浦河港最大の惨事―木クズとなったマグロ船

浦河港最大の惨事―木クズとなったマグロ船
機船八十二隻時化(しけ)に被害。乗員四百名に炊出
(たきだ)
し 昭和十一年十月七日付
「小樽新聞」
は十月四日浦河港で起きた台風による被害を、このような見出しで大きく報道した。
天気は前日の夕方から崩れだしていた。
十月三日は伊野リクの婚礼の日だった。大通一丁目の自宅とリクの嫁ぎ先(昌平町)は目と鼻の先
にあったが、降り出した雨のため、紋付の裾を濡らさず歩くのにひどく苦労した。風はまだ無かった。
親戚一同が膝を並べ、祝言の酒が出される頃になって、雨は本降りになり、屋根を打つ雨音で祝いの
ことばもかき消されるほどになった。
「ひどい天気になったもんだ。この調子じゃ家に帰られんかもしれんな」
親代わりのリクの兄、伊野清作はいまいましそうに舌打ちした。祝言は無事に済んだが、案の定この
雨では一歩も外へ出られない。皆で仕方なくチビリチビリと酒を飲みながらねまっていた。小降りに
なったのは真夜中になってからだ。雨がおさまってくるにしたがって風が強くなってきた。「よし今
のうちだ」外へ出ると大風で、清作の妻は丸髷(まるまげ)が飛ばされるのではないかと心配だった。
こんなひどい風はめったにお目にかかれるもんじゃない。風はひと晩中衰えることなく吹きまくって
いた。
朝になって近所の人がかけこんできた。
「伊野さん!あんたんとこの豚小屋が吹っ飛んだよ」
「なんだって!」カッパを引っかけていると、消防組からすぐ本部に集まるようにと連絡が来た。
八時半だった。
「オイ、家の屋根も飛ぶかもしれんぞ!」消防組の組員は、命令があれば何をおいても馳せ参じな
ければならない。外へ出るとまっすぐに歩けないほどの大風で、あちこちで店の看板が飛ばされてい
る。浜谷床屋(大通二丁目、現江戸っ子)まで来ると、飾り二階が道の真ん中にそっくり落ちていた。
「浜へ行け!」組頭の指示で清作ら組員はすぐ港へ向かった。ちょうど日高沖はマグロの回遊時期で、
今年も千葉の突きん棒船団をはじめ、紀州勝浦や宮崎県油津の船団など、各地からマグロ船がおしか
けている。その百隻に近い船が昨日から湾内に避難していた。今朝、清作は目が醒めるとすぐ二階へ
上がって見たが、ひどいシケだった。この風では、いよいよ船が危ないのだろう。
浜に着いてみれば、シケはまた一段とひどくなったようだ。すでに救難所が設けられ、地元漁師が
詰めかけていたし、 こうして消防組、警察署員が首をそろえたが、見ているだけでどうすることも出
来ない。あちらで一本、こちらで一本、係留綱が切れはじめる。「あっ!次の大波がきたら沈むぞ!」
支えを失った船が波にもて遊ばれ、隣の船にぶつかって少しずつ船体を傷めていく。このままでは沈
むのを待つだけだ。覚悟を決めた船が破損を承知で岸へ向かってはせ上げてくる。ちょうど港湾事務
所の建っているあたりが当時は砂浜で、ここに上がるのが一番被害が小さい。しかしこの乗りあげた
船の上に、おりからの突風に押し流された船が次々にのし上がり、先の船を押しつぶした。
シケが最大になったのは十時頃だった。浦河測候所はこの日の瞬間最大風速を三十七・六メートル
と記録している。日本冷蔵(現浦河冷凍株式会社)前の小さな船入澗に避難していた船は、この風に
吹き寄せられ、岸壁にぶちあたって全船木っ葉みじんに砕けた。海底が盤になっていて錨がきかない
のだ。あっという間に、あたり一面はゴミをぶちまけたように、部材やら板切れが浮いた。一瞬ので
き事に清作は声も出なかった。
この大シケも昼すぎにはだいたいおさまり、三時になるといつものおだやかさを取りもどした。し
かしそのわずか数時間の間に、港内の漁船は大被害を被った。このシケの被害状況については、人
によりかなり記憶のくいちがいがあるが、先の小樽新聞は 発動機船の沈没したもの二十隻、大破
四十二隻、小破二十隻 と伝えている(「浦河町史」には、港内碇泊中の船舶三十数隻難破と記載)。
船の被害が大きかった割に、負傷者もほとんどなく、一名の死亡者も出さなかったことは不幸中の幸
いであった。なお集まった消防組員、警察署員、地元漁師たちは、この日乗組員三百九十五名の救助、
宿泊の世話、港内パトロールなどに、夜を徹して奔走した。
翌日から海中に散らばった機械の引き上げや、廃材の後片づけ、船の修理がはじまった。日本冷蔵
の冷蔵庫の管理をまかされていた清作は、海面一杯すきまもなく浮かんでいる木屑を、何日もかけて
片づけた。このままでは船が着けられないのである。後に、 海をきれいにしてくれたと役場から表彰
されるおまけまでついたこのときの廃材は、その後清作の家で三、四年も焚き物に困らないほどあっ
た。中には貴重なものもいくつか混っており、 乾かして取っておくと、 聞きつけた船主たちが訪ねて
来て、天測器だの、三メートルもある赤樫の木だのを持ち帰っていった。
清作の家に間借りして泊まり込んでいた鹿児島県串木野の 万幸丸 の人たちも、ひと月半ほどか
けて後始末を終え、 故郷(くに)へ帰った。その後は同郷の親方連中が来て、連絡事務所として使用
したが、それも正月前には引き上げた。
「まったくたいへんな目にあったもんだ。浦河ってとこは港があるというだけで、危なくて入れた
もんじゃない」
内地からやってきた漁師たちはそう口をそろえ、それから何年もの間、たとえどんなに海がシケて
も浦河港に避難する船は一隻もなかったという。
[文責 河村]
【話者】
伊野 清作 浦河町堺町西 明治四十一年生まれ
塚田 正吉 浦河町大通二丁目 明治四十年生まれ
阿部 金蔵 浦河町浜町 明治四十一年生まれ
【参考】
小樽新聞 昭和十一年十月七日付