† 曲目紹介 J.S.バッハ マタイ受難曲 BWV244 † 概 要 1727年4月11日、ライプツィヒの聖トーマス教会において受難日の夕拝で初演。 新約聖書のマタイ伝(第26章1節~第27章66節)からイエス受難のいきさつが綴られる。 大きく分けて、「聖句」「自由詩」「コラール」の3つで構成されている。「聖句」ではエヴァンゲリスト (福音書記者)が場面進行役として聖書の受難物語を語り進め、登場人物が言葉を述べる。「自由詩」はアリア やレツィタティーフの形で、その場面の解釈、瞑想、黙想が歌われ、いわば教会での「説教」にあたるものであ る。この自由詩は詩人ピカンダーによって書かれたが、内容はバッハが信仰したルター派の神学者ミュラーの 説教集などの影響を多大に受けており、バッハ自身の信仰心がよく表れているとされている。「コラール」は、 会衆が受難物語や説教を自分たちの身に置き換えた「感想」であり、また「信仰告白」として扱われている。 聖書が読まれ、説教が行われ、信仰告白がある。このように教会の礼拝と同じ構造になっていることから、 『マタイ受難曲』は「教会」そのものともいわれている。 † 成立まで イエスの最初の弟子たちは字が読めなかったため、「福音伝承」は文字ではなく口伝で始まった。長い物語に は自然に「節」がつき、当初から「歌い読み」であったと考えられている。中世の頃、「受難物語」朗唱を受難 週に行う習慣が生まれ、朗唱はさらに役割分担ができ、福音書記者はテノール、イエスはバス、群集は合唱が 受け持つようになった。これが「受難曲」の始まりとなる。やがて聖句以外にも自由詩やコラールが追加され、 アリアや合唱曲も扱われるようになり、大きな「受難曲」が受難日の夕拝で歌われるようになった。 1700年代前半は「自由詩」だけで作られる「受難オラトリオ」が好んで演奏された。中でもブロッケスの テキストには、テレマンやヘンデルなど多くの作曲家が曲をつけ、『ブロッケス受難曲』として流行した。 1724年、バッハは『ヨハネ受難曲』製作の際このブロッケスのテキストを参考にしたが、ヨハネ福音書から の聖句と、コラールを追加するという大幅な書き換えを行った。3年後に作られた『マタイ受難曲』では、 ブロッケスではなくピカンダーの自由詩を使い、加えて「ヨハネ」同様に聖句とコラールを採択。このような 聖書とコラールを中心とする受難曲は、「受難オラトリオ」に対して「オラトリオ風受難曲」と呼ばれている。 この頃以降、キリスト教そのものが徐々に力を失い、教会で受難曲を歌う習慣自体が廃れていく。バッハは このような「受難曲」が活きた時代の最後に活躍し、教会型芸術音楽の最高傑作を造り上げた。 † コラール コラールは「衆讃歌」ともいい、ドイツルター派教会の讃美歌であり、宗教改革者マルティン・ルター自身が その発展に大きく寄与した、ドイツにおける芸術形式である。ドイツでは既に11~12世紀頃「ドイツ語の 宗教的民謡」が生まれていたが、16世紀、ルターはこれらを発展させ、さらに世俗曲も活用し、難解なラテン 語のグレゴリア聖歌の代わりに誰もが身近に感じられるドイツ語の宗教歌として形付けた。コラールは礼拝式に 採用され、 「讃美歌は信徒ひとりひとりの心から歌うべきもの」というルターの「万人司祭」の考えのもと、 聖歌隊員だけなく信徒一同で歌うように改革され、広く認められるようになった。 コラールは、民衆にとってメロディーも歌詞も諳んじるほど日常的に親しめるものとなり、またルターの考え に共感した何人ものコラール作者によりその精神は後世に受け継がれ、何千曲、何千詩句ものコラールが誕生し た。バッハはコラールをカンタータや受難曲に積極的に取り入れ、教会と音楽の一体化に力を尽くした。 バッハが『マタイ受難曲』の中でコラールを重要視した理由のひとつに、「受難曲への聴衆の参加」という 点が上げられる。当時の人々にとって、日頃歌い馴染んだメロディーと歌詞が、合唱の形で受難曲に登場する ことは、親しみ易さだけでなく安堵すら感じられたことだろう。また、「受難曲の場面解説」という側面では、 人々がすでにコラールの意味を理解しているため、曲中のコラールに先行する聖句やアリアへの注釈や、バッハ 自身の考えそのものを表現する役割も果たしていたともいえるだろう。 † 楽曲解説 ■第1部■ 【冒頭合唱】(第1曲) 序奏から、通奏低音の重々しい動きが十字架を背負ったイエスの足取りを髣髴とさせつつ曲が始まる。この 冒頭合唱は、第Ⅰコーラスによる「シオンの娘(寓意的人物)」と、第Ⅱコーラスによる「信ずる者たち」が 呼応する形で展開され、さらにそこに少年少女合唱 によるコラールが加わる構成となっている。「シオ ンの娘」は当時の出来事(イエスの時代)を眼前に 見る信者、「信ずる者たち」は現代(バッハの時代 もしくは現在)から当時に思いを馳せる、現代の信 (譜例1 通奏低音の動き) 者の気持ちを歌う。両者の呼び掛け合いがすなわち、聖書の世界と現代の世界を繋ぐことになり、コラールは 両者の時空を超えたパイプ役を担っている。ここに用いられるコラールは、ニコラウス・デツィウス(16 世紀) による『おお神の子羊』。テーマに「受難」を取り上げており、コラールの最後に「罪を背負う者」が「イエス」 であることを明らかにする。冒頭合唱は、1曲めにしていきなり『マタイ受難曲』の核心を述べる役割を果たし ており、聴き手にキリストが十字架を背負う姿を浮かび上がらせるのである。 【受難の予言とイエスに対する謀議】(第2曲~4曲b) イエス自身から十字架磔刑の予告(第2曲)がなされた直後のコラール(第3曲)は、ヨハン・ヘールマン (17 世紀)詩の受難コラール『心よりお慕いするイエスよ』第1節で、旋律はヨハン・クリューガーによる。 「イエスは磔刑に処せられるほどの、どんな罪を犯したのか?」という問い掛けであり、聖書には記載されて いないイエスの予告に対する反応を、このコラールで表している。 【ベタニアの塗油】(第4曲c~6曲) 挿話的に展開するこの場面で、イエスは香油を注がれたのは「埋葬の準備」なのだと解き明かす(第4曲e)。 アルトソロによるレツィタティーフと アリア(第5曲~6曲)では、「私の涙を香 油のように注がせてほしい」と信仰の厚 さを歌う。2曲ともフラウト・トラヴェル ソが「涙のしたたり」の具象化を奏して おり、第5曲では曲を通して繰り返され (譜例2 第5曲) (譜例3 第6曲) る音型に、第6曲ではスタッカートでの フラウト・トラヴェルソの「涙の音型」。フラウト・トラヴェルソは古楽器で、現代のフルート。 下降音型にそれらを見ることができる。 【ユダの裏切り】(第7曲~8曲) この場面のソプラノソロによるアリア(第8曲)では、育てた子が蛇となって親を殺そうとするという例え話 からユダの裏切りの深さを解説する。このアリアはレツィタティーフなしで突然始まるが、前曲のエヴァンゲリ ストから突然アリアに飛ぶことによって切迫感も表現されている。 【最後の晩餐】(第9曲a~13曲) イエスの弟子の裏切りという予告(第9曲c)に対し、弟子(第Ⅰコーラス)が「自分ではないですね?」と問い かける(第9曲e)。ここで交互に歌う「Herr(主よ)」は全部で11回あり、ユダを除いた12使徒11人の 声を表しているともいわれている。続くコラール(第10曲) はパウル・ゲルハルト(17 世紀)の受難コラール 『見よ、十字架を』第5節。 「当時の信徒」 (第Ⅰコーラス)である使徒の問いかけの直後に、 「それは私です!」 と「現代の信徒」の気持ちを表すコラールが回答する形が印象的である。ここでは「受難の責任が他ならぬ我々 自身にある」という『マタイ受難曲』の原点が示されてもいる。 続くイエスの独唱(第11曲)は、パンを「私の体」 、ぶどう酒を「私の血」として弟子に分け与え、神の国の 到来が近いことを告げる「聖句」の一部であるが、 「アリア」と呼べるほど聴き手の心に訴える、聞き応えの ある曲である。その後のソプラノソロによって歌われるレツィタティーフとアリア(第12曲~13曲)では、イエ スの離別の言葉に対する悲しみと、新たに提示された契約に対する喜び、イエスへの信仰を歌う。 【オリーブ山での離反の予告】(第14曲~17曲) イエスは弟子の裏切りに続いて彼らの離反を予告し(第14曲)、反論するペトロに改めて「今夜鶏が鳴く前に 3度私を否定するだろう」と告げる(第16曲)。これらのイエスの「否定」に対応して、コラールがそれぞれ 配置されているが、バッハは連続2回、同じコラールを採用した。このゲルハルトの受難コラール『おお、血と みかしら 傷にまみれた御頭よ』は、ハスラー(16 世紀)の旋律によるもので、この後『マタイ受難曲』の中で調性を変え て何度も登場し、計5回歌われる。1回目の第15曲(第5節)はホ長調、2回目の第17曲(第6節)は半音下が った変ホ長調であるが、編曲は全く同じであり、意図的な反復としてこの場面に挿入されたことがわかる。 なお『マタイ受難曲』の中で、コラールとコラールの間に自由詩(=解説)が挟まれなかったのはこの部分だ けであり、この受難コラールが「マタイ受難曲のテーマ」として扱われていることが伺える。 【ゲッセマネでの祈り】(第18曲~25曲) 受難を前にしたイエスの人間的苦悩と「目覚めて待っていよ」との命令に、テノールソロと合唱(第Ⅱコーラ ス)が応答する。レツィタティーフ(第19曲)でソロがイエスの苦悶を情景描写するのに対し、合唱はコラール で「現代の信徒」としてそれを省察する。コラールは、第3曲と同じヘールマンの受難コラール『心よりお慕い するイエスよ』の第3節で、イエスに同情しつつ、罪は自分たちにこそあると歌う。続くアリア(第20曲)では ソロがイエスの命令に従うべく歌うのに応えて、合唱が「目覚めへの服従」を繰り返す。 続いてイエスの1度目の祈りを経て、バスソロによるレツィタティーフとアリア(第22曲~23曲)が、イエス の苦悩に対する考察と「救い主に続いて十字架と杯を飲もう」という信徒としての意気込みを述べる。 眠り続ける弟子を置いて行われたイエスの2度めの祈り(第24曲)にはコラールが応答する(第25曲)。プロ イセン公アルブレヒト(15 世紀)作、旋律はフランス王の宮廷楽長クロード・セルミジ(15 世紀)による『神 の御心は』の第1節。アルブレヒト夫妻は熱心なルター派で、公は妻に先立たれた際「すべてを神の御心に委ね る」という詩を作った。これが前曲でのイエスの祈り「どうかあなたの思うことが行われますように」に対応し ている。 【イエスの捕縛】(第26曲~29曲) イエスの逮捕に伴い、ソプラノとアルトの悲しくも美しい二重唱に合唱(第Ⅱコーラス)が「現代の信徒」と して「放せ、止めろ、縛るな!」と全合奏を伴いスタッカートで応唱する(第27曲a)。この曲は、冒頭から 合唱が入るまで、通奏低音がない構造(バセットヒェン)になっているが、これはイエスの逮捕を受けて「支え を失った心の不安」を表している。そして突然の荒々しいフーガに転じ(第27曲b)、2群の合唱が世の終末の ような恐ろしい言葉で混乱と悲惨を表現、最後は裏切り者への糾弾に到達し、大きな盛り上がりを見せる。 混乱の中弟子たちは逃げ出し、第1部最後の大コラールに至る(第29曲)。ゼーバルト・ハイデン(16 世紀) による『おお人間よ、汝の罪の大いなるに泣け』の第1節であるが、このコラールは『マタイ受難曲』第1部の 締めくくりに相応しく、 「人間の罪こそがキリスト降誕の原因である」とし、全24節を通じて降誕から受難 までを歌い上げた壮大な受難節コラールである。定旋律はソプラノが受け持ち、他の3声が歌詞を意味づける 対位法的な動きを積極的に示し、管弦楽がこれらを彩っている。 ■第2部■ 【冒頭合唱】(第30曲) アルトソロの不安に満ちたアリアと、それに対して不自然に明るい雰囲気の合唱(第Ⅱコーラス)(第30曲)。 両者のアンバランスさ、お互いに問い掛けあったまま答えが出ない様子が、イエス逮捕後の不安定な状態を表し ている。合唱部分のテキストは聖書の「雅歌」第6章第1節による。 【最高法院での裁判】(第31曲~37曲) 大祭司カイファの元での裁判でのやりとりに、コラール(第32曲)が対応する。アダム・ロイスナー(16 世紀) のコラール『私はあなたに望みをかけます、主よ』の第5節。「嘘と作り話で陥れられそうな危機から救ってく ださい」という内容は、 「イエスが神へ祈る」とも「我々がイエスへ祈る」とも受け取ることができる。 この裁判の間、イエスは徹底的に黙しており、続くレツィタティーフとアリアではテノールソロによりイエス の「沈黙」に対する省察が述べられる(第34~35曲)。不正な嘘にはじっと黙り、耐え忍べ、と我々にも説く。 続く場面では、イエスがついに沈黙を破り「お前は神の子か」の問いを認めたため、群集は「彼は死罪に値 する」と叫び(第36曲b)、イエスに唾し、殴り、 「お前を打っているのは誰か言ってみろ」と罵る(第36曲d)。 直後にコラール(第37曲)が介入し「誰があなたをそんなに打ったのですか」と応答するが、この形は第10曲 のコラールのパターンと同じであり、曲も第10曲と同じゲルハルトの受難コラール『見よ、十字架を』第3節で ある。 【ペトロの否認とユダの自殺】(第38曲a~42曲) ペトロの否認のシーンは、『マタイ受難曲』の中でも特に聴衆の胸にせまる場面のひとつ。エヴァンゲリスト が「ペトロが外に出て激しく泣いた」と歌う箇所(第38曲c)は、まさに涙が流れる様子がメリスマで描かれ、 後悔し嘆く様子が目に見えるようである。続くアルトアリア(第39曲)『憐れんでください』は胸打つ名曲のひとつ であり、美しいヴァイオリン独奏との二重唱。懇願の対象がペトロ個人から人類全体へと広げられている。場面 をまとめるコラール(第40曲)は、ヨハン・リスト(17 世紀)の夕べの礼拝のためのコラール『雄々しくあれ、 私の心よ』第6節、旋律の原型はヨハン・ショープ(17 世紀) 。アルトアリアの憐れみに対し、 「この罪を否定は しないが、あなたの恵みと恩寵は罪よりも大きいはず」とさらなる憐れみを請う。 一方、ユダは裏切りを後悔し、撤回しようとするが、祭司長らに相手にされず(第41曲b)首を吊って死ぬ。 バスソロがユダを聖書の「放蕩息子」の説話になぞらえて、ユダの後悔と改悛を歌う(第42曲)。このアリアも ヴァイオリン独奏を伴っており、その他弦合奏の編成やレツィタティーフが無いことなど、構成が第39曲のアル トアリアと相似している。ペトロの否認と悔恨、ユダの後悔と改悛は「対の赦しの場面」として描かれていると いえるだろう。 【ピラトの訊問と死刑判決】(第43曲~54曲) イエスは総督ピラトの前でも黙して語らない。毅然と沈黙を守るイエスの姿から、天の父なる神への信頼を みかしら コラールが歌う(第44曲)。3度目のゲルハルトの受難コラールになるが、ここでは『おお、血と傷にまみれた御頭 よ』ではなく、ゲルハルト作の別の詩篇コラール『あなたの道を主にまかせよ、信頼せよ』の第1節の歌詞が ハスラーの旋律に当てはめて引用されている。先の第17曲よりさらに半音下がったニ長調になる。 場面は続き、ピラトの意に反し、民衆が赦免の対象にバラバを選ぶ(第45曲a)シーンは『マタイ受難曲』の 聖書場面でも最も印象的といえる。民衆は、一言で一斉に「バラバを!」と叫ぶが、口々に叫ぶよりも民衆の 呪いや怒りが強調され、恐ろしさまでをも表す効果が出ている。続いて民衆は「イエスを十字架につけろ」と 叫び(第45曲b)、ここで「現代の信徒」の心境としてコラールが導入される(第46曲)。これは、第3曲、第19 曲に続いて3度目となるヘールマンの受難コラール『心よりお慕いするイエスよ』の第4節で、 「正しい方が 下僕の代わりに罪を償うとはどういうことか」と驚き、嘆く。 ここでソプラノソロによりレツィタティーフとアリア(第48曲~49曲)が歌われる。レツィタティーフでは イエスがいかに善き行いをしてきたかを列挙し、続くアリアで「なぜイエスは死ななければならないのか?」を 問い、「愛ゆえに」と説く。直後の合唱(第50曲b)は第45曲bと調性違いの同じ曲であり、このアリアを挟んで シンメトリック(対照)に配置されていることから、このアリアが『マタイ受難曲』の中心点とされている。 ピラトが磔刑のためにイエスを鞭で打たせて引き渡すことを決めると、アルトソロが鞭打ちをやめるよう懇願 し、嘆きと涙を歌う(第51曲~52曲)。このレツィタティーフ は、弦楽器が全小節に渡り付点リズムを奏しており、生々しい 鞭打ちのリズムを暗示する。 総督の兵士たちはイエスに紫の上着を着せ、茨の冠を被せて 「ごきげんよう、ユダヤ人の王様よ!」と嘲笑し(第53曲b)、 イエスに唾をかけ、葦で頭を叩く(第53曲c)。 「頭を叩く (damit sein Haupt)」から導き出されるコラール(第54曲)は みかしら 『おお、血と傷にまみれた御頭よ(O Haupt voll Blut und Wunden)』で、4度目のゲルハルトとハスラーの受難コラール。 (譜例4 鞭打ちを表す付点リズムの弦楽器) ここでは第1、2節が使われており、本来のコラールの冒頭に 戻ること、2回繰り返すこと、今までの調性で一番高いヘ長調が選択されていること等から、この4度めが一番 重要であることがわかる。 【ゴルゴタ】(第55曲~60曲) 兵卒に手伝いを強要されたクレネ人シモンがイエスと共に十字架を運ぶシーンから、バスソロにより「信徒が 十字架を背負う」という観点のレツィタティーフとアリア(第56曲~57曲)が歌われる。強要されるのではなく 「来たれ、甘き十字架よ」と、喜んで十字架を受け入れ背負うという信徒の意思を表現する。アリアでのヴィオ ラ・ダ・ガンバ独奏も聞き所のひとつ。 一行はゴルゴタに到着しイエスは十字架に付けられたが、民衆、祭司長らの中傷は止まない。「神の子なら 自分自身を救ってみせよ」「自ら神の子と称したのだから十字架から降りてこい」と罵る合唱(第58曲b、d)は、 2群の合唱の掛け合いやフーガがかしましく、人間の残虐で醜い面が浮き彫りにされている。 イエスの死が刻々と近づき、アルトソロがレツィタティーフで「ああ、ゴルゴタよ」と栄光ある主の失墜を 嘆き(第59曲)、続くアリアと合唱(第60曲)では、アルトソロ(シオンの娘)から合唱(第Ⅱコーラス・信ずる 者たち)への呼びかけと応答が歌われる。イエスの死を前にして「来なさい」 「どこへ?」 「イエスの腕の中へ」 と、イエスが腕を広げて受け止めてくれる様を繰り返し、イエスの愛の広さを歌う。 【イエスの死】(第61曲a~65曲) イエスの死が近づく。イエスが「エリ、エリ、ラマ、アザプタニ」と、またエヴァンゲリストがドイツ語でそ せいひつ みまか の意味を述べる場面(第61曲a)は息を呑む静謐さが漂う。イエスが身罷られ(第61曲e)、言葉も出ない沈黙の中 で歌われるコラール(第62曲)は、5回目になるゲルハルトとハスラーの受難コラール『おお、血と傷にまみれた みかしら 御頭よ』第9節。前回の第54曲から4度も 低いイ短調であるが、フリギア旋法(グレゴ リオ聖歌の音階のひとつで、「ミファソラシ ドレミ」による音階)が用いられ、より古風 な落ち着き、鎮魂の様子が表されている。 突如一転し、エヴァンゲリストが天変地異 の凄まじさを物語る(第63曲a)。通奏低音に よる鋭い上昇音型、4オクターブに及ぶ大下 降、細かい音符の連打で、大地の振動を細か (譜例5 通奏低音の動き) く表現する。対して天変地異が鎮まった後の 百人隊長と部下の驚きの言葉(第63曲b)は、短い中にも荘厳さすら感じられる非常に美しい合唱となっている。 続いて、イエスの遺体が十字架から降ろされ、バスソロがイエスを迎えて「アダムの堕落を乗り越え、イエス によって新たな契約の成就が果たされた」と、イエスを葬るべく歌う(第64曲~65曲)。 【埋葬】(第66曲a~68曲) イエスは埋葬され場面は終局を迎えるが、祭司長らはイエスが生前「3日で蘇る」と予告していたことを恐れ、 見張りを立てるようさらにピラトに迫る(第66曲b)。しかし聖書からの受難記事引用はここまでであり、キリス ト教義のポイントである「復活」については「マタイ受難曲」では語られない。そのままレツィタティーフ(独 唱)と合唱(第Ⅱコーラス)による墓所のイエスへの別れの挨拶(第67曲)を経て、最終合唱(第68曲)に到達す ひざまず る。ここでは、墓に横たわるイエスと、イエスに対し信徒(各世代にわたる)が 跪 き、イエスをねぎらい、 いたわる様子が繰り返される。 (ソプラノ 堀尾峰子)
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