吹雪の中で卵と共に 末武敏夫 根室地方のさけ・ますふ化事業草創の地で主要河川であった西別川も,戦 後の社会情勢の混乱期には人心が荒廃し,川にのぼるサケやマスの密漁防止 のためにせっかく雇った監視にも監視を付けなければならないという状態。 この防止のために捕獲場を下流に移転することを余儀なくされ,昭和 2 7年に 現在の 1 4線へ移転した。この年は丁度国,道ふ化場の分離や支場移転など忙 しい年でもあった。 北見支場から道立水産瞬化場の事業係長として赴任した米国嘉夫さん(旧 姓高橋〉はこの 1 4線捕獲場の新設に心血を注がれ,船頭の煙山康さんと共に とぼしい予算の中で着々とウライ装置の基礎固めと諸施設の整備を進めた。 一方,別海漁業組合が昭和 24年の漁業協同組合法公布で協同組合となり,初 代の組合長は道又茂吉きんであったが,サケ・マス増殖事業に熱心な方々で, 当時は毎日のように捕獲場へ通い,物心両面からの応援や協力をいただし、た。 現在の捕獲場の基礎は,この 3人の方々によって基かれたといっても過言 ではない。 その頃,活卵であろうと死卵であろうとまず数を,という考え方があり, 採卵の時には腹腔内の卵は可能な限り多く採り出し 出来るだけ採卵成績を 挙げるよう指導されていた。これは全道で、採卵成績をあげた捕獲場には「採 卵奨励金」を出すことが行われていたためでもあろう。 西別川は毎年 1月. 2月になってもサケのそ上があり,川が結氷しでも 1 月末までは捕獲・採卵が続けられていた。これに対し本場では「予算もない し,労多くして益少ないので‘止めた方がよし、」との意見が強かった。当時根 室支場長の幸内慎次郎さんは「密漁者に開放するよりも一粒でも多くの卵を ……」と説得し. 1月中の事業を実施していた。毎年 1 2月に入るとザク(水 に雪が解け次第に氷水の状態になる〉が流れ出し,下旬になると川の表面は 結氷する。魚止装置だけは結氷から守るためしばしば氷落しをしなければな らなし、。また,元旦だけは漁夫に休暇をとらせるために,暮の 3 0日から 3 1日 に採卵し,これを「お歳暮」と称し,また,正月の 2 日から 3 日に行う初採 4 8ー 卵を「初荷」と称して事業場へ収容していた。 4線捕獲場が新設されてから 1 0年ほとYこつとウライや護岸も落ち 西別川は 1 0 万尾を超えるよう つき,そ上もサケ・マス共に成績は向上し,特にサケは 1 になり,捕獲場の越年にはふ化場からも参加するようになっていた。 昭和 38年正月 3 日,私は初荷運搬をすることになった。朝早くライトパン に運搬箱を積み込み,丁度小樽から正月休みで遊びに来ていた弟を同乗させ 4 線捕獲場に着いて採卵を手伝い正午過ぎには運 中標津の支場を出発した。 1 搬箱を積み込み,捕獲場を出発した。西別原野を貫く長い直線道路を過ぎ西 春別旧市街に入る頃にはどんよりとした曇り空から雪が降り出し,やがて量 も多くなって遂には風も出て吹雪に急変。虹別市街に着いて常に「ガソリン 吹雪がひどし、から無理 は満タンに」と L、う意識があって木内商庖で補給. I しない様に」との御主人の言葉を背に市街十字路まで引返して思案した。「虹 別事業場へ行くべきか,支場へ帰るか」と。私は事業場に行って雪の中にと じ込められるよりも国道を通って中標津まで帰る決心をした。やがてポンベ ツ川を渡り坂道を登り始めたところで吹きだまりに突込んでしまった。しば らくは弟と 2人で脱出を試みたが無駄であった。次第に早い冬の陽も落ち真 暗になってきた。カーラジオも正月番組ばかりで,天気予報では吹雪の注意 報は出されていなし、。釧根原野の吹雪は恐ろしし、。私は荒れ狂う吹雪の中で 決断をせまられていた。受精した 300万粒のサケ卵を放棄して車から脱出し, 人家を探して避難すべきか,そのまま 300万粒の卵のそばにいて守り通すべ きか……。結局,私は卵を放棄する気にはなれなかった。幸 L、ガソリンは満 タン。エンジンをかけたまま様子をみることにした。 車のドアを押してみるとやっと聞くが車半分は雪の中。ヒーターは最大に していても卵箱からの水濡れで凍りつくように冷え冷えとしている。弟もだ んだん口をきかなくなった。小学生の頃「木口工兵は死んでもラッパを口か ら離さなかった J. I 釧路のアイヌの郵便配達夫は吹雪の中を配達して責任 を果した」という修身の教えが浮かんでくる。寝むけさましにガソリンは何 時間もつだろうか,と考えてみたり,長靴の中の濡れた靴下はどうすれば乾 くだろうかなどと考えてみる。その内食物がなくなったらこのサケ卵をどう したら食べられるか。若し死んだらどうなるか……。まるで極限におかれた ように,とりとめのない事を疲れた頭に浮かべまんじりともしない一夜を過 した。 -49- やがて空が薄明るくなるにつれ風も少しおさまってきた。そして雲の合間 に青空と太陽が顔を出したとき, ¥,、し、知れぬ暖かみを感じた。ドアのすき聞 から雪を除いて外に出ると,雪にかがやく陽の光がまぶしし、。早速弟と 2人 で車の周りの除雪を始めた。しかし 一様につもった雪て、国道の道筋が判ら なくなっている。車の上に乗って見廻すと意外に近く,農家がある。雪原を 泳ぐようにしてたどりついた。奈良輸さんという家で旧ボンベツふ化場(昭 和 8年廃場〉の入口附近であった。昔のふ化場の話を聞かせていただいたり, 朝食をご馳走になったりしながら休ませていただいた。 9時頃になって計根別の方から米軍払下げの GMCというトラッグが雪煙 りを上げながら近づいて来た。運転手の話では 根室標津から弟子屈に向う 中央パスが途中で立往生しているらしく,それを救出に行く所であった。 やがてトラックはパスをけん引して引返してきた。 1 0数人の乗客は昨夜虹 別市街の民家に分宿したとのことであった。私の車は計根別までならヲ I ¥ , 、 て 行っても良いということであったが,何んとか後からついて自力で走り,ど うにか昼近くには計根別まで‘たどり着いた。 しかし,昨夜来の吹雪で電話が不通で連絡はとれず,国道の開通は何時に なるか判らないとし、ぅ。卵を何んとかしなければ,とトラック運転手に頼み やっと計根別事業場まで運んでもらうことにし,卵箱をトラックに積み替え て荒道を事業場へ向った。 計根別事業場は昨年暮れ 既に設備能力を上廻る収容をしていたので無理 を承知でのお願いであったが,場長(当時主任〉の永井啓太郎さんは,心よ く応じてくれ,早速家族総出て、ふ化直前の卵を養魚池へ散布し,その後へ収 容したが,全数はとても収容出来るものではなかった。 早々に計根別市街に引返したがまだ中標津までの道は開通していなし、。そ れでも中標津側からも除雪車が出ているはず,というので行けるところまで 行こうと,残りの卵を積んで出発した。幸いにも国道は開通していて夕方に は支場にたどり着き,ょうやく残りの卵を支場のふ化室に収容したのであっ 守 骨 れ」。 支場長はじめ支場の皆さんは大変心配されていた。特に庶務係長の三浦誠 さん達は捜索隊を作り,丸通のトラックで西春別まで行き,それから先は無 理で虹別までは行けず,やむなくやっと開通した汽車で、帰ったということで あった。そのとき,西春別駐在の巡査は「昨日昼過ぎにふ化場の車が卵を積 -5 0一 んで虹別の方に走っていったのを見た」とか,計根別から乗った乗客が「ふ 化場の車と旧計根別飛行場附近で‘逢った」などといっていたので無事を確信 していたとのことであった。その夜無事帰還祝いと称し相も変らぬ酒宴を催 おしていただいたのはいうまでもなし、。 事の善し悪しは時代の背景によって変ることは当然の事ではあるけれど 0年も過ぎた今となって振り返えると,何とも滑稽な事に思える。しか も , 2 し,若し、からこそ出来たのだとも思う。若さとはすばらしいことであり,恐 いものなしの時代といえるであろう。老人とは思い出をたくさん持つ者であ る,と誰れかがいっているが,そろそろ苦しい思し、出はこれ以上持ちたくな いと思いがちになる。しかし,その当時は苦しく,つらいはずであった思い 出は,今では淡雪のようなほのかなものとなって心に残っているのである。 この日の日記には次のように書かれている。 (計根別事業場気象観測表〉 1月 3日 夜半より暴風となる 1月 4日 積 雪 5 0 叩 (ふ化放流成績表 1月 4回収容分) 収容場 計根別 根 室 採卵数 │ 死卵数 l, 3 8 0, 0 0 01 . 1, 7 4 3, 4 0 0I │ 収容卵数 │ ふ出尾数 3 2 0, 0 0 0I 1, 0 6 0, 0 0 0I 8 8 1, 2 0 0 5 0 4, 9 0 0I 1, 2 3 8, 5 0 01 . 1,104,700 (北海道コンサルタント協会) 一5 1一
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