少年法と社会の関わり

少年法と社会との関わり
あきら
水野 陽
1.はじめに
神戸の小学生連続殺傷事件は、非常に印象的な事件であった。犯人像も初めは、ごみ袋を
持った怪しげな人物が目撃されたなどの証言から、大人であったのだが、実際に捕まった
人物は‘少年’であった。犯人が‘少年’で、かつ犯行の手段が残虐であったことから、
マスコミは連日のようにこの事件の「特殊性」を報じた。また、その他のバタフライナイ
フを使った傷害事件などが多く発生したことなどから、少年犯罪は「凶悪化」していると
伝えられた。また、そのような少年に対する処遇が甘すぎるというような報道もされてい
た。その影響から、現在の少年達は特殊かつ凶悪になったというイメージを持つようにな
り、なぜ犯人が少年というだけで処遇が異なるのかという疑問をもったことが少年法につ
いて学ぼうと思ったきっかけである。
少年法の目的は一般の人々にあまりに知られていない上に、人々の(特に被害者の)感情に
合致していないのではないか。つまり、それは、マスコミによって与えられた少年法(あ
るいは少年事件)に対するイメージと、実際のものとの間にはギャップがあるように思わ
れる。そこで、本稿では『少年法』の目的をはっきりさせ、その上で最近話題になってい
て、少年法の目的との関係で複雑な問題が内在していると思われる制度上の事柄に触れて
いこうと思う。
2.外国の少年法制度
まず日本の少年法制度を見る前に、アメリカにおける少年法制度の変容について、少しだ
け触れておきたい。アメリカは世界の少年保護法制の先駆けとなり、日本の現行少年法及
び旧少年法制定に大きな影響を及ぼした国である。
1899年にイリノイに創設された少年裁判所は、
「保護を受ける権利」というキーワー
ドを用いて、不良少年・虐待児童に犯罪少年を加えて、少年を保護・教育の対象とした。
そして、そのシステムをパレンス・パトリエ(国は子どもの最後の親である)という考え
方によって支えてきた。適切な親を欠く少年に対して、国が親の代わりに保護・教育をし
なければならないと考えたのである。しかし1967年のゴールト事件判決を機に変化し
始める。それは保護という名の下に、少年の人権が侵害されているとされ、少年にも、人
権を保障するための適正な手続が必要であるとされたのである。子どもを保護の対象とし
てよりも、権利の主体として扱おうという動きが出てきた。そしてその流れから、適正手
続の保障という観点から改正作業が進み、少年司法は刑事司法に近づくことになった。こ
の流れが、少年の凶悪犯罪の深刻化を背景に、‘厳罰化’へと続いていく。
アメリカの少年法制度は州によって異なるのだが、現在の多くの州に共通する点を挙げる
と、18歳未満が少年とされ、虞犯や要保護少年は福祉的な民事・行政手続等に移管され
ていること、少年犯罪でも殺人・強盗・強姦等一定の重罪は専属管轄、義務的・裁量的移
送、検察官先議等により少年裁判所の対象から除外されて刑事裁判手続で扱われること、
少年裁判所では非行事実認定手続と処遇選択手続が二分され、非行事実認定後に処遇決定
が行われていること、非行事実認定手続は手続の公開と陪審裁判を受ける権利を除いて刑
事手続の裁判官のみの審理手続とほぼ同様であること、処遇決定手続は裁判官がソーシャ
ル・ワーカー等の調査報告を前提に弁護士、検察官に意見を述べさせた上、協議的な雰囲
6
気の下で決定を下す場合が多いこと、などがある1。
アメリカの少年法は厳罰化への道を進んでいる。しかしアメリカ国民が、必ずしも、それ
を望んでいるとは言えないのである。2ミシガン大学青少年政策研究所の世論調査によると、
公衆が青少年の暴力の増加率の高さに重大な懸念を抱いていることは確かなようである。
しかし一方で、少年裁判所の伝統的な治療理念に高い支持を与えていることも報告されて
いるのである。例えば、ミシガン州の調査では、大多数の人々が暴力犯罪、重大な財産犯
罪、そして大量の麻薬の取引に問われた少年は成人裁判所で公判に付してほしいと思って
いることが報告されているが、少年犯罪者を成人刑務所に送ることを良しとはしておらず、
少年矯正施設への送致の代わりに少年に社会内プログラムを用いることを強く支持してい
ることも報告されている。このように少年裁判所の活動に幻滅してはいるものの、必ずし
も厳罰化を望んでいるとは言えないというのが、現状である。
3.少年法の目的
日本において、主に、犯人がいわゆる大人の事件の時に、適用される刑事訴訟法の目的(刑
事訴訟法第1条)は「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案
の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現する」とされている。これに対
して少年法第1条は、少年法の目的として、事案の真相解明や刑罰適用の実現を挙げずに、
少年の健全な育成の観点から保護処分や特別措置を講じることを掲げていて、保護・教育
を優先する趣旨を明らかにしていると考えられる3。ただし、保護・教育の趣旨が明記され
ているからといって、人権の保障、事案の真相解明、迅速適正な処分決定なども、目的に
していないわけではない、というのは当然のことである。
少年法の目的として、主要かつ特徴的なものは‘健全育成’であるが、ここではまず、人
権保障・事案の真相解明・適正な処分の決定・迅速な裁判について述べたい。まず人権保
障についてである。これは保護処分の不利益性・適正手続の問題として検討される、少年
法に限らず、すべての法律において前提となるものである。ただし、少年法においては手
続面において、刑事訴訟法ほど詳細に明記されていないため(少年法第22条1項で「審
判は、懇切を旨として、なごやかに、これを行わなければならない。
」と規定しているのみ
であるため)
、特に適正手続との関連で問題となる。次に事案の真相解明である。これは、
事実に反する誤った認定・判断をすることで、少年の人権侵害につながり、また少年法制
度に対する信頼をも損ねるという意味で問題になる。これもまた、正確な事実認定と関連
して制度改革が議論されている。適切な処分の決定に関しても、少年の不利益にならない
ようにしなければならない。次に、迅速な裁判についてである。これも少年審判に限らな
いことではあるが、特に少年事件では配慮されるべき点であると考える。少年は成熟しき
っておらず、
発展途上の状態にある。
さらに周囲の環境に左右されやすい存在なのである。
(可塑性に富んでいる。
)したがって、審判が長引くことによって、少年にとって悪影響が
及ぶ場合があるかもしれない。これが、特に配慮されるべきだと考える理由である。
最後に健全育成についてである。まずは健全育成とは何か、である。
単純に考えてみれば、
少年が再び非行を行わないように教育し、社会復帰をさせることであると思われる。つま
りは、
‘(犯罪を犯さない) 普通の人’にすることであるといえる。そこで少年法は、その目
的である健全育成を“保護・教育”という名の下に行っている。すなわち犯罪を犯してし
まうような少年は、少年の人格が形成されていく過程に問題がある。したがって少年を更
1
田宮 裕・廣瀬 健二(編著)『注釈少年法』6頁(有斐閣、1998)。
2
B a r r y K ris b e r g・J a m e s F . A u s ti n 、渡辺
3
田宮・廣瀬 ・前掲注(1)22頁(有斐閣、1998)。
則芳(訳『
) アメリカ少年司法の再生』7頁(敬文堂、1996)。
7
正させるためには、
まず環境を変え
(保護)
、
その上で教育を施すべきだと考えられている。
この考え方はもっともだと思う。少年と成人を比べた時に、様々な場面で少年の方が未熟
だと感じることができるし、相手が少年であるというだけで、周りの接し方も明らかに異
なってくることから、少年には、
“保護・教育”が必要だと考えられるからである。また学
校などで行われている教育内容を見ても、
年齢にしたがった教育がなされているのだから、
年少である方が一般に未熟だと考えても問題はない。
そこでさらに、健全育成の具体的内容を考えると、健全育成は3つの要素から成るといえ
る4。1つめは、少年が将来犯罪をくり返さないようにすること、2つめは、その少年が抱
えている問題を解決して、平均的ないし人並な状態に至らせること、そして最後が、少年
のもつ秘められた可能性を引き出し、個性味豊かな人間として成長するように配慮するこ
とである。これらは独立するものではなく、1、2、3と段階を踏んで存在するものであ
る。その上で、3つめは家庭や学校の役割であるとし、少年法がいう健全育成とは2つめ
の内容であると考えるべきである。
また、1994(平成6)年5月22日から日本でも効力を生じている「児童の権利に関
する条約」についても触れてみたい。この条約においても、非行少年を含むすべての児童
が「生命に対する固有の権利を有することを認め」
、国は「児童の生存及び発達を可能な最
大限の範囲において確保する」義務があることが宣言されている。以上の通り、少年の健
全育成とは、それぞれの少年の特性に応じた成長発達が順調に行われるように援助を与え
ること、つまり「成長発達権の保障」ということになる5。(具体的内容は前述の通りであ
る。
)
ただし、ここには注意すべき事柄がある。それは、援助の程度である。あまりに介入する
ことは (不当に介入することは ) 権利の侵害につながり、逆に少年の自己決定権を尊重する
といって、任せっきりにすることは、少年への責任転嫁になりかねないのである。
ところで、少年が少年として扱われる理由は何であろうか。この理由付けをめぐる歴史的
流れについて、簡単に触れておきたい。スタートは少年は成人とは違うという‘差別的思
想’であった。6犯罪を犯してしまった少年というのは、成人の場合とは異なり、成長が未
熟で、必要不可欠な教育を十分に受けられない環境にある。したがって、法律によって改
善の手助けをしてあげるべきであり、少年はその手助けを受ける権利を有するというもの
である。これは少年が「保護・教育を受ける権利、法的地位」を有するという考え方であ
る。続いてその後に現れたのが、「自律と自己決定権」である。これは、前述の「保護・教育
を受ける権利、法的地位」とは、大人の側が少年のためだといって勝手に押し付ける判断で
あって、あてにならないと考えるものであり、少年が自分で判断することこそが人権であ
るとしたのである。
少年が“保護・教育”の対象として扱われるべきだとされるのは、どちらか片方の性質を
持った権利を少年が持っているからではなく、上記の2つの複合的性格を持つ権利を、少
年が有しているからではないか。少年法が難しく感じられ、また少年法自身が気をつける
べき点が、まさに少年の権利の複合的性格ではないかと思う。
「保護・教育を受ける権利、
法的地位」だけでは、その与えられる保護・教育も単なる押付け、おせっかい(少年にと
っては大きな‘負’の要素)になりかねないし、一方で、
「自律と自己決定権」を重視しす
ぎると、前述の通り、責任転嫁になる可能性がある。
4
荒木 伸怡「少年法執行機関による働きかけとその限界についての一考察」ジュリスト 総合特集:青少年
―生活と行動 289頁 (1982年)。
5
澤登 俊雄『少年法』112頁(中央公論新社 1999)。
6
森田 明『未成年者保護法と現代社会』4頁(有斐閣 1999)。
8
よって、少年法が目指す健全育成とは、複合的性格を持つ少年の権利を前提に、少年の問
題解決の手助けをし、そのための保護・教育を施すことだといえる。
4.少年の保護と責任
少年法は少年を未熟な存在とし、保護・教育することを目的としている。その目的は、支
持できるものであり、尊重すべき目的だと思う。少年法の目的を聞いた時に、
「おかしい、
改正すべきだ。
」と真っ向から非難する人は少ないと思う。しかし、実際に犯罪を犯した少
年に対して、少年法の目的にしたがった、適正な処分が下された時に、社会の中で受け入
れられにくいものがある。
(それはマスコミによって「このような重大で凶悪な犯罪を行っ
た少年に対して、処分が甘い。被害者の立場はどうなる。少年法は甘すぎる。」などと批判
されることが、しばしばあることから感じられる。
)それは少年の‘責任’が問われていな
い(ように感じる)からではないだろうか。そこで少年の責任について考えたいと思う。
一般の市民は、犯罪を犯した者が責任を取る(果たす)ことを考えた時に、懲役何年とい
った刑事罰が科されることを想像する。そして、刑事罰が科されることこそが責任を果た
すことであり、妥当な結果だと考える。しかし、少年が犯罪を犯した場合、少年法が適用
されると、少年院送致や保護観察といった処分が下される7。この処分を聞いた時に、行わ
れた犯罪(その結果)はそれほど変わらないのに、その犯罪の行為者が少年というだけで、
処分が軽くなり、責任を果たせていないという印象を受ける。しかし、この印象は誤った
ものなのである。
まず責任を取る(果たす)とはどういうことなのであろうか。責任を果たすためには、‘自
覚’することが第一歩である。自分の行った行為が犯罪に当たり、社会的責任が生じてい
ることを認識して初めて、
外部からの制裁に効果が生まれると思う。
本人が自覚しないで、
反省していなければ、処分の効果は薄れてしまうのではないか。次に刑罰を科すことの意
味についてであるが、刑罰の性質の一つに応報的性質があることは否定できない。しかし
それは現在においては執行猶予制度などの存在からも分かるように、薄れてきてはいる。
これを前提にしつつも、刑罰を科すのは、犯罪を犯した本人のためであることにも注目す
べきである。本人が再び犯罪を繰り返さないために、刑罰を科すのである。さらに、刑罰
を科すことにはもう一つの意味がある。それは一般の人々に対する刑罰の告知であり、犯
罪抑止の効果も持つ。これも重要な機能である。
では一般の市民が「甘い」と感じることがある少年に対する処分には、どのような意味が
あるのだろうか。上記の効果が含まれていることに異論はないだろう。少年に犯罪の重大
さを自覚させ、反省させる。そして再犯を防ぐとともに、新たなる犯罪の抑止効果も有し
ている。しかし応報の観念が含まれていない。これは少年法の特徴の一つである。また、
少年に与えられる処分について重要なのは、さらに、刑罰にはない‘保護’の概念が強く
含まれていることである。少年法の目的から明らかなように、少年には‘保護’が必要な
のである。これについては「小さな大人」観という考え方が異論を述べている。「小さな大
人」観というのは、犯罪少年の多くは、成長発達の途上にあるとはいえ、自己決定能力を
備え、したがって一つの人格として権利の主体であると同時に、社会に対して一定の責任
を負うべき存在として位置づけられるとする考え方である8。これによれば、いくら少年が
未熟な存在であるといっても、自己の決定によって犯罪を犯したのだから、成人と同様の
7
実際の比率:審判不開始44.3% 不処分28.2% 保護観察19.5% 少年院送致1.6% 検察官送致
(刑事処分相当)4.5% 検察官送致(年齢超過)1.6 % 養護施設・教護院送致 0.1 % 知事・児童相談所
長送致 0. 0 6 %(法務省『犯罪白書』平成 10 年度版)
8
澤登・前掲注(5)120頁。
9
責任を追及されるべきである。そして同様に処罰されるべきであるといっているように聞
こえる。確かに、責任という面においては、この考え方にも一理ある。未熟であるからと
いって、その責任から逃れられるというのでは社会の秩序は保たれない。しかし、その責
任を追求する手段として処罰を用いることについてはどうであろうか。責任を追うための
手段は犯罪を犯した者によって異なってくるものではないだろうか。少年という未熟な者
に対して、単に罰を与えるだけでは本当の意味での責任の追及にはならない。少年にとっ
て、更正させるために、かつ犯罪について反省させるために有効な手段を用いることが必
要なのである。それこそが少年の保護であり、責任追及である。
保護・教育と責任は決して相対するものではない。少年法の目的にしたがって少年を保護
したとしても、それは少年を、犯した犯罪についての責任から解放させることではなく、
責任を十分に果たさせるために必要な処分を施しているのである。したがって少年につい
て言えば、責任を果たさせるためにも‘保護・教育’が必要なのである。では処罰につい
てはどうであろうか。先ほども述べたように、責任の追及と処罰は同じものではない。し
たがって刑事罰を科すことが少年の責任を追及することとはいえず、不適当な場合もある
といえる。
次に少年に科される保護処分が刑事罰に対して甘いものか、軽いものかということについ
て述べたい。神戸の事件の犯人である少年は、医療少年院送致という処分が下された。こ
の決定に対して「甘い」という評価がなされることがある。はたして現実にそうなのであ
ろうか。少年に対して行われる保護処分の中には、保護観察、児童自立支援施設・児童養
護施設送致、少年院送致の3種類がある(少年法第24条)
。これらの3つは少年の目的で
ある‘健全育成’を目指しているという点で同質のものであるが、保護観察は社会の中で
更正を図るものであり、他の2つとは少し異なる。後者の2つのうち、少年院は非常に閉
鎖的である。特別な場合を除いて外出は許されず、非開放的な施設の中で生活をし、規律
ある生活に親しませるための訓練を行い、規律に違反をすれば懲戒が行われる。そして、
犯罪少年を強制的に収容し、社会と隔離して更正を図ることで、社会防衛的な機能を果た
しており、
性格上異なるものである。
この中で医療少年院とはどのようなものかというと、
心身に障害があるもの及び障害がある虞があるものが送致されるところで、短期処遇(=
非行が常習化しておらず、児童自立支援施設・少年院の収容歴がなく、反社会的集団に加
入しておらず、著しい性格の偏り・心身の障害がないことなどを基準に、短期間の継続的・
集中的な訓練指導による矯正・社会復帰を目指す。収容期間は6ヶ月以内とされ、その期
間を超える処遇の必要がある時には、再鑑別を経て、6ヶ月を限度に延長ができる。
)は実
施されておらず、長期処遇のみである。さらに医療少年院においては、26歳まで収容で
きることになっている。また(これは医療少年院に限らないが)収容継続申請(少年院長
による、少年院法第11条)
、23歳未満の仮退院中の者が遵守事項を遵守しなかったり、
遵守しないおそれがある時の戻収容申請(地方保護委員会による、犯罪者予防更正法第4
3条1項)などの制度も存在する。つまり、神戸事件の保護処分を受けている少年も、更
正できないようであれば、26歳まで少年院から退院できないのである。このことを考え
れば、一概に保護処分の方が刑事罰よりも「甘い、軽い」などとは言えない。
5.被害者と社会の感情
ここまで、マスコミが言うほど、あるいは人々が思っているほど、少年法は不当な法律で
はないことを述べた(つもりである)
。ところが事件の当事者である被害者の方々からも、
同様の意見が出ていることも事実である。それはなぜか。少年の側から見て、(人権侵害と
いった重要な問題もあるけれども)少年法は公正なものであると思う。しかし事件の被害
者などの立場に立てば、不十分な点がいくつも残っている。それに触れたい。
保護処分について、その制度自体は公正であると思う。ではその処分を下すに当たって問
10
題はないのだろうか。それについて、非行事実と要保護性の関係、少年・保護者の納得、
基本的社会規範の修得、処分を科す時期、社会防衛的な配慮、被害者に対する配慮などが、
注意を払うべきものとして考えられる9。そこで一つずつ考えてみたい。まず非行事実と要
保護性の関係についてである。犯罪を犯した少年に対して何らかの保護処分を下すのであ
るから、当然非行事実が必要である。そして要保護性とはその少年に保護が必要かどうか
ということである。
(具体的に要保護性の内容を考えるに当たって、明確な答えはない。非
行を繰り返す可能性、非行を保護処分によってどれくらい除去できるかという可能性を考
慮すべきだという意見もあれば、社会に与える影響も考えるべきだという意見もある。10)
その非行がどんなに軽微なものであっても、少年の環境などを考慮して、必要であると判
断されれば保護処分は与えられる。これは少年法の目的からすれば、特に問題を生じない
ように思われる。しかし現実には非行事実と要保護性とのバランスが取りにくい事案もあ
るというのである。
それは非行事実が重大であるのに対し、
再非行の可能性が乏しいなど、
要保護性の程度が低い場合である。この場合には、実務的にも最も悩み深い選択を迫られ
るというのである。確かに、少年が非常に強く反省、後悔の様子を示しており、環境を考
えてみても改善が期待できる場合に、保護という面だけで考えれば不当だと感じる結果が
出るかもしれない。しかし、仮に少年が殺人を犯した場合を考えてみたい。どんなに環境
などが整っていようとも、正常な精神状態で行為に及んでいるというだけで保護・教育す
るに値する(また保護・教育こそが適当である)と考えられるのではないか。非行事実が
存在することを前提に保護について考えれば、それほど不当な処分が下されることもない
のではないか。
「重大な非行事実が存在する」ことで、
「要保護性がある」と十分に判断で
きる。ただし、これは決して非行事実を重視しようと言っているのではない。非行事実は、
あくまで保護処分を科す際の絶対的条件にすぎず、どのような保護処分を下すかに当たっ
ては、要保護性の詳細な内容に基づく判断が重要であると考える。
次に少年・保護者の納得、基本的社会規範の修得、処分を科す時期について触れたい。こ
れらは保護の効果を考えるに当たって、重要と思われる。少年の納得が必要なのは明らか
である。少年が不当だと感じる処分を受けていたら、その効果が逆に働いて、自虐的にな
ったり、反抗的になったりすることがあったとしても、
‘健全育成’に向かった効果はあま
り期待できない。また、なぜ保護者の納得まで考える必要があるのだろうか。犯罪を犯し
たのは少年であり、保護者は関係ない、少年自身が立派に更正すれば問題はないのではな
いか、それこそが少年法の目指しているところではないかと思うかもしれない。しかし現
実には保護者の手助けこそが、第一に必要であると考える。少年が犯罪を犯す場合、環境
上の理由があることが多い。もちろん、それだけに注目して問題をかたずけることは間違
っているが、環境上の原因を取り除くことは‘健全育成’に大きく役立つ。つまり少年の
側から考えると、少年は環境に左右されやすい。だから、一番身近な保護者によって働き
かけられることが、少年にとって好ましい。自分の面倒を見てくれる人が自分のために何
かをしてくれる。この状況が‘健全育成’には必要なのである。保護者の側から考えても
結果は同じである。保護者には少年を育てていくという責任がある。それは保護者が保護
者という立場になったならば、絶対に放棄してはならない責任である。子ども生むと決意
し、その結果子どもが生まれた時の父親・母親、両親・片親を欠く子どもを引き取る、預
かると決めた時のその子どもの保護者などが負う責任は犯罪行為をさせないというだけで
はなく、‘健全に’育てるということなのである。保護者というのはそのような責任を持つ
9
10
田宮・廣瀬 ・前掲注(1)208頁。
要保護性の内容については、荒木 伸怡「要保護性の概念とその機能」警察研究 59巻 10号 3頁(1
988)。
11
のだから、少年の‘健全育成’には保護者の役割は大きいのである。したがって保護者の
納得を得ることも、手助けを可能にするために必要なのである。基本的社会規範の修得は
‘健全育成’に直結することは明白である。そして、それも、前述の少年・保護者の納得
があってこそ達成される。
次に時期の問題である。この問題は一般の事件についても言えることではあるが、少年事
件の場合には、特に注意を払うべき問題である。審判を経て、処分が下されるまでにはそ
れなりの時間がかかる。少年の場合には、調査段階の保護的措置、審判段階の試験観察・
補導委託その他の保護的措置を実施することで、少年の特徴とされる可塑性を考慮に入れ、
また少年の要保護性を解消しようとしているが、やはり最終的な処遇をより早く決定する
ことが少年にとって必要である。なぜならば、審判が長引くことによって、少年がその(特
殊な)状況に耐えきれなくなって、事実を曲げてまでその状況を終わらそうとするかもし
れないからである。そのようなことになっては少年にとってマイナスになるのはもちろん
のこと、少年法制度にとってもその役割を果たせていないことになり、少年法の存在が危
うくなる。したがって審判を適正かつ迅速に終わらせることが求められる。社会防衛的な
配慮については、保護処分の目的の中に直接に含まれるものではない。保護処分を科すこ
とができるのはその少年にとって有効であるからであり、見せしめとして与えられること
は許されない。ただ、ある少年が非行集団の中に属していたりした場合には、二次的にそ
のような効果が期待できるかもしれない。
最後に被害者に対する配慮についてである。これが今、最も重要な問題であると思う。被
害者の感情として、やはり、相手が少年であろうとそうでなかろうと、許せない気持ちは
変わらない。それなのに犯人が少年となると、その少年は、その扱いが(不当に甘いもの
ではないが)特別なものになる。したがって少年の人権は守られているのに、被害者の人
権は無視されているなどの評価を受ける。この評価はあながち間違いではないのかもしれ
ない。なぜならば少年法は少年の‘健全育成’を第一の目的としており、そのための運用
をしているからである。それによって、被害者についてまったく注意を払っていないこと
はないが、当事者であるはずの被害者が、少年の社会復帰に至るまでの過程に参加できて
いないことは事実である。たとえば、少年法第22条の審判の非公開や、第61条の氏名
等の公表の禁止といった‘少年の秘密保持’についての規定などによって、被害者は関わ
りにくくなっている。少年法の目的を考えた場合、これらの規定は決して間違ったもので
はない。しかし法律というのは、一般社会に受け入れられて初めて機能するものであり、
受け入れられていなければ、法律としての価値はないと思う。したがって、被害者の感情
は少年法においても軽視できるものではないのである。
6.実際の制度との関係
先ほど少年法と被害者との関わりについて少しだけ触れたが、
この問題はどのように被害
者を参加させるか、さらには少年についてどれだけ情報を公表できるかという問題である
11 。この点について、1998年に大阪府堺市で起きた殺傷事件で殺人などの罪に問われ
た、当時19歳の男性が、実名や顔写真を掲載した月刊誌「新潮45」の記事で少年法に
基づく「実名で報道されない権利」を侵害されたとして、発行元の新潮社などに損害賠償
を求めた。判決は、一審では原告勝訴、控訴審では出版社側の勝訴となった(2000年
11
少年法の目的と情報公開について、村井 敏邦「少年事件と情報公開」法学セミナー
V ol .43
№11
66頁(1998)、そして被害者との関係で、岡田 悦典・岡田 久美子「被害者ケアと法的支援の構想」
V ol.43
№11 74頁(1998)
12
2月29日、大阪高裁12)
。この問題については、どちらの側に立つかによって意見がまっ
ぷたつに割れている。片方では、画期的な判決だ、被害者の感情・社会の常識に沿った判
決だという評価がなされている一方で、少年の社会復帰の窓口が狭くなるといった評価も
出されている。テレビのニュースなどに関係者が出演して、それぞれの意見を述べている
が、どちらも説得力にかける13。
この問題について、いくつか論点を挙げてみたい14。まず出版の自由と知る権利について
述べる。この2つについては、全てが対象にはならないということが言える。つまりは、
出版の自由(表現の自由といっても良いかもしれない)といっても、それは思想などにつ
いて当てはまるものであって、個人のプライバシーについては制限されるべき場合も存在
することは誰もが認めることである15。また知る権利についても同様に、国や地方公共団
体などの情報などは、主権者である国民が自らのことを知るために、または政治参加に必
要な情報として開示を要求することが許されても、少年たちの名前を知りたいという要求
は、単なる興味本位でしかなく、公的な情報として認められない。また少年の実名報道を
することによって、公表されない法的利益を上回る特段の公益が存在することを、マスコ
ミ側が立証すれば実名報道は許されるとされている。しかしそれは一体どのような‘公益’
なのか、という疑問が残り、本当にそのような場合があるのかは疑わしい。さらに肯定的
立場の意見として、
「被害者の名前が公表されているのに、犯罪者である少年の名前だけが
公表されないのは不公平だ。
」という意見もある。しかしこれこそおかしな論理である。被
害者の名前が公表されているのは、マスコミによるのであって、誰かが要求して報道され
ているのではない。したがって少年の情報が守られるのと同様に、被害者の情報も守られ
るべき情報として扱うべきである。ただし知る権利については、被害者の知る権利も当然
存在する。これについては別に考えるべきである。被害者は当事者である。当事者が何も
知ることができないというのでは、少年に対する過保護であると思う。少年の社会復帰を
考えるのと同時に、少年が行ったことの重大さを理解させるということも重要である。そ
してその役割を担うために、被害者への情報通知は可能である。この場合の問題は程度の
問題である。現在においては、様々な方法で情報が流通している。したがって被害者だけ
が少年についての情報を保持するという状態は維持しにくい。氏名などが外部に漏れてし
まうと、少年は、間違いなく、一人の人物に特定されてしまうだろう。この状況だけは、
少年の社会復帰が妨げられるおそれがあるため、避けなければならない。したがって被害
者への情報開示も慎重にされなければならない。そして、現在の(平成11年1月の法制
審議会少年法部会でまとめられた)少年法改正案では、
「被害者に対する少年審判の結果等
の通知」の制度化が図られている。これは、少年審判における被害者の地位について一定
の配慮がなされていることの現れである16。
次に犯罪抑止力についてであるが、これに説得力はない。法律が犯罪抑止機能を果たそう
と努力することは奨励されることである。しかしマスコミにそのような役割を期待してい
るのであれば、それはマスコミに対する過大評価である。マスコミに犯罪抑止力のような
12
朝日新聞 2000年3月1日 第1面。
13
この判決について、「表現の自由を民主主義の存在基盤と位置づけ、優越的な地位を認めた点は評価」
しながらも、「少年審判の関係者が記録の取り扱いに慎重なのはなぜか」と述べ、説得力に欠ける判決だ
としている。朝日新聞 2000年3月2日 第5面。
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森田 宗一「少年審判手続における秘密性」ジュリスト№165 30頁 (1958)。
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プライバシーの権利について、芦部 信喜『憲法(新版)』117頁(岩波書店 1997)。
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瀬川 晃「少年審判と被害者の地位」ジュリスト№1152 94頁(1999)。
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権力を与えることは非常に危険である。確かに、自分が特定されないことで、再び犯罪を
犯してしまう少年もいるかもしれない。そう考えれば、情報の公表は有効な手段かもしれ
ない。しかし逆の場合も考えられるのである。氏名が公表され、少年が特定される。そう
すれば少年が社会の中にとけ込んでいくことは難しい。(犯罪者と分かっていて受け入れ
ることは、社会に要請されることだと思うが、現実的には難しい。
)そのような状況に陥っ
た少年は、行き場を失い、また犯罪者への道をたどるしかなくなるのではないか。それこ
そ許される社会ではない。
最後に捜査への協力である。この場合には、確かに、報道されることが必要とされるとき
である。しかし、これは指名手配などの限られた場合のみで、一般的に考えられることで
はない。
以上のように、マスコミによる実名などの報道については、肯定的に受け止めることはで
きない17。
少年についての実名報道を考えるにあたって、マスコミの影響力と役割を改めて考えるべ
きだと思った。マスコミの影響力は絶大なもので、
「この人が犯人ではないか」といえば、
人々はそう思う。
(断定はしなくとも、少なくともその人物を疑いの目で見る。)それほど
マスコミの力は強力だと思う。そのマスコミが果たす役割というのは、人々にとって必要
かつ正確な情報を流し、人々の選択肢を広げることだと思う。
7.最後に
現行の少年法の目的、そしてそれに沿った制度は維持すべきものである。しかし被害者と
の関係において、その運用方法、さらには(必要ならば、少年法の目的に反しない範囲で)
制度改革も行うべきである。しかしそれ以上に必要なのは、被害者支援制度自体の充実で
あろう。そして同時に更正した少年たちの居場所をつくってあげること、つまりは社会復
帰を目指す少年たちを受け入れることのできる社会をつくることが必要ではないだろうか。
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マスコミと少年法との関係について、白取 祐司「少年事件の報道と少年法」法律時報 70巻 8号 30
頁(1998)。
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