふこ上が宕卜字車通少に解せら軋るたらば虞如は内に蟄居して全く働き のない前栽の摂珠たる石塊か何かのやうなものとさへ恩はれるであらう。純に虞如は不覚無明に縁ぜられて動い 衆生打返滑性に就いて ココ_ミ 衆生の還摺性に就いて 日大 たが薦めに無明菜摘才一星閲し・へ;であるが、、㌣かる動き方とは全く撃−芸て垂明や妄心を綺じて却つてモe妙鞘 ち主一無適、一心不軌と同義にて供。しかれども僻法にては敬の芋の心は至極の所にてはなく旗。わが心をと 心は動きたきやうに鋤きながらーモつとも止らぬ心モ不動智と申し焼﹂︵不劫智紳抄録︶とも、﹁この敬白の心即 に童た﹁不動と申し俵ても、石、m太かのやうに無性なる義理にてはなく侯。向ふへも左へも右へも/十方八方へ ゎて用に臆することなし﹂︵同筆撃ニ︶といはれるのは心髄の無掩日在0妙用・之鋲撃仏く道砥したものである。真 に同じ。心髄の廓畏明も真た、やくロビとしっ小人は剥く時は、動くにひかれて己モ其ひ、霹ふた去ときは頑 にして物なく、串塞釆少瞑るに任せてモつ形⊥イ一あらはす⊥一いへども、去るL亘は撃〆申むラ三−涼し。水月の昔 ことなしといふ。:⋮・形は効くといへども心は置の琴丘八はす。軍禦はヂこいへぎーじ動の甲′抜かす、鏡牒静か た五㌔用は鋤いて天則に役ひて高手に怒ず。餞用は一汚・芯D。こ九、五割いて鋤くこL′恵く、静かにして静かなる ﹁宙ふにして割かざるものは心霊撃管㌔動いて物に懸す皇聖ふ心︹崩なゎっ髄は轡かにして衆埋を具へて雲明 在き一等一ことあた汁でずっ今の率有、心詣不調つ応用無嘩自軍琴■ご丁と之知らーご︵天狗整術論巻一︶といひ、また すして白熱に剛・芯わ。心は明貴止水〇.ことし。意念わづかに心頭に憤たはるときは滞萌これがために塞がれて自 て、﹁心⋮閏物なきL喜は、売和して平かたり。気如して平らかなるときは、活連流行して走る椚なく、剛.1〆一用ひ 動きは訊かざる卓也嘩ご心る。不測嘩∵りラ﹂ころにほハC目在性、搭違性が・斥ければならたい。かの武重者に於 ・ろらう。これは有急が動くC一︺た丁、して燕念が封くのでぁる。動かされるの一ご竺拓くして鋤くのである。かかる ・要琴、署現する如き今一つ〇動き方があいつつではなからう、か。不思議業禰と小衷心語習といはれる如き ニュl れ乱さ拍やうにとて習ひ入る修行稽古の法にて俵。この稽古年月つもれぼ、心ふ定何方へ放しやゎても、 位に行くことにて俵。右の應無新任の位は、向上至極の位にて慎﹂︵同書︶ともいはれてゐるのは凡て心饅の不動 にして自在なる極地を語るものである。斯くて虞如は固よゎ散乱心としての放心に存するのでもなく.さうかと いつて求放心に存するのでもない。寧ろ具放心でなけれぼなら沿。具放心といつても常に心を放心状態に では・たくして、求むる心も放つ心もないとい、違味でなけれぼならぬ。かかる心にLて甫めて虞如はモの塵を占 むるといふペきではなからうか。 衆生の遭滴性に就いて コ25 う仁.ア︰り〓 し・・∫−↓∴rイ・L・∵∴ り,1ソ.﹁.\、﹁・+■・∴㌧り一−、L.一.卜し r 朝鮮巫俗の現地研究序説 由 ・・・ ・象L﹂・方法 手T ・ こ1に狂俗三種﹂一こや字軒米曇者口所謂シャマ1二︵ふ蔓=⋮宣㌃⋮︶モ指すの一†詩つて、これに封しては撞来夏 く﹁琶流弾−一久は﹁巫節j土い、ご紡が常てら凡て粟た。耽るに信満致しこ.へば、旬毎にも俳敦や基膏教のやうに こ・士ナよつて、ンヤマニズムJ膚仰と行事七つ配合常習庖 ㌧‡て▼華ぎま三空言下にこ口語モ牢‡ことも少く.た†‡ 開組を有する大.Uニ隼り宗斗︰ウヤ\印刷∴、又正術上梓べに、ニ一∴ほ主±してシャマニズエロ呪術的又は投面河方面 豊牽ノる璽誠︰﹂‡︺にゼリたち 故に私ヰ烹ぜ上申畢竿〓芝地ナ︹羊阜と∵.兵学玉や㌔ ・学窓味†∵ご=:Lたっ 三モ紅紫こ≠・下が王偉∴竿∴?毒自ト.窄ニケl一穴りジ∵〓圭守る棄露東嶺二闇二王モ、ニ∴J.、真芯っ盲丈駁 ングー∴ハ申いらの酷入 に見ユ忘雪現に再丁っ記革ん甲羊二Lて互真読十王気遣警∵−・・㌧たつて・ノヤマ、:ニ・三川が︰澤いて西洋へに触 一.︶ られ∴?は、十七世紀○後半にロ、.÷,へがザバイカ几地方えはユニ中一イ河畔一︺接揖L・へ.∵ によるもCL′云はれてゐる︶モれ㌻刀ントも蛇にモ︵ご示輿論に於て、ツングースの、ン1.マンL′兢オゲルの熊穀の コニ(1 ユニ︶ ことに閻れ、これキー以て人間の信仰樺式の最も原始的■還る払わゝ穿例としたが、近年に至ってロシア人聾者のシ ツロシュチャンスキー︵<﹂1. ベリア巫俗に関する研究が特に清澄に行はれて、ヤドウンツエフ︵声芦ノくニ‡iコt−羊彗︶クレメンツ︵亡﹂亡t茎じ三■エ ■印∵︵五︶ の早舅の究よ ミハイロウスキー︵一J、・芦宴;宣言エ︼こシュテルンベルグ︵︼L・挙室ぎ︸、已 要已.︷ユ窒き︶ ︵華J〇乙︼C訂⋮︶及ボゴラスつく﹂㌢琴一 ︵︵小・雲Cr己且、アメリカ科箪博物館が東北 るものがある。加ふるに英米モの他の暴虎からも襲多の琴作が出版せられて、就中ポーランドの女流民族軍者ツ ︵六︶ ︵七︶ アプリッカ⊥芦㌢斉エニi。一エと同じくポーエフンドロニオラヂェ ︵八︶︵九︶ シベリアに追ったジィサップ持陰険︵J窒一て︼▲︼蔓已iこニニ︶のヨヘルソン コーエの葉経が光ってゐる。 二︵こ 次に蒙古及清洲の巫俗に関しても、その組織的研究はロシア畢界に負ふ顆多く、ブリヤート蒙古出身にLてけ 二一︶ シアに学んだ.バンザロフ︵〓・詳⋮空き宣︶の蒙古巫俗の研究は斯界望・口典に属するものであゎ、シロコゴロフの シベヮ7から清洲にかけてのツングース巫俗の研究は最近に於ける食も大一字る牧寝である。これに反して支部及 つ′ノTi・宴︶の諸華とアメリカ人クラー・ク︵>⊥︼⊥二≒︼′︶の望首に見るシャマニズムつ華が最もま 朝鮮の巫俗に悶Lてはロシア轟音の手が伸びなかつたらしく、オランダ人ホロート︵・﹁冒こ・妻㌣︶の大著に見え 二三二三 るウーイズム と真つてゐるものであるゥ吾が囲に放ても狩野直吉・羽田亨・鳥居敬蔵・岩井大書の琶冗聾が夙に束蔓巫俗の研 r一円︶ 究に着日Lて、主として歴史的言語墨的に文献を吟味することにより、又稗に民族拳的甥地踏査○方法によつて、 幾多の論文モ垂表し、近時またこの方面の研究に志ナ栄行が少く・誓い。就中赤松智城・石橋丑班・新高垂︵嘗名 朝鮮耶伶の現地閉塞序託 2ニヱ7 朝鮮巫伶の現地研究序説 ︵一光︶二穴︶ 金丸澤︶氏等の満蒙及北支部の巫俗、鮎貝虜之蓮・村山智帽・孫晋窮・李融和民事の朝鮮巫俗に開ずる論著が注 ︵一七︶ 目さるべく、日本内地の巫俗に就いては金m二月助・柳胴囲男・中山太郎・折口信夫・伊波普歓氏等の労作に負 ふ斬が多い。 凍することから始めなけれぼならぬが、LかLまたシべワァシャニズムに於ける如上の規則正しい調和を科肇朗 廣く考案せんとして、モれには先づシャマニズムの最初に翫宗され研究されたシベリア地方に就いて、これ之吟 マニズム・計一以て世界の各地を通じて散在する多くの民族に特有なる一現象となL、これ之一般民族誌の見地よわ 族にも絹張して、一骨願い意味内容に於ても用うるやうになつた0であつて、ミハイロウスキー自らも既にシャ に於て、特にシベリア住民の特異な或る現象にのみ適用されたのではあるが、後にはこれ之シベリア以外の諸民 べく規則正しき調和・之以て随所に認められるのである。モこでこの名辞は始めは地理的民族的に狭い厳密な意味 性とこ九を隔てる距灘の大・字句にも拘はらす、シャマニズムといゝご般的名稲を以て規定し得る現象は斉に驚く 族の中には、多少の差等こモあれ、何れもシャマニズムを見糾すことが拇釆るのであつて、其等の諸民族の多様 が夙に訊破せる如く、べーⅤング涛吹からスカンヂナダイア宇島の境に至る贋大なるロシアの版圏内にある諸民 先から、かやうな見解に傾いてゐることは、ツァプリッカの既に指摘せる如く一ご曾Q。しかしミハイけウスキー ︵一入︶ 特殊・定る一類知となす見解が生ずるやうになつた。例へばヨヘルソンやポゴラスがチエクティ及コリヤークの研 その浅の研究も亦将に東北アジアの踏査に負ふところが多かつた結果、これを以て北アジア持有の宗教的経験の かくの如く巫俗の研究はこれ・宅娼史的に見て、シべヮアの原始宗教に対する関心にモの端計重したのであつて、 2二2S に明瞭にし、且つシベリア及堅飽のシャマンの行事を一瞥問明せんがためには、更にべ1・ワンダ藩峡・を超えてア ︵一九︶ メりカ大陸に現存する類似の制定之も見なけれぼならぬと述べてゐる。 の翫念を一の基調とするものに適用される一般的表現として用ゐ、他はこ かくて巫俗の意義に関しては、握来歴政二倍の見解があつたのであつて、一はこれ⊥〆点て凡ての原始 術宗幣的生活特に憑依︵︼J蓋︵莞i旦 れ.−虻北アジアの原始宗墾的事賢に局限して、他の地方にはその苛画ん√見ない宗数的経飴の特殊なる一類塾となす のであるが、マレットに依れぼ、ツ丁ブザッカのシベリア巫俗の研究はこの相反する南紀の中道を巧み て、北アジアの地方的準型の特異性を元首に認めながら、而もモこに一般未開民族の生持と精神とに共 ︵ニ0︶ 多の要素が結合されて、特殊なる一形態之取れることを明示したといはれてゐる。 息ふに碓釆の巫俗研究は、その賓料に於ても方法に於ても、筏越の研究者に封して莫多の恩憲と示唆と ︵ニニ︶ てくれるのではあるが、その文献約束料にのみ頼れるものは別としても、現地硝査に於ける方法論上の ︵ニー︶ 達してゐなかつた結果、和明の民族誌的モノグラフの如きものや、極めて表面的な地域調査に撰するものや、或 ︵〓三︶ は廣汎なる諸民族からC断片的事賢の蒐集比較による性急なる概括を試みたものなどが少くなくその優れたる現 地研究と辞せられるものといへども、主として印謂崖党的再構成︵E賢ュu已re⋮l告三賢。、︶のために行ったも のであつて、種々なる巫俗間の鶏緑関係とモの歴史的襲撃〆顔見することを本質的な仕事と見撤し、現 目的を以て専ら文化の過事イ噴かにすべき蛋料○蒐異にあゎとなした。例へぼ彼のジイサップ探検隊の ン・ポゴラス等の行った東北シベリアの優れたる課地研究の如きも、その目的は北太平洋漕岸の現住民 朝鮮茄侭の現地研究序紀 コ=9 椚衰壷.俗行雄油汗⋮㍑宰詑 空l C抑、モ辿るし﹂いふ窟寧モ取ったごで 民族の研究︺〆√つて、享がは明、ご二克帯地山里0人絹つ整牢り耶︷・八‡満つた結果/て︹一軍俗に闇する摺査も亦こ C一聖誓冥途簑恵一′東けJ宗短文化0波︵王室⋮を㌢ニ二‡ニ⋮ノノ主▲︶ 二三J ユ.∵与。 然るに純近た放けノる琴ブ=宕症′で人事H古窯準は、一つ弛む吊構造︵苧▲・三三喜ユ?門に寧かれた痘三仏る 社食制圧嘩り関係モ仔細に研究して、そ○薄遇内に貴ける人間活塑.㌧決草する根本日詰カモ明かにL、モの停統 壬・写痩せしい声、かC轟牢榊方法が一重題として?鞋台に於け皇彗警蒜冨耳痙解丁 的場報たよつて耶成される人々つ行動モ把通することモ以て目的とするところC由謂涜化呵社台畳的方法︵i=ぎで ㌢。書宣。γ㌻ご⋮三三ニ︶ ︵二五︶ るこL一・こしに、何々C要素モ分没して比較考崇モ行ふことの危指値を強調した。而トてかゝる壁兼的現地研究の 可能性モ埠のて闇東に示したのは 〓二︰︶ 私も滞巽中氏C研究室に竺し七つ影響イ痕く受けて、吼に漂化︰照杜′青学叩方法つ箋箪埠モ記や、軍邪自らの居住 すろ朝攣†痩地として、寄らこつ方法エイ一指補し発った○で・ウつ。 しかしながら跨萱が衝く進むに撞ひ、マリノサスキーヤブラウン等がトロブリアンド諸島やアンダマン謂鳥C 如き、小規撰なる未開民摂つ社台c研究に於て弔うた方法は、朝鮮C如き規韓の珊昔に大王仏、文化蟄展の鱈史 モ有ってゐる、且つ近代社台化へC道程に手芸、うな軽台○研究に於ては、モ?≡1持用し得ないこ土を如か、 の前部にして健茸なろ祀愈調査つ方法を参酌することに努力し これを補正する目的モ以て、近代祀宙里e荒淫的方面に目覚ましき望連を示しっゝ争′つ農村社台嬰︵コ=・三三葺言i〇・ ニー七︶ 言こ又は都邸敢脅撃︵r=≡丁=ナニ・1:⋮・芸壬、︶ コ3つ た。 モこで私は粍釆の巫俗研究が主として整監的恵厨に偏してうた環地研究の軟陥を補ふ意味に於て、換言すれば 社告又は文化つ度つ誓曝は麓年月方甲と酷卑苧〓方富士口相互補整によつて彗展するといふ見嘩㍉ち、こゝに朝 鮮といムー口汚克つ祉争孟婁び∵てC全構造C申に位置づけられてうる畢帰之ば直接わ封克とLて、謂はゞ郡部 に於ける耶藤つ概念た以て、男衆避指の長 準将軍つ方法によつて補正さ宜七漬化的敢・守屋南方法による現地研究壱行ひ、指釆○語間究によつて明かにさ 、﹁蘇りで〇マレット○轡詣一㌍.㌫宝玉毒義︵三⊥二二ニー﹂︰=圭−ニーじ 和︵り手懸わ上意Lつ・人も、モれ・三五が寧か壬し■やつ顕官同位遭とつ描係、ン‖鹿に考へ、童た朝鮮わ特殊的地方的 ︵ニ■へ︶ 膏鶉へ一章=二⋮・三一iニ車上に於ける韮俗が如何なろ持相ふ雲干し、如何たる異同を示すかを問題L土?るに嘗つても、常 にモの他?鞋唐的諸要素との悶軍γ一考厳に入れて、マリノウスキーの所謂﹁諸要素の互に結び付き合へる生ける 一重饅としてe文化﹂の開明に心がけたつもりである。 かくて私は種釆の歴史的方法による現地研究の無税せる方面、又はこの方故によつては如何ともなし得ざる方 面を明かにするために、深化約牢ギ箪的方法b重要性、孝詰むるものではあるが、それは常に現贅の対象に應じっ ゝ細心のエ章孟写ろのであつて、穂や美文化の公式的稔明0億検なることモ強く或しむるものである。従って 私が朝鮮巫俗つ現地研究ふ皇心した目的は、これを方法論的にいへぼ、深化的祀・軍畢的方法の必要性と安嘗性 吟味するにあけ,モ0結果の大部分は既に二三〇著述の中に撃表してあるので、﹁朝鮮巫俗の現地研究﹂を草す ︵〓九︶ るに嘗つても、主として既に蟄表せる拙稿に基づき、更に吟味を加へー修正増補して、一の饉系を輿へんと試み 部撞把持庭現地折壁寧由 2j王 朝鮮町借c現地研小こ軍記 たまでである。 註 ︵こ 赤松恐航∴ほ準浩三義∵′迄汚︵棄松㌍拭・秋小机だ莞宥∴毀損万民旋と素数、二五市︶。宇野固空・轟敦民鉄壁、五 四〇一員。 ︵二︶ 呂≡lこく己乙芦ぎぎ警邑︼..字書2牢家ご︼︼2r︵・F己≡已え蔓Gぎ≧−﹁一−■i−﹁ハニぎー邑⋮ニご¢−言草こ㌻宣旨 苧c訂享さー●㌣ノ1●︼ごと︶七︸︶●亡㌢]は● ︵三︶ 許︼−t−H.︼しi¢芽諾i呂i岩l邑︼呈し㌢−二﹂r≡挙乙弓〓︵莞2ノぎ⋮茎こJ雫萎海亀・要一宣こハ已ノぎー中ど倉r・ 卜 しrlニ.弾じ1.声 ︵四︶ J、邑ri︼lt邑h−芦芦碧¢琶﹂象岩と.童合音豆︵\、、、ぎ・享、︶・−彗−・・≡⋮⋮ぎ芦へ卓l旨t㌔i−−字b\︻E・ 21d︼蔓.、ノ・已.ヒト買−ハg−u一/・ニ︼小山−弓・≒∵ぎ2茎−1j蔓︵\㌣・き一・・き・︶・−諾・ま⋮lぎ・㌣r﹂・寧¢曽i︼・芦去Cご︼−¢ Lぎ三ここノ望﹂写︵︸.き邑l各室⋮山〓、ィ■声宰c︼才こーlLtぎノ=ニごC≡邑ハ冨it−⋮=︼−の﹂ワ已ユニ︵\、、ゝ㌻・を争−きじ・ ︵五︶ 要i︼・C︼ハニ警邑︰誉牧●芦苧c宣こ︼.撃こさti︵一n已已−¢ン葺已−C=∴Fl︼長享−竹︶し︰−・ ︵六︶ ︵川慧乞i¢一き芦LLヒ至宣⋮︼芸雪ぎL′・望邑当iヒ∴′訂i已し′U己き︺己=撃≡−・ ︵七︶ 芝亡−・2ヒ器−壬●︼︶空芽︼−茎−宰告苧幸二訂−㌢−1註しir山芸︼−望−ノ三︼左r︰㌢−汚声 ︵八︶ き色石㌻昌一−ノ′、..〓︸三ぎ・旦ハ■㌧r●賀仁づ・芦こ、こー・〓・享¢ゴ1一︷星−il・至d〓1¢ノ±′I星−i・・ぎ乙﹂ぎ孟ll㌢・予︰耳・十・ 芦−ノ、e−●−イ●ゴ1eノ、己ハま・].〇︰い︰I.・ 完︶一ぎ讐妻−芦±吉三m訂︼莞●J・芦︼J声こ.C−・≡︼・宴G︼gユ毒⋮⋮芋G−ニp:︼・芦P・声−ノ.已・〓r 〓○︶ 冒≡羊U−︰√︼ン亭¢巳−亮k句2.t−√こー・筆写至1ぎロ宣言l振t︼1①已︵きg已ヱ︵、、、き、・毛\き︶﹂筆︸㌢ ︵一一︶ 挙ぎ−︼;警一三L写実ご⋮=仁王己こご=盲誓ニニ吏こぎ義llエ・−〇L㌻. ︵褒文八ノー・三︶。同−甫託巫補遺 〓二︶ ︵hr書t−シJ・︼紆︰↑H空i掌.▼l芸者エぎ︺:I﹃三−i︼−芦ノ主.ノこ︰こ▼rrご篭⊥岩−. ︵哲章節覚︼ノ四︶。岡・設正絹蓮 ︵︼三︶ ≡弓打−ゝ−︵r︼り已山覧孟宗ミニー〇︼r′1︵毒P已︼.ノご. 〓四︶ 狩野直音・支部上代の巫・正成に就いて ︵民族ニノー・二・四︶。 ︵贅文九ノ︼・三・六︶。羽田亨・北方民族の問に於ける剋に裁いて︵塾文七′︼二︶。烏骨鶏域・日本馬悶民族の原始乗数。 岩井大津・シャマン宣言ふ語の原鶉に託て ︵︼五︶ 赤松智城・秋粟陸井著・滞家の民蓑と采配。同・朝辟巫侭の研究。石橋丑堆・北平の憧満致。金丸縫・重訂潤油壷 抑祭天典醗。同・浦洋合黒澤州祭抑祭天輿鮭︵田立奉天国吉紆季刊︶。 − ︼二︶。中山太郎・日本巫女兄。折口信夫・琉 ︵〓ハ︶ 鮎貝屏之遊・花邸放︵雑放多田韓︶。村山智帽・朝鮮の訳配︵朝鮮視督借問窒素癖︶。孫晋容・朝鮮耐敵軍.掃。李能 和・朝鮮巫備考︵停研一九︶。 ︵︼七︶ 金田︼京助・アイヌの閉辞。柳田国男・訳女考︵軸拗土吊耳二′︼ 球の紳造。伊波背紋・沖縄女性た。 ︵一入︶ 仁琶−已d芦■学已オ●宇−宇. ︵一九︶ J︵壷・−已乞己石♭乏−与モ〇︼嘉㌻已h要l−ごま¢︵ニ︰︵キ⋮=三l已l一:5告ご・已≡;r一三.パ/Hノ∴〓二た.一ン芦 ︵二〇︶ ≡弓きt−芦芦‡−き宰t亡ごぷこぎ↑ご≧⋮宣ご.三雲一望ぎ7ま﹁ ︵二こ 十九世紀から二十世紀の和にかけて道化蘭の彰苧㌢藍く受けた配合率ゑ軋・曾人封撃は、丘拍貴着が旦拍を分顛して その蓮化の系統を跡づけるやうに、種々なー◎縦令を分顕してその超汚と系統とを辿らんとした。龍に初期の民㌫衰由モノ グラフはかゝる一般的此駁あた迅の妥料として記録−されたもので、現存の未開祀′甘は凡ての人顛かかつて経過せ一三先の 段階の軍存的であー9こと、縦って習侭の汽似は詰贋段階・−三岡じうす蚤民権古間に郎J遁的に見られ邑といふ想定に基づいて ゐたのである。 朝鮮苑伶の現竹岡碓序転 ・つ 、 ヽ −JJ 朝鮮範借イ︰現地析冤序説 五六 ︵二二︶ 鱒朋の現地研究に於ては、︼定の地方に住む講戊族の地域的調査が試みられ、それはまた行政甘腔の人口調査と締 合して、・ユ汀ほれ↑こぺ一塊閣各の踏査弼周が宛い上に、通常砲撃γ一介して行った拾に、祈究が皮相的たらぎるを得ない。 し・㌣上回冗の鹿女地∴封しこ吾川、いゝ−¢淫怖調査も亦け加小の研究¢基.堰とな昌であらー㌔私︰−㌦竹︰だ﹂大興安嶺の・奥地に人山 して行つたす三′ヨン旗の踏査の如きほその何であーひ宗稔智朗・秋葉陸・満蒙の民撃と宗教、燐二㍑オロチョン摸︶。 伯方法によニー柁.相田死の轟粟ではなく、雄ぺ諸民族からの防片的茹料によつて安易なや椚拾を試みてゐる鮎があス㌔ ︵二三︶ マド・ソクス¢塑位論文宗陀誌﹂は懲モ恥骨堪的附究といふ則題名がついてはゐ一¢が、それは準レて探化的縦令撃 ︼こにド︶ ︵ぎ≡〓Y冬季 ︵二田︶ 徒粥罵多の論争を繰返し来ったシャマンけ誇摺及醒蹄の問題、エスキモウ水位のアジア超押詮を櫓︰〃、一般に如保 の先行混、家廣的祇借 との前統制撞といふやうた問題は、凡て熔史的閑心に基づく起汚・ ︵ごl壬ユニ宣一ユ妻≡一一︶ 三雲i⋮′︶ と部薄的祇俗︵9==二三1⋮−エニ2〓ヨ㌻⋮︶ 安化の波又は巫俗文化園の問題、女損及旧人的シ十マン 停括・抑終に関する僻詑であー㌔ ︵二ま︶ 搾化的恥骨畢的方法にほ、マリノウスキー一浪の織機約分析によるものと米国文化人瀬撃に新興せる文化型式︵害T を把へてこれと他の給田との機能的悶悍を分析するといふ形でその t一l一■¢−三言一・︼l︶ の開発と竺一紙があつて、前者は一の文化をぼ互に闊聯せる又は鋳び付き合へる緒部分の全段として研究 すべきことを敢闘し、一の軋曾¢一両︵こ芸ぎ︼さC−︶ 若三已≡ざ ;に拉.1一ぎ J.ごeとlぎ≡害 て善≡p 成果を提犯してゐる。︵茅ェご⋮一乙︵⋮−︼い●、〓−つ.ざき︼室こょ こ〓ニー︹J一言エtC≡ 詳言長官ニー1字ニ・三⋮dエt雫︼l芝¢−21雷ぎ;じご﹂﹂⋮■巳﹁二2・き︸−2乙ゴlCご−ブl薫ぎ⋮戸手三〓√>●F ︼凸●声一一、ニー¢︼l¢一・pヂ︵︶︼・寅−要望ld これに射して後者は社食集団がそれぞれ毎徽的な文化の型式︵盲tt票1︶樺式︵まy−①︶ ︼已≡乙軍エ・−誌ド句雪言︸1♪︸㍗ ︼1・苧︼・C軍空工已︼︶こ︼﹂一l・−こ︰︶u・︺才監守iまt・已1写き 字義i¢巴︼1さg已吉A至ld¢﹂つ︰3 已 ︵ン㌻︹l︷lこJ﹂・㌻、〓−Cリー≡ニつご一つン㌻≡.﹂㌻二ろ㌻−去ぎこ‡llユ叫こ叫tご¢C−−学寓言︼・≡乙望C−1一tぎ:▼¶己l竺−21ぎ〓. ヱj4 方向︵。−∴買t邑茎︶又は副向︵寮ヱといふやうなものを有ってゐることを認め、かゝる基本概念によつて集圃の主要 而してそれはマリ′ウスキー一浪の未だ企てなかった魅力ある 撃で行ふべき亀柁とする。︵芳邑、芦若=⋮モつ⋮ニ雪1・⋮⋮ニニ、〓き〇︼‡⋮≡ノ、¢㌢告〓芦−こ︰芦⋮こち−註こ︼l 偶値が成員に射すゑ撃啓を設明し、桑園が他文化に封す挙受容又は拒否の寧軍〟轟轡し、種々なる具陳の性格及規縫の比 巴乙二二こ=−声己−−ぎ≡≡重義て一エ≡ご■ぎこぎこ⋮・≡ぷ︶ 試みでほあるが、しかし文化型式論者の型式と呼び餞式と稗へ、又は方向・劉向などとも琴丁るものは、単著によつてそ の概念を現にして、未だ正膵なる比較の板持とはなし得ないやうである。従つてそれが現地研究に対して、如何なる影啓 ヰご顎らすかほ全く相楽の問題であるからー私がこ1に深化的祀骨峯伯方法と稀ナるものは、主として樺髄論者のそれであ の粒念を参考すべきであると思ふ。 って、文化型式の多発性を救はんがためには、一般社食単に於ける社食型︵王ろi已︼き更︶殊に食材祉留超又は和郎敢骨 畢に於ける巌村塾︵三三己一・写ウ︶都市型︵守一﹀2ニ当葛︶ ︵二大︶ 秋葉陳・㌻言一1=i書∴写生き;ぅに就いて︵敢禽轟灘癒五七︶。私は昭和三年冨本社禽慧美食に雪J−この方法 によわる日本家族の研壕であⅥ・、鈴木栄太郎教授の の悪質性を提唱し、その可能性と正常性と㌣吟映せんがために、朝鮮に於て現地研究を行ふべきことを音畢界に約束して ﹁家族構成一は近代敢事由あー配合開査法︼ 今日に重つたのであ†㌔ ︵二七︶ 戸田貞三博士の ﹁日本蛙村軋令笹原理﹂は日本建材の御究法が米囲の艇村祀傘型あ方法そのま1であp得ないことを預関すると共に、配 合人鞠辱の搾化的社食魔的方法が未囲の般村配合睾に対してよりも日本盤村紅骨単に近いことを組めてゐる︵鈴木発太郎 日華暁村社食笹原理、七三貫︶。 ︵二八︶ 写l言言∵芦︼㌣芝草論︵〓妻−■ぎ曹︶一ど名字▼て萎ぎこ〓り・蔓草−︼一.き仁≡≡c㌢さ1.ノーー一L写.いコ∴肇︶. ︵二九︶ 赤絵官報・秋肇控・朝鮮兆件の研究下巻の抑筒︵解こ・二・三・六・七・八・十・十一章及紫九牽鱒一節︶。朝鮮 鎚伶の家祭︵某京社食寧研究令蔽・配合革閑咤第一輯︶。朝鮮の巫閲︵日本社食堪年報祉魯峯第五韓︶。村祭に現れたる朝 朝鮮苑件の現地軒先序設 ニュ5 開票淳完地禦一字紀 芙 鮮の純な︵枇震竺樟︶。瑚誓宗法三溝喜講八/こ。朝貢塞人の入墨滝澤︵萎開講八J凹︶。讐椚⋮ と折ら墓︵莞試雫訴九ノ三︶。語録空ご是望ノ︰こ。寝り山碧雲︵望ノ二︶。㌫諾帥三田︵民借畳 −ノ五︶。巫人乞粒釈︵育丘質貴女︶。河州立∵蒸け長誉⋮浣︵∴=莞∵⋮髪︶。清川鳥の聖⋮︵紋人三︶。朝鮮品い㍍ ︵放と膵紆セノ九︶ぅ印崇扁憧記︵刊轟±=ハ︶。揖買芸竹串三三宅朝慧露〓︵朝㍍二三九︶。儒禁以前の 祀貰辞︵朝鮮二九七︶、露汚・わの去声民儒︵崇民望︶、村営二弦親糾︵朝諾竺︶。所望霊に就いて︵朝鮮 民俗三︶。習鮮の氏借に就いて︵京拭辞揖志文崇巌・印神文化宗葦北アジア蒜璧小数︵アジア問題絹鹿燐九 蔓︶。朝鮮星死の母系的仰向︵小E先皇慧瑚記念朝鮮鈴歳︶。 」ミl i⊥所謂禁教高札撤屡前夜の一考察−i 明治初期の太政官諜者 ∴ 田 格 山 明治四年から六年にかけての時代はー謂ゆる維新日本にとつて最も重大な時期の一つであつた。久米邦武が、 ︵一︶ ﹁明治中興ノ政ハ、古今未曾有、/舞茸ニシテ、其大要ハ三三蹄ス、将門ノ桔ヲ牧メテ、天皇ノ親裁二復ス、一ナ ワ、各藩ノ分治ヲ併セテ、一流ノ政治トナス、二ナウ、銭困ノ政ヲ改メテ開国ノ規模ヲ定ム、三ナり﹂と述べた ことがあつたが、この二束琴望芸言る責現キ見るまでには相普の日子を要した。外交上の懸亮は兎も角として、 あつ 一應ほぼ内治の遠慮が庶事イ見たのは、一般に明治四年のことと考へられてウQ。し、かし明治初頭以茶次々と行 ︵二︶ 、かたふ﹁一統ノ政治﹂には電に通いものが は凡て禿た制度0革新やこつ年?撃菩置喘つ鄭宿茅見てさへた た。木戸孝允、記して﹁朝廷上場時冒フ取り自ラ婚ル亭而己ニテ言寄官命所詮重宝︼と嘆息させたCも明治閏年つ ことであゎ、また﹁朝廷上府藩願之官長にても十分乏二は一向時勢も不相儒者而巳にご平八は千人中に一雨人も 明治初期の太政官繋者 ニュ7 明治初措定☆政官設着 六C 含霜仕屏繁りハ有毒紺八、遠望冒甘露率毒︰露分霊小浩∵下車∵71ハ串晦∵奉養誓望簑喜、にご もこの年?・こテ誉︹。手芸か串は望高塩猫0闊行黒靴?ニ・︺あ∴ご、∴宵月にして器少、世人にLて㍗でに 約くの如亨汀∵聖T−三た、から一木戸草冗∴宣すと与思ぃ之﹁明治串良ノ堅に懸ける宥には大いに義がも云ご たこL′一−であらう。 茄やうた時代・モ∵乗難字=わわけ壷督誉由つ上阜らみふば,慧硝薬登同札拇摂の前衣の時代と云ふことが⋮⋮釆l モの封に辟みてこれはこ中土Lて榊常にいそいろた問攣了串A一丁モゎ、一般繕新党と闇鞘きせてまた特に興味あ る時期わーつ・芋?豊八はなh‘。明治i票勘定は、もつとこ?四年から六年d時代に相皆の関心ふ〆一よせ、能ふ限わ多 くの更科を野撃して一段と辰く琴∼これが史的倶明、モ企てる必要があるかに考へら.れる。わけて基督敢の問題は、 この嘗時宗敢白鮭の内面的−な問題としてよわも箪ろ結新日本b自治如恕上0政治間牢として登場して釆てを少− ノ道テ立テ﹂させら九・た翌日でぁつ、巧これ望二車ご、もたく臨鮭琴念・−牢強調して人心の蹄一をはか少、思想の たのは慶應四年︵朋垂歪・二二月十五日のこと一\五ケ條鱒御筆写宣﹁天地紳明こ誓ヒ大工斯国是ヲ衰メ嵩民保全 ︵隅︶ 明治新中に帖㌃十彗苗n摘撃/・一苧﹂て新しく羞二束・覚二乱﹂ロ五借手癒した高札モ重囲に立てるこ土モ合し 寄に罷つた明治頼政由佳命っ轟考老衰う上げて、桝試薬難高札漕㌍〇前苧イ一明かにしてみた.・㌔ 四年の冬から・左占春にかけ、東京・摂浅⊥八仮∴神戸・長崎宰の悶捲撃イ衰嘉にして禁制基督聖わ内情探索の る嗣の上に所在し、可成皇慧貰杓の結び声望仏してわれわ九っ崩卓はぐL⊥だ待つも0が語る。重石は特に明治 しかも神学イ一歯賢とする新教化讐尻乃至紳節分摂政策や、また両詣文明開化論をめぐろ文弊政充たきの相交鉛 二てゝ ﹁永せノ定撃とされた﹁定第三札﹂ に基督数薬制空除か−ぁった、妄は一般周知のところであ 統制に乗り出した新政腐が、白巳弼現0唐桑を一般に問明ト、覧安つ表面豆押し出し、苧じのの一つに外ならなか っ、だが、この 二.ご る。この条軸二嬢壬含む高札牢寅年草薮官軍普モ艮て∵撞革帯札面/試二蚊芦珊ノ事二村向後取除可軍事﹂の 旨が蓮せら九拇去されるに至った〇は、明海宍年二巧二十両誌品こと一∵、みつたが、斯ふる時枝に於て﹁一般 ⊥イ盛由にこ望苗札モ引つ導∵∵二ノ、ごしはいろいろ二雷情?■ヤ㌣こ二∵モつたっ今ほこ8ことが営意再開琴∵は ないから略すと、しても、こユ・崩御して特に興味があるのは、明治叩・五年嘗時に菓ける政府宵月C複潅微妙な 心底0ド菖で吾つ。これは一つの問蜃にならうかと恩はれモー投世人に向つて療諦観禁﹂は扇田鰹節緯持 之緊要﹂と唱へながら、果してこれが故旧官塁㌔へての心であつた、か。明治四年三月七日、宮内大恵小河一敏 こ・、︶ ら大約言岩倉具祀宛0釈展書に﹁薫日率謂之関東義之贋突然画無官申上かね偵東通7待L轟韓仕特に今日鱒H人 心之居少合不申愚考之三倖左に苧上偵ごと書き離した中の第一件には、 一︰三・どこ∴hどこ迄も田の大軍.こて有志之琴じ心∴ゝ.∵り舵は雄琴∫海産般此羞は畢招不校輯簡と鉦箪芝にほ繰へ山出雲止 綿雪錯之人とても右呼争と重用至J之息召之如く韻持とほ有立間明瞭可鎖骨員之中にも耶#も碍て拒絶にほ及はやもチ怠 三拝掠と洋畢と民間打とは耗申可有甜遷醗へ共裏由 底にヤ、−Iひ・㍍から闘窮打倒主たを守1ロ隼吋・草道?も正接掠多可布土鹿⋮︰東根底を御許打毒裡運御英鋳少も見え享ヤられ す長音衷工人心■ノ︺学三ヤ、・エ・宣子∴叫・r撃長南∴軍陣駁撃毒存隋 こ噂卜瞳・㌧よナ円心ほ耶撃工芸卜心に告∵胡喧瞑・一︰二戟・ぺ桔遣れ宿屋醗放散に只此準﹂付て肴人心年 と牽存照云云一 萌治勅勘め太政官試着 コニシ 明治初期言太鹿骨諜者 六二 とあつて皆時の﹁重立醸嘗路之入﹂乃至宵月C心底のほど専つかがはせるものがあ少∵君達攣疋修める者の成 .は斯くては到底﹁今日洞内人心之屠力合﹂がつか良から ゎ行きふノ⊥も注目させるもゎが為る。而して一橋0趣意 御英諦﹁潮見策御大切 ﹂L二ヲバに・ヤつ。たゞ空襲雷こ過言仏いが.これこ二はまことに明治四年C特筆イ一大遷 に志し得たもの皇丁予モ得べく、わけて砦軒数に封し﹁愁て産経には及は・りものと心底にゃも㌫たふら⋮⋮口外 ;〇 ︷七︶ せ沿道のも0は撃ぎ・冶つたと云∴種向0にごは、やがてモの翌年﹁只今の相互空し﹂して蓋慮禦モ﹁只撃イ一以て 之・孟郡して法之以菜せすとの御ギナ﹂に窪って行き、更には例わ蓋唇藷札榊庚のことに何程か日間なしとは云へ ︵九︶ ないも占が為る。た悠﹁南洋禦声二ん対する毘釆と絹嘗1夷る嘗時つ宵月の心革箪つかがはせるものに﹁神武省 御改叢書苛概略持蕗﹂といふ謂ゆる政南機碑文醤がやつが、こ北も所詮は盲つ﹁只今の財産﹂に反映して烏る。 一般に明治四年頃の時勢は斯くの如くであつたから、基督棄すなはち昔時0慧絹彗欝癌ぐにも﹁剖モスレバ ︵一つ︶ 始メアツテ路ナク却テ下馬ノ罪惑ヲ盆ゼシ﹂める惧九が多分にあつた。これが彙た一方で﹁融由麗蘭連盛﹂を念 とする新政府軍人の大いに苧環するところとなつて乃き.妄云ふまでもない。私の所謂太敷官糾那智は、、か1る苦 慮と施策の上に登場をみたものである。 註二︶ 久米邦武﹁特命仝緯大便米欧同党安祀﹂葬一編何首、二頁 三︶ 明治四年二月廿八日木戸孝允より三條安弟宛有鉛、﹁木戸孝允文語﹂袋田、一九入貢 ︵三︶ 喝治四年二月十五日木戸孝允より河溜眞学宛薄物、﹁木戸孝允文筆簾田、一九〇貢 ︵四︶ 明治元年太政官邁第︼五入択、珂治元年﹁法令皇軍二ハ五以下﹂ハ入京 二・‡J ︵五︶ 明治犬年太政官布告俸六八統、明治六年﹁法令全軍二ハ四貢 ︵六︶ ﹁岩倉具祀関係文書﹂弟五、三〇−三一貢 ︵七︶ 喝治五年六月十五日岩倉具龍宛大原重焚書劫、﹁岩倉具耗閥侍史書﹂簾五、︼卓五貢 ︵八︶ 明治五年五月十五日岩倉異観宛大原塵梵寄翰、﹁岩倉具祀関係交番﹂夢五、一三六貢 ︵九︶ ﹁岩倉具祀関係文書↑解七、四三八以下四四五黄 〓 へ一〇︶ 明治四年九月大原重穂意見醤、﹁岩倉具祀陶停文寄J鱒八、二七五貢 ニー︶ 明治四年九月下旬のことであるが、昔時靡啓開砥侯であつた大原重徳は大いに時弊を慨し﹁異宗防禦二付﹂て の意見書を外接卿岩倉具成に差出してゐる。大原重徳は曾ては刑法官知事をつとめ、集議院上局長官、侍稚職侍 讃を塵任して、明治三年閏十月十七日以茶園革袴拘靡呑問詰となつた要人であるが、この大原がこの年の天長節 拝賀完月二十こ日︶よわ摩って間もなく、観領維持・囲威宣揚と云ふ国家内外を顧慮しての﹁皇国萬歳ノ憲律﹂む 按じて細かに策を締わ、これを岩倉具視に進言した。すなはち、 ﹁破邪ノ幸雄シ如何トナレバ政臨上ミ論ズル噂ハ萬固ノ教法ヲ幾スル放こ交際三関僻スルノ内顧アリ串間上三輪スル時ハバ 皇道何ヲ以テカ立ン 困健何ヲ以テカ維持セン臣案 イブルハ畢科ノ一−−シテ洋畢ノ必ス祝フ所ナリ人心ノ上三輪ズル時ハ乗務ノ紳痛ハ人情ノ同ク憂ル折口教法三井スンハ安心 問義′如何エアルノミ 甘死ノ法ナシ決シテ政檀ヲ以チ移スヘカラス鳴呼破邪ノ事成ラスンバ スルエ破邪′事雑キュ似テ難キーー非ス 明治初期の太政官際者 2ヰⅠ 印.治初期■∵下堅官諜封 ︵マ、︶ テ終ナク却テ下比 実相試作⋮得′㌍ハ各国甲7日有スル所ニシテ交特段問教法此内ヨリ揖ヅ牝レ脊制圧ヲ立常数法ヲ宜以テ薔闊家ヲ保繹ス外 阿蛍コレヲ㌫スル串ヲ澤︰ノヤ新説ノ掩う教法ヲ読スル事ヲ得サルカ和雄真之ヲ防ク劉モスレハ始メア〃 ′彗怒ヲ止七シ・−洒こよ囁′宗徒ヲ移スエー嘩総トシテ鍍シ共役白紙∵一団祈シ氏子改ノ如キモ亦忽トシテ止ミ大王前日ノ 頼武卜他出ス龍三舘フ整荘以来之ヲ制スル三四庶二枚ブ而其ノ算ヒ㌫盛ナリコレ算シテ功ナキノ・、、ラ非ス却テ外人ヲシテ 椰舘ヲ鏡石ノ宝キニ紀カハ臣死典亦帽スヘキ/ミ腑死敬白﹂ 歌ノ制圧ヲ悔恨セシふルニ重ル今日ノ撃覇五鑑三屁ス必ヤ招勘ヲ闊ミパ末崇成ンヤ今別紅ノ方法ヲ以テ仰居ハクハ 閑故ノ窓秤トシテ以テ 皇国 と云ふにあつた。まことによく時弊・竺突くものがあ少、木戸孝允の所謂﹁日幕路遠之有標随分想像﹂させるに足 防禦 二 付見込 るものがある。ところ一∵抽“に﹁別紙ノ方串Jと云ふは、 tl共演 凡塊得法敦ナキコレ民メガ向■フ火ヒ異端二拍ル所以ナリ今附三共終身守ルヘキ克律卜依ルヘキ法敵トヲ確定シ以テ其内外ヲ 倒セント欲ス 一藤一二規律ヲ覇ニシテ長井⇒甜シ蟹一三法敦ヲ宜テ串円ヲ守ラシム第三三別二靖防ノ集ヲ設クヘシ ー鱒二■こ写伴トハ戸薄法ヲ喝カニシ氏子改メヲ節ニシテ臣民一京終身氏和/名付ヲ大切二所持七シェル事コレニ付テ左ノ如 ク法ヲ設ケヘシ 上 ー︵以下、十二項省略︶ 己 一幕二三法敦卜.ハ耐哺俳コレナ‖大数′道ハ附スペカラズ各其性ノ近キ魔王紋り魅テ施シ易キ法ヲ以テ的々コレヲ導クエア リ耐ヲ宰ブ着ハ副ヲ以テシ俳ヲ菩、フ者ハ椰ヲ以テス其伶二暇フテ教ヲ設ケ数ヲ以テ俗二爵ルペカラズ若付二惇ル敦ハ上三 コ・ド 符レテ下二行レスタ、ニ行レサ・ルノミナラス却テ愚夫農婦ノ無智ナル且惟ミ且ツ怨ムニ至ル筍モ敬糾尋阻ノ大意ヲ存シ愚 夫恩筋ヲシテ皇国ノ皇国グルヲ如ラシメハ礪偶何ゾ棒バン儒彿ヲ羽袈トシテ急遽コレヲ麗括ス雨後偽者ノ弊風皇道■−連7 者ハ︼々コレヲ菱除セシム ︵下略︶ 一伊勢紺宮諺吸金毘羅東部本願寺等其他社寺J碓ナル者凡衆心ノ仰ク祈各宣教司ヲ置へシ ︼宣教司ハ敵司専伶ヲ論ゼズ融資温厚推郎蓉静ヨク人ヲ感限セシムル者其瑛二嘗ツヘシ ︵マ,︶ ︼室数ノ規則ハ掲示/御高札並工時々御布骨ノ旨ヲ本トスベン 上 一食月抑望三体ロト定メ天下ノ祀寺悉ク宣教令ヲ設ケ氏子門綻必出席開法スヘシ薯怠惰餃席ノ者ハ乱ス 己 ︼欝三三密防ノ衆知此 ︵マ、︶ 一破邪掛り官員ヲ定メ幣者漁二誇組等ノ事指庵ス請組ノ事ハ下三田ス 同 十五圃 下等 岡 十閻 下々笹 岡 七圃 ︼襟者ヲ人洪シ静岡港地二分配シ各教師J門二入り密−−邪情三珠索セシム鞍者ノ人撰尤棉撰スヘキ事 ︼諜者ノ月給ハ四等三分ツ 中等 此他航行ノ節二日一画ノ放費ヲ給7又或ハ探索ノ事宜−:り別三入費ヲ給スル事アルべシ 上等 ︼月二十圃 緒開港地程前人心帯向ノ岡シキモJ其請組卜請スル者アリ今井中二於テ同心堅固;ク邪三流スルー−足ル着ヲ寮シ井講頭一 一議組盲立チ防邪ヲ周旋セシムル事 但乗数多寡−:リチ別三賞金ヲ賜7事アルヘシ 雨人ヲ避シ新二防邪′事ヲ命シ並五入邪ノ徒ヲ監セシム英人ナキ時ハ他ヨリ移住七シム 上 ︼右講頭防邪入費トシテ毎月七囲ヲ給アヘシ 己 明治初期の太政官辞者 243 ﹁右大原老公自筆岩公江差出﹂ 堺治初期の太鹿骨諜者 宰未九月廿四日一党廿六日寒 地見無用 ︵先番︶ uTニニn といふにあつた。右のうち﹁苧未九月廿四日一党廿六日篤、他見無用﹂までが﹁大原老公自筆﹂とすれぼ.なほ 二こ〇 されて行ったかは、昔時の公文書はもとよわ政府要人の日兄・香翰等についてみて、遺憾ながら何等その孜細を 相嘗の考慮なきを得なかつたであらう。しかし問題が問題だけに、機密を保つ必要もあつて、これが如何に鹿理 をもつてゐたから、大原の﹁諸開港地二分配シ各教師ノ門二人り密二邪情ヲ探索セシ﹂める諜者の一件に封して、 律法境界等彼我政夏ビ人望同三関ス.ル纂﹂を管掌し﹁事ニヨりテハ他省靂二封シ雰ヲ指授スル等ノ梼﹂ 二日︶ なしたか。嘗時、岩倉は外国交際事務の重大さに鑑み新政府の初代外鞍卿渾宜嘉にかはつてその職を繋ぎ﹁教法 ︵〓ニ︶ さて岩倉具成はかやうな進言に虐してこれをどう云ふ風に見たか、わけて諜者の問題に封して如何なる配慮を であゎ、謀者の問題である。 のとして、極めて興味ある史料の一つであるが、われわれ嘗面の問題として注目されるのは第三の﹁密防ノ策﹂ 時に考へ合はせて、単に﹁異宗防禦﹂と云ふよわは赫儒彿基に封する昔時の微妙な見解を開陳し施策してゐるも ばならない。大原のこの﹁異宗防禦二村﹂ての見込の第一、第二及び第三は、いづれも明治四年といふ時代を同 兎に角明治四年九月廿四日乃至廿六日頃に大原から岩倉へ右のやうな意見書が差出されてゐることは事穿とせね 故に考澄を要する開港があゎ、或は重大な問題解明の錘があるかに考へられるが、姑らく後考に侯つこととして、 24ヰ うかがふに足るものがない。なほ大原豊穣以外の青からも、かやうな諜者の任命・配分の事が建白されたかどう か、この鮎も現在全く不明で・あるが、しかし故に恰も大原の進言に符節を合せた如き謀者人供の伺書が壊されて あつたことは、この際われわれの特に注目を要する事柄である。 ︵一二︶ 大原老公白楽とすれぼ﹁一児﹂ ﹁堵﹂の字句を如何に解すぺきであるか。或は第三者が大原の背後に在って献策 鞋︵一こ ﹁岩倉具開閉夜交替﹂算入、二大九以下二七六貢 したものを菩寛し、これが前ヘ音を添えたものか。とすれぼ算三者は︼鰻何者か。またよくある例であるが﹁宰未九月 廿四日﹂及び﹁他見無用﹂までが大原の自鮭で二覚廿六日寛﹂が岩倉に差出卓れた後に警き加へられたものか。この 鮎始らく紀して連取具眼の士の示教に侯ちたい。 ︵〓ニ︶ 明治四年三月三日澤外務卿等よりの﹁外交事務ノ取扱手技三関シ評読アリ匠旨趣音﹂参照、﹁大日本外交文書﹂ 簾田巻、一三頁 ︵︼五︶ 明治四年八月、外務章程弟二條、﹁大日本外交文事﹂簾田巻、一九頁 ︵一四︶ 明治四年七月十四日拝命、﹁太政官日駐﹂明治四年常田十五淡 ︵〓ハ︶ 有岡欝三條、前掲書二〇貢 三 ︵一七︶ 石 丸 入 部 早稲田大挙蘭書館秘蕨の文書の一つに次のものがある。 異轟捜索喋者人名 長崎漂着王命髭 明治初期の太政官#者 2ヰ; 大阪課者王命駐 里 河 田 内 避 京 二 ︼ 明治初期亮太鹿骨祝着 米凍郡着こ命皮 安藤劉太郎 ︵マヽ︶ 椛磯部帝王命庇 奈留芳正 造 巳 右ハ上畢諜者二付一月給全一十両ツツ蒐ハシ定番 箱館梨肴二敦圧 構 築 地 大敢諜着こ敷皮 横演薔者二致産 正 伊■ 村 本 増澤違一 長崎天主堂掛り諜着工敦乾 有 山 上 江 口 二 彰 碑 郎 信 三 郎 務 右人中等部費二付一月金十五爾ツツ給シ庶事 米京誤者ヱ禁圧 山 三 長崎謀着こ敦皮 岡併 野 右ハ下等梨着こ伸一月金十両ツツ給シ皮革 同前 右ハ等外︼等離着こ付一月金七雨ツツ給シ姪恨事 小 横 山︵朱ノ丸印︶ 池︵朱ノ丸印︶ 乗︵朱ノ丸印︶ 小 右は嘗時の太政官で使用した用箋入行罫紙を以て全二枚︵侶、第二故右まで︶に書きつけられてゐるが、惜む 2.16 らくはこの文書の前後に何の日付も無い。わづかに太政官用箋を以てしてゐることと一文書の末尾に朱肉を以て ﹁詑持濠地二分配﹂されて之カ、上等諜者、中等諜者、下等諜者、等外一等諜著の如く諜者の 掩印の小乗・梅山・小池の名によつて、これが明治初頭の文書であることを確認させてゐるが、それにしても人 質の詫者がすべて 待遇を﹁四等二分﹂けてゐる鮎乃至はその査定された夫−への月給の額が、全く大原重徳のそれと符節を合はせて ーJることは見落せたいところで、これ等C鮎に関する限少恐らくは大原の施策が故に異常化を見たものと云ふを 得ペく、総てこ0文番は大原?過言した明治閏年九月廿四日乃至廿六日以後のものと推定される。因に明治四年 ︵一八︶ は正米一石につき正月の七⋮些二十餞・モ高値として覇攻下値とな少十二月の如き墜二園九十鏡にまで押し下げられ ︵一九︶ た年−でー一年の平均五同六十三餞に相督したのであつたから、諜者の二十慨乃至七囲の月給のねうちも薬せられ ︵ニ○︶ ︵一二︶ る。しかもこの年の八月.に決定された官長の月給真によると、二十薗は十三等官、十五燭は十四等官、十閻妊等 外一等−七周は等外三等の官給に相督してゐたのであつた。 小葉、梅山、小池と云へば、なほ一つこれに開聯した諜者人摂の伺音がある。これには標題がないが、同じく 太政官用入行罫紙杢二枚にわたって、次のやうに認められてゐる。 ︵ニ〓︶ ︼去ル十七日長崎コリ上帝仕供高木筏俵憤濱へ辻シ安壌劉太郎一−合力麓敦供榛仕定 一志同人頼長晦北方ノ専政是迄ハ月給之定メモ顛之時々御賞賜之廉ヲ以鞍下方有之俵待井今般郷里’能レ上京いたし供●■付 テハ︼暦勉勒轟カいたし供孝三付常十一月コリーケ月七圃ツ、被遣俣権仕匿 但七月以来御賞賜之我者今庄小薬憲一出濃之節石丸八郎へ風合七勤労之多寡ヲ計り伺之上相席之被下方可相伺心組−− 呵治和期の太政官常春 ヱ47 昭治初期−∵さ準甘か菓 御座保革 一同人上京之窮死ハ過日母上柁︰適用下†覆塁圧 小池︵允ノ丸印︶ ︼坪野遺〓慧竺一帯沢之・裾三縄悍ハ大聖tテ抑制降職時宗班並太蛇迄之於費神道陀梓仕定 一同人目給之糞邦十二月ヨリ常分七岡宛三和加唱疫ホ房 事釆十一月廿七日 七C 梅山︵朱ノ丸印︶ 葱にはすでに宰未︵明治四年︶十二鱒骨七日の日付がおゎ、文書の末尾に小池、梅山両名の捺印があるはか一文 事票に任命されて活路したかと云ふに、たふには事情ゐつてモ○任につか、なかつた者もあるやうである。上等 ところで、かやうに曾ての繹正義関係者によつて人摸された諜者が、﹁異宗捜索試着人名﹂の伺ひの文書その は、非違札察の覇掌柄る∂得ペきこし﹂とせぬば。 .宇望仏い には﹁諜音域則﹂字義決めてゐた0であつたから、こ九等官選が即請邪情探索詐著0人摂に嘗つたと云ふこと ︵二ん○ 職掌の上では何程か小栗らと相通するも0があつた。いづれにしても、すでに明治二奉﹂完走の弾正義諸規則中 ︵二光︶ 切を移管して空几。なほ植山其は曾て各藩へ分速した閏の浦上切支丹待0状態壷恕要したことがあつたやうで、 にほ、㌢ならなかつた。尤も時空魚は明治四年七月九日を以て瞑せられ、刑部省と共に新設の司法省に所管革 へ二田︶ は、明治二年五月廿二日のことで、小栗らはまさにこの﹁鱒要撃ノ耳目﹂として繹正巡察の職に在った政府官長 二〓ニ︶ であー還輔遼はない。かの﹁如法守樺、天下ノ非違ヲ乱撃ごる弾正塞が、明治新政府の官制中に設置されたの 申第二項但昏に小粟撃の名が馨げられてや¢。小栗が小彗竺であることがわかつてみれぼ、小池は小池群敬 2ヰS ︵二七︶ ︵ニ八︶ 者に人供された河内宗一の如きはモの一人である。河内は山口解士族で、時の司法大輔佐々木高行の抜擢によわ ︵ニ九︶ 中江簾介と共に、津律箪修業のために僻困へ留学︰で命ぜられ、明治四年十月十五日付で太政官日詰に公告された。 撞木、海外留畢生はその官費生たると私費生たると近間はずすべて大串の管するところであつたが、この年の七 月十八日に大串を挺し文部省が創設されたので、昔時の常襲生は文部省に允許して許可耽を得なけれぽならなか った。蔑めに河内は文部省から免状を得て、時の右大臣岩倉具税が欧米御差遣を拝命して出番するに嘗ク、これ が随行〇一周に加へられて聾程し、に。大便一行東京出費0前日にあたる十一月九日付を以て、文部省から外洋省 ︵三〇︺ へ速達した匝属名簿に.モの名右列ねてゐるから、掩って費に問題の諜者として賃岸には蒋指してゐないことが 知られる。果せる哉.﹁宰宋十一月廿七日付﹂の欝老人県に閲する伺ひq文書寮内項に﹁伊薄遇一葉眈三着城之 由二候得ハ大坂一二ア相勤供按薦致度﹂とあつて、先に横演誹者之強定された伊澤道一が着阪計藤倉に大阪諸に振 わ墜へられようとしてゐる。こ九泰く河内宗一の任にかはつたものであらう。なほ河内宗一のこの一件にょ少、 日付の無かつた﹁異宗捜索録音人名﹂C文事は、少くとも河内が僻田へ貿嬰王命ぜられ太政官日詰に戟録された 十月十五日以前のものとせねぼーなら・こい。,やくて聖に右は明治四年九司廿四日以降十月十五日以前の文事でぁる ことが推定し得られ、僅に二十日鋲少○間に一膳の頴慣れを摘へて上申してゐると云ふことは、大原畳徳0献策 が早くも岩倉具醗立通して弛についたことが知られる。しかもこれ等群青は、﹁辛未十一月廿七日付﹂の諜者の 七一 追加乃至は任地の欒更に悶†る伺′lい○文番が上司に差し出された頃には、す一∵にモe任地にあつて活躍の第一歩 を踏み出してゎた。これは詩文書簡一項以下の示すところで為るゥ 敬治和銅−軋大政甘酢猫 2ヰ9 呵清和叩〃七l仕官課帝 七二 籠︵一七︶ 糾鶴完政官璧言押諒下基常数め内情持軍容m⋮、﹁素数抑竺額田年額四稗・鱗七囲大骨紀要、二〇五頁 ︵一入︶ 石同伴秀編著﹁米債折壁恋﹂︵再版︶九九頁 〓九︶ 毒草八月々給規則﹂参照、橋本博崗一箱朝日鱒二璽一期璧ハ巻、二九三只 ︵ニ○︶ 早稲E大堅田草餅和戦文彗﹁詫﹂一七参肴 塾付を端にしてゐる。 −。 ︵︼二︶ 尤も妄政骨裸着任命啓﹂と云ふ柏麿が付せられてゐー¢が、これは後に寄添えた僻惑盲やうで本文とは全くその ︵二二︶ 或は﹁長崎地方︵ヂカタ︶ノ者﹂か。尤も元方﹂はホッポウでなくキダガタと訓むべきものであるが ︵二三︶ 明治二年七月弾正叫党則・解一項および明治主年五月十二日改定の産別・頒一項、﹁法環分親犬仝﹂俸一編、官職門、 官倒、幣正姦、二九頁および三六東 ﹁名古屋に敷ける浦上村の切支丹﹂偶に紹介された草本﹁巡察典森徒に歌論の固春﹂に、辛宋 三田︶ 明治二年十一月﹁弾正巡察ノ職種﹂伺ひに封する指令解一項、前掲撃二四罰 ︵二元︶ 柳人生︵松崎賛︶ 七月十三日於西本培横山准少とある梅山某がこの人であつたやうである、﹁新帝時代﹂萌治文化研翠︶簾二年欝入相、 乃至﹁植村巡察﹂に岸へられてゐ 四二以下五〇頁。この人に閲し槻蕊浅音数授は姦新帝跡見祈空五八三頁に﹁横山准小︵宣教使カ︶﹂と妃きれてをり、 亨八七及五八八頁には梅山でなくてコ坪正少巡察植村義久﹂ ︵二七︶ 津田茂暦﹁明治車上と臣高行﹂二大二真 ︵二六︶ ﹁法規分類大全﹂第一絹、官職門、官制、弾正室、四︼頁 寡聞を記して以て大方の示教を仰ぎたい。 はなかつたか。また﹁明治四年二月改・職員録﹂には徳山を名乗る人的も無けれぼ、叩正少巡察植村畿久も見苗らない。 る。節考慮ふに、﹁偲山浦少﹂は梅山嘩少特発生で初め刑部省の求めにより大串放校より囚獄司用将官に持出した人で ﹁練新政治譲敦史群銀ご 250 ︵二八︶ 一大政官日恕﹂明治四年簾七十九粥参照 ︵二九︶ ﹁太政官日懲一明治三年第六十五碑参照 ︵三〇︶ 一大日事外交交替一幕田巻、︼一入京 四 ︵三一︶ さて斯様な特別の任を帯びた諜者を、私にしぼらく太政官謀者と呼んで急きたいが、この太政官謀者にその後 異動・追加乃至任地の襲吏等のあつたことは、現に覆されてある多くの謀者報告書の賛際についてみて云へるこ とで、これ等については後に記す横倉もあるが.蛍で問題となるのは、何を樟準にして上等・中等・下等および 等外一等の如き四等の差等をつけたかと云ふことである。すでに太政官謀者に追加された高木茂について﹁是迄 ハ月給之定メモ無之時々御賞賜之簾ヲ以被下方有之候﹂と記されてをわ、また﹁七月以禾御賞賜之養育今度小栗 ﹁勤労之多尭﹂によつて、﹁御賞賜﹂をうけてゐたものの如くに寮せられる。尤も諜報の 憲一出張之衝石丸八郎へ馬合七勤番之多寡ヲ計り云云﹂と認ためられてゐたが、これによつて高木は徒死蓬の種 諜報の事に碓ひ、時々 事に維ふと云つてもいろいろ特別な任鞍があつたであらう。明治四年だけに限つても相嘗諜者の活躍に期待すべ きものがあつた。庶渾参議が暗殺されたり、葡公卿愛宕通旭らの政府栃覆・政博一襲の謀略があつたり、新政に 托する浮浪の待の蜂起を見たか、硬通貨幣の行使があつたり、流言浮紋紛々たるものがあつて、これ等に封する 奔走0住も諜者の屑にかゝつてゐた。かやうな得で碓死の諜者必ずしも﹁啓二邪情ヲ探索﹂する育とのみは限ら 明治初期の太政官軒者 ヱ5Ⅰ 明治御門の太政官耶彙 れてゐ・なかつたこと云、ござ︺も.こいが、なかには叩謂夷宗指索つ諸に粍つたものも多少はあつて、さうした経験 と勤労、手防のほどが誹者の待遇之両等に分つ梓塁に革れたつ王はなかつたであらう、か。果して然らば上等試着 ;〓一︶ 石丸八郎以下C宥が、こC損宗紺報C罵野モ持つ考−ざじつた、㌔鮎ご土人政官紺望竺−のものの問題が懸つてゐる。 偉毘鰐配申 今は奉にしlしモC問C消息〇一端を俸へち左n如き有力た史料が塁界に鴇供さ凡ていヴつ。 丸 八 郎 金五官疋 角 膵摺寺︰︰徳影 小 倍 食式層疋 村 埼 山 顧 同 詩 三 治 虹 戸 ⋮ぼ 錦 金言疋 同 笹 泣⋮ 用 右一昨巳年革宗徒引幕之頃捜索分骨抑佗三付、昏二心付一企式千五召疋鞍下佗事 辛宋正月 紙 石 別 金五官疋 併 遣 法 惇 田 金武盲疋 豊 富 右は明治四年正月四日に長崎斬廉から降鹿宿敵中に対して賞賜せられた時0も0で、同人の中には故に問題の上 等諜者石丸八郎、同空間道二︵邁治とも道爾とも署名す︶並に下等謀者山村二廊の名が見えてゐる。しかもこの 賞賜は﹁一時巳年異宗筏引移之頃捜索方骨折﹂につ、いて0ものである、から、すでに早く明治二年以来、異宗椎葉 の事に経ってゐたことが知られる。﹁異宗徒引移﹂とは、云ふまでもなく浦上切支丹徒の諸藩分速のことである。 25ヱ かくて石丸等の勤番のはど、手腕のほどは、この度の評者人揆にあたつてすでに知られてゐたものと云ふべく、 正にこれが樗準となつて四等に分けた待遇の上に秦野されたもののやう一である。 ところで、葱に問題はかはるが、右の賞賜専つけた十名のうち五名までが檜名之以て書き出されてゐる。しか もモの社中を降魔帝と呼んで一βる。この鮎われわれの注目を惹くところであるが、茸はこの降魔布こモは尿素檜 ︵三田︶ ︵三先︶ 侶の破邪探畢0社中であつた。檜名ならざる石丸八郎にしてもその身柄は虞宗僧侶にほかならなかつた。これ等 ﹁長崎用役﹂の一件を詳細に論究されたなかで明かにされてゐるが、故に問題の太政官諜者の のことに閲しては、骨て徳重議書教授が日本悌幣螢協魯年報乃壷はモの彼の著書に於て、明治初年の東西本願寺 の闘邪道勤として 多くは、さうした所謂長崎出彼の面々が資は再び立場をかへ新政府の官員なみに員外出仕として登場して釆たの であつた。かやうな得で、今さら石丸八郎らの身柄等について徳重教授の研究に蛇足を加へる必要もないかに息 ︵三大︶ 七五 はれるが、敢て必要な範囲に一應それ等を遷めて筋を通し、且つ、補足的管見を鮎綴して、以てかれ等がこの度 の太政官諜者となつて諜報の事に従ふ関係の筋を明かにしてみたい。 鞋︵三一︶ 拙稿﹁太政官市費の蕪制下基音数の内情搾声一歩照、前鴇衰二〇四頁 ︵三二︶ 怨丑演者氏﹁維新政治素数史研究﹂四九入−四九九京 ︵三三︶ 徳盈漢音氏.前掲手玉一入頁 ︵三田︶ ﹁日本伸敦畢協倉卒報﹂第三年︵昭和五年髭︶ ︵三五︶ 徳皇薄青氏、蘭璃警 再婚初期の太政官鞍者 ヱ53 明治初期の太政官黙着 七六 ︵三大︶ 穂賓ほ棄民、前掲誇。特にモ¢一節十輩・菟未練新に於け言彿鵜術数■.こ半澤一に負・㌦祈多く、以下そ〃一々のH 数撃示ほこれー笠簡略した∵なほ炭素貯何が他rり俳教各紙け追随斗一計主点までに破戒由正・笹岡誕法¢ために挺身し、且 つこれ一〃・再能ならしわ牢鷹史的藷戟についてほ本論考の本筋でないので鳴れぬこととした。 五 上等諜者の石丸八郎は、西本願寺の愴、唯賓寺長殿のことで、天保八年越前今立郡定友村唯宴寺了固の子とし て生れた。明治四年は、従って、被れニ‡五才の時一であつ・㌔初め雑草∵漢轡鑑習ひ、寛政元年よわ若州妙寿寺 ;一七︶ の敬壁柄城について宗襲モ修め、花。安政三年栖城が肥前矢上の艶宗寺之重するに及んでこれに随ひ.文久二年四 月廿二日には豊後日田の成宜園に全島長年の紹介で入門し、ここで大いに勉強したやうである。この成宜園に在 ︵︼訂く・Q・ソ﹁一ノJ芦⊆且やフルべッキ︵−どく・畢﹂戸﹂言rb喜一ハ︶ る時、肥後の光照寺針水に師事するところがあつたが、針水もまた彼の才幹を愛して、ながく弟子分に加へて相 交通した。その後、長崎に寄留してウヰワァムス ︵三八︶ の門を叩き、浮敢・浮華の研究に経ったが.これは元次元年か慶應元年頃にはじまつたやうである。頗る熱心で l由布留邁発癌援事情書﹂に﹁予モ長々乗りテ何事モ習取ク 慶應四年に至ってもなほ一週に三岡はフルべッキの許に通ってゐたやうである。尤もこの年の六月七日を以てフ ⊆一九︺ ルべッキに破門された形になつたが、この時の彼O ワ、此上ハ囲廃人名、耳三共語ヲ習度マヂ也﹂と書いてゐるところからみれば.フルべッキに縫いての研究は、 ﹁何事モ習取﹂ って、もう摘んてゐる位の肛を見せてゐた。昔時、幡侶が進んで津敢.の研究に専念したのは全く 25ヰ 護国護法のためで、破邪顆正と云ふ上から囲楽の基督敢について一膳の知見をひろめる必要があ少、件数との比 較研究を通してモの邪艶性を掴むためにする破邪探笹に外ならなかつた。光照寺針水の如きも夙にこれが修兼に 挺身した人で、石丸こと良厳の如■きは彼自身の志願と云ふよわは恐らく針水の師命に随つて勒んだ浮敢の探畢で あつたものの如く、針水の陶裡には同志良厳として相客るすものがあつた。偶々西本願寺嘗局が併敢各宗に卒発 して破邪顆正商用揖モ遺書、語頭に損琴−イ痕して顆謂闘邪道劫に拍車箪かけるに至るや、良厳は慶應囲年二月五 日に右の破邪顆五御用掛モ命ぜられ、二月十六日にはモの拭役として長崎表のことを嘱託された。かくて彼の破 邪探畢は本山の公認するところとなつて一骨ての情熱を騒少立てるものがあつた。しかし基督敢に封する理論的 闘争を用意するほど落ちつけた静閑の時代tでもなく、彙たそれほど純粋な洋敦研究でもなかつたので、単に眼に 見、耳に聞いた彼等の所謂邪情を萌する程度が精々一であつた。またそれで任務は完了してゐた。越えセ明治二年 二月平戸領に排廃合寺のことがあるや、彼は敢然その防架のために働き、且つ一方東本額寺の膠厨寺慈影らと協 力して折柄三燃した浦上切支丹権の魔分に封し長崎裁判所をたすけて大清躍をした。同年九月その塵分のために 出張下向した弾正大息渡塵昇はすでに彼あるを知って異宗徒捜索のことを聴託してゐるが、この昔時同志と共に 績蜜匹 金五千寧︼土て賞賜をつけたのは肇二年十一月十五日であつたが、膵兜窟社中のものが賞賜せ 彼の所謂降魔寧琴Qものを結んでゐたもののやう−である。渡遽昇が﹁異宗徒取締向掛橋侯二付篤其貫目録之邁下 ︵用︹、︺ 賜侯事 られたのは既述0如く四年玉均四日のことであつた。以てモの﹁勤労﹂のほどがうかがはれる。 なほモの彼の石丸こと良靡は同志と謀って﹁邪教退治二付﹂東西本願寺から二百五十萬雨献金の計婁を策して 昭治和勘¢太政官郎者 コ55 明治初期仏太政官評者 七八 失敗し.三年=鱒よわ東京築地本願寺詰と・なh㍉■また内命をうけて奥羽を視察してゐろ。然るに十盲には再び 本山より長崎出張壱命ぜられ十二月末には下向して曇八。こ0時のことご芸。彼は各地に於ける見聞を基礎に ︵闇一︶ ﹁キ極月二日﹂付を以て本山に封し﹁防叩撃鱒一之差出して号令。 供 妄 大和 ︼構濱東京 一雑館 伏見拝聞 一五島 一新消 小角穂泉寺 毯役僧両人 一大蒜戸知人 天和へ御許被下僻事 着付れ之開港地と錐も中空年ハ滞留致し轟力可仕、尤も党費可也■扁遼シ無之両ハ其駒キ出来不申偉問宜敬御緑茶可 三三顔ク敦籠を施し供両人心を練持シ、萬A二之時ハ急圧制用立俣者撫育可敦置俄事 二■−若付を引立侮辱勉励せしめ、紆滞騎二御用達供棟数育可故事 〓−内外之事情を捜索し、時々御本殿ヘ音上仕り、御本殿コリハ ﹁防邪之発ハ御法怨二如クハ顛御座⋮:至急用役被仰付姪供。其鹿訪 徳の所謂﹁囁防ノ策﹂と、立場こそかばれ何虜か相似たもの○あることで苧つ。すなはち、 む八ケ魔の﹁由疲⊥0人垣とモ?虜預について進言してやっ。抽正典味あることは∵﹂0連発つ内容が、大原重 とて、嘗時の時弊に封する関数者としての公憤と意素つほどを示してー以下﹁防邪之策﹂を按じ一閃滝地をふく 洋療と な㌔今三軍づテハ誓麗之褒日卜殆ド近シ。鳴呼苧−至リテ野ナ搾ク法貨して囲五二身こ引受法ヲ前代二可禰⋮︰こ ﹁︰⋮・己に紳官再興スト錐モ埴欄両己飲込耶蘇を退ケル乏力如レ之、又奄和之常子讐亘り帝を排レ唱宰ハ寮監三流 コ56 〆八ケ鹿 右御人撰早々御差造シ車間上僻一 と書き記ためてゐる。石丸こと良輯はすでに斯くの如き人物一丁各つたから.自らも﹁御用達侯横﹂にきすます破 邪探撃イろとめたっこ○やうな平生の用意が、後に僅か二十日紛わにして碍釆た所謂太政官試着の人撰を容易.在 らしめた関係の筋ではなかつたか。 ところで、彼にとつて悲しいことは、翼四年正月四日に折角﹁長崎騎庭ヨリ降兜窟の名御差許並私語丙十人武 千五首疋被下﹂たにも拘ら▼ず、五月頃には筍内同志0長崎滞留が六ケ敷なつて夫々に郷塵へ辟らざるを得なくな ったことである。これは恰も凝滞置解の前夜0ことで、長崎解磨がこの前夜の九州詑藩の動描に傭へて極端に滞 ︵四ニ︺ 留者の身分調査に粟少出したがためと云はれる。五月十五日彼が肥後の針水に逢った番翰に ﹁榊儀先達申上邁無印牽二付帝国可致塵1渾義山亜之御方御引受二両賞特長噂妹士之分三相成滞留籠衣供、右三付陣兜済も 屋敷之如ク相成.何分交リハ少シ遼慮二御座供、併し是が降児解之虎攣−御座瞬へハ不悪方と存傾、且ツ破邪之一件ハ温々 寄牽之墓人も嘗六ケ芸皆帝囲三岡椚套人居残、如何とも用人常時小品郡部と同居仕昌在天靭並妹主出入役人 天朝内帝御兼相立宗門掛りと中老出来醗様子三岡温々ハ珊者も御人甥と存條云き と書かれてあつたと云ふ。﹁長崎麻士﹂として居撃つた疲と同居、記号げてゐる小栗は、正に韓正基巡察層の小 ︵四三︶ 憲〓じあつて、註して﹁元日向項同寺﹂とぁる如く小乗もまた賓は愴分で東本願寺末の豊後妙正寺小乗栖香頂の 弟に外ならなかつた。こ0年○秋に小栗が小池.梅山と共に石丸・−イー上等試着に八畷して伺ひ阜止てるに至った析 明治初期の太政官誤者 コ57 明治和斯け太政官喪粛 八〇 以?ものは、す一∵にこ0長崎C降艦窟に棄て黙して・・ヱト七見るべき一∵ろらう。なほ﹁破邪之一件﹂云々は、やが の て私の研謁太政官計宥登場言必至︼主語るかに恩はれるっかくてモロ控枚は熱L政府官属が彼の活躍に額待をかけ たのも、か1る前歴に顧みて十分にうなづけるところでおい匂。 のものし,小無い。しかもこの雨着を併せて草紙僻締五故に過ぎな ︵四囲︶ 現在残されてゐいQ太政官試着石丸八郎の操軍報普聾は、しかし、位に明治五年四月朔日付︵小池祥敬受付︶ ものと同月十草日到釆︵同じく小池群敬受付︶ い。上等謀宥のものとして、これは一牌如何に解していいのであらうか。明治五年と云へぼこ有十四日に紳舵省 が擬されて艶部・省が窪かれたのであつたが、この難事省にヤがて彼は召出され、十一等出仕の身となるに至つた。 このことを盈に恩ひあはせば、これが凍間は氷解椚釆よう。なほ長崎には常時石丸の門下が活躍をしてゐたから、 これ等同志を痛撃Lこれに諜報のこと章葦任して可・忘少し二軍ネ気持もあつたものと思はれる。 次に上等評者豊山遺二も下等誹宥山村二転J・㌔共に長崎0降嘘筍の同志の一人l∵石丸八郎と同じく西本願寺 の愴侶であつた。望〓も曾ては*山C内′甲モうけて哲法?にめに活躍し所謂邪情探索の轟験・−疋もつてをり、山村 もモの和宮・光照毒針水が石丸こと良終に托Lたへ物で、石丸づ指導下に破邪探墜のことに促ひ、いづれも例の長 崎鮮度から賞賜モうけたヘミニ︰∵∵に。彼等が石丸﹂垂こ太政官謀者こ人粥さ乱︰つH院つ妬もまた明かなところ である。﹁東京評者﹂に膵ば九た盟Mは、しかL試際には、東京圭一†いよりも寧ろ構演の事情之探索したも00 やう−\彼の差出した戟昔沓は現在攻のやうなものが穣されてゐる。い真上司に受付けられた日付を追つてみる と、 =5S 同 九月廿八日 同 九月廿二日 同 八月廿九日 同 八月九日 同 七月十七日 五年二月二日 一群浅・東京耶蘇故事情亭﹂ ﹁ヘボンのバイブル¢紀﹂並に成上蟄審の塔眞 ﹁横横切支丹耶蘇数寄惜春﹂ ﹁横濱邪黄門事情﹂ ﹁東京・憐演邪宗門事情﹂ ﹁大域・紳戸・帝濱郡家門事情一 ﹁東京都裏門事情一 ︵同、 ︵岡、 ︵同、 ︵同、 六枚︶ 九枚︶ 六枚︶ 同 十一月十一日﹁構演邪宗門事情番﹂ ︵同、 ︵同、 ︵同、 三枚︶ 二枚︶ 六枚︶ 大枚︶ 十二枚︶ ︵牛耗僻粍、十二枚︶ 同 十月六日 六年︼月六日 一棟韻邪轟門事情︼ ︵同. 同 二月︵上旬︶ ﹁横演来鞭枚挙﹂ ︼邁︶ 大枚︶ ﹁横領切支丹事情J ︵春欺巻耗、 ︵同、 同 三月三日 同 五月五日 −光来事情一 の如きは、明かに豊田諜報のもので、 モの活躍のほども察せられる。なほ豊田の手記かと息はれるものに、六年 の肥事に闘す卑偲重漣書氏の考陛に搾る。 の長崎事情のみで、これも半紙傾綴四枚程度?ものであつた。 三月廿八日一癖漢事情﹂がある。これに引きかへ山村の詳報は、明かにはたゞ優に一書だけ.すなはち六年四月 六日到釆︵小池祥敬受付︶ 駐︵一︼−七︶一決窓金具﹂下巻所耽﹁入門拉︵林外時代︶﹂啓二、〓九頁 ︵三八︶ 〓,C−・言募亡f・−卓彗二寮1〓●ノーF∴ヒーC︼.ざ三−・ユニー≡li去﹂ ︵三九︶ 一時鰐新語﹂及び﹁耶蘇始末鱒一の著者は自分の内借に感じた檜個であるとて、フルベッ辛が良鮫を帯同に及ん 明治初期の太政官黙考 259 明治初期の太政官訳者 だ︼件を云ふ。 ︵凹︹︸︶ 二日官拉魔﹂下巻、﹂ハ○封 ︵四一︶ 徳嘉ほ吉氏、聞弼岸、五二四以下混一六頁 ︵四二︶ 徳盟没書氏、前掲聾、五二〇頁 ︵望ニ︶ ﹁大分僻倦人曝﹂申に見へ−㊤小栗布岳とほ柁のことで︵中壁望一郎﹁咤宜固と日本文化一一二〇頁︶、菰も亦戒宜 園門下の入射であつた︵﹁淡窓仝絶ご上巻所収﹁決意克也小停﹂七頁︶。なかなかの鴇法家で﹁琴M之琶固持法ハ何れと 三枚梢 も有名無策多シ、我譜ハ栗ヨリ内行之飛ブ如ク護国搭はス﹂と良億に諦nノ、良清また﹁此駄犬二常レリ﹂としてゐる︵偲 二枚錆、役者︵四月十五日︶ 盃渡育代、前掲昏、五一入京︶。 ︵四四︶ 前者︵四月朔日︶ 六 r子 太政官試着に人撰之みた虞宗の恰侶は、しかし、かやうな西本願寺の者とのみは限られてゐなかつた。上等謀 音安藤劉太郎の如きは、愴名を諭龍と云ひ、東本厨寺のこ両一色安休寺の法弟一で、同派の田明院雲英晃唱の賢弟 ︵闇光︶ であつた。天保十四年の生れで、明治四年は彼〇二十九才の時であつた。安政二看守にはすでに九州の地に在つ たも00如く、モの春画月十一日には望楼延岡領寒田村の繹徳意e紹介で、日田成宜田に入門してゐる。中島市 ︵四七︶ 三郎氏蒜著﹁絹錮成宜園と芸文化﹂によると、﹁成宜魔人門者前璧千人中の大半︵几三分の二聖ノ三千 へ四大︶ 三盲人位︶は愴侶であつた﹂と記されてゐるが、賢隙に成宜園入門者一大拾門歯団四千六石船七人﹂中には多く ニ¢0 の愴侶が居たやうで、良贋がモの弟溜籠モ後に入門させてゐるに封し、猶龍も彙た若州妙寺寺の二男繹逼塞.塵 後妙正章待飼帽C如ぎ了痛介して入門させてゃつ。恐らくこ0成宜困蓮箪は安藤や石丸にとつて忘じ難いものの 一つでは・へ仏かつたかっも上もと洪窓は儲禦の捌C人で大饉橿発に摺って居るやうであるが必−ずしも栄子襲とか盲 箪とか、さう云ふ璽涯C別にかかはること■なく、笹ろ折衷的態度を取む、桑ぬて僻艶にも搾る研があつた。しか ︹四人︶ もその尊信して㍉望主人は、信仰の封豪とLては基督幣C紳と殆ど違ったところがなかったが、質に生き生きとし 、雲示教的信念を持つた人であ.つた。成宜園はこれが宗教的信念によつて書を積み徳た贅ふ一大教育道場となつて 乃たもの一で、安藤や石丸がヤがて破邪琵箪の道た辿る門は、すでにして蛍に開かれてゐたのではなかつたであら うか。 いづれにしても安藤こと猪龍は、モの後筑後伯東寺千蹟や越後肪贋寺慈彩らと共に、東本額専護法掛之命ぜら れ、所謂長崎出校となつて破邪薄正のことに挺身した。折柄、浦上教権教詫間魅を通じて、過去三石年間不和の 仲であつた東西岡本屈辱の穏辛が出発た隙であつたから、被等は従って西本帝寺の長崎出役と盟約を取交すほど に互に相撲し、石丸ら±活動壱共にLた。独範の、この長崎に於ける消息は、後年彼が横濱詣の上等評者安藤劉 ︵閂九︺ 太郎として上司に差出Lて乃る探索審︵明治五年の手記︶申に啓き魂してゐる。すなはち、 官命兜哲出願スルノ機食三、敬臣鶉、東本願寺ノ内命三飲り、殊二 ﹁::・由釈臣韓ハ、今冨り凡十年前、群数J野人二法昌スル虎アリテ、窮二轄櫓セジ。筏昭治元辰歌御−新ノ隙こ嘗チ、眞 索五拭一致慣鞘;テ、肥前浦上村′革宗徒罷敬一蓼髭 官許ヲ待テ、雑草終章断言り御印距ヲ賜ジ、嘩閏三池キ、耶蘇教師エソソール一l促テ、彼方惜貿′︼端ヲ捜索シ、究明治 昭治初期よ太政官墾者 ヱ(1: 明治初期打太政官諜着 二巳秋、敢アリテ大陀へ引移り、洋塾校へ人里、教師ベキロエ促フ⋮︰﹂ と予つご・−れによると、かの石丸が長崎ですでに早くウヰリアムス︵要二・こ=⊇1き亘ヤフルべッキ︵芳一・● こ﹂、・ノ.⋮.丁言−ハ︶e門を叩いたに対して、茸聴は主とLてエンソール︵碧三㌣字⋮︶に経つて探単に力めたこ ︵光C一 とが知られ、また早くも明治二年の秋には大阪へ移ってー渾里枝の教師べキロ0門を叩いてぉるのがうかがはれ る。恰もこC二年0歌九月には浦上教権咤分Qために輝正大忠攫遼昇が長崎へ出張し、石丸らに喝して教徒捜索 の事に嘗らしめた時一であーつたから、四年正珂C降魔囁社中に封する賞賜に、膵廟寺慈影の名はあつても、猿籠こ つた。 云ふよ少は寧ろ繹正喜の管するところであつたやうであるが、貴に彼の﹁勤労﹂が大いに貫はれた左の一僻があ とあつて、その間の消息を明らかにしてゐる。すでに故に弾正茎との関係が見られ、彼の本務は東本臍寺嘗局と ﹁明治三年釈、常港へ蘇り、耐筏弾正室減速大息殿ノ内命三伏リテ、英国ノ教師ブロン・ゴーブン・ヘボン 敦師べヤリン、其仙女教師キダ・ブロエン等へ出没シ、捜索ノ事情一々言上セシナリ云云﹂ る。彼の手記に、 ︵五ニ︶ ︵五一︶ た。主として博濱に居たもつの如く.昔時の寓居は﹁槽清野毛大望院下謂帽片山龍太郎方﹂であつたやう冨 せつけられた。宕影は、しかし、間もなく襲病し郷塵に掃ったが、ひとD檜龍は東上し、新しい活躍の舞塞を得 揺畔、問彰院嗣講の推嬰撃つけて、右の膵厨寺藩影と大阪の指龍は共に、東京へ派漣され重ねて洋教の探聾左仰 と安蘇の名は遂に見出せなかつたてつの疑問が故に解かれる。ところで、空事九月十三日には、同派の護法場 262 ︵五三︶ ︵‡t弓ry野 こ〇三年の十二月八日、横演の﹁ジャパン・ウヰークリー・メーん﹂紙は、宣教師ヲスボンの帝として金津藩 御預けの浦上教権教務迫害事件モ取わ上げ、花ので、外人間に物議ふだ醸し、特に英囲公使パークス 一一ニ、ュ︿三∵からは取得詳連立に取扱について○曾て0﹁覚書﹂に反するものとして再三の抗議があゎ、右大臣三保 宗莫、巷読副鳥篭臣、外汚卿渾宜衰、外鞍大輔寺島宗則との倉見に童でなつて、賢情調査0者を差達したい旨を ︵正閏︺ ︵立正︶ 申入れるに室つた。これが三年十二珂十日以降両年二日上旬の外交事件であつた。繹荘重は右の倉見よわ早く太 ︵先六︶ 政官の命寧つ・けて招索の者を涯Lたが、この時金淫へ急行したのが、ほかなら鞄安藤劉太郎であつた。彼に十二 月廿五日付の﹁加州へ預け置頗轟宗の徒取締賢地見聞﹂なる復命蕃があるが、辟途信州教本の放宿で病気になつ たため、これモ同行した加州市大参事世良太一に托して曙正室へ差出してをわ、この後命書を資料として越へて ︵韮七一 四年正月十日には渡連弾正大忠と外務省との問に申し合せが行はれた。外務省側の文審に、 釆正月十日渡蓮大息と申合恨事鷺 新開統一見離に焚書取乱のため準正轟附罷開一郎加州え差渡し俵虚同人我取岡焼後加州詩大参革世良太一と申者同行滞遮断 螢に付急に饅命歎し棄世良太﹁え刷新見聞醤鼎托し差萱せ俣事 育英公債世良太一に団愈痩し珪段申出偉はゝ其市外祷省に於て篤と同人え可中食春 闘︼郎も同漸の皐 ︵五入︶ と哲/Q。費に悶一郎とは安藤の別の名であつた。困にこの一件はモの後右の調査報告をもとに澤外務卿等と美園 公使との問に禽談が行はれ文書0往復があり、且つ引規いて水野外務少丞と英樹新潟在勤領事代理ツルップ︵J・ 野清和埼−む太政官獣者 263 閏︰心㌫誓い﹂へけ︰‡よ・・ 八六 ∴肌札︸ ゴ室l−︶芸品行︰咄嗣警告∴蓮苧して行つ∴に。英軍公接がツルップに宛てた委任状に、安蕾こと悶一郎はコ孝一L 二ハ0︺ ≡こr=こ⋮ニ≡⋮・︰三㌻〓≒j=ご−こと記されてウに。 かやうに被0﹁勤婁﹂は時の敵将特に野望芳大いに萎与丁‡こ去であつたから、その年の秋に斬謂太政官 ﹂人軟骨へ榊引捜ノ後、一軒唇鎧シ、虹三先拉テ宰不本意山撞 ︵六こ 御門許、敢榔パラヨ 試着人節のことが・肴るや、別れた土地勘濱詰亨東京て下命昌九たも0であらう。先に饗げた明治五年の彼の手記 に、更に渋けて、 一昨錐七月七日御−い。苧一付、堅守ノ赴退 五年正月十日 ︵半紙慣梢、四枚︶ 葱に於てまこと事情の明琴1r蔽いたものと云はぬぼならない。現在麺されてある彼の探索馨には、 こハニ︶ 牢−の安蔽け愛読ふイ一以て、明治和明に什蕗治さへが琴督敢に理解壱持ち入信したと云ふ寄閏にして奔たことは、 之勒等八人L寅に、バラ、い小ら洗撃去ハけた︹壬ぁつたが、後年彼が偉勲悟侶てあることが知られるに旦人で、鐙 末年二月二日C安息日に∵箱崎鹿之閏、竹尾芦即、仕法一統、戸枝指郎、抑川方輩、適材潮、嘗m信好、大坪正 、ヂ、てモC法二卑要一死地二人﹂って㌍堀の事に綴った安磁は、手記に呵謂﹁乍不本意蒙御内許﹂D、明治 骨繋贅﹂云々圭一以てして和︰むて今ヤ㌍軍︼悠得たことで.乃らう。 間置の諜宥㌢二太政官評者﹂と呼んできた轡以?・り0は右つ手記にを三臣等ノ追返、太政官へ御引渡ノ役、一 と記Lてゐるが、太政官群帯となる前の時空魚乃言太政官との準加ら・相関係は預託もうかがはれる。私に姑らく リ受溌イタシ、閻雑晩毘納棺串、軍ソテ省′葬式三陸七、一骨正二靴加工入り、日衣動員二親英罷衣ルコトニ御庄候﹂ 二「. 呵 二月十三日 岡 三月十五日 同 三月十五日. 同 三月廿三日 ヽ ヽ ヽ ヽ 同 岡 同 岡 同 ヽ 二枚︶ 九枚︶ 五紋︶ 二枚︶ 五枚︶ 同 八月十七日 同 七月三十日 固 七月廿三日 同 七月十六日 五年二月 ︵右啓拘相恩、奥野手配一〇紋︶ ︵詣茹、︼泡︶ ︵串釈僻鐘、二枚︶ ︵腎輔、一通︶ ︵零簡、一通︶ ︵車種醗鐙、九枚︶ ものがあるが、恐らくは安藤劉太郎の誤報であつたと恩はれる。 岡 同 二枚︶ ︵寧欺僻持、三枚︶ ︵同、 岡 八月廿七日 同 九月十日 いづ軋もみた主として横藻事情の繹戟であるゥ要語劃太郎の手記は五年四月十四日︵上司受付︶0もつの後には ︵大三︶ なくて、恰もモの彼モつぐも0の如く悶信太郎が登場してモ少、しかも間借太郎の手記は五年九月十日︵上司受 付︶を以て結クモ普げてみる。ところで、空蝉ての人尽ての九月十三日に間借三と改名して現如上人の外遊に随 明治和脚∵打七放官鍔事 ヱ6s があゎ、いづれも横採草博之主とし・花ものであるゥなほ締信太郎の探索蕃として差出されてゐるものに次の如き 前︰一四月十四日 ′ ̄ヽ ′ ̄\ ′ ̄■ヽ ′、 ′■■ヽ 二へM︶ 治墨・.養育叫パ吉 名燕少∴イ一章へ或は併用してうたもdL妄言ら北竜 註︵四五︶一決窓全集﹂下巻所収﹁入門簿択鏑﹂朱ニニ十二、一〇一罰 ︵四大︶ 中島市三郎﹁成正閏と日本文化﹂ニー六貞 ︵田七︶ 一箪琴年率一下巻析蛇一成宜間門人狙身弛別人員嗣﹂三景 ︵四八︶ ﹁淡志全集﹂上巻所収、非上部叛郎﹁障﹂二−三賃金m⋮ ヽヽ 八 ︵凹九︶ 苗演事情の精察審で乎新関梢九枚、棄顔に﹁壬中三月十五日差出﹂と先輩が入れてあり﹁小池﹂の朱印が捺され■ てゐlを。 ︵五〇︶ 櫓盃浅曽氏は﹁猶龍は消息を明かにし難いが、矢張り三坤正月には長崎を引き上げたのではあるまいか﹂︵前掲青、 五一〇頁︶とされてゐるが、賓はすでに二年の秋に長崎から大阪へ移ってゐた。降魔宿敵中への賞賜に彼の名がないの と見えてゐる。 ほrそ町境他行中であつた.二親掲琶甲九九頁︶とされてゐるが、これも彼が大阪へ引移ってゐたからである。 には一毎週飛胸と唱俺新聞就﹂ ︵五一︶ 租盃涛膏氏、前掲蕃、五一二月 ︵五二︶ ﹁牡﹂四九、参希 ︵五三︶ 外交文苔へ和文︶ ︵玉田︶ −大日本外交交番﹂偉三番臼二八以下四三二頁および常田懲七四五以下七六〇頁 ︵五五︶ 明治三年十二月二十日外語省に於て本事件に闘し三緒右大臣らと英公使との最初の曾見があつたが、その﹁封帯 解妃﹂の中に﹁賛否茨鞘¢載﹂すでに申渡したとあり、また﹁此方にて差遽俣もの立磨り俣は1相分可申﹂と述べてゐ ニ66 行し.こ九が洋行†り鴇C■八一Tヤ∵た∵柁ヱし雫癌と恩はれる門信太郎が九月十日C諜撃亡以て姿富一滴してゐいっの ヽ ヽヽ ヽ も、−一つ問、・り消尽去ロげて芋つやうで詰ろり憲十るに緩は海寵・安涼劉太郎・摘一郎・間借太郎・闊 信二石順に、 ヽ 1−◎︵﹁﹂八日本叶空文寄﹂第三巻四三一1四三二頁︶。差迫はきれた者姓名は見へ泊が、後竺使命着工よつて安藤︵常時の 閥一郎︶であつたことが知られた、﹁託二几七参照。従つて一紀に、安藤の加州出発弼査竺委喝は﹁東本願寺の東京出 茫珂・かと思しく、尤i或は稽演泰留言渾人宜禦和ご偵撃⊥受けてごJとかも知九・ず﹂︵楷重民、前掲春草八田貢︶と云ふ は、如何︰j㌦なもチか。 ︵五大︶ ﹁大日本外交文事﹂鱒田巻七四︼以下七四三貴 ︵五七︶ ﹁大日本叶交文番﹂藤田巻七四︼京 ︵草八︶ 偲透通膏氏、働謁嘗五一一貫 ︵五九︶ 二∴日港外交丈専﹂簾田巻七四五以下七五八罰 ︵六︹︶︶ ﹁大日華外交文寄︼須四巻七四八頁、なほバークスから差出きれた﹁重任秋和帯寛一には﹁渾正葵附黒土官関一 郎﹂ とある ︵同番.七五二京︶ ︵六一︶ ﹁鞋一四九、参肴 の幹事と ﹁棄て蕃︼を異にしてゐるが、安藤には﹁︵捜索之︶事情車中上供﹂と云 ︵六二︶ こーり見解は金く通詑の如くになつて舘菩、鈴鹿に散見してゐる。 ︵六三︶ なほ聖者によつて各々そ好捕索報告等の ふ菩を溶があつたやうで、これ.が同じく悶信太郎の手紀にも見えてゐあ。 ︵六四︶ 明治七年︼月蕗靭。同九年から東京女子師範拳校英語教師尭附属幼稚園︵日本に於け季長初の幼稚噺︶ して新治。その後の彼に次の哲常客がある。﹁幼稚園把﹂明治九年、﹁古今高歯英棒列停﹂明治十年、﹁幼稚園法・二十 蓮嬉﹂明治十二年︵高市慶碓稲﹁明治文旗日錬﹂二四七買︶、何れも悶借三の名を以てしてゐも。 軍治初期¢太政官黙考 267 閂︰両⋮初期仁美蛇官鍔栄 七 なほ東本撃苛の恰侶と云へば、﹁堅祭誓心﹂に人員された元木準・もさう一︺、長帖柄屋町e光、卒寺の住職であつ ︵来光︶ ㌔土地柄逸早く宣教師ロn・モ叩き、また翫托に漬して叩詣邪情に通じ、制崇C撃じ甲々弘まらんことを憤れて 百方防邪0事に奔走してわた。積年太政官評者となつてからの正木の手記にl 一︰・二:己二長輯二骨字ま昨報ノ雨堂別立艮殊、定まり蒜三田訳シ、又邪陀貴良二按シテ、彼レガ好悪ヲ柁り、夏惜湘軍生 々本即苛三軍三等㌍⋮=シ、朔日三岡霹ヲ烹メ、描北二布ちフ専、机奴首唱フコト、巳二十有能年二及。御︼新後己巳昼前 ∵⋮︰畔冬︵駈、四択竺ざ三︷ふ︶削寮/内命ヲ架り、如常浩二在留シ、バラ・プローン・アロエン女・ビヤルソン女・ル かくて任にっい、こ正木は変革.桃江jE蕾と輯し、主として積演に在った。 ものがある。ともあれ礁にもす一でに太政官鮒膵音に召拭される前歴が身についてうた。 に白い太い鼻締C草履モ穿き帯刀してゐー00が正木でゐらうと指摘さ凡てゐるが、以て嘗時の風姿察するに足る ︵大高へ︶ 侶の寓眞﹂とLて掲出されてゐて、石丸らと○同志的結盟6ほどが見られる。篤農?っち低い山高帽を怒り折襟 のために何撃か神謀った撃ナモ膵へい三業○篤眞が覆され、待藍議書艶接の﹁維新政治宗教家研究﹂に﹁闘邪恰 と述懐してゐる。現に、正木は石丸八郎、小葉蕎一、高橋街平、井澤適意.柳川即事専ら五人の者と柏倉し破邪 大工防禦ノー範ヲ企トイヘドモ、敢アリテ其教戒ガタク、漆即袈クシテ蹄摘ス⋮⋮﹂ 大忠渡違殿長崎三下り、鵡姦抑除ノ命ヲ報ゼラル、械牟ヲ得、串三岡諒爾三名卜読シ、政府二怒号ヲ寒り、直三木駆 ヱ6S ーム女・キダ女等′祁鮨教師王立入、且幕別近シ、農工符串ガ秦托卜樽り、窯如ヲ酵り.所商ヲ唱へ、往々死地三人テ之ヲ 捜索ス。此近方耶蘇敦ノ盛ナルコト亦愕擁ダリ︵I煎ルニ、彼轟撃γ警ノ痩代二計り、致ヲ懲悪工拗メ、徐々トンテ衆ヲ韓入 ︵大七︶ スル、其狩野茶べカラズ。之ヲ串ブ者公然トシテ更二掛倒貴ヲ愕ル色ナク、嘲へ近瑠生食卜稀シ、数十人ヲ集メ、日夜堂々 ト新藤文ヲ唱へ、温々沈鐘・晩盤ノ醸ヲ行フ希不少。匡箪止,;簿ズ近日托鰻ヲ受ルニ重ルべシ亨警 二ハヘ︶ 静岡限 静穏久兵衛 熊野堆七 啓治本町任 大村解 と書き塗してゐろ。具して正木は﹁止ムヲ得ズ近日﹂釦ち享占月︵五年三月︶の廿一日日曜日に教師バラよ少洗 痩を受けてゐる。安藤幼太郎の探索書に、 杉山孫六 正木護之僻稲 伊光宏災 昨廿︼日日曜日午後.正閏三十九番之食堂王於テ 株江正音 常知事箕弟 仙克鯨 朽木 経 右六名教師パラより正三受溌敢縄 とあるは、そのことである。国に桃江jE音とは巧みにも洒落た襲名一︺、筆者恩ふに﹁桃江・正書﹂は彼の氏名の ︵小池群敬受付、四枚︶ ︵f到来、五柁︶ 西洋流の呼稗﹁護・正木﹂をもじつた普て字であつたであらう。正木の探索藩士して蔓ってゐるものは 五年正月十︼日 珂 二月九日 へ岡、 ︵岡、 ︵岡、 同 三月十四日 同 七月八日 何 問 明治初期の太政官鞍者 269 到来、二二軍文﹂一仰︶ ︵小池耶敬愛付、十二稚︶ − 明治初期め太政官鮮着 六年二月廿五日 ︵ 同 五月三日 で、章二して槙渓事情モ紺膵報してやっっしかL最後の一つ、五月三日受付のものは東京の﹁織砲洲六番書庫日詰﹂ になつて老少、軒垣の動前が利明にしるさ凡てゐて興味があゎ、州営の苦心が偲ばれる。 批︵六五︶ 隈潰事惜佑柁繋■雲、幸胡昭絹.九総、表献﹁い﹁壬中三月十四日差出一と云ふ発音があり﹁小池一の炎印が抜きれて ゐ一㌔ ︵六大︶ この寛眞︵長崎上野仲対抗相槌影︶の嘉にほ石丸¢節で苗邪審糸骨一と大昔きれてあると云ふ。恐らくは﹁明治 五鋸﹂ ︵偲葱氏訟、碗指事四三田田︶ よりも以硫〃ものであらー∴− ︵六七︶ ﹁艶﹂六五、春希 ︵六八︶ 表紙に﹁去ル十三日事情青之末寒中上鱒一と浮かれ、その胃に一壬申lニ月廿三日到来一と先輩が加へられてゐあ 牛釈僻絹二枚仁手記を云ふ。 さて、以上賓障に活指した太政官群青について未だモの全般をつくすことは出来なかつたが/てれについては 再び執筆︹り鞍訂モ得るこ﹂こ恒Tこし、翠∵・十〓占主だ三・て物が東西岡本帝寺の僧侶であ∂、曾ては而減っ所謂長 l宍九﹀ 崎出役として破邪撲皐に挺身し・こ準隣仁語ろこ﹂﹁乃至は嘗時乃曙正E台とす一でに緊密な間柄に在ったことモ明ら かにして、この度の太政官評者に軍場する関係0筋モ辿っておいた。一般には、これ等多くの諜者によつて映し 270 出された基督教界の嘗時に於ける横濱事情、東京事情、阪紳事情、長崎事情の復原にこモ特別な興味が懸けられ、 またモれを倹つてこそ禁教高札の撤廃前夜の情勢を明らかにするものと云はねぼならぬが、モの限カではまだ一 方的な考察にLか過ぎない。こ乱に併せて新政府の苦慮と聴衆のほどモ新摂し、斯くして表面﹁一般勲知﹂を理 由に高札を﹁取除﹂いたも○のー資は基督教を﹁只教を以て之売薬して法を以禁せすとの御様子﹂にかはつて行 った情勢を跡付ける必要があるゥ政に輝元壷の存在、乃至はこれが靡壷前後の閲疲者の、この間に於ける施策と 治効のほどは、従来殆んど注意せら札てゐなかつた憾みがあるので、諜者報告皆の一々の検討に尭立って敢て呵 箪を執った次第一である。尤も新政府の苦慮と堀米と云っても、太政官諜者の諜報を受理して後の封策は、如何な る議を控て如何に魔決されたか。すでに上等諜者豊田道二の諜報のうち﹁壬申十月﹂へ日出、第六十柑娩﹂と朱筆 ︵七つ︶ 0ある﹁横濱・東京耶辞難事情書﹂には、一つの附寒があつてモれに一.第七十田端ヨワ八十一視迄並二無税二綴 これが経緯は、しかし遺憾ながら、そ 共二藤殿へ呈シ置飯事﹂とあるところから、太政大臣三保賛美がこれ等探索着た披見してゐる事許が知られるが、 さて多く0諜報を資料に三降嫁実ら政府要人はこれに如何に封廃したかl れと明らかに知る消息がない。たゞ太政官諜者活躍の密室が、片や外人宣教師が相手であゎ、片や日本人基督者 が相手であつたから、昔時の外交上0問題および国民教化の問題の上に、何程かこれが封策の反映なしとはしな いが、果Lて新政府研胡○目的モ蓮Lたも?か、或は何0算敦もなくて縫ったものかーこれは遥かに断じ難いも のがあいで。 社︵六九︶ 徳藍漣曹氏は、本朝専長崎出役の常盤そ清拭を見た理由に、彼等が政府官具になつたことを挙げてゐられる︵前 明治和迩古土政官鮎者 コフ三 明治初期の太政官許者 九四 拘苔、五三田蓋。まことにその癖りであるが、官員は官居であつても、同氏の所謂敦部省出仕の事を以てする以前に、 このことある串賓を先づ取り上げねぼならぬと思ふ。 ︵七〇︶ 附毎に示す義七十四柁コリ八十蒜一に相常する柁索葦の上司受付は/﹂れが先輩の受付弗敷からみて明治去 考の二及び三の一部である。 四、諜報された基督政界︵上・中・下︶五、屏留地倒産と外人宣教細 二、太政官諜肴 三、詐 ﹂ハ、﹁文明開化﹂的関心と信教問題、に関する蔚 ︹附記︺ 本稿は﹁練新日本の禁教高札絶境前夜の研撃として﹁新政府の素数封栄 日僚りの問に﹁到来﹂をみたものが三保へ送達されたことになり、現在、この分は紋本となつてゐる。 年十一月十二日以降同大年一月二日の閏のことであつた。尤も改僻で五年の十二月は二日間しかなかつたので偲か二十 272 羽黒山の霞場と檀那場に就いて 戸 ′ 安 章 氏紳信仰から椚聾した紳敢が、その聾祀櫓を、或る特定の氏族に濁占されて行く傾向之示したに反し、山に封 する信仰から出聾した熊野や金峰等の諸政は、早くから一般民衆と宇摩廟甘−舞鶴な地域からの参拝軍疋吸集す るに至ったといはれてゐる。今.これらの山々に就いてみると、共虎には、﹁山の信仰を中心として、萱評者を 吸引するやうな、社台的な組織が存在し、費達してゐるっその組織も、詳しく云ふと、山の種類によつて相違 あゎ、大きく些一つの種類に類別することが出釆る。一つは御嶽山や富士山の場合であゎ、地方に分散してゐ 御嶽教や扶桑敦の数台が、モの組織の顔心となつてゐる。そして、数台の教師が信者を集めて、自ら発達とな 山に集って乗るのである。他は、修験道の偉統を持つ山であつて、山の側にその組織の中心があゎ.地方に向つ て無数の簡手が伸びた棟な形になつてゐる。親黒、大晦等は、その著しいものである。﹂︵岸本英夫氏誓丁酉倫理 構演集.﹄第四八〇輯︶といふ如く、山と信徒とを結ぶところの巧妙なる組織が存するのであるが、この、山にあ って信徒網を左右してゐるものは、﹁御師﹂とか﹁在野二仏どゝ呼ぼれるところの宿坊経営者であ少、彼等に って邁止される信徒網が、いふところの﹁要一であり、﹁檀郭場﹂なのである。然しながら、今日に於ては、 羽黒山の霞場と棍邦揚に就いて 羽賀山牢H嘩と柑部将∴就いて 九大 野や都督の御師・在艇は紘に油滴し.霞も解鰹してしまつたといはれてゐる。とはいふものゝ、講と先達の組織 は残存LI大略信仰の指寧日地位は.依然として発達が掌超してゐる0であつて、此魔に、山嶽信仰の特異性が 存する0である。 熊野や葱山と相対して、関東・東北に於ける信仰売集めた羽虫山に放ても、御師・在應による霹の支配は、一 山経常の基礎となつて居江、披等は、馴嘗の詐欺によつて霞た支配し、遺著を引いたのであるが、霞場と呼ぶ場 合と、優郵瘍と稲する場合と一では、モ?円容に若干の粕蓮があつたのであ畠。このことに就いては後に詳述する が、維新後は霞場や樫郵頓に封する梅利⊥更﹁道者棟﹂±呼び、﹃手向村慣例保繰規約.ぷといふものを作つて、拳 こと壱規定してゐるので ﹁韓﹂し毎し、これに物梅的性格モ認め︵第五憶︶、現任村長を管理者とし 村一致、霞場と榎郵瘍に謝す単葛憬を惑守すること、直走めた。こ0規約は六華に分れ、七十二條よ少成ってゐる が、霞の支配梼三富時の慣習こ従つて て︵第十二候︶、持口雪男・講演・質入等サ証∵てロ讃明あるモ以て有数とする︵第ぺ臆︶ あつて、昭和十﹂︰、牟に、時︹り三山宮司遠山正櫨氏は、芸﹂向村慣例保碑規約心を認めず、道者棟モ否認すると宣 言して附属帯革−′︹痘織し.苧.っ帯紙長とたつて、要項・憾郷喝−イ﹁電凄∵押社に結びつけんとしたが、山に封す る信仰が、近代的●這感覚〇み‡以て声軍LうべくもたいLこ︶ろの神秘愚から聾し一山こ封する壇れによつて裏づ けられてゐる防少、さうした事汚的・憲こL壬左石L得られるもので・這、ご丁二は、初めから判わきつてゐるとほひ であるから、氏の意義込みにも拘らず.モれは、宿坊に封Lて米や酒の配給を勒旋し.道者一人につき何鏡とい ふ論敵金近徴収するだけの拉悶に堕LてLまつ・誓勿論.時世の襲邁につれて、警手向村慣例保練規約幽の中に ヱ74 は、死文化したものもーないではないが、本規約の主たる数カといふものは、未だに失はれてはゎないのである。 ところで、この﹁霞﹂といふ青葉は、〒修験道日用見聞抄一﹄に、﹁固郡ヲ分テ霞卜名テ令支配地。夫工偽テ本山 ヽヽヽ ハ霞引卜云テ同行ヲ支配ス。富山ハ同園クル故、居住ノ支配所ナキ故、ケサ引卜云テ同行ヲ支配ス﹂︵﹃古事頬苑﹄ 葛城 厳に枕して をのが任領せる所とて 難行嘗行し給ひしは、或仙衰に 月に遮る所、霞のかゝる所は、みな 熊野までの険路を踏分け、畢に臥し 所引︶とあり、嘗山涜の智行法印の著述に係る誓鈴懸衣凍窯忘には、﹁おのれ′1のあづかる支配場の手にて、 役小角 初めて青野 等しきによわて霞をもて稀となし、一望の連山 霞とは唱へ来れるよし。﹂︵国書刊行禽蟄行の﹃信仰叢書﹂所収のものに掠る︶と.抽象的な説明を輿へてゐるが、 羽黒山の荒渾寺に停はる〒給塊集﹂一といふ古罵本には、﹁仙府者喰霞春霧雨以持長生不死。南山伏者以皇居烏食 糧、扶身命習醤仙境。故此仙言以食糧日霞耳実。﹂︵﹃囲箪院雑誌▼吟唱和十六年七月鏡所載の拙稿﹃拾塊集の研究﹂ に、モの全文を出す︶とあつて、モの性格が略々窺へる。畏友藤原勉氏が、﹃岩手教育﹄昭和十四年九月戟に、 こつちの持前 ヽヽ ﹁霞﹂と題する論考を聾表Lて居られるが、それによると、﹃南部叢書﹂所収の﹁御国通解﹄︵電政二年、服部武 喬菅︶ には、 ヽヽヽ おらがかすみ とあゎ、F快音海﹂には、 神社ノ氏子ヲ、村々二別ツニモ云へサ。文 筆 秒針 往時−奥州ニチハl修験ノ先達聯ノ、末院支配地方ノ置分ノ稀。又瞼校ノ、地方ノ盲人ヲ支配スル二 三箇村ヲ二組トシタルニモ云ヒ、伊達・信夫連ニテ 羽黒山の澤錫と楓郡揚に就いて 27与 羽貴山の閂⋮∵こ汽邪巧︰論いて 八 ヽヽヽ 茸′多クアル地、川狩ニー鮎ノ多ク索ル所ヲ知ヱ学芸ノ、何某ノかすみナドテ 筒、 シ稚 キ張 、す 塩ノ べ弛卜云 ヽヽヽ フ意二用ヰクリ。略シテ,加すみ。 腸騎山伏の新嘩モ行仏 守札を配る掘張に撃丁る唄. と拇し,伊能寧望票≡表面考量璧には、 カスミ と詑明し、中市攣二氏0﹃野蓮地方官藁﹄には、 カー∵、、 神主0縄張,氏子よ少は漢とした範些ごウつ。 として居られるといふことであいっ:﹂九らによつても、琴亡い、喜寿が、箪州では、修験や神職の信者区域、社意 味Lてゐるとい、言とを知わらい昌でや宗、買青空にも精銅してウハホく、.こ呈真には、発達堪e者が 宋堅差配する地方苗呑とい∴意味も食卓克て手写で手芸ら、一望銅的にい・ふとしても、﹁修験0寵が、所 撃rl′一行チ守札、そ配る場所宝不ナ時と、発連絡わ晋歪..雫院主ユ配す主砲撃≦不す碍子﹂︰が・や3と詑明せねば 十分ではない。 験道で霞といふ言琴で掟ひ初めたのは、狩煽に霞網が周ひられたよ∂も、早かつたやうに考へられるのである。 霞とは﹁霞網﹂の霞と同鶉豆はない†で一いーでへも鳥♪、準︹に/て証と寄似した噴蹄も認められはするが・修 と・這つては、あ畠ふり明かではない。 では、御師・在歴といふ碑呼の−うつたこ土は招かで鳥去。但し、モ九が、ど望、う●耳目容之持つて空㌫は、今 羽黒頂に於ては、前著を﹁細緬﹂し﹂呼び、望写一﹁在撃と節して同朋するが、他派にも、壷町時代の中葉皇 ヱ7√1 霞ウ冠慣に関しては、﹁鈴怒よ横縞.ぷの聾者が、一昭河院 富治閏年.法皇熊野御幸○時、空挺院宮御免連あむ しょ少、霞些耶朽0紀滞に山−刷せら証、斬許あゎし﹂に蓋くと書いてゐるが、富治画定危、白河法皇の熊野御幸之 には、 詔田二部轟セル苧﹁多ク稽苧ノ門二琵琶ス﹂とあつて、これ以後、本山修験の門流が、 御先達申し上げた○は埠智l∵−、孜はこの動によジ、熊撃二山の徐揆に補せら、几たので着る。雪踏垂線革﹄ ﹁此ノ時.彼ノ琴軍ノ末筏 群 矩︼㌦ 荊く盛大とたつて行ったこ主が知ら九るのでぁるが、中御門宗患つ天仁二年の紀行には 申到来兼新富師坊 とみえ、﹁師﹂・﹁師坊﹂・﹁御師﹂・﹁窄賢一とい、でヤう.芯耳キは、モ0彼の詔記録にも屡々散見し、﹃紀伊横風土記﹄ には、延軍一年に宇多法皇が、.貰和二年と正琴一年に花山法皇が、.モ魚′ぐ1熊野に御幸蔓ば富れたことを戟せて 居D、公卿闇紳C熊野参詣宜、この頃から”久寅に肇繋とたつていヴ?ところから考へても、熊野には相嘗古くから、 参詣の道俗に放舎ふ了痩供し、祀や軒疇モ行、再御師や在療の棄生があゎ、従って、霞といふ観念もあつたのではな いかと考へられる。﹃滑民物語一出CH謁畑の怒に、.1.八幡富にもうでさ竺挙る。モのわたか知れる人にいひ尋ぬて五 師とて早く無0誇らひし大穂の山曇れいざ〆一呼びと∂て、もうでさせ奉る﹂とあるのは、熊野以外の敢に於いての例 ではあるが、御師といふものが、所繕をなし、棒恩所之鴇供するものであるといふことモ示してゐる。 ︵兼 良︶ 羽黒山には、古文書の攣有せるものも少いCで、御師といふ文字のみえるものは、酒由市の志井伸一氏が所蔵 される。 品畑︶ 羽黒山よわなゎ志ま雄三かふ 羽巣山仁常長∵こ舘野︺∵ハ就︰﹂し ._ ▲ /● ︵年爽︶ ︵如︶ ︵邦︶ ︻知行︶ 羽規山の小り瘍と槻邪場に就いて ヘ音虎︶ ︵不和泊︶ のち志き乃事蕗んらいの主 ︵末代︺ くあいたかは寸侯此そんをさ ︵域︶ 花押 きと志てまつたいに患ひてちきやう たるへく候 ︵?︶ 時之御師 茸専坊慶山 ︵郷︶ へ渡︶ わた志申極 山志ろ殿 天文給九年柏の眠禁月廿日 へ官報︶ とあるのが最も古く、同氏所蔵の ︵上︶ ︵霜田︶ 羽黒山ち志きの亭 ︵筏野︶ わきて山−¢ミふくた さゝの三かう大武 末代鮎し 申抽何事もけとも 不可ざ品 如件 27$ 永錬七年十月六日 禅師 大武公 慶山 花押 とある文書がこれに次ぐ有様であるが、霞といふ青葉に至っては、更らに新しく、院主職の清憎が、鳥海山の敢 豪 との内太夫に輿へた左記の文書よわも古いものは見嘗らないのである。 河北中吹浦両所之太夫於羽黒山大峰嘗山H仕之鹿相克魔焉如何吹浦計出仕有間数侯由承侯其故知何と申三下升 ︵鼻漉︶ 三ケ圃之大前庭と申殊更吊羽奥州音羽黒山之敷地二御座候之鹿を爾所之太夫計昔よわ羽黒山江出仕なき由在鹿 被仰檀候乍去最上長井含津越後迄之御師在療之仕置有之こおいては努々後日迄のいき通とくへき欺焉如何千手 院方へハ出仕せられ候裁いわん哉足下二乍被居御師在庭豪用間数由承侯左侯ハ、庄内のかすみ惣て白羽黒山之 津印清頬骨判 光明院凛肉判 仕置可被相禍か霞之儀はこなたの物たるべし又者油利十二頭二御師在磨を定侯こおいては何ケ度も垂可申儀也 仰而如件 慶長三年 五月十三日 吹浦太夫との内殿 参 羽黒山の霞場と捜郵場に就いて 279 羽〓㌫∴.︰パ.と ■‡︰来いて ︼三一 直江桑折の所わ 掃順は明鏡院とも粥L≡売詣転王∴空言上杉氏が、註内尾満つ武恵氏を庖して、琴円一周に勢力を張つた 時、武借氏︹︶一続から吊て、常時、㍗冒桝単二たつて曇謹言右筆繋ぎ遠け、上杉0老臣 の師であつた啓が、下野口持崇ふら宥頁た如へ、告J・÷、一山モ追止したCで、や宗、門ケ反故筏、井内が山形に ろ真上氏C有に讐二三㌧群山ヱ∴・架から武力︰ノよて泣は、巧∵米塁に誌石て上杉発揮口儒官となつて生モ結へた 男である。モ九にも拍らーで.こ〇一女は、背丈顔嘉腔滋子、判訳に苧しむ鮎が少くないのでぁるが、吹浦の太夫 とC内が、羽黒0霞に思伍したがら、胡雨∵旛澤㍍命にも陀はゃ、萄累へ・も入・帰せざることモ請わたもわ一ご?・Q こし﹂は怨憎に撞くないっ田に、こ三人・.室け冊∴にに、とCnナ美C末孫でき︵蓮窒息記年出羽囲風土略記.盲著者︶ から、嗅浦の岡野押敢に章節し、現在は、丈帖竃心紆鮎︹︶敵いHに.につてタ?﹂問いてウQ。 飴訟ばさて達き、叫現其の別貫から糾し、語継岩禿詐欺は、準掌ノるも0ては、写外十五年に、常時は未だ宥恕と 名栗ってゐた天守が、山上衷掩わうちC、葦軒院・雲桔院・誉日伝・打稀に・見事浣・竹之院・宏覆院・綬章院 ▲毘.− 三隅院・愛染抗・隔日院・碍量掟二二皐院・釈稽院口十印西堅虹附苧し・守昌L:干向0空音院Lニ相生寺、米澤 C北之院、山菜た居住十ろ更街路顔中の大光坊・延命坊・軍林坊・票挿頭・光林坊・書瀧坊・明光坊二二光坊・ コ.いり 仁王坊・大門坊・唇弁坊・阿合坊・北之望詣澄C■北之院﹂﹂は別一㌻苧Q∵窒繁坊・訂坊・南林坊∴項党坊・同定 坊の士へ坊及び涼川村0賓穣坊等に輿へたも?三岳るが、これらの発詐欺は、今は散伏してしまつて、その全 部を見ることは増発ないゥ然し、筆者所蔵の二冊本0罵しによ、れば軍部十五年のものばか少でなく、モP筏、屡 キ行はれた脊番へ?芸L・一、鵠、富永目前に帯汚が甲レたV・ごり華・チ茹い言土が糾乗、駕澤C−・経堂除が元和元年六 ニドっ ︵マ、︺ 月に、佐渡画三部を附興せら九、山賀妻帯修験の薬師坊が、同二年八月に羽州下長井の荒砥を、同じく光林坊は ︵マ1︶ 同年六月に油利郡赤字津八ケ村た宛行は、凡てや≡﹂と等も判る。殊に光林坊に封するものは、 霞判形之亭 ︵双︶ 宋御印 ︵担ご ︵マ,︶ 蜜書坊執行宥源掻掛印 ︵マ1︶ 者共著聾之間ハ務霞とーしかへに相方之親共あつ・や払可し龍頑坊訟者彼むすめ可焉身上横於衷代相違有間数者他 右油利之内赤字津八ケ村任党規尭林坊隷二兎行者也常光坊むすめに妙光坊子むこに取合聖m光春坊散瀾立候彼 こ呼憲︶ 作如件 元和式年同展六月廿六日 女手㍉新宮光坊 とあつて、坊桝相撲にも関係?苧三甲日いも︵︶で造るが、寸言に一任充規﹂とみるところから、こ九以前、既に 一︹ユニ 霞の免許状が別富から出されてね、にことが推定さ九る。今、常永十五年0も?モ額げいつと︵筆者閉疲︶、 霞之事 奥州大崎之内 一路山武給田簿一萩大路澤克給四郷一洪谷三併頂式胎甲櫛 古参ケ庵銀翼研御師春慶 同葛西之内 管い苧uにヂ長.土∵町■≠︰.∴.∵﹂、 2さ二 羽鵠山の罷職と柏郡場に就いて 一束山容撃二郷 同南部之内 一稗貫三十三郷 右式ケ所無残虚御師役計 任尭條着地偽如件 ︵マ、︶ 羽黒山別嘗安善院 花臓院ね 電永拾五年戌寅林鐘昔日法印宥督︵朱印︶ 玉造郡 遠田郡 岩 坊 登米郡 柳生郡 栗原郡 といふ形式を探ってゐる。これを、本山波の︵﹃鈴腰衣練絹﹄に擦る︶、 陸奥固 牡鹿郁 恵田郡 右十二郡霞支配被仲田者他 文化十三年十月十日 故障有之不能加判 官内郷 故倖二村不能加判 磐井郡 本書邪 気仙郡 江刺郡 脾澤郡 282 仙基 良寛院性虞 雑 務 審判 とあるものと此威してみると、その形式が頗る相違してゐることに東がつく。尤も、双方の免許状の年代が、あ まり晴男すぎてゐるから、これを比較するのは穏かでないといふ批評を受けるかも知れないが、羽黒のものは、 文化・文政以後に於ても、同じ博裁を保ってゐるから.その鮎はあまゎ気にしなくとも良い。 今、この二つの免許状をみて、免づ気のつくことは、羽黒のものは、山内修験に輿へられたものであるが、本 山派のものは、地方在任の宋涯に綬興されたものであるといふことであわ、次に煮づくことは、羽黒の免許状に は、﹁御師﹂・﹁在庭﹂といふ文字があるが.本山涯のものには、さうしたものは見嘗らないといふ鮎である。さ ぅして、この相違が、羽黒でいふ霞と一本山でいふ霞とを、確然と囁別してゐるやうに息はれる。 御師とか在應とか名乗る者が、熊野や伊勢を初めとして、多くの名山・大赦に存したことは、前匿も簡れた如 く、既に知られてゐるところで、御師とは御所蒔師の意にして、宿坊たるの機能を有するものであるといはれて ゐるが、羽黒の御師は、宿坊たるの機能を有せす、前の使命として、諦威を宣揚するの聯とされた。即ち.前に も引いた﹃拾塊集﹄には、 御師職 羽黒山の硬易と棟発揚に就いて 283 射巣山の霞塊と械邦揚に就いて 一〇六 御師者御事理也っ串也。師軍也。祉職璃使命ひ所謂、紳僚令也。た紳敢御使命。拐十日。数人以通解。又導之 教訓白師。些非非智総局奄斯職英。山上・山下衆徒.一向非壁而耶以非英説豊実任御肺臓在應官。遣可附別人 必英。 と稔明してゐる。 在應といふ種班も.中御門秦長の天仁二年の紀行に出づる舟一都克とし、モの彼の詔記録にも屡々散見すること は前に述べたが、これに注意の限・た向けた人は少く、位、いた二二石郷土究家によつて、在磨とは荘園の軽骨であ るから、紳領の在韓た司わしも?⊥職名が名賀りたとゞめてゐるむであらう、と考へられたに過ぎなかつた。 放て、これらの青葉は.普通には﹁オシ﹂・﹁ザイチヤウ.一と訓まれる0で、あるが、羽琴∵は、﹁オンシ﹂・﹁ザ イヂャウ﹂と呼ん.でをQ。﹁ザイヂャウ﹂といふのは、東北人一般の潤わ耶からであるが、﹁オンシ﹂と辞するの だん′、い▲ は、彼等の自尊心から拍たもC?わらうと考へられる。 御師は冬になると、﹁稗坦︺又は︹軽部廻少﹂といつて、霞場に出かけてこ苗の守札む配ったゎ、講申を結ん で夏期の参詣を勧めたゎするが、菅は隔年に出かけたもので、今のやうに、毎年同じ場所、計痕るやうになつたの は、鋳道の澄連によつて、交通が便利になつて、からだといふ。霞場と呼ばれる士ころの、陸奥︵催し、倉津・若 枚附近一帯を除く︶・出羽︵偲L、山頂通日以外の荘内一周を除く︶・佐渡・越境・信濃の団々に対する檀姫が一 ケ年厨きであつ.たことは、経費院精清の珂.羽州羽黒山中輿蛍彗≡︵昭和十六年に重か、校話を附して刊行され・空 にも、﹁南部領稚苗帝展庸在靡依焉霞場、瞞年増部廻下向ス﹂とあるとほむで、﹁増郵場﹂と呼ばれた関東地方や、 2S4 特に﹁奥州﹂と辞せられた脅津・若冷附近一背の地方は、三山参詣人案内所︵後にも簡れるが、菅、道者引御役 所と呼んだものゝ後身︶に保管されてゐる古記録中の無題の一冊に、 文化七年牛十月被仰溝侯党 ︵マ1︶ 一関東榎裾之儀、去卯年秋全ニケ年之内、御本敢造作相対勧化役、焉太養料輿、勧椚金高之内半金上前、今金 ︵マ、︶ 其仁ね被下置侯様被仰付.年々増殖差免候。烈虞、惣発達之内一二致勧化俵而も、季節勧金上納無之族も敦 多有之風聞、御本杜造作之菱を敦等閑私欲之働仕慎もの冥理之橿無塀、封権現不忠之至わこ侯、勿論、御上 之息召をも不顧、不心得之俵、言語道断二億、依之、卯年♂去年迄三ケ年之内者、勝手を以、増殖不致候も の有之侯共私事二侯間、嘗秋虐相改、以来盲例之通.三ケ年ニー度之檀施工可限事。 一御本杜勧他致侯者、新約嫁金鳥取立今度憤池原出慎ものハ、英頭元ぜ其澤念度相札、願事ヲ以可申出侯事。 附。不心得之もの有之、逃ケ障レ檀狙二罷越侯もの及霹顧侯ハ、、其頭元戚急虔可敷詰蓮、吟味之上、御制 帳相除可申候事。 御代官斯虐被仰塀健也 右之趣、頭元点巌敷可申渡者也。 文化七年牛十月 とみえる如く、二年おきに檀施したもので、出蟄に際しては、 奉差上一札之事 一今度、拙愴、関東檀廻二罷越申侯。依之、毎度被仰渡侯ケ條ヲ以奉御請侯。 羽黒山の宮島と雄那揚に就いて ヱSs 羽黒山の霞場と捜郵場に就いて カタり ︵マ、︶ 一御山之顆壇三相威儀儀一切仕間数侯事。 一他之檀那場ね立寄詐ケ間数義仕間数候事。 ︵マヽ︶ 東叡山御銘目荷符停止之事。 一道中筋 東叡山御用立檜符停止之事。 一出府之節、江戸中二限り ︵マ、︶ 一関東よ少分之季節者たり共持参之節者、御役所、ほ番付ヲ以柏届可申侯事。 甲 甲 坊 ⑳ ⑳ ⑳ 以上。 有被仰渡侯通念皮相守可申候。苗一相背後日及露辟候ハ、、連印共二如何様之御讐一茂被仰付可被下僚。 類 某 業 五人祖 親 関東行 其節.一言之御恨申上聞敷候。焉英一門五人組加印ヲ以御所一札率羞上侯。 年境月日 道者引 御役所 といふ一札を入れ、愈と出聾することになると、再び 28る 御出利率御印鑑奉席上健 一今度、私儀、関東増殖二罷越申健二付、山伏愛人、七島包萱ツ、着香典、清川口罷通侯様、出 頭 類 関東行 親 其 五人組 某 甲 甲 坊 ⑳ ⑳ ⑳ 御判可被下 置侯。尤、御印鑑之俵者、宮人原図女第返上可仕俣。萬一故障之餞有之相滞候筒音、加印考慮飛脚差立取戻、 御 遺著引御頭 五月中限恵庭上前可仕儀間、此段御閉居、御婁判可被下置候。以上。 年競月日 御役所 組 といふ頗諺を提出して叢刊・︼竺受け、翌春の五月晦日隈わ廊山し、親類・五人組頭連署の廃山膚を出して、印鑑を 返さなければならない。偵L、丑年に限つて、五月十日迄に庫るべきこと1定められてゐた。これは、文化二年 羽黒山の霞挨と捜邦揚に就いて 287 羽賀山た㍑埼と根部埼に荒いて 〓︹■ ?べ月に、七への道管引弼が蓮望して判ゃした別号よJC空口に苧\もつ守、発達一同、小仁義上申御掃討文之 事﹂し﹂い、ご札・−イ一入れ、﹁若冊背璧篇之綬笥榊吟味之上、如何慢二潮音㌍仰付鴨共−三石之抑忙中上聞敷偵 云芦∵主筆杓してう童。掩って、もしも錆山が退場っL重い罰之更け、朝粥は勿論、五人過の苛も、前に引用し た原審にもある面く、印鑑聖t票=車名言ねば・宇り−︰ぷかつたの一γあるがーモの普人は一喝合によつては開所 立命ぜら九、永久に山へは鐸斗テ、・琴昌一ご言。朽■一ご・一うしても明眼までに茄九見時には、病気0ためと向克 たとみ、∴、 一憤廻睦穐養、慣週孝義雪空付、薄日進厨上廣節育、謝礼三上、相苧品⋮之旗ハ、−言牽聞日延可役印 付板へ共、再僅廓上旗覇者.以苑鹿東上準フ碩事。喝柄之肇−湖日進毀仰億鹿共、過料宥此迄通申付侯事。 二旦紳日進閤上旗日限相立鯖而茂、病気全快仕乗、H以豪儀二櫓ハ、、典墟、頭茂わ中堅夫より代官所道 囁出俣ハ、、少々之間者、代官切之聞落二而書評可申僻焉 一代官聞蒲焼日限相立侯而も鱒委垂之韓ハ、、蹄村之上、念度菩提申付、尚又、以来.慣廻義男メ可申瞭事。 院 代 院 ⑳ 一御開滞日限よ少百日相王旗両茂締付顛之鰯ハ、、親類・組合より除張可憐用侠。 右之條々被仲田候聞、其筋−ほ可申湾額。 天保三辰年六月日 ニSさ 道者引頭中 平 井 監 物 ⑳ −Jは といふ遷しも出てラつ。ところで、第一項P低音に缶る過料の頂は、達者一人二つ宣言文で、﹁大境持ち﹂上 呼ばれる古参の遺著引頭がこ証を保管L、先達仲ケ間の謡用に充てた〇一∵あるが、文化二年以前に於ては、遺著 引頭の指定した坊で、モ0道者を払った上、利益は発達仲ケ問に配昔したとい、ご﹂とである。 無量坊、関東頂週に妥、六月廿七ヨに琴宅。位之、御沙汰之上、一七日之間、道 期日迄に辟らなかつたゝめに虎分盲愛けた例は、屡々あつたとみえて、享山彦諸人琴円閉の記録にも、 へ、∵; 一澄小路 鈴木文殊坊名代 者琴参候而も引入験事相成不申旨申付ル。 文化六年六月 一八日町 中滞坊繹、関東檀廻二罷越.六月朔日道東画義之俵闇、二日二親−湖∵五人組共二呼寄セ、道著引入 不相成侯棟申付、共組小幌持へ道著支配ヲ申付、閂預方之供ハ﹂人潅用二申付保。然ルニ十五日鰐幽敦俣間、 役印廻か相済侯碍者、即刻、昔人・一門・五人組呼寄七邁緩和付喝一七日伯過供へハ御免申付、道宥共三 馬引入申俵。 文化十一年戌大月 といつた記戟が随所にみえるが、霞瘍づ博痛言も、かうした制約叶這廿した。五巧の晦日までに原山せねばなら苛 理由は、モの頃になれぼ、モろ/∼選者が釆加わふ㌫らて、勿論、同山?寺山開きには、まだ少し間があるが、 羽黒山の霞揚と榎部碑に就いて ヱS9 羽墨山こ“持と択部将∴就いて 一一二 羽黒だけで蕗・り行人も少くなかつたし、精には−山開きモ待た・こh∴暮毒する青もあつたのである。丑年に限つ て、五月十日遥に跨れとい∴eも、汚愕山口結ヰ丁子つこつ隼には、詫甲・ナウ○道者が、山開き前から撞揖と押 Lかけ、モの故、例年に婁鹿といふた知批−ず、参道は白衣0遺著一‡些まつたといふから.モれに備へるためでぁ ることは想俵に如くない。 何昼兄もあれ、こロ制約か翻嘗隋蚤に守られたことを物語ろものに、自坊といふ山麓の妻帯修験が、闇束へ檀 廻に行って大病にかゝむ﹁掩蕎に辟山0時攣モ発って瞳解されたゝめ、風婁に乗じて一瀕揚げんと志し、時頼賀 小六と名訴って田園に鹿き、野武士の群に投じて名之成トたといふ僻詑がある。かうした話が信じられたほど、 この規定が辟守された影には、法律的な強制以外に、何か締紳的意理由が布Lたの・一ではあるまいかと考へられる が、どうであらうか。 この過少で、前に抄録し、に、ニ活参詣㌔誌〓叩け記録にみ一号竺ニニの言葉に就いて、簡単に紀明乏してぉくの が便利であらう。 こ九こ封して﹁小帳鵬といふつは、 ポ帳持ちといふのは、盲巷つ遺著引頭のこ差し重義いたがー﹁大境﹂とは・﹁悶東行き﹂とか﹁先達﹂●﹁道 音引き﹂など⊥呼ば北る身分−り抵∵山択〇、大連つ瑠唱クモ記戟L三重帳一べ 凝用帳モ意辣し、駈け出L〇準脊引頸が預ってーユニ︺日ノ1の日記モつけ・へ′丁、こ考ぐlした真申一イ一審きとめた ただ㌧ふ 任牢受けて、竺摘東歴郵場御所弼慣¥た預けられて関東に出かける青空本帳持ちと呼び、こe本帳持ちが、檀那 =9つ がふえて一人では怒りきれ・犯やうな場合、本尊︵今書きつ1ある例からいへば別官尊︶ の承認の下に.或る地域 を詑かに代って貰うことがある。これを名代といふのであつて、名代0者は、本帳持ちと同じ封邁を受けるので あるが、本寺の承琵なしに、本帳持ちと?円約によつて憧廻する者を﹁博し名代﹂と名付け、制度の上で崎堅く 禁止されてゐたが、資陳には相嘗の数に上ったといふことである。 肇が、檀那場のことに多く鰯れ初めたから、序のことに、これに関する叙述から発きにするが、後に詳述する 貞享の公故によつて、羽黒泥は、霞といふ稗呼を檀郵場と襲更することに一在つた。何で、それ以後の免許状は、 悉く﹁檀那場之事﹂となつてゐるが、内輪に於ては、依然として霞と辞し、檀那場といへぼ、関東地方之指すこ 庄 とにきまつてゐた。これは、関東地方が兵事の公表以後に開けたからであらうと酷く人もあるが、山麓妻帯修験 の明光坊を纏いだ書位弼一郎君の持ってゐる毒性暗には、延贅元年七月十日に、下線囲相馬部下井村の名主 右衝門外十二名、同郡上曾根村の庄右衛門外四名の名を初案に戟せ、以後、延棄三年、延贅六年等に於ける遺著 の名が記入されてゐるし、私は未だにみて居らぬが、林光坊といつた山麓婁背修験の子孫である早坂大農老の持 ってゐる大連帳には、慶長年間のものがあるといふから、霞場・檀郵場といふ名辞と、この名構に伴ふ囁別は、 相宮古くから存したこと1考へられるのである。後に嘲れる如く、霞場と檀那場は、その取扱方法が全然別であ ったこと一誌ども考へてみる必要があらう。 此虜で又、単語の稔明をして急くが、甚性帳とか、大連帳とかいふのは、甚性坊なゎ大連坊たむの所持する、 ﹃関東檀那場所碍帳.由といふことで、それは、単に妥結遺著の佐野姓名を蛙へておいたといふだけのものではな 羽黒山の蟹持と榎部揚に就いて 29エ 羽黒山の置物と祖邦場に就いて 一一四 く、この帳簿に記戟されてゐる村々及び人は勿論のこと、その人の一族は、悉く、この帳簿モ阿持する先達の憶 郵場lごJゎ.憎郷であることを詑明するものなの一である。 役之者居嘗Ⅴ不申候筒音、惣尭達仲ケ間切二而、此度被仰出候筋を以、引付可申事﹂といふ厳重な規定が設け 緑次第二葉内可申事。決而変人立二雨読聞セ、奪合、転々数寄敦間数事。附り。春秋二限らす、関東留主等は 人々帳面持禾、帳面、役所之精圏之以讃間侯而、先年、村方二而誰々敦・参詣仮名前有之帳面二敦趣.能々聞届ケ、 知而釆ル道者、是蓬ハ道中之疲を茂不顧l奪合侯事、封参詣不宜寄付、此度定法絹三保尊、右道者、役所ね休軍 月に、時の遺著引頭七人の名を以て達した﹃此度新二申湾党﹄といふものをみると、モの第一條に、﹁山発達 る帳簿を持ってゐる著が引くことになつてゐたが、兎角、紛議の穏になる場合が多かつた土み三し、文化二年 知らす﹂し﹂いつて、適者引が前適の﹃﹁−細雨扁櫨.≡イ一携へて集∂、モの適者?皿締C堵や村題の記輩されて乃 栗少かけ次第﹂といつて、道者の名指す坊に案内するのが原則lで、道者が自分の境遵モ知らない場合には、﹁先 碍帳き〆︰一携へて、何應でも自由に歩き廻って信待を結集した。それ故、悶東道者の引き方は、﹁械跨引き﹂ 言琴∵あらう︶の入倉地とされ、これらの寺に属する発達︵道者引︶は、研唇尊から液される﹃Ⅲ東懐郷場御所 解した。これは、発達が適者に封して、自分の属する寺院は、自分蓮の坊の本寺になるのだといふことをいつた 之陳等︵﹁本坊﹂といへぼ、本来は別嘗寺だけに限るのであるが、悶東道者に封してのみは、この七ケ寺を本坊と 常火の別嘗として、又、羽黒山の輿之院として、ニ亮遥と同格に列した荒嘩寺の三坊、即ち聖之院・経堂院・北 ところ一︺、閑寂地方は、別嘗の雫前院、三党遥と呼ばれて、別常に次ぐ門地を誇った聾確院・正樗院・智憲 29コ れてゐる。 霞道者は、朔異に着くと、直ちに在授け坊に案内されて、翌朝は山に空言の一㌻苧Qが、関東遺著は、山に看い た最初の一挙く山麓手同村の道音引き︵発達︶の坊に明し、翌日0夕刻に、﹁本学八り﹂と稲してl先達関原 の寺に案内され、作哲通かの譜役を具して一泊し、堕早朝に月山へ軍刀、渇殿を弄するのであ主㌔勿論 らの心付けがあるとはいへ、道者引きの坊では、一切無料で世話乏し、長の道中で汗に稗れた衣顛の洗 してくれ、餅を揃いて振舞ったゎした。この締は惰餅にしたゎ、郁煮にしたゎして、自由に喰はせたも が、霞遺著に封しては棄挙げ一出し、餌ほ用ひたい。話は配道にモれたが、道督は本坊入少をして、初 物﹂.−吐出すのである。この落し物といふのは、宿泊料と山の第内料︵つまむ発達料︶が含まれて居わ、山琴攣山 での拷耗費︶は入つてゐない。選者引きに封しては、本坊から、大隈に於て、落し物の約二削が世帯料として交 附されるの一であるが、彼等の収入は、これのみにはとゞ串芭ず、守札料・所碍料・露無料︵党組の供奉料︶等の 二割からこ蔀も貰へ、モの他にも、さ皇そt−の名目の金が入るのである。関東行きなどゝも呼ばれるこれらの発 達のうち、別嘗章節屡の者は、特に﹁奥州﹂と呼んで、霞と罷別されてゐる前述0唐津・薯於地方を、或ひは石 久んご′、 戸、又は二盲戸と宛行はれ、配札・已したヵー芭脊の先達邑したゎすることが許されて空什。 上述の奥州と檀郵場、及び、彼に詳述せんとするところの霞場さ一陣いた他の国々は、これを﹁遠国 宮山修験の大泉院成売が、聖経院宮に敵上した青木九峰修行日記﹄をみても判る如く、関東道者と同じ をしたのであるが、青から哩郵姫少には行かなかつたやうである。これは、徒筏の時間と費用が嵩むた 羽黒山の霞均と租郵特に就いて ニ(lて 羽黒山の霞場と捜郊為に就いて たらうと想像されるが、本山派との関係があつたためかも知れない。 斑て、筆は耕く霞場に掃わつくのであるが、発達と呼ばれるところの御師がー霞 研に封して巷應たるの権利を持ってゐる所謂る﹁本尊﹂の院窮や坊騰がうたつてあ することがH釆ない。つまゎ、御師は在靡に金を梯って守札を受け、それを配るのである。又、御師は適者を自 ばんとう からといつて、自ら檀郵祖クをすることば殆んどなく、妻帯修験を傭っ とか呼んだ。従つて、尭運といふ帯は、字は同じでも、覆の方でいふ場合と、せ部 一人で同一霞に封する商戦を余得した例も少くなかつたが、妻帯修験は別として、清修修験はl御師職を帝びた 位階の昇進や、坊跡の相績等は、悉く在頗の執攻を経なけれぼならなかつた。尤も 院の如く、領主の帝位が特に厚いとか、盲釆の格式によるとかでー﹁囁頭﹂などに 行﹂といつて、例外的に別嘗が直轄した。庶し、どの霞にも、御師と在磨が別々に の華戒院の例をみても、奥州大崎の内松山・萩大赦渾・深谷三彿頂の三ケ所は﹁ 在磨の樺能として最も重要なものは、霞に居住する末派修頗や神子︵巫女︶を支配することで、それらの者の 分の坊に宿泊させることが出奔す、必らず在應の坊に泊めなければならない。この 師との違ふところであるが∵完では、御師は在療の名代なのかと息ふと強ちさうで 廻少をする樽利もなく、道者を山に光速することも禁ぜられて居ったのであつて、 愚したのである。而も御師は、霞場の信者からは﹁羽黒の別著さん﹂と呼ぼれてゐ 294 意味が達ふのである。又、在廉売けが置かれて、御師の居らぬといふ場所はないのであるが、御師のみがあつて、 在磨の任命されて居らぬ土地は稀に存在した。さうした析はl別嘗が在廉樟を掌撞して居つたのであつて、外見 は、前通した奥州と呼ばれる地方と似てゐるが、彼は戸数を以て別たれ、此は地域を以て分けられてゐるのであ つて、山に釆てからの取扱ひ方も、彼は関東の檀郵場遺著に準じて封過され、此は純然たる霞遺著としてのもて なしを受けたのである。 然らば、地方在位の末派修験と信者との関係はどうなつてゐたかといふと、それは、所謂る﹁檀那の辟依次第﹂ であつてー火注連を執行したゎー四節の守♪を配つたゎ、屋紳供を修したゎ、羽黒代参の初穂を牧椚したゎした のであるが、大港に於て、地域的に師せ関係が結ばれてゐた。経って、在来の地笹以外に教練を摸張しょうとす れぽ、嘗然−其鹿に縄張か寧ひが起るわけで、屡々問題となつた勿黒沢と本山派との霞季ひの原因は、その大部 分がこれであつた。 熊野に於ける御師と檀郵との関係は、r細大名諸士ハ本名字来園二付檀那トシ、町人首姓ハ生線ノ在所付牛宝器 数ヲ頂戟七シム﹂と、﹃.熊野山背記﹄にみえるが、羽黒の場合も、醍醐坊と甫部豪及び甫部傍、延命坊と津隆家及 とだんな び津感領の如く、又、﹁土檀部﹂と呼ぼれる山形解の荘内地方︵但し、山積通わは霞のうち紅入ること前述せ且の 如く、血縁を辿つて師檀関係が結ぼれてゐる例もある。関東檀那場も亦この範疇に慶する。縛って.別嘗の許妖 によつて、霞を進退するやうになつたのは、後世のととではないかとも考へられる。劇ち、糠部在腐と呼ぼれた醍 羽黒山の雷揚と捜邦揚に就いて 醐坊は、甫都民の一族をその棲郵とし、南部豪が居鱒聖二戸から盛岡に移した後は、岩手三十三郷の老廃は別嘗 295 羽熊山の・餞揚と栂郵摸に就いて 二八 で、御師は山上衆徒の束光院であつたにも拘らず、南部氏三門は勿論、その豪臣一統に封しては、御師・在靡と して臨み、城下の大勝寺を宿舎として登城L、領主が麗澤する年は、これと親しく封画Lてゐた。韓攣二部の御師 で、聖護院官を諸囲山伏及び霞の棟梁と定めたから、本山沢山伏の中でも、年行事覇を帯びて、地方修験の束ね と解しても差麦へなかつた橿、刺しい襲此が生じてゐたやうである。穂川家庭は、さうした事情には一切無頓着 のであるが、熊野や郊智に於ては.徳川時代の初研に、既に、﹁霞とは地方在任の修験者蓮の檀部置域一である﹂ 世紀に王る長い準蓬の跡を鮮烈と窮してゐるために、今にしても猶、これたl言にして党葬づけることは困難な 以上の如く、羽黒山と霞場・憤郷場の関係は頗る複麗して居ク、霞といふものが至生してから今日に至る十数 もの珍らしいQである。 それ以来、一村馨ってその土横河となゎ、村の錦守である地溝堂の別常にし、誉﹂いふ挿話が停へられてゐる程. 上川からの潅漑用水を揚げるために新撃省内攣するに嘗つて、山琉妻帯修験の梯林坊に、普請成就の新穂を乞ひ 貰ったのである。従って、蒜落全部が其の法印の噂琴ご冨せいふ例は極めて乏しく、押切といふ場所が▲、最 じくする者は、たとへ村が別でも、同じ山伏の牛玉た受け、同一修験を斬新の師として、審所躊や秋所轄をして む楔郡といふ意味ではないかと恩ふのであるが、霞の場合とは遭って、稽の血族悶係で・めるところの﹁マキ﹂ に簡れたのであるが、便宜上、怖畢に述べることを諒とせられたい。即ち、土檀郷といふのは、近くの土地に住 土橋郷と羽黒修験との関係に放いては、珊話芸まつ皇の餌十一琉に寄稿した扇黒山の牛玉賓印一﹄で詳細 である延命坊は、黒石に分売した繚鰐川墨守に対して、租克以来の緑故を楯に取わ、積極的に師攻囲係を結んだ 296 をするやうな連中は、﹁本山方には、諸国山伏 日光院は、慶長十九年に家康に直訴を試み 霞の記文有之間、羽黒山伏支配いたすべく﹂といふや を押し出すに至つた。螢に於てか、奥州相馬の羽黒派閥頭 の主張を破ったから、これにカを得た各地の羽黒山伏は、相踵いで訴訟を埴革するに至った。然るに、 社奉行は、延棄四年に﹁自今以後、羽黒山伏不可佳子本山之霞場﹂といふ妙な判決を下したから、問題 紛糾し、訴へはいよ/\多くなつた。偽で、兵事冗年には﹁羽黒山伏放任本山之霞場者可愛本山年行事支配﹂と 判決を改めたのであるが、期る判定を以ては満足し得ない羽黒の別昔から、﹁一派猫立の羽黒山伏に射 年行事の支配を受けろとは、如何なる意味であらうか﹂といふ、反駁的な伺ひ主止てられると、﹁公儀 支配辞儀ように﹂と軟化し、その無定見さを自ら曝露してゐる。苦しこの岡谷は、羽黒山に取っては、 を得たものやあつたことは、想像に維からぬところ一であらう。何となれぼ、幕府よ少出され、花布告 山伏に移牒するの努は、悉く本山方の年行事が勤めねばなら拍ことになか、加之、モれに封する資質的 しもないといふ結果が生じたからである。息ふに、霞なるものは、禅師なけ在靡なゎ一の足によつて開 き信徒網なのであつて、土地と人間とを結びつけ、これを不劫慶祝すべきものではないのである。だが 度さうした粗耗が出奔上ると/てれを維持し、更らに蟄属させるために、さヰつふ11−な工作が滝されることも亦雷 魚であるといへる。 ︵これに、大・中・小 最後に、紳燐分離後に於ける羽累山の、霞場・檀部場等の支配方法の雄琴︰義いて二子ノれぼ、明治十 ▲︷−︹り 時の三山宮司 物集高見は、筏節した嘗修験等に封して、ニ両神敢甜部といふ稀甥を輿Iへ 羽黒山竺帯揚と軽部碗に就いて 2ウ7 羽児州山の置場と槻郊鴇に就いて 一二〇 の区別モ設けたが、後に.さうした差別を撤廃した︶、綬等に檀却場免許状を附輿して一件山嘗時からの霞場を 僧衣せしめたのであるが、寺院方の霞に封Lては一弾宣も簡れ得なかつた。ところが、明治十七年に重力、遺著 は発達なしでも自由に巷繹Lうることゝし、これまで、大浦・弼陀ケ尿・月山頂上の=面所にあつた切手改所を る研究の一端なることを、同合規定によかて附記し、且つ、第七同日本宗教拳骨大食に於け 究襲表と二二重模した鮎の存することをおことはゎして撃を欄く。 未だ十分に意を表さない鮎もあるが以上で、大建を論じ経ったので、本稿は、財嵐法人帝 年に教萬と辞せられる重罪人の群集する羽黒山に、近代的な旅館が頚達し得ないのは、この ゎがあるので、その慣習を遵奉するといふ申合せをしたゞけで、これ、−忙−ニ房参詣人案内所の管理外に置いた。 ゐる土着の欝修験が、自ら発達となつて道者を引き、山茂の宿坊では年季叉配少、春秋の守 霞場も僧都場も奥州も、悉く此魔で管理することゝLたのである。但し、土檀郵と辞せられる地域は、各部落に 章院側も進んでこれに加盟し、一山瓦解とゝもに渦械した適者引締役所に模して、三山参詣 晋明坊l還俗して百瀬使清といつた男が巻起人となわ∵初めに述べた警手同村慣例保横堀約.薗が緯線されたから一 して、道者の自由参帝を許されては、宿坊は墳絶に璽ヱ言とゝたるわけである。孜に於てか は、山へ登らせなかつたのであるが、維新後は三山神祀の祀鞍研が、これを奉行してゐた。 度したことが動機となり、祀部達の神社に対する大小の不満が、一時に爆聾した。この切手 者が入判を所持して一指るか否かを検査する析で、宿坊の取次ぎによつて別昔寺から出した 29S 藤 本 一 雄 ﹁〓声派或は宗教畢の教授﹂と同一視してはならない。然れば宗教々青ば、宗教的 の語は、亭賓上宗教的教育の意味に使はれて居るので、之を宗教々授︵H−字 修身訓育作業としての宗教教育 即ち 宗教々育︵字音iつご訊Eユ一一象山つコ︶ ぎ乏ぎ二=︼ざ一息⊃−︶︶ 訓育を行ひ、兄童の心に潜む無限のカを内感すべき純なる宗教心を誘導啓蟄し、敬虔心を章ひ、事毎に諌虚にし て虞撃なる態度を持しっ1、信念或は信仰に生き得る人物たちし打る意味に外ならぬのである。 該教育の目的とする虚は、人情に即した生活の賓現を期せしめる馬に、人生必須の宗教を理解せしめ、大自然 の理法と吾人の威力への自覚あらしめ、夫れに依る覚悟を啓蟄して、各自個々の理想とする魔に向はしめんか為 に、尭づ人生の意養を明かならしめ、基理基論に走らす、事資を究めて宗教釦生活と進言ひ得る程の信念ある行 動に入らしめ、国家有馬の人物たるべき人格養成を萌すると共に、少くとも一般園長の精神浮化を徹底せしめ、 能ふべくんぼ、信仰生活に入らしめるにある。 我が国の宗教々育は、宗教々授と共に、上古に於ても、何等かの形で行はれてゐたに相違ないが、條文に追加 へて廣裏の社食訓練を企てられたのは、聖徳太子である。即ち十七陳憲法中 修身耶育作発としての乗敦教育 299 條身帥清作漢としての㊥藁教育 土\ょ 一二二 第二條 篤く三寒を敬へ。ニ蜃とは梯迭恰なた則ち相生り結題.借財の極宗な少。何れの世、何れの人か、 ︳−︰り. へ1† 長の準ゑ只ばざる。人ガだ慰しきもの鮮し、能く敢ふれば以て維ふ。其れこ喪に節しまつらすば、何を以て か在れるを直さん。 第七條 人、各々任あゎ。箪ること宜しく濫れざるべし。実れ賢哲官に任する時は、轡晋、則ち起少、針しき これ ′、に 入官を有つときは、悶税別ち繋L。せに生れながら知ること少なけれども、剋く念ひて聖となる。事大小と つ㍉■さと莞むろこ丸㍉L皇 ひとたもよ 七 なく、人を得て必ず治まる。時緩急となく腎ハに遇ひて当ら軍なか。此に因わて国家永く久しくして、杜叢危 きこと勿し。故に古の聖王、官た定めて以て人を求む。人のために官を求めたまはす。 の中に於て、第二備中の ﹁人尤だ悪しきもの鮮し、能く散れば以て維ふ﹂ とある文及び第七條中の ﹁世に生れ乍らに知ること少なけれども、剋く念ひて宝とたる﹂ 等は、正しく其の御心に、宗教の力と以て、人々を幣化するの御理想上されたものと見挙る次第であつて、今日 で青へば、宗教的訓締やなければならぬ。琴良和に入つては、堂武天皇の御努力は、申すも畏きことながら、産 に徹底的な御心づくしの蔑みであつて、東大寺の大悌建立の如き、又諸国に輯分寺の設立を命じ給はつた事の如 天皇への御協力と見奉る 天皇御自ら﹁三賛の奴﹂と仰せられ、僻敢を以て囲衆道徳の基と寒さしめ給ふた事は、正し きは、欝に雄大な御計劃であつたと見奉る。光明皇后の祉脅専業への御墨力は、之亦 次第である。殊に 100 く上官太子と同じ大御心と推察し奉る次第である。︵之には多少の異論があるし、﹁ニ直の奴﹂と仰せられた事に 就いても、聾者の間に稽モ議論があるが、斯く考へた聾者も、今日迄一、二に止まらなかつたから、此の範囲に 加へる事とする。︶ 爾後各時代の有馬な宗教家は、布教の傍ら時代人0指導者として、社食訓練即ち廉売の宗教々育之贅施して居 わ、鎌倉時代、寺院に於て俗人の子弟を、僧侶の弟子と共に教授する事が始められ、婚て皇町時代には、檜侶の 手に寺小屋が始められた。天文十八年の天主教入国後、安土にセミナリヲ、豊後府中にコレヂヲ及び小聾校が設 けられて、鎖国迄に数千人が該教育を受けた。 徳川時代に、俗人の手に設けられた寺小屋が激檜したが、寺又は寺屋或は手習屋と稀して、宗教的要素が濃厚 であつた。即ち入畢は﹁入寺﹂又﹁寺入わ﹂又・﹁登山﹂と辞し、毎月廿五日は﹁天神樺の日﹂として手習子寺子 ︵即ち生徒︶或は筆子は、師近に連れられて天満宮に参禅し、古筆は神社境内の筆壕に婚て、近隣に天満宮の無 い場合は、畢習皇に菅公を祭って天紳経を読み、沓き方屡覚禽は﹁天神書き﹂の名辞を岡ひ、又寺院寺小屋同棲 に文珠菩薩を崇拝し七月八日に文殊禽が行はれ、般若心在英の他師匠の宗旨の経文が読点仇れ、近隣の寺院或は神 社に参詣し、教科書の社釆本には宗教記事が多かつ、誓寺院寺小屋にあつては、寺院に法事など催事のある毎に、 参詣して統教を聞かされ、又経文も読み習はしめられ、又津事の手停もさせられた。で信仰を得る迄に行かずと も、宗教的訓練は行はれた。高楠順次郎博士の所謂﹁智識だけでも得て居れぼ、抱て訓練の基礎にな少、信念信 仰への動機力とは成る﹂の考方に、自然合致して居た得である。 修身訓育作薬としての乗数教育 30エ 修身訓育作発としての素数教育 三匹 明治二年、盲釆の祭政一致を敢政一致に改め、盈三年大聖且布の詔勅が換聾され、同五年宣教使は数部省と故 紳道の方面た於ても、二・三の教派に日曜畢校等の施設はあゎ、天理教は殊に力を入れてゐる。が、仮令世間 斯る徴師を歓迎する模様であ妄㌔ に普及した。愛知県下に於ては、今でも、畢校の教師が生徒を引率して寺囁に参詣する風習が行はれ.父兄も亦 順次郎博士も、明治の宋甲から︵形式の巷ったのは、大正十四年ノ之に毒力され、爾後漸次檜加して今日は金歯 沸教寺院も之に封立し、石川解下に於ては、日露役直後窮鳥教師等の手に依つて、日曜拳校が開始され、高楠 校の歴史﹂及此屋叔安定氏の詑等参照︶。 以降︵之も定紋が無いので、時節不明と説くのが却って農相である︶日曜畢校と名乗った︵小寺正喜氏﹁日曜畢 息拳校の名を以て創業︵此の頃紳戸・岡山・長崎・弘前等に於ても、殆と同一の施設が行はれた︶し、明治九年 於て、停道郎宗教オ授に依る宗教々育を始め、明治五年︵六年の読もある︶東京市京橋笹新薬町新発数台附属安 の日曜畢校である。而も新教は更に早く、元治元年六月︵一散に慶應二奉とある︶横溝港ヘボン博士の治療所に と呼んだ。之が複︵諸説紛々とLて一定せす。明治九年頃の詮あゎ、廿年頃ともあわ、文明論末期とも育はれる︶ 教合に於ては、早くも旛道の傍ら、信徒の子弟を集めて布教即ち宗教々授に依る宗教々育を開始して、安息単校 解放の機に壊した結果となつた︵侶法文上の信教自由は、憲法聾布以後である︶ので、京橋直明石町日本天主公 廃止され、大赦院は之が罵に閑散の止むなきに立到む、此廃に於て.神道沸教各々に自治を許し、同年基督敦も 辞して大数院が附訳せられ、敬紳愛匪・天理人道・卓上奉戴のこ藤が国民軟化の原則と成つた。撃ハ年数部省は 302 に知られない山間避地にある寒村にも、鮮紅併閣は随所に立ち、各戸には俳壇紳棚を設けてあり、無借 我が兄愛しさには停統的習慣にも依るが、﹁勿饅ない﹂の語は必ず教へるし︵断定しても差支ないと借する︶、食 前彼の感謝の軒も、多くは述べさせてゐる。加之紳悌や組先の基地への鰻丼も行はしめてゐる其の上、 は先づ紳彿の前に供へさせて居少、心ある親は、憧魯と方法さへ峯って居れば、日曜畢校にも通はせて に近年愈ヒ明確に行はれてゐる宮城遁辞の美風は、規人紳に封し奉る誠民信仰の姿の一つである。従っ 行への指導も亦、宗教々育の一つであ妄㌔紳祀局の指示する虞では、﹁繭虹神道は宗教でない﹂と言ふ られて居る。経って紳祀を中心には布教も葬祭も許されてゐない。けれ共崇拝の念から倍仰に移少、心 拝趨を行ふ事はー之を﹁宗教でない﹂とか﹁許し難い﹂・と強調しても、到底刺し切れない事箕の現はれで哲Q。 然れば、檀挿の仕方、紳に封する態度、其の他神社に関する教育措導は、之を庚い意味の﹁宗教々育﹂ い繹にはゆかぬ。 抑モ明治政府の教育方針は、新日本の建設にあつた。夫れが焉に、毒しい急激な変遼的態度を取わ、 文化の輸入に特に力を入れて其の賢哲乾期する時、別に良い方法が無かつた其の結具は、勢基督教の一 中外に施シテ惇ラサル﹂ いふ形勢に成って行つた。邦るに、教育勅語の御黎布以後其の大精神 ﹁古今三通シテ琴フス 借條は 明治霊帝が御信念の御聾露であつて、園内の諸宗各涯を超越し又統一し−竺大宗教の経典として園長に 渇仰せられるに至った焉、歯粋保存主義者蓮は、外来思想が日本特有の穂育を素すを慣れ始め、此虞に 修身訓育作菜としての乗数教育 30二; 修身訓育作発としての素数教育 一二六 沸教側から基督戦攻撃︵嘗時の所謂耶蘇征伐︶が開始され、内村琴二氏が、教育勅語に砲撃宝息つたとの誤解を 中心とする吃末文が二十四年の彿敢痴話﹁令知合﹂にHされたのを発頭に、井上背攻郎博士の﹁国家し病癖衷と 京帝圃大草の比較宗教畢開講は、柿崎博士に依ってなされたのであつた。斯くて宗教畢聾蓮の気遥は起少、宗教 ﹁宗教研究﹂を出版し、姉崎正治博士亦該研究に着手して﹁宗教畢概論﹂を著はし、前述明治朴一年に於ける けて、岸本能武太氏︵二五二五−八八︶がハーグァード大挙に宗教畢を修めたのを噸失として、其の廊靭するや 宗教単に依る科挙的研究も亦其の一つに加はらなければなら鞄。其の方面に於ては、明治廿五年から廿九年にか 信仰深い親や教師の指導以外、我が国固有の神道及び横死の悌敢の笹的研究が有力な植木を為してゐるが、此戟 一般的に概括して見ると、票数々育の要素には−項境に依って授けられる宗鞭心誘嶺の諸効横軸ち宗聖電話又 年、宗教と教育は分離すべきものと考へて経過したのであつたっ 人も我が国内に既に多々あつた筈であるが、祉合一般の人々は、此の訓令の彗せられた諸共として、爾後四十飴 ﹁宗教即道徳﹂はジョンニフスキンの主張であり、事如艮上宗糞信念の加はらない道徳が無力なる事に心づ 二年宗教と教育の分離を命する訓令、皇軍するに到つた。 ︵耕一年、帝国大串に宗教畢の開講を見、一方畢界に於ける宗教研究の気遅は勃興しっゝある嘩であ少乍ら、︶鼎 に戟せ・花。斯くて件数基督教両派に分れて評論社重ね、之が馬に、宗艶と弊育の協力、を不可なゎと見た文 が﹁六合雑誌﹂に掲げられ、井上博士は重ねて﹁宗野と教育との衝突﹂なる論文を、廿末年一月の﹁教育時論﹂ の簡爽﹂なる論文が﹁教育時報﹂に硯はれた。之に吹いで横井時堆氏の﹁徳育に潤する時論と基督教﹂なる論 ;)ヰ の必要も亦愈と世人に考へられ始めた。勿論宗教と重々分離し切った人生は所詮あわ得ないし、一般に其の必 とか不必要とか考へる飴地のない程、人間生活と宗教は不離の関係に置かれてある。経って.其の宗教を畢的に 研究し、又其の必要性に就いて考へる事は、必然の社台要求でなけれぽならぬ。さすれぼ、之を如何に取力扱 べきかの問題は、嘗然起るべきであわ、夫れの解決は.只宗教々育あるのみと育ふ事になる。教育に就いては、 国表徳動員で、あらゆる努力をしてゐる中に、﹁何故に宗教科だけを金串科の中に加へないか﹂の疑問も亦、 然起ってよい筈であるが、文部省は反封に宗教と教育の分離を訓令に迄して仕舞ひ、園長も之に譲成して禾たの が、前述の通わの次第であつた。が此の矛盾はどうしても解けすにゐない筈で、夫れ等の緒は、斯うした世の きの聞に、自ら現はれて禾たのであつた。 即ち明治升九年谷本官博士は﹁宗教と教育との関係﹂を出版し、四十二年京都帝国大草に於て、﹁宗教々育﹂ の命題の下に講義を開始した。其の講載録は、大正五年に﹁宗教々青原論﹂として出版され、殆ど同時に、大 大草に於ても、寄港今の名を以て﹁宗教と教育に関する畢詮及資際﹂を出版した。此の間明治四十五年上野精 軒に、宗教衰と教育家の懇談合が開催され、同年六月末姉崎博士は、﹁宗教と教育﹂を増販した。攻で小原囲芳 氏が﹁教育の根本開港としての宗教﹂を公にした。斯くて宗教々育問題も、明に畢的認識を受けるに室つた。 其の後大村桂巌氏の﹁宗教々育概論﹂及び雑誌﹁教育と宗教﹂、大東出版社の﹁宗教々育講座︵再版改名﹁宗教 生酒溝塵﹂︶、開寛之氏の﹁兄重の宗教心理及び教育﹂﹁兄董の宗教々育﹂、渡連昌治氏の﹁教育に於ける宗教的興 味﹂等の持般の出版があ斗其の後濱田本悠氏亦該問題を提唱して﹁宗教公論﹂を襲行してゐる。 修身間†作桑としての乗数教育 305 修身訓育作業としての素数教育 一二八 一方各宗派の大串又は専門畢校二・ニ石私立大畢及び京都・栄城・東北・九州及び養濁の各帝国大串に於ても、 ︵加之徐に調べもせす只厄介成し又は其の結 夫れ′1此絞某瞥拳が講轟せられて宗教々亨一イ︺援助し、宗教に関する招版も、該研究の盛大となるに連れて増加 しっ1あゎ、絶えず世人に刺戟を輿へてゐる。 一般的の傾向であるが、宗教々育を何となく困難硯する者が多い 果慣値なしとか或は不要論を唱へる青もあるが、知らざるの甚しいものであると言はなけれぼならない︶。けれ ども、高楠順次郎博士の所謂﹁指導者の人物攻第﹂で、決して困難な亭ではなく、賢行する事が出来る。即ち被 教.育者に﹁信・い.仁得たい﹂とか﹁信仰なしではどうしてもゐられない﹂と思はLめる、心からなる辟慶一つ一で可否 は決するものであるから、一定の信仰ある草ならば勿論出奔る事であゎ、偵令信仰の得られない者にも、宗教へ の正しい理解があゎ熱意ある宗教的関心があゎ、信念信仰を求める心と尊敬される人格があれば、教化の力は自 然と具はるもの■︺ある。殊に前にも軽く関れたが、高楠博士の所詮、﹁尭づ宗教に屈する知識を授ける﹂事が宗 教々育の第一歩である、から、其の意味から言へば、誰にも出釆ると言ひ得ないところに或る難鮎は潜むが、可能 率は高いと考へられる。﹁宗教は取扱ひが困建一︺あるから、発づ放任して潜け﹂と音ふ行き方も相嘗多分に存在 レポ してゐる。けれ共之は毒しい誤少一ヾあつて、恰も﹁根があるから米は食べずに置け﹂﹁奄衰があるから粟は輯ひ﹂ と言ふ類で、到底問題にならない。国難モ忍ん守、共の利用モエ夫する虞に、葵の展慎も規はれる。殊に同心年 令︵八・九才から廿二二二才−−特に十一・二才から十五■六才迄、宗教心の萌しがあゎ、信仰生活に入わ易い 年令であつて、改宗年令とも呼ぶ。宗教心埋草者スターバック博士の資戯心理単に依る調査の報する鹿では、男 3)6 女共々十六才前後が其の最高鮎を示してゐる︶の子供は、精紳講話に興味を持つものであるから、要は教授者の 話し方と態度一つである。 方法は、宗教々授に依る場合と一般の教育態度のみに依るものとあるが、単なる此駁宗教単文は二景の教学の 教授だけでは、宗教々育の出奔ない場合が可な少ある繹である。第一に自己の宗教心信仰信念少くとも宗教に関 する敬慶なる熱意を、枚数育者の心に移す辛が、宗教々育の本質である以上、態度如何に依っては、宗教問題に 簡れなくても、立派に目的を達する人物もあゎ得る繹になる。即ち何は置いても、畢理よか資行が主であるから、 一宗派の教理や宗教畢を如何に詳しく幣へても、夫れで宗教々育が出釆ると育ふ碍にはゆかぬ。優に誘因になれ ぼ寧ろ好成穣であるとも首へる。只確乎不動の信念信仰若しくは宗教的熱意を、あらゆる樟禽を通じて相手に穂 ゑつける時、始めて目的は達せられるし、其の行き方が最も尊敬紅償する。高楠博士の﹁せめて宗教上の智諭だ けでも﹂は、宗教々育の第一歩に入つた程度の意味であつて.之を宗教々育の一部であるとは首ひ得る。 尭づ草枕方面に就いて考へるに、初中等畢校に於ては、各教科日英の他畢校のあらゆる作業を通じても、教育 されるペきである︵此の方法は性格教育と同一である︶。加之一見宗教に綾なしと見られる作業−運動競技工作 圃婁等モ又は畢料亭−ふ芸壷科傍線生理衛生等モに於ても、導き方一つに決定すべき宗教的なる何物かゞ含ま れば れてゐる管である。で、導き方に依って観光以釆停統的に各個人に停へられて釆た多少ともの宗教意論の萌えと、 白虎結びつく横合も輿へられる轟である。 今宗教を中心として、世界文化辞固に於ての宗教々音大要即ち各国に於ける道徳教育の諸方法を一瞥するに、 修身訓育作発としての乗数教育 307 修身副書作業としての宗教教育 一三〇 虎づ欧米人の家庭内に於ける鰻祥封象︵日本の彿墳神棚に該督する魔︶として、基督敢に於ては、新嘗両派の形 式的差異の若干は認めなければなら鞄が、↓般豪産に一ケ新里所を定め、浮水或は聖書︵新教徒に限る︶を置き、 十字架豊重︵イエス、マりアの官僚董︶故人の篤農︵日本の位牌に該嘗する場合が多い︶等を掲げ、子供は家長 や年長者の命に依つて、豪族一同で薩弄する又読美歌⊥仁唱ふ場合もある。其の他、洗鰻は抑モ宗教々育の第一階 段であつて、食前の所わ食後の感謝文墓参︵アメサカは五月末日のヂコレーシぎンデー欧州は多く十一月最後の 木曜︶軟骨鰻参、日曜串校への通草も同一指導に待ち、欧州に於ては各所の路傍に立つ十字架に窄緒を勧める。 同教徒は、家庭の内一ケ所、メッカの方向に嘗る場所を、何物をも直かない聖断‘定め、一家奉って一日五同︵日 出前・十二時三十分−十三時の太陽中心・日没前・日没直篠・就廣前︹夜牛三時迄に︺︶其の前に橙拝し、旗行其 の他歩行の際には、路上に於ても鰻拝する。爾宗共に、信仰の深い両親長上連が、自己の所信を並べて子弟を信 仰に導く所は、我が国諸々の豪産に於て、行はれてゐるものと、共の精神は一に廃する筈であつて、宗教々授に 依る一方法と育ふべきである。 学校の方面を記せば、之亦事資上宗教々投に依るべきものと首ふべきである。只礪米等へは最近に沸教が入わ 始めた︵ロスアンゼルスの或るクワスト数々合の牧師に、信者が何か崇敬上の質問をした應、其の牧師が﹁そん な小六づかしい事は私には解らない。俳教の檜侶の所へ行って間ひ給へ。沸教管掌には共の様な議論もある様に 聞いてゐる﹂と育つた由、千九至二十六年頃の噂であつた︶鮎に鑑みても、現大腰後各国夫々多少共華此を起す べきであるが、少く共今日迄の虚は、以下の通わである。 308 ロシアは−宗教を阿片配し、大革命後﹁性格教育﹂を採用して宗教々育に代へ、宗教心の満足はレーニン屍温 鰻丼の形に止めてゐたが、猫軍倭人に際し、恐怖の余わ紳に所る者練出し、政府も亦信教の自由を許したから、 鳩て或る程度迄昔の宗教時代に戻♪、新しい嘉教々育注が生れるであらう。 オランダは、各公立夢枕の資兼規定に依る宗教々育港が設けられてある。勿論表面上宗教の教授は禁じてある 撃とし、小串校に於ても、聖書を其の健修身資料としてゐる所もあゎ. が、個人は何等かの信仰を持つぺきものと、不文律的に定められてある。 ゲイ責 イギりスはー中等畢校の修身を晰 性格教育を行ってゐる斯もあわ、一定してゐない。日曜畢校は千七百八十年釆の停統を有する世界長初の創設地 として、極めて盛大に行はれ、聖書唐紅は、↓日一句の聖文をロンドンタイムス紙上に掲げて、国民の生活に希 望と慰安を輿へてゐる。 ドイツは、公立畢校に於ける宗波教授は表面上禁じてゐる。けれ共倫理畢の一部は紳畢を基礎として居毀、初 中等畢校へは新教の牧師吉敷の神父が出向き、生徒を教皇別にしては、教理問答其の他を教授してゐる。ナチス 某執樺後は、基督教以前のゲルマン紳話を復治して精紳教育の資料として、純ドイツ国民性養成に力め、ヒット ラーは、自己の執政後春希の宗教が衰微するを慣れ、己が常像への鰻挿を禁じてゐる。−1他事茸上国民の殆ど 仝饅が之を掲げて鰻丼してゐるが、ヒ氏の本意には遭いてゐる経である。日曜畢校は新教の一小部分にあるのみ で殆ど無いに近く、穀倉に於ては、子供に神前鰻丼のみを行はしめて居る。最近の報昔に依れぼ、青年畢校にも 宗教々育の時間割を配した由である。但成瀬正男氏著﹁礪逸工業界の印象﹂︵四〇七頁︶に依ると、ヒットラー中 修身聯育作菜としての乗数教育 309 修身訓育作業としての禁教教育 三二 心の人々︵数は不明であるが、大方全ドイツに普及してゐる様にも考へられる︶は、紳を認めす.或は否定して、 日曜睾校もあわ、﹁宗教的基礎が無くては訓育が本官に出奔ない﹂と一般にも考へ、畢生の宗教儀式出席を勧葬 檜侶が修身と共に宗教々育を行つて居わ、公立畢校に於ても、宗教々授希望者には、特殊の取扱ひをしてゐる。 主義に訓育を縛めて居わ、性格訓練に力め、董間食事作法の時間追走めて居るが.私立の小・中畢校にあつては・ フランスは、千七盲九十一年の憲法恕以て宗教と教育を分鹿し、宗教科の代わに修身科を設け、反宗教的理性 畢教授間に乳接が起わ、篤に多少の相違は生じたと見るべきであるが、取り上げるに足りない。 ノルウェーは、千丸首五年スエヂンから分潅礪立したが、大憺はスエヂンと同一である。侶近年オスロ大草紳 が定章句且つ戸箱身分発明授輿稽は救命が預かつて居少、特に囚人の殆ど無いのを誇少として居る。 授は、新教檜侶が櫓任L、加之困中の男女は、畢校卒業後も歎毎に出入し、信仰の確認有無を以て、結婚の資格 スエデンは各教区内の畢校が、常数置局指揮下に在り、畢校と敢含が宗教省に監督され、初中等畢校の修身教 るので、師範畢校には宗教科が設けられてあゎ、教師の資格の中に一散義の研究が加はつて居る。 デンマークは∴示教々科醤の損得が恰侶の手に托せられ、初・中等畢校を通じて週二・三時間は之に鯛れて居 へて畳表ない。 ホンガリーは、日昭畢校の殆ど無い魔道、ドイツに酷似して居る。で、ドイツの特殊施設左除く外其の億と考 目下のドイツは嘗預記事以外の新状態が出頚してゐると考へられる。 ﹁只閥豪あるのみ﹂と誇解してヒットラーのマインカンプを聖者として済んでゐる著さへあるとの報があるか 3IO して居る。 スヰスは小筆校に毎日珊分、中等畢校に於ては週二同、教師が宗教々育に従事し、檜侶も週一同は奔校するが、 宗派に渉る亭は、日曜畢校で致摸して居る。 フィンランドは、各過小畢校四暗闇、中等畢校五時間、高等肇校三時間、有資格教師若しくは僧侶が宗教々育 、モ行ひ、且つ固の倫理は紳醤を基礎としてゐる。 ルーマニアは、宗教勲の極めて高い国情にある。教皇に於て兄董は、級長の指揮に依って、始業前に新わ、叉 食前の所わも行ふ。小峯校は殆ど教魯の側に在り、日曜日には教師が、生徒を引率して其虔に参話し、宗教々育 は愴侶の手に毎週、小畢校は四乃至六時聞、中等畢校は二・三時間行はれ、檜侶の努力は軍蕨に追及び、固の道 穂は宗教を基礎としてゐる。 ブルガリア ︵日本の或−〃教育硯察旗行者が、日本に於ける宗教と教育分離の旨を物語った鹿﹁宗教と離れて一 題どうして教育が損釆るか﹂と、彼の地の一難育着から甚だ不審気に尋ねられて返答に困つた由︶もギザシャも、 背から宗教はルーマニアと同一であつて.外の事は宰っても、宗教上の学ひは範無であるから、宗教々育は大醍 同一形式をとつてゐる。 イクりアは、各過小畢校一・二時間教師の手で、中等畢校以上は神父釆校、一週一時間の宗教々育が行はれ、 囲の倫理は紳畢を中心にしてゐる。他宗教々育に希望の無い生徒は、其の旨を届け出ると許される。 トルコは、欧州唯一の同数囲であるが、ケマル。ハシャ執政後宗教自由の制度を取ト㍉畢校に於ては勿論宗教に 修身訓育作発としての素数教育 3ⅠⅠ 修身訓育作葉としての素数教育 一三四 簡れないL、日曜塾校︵同数は金曜日を安息日としてゐる︶も殆ど無い。其の結果として、トルコの国教は可な ゎ素乱してゐるとの慨きが深い。 ァ大畢の宗教々育は教育畢部に含まれーイエール大車の性格教育は紳畢部に入つて居る一研究を の講座が設けられ、性格教育と連絡しーーーシカゴ大草の性格教育は宗教肇部に併設されてあゎ 校の訓練と連絡をとつて修身科にあて1ゐるし、私立大単には数台が併立し,大部分の大畢宗教垂部に宗警育 北米合衆囲は、日曜螢校が殊に盛大であつて、子弟教育に心ある父兄はー必ず日曜聾校に通はトめて居少−肇 ァルヂニンチンは、私立登校にのみ宗教々育が行はれてゐるが、両国ともに日曜蓼校は無い。 チサは、和中等蓼校数れも、週二・三岡愴侶が来校して、宗教々育に碓事してゐる。 領さへ就任の挨拶には、大司教を訪ねる有様乍ら、倍侶の数が僅⋮事に過ぎない焉、全人口四千 化は甚だ微弱である。 へは僚侶が吊張して、週二同の宗警育を行ふ事が、不文律的に定皇つて居力僧侶の勢力は範大で は哲宗、小聾校生徒は:放評復業しくは日曜計一かけて、週二・三時間敢脅に行きー宗警育を受け、中等畢校 南米ブラジルは、文盲者七十。ハーセントと青はれてゐる程、教育の不徹底な囲豪であるから、 ポルトガルは、日曜車校のみで、宗教々育を行つてゐる。 ィス。ハニアは、地方に依る多少の差はあるが、小準校に於ては連覇伶侶が、中等撃校ノでは週 教師が宗教々育を行つてゐる。 3Ⅰ2 が、公立睾校に於ての宗教々育は、一切許されてゐない。 東洋のタイは、囲中の男子たる者、傾今丁三ケ月でも檜籍に身を置かねばならす、従って他教になど耳も傾 − 極少数のマズダ・マニ・マヅダク・ミスラ等が食堂れて居るが、問題にはされて けない俳教囲︵小乗沸教︶故、嘗該問題は至極簡単に解決されて居る簿である。 イランは、殆ど純回教囲 居ないーーであつて、小聾校以上中等聾校を通じて、週二・三時間宗教々育の械魯を設け、専門肇校に於ては. 法科に宗教法を加へてゐる。 支部清洲南画に於ては、統一した方法としては定められて居ない。 最後に我が園に就て更に二言すると、前述の通わ、宗教々育分離以釆、 ﹁教育者は票数に簡れてならない﹂ と迄の誤記さへ起り、人間至上主撃宅主張する者が生じ、無宗教0主張も盛んに行はれて、遼に明治末堺の幸徳 事件の蟄生するあゎ、其の後引拭いて思想の悪化殊に著しく、焉に文部省も宗教信念の必要を認め、初中等睾校 の教科書に.宗教鰯係の記事挿入を奨励するに室ク、殊に昭和十年十一月二十八日尊命−普盲六十塞文部次官通 牒は、明治珊二年の文部省訓令に於ける宗教々育分離案に訂正的補修をなしたるものと晋ふ事が出奔る。即ち ﹁宗源的教育ハ豪産二澱ケル宗教上ノ信仰二基キテ白熱ノ間二行ハルト共ニ、宗教園陳ノ活動ニヨル敢.化二 倹ツモノエシテ、畢校数育ハ、一刻ノ教派教含等二封シ、中立不偏ノ態度ヲ保持スペキモノトス。 二、畢校二於テハ、豪産及ビ社食工於ケル、宗派的教育二封シ、左ノ態度ヲ保持スべキモノトス。 修身間育作発としての宗教艶育 3Ⅰ3 惟身訓育作紫としての京敦教育 ︼三大 1 家庭及ビ吐合二於テ養成セラレタル宗教心ヲ損スルコトナク、生徒ノ内心ヨり彗現スル宗教的慾求二留 意シ.伺モ之ヲ鐸硯シ又ハ侮蔑スルガ如キコト無カランヲ要ス。 。一jEシキ信仰ハ之ヲ尊重スルト共ニ、額モ公序′良俗ヲ害フガ如キ迷信ハ、之ヲ打破スルニカムべシ。 8 校内又ハ校外二於ケル教員及ビ生徒ノ宗教﹂一周スル研究又ハ修養ノ機関二封シ,適嘗ナル指導ヲ加へ、 l′ 授業二差支ナキ限り、適嘗ノ穫魯二於テ、高徳ナル宗教家ノ修身談ヲ密カシムルモ亦一方法ナルべシ。 6 追弔禽理科祭遠足旗行等二際シテハ、之ヲ利用シテ宗教的情操ノ病章二賓スべシ。 1∂ 宗教二閑スル道営ナル巷考蘭書ヲ傭へ、生徒ノ修章二賓セシムルモ亦一方港ナルペシ。 4 其ノ他ノ教材二於テモ、其ノ教材ノ性質二應ジ、適宜宗教的方面二注意スべシ。 等ノ取扱二留意スべシ。 3 国軍一於テハ、宗教ノ開局文化二及ポシタル影響、偉人ノ受ケクル宗教的感化、偉大ナル宗教豪ノ借記 2 哲箪ノ教授二於テハ、一帯宗教二闇スル理研ヲ深メ、宗教的情操ノ痛章二意ヲ用フべシ。 1 修身公民科ノ教授二於テハ、一骨宗教的方面二留意スべシ。 宗輿的情操ノ病養二悶シ、翠校教育上特二倍意スペキ事項凡左ノ如シ。 卜矛盾スルガ如中内客及方法ヲ以テ宗艶的情操ヲ病苦スルガ如キコトアルベカラズ。 覇賓ヲ田ルハ極メテ必要ナウ。但畢校数育ハ、同ヨり教育勅語ヲ中心トシテ行ハルベキモノナルが故ニ、之 ニ﹁撃校二於テ宗派的教育ヲ茂スコーハ絶対二許サヾルモ、人格陶冶二賓スル焉革棟教育ヲ通ジテ宗教的情操 jI4 音容ナル薄皮ヲ保持スベシ。 9 以上各項ノ箸箱二際シテハ、〓栄一派二偏セザル様、特二注意スべシ。 と指示して、宗教々育の必要確認を表明した。既に試食に於ても、二・三の議長−−川崎己太郎氏、坂東幸太郎 氏等に依って、師範教科日に宗教畢概論を加ふべき請願が提出され、文部省側の重点は、昭和十八年行政改革の 械禽に、右の帝額質権を期して研究中である。然れば之が資現も近モに迫つてゐる筈であるし、其の他中等専門 畢校教科目には勿論、法留畢諸捷術の囲豪試顔科目にも、現在の哲畢と併せて、思想堅賛なる高等常論の基礎要 素としての宗教畢を加へるべきであゎ、斯くする亭は、世界長優秀国民たるの理想に燃える若人への、必須俵項 でなけれぼならぬ。近釆盛んに行はれてゐる﹁みそぎ﹂習練も、正に宗教々育の一つである。又我が国にあつて は僧侶が其の職のまゝで畢校の教皇に臨む寄を以て、宗教々育の良い方津が撰ばれると考へる事は出奔ない。従 って欧州諸蘭の例は、畢なる方法上の一例として顧るに過ぎないが、文化等囲の道徳教育に如何なる方法が行は れてゐるかの参考としては興味あるものでなければならね。 惟ふに、碓紳の大道に立つ紳函の御居たるの理想に生きる大和居族は、悉く静の御宋でなけれぼならす、其の 誇カを持する限少は、全人格を以て、虞善美聖菱食めた、敵をも愛する靡い心の持主たらむを求め、確乎たる信 仰に生きる人物たるべきであるが、最小限度に於て、宗教的信念の下に、修身帝豪治国平天下の理想を掲げて、 世界の盟主たる真因の摘発に於ける大賀展き殊に精紳的大嶺展の篤に努力Lなければならぬ。其の根本精紳を 導き、生けるしるしある理想郷に到達せむとする理念を感得し、心眼心耳を開き苗物を迎へて快心の微笑を獲る 修身訓育作染としての轟敦教育 3IS 修身訓育作簗としての乗数教育 ︼三八 に至らしめ、宗教を観念の世界に止めす、之を生活と馬さしむるもの即ち宗教々育であるべきである。 ﹁信念のカか 現にドイツは、聯兼敏育にも宗教を入れなけれぼならぬと主張して、貴近は時間数の虐めて少ない賛美補習畢 操行との連絡を考へす、碓釆修身が甲で操行を乙や丙にする人の絶えなかつたと同様、軽卒の誘少を股れがたい い事は、誰にでも解るが、乗れ一でも繋㍑、宗教々育に反封○見解老持つ人がある。あたかも修身を畢科扱ひ 軟けた道徳を無力とする﹂祈以は只此廃に存する。人に命ぜられ、又世間の手前仕方なしに行ふ道徳に償債のな 若しくは信仰のみが訝すものでなければならぬ。而して此の力之賽ふのが即ち宗教々育であるから﹁宗教信念の と詠んだが、此の、何杓の力を以てしても拒み切れ・這い、むくれ上る信念から現はれる賢行カは、只宗教的 ﹁かくすれば斯くなるもeと知りながらやむにやまれ拍大和魂﹂ と睦み、青田椅陰が、囲を憶ふ赤誠畠さへ如くして ﹁われも亦同じ御国に生れ釆て大和心のあらざらめやは﹂ 整えて、 とは育ひ待ない。絶つて力のないものでしかない。僅ヒ芳紀二十才の青年子女書村清子が、野村望東尾の感化 大切にするのだ﹂と鳳ふ某宗教者一派の人ミの考方の如きは、夫れが紳の命であつても、之を も零すペきであつて、此の信念は宗教のみがもたらすものでなければならぬ。たとへぼ﹁紳の命であるから親 行するには、人の命令や仕方なしに他人の模倣で馬すべきでなく、自己の信念力で断ヒ乎として、萬難を拝し 宗教々育の目的を、直ちに普通教育に運用すれば、修身教育の完成にある。親に孝君に息と知っても、之を賢 3王6 硬膏年季梗の類に空で、宗教科を加入してゐる旨の報告を受けたが、人心の摩する虎に宗教の働きのな いのであつて、浄化された心で向ふ職場の仕事は、能率的でなければならぬ。 ﹁情操教育に宗教信念を植ゑつけなけれぼ其のカー償値は極めて乏しい﹂ と矢吹慶輝博士は主張されたが、事賛其の通ゎであつて.情操の働きを高備にし明朗ならしめるものは.宗教信 念を外にしては得られない。之にも反封の余地等は無い筈であるが、而もなほ宗教々育に反封の見解を がある。 反封意見の中には、所謂食はす嫌ひ式で、研究もせず考案も行はす、只漠然担けて居る向きもあつて、 前では謀成して、外へ行つては反封意見を述べてゐる或る教育畢著さへある。昭和八年二月大正大挙で 第二同日本宗教犬舎に於ける筆者の研究襲表︵今日の聾表の基礎と成った意見︶に、十ケ備に渉る大庄封の見解 があるのに遭遇した︵第二同紀要﹁日本の宗教声︼所載故に此虚には略す︶。夫れは蔭へ廻って潜に追つて居る 様な.翠論抜きのものでは無かつた。侶其の大部分が、不幸にして、只反封せんが馬の殊更らしい感を免れなか ったが、斯る諸反封論も、昔時漸く所信の出奔か1つた場合であつたから、筆者にとつては賓に好刺戟に成つた。 反‡は戟ふ者にとつて.常に好ましいものでなけれぼならぬ。けれ共、力無き、徒.な反駁は、自己の無力を示し て只軽侮を招くに止まカ、草間牽達の阻害に成るのみであるから、恨まなけれぼならぬ。而して該問題 益と研究すべきものであると借する次第である。 修身訓育作業としての乗数教育 3エ7 俊 雄 鶉 嘩 修験道の友達 曳橡太子の悪法 庄珪碍師の記法 親鸞研究 一匹C 原始民族の文化と宗教 板本申と垂 へ交換擬聴による︶ 三位一捜論序紀 文 ︵同︶ ︵帝園峯士院粗悪二ノー︶ 聖徳太子の大士理想に於ける一念怖修篤 行と云ふ概念 ﹁オハケ一審密の形式とそ?撃蓮 ︵曹拳尭薮二・二月︶ ︵哲拳研究二月︶ 1ブルンネルとバルトとを中心として1 イエスの﹁紳の鱒︼ 3Ⅰ& 丈駄目録 上 亜 谷 明 曽 巳 啓示と理性の問題 治 敏 克 阿 崎 共 正 本場ン井芸芸 千ツ 耶蘇曾の日本年報第一輯 宗教関係主要文献目録︵朗唱昭抑什鐙㍍︶ルズ不霊魔 官大ダ三古鈴佐 村上直次郎常社 村 稔 城 田 村 尊帯ル之 編 胤 書 繹乗の地方発展 介ザ 正土し_ 甲欽約定 エ 著 鈴 木 蕃 山 兇更改囁と支那宗教問題 南方素数事情とその舐問題 棒 噂 輿 遊 改訂眞寮の教義と其の旛史 へ歴史筒︶ 仰謬!章 雄 秋 大日本悌穀倉編 金 子 大 発 東亜偶数兜 沼州曹渓山大租場経 会 山 正 好 鈴木大別校訂 怖尭浮腰破開撃節 修鹸邁見附究 同 *和歌森太郎 浄土系思想諭 常 鈴 木 大 判 彿数億想研究 師道思想史 伯 金枝鰐領一冊 日本彿敦史話 支部儒遭悌交渉史 松 菅 山 田 率 稀レ井 薬卓l 久保田景達 相永フ 宇 佐 々 久 本 幸 男 酒 井 三 郎 坂 根々麻﹁天原音﹂の祭紳について ︵文化二月︶ ︵文化三月︶ − ︵彿敦耐電七ノー︶ イエレミヤ紀の敗戦 国家監と世界史︵二︶ − 無明の本質に就いて 俊 夫 正法眼顧の典鰭に就いて −−阿毘達磨一〆一中心として ー 梯 浦 黍 光 音成就金剛著﹁性入︵法︶﹂常態〓︶︵同︶ ︵同︶ 稔 原 牧 山 憤罪翰の日本的性格への序託 炭素典籍の囲班n。皐軒究について 井 森 意 次 ︵岡︶ 宮 ︵基督敦研究二qノニ ゲルマニ類型成立途上の︼展開 線 ︵同︶ ︵同︶ ケーリユダマ理解の一資料上して ︵同︶ ︵敗畢雑敦・玉田ノ四︶ 菜西韓の性格について − 新約空事に於けるロゴスの本旗 紳拳の串間性に祝いて 書制支丹教育の我が閥文化に射する東欧 ︵同︶ 魚 歴史的問題としての十字粂︵同二〇ノ二︶ 木 忠 ︼ 有袈鍼太郎 本官洞兵衛 倹 箕 島 芳 界 村 上 小 田 和 文 献 目 家 管 永 三 卸 率 郎 育 治 日本思想史に於ける素数的自然覿の展隕 ︵歴史畢研究一、二、三月︶ ゴーガルチンの紳寧敬に裁て ︵立教大魯文畢部始集一︶ − ︵理想二月︶ ︵日本文化二二︶ ︵同︶ ローマ帝国に於けるキリスト教の迫専 紳仙観念故 松 慶 日本人の紳椒念の強達 高 井 直一 穂 誇 地 宗教的質存の秘畿 帥泌主畿の形而上峯 − 敦鈍より視たる神秘鍵陰 ︵岡 ︵岡︶ ︵カトタック研究二三ノー︶ 東洋及西洋の紳秘思想 ス 紳秘緩酸め心理拳のために メ ン 彦 宮 リ 載 モ 満 ュ 書 デ アロイス・†−ゲル ー 簸べネデータトと秤秘思想 ジ 中村克巳帝 雄 堅アウダスティヌスに於ける紳秘思想 良 の耐秘的 ︵岡︶ 評 村 の解散 里ベルナルドの ﹁太陽の歌﹂ ﹁韓歌﹂ 朴 考アランシスコの 従 野 田 巌 男 庭 朝 笹 大 八 一四︼ 3Ⅰ9 録 聖ボナヴュソトゥラの神秘紳啓 意畿 文 献 日 長谷川武敏 拳 曳テレジテによる紳路線験の現象鎗︵同︶ ︵岡︶ 卑ユダナチウス・ロヨラの紳秘相思寵 フーゴーラーネル 小 林 珍 碓帝 エッグハルト源流考 大 泉 ヘ ル ツオーダ ル ナ ル ト ン 高 田 橋 偉 蒙 落 秀 一四二 鎮火祭の一考察 飾譜と前衛 − 日鮮関係 大倉柵神文化御究所々良 衆京都教育研究所主事 文畢博士・京城帝国大草教授 ︵岡四九ノ四︶ 上古に於ける栢作と蒋及び米の名に見る 堆氏 本輯幕稿書籍介 鶉 和 男氏 酉 藤 降氏 大倉棺紳文化研究所々員 ︵同︶ 旅所峯瞭専門轟校数投 伊 素 椿 山武 十字架の聖ヨハネ﹁賓魂の暗夜﹂ ︵岡︶ 歌 田 羽娘山史研究令委員 松本正夫青 材 安 華氏 その紳秘思想の由凍と性格に就て リジュの里テレジ丁の賽性 欄闇西敬虔故における紳秘的生活 川 − コ ッ サー ル 戸 ︵同︶ 伊藤庄治二郎 近世悌蘭西に於ける三女性の神秘生活 田 中 峰 子 堆民 本一 ︵同︶ ︵八ノ四︶ ︵同︶ ︵民族串柿先入ノ三︶ 松本平の床申請につい・て 長州遭卿鎧 − 講集園の粗織形愚 藤 竹 内 利 美 武 内 久 膏 − 預兆信仰に就いて 中央部・︼ 今 井 義 息 立山をめぐる民俗信仰 − 高 時 正 芳 ︵国手院揚癌画九J一︶ 320
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