かなであん No.258

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ざいごう
浄土真宗本願寺派 慈雲山龍溪寺 奏庵
2014.9.20 発行
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kanadean
No. 258
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249-0002 逗子市山の根1-7-24
Tel : 046-871-1863 Fax : 046-872-3485
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目先の心地よさを優先してしま
仏道へのいざない
い節操なく自分の生活に取り入
であっては役立ちません。「苦
れてしまい、本来大切にしてい
の営みの中に息づいてこそ、私た
秋のお彼岸が巡ってまいりま
かなければならないものをおろ
ちを導くものとなり得るのです。
した。生活の中に溶け込んだこ
そかにします。そして相手が一
ですから、頭や本から理屈や理
れらの宗教的習慣は、日本に生
人でも大変なのに、相手が多く
論で得た宗教では、宗教的人間
まれ育った人であれば、「自分
なれば当然迷いも問題も多くな
として本物に育たないと言われる
は無宗教だ神も仏も信じない」
るのです。宗教も、色々な神仏
のです。 と言う人でも、その季節感や年
に、その時その時の自分に都合
宗教は「恭敬(くぎょう)」、頭
中のサイクルとして擦り込まれ
のよいところを取り入れること
が下がる、敬い、仰ぐ、という
ているのではないでしょうか。
は、迷いを深め、問題を抱える
行為の対象を持つことを基本と
かといって、日本人が信仰を人
ことになってしまうのです。 し、「帰依する」ことのもつ元々
生の糧にしているかといえば、
日本人の宗教理解は、「宗教
の意味は「信じます」であり、
必ずしもそうではありません。
的な感じ」のする習慣や形骸化
「尊敬します」「愛します」で
日本人は宗教が嫌いではないの
されたものは何でも取り入れ、
もあるということを聞けば、信
宗教的というより習俗的なもの
と言われています。 になりがちで、それは宗教本来
* * * の意味を離れ、「そうするもん
心とは服従するのではなく「慕
宗教意識調査によれば、国が
だ」という縛りを生み、やがて、
それは、人生で出会った人が、
認可している宗教法人が届け出
重荷となって宗教嫌いになり、
何となく好ましく羨ましく思わ
ている信者数を統計すると、日
宗教アレルギーや無宗教になる
れ、あんな風に生きられたらと
本の人口を上回る2億人以上に
人を生んでいると思われます。 語り合っている中で、ふと「自分
もなるそうです。これは一人の
* * * はこういうことを生き方の糧にし
人間が複数の神や仏を信じてい
人間は宗教と共に生きると言
ている」と語られる。信仰への
ることになりますが、そのこと
う点で他の動物と区別されます。
出
がかえって迷いや問題を生み、
それは人間が勝っているという
と思うのです。その人を浄土真宗
信仰をもつということの本来の
区別ではありません。人間は、
では善知識というのです。 意味から離れてしまっているこ
宇宙までのあらゆるものがつな
仏教行事は仏徳讃嘆を機縁と
とに気づいていないばかりか、
がり合ってしか成り立つはずの
する出
むしろ、自分は信心深いのだと
ない「生命の世界」にあって、
え)」です。その出
自慢する人さえいます。それを
宗教というものがなければ、そ
きは、親であったり、友であっ
宗教学者のひろさちや氏が「浮
の「おかげ」を忘れ、己を是と
たり、時には子であることもある
気者」に例えておられたのを思
し、欲は増し、傲慢になり、争
でしょう。それこそが良き人(善
い出します。 いの種に事欠かないからです。 知識)の私たちを仏道へといざ
宗教音痴とは浮気者と同じで、
その宗教や信仰というものが
なってくれる尊い法縁なのです。 そのことで生じる問題よりも、
生きることからかけ離れたもの
合掌
に、残念ながら「宗教音痴」だ
(思い通りにならない)」日々
わしく思うこと」であったと素
直に頷けるでしょう。 いとはこういうものなのでは
いの場、「法会(ほう
いによる導
!
奏庵法座
編 集 後 記
ブッダの教え 「何もない」ことが智慧
朝日新聞の「従軍慰安婦」・福島
「彼岸会」
原発事故の「吉田調書」、誤報問
題の報道を聞きながらパソコンに
智慧とは、特別に「何かがあ
向かっていると恐くなってくる。
る」ことではありません。じつ
日時 毎月この「便り」を書き発送する
は「何もない」ことなのです。 9月26日(金)
までに何度も読み返すのは、「後
心の中に、ある価値観や尺度
で読んで書いた自分が嫌にならな
午前11時
!
をもっていると、それに当ては
まるものしかみえません。何か
「みほとけに抱かれて」 知識にしがみついていると、そ
阿弥陀経
れで頭がいっぱいで、他のもの
法話 住職
が入らなくなってしまいます。
頭の中に何もない場合は、そ
ご文章拝読
のときそのとき、何でも入って
「恩徳讃」
しまい、理解がはやいのです。
∼*∼
さらに、得たものに執着しな
おとき
いで持ち運ばないのが、智慧の
ある人なのです。
ひと月いただいた休みの間に
も色々な事件、大きな天災もあ
りましたが、皆さまにはお変わ
りなくお過ごしでしたでしょう
か。異常気象と騒ぐのは口ばか
りの人間とは比べものにならな
い自然の律儀さは、きちんと秋
を運んでくれ、ススキの穂が光
り、階段に咲く数本の彼岸花を
目にすると、この季節を法縁と
する習わしを守り伝えて下さっ
た先人の智慧と願いの深さを想
います。どうぞお参り下さい。 いかどうか」のためだが、取り消
したと思うものばかりだ。■取り
返しの付かないものを発表したこ
となら、STAP細胞の論文疑惑もそ
うだろう。「はじめに結論有き」
は、有望な研究者が自らの命を絶
つという事態を生んでしまった。
彼が科学にとって大切なのは発見
や論理の内容であって人物や人柄
ではないことは分かりすぎるほど
分かっていただろうに、後になっ
て自分を取り戻し、科学者にある
まじき恥ずかしさに耐え切れなく
なったのだろう。■報道も「真実
を伝える」使命を持つが、それを
書くのは人間であり、書き手の立
場や価値観が含まれたものになる
のは否めない。情報には「誤報」
という言葉では表しきれない、書
衆会(しゅうえ)
き手のイデオロギーによって「歪
曲」されたものがあるのだという
この庭に あつまるわれら 読み手の判断も必要だ。これこそ
世のわざの しなこそかわれ が「絶対正しい」と大上段に言い
切れるものなどあるのだろうかと、
もろともに めぐみにとけて 自問することの大切さを知らされ
むつみあう こころの声に る。■宗教を伝えるということは
讃仏の うれしきしらべ どうだろう。「これこれこういう
教えだ」と主張しても、それが読
みすがたは こころにうつり む人を貶めたり尊厳を踏みにじる
られたように乱暴に感じられるな
み教えは いのちにかよう ら、仏教そのものを傷つけること
われらいま 闇よりさめて になってしまう。かといって、無
みほとけの ひかりのなかに 難で美しい言葉や、薄っぺらな善
法をきく たのしきつどい
悪を並べても教えは伝わらず、信
心にまで至らない。説く側の者が
まず相手と同じ凡夫であるという
ことを忘れてはならず、偽善があっ
てはならない。「朝日」が陥って
いたのは、仏教が厳しく説く、謙っ
「正信偈」を学ぶ ていながら実はいい子、上からの
立場に立つ「傲慢のなかの傲慢」
という落とし穴だったと思う。■
法座の前の10時くらいから 同じ師、同じ教えに接しても、人
共々に正信偈を学ぶ時間を持っ
それぞれの力量、その時の状況や
ています。お時間が許す方は少
感情で違ってくるという寛容から
生まれた「仏法はお味わい」と言
し早くお出かけ下さり、途中か
う懐の深さを思うと、「正しく」
らでも遠慮なくご参加下さい。 ではなく「正しいかたち」で伝え
なければ…… Norimaru
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