80. 蓮照寺 せいりょうざん れんしょう じ 清涼山 蓮照寺 宗派 浄土真宗本願寺派 茨木市沢良宜西2丁目1番21号 蓮照寺のある沢良宜は古くから『佐和良木』 『草和良宜』 『沢良宜』などと書かれてきた。 その名の由来については①砂原(さはら)説、②植物名の沢あらぎ説、③古代氏族の早良氏説、 ④アイヌ語の葦原説、⑤南方語の水田湿地帯説などがあるが何れも決め手に欠け定かでな い。 その後、 『沢良宜』は戦国時代の混乱による支配勢力上の関係でやむなく東・西・浜の三 集落に分裂された。しかし、沢良宜地内に祀られている式内社佐和良義神社を心のよりど ころとして今も三集落の各住人は強い同郷意識を保っている。 のりみつ 蓮如上人の北陸巡教で教化をうけた越中国の某城主の奥村長門守乗光の末裔と伝えられ しょうじょう る奥村正信の嫡男奥村 正 照 は、 蓮如上人が帰洛し、 石山本願寺入りに従い、 文明 15 年(1483 年)、蓮如より六字名号を授かった。この蓮如の一字『蓮』と、自身の名である正照の一字 『照』を組み合せた『蓮照寺』の寺号が本願寺から許され、この沢良宜西村に小庵を結ん で教化に励んだ。 しょうにょ この蓮照寺の教化における精進に対し、第十代門主証 如 上人の裏書きのある『阿弥陀如 けんにょ 来御影像』が、本願寺第十一代門主顕如上人から付与され、また、九条関白家より『浄土 三部経典』も下賜された。この御影像と経典は寺宝として保存され伝えられている。 本堂は、寛延 2 年(1749 年)、大規模な修理と増築が、嶋下郡山田庄中村の住人である工 匠棟梁の藤原忠兵衛の手で行われた。これらの詳細が屋根裏の梁に残されている棟札に記 されてある。その後、昭和の大修理が昭和 55 年(1980 年)10 月に行われた。 蓮照寺の境内に伝えられる手水鉢と親鸞聖人の銅像が参拝者の目を引く。この手水鉢の 作製年代は不明であるが、自然石を舟形に刻み、重厚なおもむきで存在している。しかし、 今は、手水鉢として利用されるよりも境内の庭石的な雰囲気で寺の庭を引き立てている。 銅像は、昭和 58 年(1983 年)に行なわれた宗祖親鸞聖人の七百回忌のとき、門徒衆の厚志で 建立された。 寺院創建 文明 15 年(1483 年)、奥村正照法師が蓮如上人の教えをうけ、当地に小庵 を結び、授かり物の六字名号を安置した。これが蓮照寺の創建である。 本 尊 阿弥陀如来木立像 木造 像高 55.8cm 江戸時代作 主たる什物 ◎ 親鸞聖人像 絹本箸色 江戸時代 寛文 4 年(1664 年)作 箱蓋表に墨書銘 ◎ 蓮如上人像 絹本箸色 江戸時代 弘化 3 年(1846 年)作 箱蓋表に墨書銘 ◎ 方便法身像 絹本箸色 63.5cm×29.3cm 室町時代作 ◎ 聖徳太子像 絹本箸色 110.3cm×51.1cm 江戸時代作 裱背に墨書銘 ◎ 浄土七高僧像 絹本箸色 110.7cm×51.0cm 江戸時代 寛文 4 年(1664 年)作 裱背に墨書銘 ◎ 良如上人像 絹本箸色 建 造 物 97.9cm×39.7cm 江戸時代作 本堂 寛延 2(1749 年)4 月、工匠棟梁の藤原忠兵衛で大規模な修理と増築 が行われた。これらの詳細を墨書した棟札が保管されている。 庫裏 昭和 4 年(1929 年)3 月、以前の庫裏に使用されていた建材を使用し 再建された。 鐘楼 宮津地震で倒壊した。現在は再建されず石積だけが残っている。 山門 昭和 51 年(1976 年)8 月、改築 法要・ 法要・行事 修正会(1 月 1 日)、永代経法要(4 月・9 月)、盂蘭盆会(8 月)、報恩講(12 月)、 彼岸会法要、宗祖正忌講、毎月定例法要、仏教婦人会、尼講、仏教壮年会は 門徒による『同行講(どうぎょうこう)』で行われている。 住 職 奥村順誠(おくむら じゅんしょう)住職。平成 9 年、二十四代住職に就任 蓮照寺は浄土真宗のならわしに従って住職は世襲制度で引き継がれ、開祖 の奥村正照から起算して現奥村順誠住職は二十四代目住職となる。 蓮照寺には講として『同行講』がある。この『同行講』は門徒衆が地区を 基準として組織体をつくり、生活の互助的な役割を果たす隣組的存在である。 例えば、冠婚葬祭などは共に助け合いで行い、日常の活動としては、門徒衆 が交代で自宅に組で結ばれている人達を招き経典を唱える。住職はその場に 赴き経典の意味などを説法する。 蓮照寺の歴代住職は檀家との交わりを大切にし、法要、各講を頻繁に開催 している。他寺においては『同行講』等のような組織体が形成されている例 は少なく、蓮照寺では門徒衆と共々に大切な講として受け継がれている。
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