續 素美代 氏 - K

2008年度第1回物学研究会レポート
「限界を超えて知った感動の境地」
續 素美代 氏
(登山家、冒険家) 2008年4月26日
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SocietyofResearch&Design vol.121
第1回 物学研究会レポート 2008年4月26日
デザインに感動が求められるようになっています。人の感動とは? 人を感動させることとは? 2008年の物学研究会は、「感動の仕組み」について、考えます。
第一回目は、日本女性3人目のエベレスト登頂、スキーによるグリーンランド横断、そしてスキー
による南極点到達・・・など、想像を超えた体験を持つ、登山家、冒険家の續 素美代さんを講師にお
招きしました。標高8000メートルを超える世界、また気温約マイナス40度と、まさに生と死が背中
合わせにある究極の環境の中にあって、續さんが感じ、考え、乗り越えたことなどを、そのままの言
葉で語っていただきました。以下サマリーです。
「限界を超えて知った感動の境地」
續 素美代 氏
(登山家、冒険家) 01;續 素美代氏
● こうして登山を始めた
黒川先生とは長いお付き合いで、一緒に飲んだり旅行に行ったり、仲間内でさまざまな遊びをご一
緒させていただいています。この度は、感動について語ってほしいというご相談をいただきまして、
「限界を超えて知った感動の境地」という題で話を致します。
さて、皆さんは、「エベレストを登るなんて、どんな山好きな人物だろうか」と思われるでしょ
う。ところが私は、山にまるで興味がなかったし、山登りも大嫌いでした。プロフィール(別紙)を
見ていただくと、唐突に「1990年、エベレスト登山隊に参加」とありますが、登山の世界に入る
きっかけは本当に偶然の出来事だったのです。
1990年はバブル経済最高潮の年であり、私の大学卒業の年でした。その1年前の1989年、私は就
職活動の最中だというのに「革命200年のパリ祭」に出かけました。その帰りの飛行機でたまたまド
イツ人の登山家と隣合わせになり、世界中の山登りの話を聞きました。「もし日本に来ることがあっ
たら、富士山にご一緒したいです」と社交辞令を言って、住所交換したのです。その年末に本当に電
話がかかってきた。初めての国際電話で、緊張のあまり「イエス、イエス、イエス」と答えているう
ちに会話が終了、受話器を置いて落ち着いて思い返してみると、数週間後の1月○○日にネパールの
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カトマンズで再会する約束をしてしまっていたらしい
。通常は遠征隊に参加するには相当の費用が
かかりますが「ただ」と言う。この二文字で人生踏み誤ったという感じです。もちろん「ただ」には
理由があり、ベースキャンプで登山隊のキャンプの留守番などをするという役割。しかし「ただ」は
魅力的すぎました。
こんな経緯でも行ってしまったんですね。時は厳冬期の1月、チベット側エベレストのベースキャ
ンプは5200メートル。風はすさまじく強く、これ以上に厳しいところはないと言われるくらい。ま
た、初めての高所で当然のことですが高山病になりました。食べものが胃におさまらない。気持ち悪
い、頭がガンガンするし、ずうっとベッドに寝ていたい、そんな感じです。しかしそれもすぐに回
復、二週間程度ですっかり調子が良くなり、そのまま滞在をつづけました。そしてある天気のいい日
に、「ちょっと上まで登ってみない?」と誘われ、付いて行った先が7000m。自分が心肺機能に問
題なく、高地に楽に適応する体質なのだと知りました。
●エベレルト登頂への道のり
これを機に毎年出かけて、1年の半分近くをネパール、チベット、パキスタンといった地域で過ご
すようになりました。とは言え、決して登山が好きになったということはなく、高所に強いとか、単
身でも外国の登山隊に参加できるという特殊能力が買われて、番組制作のリサーチやコーディネート
の仕事が入るようになったからでした。1996年には、エベレスト登山の映画出演の依頼も来まし
た。この映画はIMAXという方式で1998年に世界各国で公開になりました。ただこの年は大事故
があり、私たち映画チームも登山予定を全部キャンセルして、レスキューをしたり
。その後再度
登頂にトライするわけですが、私は肋骨を疲労骨折していたことがたたって調子が今一つだったた
め、8000メートルのサウスコルで隊長に止められました。翌97年にも今度はチベット側から再度挑
戦しましたが、8400mで断念。ようやく翌98年に、念願のエベレスト頂上に立つことができまし
た。この模様は、帰国後にテレビ放映もされました。 それほど好きではなかった山登りなのに、どうしてここまでできたのか? 1996年の映画出演は
仕事として受けていました。私が頂上に立てなくても映画はできるし問題ない。ところが、帰国して
また日常が始まるわけですが、どうしてもあきらめられない。気がつくとエベレストのことを考えて
いる自分がいました。しかも頂上まであと一歩のところに迫りながら、隊長に止められたということ
が引っかかる
。力を出し尽くしたという感覚がもてない。だめだ! このままでは、一生後悔を
引きずるに違いないと思いました。なんとかしてケリをつけたい、しかしエベレスト登山には膨大な
お金がかかる。それでも何とかやり遂げたいという希望。そんなとき私を応援してくださる人たちに
出会いました。
ユースキンというハンドクリームの会社です。ありがたかったですね。私のようなちょっと山登り
していて、また多少は映画やテレビなどの仕事はしていても、結局よくは知らない誰かが、自分勝手
に山に登りに行きたい、ついてはご支援を、といってもなかなか通じない。それでも私を信じて応援
してくれる。夢をかなえられる、と意気込んでチベットに入りました。
しかし結果は失敗。大打撃でした。報告できることがない。何と言えばいいんだろう
。落ち込
みましたね。一週間ほど悩みましたが埒があかないので、お詫びに行きました。すると社長さんが
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「私たちは、結果欲しさであなたを応援しているんじゃないんです。命をかけてまでやり遂げたいと
いう夢を持っているあなたを応援できるのがうれしいんですよ。だから頑張って続けて、あなたの夢
を実現してください」とおっしゃる。涙が出ました。もちろん何よりの励みになりましたし、とても
ありがたく感じました。 それが翌98年の登頂成功につながったのです。
よく「頂上に立った瞬間、何を考えますか」と聞かれます。目前のパノラマを眺めながら思い浮か
ぶのは、応援してくれた人たちのことです。彼らなら、私と同じ苦労を味わい、失敗の失望も知り、
痛みも分かってもらえた彼らなら、この喜びも共有できる。一緒に喜んでもらえる人は多ければ多い
ほどいいものです。そしてみんなに報告するためにも、登りよりもさらに危険が伴う下山も無事に終
えなければと気を引き締め直して下りました。
98年のエベレストは、こうした応援してくださる人たちと一緒に登ったのだと思います。登山は好
きではなくてもなかなか縁が切れず、そしてなぜか心惹かれ、心が残る。それは「やり遂げた先に何
かがあった」からなのかもしれません。
●神様が私の心を揺ぶってくれた・・・瞬間
その後も細々と山登りは続け、2001年にケニアのレナナ峰、2002年にはマッキンリーに登りまし
た。特に1人で登ったマッキンリーではおもしろい経験をしました。
まず飛行機で氷河に入り、そこからそりに乗せた荷物を引いてスキーで歩いて、4700mのベース
キャンプ到着。そして次のキャンプまで上がってみました。初めてなのでルートの下見ですね。空は
晴れて青いのですが、強風のために雪が巻き上げられていてかなり視界も悪くなってくる。そんな中
で前方を眺めると、風が吹いて雪が舞っている中にぼんやりとマッキンリーの巨大な山塊が望めま
す。ところが足元は、落ちたら2000mは止まらないだろうという切り立った斜面、歩いているのは
狭い棚状の部分で、足の幅ぐらいしかないからかなり危険。向こう側の雄大さと足元の危うさ・・。
その瞬間、まるで雷に打たれたような、だれかに肩をつかまれて全身揺さぶられたような、ものすご
い衝撃が全身に走りました。そして10年ちょっとの日々がワーッと、辛かったことも、苦しかったこ
とも、何もかもが全部脳裏に浮かび上がってきて、涙があふれてとまらなくなってしまいました。祝
福されたようなというのか。
声を上げて泣いて、幸せな気持ちでいっぱいに満たされました。これまでたくさんのことを乗り越
えて歩いてきた道のり、それから、自分が進まなくてはいけない道がまだまだ前には広がっている、
それでもさらに、あの向こうにあるものを目指していかなければいけない。その状況の中で、私はこ
うやって一生ずっと生きていくのかもしれないという感慨がわき起こった。それは、山の中で出会っ
た初めての、幸せな、そして、自分がやってきたことが是認されたような、最高の時間でした。
あれは、神様が私の心を揺さぶってくれた瞬間だったような気がします。それまで心の中に溜まっ
たチリやゴミ、文句や不満、不安や不信、そういうものが取り払われた。都会の忙しい時間で忘れて
いる本能や、人間としてもっとも自然な部分が突如として出現し、向き合えた。心が洗われて、自分
はこの地球に受け入れられて、山で生きることを許されて、そしてこれからも荷物をしょって生きて
いかなければならないのでという、暗示のような、自分が肯定されたような、そんな気持ちがわき上
がってきた一瞬でした。
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その頃から、自然の中で生きていくことの素晴らしさ、一方で、都会生活で忘れていることの多さ
を自覚するようになりました。人間は動物であり、同時に自然に負荷をかけながらしか生きていけな
い生き物なのだから、「共生」を実感できるようになったのです。
●まずはグリーンランド横断
私にとって旅することは地球のさまざまな自然の中で遊ばせてもらうような感覚があります。観光
地に行っておいしいものも食べたい!ですが、もっと自然の中で身体を使って生きていたい。それが
旅の憧れの一つ。そんな発想で2005年にスキーでグリーンランドを横断しました。
登山と極圏の遠征には大きな違いがあります。登山の場合は、標高に比例してリスクも高くなり命
の危険性が大きくなりますが、極地の場合は、山に比べて命の危険性は少ない代わりに体力的な負荷
が大きくなりますね。必要な物資をすべて自分で持って、長期間にわたって移動を続け、毎日テント
を立てて畳んでそりに乗せてまた引くという作業を繰り返さなければならない。一方、登山は個人の
力量によって、登れる人・登れない人がはっきり分かれていき、勝ち組・負け組みたいな色あいが出
てきますが、極地の場合は、ピックアップの手間や費用からいっても落後者を出すわけにはいかず、
仲間同士の協力が必須となります。チームワークの醍五味ですね。グリーンランドは、すばらしいガ
イドだったおかげですが、とてもいい旅になりました。延々と歩き続けた遠征の最後の日、登山では
味わえないうれしいことがありました。その日は57kmぐらい進んだのですが、最後の瞬間に、ガイ
ドが「皆、ここでそりや荷物を置いて、肩組んで・・・ハイ、一、二の三!」と、全員で大地を踏み
締めるというイベントをしてくれたんです。毎日毎日氷の上で寒いし飽きるしでうんざりしていたの
が、その日が終わりということと、これで地面の上に立てるという感激、みんなで一緒に困難を乗り
越えてここまで来たという感慨。ここでおしまいという解放感。これは登山とは違った感動でした。
●そして、南極点を目指して
そして、南極です。2007年の9月末に参加を決めて、1カ月半で1000万円近くの費用を集め、機
材を準備し、装備をそろえて、バタバタと成田を出発したのが11月15日。荷物は200kgくらいにな
りました。南米チリ最南端の町プンタアレナスから南極のパトリオットヒルズまで飛行機で移動し、
さらにハーキュリーズという南極大陸の端から出発して南極点まで歩く計画でした。
プンタアレナスではスキーの整備や食糧調達などの準備をしながら大陸へのフライトを待ちまし
た。今回のチームメイトは、アメリカ人ガイドのジョン・ヒューストン、カナダ人の弁護士で70歳の
ピーター・ブレイキー、そしてイギリス人の27歳の大学院生キャメロン・ハドソン、私の4名です。
悪天候で南極大陸入りの飛行機を待ち続け、やっとチリを出発できたのは11月27日。テント、食
糧、それから個人装備も含めて437㎏でした。飛行機はソ連のイリューシン76という貨物機で、真ん
中に荷物を積み、両側に人が乗り込みます。4時間半揺られて、轟音を聞かされて、やっと南極大陸
パトリオットヒルズに着きました。そこでまずやらなければいけなかったのは、2年前に置いていっ
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た同じガイド会社のそりなどの装備を雪の中から掘り出すこと。南極大陸でしか使わないものは、わ
ざわざ移動させないで埋めちゃうんですね。パトリオットヒルズにはキャンプがあって、焼きたての
パンや炊きたての御飯もある素晴らしい施設で、パトリオットヒルズホテルといわれるくらいに快適
な環境です。
ここからハーキュリーズ湾へとさらに飛行機で移動し、極点を目指します。南極大陸は中央が盛り
上がった大陸です。海岸から南極点を目指す私たちは、中央から常に吹き下ろしてくる冷たい空気を
向かい風として受けながら、なだらかな上り傾斜をダラダラと登っていくことになります。
南極大陸でもっとも大切なことの一つがナビゲーション。コンパスを使います。360度真っ平らな
大地の真っただ中では、どこを目標として歩いたらいいか、とても難しい。通信機器はイリジウム衛
星携帯電話です。これは音声通信を主目的としてつくられた通信設備ですが、データ通信も、今の時
代に2,400bpsという遅いスピードで一応やってくれ、写真も50KBあると行くかなぁという感じで
す。
この時期の南極は白夜で、一日中太陽は頭の上。テントの中はビニールハウス化し+20℃ぐらいに
なります。外は風が強くて、気温は常に零下。だいたい海岸で-12℃、内陸に入って行くとどんどん
寒くなり、極点は-36℃でした。出発して8日目、70歳のカナダ人ピーターがリタイアすることに
。残念でしたが仕方ない。南極大陸上空を行き来するツインオッター機が迎えに来て、それに乗っ
て帰っていきました。
3人になった私たちは、さらに南極点を目指して移動し続けました。ピーターが帰った翌日から雪
が降り始めました。ホワイトアウトの中を進んでいくのは、とても骨が折れます。時々振り返ってみ
ると、自分たちが来た軌跡がうねうねうねうね蛇みたいに限りなく続いている。それでも毎日歩き続
けるしかない。更に雪が積もるにしたがって、そりが走らなくなるんです。これが重たくて重たくて
たまらない。こんな状態を延々我慢して歩き続けること7日7晩。8日目にやっと晴れまして、お日
様の力というのはすばらしくて、みんなすごく元気になりました。でも、私は、地上に残ったままの
大量の雪が不安でたまらなかった。雪が重くてそりが走らないととても体力を消耗します。さらに大
幅に予定から遅れ、食糧も底をつきかけていました。食糧補給ポイント到着前夜はパスタ2袋、ソー
ス、スープ、バターの小さな塊しか残っていないという状況でした。
・・・と言う私の弱点は睡眠と、おなかがすいた状態に耐えられないこと。食べ物がないとわかって
いても、一日じゅう食べ物のことを考え続けるんですね。私たちのチームは南緯83度、85度、88度
の3カ所で補給を入れてもらう計画で、それぞれの地点にツインオッターが燃料と食糧など補給して
もらいました。食事は御飯かパスタで、日中はスナック類とサラミやチーズ、ドライフルーツ、チョ
コレートの類を1日8000kcalとります。8000です、8000。通常の成人男子で2600kcalですから、
8000と言えばその3 4倍を食べながら、毎日延々、飽き飽きする真っ白の世界を歩き続けるわけで
す。とは言え、日程中にクリスマスと私の誕生日がありまして、ささやかですがお祝いもしました。
さて、南極大陸は大変な観光地でして、世界中のお金持ちがツインオッターなどの飛行機をチャー
ターして、私たちの上空を飛んでいました。その下を私たちは地面を這いつくばるように歩き続ける
んですね。
2008年の1月4日の85度地点で、2度目の食糧補給を受けた私たちは、計画の大きな転換を強いら
れることになりました。それは日程が大幅に遅れていて、さらに飛行機の日程が前倒しになり、ます
ます過酷になる道のりをそれまでの倍のペースで進まなければならなくなりました。議論の末、行動
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計画を組み直し、荷物も大幅減量することにしました。予備のテントを送り返して1つのテントに3
人で入る。燃料も切り詰めて、軽量化でスピードアップを図りました。
とにかくただひたすら歩き続けます。内陸に入るほど気温も下がり、まつげもパチパチです。また
寒いところでは毛が速く伸びます。人間の体は寒さ対策のために、体毛の伸びる速さが二倍になると
か。顔全面はフェースマスクで覆って、さらにゴーグルをはめていましたので露出しているところは
ほとんどありません。ところが、フェースマスクの下に自分の呼気がたまって氷として張りつき、そ
れが皮膚に触れる箇所があって、凍傷になってしまいました。
●南極点到達
歩き始めて57日目、私たちは、南極点に到着しました。毎日見えないものをめざして歩き続けて、
やっとたどり着きました。南極点には、南極条約発足当初の12カ国の旗がありますが、実際のジオグ
ラフィックサウスポールは毎年移動しています。
さて・・・着いてみてびっくり。アメリカの巨大な気象観測基地があって、豪華客船並み施設の中
では250人が暮らしていました。中のカフェテリアには常にエスプレッソやカプチーノが飲め、水洗
トイレでシャワーもあります。グリーンルームなるものまであり、トマトやレタスが生えていて、新
鮮野菜が夕食でサーブされます。飛行機も1日8便飛んでいます。私たちの到着をCBSのテレビク
ルーも待機していて、拍子抜けというんでしょうか、ちょっと当惑もありました。
けれどもお約束どおり、そりを置いて、スキーを脱いで、3人で肩を組んで、「一、二の三!」で、
南極点にみんなで力を合わせてたどり着いたその瞬間は、とても感動的でした。そして、南極点への
57日間、1200kmの踏破を祝って、シャンパンで乾杯しました。
帰りは、5時間半の飛行機の旅でした。
●冒険の醍醐味
「一体どうしてこんなことをしたいんですか?」という質問をよく受けます。が、今の時点で答え
られることは、ただひたすらやりたい、やらないと気が済まない、やっていたい、一生夢見て、何か
をして生きていたい、ということだけです。どうもそういう性質らしいんですね。
目標をやり遂げるには、それ以上の何かがあって、突き動かされるような衝動が働く。そうでなけ
れば、そんなとんでもない強い力がなければ、わざわざ莫大なお金と時間、エネルギーをかけて、危
険や不便や寒さに耐えなくてはいけないと分かっているところには行かないんじゃないのかなあと思
います。それでも私は夢を見て、ほかに何もできなくても夢を実現するための努力だけは惜しまず、
恥をいっぱいかきながら、見えないものに惹かれて歩き続けるのでしょうねぇ。「生きてこれてよ
かったな」という実感に満たされて死ねれば十分かな、と。
南極点に着いたときにも、エベレスト登頂の時と同様、たくさんの人たちが心に浮かびました。私
を応援してくれた人たちみんな。今回は会計報告にまとめた通り、一口1,000円で応援をお願いしま
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した。出発までの1カ月半の間に、8歳から75歳まで107人の人たちから、202万4,555円という金
額を頂戴しました。皆さんのおかげで歩き通せた、南極点に立つことができたと、心から感謝してい
ます。
南極大陸では真っ白な世界の中を、目標とするものなしに、毎日毎日ただひたすら歩き続けまし
た。エベレスト登山のように山頂など見えるものを目指して歩いているときには、見えるものに集中
できます。ところが極点という見えないものを目指して歩いているときには、不安ですし、一歩一歩
が手探り状態です。それでも自分たちが目指していることは正しい、方向は誤ってないと、この先に
必ず目標があると信じ続ける強い意志が求められました。ホワイトアウトのような状況では自分たち
の判断や行動に対して不安が渦巻きますが、それらを全部払いのけて、これが正しいと信じられるこ
とをつかまえて、それを信じて進んでいく強さは、今までとまた違う経験でした。たくさんの人に応
援してもらい、このようなすばらしい大地で、大自然に学び、鍛えられ、教えられ、育ててもらえる
ことを幸せに感じています。
地球に感謝、人に感謝の遠征でした。
以上
講師プロフィール 續 素美代(つづき・すみよ)氏
1990年 中国・チベット側からドイツのエベレスト登山隊に参加。初めての登山経験で、7000m地点到達。
以降毎年、年間の半分近くをネパール・ヒマラヤ山脈、
パキスタン・カラコルム山脈などで過ごす。
1992年 世界第八位の高峰、チョオユー(8201m)の無酸素登頂に成功
1995年 日本大学エベレスト登山隊にNHK取材班・コーディネーターとして同行、 NHK スペシャ
『チョモランマはるか』制作スタッフ
1996年 IMAX映画『エベレスト』出演のため頂上を目指すが、8000mで断念
(映画は1998年USAを初めとして世界80カ国以上で公開)
1997年 エベレスト登山隊(チベット側ルート)参加、8400m到達
1998年 エベレスト登頂、日本人女性三人目、チベット側からは初めての登頂成功。
上記以外に主な登山経験として1996年チョオユー(8201m)に二度目の無酸素登頂、2001年ケニア山(レナナ
峰,4985m)登頂、2002年デナリ山(アラスカ/マッキンリー山,6197m)単独行、6150m到達、2003年ア
コンカグア(アルゼンチン/6960m、南米大陸最高峰)単独行、6400m到達のほか、モンブラン登頂二回な
どの国内外の登山もコンスタントに行う。
2000年 山の事故で下半身不随となったイギリス人女性を招いて、自転車で日本縦断。
2005年 スペシャルオリンピクス冬季大会の記録映画「able3」出演(2006年1月公開)
2005年5月、グリーンランド・スキー横断(590km、23日間)。
2008年1月23日19:45(チリ時間) 南極点到達。57日間1200kmをスキーで踏破。
主な活動として:編集、雑誌記事執筆、写真撮影、講演など。映画出演やTV番組制作・コーディネート・撮
影にも携わる。
書籍:「WorldMountaineering」日本・槍ヶ岳執筆(ReedConsumerBooks、英国,1999秋
「EVEREST Mountainwithoutmercy」写真(NationalGeographic,USA,1997秋)
「夢をあきらめないで」翻訳(KarenDark著,TBSブリタニカ,2000春)
中学二年教科書『道徳』−カレンと旅をして(光村図書出版,2002−2012年版)
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2008年度第1回物学研究会レポート
「限界を超えて知った感動の境地」
續 素美代
氏
(登山家、冒険家) 写真・図版提供
01;物学研究会事務局
編集=物学研究会事務局
文責=関康子
●[物学研究会レポート]に記載の全てのブランド名および
商品名、会社名は、各社・各所有者の登録商標または商標です。
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