日時:2007年10月21日 主日2部説教

日時:2007年 10月 21日 主日説教
題名:死がなぜ恐ろしいのか?
説教:チョー・ヨンギ牧師
御言葉:テサロニケ人への手紙 第一 4章 13~18節
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもら
いたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むこ
とのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっ
しょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、
主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先す
るようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神
のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリスト
にある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たち
まち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こう
いうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
<序論>
『死がなぜ恐ろしいのか?』という題名で恵みを分かち合います。
生きている者は必ず死にます。これは逆らうことのできない宇宙の法則です。
主の僕は、教会で長い間、牧会をしていると多くの死を見ます。聖徒さんたち
が一人、二人、この世を離れていくのを見て、メッセージをすることになりま
す。しかしそれほど大きなショックを受けず葬儀を執り行います。なぜなら天
国に行ったと考えるので、平安な心でお葬式を行うのですが、自らの本当の家
族がこの世を去るとなると、心にショックを受けるのです。昨年、私の父が天
国に行き、今年には母が天国に行ったので「あー、死が事実、私たちの家族に
も近づいてくるのだな。もうすぐ私の番になるんだな。」死に対して漠然とし
た考えではなく、非常に緊張した積極的な心で死を見るようになりました。死
が楽しい体験では決してありません。生きている人は皆、死にたくありません。
必ず死ななければなりませんが、それでももう尐し長く生きたいのです。なぜ
私たちは死が恐ろしいのでしょうか。なぜ長生きしたがるのでしょうか。老人
はお客さんが来ると「ああ、私は年老いたので、早く死にたい。早く死にた
い。」それは嘘です。それは「ああ、私はもっと長生きしたい。長生きした
い。」という言葉なのです。
<本論>
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1. 死が生存の終わりであり その後は全く未知の世界であるため
死が怖くなる理由は、死が生存の終わりで、その後は、全く未知の世界である
ために恐ろしいのです。
慣れない国に手ぶらで到着すれば、すべてのものに不慣れで、何も知らないの
で不安で怖くなります。死とは、境界線の向こう側は、全く分からない世界で
す。ですから恐ろしくないわけがありません。私たちが生きている現実の世界
には家族がおり、愛する人々がいて、家があり、暮らしてきたこの世があるの
に、これら全てを失い、全く知らない未知の世界に向かって行くということは、
心に恐れが来ないはずがありません。死んでみるとすべてのものが無になるの
だろうか。この答えには、誰も何も言うことがありません。信じない人が言う
には「死んだら何もない。体は土に帰り、霊と魂があるのかないのか知ったも
のか!だから生きている時こそ良いが、死んだら何もない。」と言います。聖
書はこのことについて、そのように語っていません。
ヘブル9章27節に「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受ける
ことが定まっているように」と語られたのです。
何もないのではありません。
Ⅱコリント4章18節に「 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこ
そ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く
からです。」
私たちに見えるこの世は、尐しの間暮らす所なのです。
朝、霧が立ちこめても太陽が昇ると消えてしまうのと同じようなものが、人生
なのです。草の露のような人生です。しかし見えないあの死の向こう側の世界
は、天国であっても地獄であっても永遠であると聖書は語っているのです。死
んだら全てのものが無になるのではないということを聖書は語っているのです。
本当に肉体が死んでも霊と魂はあるのだろうか。霊と魂を誰が見たのか。その
ような質問をします。
私が、フランスでリバイバル聖会を導く時、ある家に招待されて行ったのです
が、その息子の中の一人が、フランスのエアーフランスの操縦士で、またもう
一人は小児科の医者でした。食事を終えて、気楽な場所に座るや否や、その小
児科医が私を見ながら言うには「チョー牧師、なぜそのようなたわ言を言い歩
いているのか!死ねば霊と魂があるというそのような嘘がどこにあるのか?霊
と魂を見たことがあるのか?私は医科大学から始めて、医者になった後、数多
くの人を解剖してみたが、霊と魂を見たことがない。それなのにどんな霊と魂
の救いを受けよと言うのか?」非常に私は困りました。それで私はしばらく頭
を垂れて神様に祈りました。「聖霊様、あまりにも途方もない質問をするので
すが、どのように答えたら良いでしょうか?」稲光のように私の心の中に知恵
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が浮かびました。「あなたのお父さんから聞いた話によると、あなたは最近、
婚約したんですって?」「はい、婚約しました。」「奥さんが愛らしいです
か?」「ええ、愛らしいです。」「嘘をつかないでください。」「私がどんな
嘘をつきましたか?」「愛を見せてください。奥さんが愛らしいと言うのに、
私の目には愛が見えないのですが、あなたが愛しているのか、そうでないのか
どのように知ることができますか?」「愛?愛をどのように見せますか?愛は
見えないところにあります。」「愛が見えないように、霊と魂は見えないので
す。見えないからといってないのではありません。あなたの愛が見えなくても、
奥さんに対する愛があるでしょう。」と言うと、しょげて口を拭いています。
するとエアーフランス操縦士のお兄さんが言うには「それはそうだとしても、
私が飛行機を操縦して大西洋を渡り、太平洋を数え切れないほど渡ってみまし
たが、ひとりの天使すら飛んでいるのを見たことがありません。」それで「そ
れはあなたの目が肉に属しているので見えないのです。あなたはいつも飛行機
を空高く飛ばす時、風を見ましたか?風が見えますか?」「風は見えないです
よ。」「そうすれば風はないですか?」「なぜ風がありませんか?風はありま
すよ。それは見えませんよ。風がないと飛行機が飛べません。目に見えなくて
も風があるので、その大きな飛行機が高く飛ぶのです。」「風も見えない目を
もって、神様が見える、見えない。天使が見える、見えないと言うのですか?
あなたが新しく生まれかわって、イエス様を救い主として受け入れて、聖霊が
目を開かれれば、神様も見えるし、イエス様も見えるし、聖霊様も見えるし、
天使も見えるし、御言葉も見えるし、すべて心の目で見るのです。」本当に肉
体が死んでも霊と魂があるのでしょうか。これは身体的な感覚で霊と魂を見よ
うとしてはならないのです。神様の御言葉を通して真理を悟らなければならな
いのです。私たちを造られた神様が私たちに霊と魂があると言われればあるの
です。造られた神様がないと言われればないのです。しかし神様は、動物には
霊と魂がなくても、人には神様のかたちと姿に似せて造られた霊と魂があると
語られたので、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきで
す。空が崩れ、地がなくなっても神様の御言葉に偽りはありません。
伝道者の書12章7節に「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に
帰る。」
死ねばちりは地に帰り、霊は神様の御前に進み出るということです。
Ⅱコリント5章1節でパウロが言うには「 私たちの住まいである地上の幕屋が
こわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、
人の手によらない、天にある永遠の家です。」
私たちの霊と魂がないのに家がどうして必要でしょうか。
肉体の家を離れれば、霊と魂があるので、神様が、手によらない永遠の家を天
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に準備され、そこに入ると聖書は語っているのです。ですから肉体は死んでも
霊と魂があるのは確実なのです。
アメリカの著名な内科医モリス・ローリンズ博士は、死んで生き返った多くの
患者を病床でインタビューしたものを集めて『死の門の向こう側』という本を
出版しました。その内容を見ると、死の境界線を越えて来た人々は、共通して
死が差し迫って意識が薄れても、部屋の中の全ての様子が見え、全ての音を聞
くことができたと言います。この時、本人は肉体から抜け出て、新しい体を持
っていることを悟るのですが、その瞬間、肉体の苦しみから解放され、平和な
気持ちになり、何か新しい次元に移っていくと言います。そこで光の天使、愛
が満ち溢れる誰かに導かれて黄金のビル、水晶のように透き通った道路、麗し
い丘のような所を訪問し、聖い存在の前に立つ経験をするそうです。そうかと
いえば、ある患者たちは、底知れない暗闇の存在に引っ張られて、火の穴の中
で呻く人々に会って帰ってきたとも言います。そして彼が生前にしたすべての
事と言葉を、天使たちが裁き主の御前で一つ一つ現す神秘的な体験をしたと言
います。これは一人の医者が、数多くの患者が死んで、臨時的に死んだのです
が、奇蹟的に生き返った人々の証しを集めて書いた本なのです。死後、すべて
のものが無になるのではなく、死んだ後、必ず裁きがあるということを聖書以
外の医者が体験した事実を通しても証明しているのです。
本当に天国と地獄があるのでしょうか。皆さん、この世で生きる時も、天国と
地獄があるのです。私たちがイエス様を信じて、聖霊に満たされて、心に限り
ない喜びがある時、天国があるのです。心が楽しみで天国なのです。皆、キリ
ストを信じて家族が愛し合えば、家庭が天国なのです。しかし心に憎しみ、恨
み、怒り、嫉妬、妬みでいっぱいになり、苦しみと煩いがあるなら、生きるこ
と自体が地獄であり、耐えることができないので自殺までするのではありませ
んか。この世で生きる間、私たちの中ですでに天国と地獄を体験するのです。
ましてこの世を離れた後、次に天国と地獄がない訳がありません。
マタイ4章17節に「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い
改めなさい。天の御国が近づいたから。』」と語られました。
マルコ9章47~49節に「ゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよい
ことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えること
がありません。すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」
神様に逆らってキリストを信じず、肉体の欲に従って生きる人は、うじも尽き
ず、火も消えず、すべては火によって塩をつけられるというその何とも言えな
い地獄に行くとはっきりと語られているのです。
1899年、福音宣教師だったムーディーに死が差し迫りました。その年の12月22
日、彼の息子はムーディーが部屋で独り言を言うのを聞きました。「大地が退
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く。私の目の前に天が開いている。」息子は急いで父の部屋に走って行きまし
た。息子を見たムーディーはこのように言いました。「これは夢ではない。息
子よ、本当に麗しいんだ。本当にうっとりするよ!これが死なら、何を恐れよ
う!神様が私を呼んでおられるので、私は行かなければならない。」そしてし
ばらく意識を失いました。医者は大急ぎで応急処置をし、応急治療を受けた後、
目覚めたムーディーはこの世の外に行って来たと言って、その内容を証ししま
した。「私は天国の門の前まで行ったのだが、その所は言葉で言い表すことの
できない程、素晴らしく、麗しい所であり、子供たちにも会った。」と言いな
がら、先に行った子供たちの名前を言いました。そしてしばらくして、ムーデ
ィーは「何をもっても私をこれ以上捉えておくことはできない。馬車が部屋の
中に来ている。」と言いながら、明るい天国に向かって、安らかに息をひきと
りました。このような証しを通して私たちは死んだ後、天国と地獄があるとい
うことを確かに知ることができます。
ヘブル9章27節に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定
まっている。」
イエス・キリストが裁きの基準です。イエス様を信じる人は永遠のいのちがあ
り、イエス様を信じない人は永遠のいのちを見ることができず、神様の御怒り
にあうことになるのです。
ですからこの地に住む間、キリストが、天国行きか、地獄行きかということを
決定する要素になるのです。
死んでよみがえった人以外には、死後の世界を知りませんね。
行って来た人の話が本当の話であって、行ってみないで偉ぶって話す人の話を
どのように信じますか。
2. 死んでよみがえった人以外には 死後の世界はわからない
哲学的な論理で死を説明してもそれは詭弁です。哲学者たちは死を恐れる必要
がない。それは自然現象だ。幼子が生まれて、尐年になり、青年、中年、老年、
死ぬことが自然の現象だから死を恐れるな。そういう哲学的な詭弁を弄します
が、それは心理を操縦しているに過ぎないのです。死の哲学者、老子は一日中、
家にむしろを敷いて、太鼓をドンドンドンドンと叩きながら、はははっと豪傑
笑いをしながら歌を歌いました。「老子さん、何か良いことがありますか?」
「良いことがありますよ。」「どんな良いことがあるのですか?」「私の妻が
死んだよ。自然の法則に従って生老病死の過程を無事に過ごしたので、どれ程
良い日だろうか?だから死ぬことは自然の法則に順応することだから喜んで楽
しまなければならない。」それは詭弁です。妻が死ぬのになぜ喜ぶことがある
でしょうか。死んだ当事者は、どれほど苦しいでしょうか。宗教的などのよう
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な解説も証明できません。ある宗教では、人の死体は死んでもなくならないと
言います。例えば、水が氷になると形が変わったからといって水が消えたので
はなく、また、水が水蒸気になって雲になると形が変わったからといって水が
なくなったのではない。水としてあり、氷としてあり、雲に変わって形が変わ
っても水自体があるように、人の心は生きても死んでも変わらずそのままある。
そう言って皆さん、人が死を克服できるでしょうか。率直に言って、死んだ者
が生き返って話をするか、そうでなければ死んでみたことがないので分からな
い、そう言うのが正直で良いことであって、何が自然の法則に順応したから喜
ぼう、霊と魂は変わらなのに、水が氷になり、氷が雲になるように形は変化が
激しくても本質は変わらない、そのような話はくだらないことです。イエス様
のように正直に万人が見ている前で十字架で死に、墓に葬られ、三日目によみ
がえったその方こそが、真の話をすることができるのです。
Ⅰコリント15章3~4節に「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のた
めに死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目
によみがえられたこと、」
神様の御言葉に記録されたとおりに、主は死なれ、よみがえられたのです。
ではそれをどのように証明するのか。
イエス様のよみがえりは、あまりにも明々白々に証言することができます。
死が恐ろしくてイエス様を捨てて逃げた弟子たちが、どういうふうにイエス様
のよみがえりを伝えて殉教しましたか。イエス様が捕らえられるのを見ても、
怖気づいて逃げた弟子たちが、後にはイエス・キリストが死んでよみがえった
事実を証しするために、皆、命を捨てて血を流しました。何がその臆病者たち
を死を恐れずにこのように勇敢にさせたのでしょうか。イエス様の弟子たちは、
イエス様が死ぬのも目で直接見たし、よみがえりも直接見て、変化せざるをえ
ません。はっきりと彼らの前で十字架にかかって死に葬られ墓に入ったのに、
その方が三日目によみがえり、40日間、東に現れ、西に現れながら、彼らが集
まっている所に現れて、共に食事をされ、教えられ、祝福もされたので、いく
ら信じないでおこうとしても信じない訳にはいかないのです。あまりにも驚く
べきことなのです。死ぬのをこの目ではっきり見たのに、目の前にはっきりと
生き返り、わき腹の槍の痕を見せられ、手の甲の釘の痕を見せられ、疑うなら
触ってみなさいと言われたのに、信じない人がいるでしょうか。そこで悟った
のは「わぁ!人が死んでちりにかえってしまうのではなく、生き返るんだ。代
表的な人間としてイエス・キリストが私たちの代わりに死んで墓に入られて生
き返られたのを見ると、私たちもイエス様の中で死んで生き返るのだな。イエ
ス様が語られたとおりに、わたしを信じる者は死んでも生き、生きていてわた
しを信じる者は、決して死ぬことがないという言葉は本当の話なのだな。そう
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すれば死は何でもないのだな。恐れることは良くないことなんだな。」イエス
様の弟子たちは、全く死を気にしなくなる確実な体験をしたのです。ですから
その弟子たちは、全員、イエス様が死んでよみがえったという福音を伝えて、
捕らえられ、殉教した時、拒否せずに血を流したのです。死ぬことが光栄でし
た。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにある
のか。いくら殺してみろ。体は死んでも霊と魂は殺すことができず、私は生き
返るという確信があったためなのです。したがってはっきりと私の目の前で死
んで葬られたお方が、一日二日でもなく三日間墓にいてよみがえり、共にされ
たので信じない人がどこにいるでしょうか。それこそ正直です。イエス・キリ
ストだけが、死と生に対する証明を最も正直になさったお方なのです。哲学者
の詭弁でもなく、宗教家の説得でもないのです。体験的にイエス様は、人間の
死があるのも事実ですが、イエス・キリストを通して死を克服し、よみがえり
があるのも事実であることを見せてくださるのです。それゆえにパウロは、む
しろ肉体を離れて主のみもとにいるほうがよいと思っていると言い、願いは肉
体を離れてキリストと共にいることだと切に願ったのです。天から下ってきた
者以外には天のことを知らないとイエス様が語られました。
ヨハネ3章13節に「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者は
います。すなわち人の子です。」
皆さん、天国も行って来た人なら知っていますが、行って来なかった人がどう
して知ることができますか。
ソウルに行ったことのない人が、南大門の柱が一抱えの太さだと言い切るので
すが、南大門のどこに柱がありますか。行ったことのない人が声高に唱えるの
です。イエス様が語られたことは、天から下ってきた者以外には天に上った人
がいなかったため、わたしは天から下ってきたので天のことを語ることができ
るのです、と。私たちは聖書に天国に行って来た人の証言を明白に読むことが
できるのです。
使徒パウロは天国に行って来ました。
Ⅱコリント12章2~4節に「私はキリストにあるひとりの人を知っています。こ
の人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れて
であったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上
げられました。私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れ
てであったかは知りません。神はご存じです、──パラダイスに引き上げられ
て、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞
いたことを知っています。」
パウロがここで強調したことは、自分が天国に上った体験が、体で上がったの
か、霊と魂が体から離れて上ったのか、分別できないほど明白で確実だったと
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いうことです。
したがって死と永遠のいのちとは分別できないほど明白だということです。
インドの聖者サンダーシンが書いた本を見ると、本人が恍惚状態になって天に
上がってみると、多くの人が死んで天国に上って来たのですが、自分が死んで
上ってきたことを悟ることができないということです。なぜならば、この世と
あの世とがあまりにもはっきりしているので、死んでからきたのではなく、一
眠りして目覚めたのに、私が死ぬとはどうして死んだ。と、区別をつけること
ができないでいたと、サンダーシンがその本に記録しています。人々が考える
には、ベットに横になって深い眠りに入って目覚めたので、死んだことを知ら
ないのです。それだけ明白ですね。パウロが自ら語りましたから。私が第三の
天に引き上げられたが、肉体のままだったのか、肉体を離れてだったのか知ら
ないと、2回も繰り返して語っています。そしてパラダイスに行ってみると、
言葉では表現できない。この世に属した3次元の言葉では4次元の素晴らしい
天国を表現できない。だから全て語り尽くしました。どんなに良いでしょう。
語れない。話せないというのだから、それ以上表現することができないという
ことです。聖書に天国について様々な表現がされましたが、それがすべて比喩
であって、思いもよらぬほど素晴らしいので、とうてい言葉では想像できない
のです。皆さん、私たちの行く所がそのような所であることを知らなければな
らないのです。
使徒ヨハネもやはり証しました。
ヨハネの黙示録4章1~3節に、彼がパトモスという島に流罪された時「その後、
私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声
で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、
必ず起こる事をあなたに示そう。』たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。
天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤
めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があっ
た。」
天国は、この地とは明確に距離を置いた所にあります。なぜならば、使徒ヨハ
ネが見ると、天に開いた門があり、上ってきなさいと言われたのです。私たち
がいるこの場所が天国ではなく、私たちはここを離れて他の世界に行くのです。
パウロも第三の天に引き上げられたと言い、ヨハネも天に開いた門があり、神
様がここに上ってきなさいと言われたので、そこに上ったと言ったのです。し
たがって皆さん、私たちはこの罪悪に満ちて、死と滅びが満ちたこの世から離
れるのです。肉体の幕屋を脱ぎ、地球の重力から離れ、聖霊で上がるのです。
信じない人は聖霊がないので上ることができません。皆さん、イエス様を信じ
てから聖霊が内に臨まれるので、聖霊の恵みで上るのです。使徒ヨハネも御霊
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に感じ天に上った事実を記録したのです。
3. 私たちが死ぬ時 どのようなことが起きるだろうか?
皆さんがこのように聞くなら、私はどのように答えましょうか。「牧師先生、
私が死ぬ時、どんなことが起きるでしょうか?」死ぬ時、どんなことが起きま
すか。まず第一に、死ねばイエス様が連れに来られるのです。それは、主の約
束ですからヨハネ14章1~3節に「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神
を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあ
ります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたの
ために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場
所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのい
る所に、あなたがたをもおらせるためです。」
まだ皆さん、天国に行かないでここにいるのは、イエス様が皆さんの住まいを
整えるために時間が必要なのです。住まいが整うと連れに来られるのです。
この度、母が天国に行く時、私が病床の枕元に座って、母の手を握って「お母
さん、恐れないでください。イエス様が連れに来られます。誰もお母さんを天
国にご案内することができませんが、イエス様が連れに来られます。恐れず心
配しないでください。」母は頷き、微笑んで「本当に幸せだ。私は苦しいけど
本当に幸せだ。私は天国に行く。」何度も繰り返してそのように言うのを聞き
ました。
イエス様が連れに来られるから、私たちは心配する必要がなく、恐れる必要が
ないのです。そうするなら、イエス様が私たちをどこに連れて行かれますか。
アメリカに連れて行きますか。オーストラリアに連れて行きますか。アフリカ
に連れて行きますか。御国に連れて行くと語られました。主が十字架に付けら
れ、苦しみに遭われた時、右側に強盗、左側に強盗がいたのですが、その中の
一人の強盗が、イエス・キリストを主と認めました。
ルカ23章42~43節に「そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着
きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。
『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイス
にいます。』」
主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。この強盗はこの世の中で良い
ことをする時間的な余裕がありませんでした。釘打たれて死にかけているので
す。その歩んできた生活は、険悪な強盗生活でした。罪人の中の罪人でした。
それにもかかわらず主の御名を呼んだので、主が、今日あなたはわたしと共に
パラダイスにいます。御国は、イエス様によって行くのであり、私たちの功績
で行くのではありません。私たちの功績は髪一筋もありません。私たちは皆、
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罪を犯し、不義であり、醜く、捨てられて当然の存在なのです。大きい罪であ
れ、小さい罪であれ、イエス様の血潮で洗われ、主の御名を切に呼び求め、頼
れば、主が御国に導いてくださるのです。ですからイエス様を信じる信仰が、
極めて栄光に満ち、麗しく、聖いのは、人の行いで救いを得るのではなく、主
の御名を信じることによって救いを得るからなのです。金持ちとラザロの例の
中で、ラザロが行った所がまさにそこなのです。
ルカ16章22節に「さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハ
ムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」ハデスに落ちた
と言われました。この世の中で金持ちとして生活することと、貧しい人として
生活することとでは、世の中では違いがはっきりしています。しかし金持ちの
中にはお酒だけがいっぱいになっていて、ラザロの中には神様がおられました。
人生は70年、健康ならば80年、80年以上生きる人は、ボーナスで生きる人であ
って、100歳になる前に皆この世の中を離れるのです。富貴、栄華、功名、物
質を持って行けません。世の中で生きている間、良いことに全て使わなければ
ならないのです。御国に送金しておかなければなりません。財産を子供たちに
たくさん残しておけば、子供たちが放蕩することになり、財産を一人で全部持
っていると死んだら、もったいないことに国家所有になります。生きている間
に良いことをたくさんして、神様の御国に捧げ、良いことをたくさんすれば、
オンラインを通して御国の私の口座に直接入るので、どれほど良いことでしょ
うか。天の御国の栄光は私たちが表現することができないのです。したがって
金持ちは、世の中でしばらくの間、金持ちとして生きましたが、ハデスに行っ
てあまりにも熱いのでラザロをよこして舌を冷やすように水を一滴落としてく
ださいと言いました。柄杓一杯でもありません。コップ一杯でもありません。
たった一滴の水で舌を冷やすようにしてくれと言いましたが拒否されました。
ラザロはお金持ちの家の門前でむしろを敷いて、犬と一緒に寝起きし、貰い食
いして生活しましたが、それは過ぎ去った過去であり、天の御国の栄光の中に、
パラダイスに入って生きるようになったのです。金持ちは今も地獄で地団駄を
踏み、ラザロは今もパラダイスで楽しんでいるのです。
カリフォルニアのギルロイでは毎年『ガーリック・フェスティバル』が開かれ
るほどニンニクで有名な地方です。ガーリック・フェスティバルを開いて有名
なのですが、今はそれよりも更に有名になった赤ちゃんが産まれました。母親
のローリは、妊娠できない体だったのですが、ある年に双子を産みました。そ
の内、一人の赤ちゃんは3ヵ月半で息をひきとり、もう一人の赤ちゃんは生き
て『シャノン』と名付けました。しかしシャノンも健康ではなく、3歳過ぎに
癌であると診断され、それも癌患者の1パーセントしかかからないという生殖
細胞癌でした。シャノンは赤ちゃんでしたが、命に対する強い意志を持ってい
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て、大人も苦しむ骨髄採取検査や脊椎手術などによく耐えました。性格もまた
明るく明朗で、快活で、肯定的なので家族に希望を失わせませんでした。しか
し5歳になった年に、シャノンは生と死の間を行き来しながら、この世を離れ
る時間が来たことを知らせました。家族は子供のベッドの周りに集まって祈り、
彼女に光のトンネルに向かっていくように勇気を与えました。そうすると5歳
で死を目の前にした子供が口を開きました。大きな声で「ああ、光がとても眩
しいです。光があまりにも眩しいです。」「天使たちがあのように声を高らか
にして歌を歌っています。」心配することはありません。恐ろしくありません。
そして世を離れました。これが新聞に載って、放送で流されて、人の口を通し
て伝えられ、そしてその近所一帯ではガーリック・フェスティバルよりも、シ
ャノン・フェスティバルがなされたのです。人々に、この幼い子供が天国に行
く様子の話が広がっていきました。5歳の幼い子供が何を話しますか。作り話
をすることはできないでしょう。それどころかこの世を去る前に、泣き喚いた
りもせず突然大きな声で、どれほど光輝燦爛としていることでしょう。光が見
えます。天使たちの歌声が聞こえてきます。その後この世を去ったので、その
両親もどれほど慰めを受け、その話を聞く人々にはどれほど大きな力になるこ
とでしょうか。この幼い子供も新しいエルサレムの家に帰ったのです。
私たちの家はエルサレムにあるエルサレムではなく、天国にある新しいエルサ
レムに入ることです。
ヨハネの黙示録21章2~7節をみると「私はまた、聖なる都、新しいエルサレム
が、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から
下って来るのを見た。」
姉妹の皆さん、化粧を最も華麗にするのはいつですか。お嫁入りする時だった
でしょう。その時はお化粧をしないところがありません。ある力を全て尽くし
て麗しく化粧します。ですから花嫁が一番美しいですね。表現することができ
ないので、私たちが生きる新しいエルサレムは花嫁が新郎のために整えられる
ように麗しいと語ったのです。
「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の
幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、
神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくだ
さる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のもの
が、もはや過ぎ去ったからである。』」
涙、心配、嘆き、苦難がすべて過ぎ去って、喜びと希望と愛の源であられる神
様が共におられるのでどれほど素晴らしいことでしょうか。
「すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを
新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきも
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のであり、真実である。』また言われた。『事は成就した。わたしはアルファ
であり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、い
のちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続
する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。』」
勝利するということは、イエス様を信じることが勝利するのです。なぜならば、
聖書には、私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利だとあるからです。イ
エス様を信じる皆さんは、死と永遠の裁きに勝ちました。信仰以外には勝てる
者がいません。私たちの力で勝ったのではありません。イエス様が私たちに代
わって勝つようにしてくださったので、その利得を得たのです。イエス様を信
じれば私たちは勝ちます。罪と死に勝ち、悪魔に勝ち、地獄に勝つのです。勝
つ者は、イエス様を信じる者は、神様のこの栄光に満ちた賜物を頂くのです。
<結論>
Ⅰコリント15章12~20節を共に声を出して読みましょう。
「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのな
ら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいる
のですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでし
ょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のな
いものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころ
か、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もし
もかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかった
はずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証
言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえ
らなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あ
なたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるので
す。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、
私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠
った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
ハレルヤ!神様が人として来られ、人の新しい先祖となられたイエス・キリス
トが、代表的として死なれ、葬られ、よみがえられたことで、死とハデスにす
べて勝たれたので、今は、キリストを通せば天国が私たちの前に確固としてい
るのです。私が道です。天の御国に行けば私が真理です。偽りではなく真実な
のです。私がいのちです。イエス・キリストだけが私たちに永遠のいのちを与
えてくださるのです。道を受け入れ、真理を受け入れ、いのちを受け入れて生
きるなら、イエス様の中で天の御国が私たちのものになり、天の門が大きく開
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いていて、明るいその道を歩いて行くことができるのです。最初もイエス様、
二番目もイエス様、三番目もイエス・キリストを中心として生きなければなら
ないのです。 皆さん、この世で最も尊く麗しい宝物が何でしょうか。心の中
におられるイエス様なのです。お金も離れて行きます。地位も離れて行きます。
名誉も離れて行きます。きれいな私たちの容姿も全て枯れるのです。ただ離れ
て行かれないお方は、イエス様だけなのです。イエス様だけをつかまえてくだ
さい。イエス様だけに頼ってください。地上から天国まで私たちを懐に抱いて
導いてくださるお方は、イエス様なのです。
<祈り>
全能なる父なる神様。人が一度生まれて死ぬことは定められた筋道です。あな
たも死んで、私も死んで、みんな死にます。しかしイエス様を信じる人々は、
キリストの中で大きな恵みを受けて、約束を得たので、恐れません。恐れを克
服することができます。主が死なれてよみがえられたことを信じるので、私た
ちもキリストの中でよみがえったということを知っています。私たちの前に近
づいてくるのは、地獄ではなく天国であり、絶望ではなく希望であり、悲しみ
ではなく喜びであることを知っているので感謝します。これをもって私たちが
心に慰めを受けて、強く大胆な信仰を持って天国に向かって毎日のように出て
行く私たちになるように助けてください。イエス様の御名でお祈りいたします。
アーメン。
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