1 柴田教授夜話(第 7 回)「揚羽蝶の幼虫飼育体験」 2014 年 2 月 17 日

柴田教授夜話(第 7 回)「揚羽蝶の幼虫飼育体験」2014 年 2 月 17 日
■私は幼少のみぎりから昆虫に慣れ親しんできた。知識や経験の点では世に名
を轟かせている昆虫大博士の足元には及ばないものの、昆虫たちの味わい深い
生き様を観察するのが好きだったのである。両親は呆れ顔であったが…。
小学生の頃、私はナミアゲハの幼虫飼育に凝っていた。ナミアゲハは最もポ
ピュラーな蝶の一種である。黒と淡黄色の縞模様が翅の付け根から放射状に拡
がり、後翅にある青と赤の斑点の位置から後ろ向きに黒い尾が伸びている。四
月に入ると、越冬した蛹から羽化してきたナミアゲハが元気に飛翔する姿を目
にするようになる。雄は若干早めに出現し、生殖能力が成熟するあたりを見計
らうように雌が羽化してくる。そして、交尾を終えた雌は食草(幼虫の餌)に
産卵する。自宅の庭の山椒や近所の農地の縁に植え込まれた枳殻の葉の裏側に
産みつけられたナミアゲハの卵を見つけると、喜々として枝ごと自宅に持ち帰
ったものである。私の部屋に常設した専用ケージの中で飼育を開始するためで
ある。卵は直径約 1 mm 大で光沢のある黄白色球形をしているが、次第に黒ずん
でくると 1 齢幼虫が殻を食い破って出てくる。頭でっかちのお面から続く貧弱
で細い胴体は黒色で僅かな凹凸を有し、背側の中央付近に白色の V の字模様が
ついている。幼虫は早速、空腹を満たすように新芽の柔らかい葉を齧り始める。
一週間もすると長さにして最初の二倍くらいの大きさになり、胸節背部に縦方
向の裂け目が生じて脱皮を開始する。軟らかい皮を尾側方向へクシャクシャに
折り畳みながら脱ぎ捨てると、今度は頭部を上下左右にゆすって、クチクラと
呼ばれる硬いお面を振り払う。新しいお面を被った 2 齢幼虫の登場である。
■同じような過程を合計 4 回繰り返すと、今までとは打って変わって、胴体も
お面も明るい緑色で、体表面がつるりとした 5 齢幼虫となる。白かった V 字模
様は黒に入れ替わる。お面の後ろは『スーパーあずさ』の先頭車両運転席ばり
にうず高く盛り上がっており、その側面には黒い目玉模様が左右一個ずつあし
らわれている。大きな顔を模した擬態である。食欲は益々盛んになる一方で、
その大きな咀嚼音に夜中、目を覚ましたこともある。よくみると、幼虫は胸節
から出た左右 3 本ずつ合計 6 本の脚(手?)で器用に葉の側面を抱え込み、頭
を一旦反らせた後、顎を引きながら齧り取ってゆく。体全体は腹節に生えた多
数の吸盤で葉に固定されているので、食事に夢中のあまり滑り落ちることはな
い。ときどき悪戯心を抱いて幼虫の下腹部を揉んでみると、約 5 mm 径大の硬い
糞を触知する。こういう不愉快な思いをさせると、幼虫は硬いお面の直上から
橙色の Y 字状の『角』を突出させ、こちらを威嚇する。この角の表面には柑橘
類の香りを呈する粘液が付着しており、迂闊に触るとその匂いは数日間とれな
い。この攻撃に対抗心を燃やして角を引っ張り出したままにしておくと、表面
が乾燥してしまい、体内に仕舞い込めなくなる。少し気の毒な気持ちになるが、
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蛹になるときに支障をきたすことはない。面白いことに、この角の内部は空洞
になっていて、体内と交通する体液で満たされている。普段は裏返したような
格好で体内に小さく仕舞い込まれているが、威嚇体勢に入ると体液の圧力を上
昇させ、手袋が裏返るように外部に飛び出してくるという仕組みなのである。
■体長が 7 cm くらいに達すると、これまで葉の上で食っちゃ寝してしてばかり
いた 5 齢幼虫の姿は豹変する。蛹になる場所を探して、一日中いたるところを
歩き回り始めるのである。その行く先々で、柑橘類の香りのする下痢便を繰り
返し排泄するうちに、体長は 5 cm くらいまで縮んでゆく。そして、気に入った
場所を見つけると、蛹になる準備を開始する。まずは垂直な壁か枝に糸を吐い
て、尾部を支える台座をこしらえる。次に、最尾部の吸盤を台座に固定し、
『ス
ーパーあずさ』のように盛り上がった胸節の背部を取り囲む半弧状の支帯を作
るべく、糸を吐いて一方の端を壁面に固定した後、頭部を極度に仰け反らせて
自分の背中を回してから他方の端を壁面に固定する動作を繰り返す。こうして、
胸節を取り囲む支帯がある程度太くなると、幼虫の動きは一旦止まる。これが
前蛹である。体長はさらに短縮し、エビのように背中を曲げているため、ここ
ろなしか老け込んでみえる。しかし、これは大激変の前の静けさに過ぎない。
一両日中には、胸節背部に亀裂が生じて脱皮が始まる。すると、今度はこれま
でとは似ても似つかぬ姿が現れてくるのである。頭胸部は背中側に逆反りした
ような格好をしており、左右側方に 2 本と背部に 2 本の突起を形成して、さな
がら鎧兜のようである。驚くべきことに、将来の成虫を彷彿とさせる 2 個の複
眼、口吻、6 本の脚、小さな翅といった美しい模様が体表面に浮き彫りにされて
いる。一方、腹部にあった吸盤はアポトーシスにより全て消失している。最後
に尾部を左右に振って脱皮を終えると、まるで剣山のようにギザギザした尾部
の尖端を例の台座に突き刺して固定する。腹部の数節以外に可動性を有する部
位はなくなり、蛹全体が一塊となるため、外部からの不快な刺激に対しては、
腹節を必死にゆすって抵抗するしかない。蛹は一見したところ静寂に包まれて
いるが、内部では成虫になるための劇的な構造変化が始まっている。アゲハチ
ョウ科の蛹は上述の形状から『帯蛹』と呼ばれるが、タテハチョウ科の蛹は帯
を作らず尾部のみを天井に結合させてぶら下がることから『垂蛹』を呼ばれる。
■翅の模様が蛹の表面に透けて見え始めると、羽化は近い。脚の彫刻の辺りが
割れ、脚をバタつかせながら殻を破って成虫が出てきたとき、翅はまだ天使の
羽のように小さく縮れているが、胴体から体液が送り出されるにつれ、翅はど
んどん拡大してゆく。口吻は初め二本のバラバラな線条からなるが、平行な螺
旋を描いて一本になると毛管現象により花の蜜を吸うことができるようになる。
指を差し出すと、蝶は何の警戒心もなくその上によじ登る。そして、一筋のそ
よ風が吹いてくると、それに乗って蝶は大空に飛び立ってゆくのであった。
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