第10巻第2号 2010年5月 - 15年戦争と日本の医学医療研究会

Vol. 10 No.2 ISSN 1346 – 0463
May, 2010
Journal of Research Society for
15 years War and Japanese Medical Science and Service
15年戦争と日本の医学医療
15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌
第10巻・第
10巻・第2
巻・第2号
2010
2010年
10年5月
目
次
日中戦争期の日本軍による細菌戦と朝鮮戦争期の米軍による
細菌戦の類似性・連続性について・・・・・・・松村高夫
空襲時精神病―植松七九郎・鹽入圓祐の資料から―・・・・・・・・・・
岡田 靖雄
『陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部』の分析(その四)
山中太木論文の出自及び 1644 部隊での人体実験・・・・・・・・・・・・・莇 昭三
第 7 次訪中調査団報告 2009 年 9 月 17 日~23 日・・・・・・・・・・・・ 第 7 次訪中調査団
15
19
報告
15 年戦争と日本の医学医療研究会会務総会(第 11 回)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌に掲載の著作についてのお願い ・・・・・・・・・・・・
本誌に掲載された論文等の扱い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
66
74
74
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
投稿規程・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
75
75
1
10
Contents
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・MATSUMURA Takao
1
Air Attack Psychosis: as based on original investigation materials by Uematsu Shichikurō and Shioiri En-yū
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・OKADA Yasuo
10
“Rikugun Gun-igakko Boeki Kenkyu Hokoku-IIbu”-(4)
Yamanaka’s Papers and Medical Experimentation on living persons at Unit 1644.・・・AZAMI Shozo
15
Report of the 7th delegate to China from the Research Society for the 15 years War and Japanese Medical
19
Science and Service ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Information
Report of the 11th Assembly of the Research Society
for the 15 years War and Japanese Medical Science and Service ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15年戦争と日本の医学医療研究会
15年戦争と日本の医学医療研究会
Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service
66
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
第 27 回研究会記念講演
日中戦争期の日本軍による細菌戦と朝鮮戦争期の
米軍による細菌戦の類似性・連続性について
松村高夫
慶應義塾大学名誉教授
The Background of Unit 731 in the History of Department of Pathology, Kyoto University
SUGIYAMA Taketoshi
Former Professor of Kyoto University, Emeritus Professor of Kobe University, Pathologist
キーワード Keywords: 石井四郎 Shiro Ishii, 石井部隊 Ishii corps、731 部隊 Unit 731、清野謙次 Kenji Kiyono、
、
岡本耕造 Kozo Okamoto、生体実験 Medical experimentation on living persons
県 、寧波、金華への細菌撒布については、李力「浙
江・江西細菌作戦ー1940~44 年」松村高夫・解学
詩・郭洪茂・李力・江田いづみ・江田憲治『戦争と
疫病-七三一部隊のもたらしたもの』本の友社、
1997 年、第 4 章を参照されたい。
)
このように寧波と衢州ではペスト感染ノミを、金華
ではペスト生菌を投下しているが、これは両者の効
果を比較するためであっただろう。ペスト感染ノミ
は七三一部隊の独自の発明であり、私が 1942 年か
ら 46 年まで中英文化交流で中国に滞在していたジ
ョセフ・ニーダム Joseph Needham にイギリス・ケ
ンブリッジのニーダム研究所でインタヴュー(1992
年 3 月)したときに、91 歳のニーダム(1994 年に逝
去)は、
「生菌を空中から投下したばあい地上に着く
までに死滅するというのが当時の世界の生物学界の
常識だった。ペスト感染ノミを投下することは予測
できなかった」と語った。
I 日中戦争期の日本軍による中国での細菌撒布
1 浙江省への細菌撒布(1941
浙江省への細菌撒布(1941 年)
防疫給水部は、ハルビン郊外・平房の七三一部隊
(関東軍防疫給水部)だけでなく、中国各地につく
られ、中国全土に網の目のような細菌戦態勢があっ
た。1940 年までに、北京の北支那防疫給水部(甲
1855 部隊)
、南京の中支那防疫給水部(栄 1644 部
隊・多摩部隊)
,広東の南支那防疫給水部 (波 8604
部隊)がつくられ、1942 年にはシンガポールにも部
隊(岡 9420 部隊)がつくられ、それぞれが数支部
をもっていた。これらの部隊はそれぞれ日本軍の支
那(あるいは南方)派遣軍の指揮下にあり、七三一
部隊との人的・組織的連携の下で、人体実験を含め
た細菌戦のための研究が行われた。それら各地の防
疫給水部のなかには、七三一部隊で製造された細菌
を中国十数都市に撒布する拠点基地の役割を果すも
のもあった。
まず、ノモンハン事件(1939 年 5 月 11 日~9 月
15 日の 4 ヶ月間)の起ったときに、39 年 8 月、七
三一部隊から碇少佐たちがハルハ河でチフス菌を撒
布した(篠塚良雄の証言あり)
。翌 1940 年秋には浙
江省の諸都市にペスト菌が撒布された。10 月 4 日、
衢州(衢県)に日本軍機がペスト感染ノミを投下し
ペストを流行させたが、同年 12 月 7 日に流行は一
時終息するものの,2 次 3 次感染により被害は拡大
し、防疫のため医師・ポリッツアーが派遣された。
ようやく翌 41 年 12 月にペスト流行は終息するが、
衢州県城と周辺農村の死者は 1500 人以上を数えた
(医師・邱明軒の推計)
。つづいて 40 年 10 月 27 日、
寧波に日本軍機がペスト感染ノミを小麦の粒ととも
に投下し、
ペスト流行は 12 月 2 日までつづいたが、
一ヶ月余の間に 109 人が死亡した。同年 11 月 27・
28 日には金華に
に日本軍機がペスト生菌を投下した。
この時は生菌であるため地上に落下するまでにペス
ト菌が死滅し、ペストは流行しなかった。
(以上の 衢
2 農安・新京のペスト流行(1940
農安・新京のペスト流行(1940 年)
この浙江省でのペスト菌撒布のあと、1 年のブラ
ンクの後、1941 年 11 月に湖南省の常徳に日本軍機
からペスト菌を投下している。なぜこの 1 年間のブ
ランクがあったのだろうか。その問いに答えるため
には、農安・新京ペスト流行(1940 年)を考察する必
要があろう。
農安では 1940 年 6 月に発生したペストにより、
353 名が死亡したことが記録されている。同年 9 月
下旬には「満州国」の首都新京(現在の長春)でもペ
スト発生した。この新京ペストは石井部隊の細菌撒
布によって意図的に引き起こされたのか、それとも
農安から伝播してきたのかについては異なった見解
がある(農安・新京ペストについては、解学詩「新京
ペスト謀略-1940 年」『戦争と疫病』第 3 章を参照
されたい。解は、七三一部隊による謀略説を採って
いる)。いずれにせよ同年 10 年 7 日に新京に現われ
連絡先:〒158-0083 東京都世田谷区奥沢 7-28-2
Address: 7-28-2, Okusawa, Setagaya-ku, Tokyo, 158-0083, Japan
E-mail address: [email protected]
-1-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
た七三一部隊は、「関東軍臨時ペスト防疫隊」として
活動する。この防疫隊の本部長は石井四郎、他に満
州国、満鉄の要人が本部を形成し、同年 11 月 7 日
に新京から平房へ撤退するまで 1 ヶ月間新京に滞在
した(この防疫活動については、中国吉林省档案館・
日本近現代史研究会・日本 ABC 企画委員会他編『「七
三一部隊」罪行鉄証―特移扱・防疫文書編集』吉林人
民出版社( 日本語版、中国語版)2003 年が第 1 次
資料を復刻している。そこに付せられた「新京・農
安ペスト流行・解説」
(松村、江田(い)共同執筆)
も参照されたい。
)満鉄が派遣した医師は 145 人、
満州医大学生も 147 人が新京に派遣された。小川武
満(後の平和遺族会会長)もその医学生の一人であっ
た(小川には解学詩、吉見義明、松村が、1995 年 7
月ハルビンでインタヴューした)。
七三一部隊が新京・農安に出動して防疫活動をし
たのは、浙江省における細菌作戦から眼をそらすた
めの陽動作戦だっただけではない。石井部隊は防疫
活動のなかで新たなペスト菌株を得たのである。新
京で 78 体、農安で 48 体のペスト死亡者を解剖し、
ペスト菌検索を行ない、死体から各臓器を採りプレ
パラートにして平房に持ち帰った.
「屍体ノ全身解剖
ヲ行ヒ淋巴腺、各内臓器及所要ノ箇所ニ就テ菌検索
ヲ行ツタ」124 体のうち、検鏡試験、培養試験、動
物試験、臓器熱沈降反応試験の結果、58 体がペスト
による死亡と判明した。隔離病舎に収容された患者
(新京 7 人、農安 9 人)
からもペスト菌検出をやった。
ペスト菌株については農安と新京で死体と患者の双
方から 71 株を分離・培養している。ほかに鼠から
29 株など合計 110 株のペスト菌を分離・培養してい
る。
さらに、七三一部隊ペスト班長・高橋正彦がそれ
らの資料を分析し、鼠とノミがペスト菌を媒介し、
人ペストを引きおこすというペスト発生と伝播のメ
カニズムを認定した。
「高橋正彦ペスト菌報告書」は、
下水溝のノミ、鼠の有菌性を地域ごとに詳しく調べ、
感染経路を探求し、新京ではドブ鼠 1 万 3644 匹の
うち 63 匹(0.46%)が有菌、他の鼠は無菌、農安
では 325 匹のうち 9 匹(2.8%)が有菌であり、
「ド
ブネズミ間ノ病毒ガ人ペストノ直接ノ伝染源トナッ
タ。」「蚤ヲ介シテ人ニ伝播サレタモノ」と結論づけ
ている。 (松村高夫「新京・農安ペスト流行」
(1940
年)と七三一部隊」
(上)
(下)、
『三田学会雑誌』95-4、
96-3、2003 年 1 月、同年 10 月は、高橋正彦『昭和
15 年農安及新京ニ発生セルペスト流行ニ就テ』第 1
編~第 5 編(陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部第 514,
515, 525, 526, 537, 538 号, 1943 年を扱っている。
なお、.莇昭三「
『陸軍軍医学校防疫研究報告 II 部』
の分析(その三)研究報告中の「ペスト」関連研究
論文について」
『15 年戦争と日本の医学医療研究会
会誌』10-1, 2009 年 10 月を参照されたい。
) 1990
年NHK取材班が発見したダグウェイ文書のQ報告
(The Report of “Q”)は、この農安・新京ペストの報
告書であり、臓器毎のプレパラートの模型図が付い
ているもので、戦後、高橋正彦がその英文報告書の
作成に協力した(後に詳述)。
- 2-
寧波、衢州では、飛行機からペスト感染ノミを穀
物とともに撒布したが、かなり拡散して地上に届い
ている。次の常徳の投下まで 1 年間のブランクがあ
るが、その間に新京・農安の調査を通してペストの
発生と伝播、獲得した多数のペスト菌株の培養、ペ
スト菌感染による臓器の分析を行ない、その後常徳
に投下したものと考えられる。常徳では飛行機から
のペスト感染ノミの撒布は、穀物や布なども一緒に
投下したためノミが分散せずに地上に届いている。
一緒に投下した穀物に地場の鼠が食べにきてそれに
ペスト感染ノミがたかり、感染した鼠とノミを媒介
としてペストがしだいに町全体に広がり人ペストが
発症するというメカニズムは、新京・農安のペスト
流行調査で明らかになったことの応用である。40 年
秋に浙江省で細菌を撒布してから 1 年間どこにも撒
布した形跡がないのは、その間に新京ペスト流行を
通して研究し、ペスト菌媒介生物の有効性に確信を
得るに至ったからであろう。
3 常徳への細菌撒布とアメリカの対応(1941
常徳への細菌撒布とアメリカの対応(1941 年-45
年-45
年)
常徳へのペスト菌撒布については、日本側の史料
も防疫活動をした中国側の史料も比較的よく残され
ている。井本熊男日誌によると、井本は 1941 年 8
月 11 日に南京に到着。杉本参謀の指示により、9 月
16 日に常徳細菌撒布の作戦発動を命じた。作戦指揮
は、41 年 7 月に南京の 1644 部隊長に着任したばか
りの大田澄(七三一部隊第 2 部実戦研究部部長)がと
り、七三一部隊から 40~50 人が派遣され、作戦参加
者は約 100 人であった。11 月 4 日、七三一部隊の航
空班増田美保が 97 式軽爆撃機を操縦して常徳に朝
6 時 50 分に到着した。井本日誌には、
「霧深シH[高
度]ヲ落シテ捜索、H800 附近ニ層雲アリシ為 1000
m以下ニテ実施ス 増田少佐操縦、片方ノ開函不十
分、洞庭湖上ニ函ヲ落ス。アワ 36kg、其後島村参謀
捜索シアリ」(支那派遣軍参謀長長尾正夫から井本宛
報告、1941 年 11 月 25 日付)とある。アワはペス
ト感染ノミの符牒である。島村参謀は「11 月 20 日
頃猛烈ナル『ペスト』流行、各戦区ヨリ衛生材料ヲ
収集シアリ。 判決 命中スレハ発病ハ確実」と報
告している。また、同年 12 月 2 日には、支那派遣
軍高級参謀の宮野正年が井本宛に「常徳ヲ中心トス
ル湖南ニテハ『ペスト』猖ケツヲ極メアリ」と報告
している(井本日誌は吉見義明・伊香俊哉『七三一
部隊と天皇・陸軍中央』岩波書店、1995 年、28-
34 頁)。
他方、川島清(七三一第 4 部細菌製造部長)はハバ
ロフスク裁判(1949 年 12 月)で、大田大佐が「私
ニ中国中部洞庭湖近辺ニアル常徳附近一帯ニ飛行機
カラ中国人ニ対シテペスト蚤ヲ投下シタ事ニツイテ
語リマシタ。
・・・其ノ後大田大佐ハ、私ノ臨席ノ下
ニ第七三一部隊長石井ニ、常徳市附近一帯ニ第七三
一部隊ガ飛行機カラペスト蚤ヲ投下シタ事及ビ此ノ
結果ペスト伝染病ガ発生シ、若干ノペスト患者ガ出
タトイウ事ニ関シテ報告シマシタガ、
・・・」と証言
している(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』外国
図書出版所(モスクワ) 、1950 年、308-309 頁、1949
年 12 月 25 日)。また、ハバロフスク裁判主任医学
鑑定人のジューコフ・ヴェレジュニコフは、同裁判
の鑑定書の中で、常徳への細菌攻撃について、1941
年に七三一部隊から前年の寧波への細菌攻撃と「同
様ノ派遣隊ガ常徳市方面ニ派遣サレ、該方面ヲ飛行
機雨下ニヨリ、ペスト蚤ヲ以テ汚染シタ。此ノ派遣
隊ノ工作ハ、前回[寧波]ニ劣ラズ、危険ナモノデア
ッタ」(同上『ハバロフスク公判書類』, 537 頁)と
書いている。
常徳への細菌投下とその影響は、ほぼ次のような
経過を辿った。
(以下の常徳への細菌投下について、
詳しくは松村高夫「湖南常徳細菌作戦ー1941 年」
『戦
争と疫病』第 5 章を参照されたい。
)1941 年 11 月 4
日早朝、日本軍機が一機、濃霧に包まれていて常徳
県城を低空飛行し、穀物、綿紙、生体不明な顆粒物
を投下した。投下地点は県城の中心の関廟街、鶏鵝
巷と東門付近であった。午後 5 時警報が解除される
と、その投下物の一部は収集され、検査のために東
門のはずれにある長老派宣教病院(広徳病院)に送
られた。医師・譚学華と検査技師・汪正宇が顕微鏡
で検査した。(譚学華は、「湖南常徳ペスト発見の経
過」
『湘雅医学院』1942 年 3 月など 4 点の記録を残
している。汪正宇は、
「常徳で最初の敵機投下物の検
査経過」
『医技通迅』1942 年 12 月を残している。 そ
の日本語訳は、松村高夫編『<論争>七三一部隊』
増補版、晩聲社、1997 年に収録されている。 汪正
宇の江田(い)によるインタヴュー(1996 年 12 月
26 日)も同書 増補版に収録されている。
)ノミは
穀物からは見つからなかった。穀物類のサンプルは
殺菌された塩水で洗浄、遠心分離され、沈殿物から
塗沫標本がつくられた。これらの塗沫標本はグラム
染色法で着色されたときグラム陽性の桿菌と、極少
数の両端が着色したグラム陰性桿菌を示した。この
両端着色はペスト菌の特徴であり、1996 年 12 月に
常徳を訪問した我々調査団に、存命だった汪正宇は
当時顕微鏡でみえた両端が着色したペスト菌の図を
描いてくれた。
細菌撒布がなされた翌朝、11 月 5 日、常徳県衛生
院、防護団、国民党軍警期間、広徳病院の会合が開
かれ、その席上、譚学華は、ペスト菌が撒布された
疑いが極めて大きいので、防疫手段が直ちに取られ
なければならない、との意見を表明し、1)日本の
飛行機から投下された穀類を収集し、焼却されねば
ならない。2)ペストの専門家を要請する電報を省
政府に打たねばならない。3)ペスト防疫手段を拡
大しなければならない。4)ペスト患者用の隔離病
院を準備しなければならない、と進言した。これは
驚くほど的確な判断であり、対策の提案であった。
その提案は来陽省衛生処に伝達されたが、省は事態
を的確に把握できず、そのため何の対応もなされな
かった。初動防疫活動は遅れたのである。
そして、ペスト患者がではじめる。投下地点の関
廟街に住む 12 歳の少女・蔡桃児が広徳病院に連れ
てこられたのが 11 月 12 日。前夜突然悪寒と発熱が
-3-
始まっていた。蔡桃児は発病から 36 時間後に死亡
し、譚学華らが解剖した。13 日と 14 日には 3 名の
ペスト患者が死亡し、死後解剖された。そのなかの
4 人目の患者は 13 日に死亡したが、生前に病院に運
ばれた者ではない。民衆はペストで死亡した者を密
かに埋葬しようとしたが、これは偶然、死亡した翌
日 14 日早朝、紅十字の医師ケント隊長が、移動中
の棺を徳山
(常徳県城南 5 キロ)の路上で停止させ、
ペストの疑いがあるので棺を開いて検査した例であ
る。その死体を解剖した結果、肝臓と脾臓から採取
した塗沫標本の染色検査でペスト菌が見つかったも
のである。街頭で死亡した例が報告され、噂が常徳
県城内に広がり始めた。再び電報が省衛生処に打た
れ、ペスト専門家が派遣されることになった。陳文
貴が命を受けて湖南常徳ペスト調査隊を組織し、貴
州省貴陽を出発したのが 11 月 20 日、常徳に到着し
たのが同月 24 日であった。陳文貴は、1936 年、国
連衛生部の招きでインドのハッフキン研究所に行き
ペストを研究した細菌学者であり、当時は中国軍政
戦時衛生要員訓練総所検査学班主任であり、紅十字
会総会救護総隊部検査医学指導員であった。一行は
インドで使用されぺスト特効薬として効果を挙げて
いたサルファチアゾールを携行した。
陳文貴一行が常徳に到着した 11 月 24 日夜 8 時頃、
6 番目の患者が死亡した。翌日陳文貴が、東門外の
徐という地主の家屋を改築した隔離病院でその死体
を解剖し、細菌培養、動物接種などの実験を行ない、
その結果、患者は真性腺ペストにかかり、ペスト菌
の引き起こして敗血性感染によって死亡したことが
証明された。そして陳文貴たちは、それ以前に死亡
した 5 人の臨床記録を検討した結果、いずれも擬似
腺ペストであるとの結論に達したのである。その後
ペスト患者が発生しなかったので、陳文貴たちは 12
月 2 日に常徳を離れ、同月 6 日に貴陽に戻っている。
そのさい研究用として染色標本プレパラート、ペス
トで死亡した患者から培養したペスト菌の純菌種、
飛行機から投下された穀類などを持ち帰り分析した。
そして、12 月 12 日付で「陳文貴報告書」を軍政部
戦時衛生要員訓練総所主任・林可勝宛に提出した。
最初にペスト患者が広徳病院に連れてこられたから
ちょうど 1 ヶ月が経っていた。後述するように、こ
の「陳文貴報告書」は朝鮮戦争時の細菌戦調査でニ
ーダムが重視することになるもので、
「ニーダム報告
書 」 で は こ の 「 陳文 貴 報告 書 」 を 収 録 し てい る
(Appendix K,)。ニーダム調査団はピョンヤンにい
た陳文貴に面会し、聞き取りから日本軍による中国
での細菌兵器使用と米軍による中国・朝鮮に対する
細菌兵器使用との共通性の指摘を得ることになるの
である(後に詳述)。
「陳文貴報告書」の結論は、1)1941 年 11 月 11
日から 24 日にかけて、常徳では確かに腺ペストが
流行した、2)ペストの伝染源は、敵機[日本軍の
飛行機]が 11 月 4 日朝に投下したペスト伝染物体
のなかのペスト伝染性をもつノミである、という 2
点に集約されている。陳がペスト流行は終焉したと
みなして、12 月 2 日に常徳を離れたのは誤算であっ
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
た。陳に代わってポリッツアーが常徳に到着したの
は、1941 年 12 月 21 日。ポリッツアーは以後、約 1
年間常徳にとどまり、献身的にペスト流行阻止のた
めに活動をすることになる。ポリッツアーは到着後
すぐにペスト流行が日本軍による細菌撒布が引き起
こしたと確信し、12 月 30 日には金宝善衛生署所長
に報告書を提出している。
「ポリッツアー報告書」は
明らかに「陳文貴報告書」を基礎とし、その内容も
類似しているが、異なる点も加えられている。加え
られたなかで重要な点は、ペストの直接感染経路の
解明であろう。3 つの感染経路のうち、ペスト感染
ノミの投下により、投下した穀物に誘われてネズミ
類が近づき、ペスト感染ノミがネズミに移り、ネズ
ミの間でペストを流行させ、それが人間に及ぶとし
て 3 つの経路のうち第 2 の経路の重要性を指摘し、
それまで行なわれなかったネズミの保菌調査を行な
った。(第 2 の経路は陳報告では否定的に捉えられ
ていた。
)その結果保菌ネズミが多数発見され、その
数は月を追って増加していったので、ポリッツアー
は第 2 次感染が起こる危険性を指摘したが、何の対
策もとられず、実際に翌年 3 月末から 2 次感染が起
こった。第 2 次感染(42 年 3~7 月)によるペスト
死者は 31 人(王詩恒「常徳におけるペストとその制
御の諸方法に関する報告」
、1942 年 7 月 20 日)を
数え、細菌投下後、
流行終焉までに 1 年間かかった。
常徳の当時の公式の犠牲者は 42 人でその氏名の
リストが残っている。だが、この数値は病院や隔離
病院で死亡した者のみの数値であり、現実にはペス
ト患者の家はそれとわかると地方当局により家を焼
かれるので、遺族はそれを恐れて密かに死者を埋葬
したため、実際の犠牲者の数ははるかに多い。加え
て、死者のでた家の家族は感染したまま周辺地域に
逃げるため 2 次 3 次・多数次感染を引きおこした。
最近の調査や研究では、常徳と近隣地域を含めると
7000 名以上の犠牲者がでていることが明らかにな
っている(常徳:侵華日軍七三一部隊細菌戦受害調
査委員会『中国湖南常徳侵華日軍 731 部隊細菌戦受
害者及遺属 名冊第一冊(1998 年 12 月)、第2冊
(1997 年 11 月 4 日);聶莉莉『中国民衆の戦争記憶
ー日本軍の細菌戦による傷跡』明石書店、2006 年)。
日本の細菌撒布に対する連合国の反応は、中国の
訴えを否定するものだった。イギリスのポートン生
物化学兵器研究所に前述した「陳文貴報告書」(1941
年 12 月 12 日作成)が、着いたのが 1942 年 3 月 21
日。2 日後の 23 日に分析結果がでたが、それは、常
徳への日本軍の飛行機からの投下物があったことと
ペストが発生したことは認めるが、両者の間の因果
関係は証明されない、とするものだった(のちには
飛行機からの投下物そのものも疑問視している)
。こ
の分析の特徴は、
「陳文貴報告書」のなかに記された、
常徳の死亡率統計がない、ペストが流行した常徳の
中心部の「街路は狭く不潔である」との部分を引用
して、ペストの自然発生を否定できないとした点に
ある。さらに、同年 3 月 31 日には、中国の金宝善
衛生署署長が、常徳も含めた 5 つの細菌投下の事例
- 4-
を報告し、連合国に訴え、4 月 6 日には中国外交部
は金宝善報告にもとづき、正式にイギリス政府宛に、
「連合国の協同の奮闘による日本軍国主義の敗北に
よってのみ、かような虐殺と野蛮を止められる」と
言明した。金宝善報告は、常徳に関しては陳文貴と
ポリッツアーの文書にもとづいている。だが、ポー
トン研究所はフィルズ博士が中心となって分析した
結果、金宝善報告を信用できないとした。アメリカ
も同様に、中国外交部からの金宝善報告を信用しな
かった。
しかしアメリカ本国の細菌戦研究は、日本の常徳
への細菌攻撃を契機として大規模に開始されたこと
は注目されなければならない。アメリカが細菌戦研
究のために「戦争研究軍務委員会」(WRSC)を創設
したのは 1941 年末であり、同委員会は「かような
[細菌]戦争の可能性をあらゆる視角から研究し、
その効果を減少させるためにあらゆる準備を
し、
・・・」とする報告書を提出したのが、翌 42 年
2 月であった。この勧告にもとづいて 42 年夏には連
邦機関のもとに「戦争研究部」(WRS)ができ、さ
らに翌 43 年にはキャンプ・デトリックとカリフォ
ルニア大学の 2 ヶ所で大規模な研究計画が始まった。
キャンプ・デトリックはセオドア・ローズベリーの
指導の下に「化学戦部」をおき、細菌兵器の生産の
ために施設を拡充した。44 年にはミシシッピー州の
ホーン・アイランド、ユタ州のダグウェイ実験場な
ど数ヶ所の基地が細菌戦研究のために開設された。
43 年末までに「化学戦部」は炭疽菌とポツリヌス菌
の小型爆弾を開発した(Barton J. Bernstein, America's
Biological Warfare Program in the Second World War,
Journal of Strategic Studies, vol. II, no.3, September
1988)。
このアメリカの「化学戦部」が 1945 年 5 月 28・
29 日に常徳を訪れ、41 年の日本軍のペスト菌投下
について調査している。その報告書は「華中-湖南
常徳における日本の細菌兵器使用」と題され、報告
者は J・R・ギデスである。調査団はとトーテルから
聞き取りをしている。トーテルは長老派病院の院長
だったが、日本軍が細菌を投下したときには常徳を
離れて一時アメリカに帰国していた。調査団は、譚
学華が「事実を調査した最初の人物であり、ペスト
流行以前もその間もその後も常徳に居住しており」、
ペスト細菌撒布に関する「第 1 次情報源」であると
して重視し、次のように記している。「1941 年 11
月 4 日、常徳に日本の飛行機一機が米穀類を投下し
たが、そのサンプルは収集され、病院でその医師[譚
学華]が検査した。その米穀類からバクテリアが発
見され、それは形態上はペスト菌に特徴的なもので
あり、着色も特徴的であった。数日以内に常徳のネ
ズミが多数死に、ペストの人間の症例が現れた。人
間の犠牲者がペストであるという完全な診断は、常
徳の長老派宣教病院で行なわれた。1941 年以前に常
徳近隣でペストが発生したことはなかった。」
(譚学
華が検査した内容と米調査団に語った内容の詳細は、
松村「湖南常徳細菌作戦」、234-235 頁を参照された
い。)調査報告はつづけて、
「米穀類の投下以前には
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
当地でペストが発生していないこと、ペストに形態
学上類似している細菌の表示、譚博士のペスト流行
の予測と米穀類投下 7 日目後のペスト患者(複数)の
出現、これらはその症例の信憑性を実証している。
これは日本が細菌兵器を使用した、現在まで中国で
得られた最強の証拠である。これは真実の症例であ
るように思われるが、おそらくは実験的施行(an
experimental trial)であったろう。というのは、これら
の戦術はその後観察されていないし、報告もされて
いないからである」とコメントしている。そして、
「日本が 1941 年 11 月に 常徳でペスト菌を含んだ
米穀類を使ってペストを拡大させた可能性は、きわ
めて大きいと信じられる」と結論している(JJCA
China report (A Subject:Japanese Use of BW at
CHAGTEH, Hunan Province), from J.R.Giddes to
Harold Pride, 1945・6・28. )。
II 朝鮮戦争期の米軍による細菌戦
1 アメリカによる七三一部隊・細菌戦資料の独占
(1945 年―47 年)
戦後 1945 年から 47 年にかけてアメリカは 4 回調
査団を日本に送ったが、いずれの調査もマッカーサ
ーとウィロビーの全面的協力のもとで実施され、そ
れぞれ調査報告書はペンタゴン宛に提出されている。
即ち、
「サンダース・レポート」
(1945 年 11 月 1 日
付)、
「トンプソン・レポート」
(1946 年 5 月 31 日
付)、
「フェル・レポート]
([総論」のみ、1947 年 6
月 20 日付)、
「ヒル・レポート」(1947 年 12 月 12
日付)であり、第 3 次レポート以外は、総論と各論
が残されている。最初の 2 つの調査(サンダースと
トンプソン)では七三一部隊員は口裏をあわせて人
体実験をしたことは供述しなかったので、人体実験
のことは記されていない。人体実験のことが記され
るようになったのはフェルとヒルのレポートである。
(アメリカの 4 次にわたる報告書については、森村
誠一『新版・続 悪魔の飽食』改訂版、角川文庫、
1991 年に付された「解説」
(松村執筆)を参照され
たい。)
サンダースとトンプソン調査団が収集した七三一
部隊関連資料は未だアメリカに送られてはいない。
フェル調査団が 47 年 4 月に来日し、フェルとG2
のマッカイル大佐が亀井貫一郎(4 月 24 日)や大田
澄(5 月 10 日)
、菊池斉(5 月 1・2・5 日)
、石井四
郎(5 月 8・9 日)など七三一幹部を訊問したが、そ
の背景では部隊幹部を戦犯免責する代わりに人体実
験を含む細菌戦関連の第 1 次資料をアメリカが根こ
そぎ入手する方針が決定される過程が進行していた。
フェル・レポートがペンタゴンに提出されたのは 47
年 6 月 20 日であるが、七三一部隊の標本や印刷物
などが GHQ のG2 のマッカイル大佐により船積み
され、47 年 6 月下旬には「非常によい状態で」アメ
リカに到着した(1947 年 6 月 24 日付フェルから参謀
副長宛て文書)。その標本作製にあたった日本人の病
理学者を呼んで英文報告書を作成させている。だか
らフェル・レポートには、
「細菌戦の各種病原体によ
る 200 人以上の症例から作成された顕微鏡標本が約
-5-
8000 枚があり」その英文のレポートを作成中である
と記されている。また、
「中国の市民と兵士に対して
12 回の野外実験を行なった。その要約と関連した町
村の地図が提出された」とあり、人体実験したペス
ト菌や炭疽菌、コレラ、馬鼻疽、流行性出血熱のデ
ータを得ていることも記されている。
(フェル・レポ
ート総論の日本語訳は松村編『<論争>七三一部隊
に,資料 2 として収録されている。
)
さらに第 4 次のヒル・レポート(1947 年 12 月 12
日付)(総論)には、「ペスト plague180 例(うち適切な
標本 42 例)、流行性ペスト 66 例(うち適切な標本
64 例)」とある。このなかの「流行性ペスト plague
epidemic」66 例こそ、前述した新京・農安のペストで
七三一部隊が獲得した標本である。ヒル・レポート
は、
「現在その標本の復元、標本の顕微鏡撮影、そし
て各標本の内容、実験上の説明、個別の病歴を示す、
英文の完全なレポートを準備している」と書いてい
る。
(ヒル・レポート(総論)も、松村編『<論争>
七三一部隊』に,資料 2 として収録されている。
)
前に示唆したように、その「英文の完全なレポートこ
そが、1991 年アメリカ・ユタ州のダグウェイ実験場
で NHK により発見された「ダグウェイ文書」に他な
らない。
「ダグウェイ文書」は、3 種類、すなわち、G 報告
(glanders の報告)
、 A 報告(炭疽 anthrax の報告)
、Q
報告(流行性ペスト plague epidemic の報告)である。
いずれも実戦上有効な兵器と考えられたので、それ
ぞれ数百頁の詳しいものを作成している。700 頁以
上の Q 報告に詳細に記されているのは 57 例であ
るが、この 57 例は、前述した新京・農安で七三一
部隊が解剖した 124 体のうちペストで死亡したと認
定した 57 体に対応しており、英文の個人名イニシ
ャルは七三一部隊が報告した患者のフルネームと一
致する。英文報告書は、農安から新京にペストが侵
入したとの見解を示しているが、これも、感染経路
と伝染経路について「ペスト流行地域(農安方面)ヨ
リ直接に[新京ノ]三角地域に搬入セラレ」たとす
る前出の高橋正彦報告によるものである。英文報告
書は高橋報告にプレパラートにもとづく人体臓器別
図(各人の臓器毎の標本の顕微鏡写真)を加え,デ
ータもより詳しいものになっているので、戦後高橋
正彦たちが相当程度アメリカに協力したを思われる
(英文報告には高橋正彦の協力を得たと明記されて
いる)。
このように、七三一部隊・細菌戦に関する第 1 次
資料は、アメリカが入手することになり、実戦上有
効とみなされた細菌兵器(馬脾疽、炭疽、ペスト)
は英文化され、日本人医学の協力をえてより分厚い
ものにされたのである。ちなみに、これらの「明ら
かに七三一部隊が作成した実際の実験の実物、事例
ファイル、医学的ファイル、諸記録」といった、
「第
2 次世界大戦後[アメリカが]捕獲した日本の資料
は現実に米国に運ばれ、首都に、主として国立公文
書館の建物のなかに数年間保持されていたが、最終
的には日本に箱詰めにして送りかえされた(finally
boxed up and sent back to Japan)。なぜなら、言語の問
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
蜘蛛を発見)。 そして、1)1 月最高 1 度、2 月 5
度という低温であるのに昆虫が生きていた。 2)異
種の昆虫が混在していた。 3)細菌感染(コレラ、ペ
スト、チフス、パラチフス、発疹チフス、赤痢)があ
った、と指摘した。 最初のコレラ感染は 2 月 20
日で、江原道鉄原郡金学文が感染し、2 月 23 日に死
亡し、調査団到着前に 50 名が感染し、うち 36 名が
死亡したとされた。
より本格的な細菌戦の調査は、「国際科学委員会
(the International Scientific Commission-ISC)」いわ
ゆるニーダム調査団 によってなされた。1952 年 2
月 25 日、世界平和擁護中国人民委員会主席・郭沫若
が世界平和評議会(World Peace Council)にアピール
し、同年 3 月 29 日オスローで開催された同評議会
執行局の会議で、
「朝鮮および中国における細菌戦に
関する事実調査の国際科学委員会)ISC)
」の設立を
決議した。国際赤十字委員会(のちには WHO も)は、
この件の調査について偏見から自由な調査はできな
いとして反対した。ISC は 6 月中旬までに最小限の
人員 6 名が決まり、中国に向けて出発し、6 月 21
日 、 北 京 に 着 い た 。 そ の メ ン バ ー は 、 Andrea
Andreen( ス ウ ェ ー デ ン ), Jean Malterre( フ ラ ン ス ),
Joseph Needham (イギリス), Oliviero Olivo(イタリア),
Samuel
B. Pessoa ( ブ ラ ジ ル ), N.N.
Zhukov-Verenzhnikov (ソ連)である。7 月 15 日には
Franco Graziose (イタリア)が加わることが決定し、
彼は 8 月 6 日に北京に到着した。最後には Tsien
San-Tsiang 銭三強 (中国)が委員会と中国当局のリ
エゾン・メンバーとして加わった。
ISC は、北京に 6 月 23 日から 7 月 9 日まで滞在
し、瀋陽に 7 月 12 日に行き、7 月 15・16 日にはハ
イラル、ラハ経由で黒龍江省モンゴルとの国境近い
甘南地方に行き、さらに朝鮮のピョンヤンには 7 月
28 日から 31 日まで 4 日間滞在し、中国に 8 月 4 日
に戻っている。その全行程のなかで中国側の科学者
の調査結果を実験室で示され、また捕虜になった細
菌投下した飛行機のアメリカ人パイロット 4 名と 2
日間面談している。調査結果は、8 月 31 日に調査委
員 が 署 名 し 、 Report of the International Scientific
Committee for the Investigation of the Facts concerning
Bacterial Warfare in Korea and China, 1952, (いわゆる
「ニーダム・レポート」Needham Report)として 9 月
15 日に発表している。(このレポートの本論は翻訳
され、 日韓関係を記録する会編『資料・細菌戦』晩
聲社、1979 年に収録されている。したがってそこに
は捕虜となったケネス・L・イノックおよびジョン・
クインの供述も訳出されている。
)ニーダム・レポー
トは本論 60 頁に、約 600 頁の資料などが付録とし
て収録されているものである。そこには細菌戦の中
国での 33 例、朝鮮での 13 例、パイロット 4 名の供
述一覧も示されている。この調査報告に関する資料
は、かってはニーダム研究所が所蔵していたが、現
在 は ロ ン ド ン の 戦 争 記 念 博 物 館 War Memorial
Museum の資料室が所蔵している。そのニーダム文
書には ISC に関する草稿も多数残されているが、そ
れをみると ISC の最終報告書を書いたのはニーダム
題が我々には克服するのが非常に困難だったからで
あ る 。」 (Treatment of American Prisoners of War
Manchuria, Hearing before the Subcommittee on
Compensation, Pension and Insurance of the Committee
on Veterans' Affairs House of Representatives
Ninety-ninth Congress, Second Session, September 17,
1986, Serial No. 99-61, p.8~9) これは 1986 年 9 月 17
日、
「第 99 回国会、下院、退役軍人問題委員会の補
償、年金、保証に関する小委員会」の公聴会が、満
州・奉天におけるアメリカ人捕虜に対する七三一部
隊による人体実験をめぐる告発に関して開かれたと
き、ジョン・H・ハッチャー(陸軍統括主任・陸軍
文書官)がその公聴会において証言したことである。
ハッチャーは、当小委員会に提出した文書のなかで、
「日本の SCAP 占領下の間に獲得された 1 次資料
は、....複写をつくらずに 1950 年代後半に日本に送
り返した(they were repartriatted in the late 1950's to
Japan without copies being retained.)」
(ibid., p.45)と書
いている。そして質疑のなかで、マッカーサーに返
したのかとの質問には、
「いいえ、我々は日本政府に
返した。
」(ibid., p.13)と答えている。ハッチャー証言
が日本に報じられると、ただちに日本の国会図書館
が調査した。国会図書館側は、調査の結果、国会図
書館には戻っていないと述べ、
「七三一部隊に関する
第 1 次資料は、日本に返却後、最初は外務省復員局
に渡され、その後防衛庁が設置された際、外務省か
ら防衛省に移され、さらに戦史室の開設に伴い、戦
史室に移された」
(『朝日新聞』1986 年 9 月 19 日)
ことを明らかにした。1950 年代後半(1958 年と思
われる)に米国から日本に返還された七三一部隊に
関する第 1 次資料は、現在は廃棄されていないなら
ば防衛省が所蔵しているのである。これらの資料が
公開されねばならないことはいうまでもない。
2 朝鮮戦争期の米軍による細菌戦 (1952 年)
朝鮮戦争中にアメリカが朝鮮と中国に対し細菌戦
を実施したか否かは、現在依然として論争中の問題
である。(このテーマで最も水準の高い著書は、
Stephen Endicott and Edard Hagerman, The United
States and Biological Warfare. Indian University Press,
1998 である。日本では、中島啓明「朝鮮戦争におけ
る米軍の細菌戦被害の実態ー現地調査報告」
『大阪経
済法科大学アジア太平洋研究センター年報』1 号、
29004 年 3 月がある。
)1952 年 2 月 22 日、朝鮮民
主義人民共和国外相・朴憲永はアメリカが細菌戦を
実施していると抗議し、つづいて同年 3 月 8 日、中
国外相・周恩来が同様の趣旨の抗議をした。 ブラン
ドヴェイネル団長ら 8 名から成る「国際民主法律家
協会調査団」が朝鮮に行き、1952 年 3 月 3 日から 3
月 19 日にかけて細菌戦、化学戦、住民虐殺、空爆、
捕虜虐待について調査し、1952 年 3 月 31 日に「ア
メリカの朝鮮における犯罪行為に関する報告」を発
表した。その報告書では、1952 年 1 月 28 日と 3 月
12 日の間になされた細菌撒布によって、169 ヵ所で
昆虫が多数発見されたとし、15 の典型例を示した
(例えば、江原道平康郡で 1 月 28 日にハエ、ノミ、
- 6-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
一人だったことがよくわかる。ニーダムは達筆かつ
速筆の人であり、あまりに速く報告書が作成・発表
されたため、ニーダムが中国からイギリスに帰国す
るやイギリス議会において保守党議員によってニー
ダムはコミュニストであり、中国での調査以前に予
め報告書を作っていたのだと公然と非難された。
ISC の調査が始まると、第 2 次大戦中の日本軍に
よる中国での細菌戦との関連性が注目され、その関
連性を示した重要な人物として、常徳への細菌撒布
のところで既述したジューコフ・ヴェレンジニコフ
と陳文貴のふたりをあげている。
ISC は中国到着後、最初の会合で ISC の委員でも
あるジューコフ・ヴェレンジニコフは、細菌戦の歴史
的背景を明らかにするという目的で、ハバロフスク
裁判で得た七三一部隊に関する証拠を調査団に提供
し、細菌が昆虫に付着しうると説明した。ヴェレン
ジニコフは、ハバロフスク裁判で「細菌学及び医学
上の諸問題に関し鑑定を下した鑑定委員会」(
『ハバ
ロフスク公判書類』, 6 頁)の 6 人のうちの主任であ
り、ソ連医学アカデミー会員であったが、朝鮮戦争
時にはソ連医学アカデミー教授兼副会長として ISC
の委員になった人である。
1952 年 6 月 27 日、北京での調査団の 2 回目の会
合で、中国側は 2 種類の細菌戦の公式記録を提供し
た。一つは、
「中国衛生署の史料から、湖南常徳にお
ける日本によるペストの人為的投入に関する原報告
書の一つ」で、これは「陳文貴報告書」そのもので
ある。ニーダム報告書はこの陳文貴報告を常徳のペ
スト発生の地図も含めて付録として収録し、
「この史
料は今日でもなお極めて価値があり、また歴史的関
心をひくものである」と記した。陳文貴は、戦後、
新中国の下で中国医学協会西南支部会長を務め、
1950 年当時は重慶市立寛仁病院の医師であったが、
朝鮮戦争時に朝鮮で多数のペストが流行したため、
朝鮮の保健省に派遣され、アメリカの細菌爆弾使用
を調査すべくピョンヤンの防疫業務に従事していた。
それ故、ISC はピョンヤンで陳文貴に面談すること
になった。陳は ISC に対し、日本軍に第 2 次世界大
戦中の細菌戦について概略を説明した後、現在アメ
リカが朝鮮戦争で使用している細菌兵器の技術はか
つての日本の技術に「極めて類似しており、さらに
大規模である」との重要な指摘をした。そして、同一
のペストノミの技術が朝鮮に対し使用されているこ
とが確認されており、現在得られている「諸結果は、
なぜアメリカが意図的に日本の細菌戦犯罪者を保護
してきたかを説明する」と言明した(Peter Williams
and David Wollace, Unit 731, The Japanese Army's
Secret of Secrets, 1989, pp.249-50.)。
北京での第 2 回の会合で示された他の一つは、11
都市に対する細菌攻撃を示すもので、フェル・レポ
ートのいう 12 ヶ所への細菌攻撃に相応するものと
思われる。浙江省は衢州、義烏、金華、寧波の 4 ヶ
所、湖南省は常徳の一ヶ所、河北省は正定 1 ヶ所、
山西省は保徳、河曲の 2 ヶ所などで、死者は合計 699
人(ニーダム文書のなかに都市名と死者の数を示す
手書きのメモあり)とされている。だが、この数値
-7-
は当時中国政府が公式に発表した数値で、密かに埋
葬された多数の死者は含まれていなし、2 次感染、3
次感染も含まれていないことは、前述したところで
ある。
こうして、ニーダム報告書 60 頁の本論中では「第
2 次世界大戦中における日本の細菌戦争との関連」
に 2 頁がさかれて、日本軍の常徳への細菌撒布の「陳
文貴報告書」が付録に収録されている。ニーダム報
告書は次のようにいう。
「東アジアで細菌戦争がなされているという主張に
ついてのいかなる調査も、第 2 次世界大戦中に日本
側が中国に対して確かに細菌戦を実施したという事
実を認識しなければならないだろう。当委員会は比
較的よくこの主題について情報を得たが、それは委
員の一人がハバロフスク裁判で鑑定主任[ジューコ
フ・ヴェレンジニコフ]だったからであり、また、他
の一人の委員は、事態が生じた期間に、中国の公的
な地位にいた西側の極めて少数の科学者のひとり
[J.ニーダム]だったからである。1944 年彼[ニ
ーダム]は彼の任務の一つとして本国政府に、当初
は大きな疑問を持っていたが、中国衛生署が集めた
資料はいくつかの地域で日本側がペスト感染ノミを
撒布したし、また撒布していることを明らかに示し
ているようにみえる、と報告した。
(中略)この資料
(「陳文貴報告書」
)は今日でもなお極めて価値ある
ものであり、たしかに歴史的関心を引き起こすもの
である。公式の中国の記録は、日本から攻撃を受け
た県城の数は 11 都市であるとしており、
浙江省が 4、
河北、河南がそれぞれ 2、山西、湖南、山東がそれ
ぞれ 1 である。人為的に撒布されたペストの犠牲者
総数は、現在、中国の推定では 1940 年と 1944 年の
間に約 700 人である。
」
[この 700 人はニーダムのメ
モにある 699 人のことである。訳書が 100 人として
いるのは誤り。
]
さらに、以下に付録に収録した文書は、歴史的関
心を引き起こすものである。署長[金宝善]は当時
[1941 年]、重慶の各国大使館に 10 部配布したこ
とが知られている。1946 年 1 月の有名なマーク報告
によると、アメリカで細菌戦の方法に関する大規模
な活動が始まったのがまさに同じ年の 1941 年であ
ることは、単なる偶然の一致以上のものであろう。
委員会は幸運にも朝鮮での調査のあいだに、常徳か
らオリジナルな報告を書いた卓越したペストの専門
家[陳文貴]に会う機会があり、また、彼から第 2
次世界大戦終結までにすでに国民党政府の手中にあ
ったその証拠を追及することに国民党政府が失敗し
たとの彼の見解を聞く機会もあった(付録L)
。周知
のように、彼の結論はのちにハバロフスク裁判での
被告の供述によって、完全に確認された。
」そしてハ
バロフスク公判記録の内容が紹介され、次のように
書いている。
「朝鮮と北東中国(満州)で細菌戦争が
なされていると 1952 年の初めごろ主張される前に、
新聞記事が石井四郎の南朝鮮への連続 2 回の訪問が
報道され、また、3 月に再び南朝鮮にやってきたこ
とを忘れるべきではない。日本の占領当局が彼の行
動を促進しているのかどうか、またアメリカ極東軍
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
司令部が元来日本の方法を使用するようにしている
のかどうか、それは委員会の委員たちの心から容易
には離すことのできない疑問であった。」(Report of
the International Scentific Committee, pp.11-12.)
このように、アメリカは 1941 年に日本が常徳に
細菌撒布したときから本格的な細菌兵器の研究・開
発を開始し、第 2 次世界大戦後、日本から独占的に
入手した七三一部隊・細菌戦関連の第 1 次資料にも
とづき細菌兵器を改良・開発して、朝鮮戦争中に中
国と朝鮮に対して細菌兵器を使用した可能性が大で
ある、とニーダム報告書は示唆した。そこには日本
軍の細菌戦の方法と米軍の細菌戦のそれとは類似性
があり、かつ連続性もあることが指摘されているの
である。
ニーダム調査団の委員で当時ローマ大学微生物学
研究所助手であったフランコ・グラツィオーシィ
(Franco Graziosi)に、私と韓元常がローマ郊外の彼
の自宅でインタヴューしたのは 2005 年 3 月 28 日で
あったが、このニーダム調査団委員のなかでの唯一
の存命者が提供してくれた文書には、各調査委員の
特徴が書かれている。
「委員会のなかではジョセフ・
ニーダムは(全く非公式にであるが)指導者の役割
であり、多数の中国人科学者と知己をえており、中
国学術院の会員であり、中国に対する日本の細菌戦
争を経験しており、中国の言語と文化を熟知してい
た。」「ジューコフの委員会のなかでの地位と影響に
ついて私は知らないが、
・・・しかしながらハバロフ
スク裁判に参加し重要な役割を果たしていたので、
細菌兵器の分野で特殊な経験をした疫病学者として
堅実は評価をえていた。」そして グラツィオーシィ
は、アメリカとソ連が日本の細菌戦の経験を重視し
た理由を次のようにいう。
「細菌戦争の展望の多くの
側面についてここで分析することは不可能であるが、
多くの生物学者の同意できる唯一のことは、、自然界
にすでに存在する病原体よりもっと伝染力が強くも
っと効力のある新しい病原体は、人体実験に体系的
かつ広範に頼ることなしには現代の生物工学によっ
ても選択したり合成したりすることはできない、と
いうことである。自然発生的流行、実験室の事故、
鋭敏な疫学的観察が何らかの新しい機会を提供しう
ることもある(例えばエボラ・ヴィールスの例をみ
よ)が、しかし、生物工学がすでに自然界に存在す
るような効率的な寄生動物を(適切な人体実験なし
には)われわれに生み出させるようになるとは思え
ない。これがアメリカとソ連が日本の経験に関心を
抱いた理由である。これがなぜ朝鮮戦争が細菌兵器
の独自な実験的分野を提供したのかの理由でもあ
る。
」
ジョン・パウエル John Powell, (1919~2009)は、主
としてニーダム報告書に依拠して、上海で刊行する
China Weekly (Monthly) Review(1947~53)誌上に朝鮮
戦争時の米軍による,細菌戦の記事を連載した。米国
政府はその新聞の郵送を禁止した。購読者数の減少
により、新聞社を閉鎖せざるをえなくなったパウエ
ルは、1953 年アメリカに帰国するがサンフランシス
コに到着するやいなや国家反逆罪で逮捕され、1956
- 8-
年、妻・シルヴィアと同誌編集者・シューマンとと
もに「意図的に虚偽の報道をした」“
( deliberately false
reporting”)として有罪判決が下った。ドリス・ウオー
カーDoris Walker が弁護士として活躍し、カナダの
前記S.エンディコットや 日本の森川金寿たちが国
際的に支援した。1961 年にケネディー政府が訴訟を
取り下げ、無罪が確定したのち、パウエルは自身の
裁判の資料の開示を政府に請求し、裁判を起こし勝
訴するが、それでも政府はなかなか出してこなかっ
た。その長い交渉の過程で、政府側がダミーとして
出してきた資料が思わぬ価値をもつものだった。そ
れは七三一部隊幹部の戦犯免責と引き換えに七三一
部隊の資料をアメリカが入手したことを示す資料で
あり、パウエルは John Powell, “Japan’s Biological
Weapons: 1930-1945”, Bulletin of the Atomic Scientists,
Oct. 1981.を発表し、この密約を世界で最初に暴露す
ることになった。
ニ ー ダ ム 報 告 書 に 対 す る 批 判 は 、 Cullum
MacDonald, “So Terrible a Liberation”- The UN
Occupation of North Korea, Bulletin of Concerned Asian
Scholars, vol.23, no.2, 1991 や Tom Buchanan, The
Courage of Galileo: Joseph Needham and the 'Germ
Warfare' Allegations in the Korean War, The Historical
Association 2001 によりなされていたが、
『産経新聞』
、
1998 年 1 月 8 日付「朝鮮戦争時「米軍が細菌兵器
使用 中朝ねつ造だった 旧ソ連秘密文書で判明」を
見出しとする記事は、朝鮮戦争時の米軍による細菌
戦そのものが中国と朝鮮の捏造だとするものであっ
た。
「駐北朝鮮ソ連大使ラズバエフ中将からベリア内
相あて報告書」
(1953 年 4 月 18 日付)
「駐中国ソ連
大使クズネツォフ、駐北朝鮮ソ連代理大使スーズダ
レフ宛手紙に関するソ連閣僚会議幹部会の決定」
(1953 年 5 月 2 日付)などの 12 通の「秘密文書」
は、ソ連の指示により中国と朝鮮が自ら細菌を撒布
し、アメリカがやったことにしたことを示している
ものとされた。毛沢東宛の書簡には「ソ連政府とソ
連共産党中央委員会は誤解していた。米軍が北朝鮮
で細菌兵器を使用したとの報道は、捏造された情報
に基づいていた。米国に対する非難は虚構のもので
あった。」とあり、中国への提案は、
「北朝鮮と中国
で細菌兵器を使用したとの米国を非難する報道を停
止する。中国(北朝鮮)政府は、細菌兵器使用の事
実調査が中国(北朝鮮)の代表者を含まないため合
法的とはいえない、と国連で表明することが望まし
い。
・・・細菌兵器使用の『証拠』の偽造に当たった
ソ連側担当責任者等は、厳重に罰せられる。
」とあっ
た。
それに対して S.エンディコットと F.グラツィオーシ
が、それぞれ批判している。エンディコットは、こ
の『産経新聞』の報じた文書はモスクワのどの文書
館か書かれていないし、検索番号もない出所不明の
ものである。かりにその文書が存在するとしても、
中国が細菌を撒いたのは数ヶ所であるが、被害地域
は 10 数ヶ所であるから、他の多くの地域はアメリ
カが細菌を投下したことになる、との批判を行なっ
た。グラツィオーシィの批判は、 微生物学の見地か
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
らしてこれらの文書は偽造されたものであることが
明白であるとする。私もこの文書はスターリン死亡
の直後のベリア対イグナチエフ派の権力闘争から派
生した、イグナエフ派を粛清するためにつくられた
偽造文書である可能性が大きいと考えている。
なお、朝鮮戦争時のアメリカによる細菌戦につい
てこれ以上書くスペースは残されていないので、ニ
ーダム文書、パウエル文書、エンディコット文書や
朝鮮(共和国)における目撃者の聞き取りなどにも
とづく詳細は、別稿で書くことにしたい。
著者プロフィル
「悪魔の飽食」をうたう東京合唱団所属。
専攻はイギリス社会史・労働史、日本植民地労働
史。著書に『戦争と疫病 731 部隊のもたらしたもの』
(共著)本の友社、1997 年;『連続講義 東アジア 日本
が問われていること』(共編)岩波書店、2007 年;『裁
判と歴史学-731 細菌戦部隊を法廷からみる』(共編)
現代書館、2007 年;『日本帝国主義下の植民地労働
史』不二出版、2007 年;『大量虐殺の社会史』(共著)
ミネルヴァ書房,2007 年;『満鉄の調査と研究』(共
編)青木書店、2008 年など。
-9-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
空襲時精神病
―植松七九郎・鹽
―植松七九郎・鹽入圓祐の資料から―
岡田靖雄
青柿舎(精神科医療史資料室)
Air Attack Psychosis:
as based on original investigation materials by Uematsu Shichikurō and Shioiri En-yū
OKADA Yasuo
Seishisha (the Library of Psychiatric History)
キーワード Keywords: 東京空襲 Tokyo Air Attack、一次性反応および二次性反応 Primary and Secondary
Reactions、精神症状の変容 Transformation of Mental Symptoms、精神病誘発 Induction of Psychoses
1.第
1.第 43 回日本精神神経学会総会
1944 年 5 月初旬に京都帝国大学で開催を予定され
ていた第 43 回日本精神神経学会総会(三浦百重会
長)は、戦局のため中止になった。戦後における学
会活動の再開は予想外にはやくて、第 43 回総会は
1946 年(昭和 21 年)6 月 1 日午後,6 月 2 日全日に、
内村祐之を会長に東京帝国大学医学部本館講堂でお
こなわれた。このときの演題は『精神神経学雑誌』
第 49 巻第 1 号(1946)にのっているが、抄録はついて
いない(後日入手した総会次第には“当日 2000 字以
内の抄録御提出のこと”とあるが、当時の印刷事情
から掲載できなかったのだろう)。
全 42 題のうち、第 1 日に報告されたつぎの 11 題
が戦争経験に関するものである、―
2.今次戦争に於ける精神医学的経験.内村祐之(東
大精神科) イ)精神疾患の特徴 ロ)原子爆弾によ
る脳髄の病変
3.空襲時精神病.植松七九郎・鹽入圓祐(慶大神経
科)
4.今時戦争間の精神医学的経験.諏訪敬三郎(国
立国府台病院)
5.防空壕内窒息後に発生せる精神病.三浦信之(岩
手医専神経科)
6.原子爆弾患者脳髄の病理組織学的変化に就いて.
武谷止孝(九大精神科)
7.コロル島高射砲陣地に於る神経症の発生とその
処理.小林八郎(国立武蔵療養所)
8.戦争に於ける神経症と知能検査の経験.古川復
一・白木博次(東大精神科)
9.壮丁十二万に対する知能検査成績.五十嵐衡・淺
井利勇(国立国府台病院)
10.戦災浮浪者の精神医学的調査.竹内一他(精神
厚生会)
11.在郷頭部外傷者検診報告.小沼十寸穗(国立下
総療養所)
12.産業能率への精神医学の応用.村松常雄(東京
都立松沢病院)
これらの内容がどこかに発表されていないか、し
らべてきた。2 番内村祐之報告の後半「原子爆弾患
による脳髄の病変」は、白木博次との連名で、“Zur
Gehirnpathologie der Atombombenschädigungen”(Folia
Psychiat. et Neurol. Jap. 6: 155-176,1956) お よ び
“Cerebral Injuries Caused by Atomic Bombardment”
(Nerv. and Mental Dis., 116: 654-672, 1956)として発表
されている。3 番の植松らのものは、
「空襲時精神病
第 1 編 直接空襲に基く反応群」として、
『慶應医学』
第 25 巻第 2,3 号(1948)1)に掲載されているのをみいだ
した。
4 番の諏訪のものは、
『第二次大戦における精神神
経学的経験―国府台陸軍病院史を中心として―』
(国
立国府台病院、1966)にほぼはいっているものとお
もわれる。
7 番の小林からは、わたしが世話人をしていた精
神科医療史研究会で 1987 年に「生活療法の回想」と
いう話しをうかがった(呉秀三先生記念精神科医療
史資料通信、第 21 号別冊、1991)
。そのなかで小林
は、自分は“陸軍の高射砲隊つきの軍医で、
「パラオ
高射砲陣地におけるノイローゼの経験」というのを
書きまして、どこかに出ていますよ”とかたったが、
この論文はみつけられずにいる。
(コロル島はパラオ
諸島の一部である)。臺弘が『精神医学』第 47 巻第
12 号に小林の 1944 年の通信を「小林八郎 前線に
おける二、三の精神病学的観察。昭和 19 年 9 月 15
日 東京帝大精神病学教室、軍事保護院・武蔵療養
所」という形で発表している。ほかの発表について
は手懸りをえていない。
ところで、植松・鹽入論文がのった『慶應医学』
第 25 巻第 2,3 号には、上野陽三・竹内哲夫「所謂栄
養失調症の精神神経学的考察」がのっていて、その
末尾に“本論文の要旨は昭和 21 年 3 月東京精神神経
学会に報告せしことを附記する”とあり、東京精神
神経学会が 1946 年 3 月にひらかれたことがわかる。
連絡先:〒168-0072 東京都杉並区高井戸東 3-36-13 ライオンズマンション 201 青柿舎
Address: Seishisha, Lions Mansion 201,Takaido-Higashi 3-36-13, Suginamiku, Tokyo, 168-0072 Japan
- 10-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
精神科の地方会でもっとはやいものがなかったとは
いいきれないが、確認できた範囲では、これが戦後
のもっともはやい地方会である。
さて、わたしは植松・鹽入論文の原資料を古書店
から購入した(植松は当時教授であった、鹽入は講
師であったか)
。植松らの調査は、慶應義塾大学医学
部神経科教室が桜ヶ丘保養院、松沢病院、井ノ頭病
院、その他の協力をえておこなったものである。教
室外からの症例は、よせられた報告そのものの半分
ほどがのこされている。その用紙は診療録用紙のも
のも、やぶいたノートのものもあって、まさに時代
を感じさせる。何例かでは、たとえば神経学的所見
が、眼球運動:斜視、振盪症、瞳孔左右同大正円形、
対光反応常、調節交軸反応常などなど、診断学教科
書の項目をほとんど省略なしに記載してあるなど、
敗戦前の人手不足のときによくもこんなに詳細に記
載したものと、おどろかされた。この原資料にはま
た、植松・鹽入論文の第 2 部「間接に空襲に関係あ
るもの」に相当するまとめ、また慶應義塾大学医学
部神経科教室で 1930―1939 年および 1944 年 11 月―
1955 年 12 月の患者統計もはいっていた。そこで、
これらのものもまじえながら、植松・鹽入による調
査結果を紹介しよう。
表 2.慶應神経科外来患者(1944 年 11 月―1945 年 12 月)
総計
うち空襲に関係
(例)
あるもの(例)
男+女(比率%)
46
7
5+2(15.2)
躁うつ病
53
5
4+1(9.4)
88
5
3+2(5.8)
120
3
2+1(2.5)
精神分裂病
神経症*
心因症
てんかん
5
3
2+1(60.0)
90
2
0+2(2.2)
1+0(14.3)
精神病質
7
1
発達制止
16
0
梅毒**
10
0
9
0
脳軟化
その他
合計
10
0
455
26
17+9(5.7)
*神経衰弱、ヒステリー、神経質、強迫神経症
**脳梅毒、脊髄癆
41.3%)であったのに対し、後期間(ここでは神経
症および心因症が神経症群としてまとめられてい
る)では 27.5%と、いちじるしく減少している 2)(こ
の点論文では、都民が“兎も角も精神的緊張を持続
し得た事は、当時神経衰弱其他の神経症外来患者の
激減により裏書きし得るであろう”と指摘している)
。
後期間の 455 例中で、空襲が直接の病原となったの
は心因症の 3 例(0.66%)
、空襲が誘因・増悪因その
他となった、空襲に関係ある例は 23 例(5.05%)で、
両 者 を あ わ せ る と 空 襲 に 関 係 あ る も の は 26 例
(5.7%)であった。
さて、植松・鹽入論文(これからは単に“論文”
としるす、3 ページのもの)がとりあげているのは、
1944 年 11 月から翌年 8 月までの間に発生した、空
襲が直接原因として作用したとおもわれる、主とし
て心因反応群の 17 例である。それらは、慶應神経科
教室、桜ヶ丘保養院、松沢病院、井ノ頭病院、東京
武蔵野病院などからあつめられているので、東京都
の西半分をほぼまとめたとみられる。この 17 例は表
3 のように分類される。
論文にしたがって、それぞれのものをみていこう。
(1)譫妄錯乱状態。至近弾のために倒壊家屋およ
び防空壕にうまり救出されて 1、2 日の間隔をおいて
発病し、重篤な意識障害をしめす(その間の言動は
かならずしも原体験と一致しない。つぎの症例は、
ここに属するものだろう。
[症例 1]32 歳女.帰宅したとき、玄関付近に至近
弾落下し、倒壊家屋の下敷きとなったが、自分で
脱出。前腕骨折し、担架で救護所にはこばれ、翌
日入院。その翌日発病し、井ノ頭病院より検診。
不安、不眠、ことに夜間に興奮しやすい。とびお
きて、だれか家人がきていると、とびだそうとす
る。日中の意識はほぼ清明。気分ははじめは多幸
的、数日すると不安定、なきやすく、抑うつ的、
不安。数日後に医師を夫とまちがえる。つづいて
漸次鎮静し、在院 2 週間で全治退院。
(2)驚愕死。荏原で通行中空襲警報発令とともに
昏倒した女、付近の人が介抱しようとしたがすでに
2.直接空襲にもとづく空襲時精神病
2.直接空襲にもとづく空襲時精神病
慶應義塾大学医学部附属病院神経科外来患者の病
名別統計の 1930―1939 年のもの(表 1)および 1944
年 11 月―1955 年 12 月のもの(表 2)をあげておく
(表 2 は“大内君調査”とある)。両期間を比較する
と、年平均患者数は、前期間に比して後期間は 45.0%
といちじるしく減少している。全体のなかでの神経
症群比率は、前期間では 42.6%(男で 43.2%、女で
表1.慶應神経科外来患者(1930-1939年)
男(例)
女(例)
神経衰弱
1378
312
神経質
863
306
強迫神経症
80
41
外傷性神経症
79
19
ヒステリー
67
514
(神経症群計)
(2467) (1192)
アルコール
197
55
進行麻痺
685
138
脊髄癆進行麻痺
52
5
脳梅毒
65
19
てんかん
711
447
精神分裂病
695
474
躁うつ病
462
315
精神薄弱
148
94
変質精神病
29
16
更年期精神病
0
47
脳動脈硬化症
11
7
老年精神病
40
28
症状精神論
8
11
脊髄癆
114
32
*
20
2
合計
5704
2882
*“R M Lues”とある
進行麻痺
計(例)
1690
1169
121
98
581
(3659)
252
823
57
84
1158
1169
777
242
45
47
18
68
19
146
22
8586
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
絶息していた。医師がまねかれて死亡を確認したが、
外傷はなかった。
[むしろ心筋梗塞などとみるべきで
はあるまいか。
]
(3)心因性昏迷。熾烈な空襲にあって恐怖戦慄し、
のち寡言茫乎となって自発性をかく。意識はつよい
昏濁から正常にちかい清明とのあいだを動揺、不安
当惑性の興奮がはいることもある。症例 2 はここに
属する。
[症例 2]21
表 3.直接空襲にもとづく反応群
歳 男 工員 。4
男 女 計
月 15 日空襲
Ⅰ.心因反応
(横浜地帯
1.譫妄錯乱状態
1
1
2
大空襲)のと
2.驚愕死
0
1
1 原 き寮にいた
3.心因性昏迷
1
1
2 始 が、爆弾の至
反
4.心因性抑うつ
0
3
3
近弾は 1 町先、
応
5.朦朧状態
1
0
1
火災は 3 町先。
翌日より口
6.ヒステリー
0
2
2
数へり、仕事
7.心因性睡眠状態
0
2
2
ま と まら ず。
8.心因性徘徊
2
1
3
5 月 11 日、サ
Ⅱ.頭部外傷
イレンがな
(心気性精神遅鈍)
1
0
1
らぬのに“空
合計
6 11 17
襲空襲”とさ
けび、おきだす。翌日出勤しても、なにもせずに
たっていた。松沢病院入院、昏迷状態で、強硬な
る緊張した姿勢、1、2 言だけの答え、空襲がこわ
い。そののち“天皇陛下”をくりかえしたり、母
の声がきこえたり。応答の口数ふえてきたが、全
体に茫乎としていることがおおい。その後常態に
ちかづいては、また昏迷がふかまる。持続睡眠を
はじめるが、4 日で処方中止、電気けいれん療法 2
回で、やや軽快し、雑役に従事。逃走企図あり、8
月 6 日保護病棟に収容。8 月 23 日昏迷茫乎、自発
性欠如。次第に衰弱、浮腫生起。8 月 27 日午後 4
時 55 分死亡(診断脚気)
。
(4)心因性抑うつ。女性にだけみられた。抑うつ
性昏迷、不安・恐怖をあらわす興奮、罪業観念、自
殺企図(しばしば病初期にみとめられる)などをし
めす。つぎの症例はこの 1 例である。
[症例 3]34 歳女。夫は出張がおおく、本人は空
襲をひどくこわがっていた。かえってくれとの電
報で 11 月 27 日に夫がかえったところ、警報がで
たのにボンヤリしていて、はきはきとうごかない。
空襲になり、
“子供をつれてはやく避難しろ”とい
って夫は隣組に連絡にいった。夫がもどってみる
と、夫の軍刀で左乳首直下をついていた。夫に電
報をうったので憲兵につかまる、死刑になる、な
どという。軍医学校外科に入院、気胸をおこして
いるが、疵はすでに大体癒着していた。ときどき
ベドからでてうろうろし、自殺念慮があるので 12
月 6 日に松沢病院にうつった。
いちじるしく不安、入院をこばみ、なきわめく
ので、一時保護病棟に収容。そののちややおちつ
いたが、憲兵につかまり死刑にされるとの念慮は
きえない。家庭の都合で郷里にうつることになっ
- 12 -
May, 2010
て、12 月 8 日退院。
(5)朦朧状態。いわゆる感動性または驚愕性の.
朦朧状態といわれるもの。感動と体験内容とは一
致せぬことがときにある。本例は成績優秀な中国
人で、空襲に際し防空壕にはいったままでてこず、
翌日下宿の主人にひきだされたのち常軌を逸した
行動があった。たとえば、通行人からぶしつけに
金をかりようとしたり、だれもこないのに駅に迎
えにいくなどして、これらの追憶がなく、また堪
能であった外国語を一過性にほとんど忘却した。
(6)ヒステリー。女子 2 名に、驚愕体験後に数日
あるいは 1 か月以上をへて典型的な痙攣および.朦朧
状態の発作をおこした。症状発生前は胸内苦悶、不
眠、過敏状態があった。ヒステリー症状は容易に消
退せず慢性に経過した。
(7)心因性睡眠状態。ともに中年以後の女性で、
1 昼夜から 2 日にわたる深昏睡で、その間に失禁が
あった。
(8)心因性徘徊。1 例は高等教育をうけたインテ
リで、戦災で顔面・四肢に火傷をおい、みにくい瘢
痕をのこしている者、もう 1 例は先天性聾唖を基礎
としている者、つぎの症例は痴愚を基礎としている。
徘徊時につき追憶欠損のあるのがおおいが、そのな
いこともある。
[症例 4]35 歳男、工員。3 歳時髄膜炎、小学 3
年中退。簡単な作業もなかなかおぼえられない。
1944 年 12 月 28 日浅草で至近弾をうけた。負傷し
なかったが、以後急激に言動不安となり、彷徨、
徘徊(おそらく意識障害があった)
。1945 年 2 月 5
日井ノ頭病院入院、10 歳程度の知能。
頭部外傷の 1 例は、鉄帽の上に焼夷弾直撃をうけ、
短時間の意識喪失をきたしたのち、一過性の視力障
害と持続性の頭痛と右上肢の痺れ感とをうったえ、
やや心気症的であると同時に、空襲への不安がなく
なったとのべ、いちじるしく精神遅鈍をしめしてい
た。
上記のうち第 1 群から第 5 群までの 9 例は原始反
応または一次性心因反応に属し、強大な環境的刺激
にあたり何人にも発しうる生物学的反応である。第
6 群、第 7 群は多少ともヒステリー性に固定された
二次性心因反応に属する。第 9 群はかならずしもヒ
ステリー性とはいいがたく、原始反応または他の複
雑な機制にもとづく反応と理解すべきであろう。
第 1 群から第 5 群までの原始反応とその他の反応
とをわけて比較すると、原始反応は空襲の当日、翌
日、少数は 2 日後に発病しているのに対し、その他
の反応では 1 週間以上、1 か月以上してから発病す
るものがおおい。また転帰は、原始反応 9 例中で寛
解 4 例、軽快 1 例、未治 1 例であるのに対し、その
他反応 7 例中では寛解 1 例、軽快はなく、未治が 5
例とあった。
なお、恐怖その他の感動がまったく制止されてい
るのに、意識は清明で目的にかなった行動はできる、
という情緒麻痺に相当する反応型の例はみられなか
った。
ところで、きわめて多数の戦災者・死傷者をだし
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
た東京で、心因反応 16 名とはきわめて少数である。
調査範囲はかなり広汎であった。井ノ頭病院は武蔵
野町〔論文には“三鷹”となっていたが、武蔵野町
がただしいことを川村善二郎氏からご教示いただい
た〕の中島飛行機工場の爆撃に際し発生した外傷そ
の他の患者を収容したが、顕著な精神異常をしめす
者はほとんどみとめられなかった。大田の同工場が
2 回徹底的爆撃をうけたときには、同工場附属病院
でかなり詳細な調査をしたが、みいだされたのは 1
例だけだった。八王子市が一夜で全滅したときには、
防疫巡査の協力をえたが、発見されたのは 2 例だけ
で、その 1 例がこの 16 例にいれられた。慶應病院の
本館焼失の際には、事前よりの準備にもかかわらず、
院内患者にも外部からも、精神異常者は 1 名も発生
しなかった。こうして、東京では今次大戦の空襲に
際しては、心因反応の発生はすくなくなかった、と
断定できる。
ここまで、論文の概要を、症例をおぎなって紹介
した。
3.間接に空襲に関係あるもの
3.間接に空襲に関係あるもの
精神病への空襲の間接的影響としては、病像形成
的(塑型的)影響
表 4.間接に空襲に関係ある精神病
と誘発とがある。
男 女 計
その症例数は表 4
Ⅰ.心因塑型的色調を
にあげた。ここに
有する精神病
“病像形成的”と
1.抑うつ病
0
1
1
いうのは、患者の
2.進行麻痺
2
1
3
素質・生活歴・発
3.分裂病
2
3
5
病時環境などに
Ⅱ.同色彩を有せず単
より病像が修飾
に誘発される精神病
1.分裂病
1
3
4 されることであ
る。さて、資料中
合計
5
8 13
にはこの表のほ
かに説明はない。そこで、はいっていた症例報告か
ら相当例をひろってみた。
[症例 5]40 歳男、農業。1942 年 2 月感情抑うつ
的となり井ノ頭病院入院。分裂病、1 か月半で完
全寛解となり退院。1943 年 1 月憑き物妄想で再発、
2 か月で完全寛解で退院。1944 年 11 月 24 日、空
襲の恐怖より(直接被害はうけなかったが)急激
に不安状態となり、
“だめだ、だめだ”と連呼して
不眠。11 月 27 日入院時は、緊張病性興奮の状態。
電気痙攣療法で漸次鎮静。1945 年 1 月 24 日全治
退院。
[症例 6]49 歳男、床屋。1945 年 8 月 10 日の空
襲時には壕に退避していた。爆死の死体をみたり、
破壊家屋の片付けをしたりした。11 日よりなんと
なく憂うつになり、仕事もおもうようにできない。
周囲に無関心となり、臥床することおおく、無為、
好物の煙草もすわず大食。12 月 10 日入院(東京
武蔵野病院)
、計算能力・記憶などいちじるしく低
下。瞳孔症状あり、髄液検査で進行麻痺と診断。
マラリア療法で発熱 10 回、完全寛解で 1945 年 1
月 21 日退院。
症例 5 では分裂病の再発が、症例 6 では進行麻痺
- 13 -
が、空襲により誘発されている。また症例 5 で入院
前の病像は、空襲の恐怖・不安が前面にでていた(病
像形成的影響)
。この症例 5 が、表 4 のⅠにかぞえら
れたか、Ⅱか、はたしかめようがない。
なお、過労が進行麻痺を誘発することについては、
戦場における軍医早尾乕雄の証言 3)がある。
“精神病
中尤モ多キハ麻痺性痴呆〔進行麻痺〕及精神乖離症
〔精神分裂病〕ナリトス。前者ハ勿論出征ノ為メ心
身ノ過労ガ其ノ発病ヲ早カラシメタル感深シ。即チ
所謂「パラリーゼンアルター」
〔好発年齢〕ニ遥カニ
遠キガ故ナリ。即チ三十四五歳ヲ以テセリ。早キハ
三十歳ニ達セザル者サヘアリキ”と早尾はかいてい
るのである。
4.“戦争神経症”の定義ほか
4.“戦争神経症”の定義ほか
わたしが購入した植松・鹽入論文資料には、鹽入
圓祐・岩佐金次郎による空襲生活調査の資料が同封
されていた。こちらについてはつぎの機会に発表し
たい。
東京大空襲による心的外傷後ストレス障害につい
ては、最近野田正彰による証言 4)がある。空襲後 1、
2 年はサイレンの音で空襲体験をおもいだしていた
が、その後の生活・仕事のなかでそれをわすれてい
た。ところが晩年になってそれがもどってきている。
母をたすけられなかった自責感が再燃し、またイワ
シをやく匂いで黒焦げの死体をおもいだす。ナチ
ス・ドイツの絶滅収容所の生存者も、高齢で体がよ
わるにしたがい、収容所の恐怖にひきもどされてい
るのである。
最後に“戦争神経症”の定義にふれておきたい。
井村恒郎は「軍隊における異常心理―戦争神経症を
中心にして―」
(1955)5)で、
“通例、戦時において軍
隊に発生した神経症を、すべて包括している”とし
て、
“前線の戦場生活はむろんのこと、基地の勤務や
兵営の生活も、多くの兵士にとっては、新しい環境
であり、それに順応するためには、いろいろな困難
にたえねばならない。この順応の困難さは個人によ
ってもちがうものではあるが、ともかくもそれに堪
えられずに破綻した場合が、戦争神経症である”と
説明している。ほかのものをみると、だいたいおな
“戦争時の種々
じ定義である。西丸四方(1974) 6)は、
の状況による異常精神反応、戦争ヒステリー”とひ
ろく定義している。
だが、戦争は軍隊間だけでおこなわれるというの
はかたよった観念にすぎず、戦争はつねに市民をな
にほどかにまきこんでいる。その極端なものが沖縄
戦であり、東京空襲であり、広島、長崎であった。
Peters,Uwe Henrik の 用 語 字 典 ( 1984 ) 7) は 、
Kriegsneurose を、
“戦争の影響の直接の結果としてお
こる精神反応としてしばしばもちいられる用語”と
定義している。これらでつかわれる“神経症”の語
は広義で、心因反応・心因症をふくむ。植松らが“直
接空襲に基く反応群”としたものもそこにふくまれ
る。
戦争と平和の問題をかんがえていくにも、戦争神
経症の定義は大事である。ここでは、
“戦争神経症と
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
104.(早尾乕雄:戦場心理の研究、第 2 冊)
、不二出
版・東京(2009)
4)「東京大空襲訴訟で精神科医証言/じりじり自分
が焼ける音が・・/50 年癒えぬ心の傷」東京新聞、
2008 年 12 月 19 日(朝刊)
5)井村恒郎:軍隊における異常心理―戦争神経症を
中心にして―、7-8.異常心理学講座、第 6 回配本、
みすず書房・東京、1955
6)西方四方編:臨床精神医学辞典、164.南山堂・東
京、1974
7)Peters,U.H.:Wörterbuch
der
Psychiatrie
und
medizinischen Psychologie, 318, Urban&Schwarzenberg.
München-Wien-Baltimore,1984
は、直接に戦争状況に規定された軍隊内および市民
間の精神変調である”とすることを提唱したい。
この内容は「戦争と精神科医療、精神医学、そ
して精神医学者」シリーズの一環として、2006 年
10 月 27 日第 10 回精神医学史学会、2009 年 11 月
15 日第 27 回 15 年戦争と日本の医学医療研究会で
報告した。
文献および注
1)植松七九郎・鹽入圓祐:空襲時精神病 第 1 編 直
接空襲に基く反応群。慶應医学 25(2,3)
:33-35,1948
2)井村恒郎(「軍隊における異常心理」,1955)も、
同様の指摘をしている。井村が和田小夜子「支那事
変及び太平洋戦争を含む最近十年間における神経質
患者の消長」(精神経誌、第 50 巻、1947)をひくと
ころでは、東京大学附属病院精神科新来患者中で神
経症患者は 1934 年の 53.8%から 1943 年の 30.9%へ
とへった。神経症群を神経衰弱および神経質とヒス
テリーおよび心因性反応とにわけてみると、前者が
47.1%から 19.2%へとへったのに対し、後者は
6.7%から 11.7%へとふえている。井村はさらに、
神経質・神経衰弱を N、ヒステリー・心因反応を H
とし、H/N 比(100 倍)を算出してみると、1934 年
の 10(男で 3)が 1943 年には 51(男で 39)と、あ
がっていた。さらに国府台陸軍病院(兵士)では H/N
比は 1943 年には 236 の高値をしめした。
3)早尾乕雄:戦場神経病、精神病並犯罪各論第一編、
著者プロフィール
岡田靖雄(おかだ・やすお)
1955 年医学部卒。東京都立松沢病院、東京大学医
学部、荒川生協病院などに勤務。精神科臨床に並行
して、日本の精神科医療史にとりくんできた。この
数年は、心神喪失者等医療観察法廃止運動にとりく
んでいる。モットーは、
“歴史しながら行動し、行動
しながら歴史する”。
著書に『精神科慢性病棟』
(岩崎学術出版社,1971)
、
『私説松沢病院史』
(岩崎学術出版社,1981)
、『呉秀
三 その生涯と業績』(思文閣出版,1982)、
『精神病
医齋藤茂吉の生涯』
(思文閣出版,2000)、
『日本精神
科医療史』
(医学書院,2002)などがある。
- 14 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
『陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部』の分析(その四)
陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部』の分析(その四)
山中太木論文の出自及び1
山中太木論文の出自及び1644部隊での人体実験
の出自及び1644部隊での人体実験
莇 昭三
城北病院
“Rikugun Gun-igakko Boeki Kenkyu Hokoku-IIbu”-(4)
Yamanaka’s Papers and Medical Experimentation on living persons at Unit 1644.
AZAMI Shozo
Johoku Hospital
キーワード Keywords:山中太木 Yamanaka Motoki、1644 部隊Unit 1644,防疫研究室研究報告2部 Report
Vol-2,Laboratory of Prevention of Epidemics, 人体実験 Medical experimentation on living persons、脾脱疽菌 B,
Anthrax.
[一] 研究の目的
「陸軍軍医学校防疫研究報告2部」には、陸軍技
師―山中太木、星野隆一、陸軍軍医―佐藤大雄、柴
田進の論文も掲載されている。これらの人々は 1940
年(昭和 15)4月に南京 1644 部隊での「第五回石
井(四)部隊研究会」
(註参照)でも論文を発表してい
るので、その当時、1940 年には南京防疫給水部・
1644 部隊に所属していたことが窺える。従って「陸
軍軍医学校防疫研究報告 2 部」に投稿、掲載された
論文は、「何時?」
「何処で?」作成されたかを検討
することを目的の一つとした。
更に、
「第五回石井(四)部隊研究会記事」の山中太
木の論文―「営庭表層土壌の細菌学的研究」―であ
るが、この論文が「人体実験」と関連するかどうか
を検討することも目的とした。
[註 1]
・田中明・松村高夫編で「七三一部隊作成資料」
(不
二出版)が出版されている。この中に「第五回石井
(四)部隊研究会記事」が収載されており、11 篇の論
文が掲載され、明らかに南京 1644 部隊での研究会
の記録と思われる。この資料は「部外秘」資料と刻
印されており、
「昭和 15 年 4 月 24 日」と書かれて
いる。従って、南京 1644 部隊設立の翌年に開催さ
れた研究会の論文集(11 篇を含む)と推測できる。
この「研究会記事」に上記の「山中太木」の論文も
2 編掲載されているが、その演題は「山羊乳、羊乳
及豆乳の利用に就いて(第一報)」と「石井(四)部
隊本部営庭土壌の細菌学的研究特に好気性細菌主と
して脾脱疽菌の研究」である。
・第五回石井(四)部隊研究会記事」の由来につい
ては、
「七三一部隊作成資料」の解説(松村高夫)で
は「北九州市在住の野依勇武が古書店から購入し所
蔵している」となっている。
[二] 結果
(1)陸軍技師山中太木、
(1)陸軍技師山中太木、星野隆及び軍医・佐藤大雄、
柴田進等の「陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部」掲載
の論文の出自について
1.「第五回石井(四)部隊研究会記事」
(南京 1644 部
隊研究会)
(1940 年(昭和 15)4 月)に論文を提出
している人(参加者)で、
「陸軍軍医学校防疫研究報
告 2 部」にも論文が掲載されている人―陸軍技師山
中太木、星野隆一、軍医佐藤大雄、柴田進―の 4 名
のそれぞれの論文を列記すると以下のようである。
①山中太木
*「2 部」掲載の論文の演題(所属・身分―中支
那防疫給水部・陸軍技師)
・893 号―「起泡分析法の防疫学的応用」-第 1
報「野戦起泡分析器の考案と結核菌の起泡」
(受付年月日、昭和 19 年 3 月 19 日)
・894 号―「起泡分析法の防疫学的応用」-第 2
報「水中細菌並に土壌細菌の集菌に就いて」
(受付年月日、昭和 19 年 3 月 19 日)
*1644 部隊・研究会(昭和 15 年 4 月 24 日)の
演題(所属・身分―第1科・陸軍技師)
・
「山羊乳、羊乳及豆乳の利用に就いて(第一報)」
・
「石井(四)部隊本部営庭土壌の細菌学的研究
特に好気性細菌主として脾脱疽菌の研究」
②星野隆一
*「2 部」の論文の演題(所属・身分―陸軍軍医
学校嘱託)
・10 号―PH 測定器の試験特に検水用適否に関す
る試験報告―緩衝液に対する成績
(受付年月日、昭和 14 年 7 月 29 日)
・58 号―PH 測定器の試験特に検水用適否に関す
る試験報告―非緩衝液に対する成績(受付年月日、
昭和 14 年 8 月 15 日)
*1644 部隊・研究会(昭和 15 年 4 月 24 日)の
連絡先:〒920-0923 金澤市桜町 2-2 莇昭三
Address:2-2,Sakura-machi、Kanazawa、Ishikawa 〒920-0923 Japan
E-mail:s[email protected]
- 15 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
(受付年月日、昭和 18 年 6 月 21 日)
・652 号―湾沚鎮のまらりあ調査―あのふえれす
の季節的消長
(受付年月日、昭和 18 年 6 月 21 日)
・653 号―湾沚鎮のまらりあ調査―Anopheles
sinensis 幼虫の生態
(受付年月日、昭和 18 年 6 月 21 日)
*1644 部隊・研究会(昭和 15 年 4 月 24 日)の
演題(所属・身分―第 2 科陸軍軍医少尉)
・
「野兎の胃に寄生せるトリコストロンギルスに
就いて」
演題(所属・身分―第 4 科陸軍技師)
・
「昭和 14 年秋冬季に於ける揚子江水の水質的
所見」
③佐藤大雄
*「2 部」の論文の演題(所属・身分―陸軍防疫
研究室、陸軍一等軍医)
・66 号―紫外光線に依る鼻疽菌乾燥抵抗試験
(昭和 11 年 9 月)
(受付年月日、昭和 15 年 2 月 26 日)
・95 号―海猽マウスに於ける鼻疽感染試験並に菌
の毒力に就いて
(本文が欠落している)
・221 号―鼻疽抗原に関する実験的研究―「マレ
イン」の抗原性に就いて(昭和 11 年 9 月)
(受付年月日、昭和 15 年 2 月 26 日)
・222 号―鼻疽抗原に関する実験的研究―余等の
所謂 N.K.M 並に N.A.M に就いて(昭和 11 年 9 月)
(受付年月日、昭和 15 年 2 月 26 日)
・227 号―鼻疽の血清学的研究―健康小動物に就
いての小実験(昭和 11 年 12 月)
(受付年月日、昭和 15 年 2 月 26日)
・228 号―鼻疽菌の生物学的性状(昭和 11 年 12
月) (受付年月日、昭和 15 年 2 月 26日)
・229 号―鼻疽菌とホイットモリ氏菌との鑑別に
ついて(昭和 12 年 3 月)
(受付年月日、昭和 15 年 2 月 26 日)
・231 号―糖加ペプトン水及 3%グリセリンブイ
ヨンに於ける鼻疽菌培養の PH 移動に就て(昭和 11
年 12 月)
(受付年月日、昭和 15 年 2 月 26 日)
・235 号―各種果物根采類上に於ける鼻疽菌の生
存に就いて(昭和 11 年 9 月)
(受付年月日、昭和 15 年 2 月 26 日)
・236 号―鼻疽菌及びその他の細菌に対する紫外
光線照射試験(昭和 11 年 9 月)
(受付年月日、昭和 15 年 2 月 26 日)
・398 号―浜松市に爆発せるゲルトネル氏菌によ
る細菌性食中毒患者血清に対する血清反応成績(昭
和 11 年 9 月)(受付年月日、昭和 11 年 9 月)
・417 号―餡中に於いてゲルトネル氏菌は増殖し
得るや其の数量的検査に関する研究
(受付年月日、昭和 11 年 9 月)
*1644 部隊・研究会(昭和 15 年 4 月 24 日)の
演題(所属・身分―第 1 科軍医少佐)
・「脾脱疽菌による動物実験」―第 1 報(山中
太木も共同演者)
④柴田進
*「2 部」の論文の演題(所属・身分―中支那防
疫給水部陸軍軍医中尉)
・302 号―翻訳「細菌戦」
(ストラスプール大学微
生物学教授、エル・ザルトリエ著 1935 年)
(受付年月日、昭和 17 年 5 月 2 日)
・535 号―中支那に於ける日本充血吸虫の中間宿
主
(受付年月日、昭和 18 年 5 月 13 日)
・651 号―湾沚鎮のまらりあ調査―湾沚鎮の地形
と住民並に四季の変遷
2.上記の人々の「2 部」論文の出自について
①山中太木の「2 部」の 2 論文の出自
「陸軍軍医学校防疫研究報告 2 部」には、「中支
那防疫給水部 陸軍技師 山中太木」と記された 2
編の研究論文が掲載されている。2 編の論文共に「受
付年月日」は「昭和 19 年 3 月 19 日」となっている。
論文 893 号の内容は、いろいろな検体から細菌を
集菌する方法として「大谷式気泡分析器」があるが、
これを野戦用、特に野戦での結核菌の集菌に使用で
きないかー各種浸出液、尿、脊髄液、糞便での集菌
の研究である。結論は野戦で利用できる材料で野戦
気泡分析器(仮称)を試作し、しかも遠心分離機が
ない野戦でもそれで「集菌」が可能となったという
論文である。
また論文 894 号は、上記の試作した気泡分析器で
水中細菌、土壌細菌の集菌を試みた論文である。そ
して水中集菌ではゲラチンを気泡剤にした場合は酸
性で効率的であり、土壌集菌では「サポニン」を気
泡剤とした場合には高度希釈液で集菌効果が高いと
結論している。
これらの「2 部」の山中太木の論文が何時どこで
研究されたものか?が問題であるが、昭和 15 年 4
月 24 日の 1644 部隊での研究会には山中太木が参加
していることは確実であり、彼が帰国したのは敗戦
後であるから、
「2 部」の論文は 1644 部隊で研究さ
れたことはほぼ確実である。また「研究会」報告の
主題と「2 部」の研究主題が密接に関連しているこ
とを考えると、
「2 部」の山中太木の論文は、論文記
載の本人の所属どおりに、
「中支那防疫給水部」
(南
京 1644 部隊)での研究の報告であると断言出来そ
うである。
②佐藤大雄の「2 部」の 12 論文中 10 論文は「鼻疽
菌」関連ではあるが、すべては南京 1644 部隊の設
立(昭和 14 年)以前の研究となっているので、1644
部隊以外で実験された研究報告と考えるのが至当と
思われる。
③柴田進の「2 部」の 5 篇の論文はすべて研究対象
は中支那の河川、湾であり、1644 部隊での昭和 17
~8 年頃の実験を踏まえたものであろう。従って「2
部」掲載の論文はすべて 1644 部隊での研究であろ
う。
④星野の「2 部」の 2 論文は、どこで実施されたも
のかは特定できない。
16
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
そして研究の総括として脾脱疽菌が検出された地
点が、100 箇所中 8 箇所であったことを確認し(地
点番号 9、10,11,13、43、97,98,100)、異常
で危険な脾脱疽菌検出の理由を分析している(附図
「石井部隊本部営内表層土壌採取場所一覧表」参照)
その分析であるが、9、10、11、13 の地点に就い
ては「本年 1 月頃より驢馬に脾脱疽菌生菌を 3 回接
種し繋留した小屋付近であり、
・・検出率濃厚なるは
寧ろ当然なり・・・」と。そして「・・・・43 は脾
脱疽菌検出陽性は全く意外とする所にして・・」
、靴
を介してその「土壌中に混入せるものに非らざるや
を疑う・・」としている。
問題は 97,98,100 の地点(付図矢印)である。
「次
に第 6 棟内における 97,98 及び 100 は付近に○○
ありて前期驢馬の場合と全く同様なる関係を以て首
肯し得るものと思惟す」となっている。
この論文に付記されている第 6 棟の略図によれば、
97,98 地点は 1644 部隊の研究棟の 3 階の部分であ
り、100 地点は 4 階部分となっている。これまで多
くの「証人」の記憶では(
『註 2、3』
)、この 3 階部
分には「捕虜実験室」があり、4 階部分は「捕虜監
禁室」と言われてきた。これらの証言とあわせて考
えると、
「驢馬の場合と全く同様なる関係」とは、こ
の場所で人間に脾脱疽菌を投与して、実験していた
ことをこの論文は記述していると言えよう。
[註 2]石田甚太郎の証言(水谷尚子「戦争責任
研究」10 号)
[註 3]石田甚太郎の証言によれば、彼が 1644
部隊に入隊した昭和 17 年頃は、1 科は「細菌兵器
の研究・製造」、2 科は「資材管理、営繕、経理、
食堂管理等」、3 科は「防疫、ワクチン製造、牧場
経営等」であったという(水谷尚子「戦争責任研究」
10 号)
以上の如く、
「陸軍軍医学校防疫研究報告2部」の
論文には、当時の中国戦線での現地での研究も含ま
れていると言える。
(2)「第五回石井
(2)「第五回石井(
「第五回石井(四)部隊研究会記事」の「山中
太木」論文は、1644
太木」論文は、1644 部隊で「生体実験」が行わ
れたことを示唆
*上記の「第五回石井(四)部隊研究会記事」(「昭
和 15 年 4 月 24 日」)に掲載されている山中太木の
論文の一つが「石井(四)部隊本部営庭土壌の細菌学
的研究特に好気性細菌主として脾脱疽菌の研究」で
ある。
この研究の目的は、土壌中には多くの微生物が存
在し危険であるが、特に「吾人が危険な病的材料の
処理に当たり、
・・・特に脾脱疽菌馬体免疫操作の実
験に当り、
・・該菌の逸散を来し・・土壌が汚染し、
・・
新たな伝染源となることは否む能はざる事項に属
す・・・」ので営庭土壌の細菌学的研究を行なった、
[三] 結論
(1)「陸軍軍医学校防疫研究報告 2 部」の論文には、
「山中太木」
「柴田進」論文の如く、戦地の防疫給水
部での研究も含まれている。
(中山、柴田論文は南京
1644 部隊での研究)
(2)先の「陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部」の分析(そ
の三)で、
「2 部」の高橋正彦論文 30 篇は高橋が 731
部隊在任中に作成した論文であると思われると明示
した。今回の中山太木、柴田進の「2 部」の論文も、
南京 1644 部隊で作成されたものであることを明示
できた。
従って「2 部」には「陸軍防疫給水部隊」
(中国
の現地で行なわれた実験結果の論文も含まれている
可能性があることを明らかにした。
(3)「第五回石井(四)部隊研究会記事」の「山中太木」
論文は、1644 部隊で「生体実験」が行われていたこ
とを示唆している。
附図「石井部隊本部営内表層土壌採取場所一覧表
というのである。
研究は「石井部隊本部営内表層土壌」を、
「夫夫外
部的条件を異にする地点」の 100 箇所から採取して
調査している。結果はそれぞれの地点毎に検出され
た菌―馬鈴薯菌、根状菌、葡萄状球菌、八聯球菌―
等を記載し、それぞれの菌の生物学的性状も記載し
ている。そして更にそれらの菌をマウスに投与して
斃死時間を測定し、解剖所見と菌検出状態を調査し
たものである。
(この論文は、
「15 年戦争と日本の医学医療研究会」
第 27 回定例研究会―2009 年 11 月 15 日、於東大医
学部研究棟―で発表したものを補強して論文とした。
城北病院・莇昭三)
17
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
専門:内科、医事法、医史学。
著書:医療学概論(勁草書房 1992 年)
、戦争と医療
(かもがわ出版 2000 年)等。
著者プロフィール
1927 年石川県生まれ、金沢大学医学部卒業。
城北病院名誉院長。
「15 年戦争と日本の医学医療研究会」名誉幹事長。
18
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
15 年戦争と日本の医学医療研究
会「戦争と医学」第七次訪中調査
2010 年 5 月
団長:刈田 啓史郎、事務局長:西山 勝夫、団員:
莇 昭三、原 文夫、西里 扶甬子、西山 登紀子
全体の日程
全体の日程
2009 年 9 月 15 日~24
日~24 日
団員構成
9 月 15 日(火)
日(火)
・莇、西山(勝)、原 07:30 関空集合、中国国際航空
CA0162、09:30 発、11:50 北京国際空港着、昼食、
同 CA1611、16:20 発、18:00 哈爾浜空港着、通訳の
馮さんの出迎えの車でホテルへ(途中イルミネーシ
ョンにかざされた侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館
管理中心前で停止)、ホテル:哈爾浜東安賓館(平
房区集智街 7 号)チェックイン後、西山は金成民先
生と打ち合わせ
・西里 11:20 JL619 便で成田発 13:30 上海到着
乗り継ぎ便 MU5611 便が予定より 40 分遅れで出
発、19:40 頃到着。罪証陳列館のスタッフと運転手
が哈爾浜空港で出迎え、車でホテルへ。
・刈田 中国国際航空 CA0924、14:25 発、16:35 大
連着、中国南方航空 SC4825、18:45 発、20:05 哈
爾浜空港着、予定より 40 分遅れの着、通訳の馬さ
んの出迎えの車でホテルに 21:40 着、チェックイ
ン
22:00 刈田、西山、莇、西里、原は通訳の馬さんと
運転手と一緒に平房市内に向かい、夕食
24:00 帰宿、打ち合わせ
9 月 16 日(水)
日(水)
08:30 集合、8:40 発
09: 00 侵華日軍第 731 部隊罪証遺跡建設保護指揮
中心着
09:12 731 部隊特移扱被害者家族、義発源村ペス
ト禍被害遺族趙桂芹、金東君元哈爾浜市病院
副院長との座談会、司会:金成民先生、通訳:
馮、馬
・刈田団長による挨拶と団員の紹介
09:23 被害者李鵬閣さんの家族(娘の風琴、孫の夫
李季)の自己紹介・被害実情の説明と日本政府
への抗議
10:08 被害者朱雲彤さんの家族(娘の朱玉芬と妹の
夫の莫霖さん)の自己紹介・説明
・戦後、近隣村でのペスト流行の被害生存
者(趙さん)の証言
11:06 金東君先生の挨拶・説明
・意見交換
11:45 終了
12:00 昼食(哈爾浜賓館)
13:15 行車
13:50 哈爾浜市档案局資料閲覧
15:10 行車
・哈爾浜医科大学図書館着
・哈爾浜医科大学解剖学教師解剖展示
・哈爾浜医科大学図書館閲覧室、史興偉副
館長による案内
16:30 哈爾浜医科大学医史学教研室(李志平教授、
馬学博准教授)
16:33 李志平教授挨拶
16:35 刈田団長挨拶
16:40 意見交換
17:20 哈爾浜医科大学図書館玄関で記念撮影
17:25 行車
・夕食(緑色庄園)
19:24 行車
19:52 帰宿、断水騒動
9 月 17 日(木)
日(木)
08:07 行車
09:10 哈爾浜市社会科学院
09:15 刈田団長による挨拶と団員の紹介
09:20 鮑海春哈爾浜市社会科学院院長による挨拶
と同席者(劉汝佳、邸春光、楊彦君、金成民、
邸懋暁、邸床国、盛文爾陳列館解説員、王生
活新聞記者、中野勝夫妻客員研究員)の紹介、
通訳:姜
・意見交換
・地下展示室
・731 研究所(哈爾浜市社会科学院)にて
金成民先生と意見交換
・行車
・昼食(鑫鵬酒店:尚志大街 198 号)
13:42 行車
14:07 伍連徳紀念館
14:37 行車
14:47 東北烈士紀念館
15:37 行車
15:57 ホテル:松花江凱菜商務酒店(道里区中央大
街 257 号、断水のためホテル変更)着
18:30 中央大街へ徒歩にて
19:10 夕食(老上号中央餐庁:中央大街、打ち合わ
せ)
22:21 帰宿、哈爾濱宿泊・調査費清算
9 月 18 日(金)
08:10 行車
08:54 侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館管理中心着
09:00 9・18 記念式典
09:59 侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館展示
11:44 行車、昼食(哈爾浜賓館)
13:10 行車、731 部隊員宿舎跡
14:32 給水塔
14:46 731 部隊員等死亡者用焼却炉北洼地焚尸炉跡
14:58 兵器工場跡
15:14 行車
16:00 黒竜江省社会科学院
19
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
16:04
曲偉院長による挨拶と同席者(高暁燕、杜頴、
笪志剛、結風林)紹介、通訳:杜頴
・刈田団長挨拶
・意見交換
18:00 夕食(東方餃子王)、王希亮途中参加
19:18 松花江河畔を徒歩にてホテルへ
20:10 帰宿
9 月 19 日(土)
08:20 諸経費清算(金成民先生と)後行車
・侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館中央 2 階
南北棟
・侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館中央地下
通路
10:00 侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館管理中心に
て、周延哈爾浜芸術動画設計開発有限公司経
理と相談、通訳:姜
11:30 行車
12:00 哈爾浜空港
14:00 哈爾浜空港発、3U8840 南京 16:35 着 ガイ
ド姜小玲の出迎え、マイクロバスにてホテル
へ
18:00 ホテル江蘇保険大厦着
18:40 西山(登)、袁建軍(通訳を依頼した上海交
通大学ロボット工学研究所准教授)合流
20:00 夕食(同ホテル 4 階レストラン)
21:30-22:00 同所にて団会議
9 月 20 日(日)
9:30 行車
09:55 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館
10:00 朱成山館長、劉相雲主任、芦鵬館員等と学術
交流、朱成山館長挨拶と説明(含む、質疑応
答)、通訳:袁
11:15 刈田団長による挨拶と団員の紹介
11:24 意見交換
13:20 献花、記念撮影
13:28 行車
13:33 昼食(豪門川宴)
15:18 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館展示、案
内:芦鵬館員
・「日本の漫画家“私の8月 15 日”漫画展」
鑑賞
・紫金草の畑と記念像見学
17:47 行車、18:17 帰宿
18:30 徒歩にて夕食に(紅泥)
・帰宿
9 月 21 日(月)
09:30 集合
09:45 行車
10:10 南京医科大学図書館前着
10:15 孟国祥社会学教授(江蘇中国近現代史学会副
会長、江蘇中共党史学会副会長、南京大虐殺
史研究会副会長)と学術交流、通訳:袁、孟
国祥教授挨拶
May, 2010
10:19 刈田団長による挨拶と団員の紹介
10:30 孟国祥教授講義
11:50 質疑応答
12:00 記念撮影
12:30 昼食(南京医科大学教職員食堂)
13:00 構内散策
13:20 行車
13:50 鼓楼病院(旧南京病院)
14:15 行車
14:20 南京師範大学(旧金陵女子大学)正門着
14:30 経盛鴻教授・ゼミ院生と学術交流、経盛鴻教
授挨拶
14:34 刈田団長による挨拶と団員の紹介
14:43 経盛鴻教授講義
15:06 意見交換
16:38 記念写真
16:47 Minnie Vautrin 胸像
17:05 行車
17:20 帰宿
18:30 徒歩で夕食に(紹興酒店雨田餐飲:魯迅縁の
レストラン、湯福啓南京中北友好国際旅行社
副総経理と)
20:30 帰宿、南京中北友好国際旅行社との清算
9 月 22 日(火)
09:00 行車
09:15 空軍基地正門付近(人骨発掘場所、旧「細菌
工場跡」)
09:30 南京軍区総医院北門、栄 1644 部隊趾調査、
通訳:袁
11:05 徒歩移動
11:15 江蘇省会議中心、励志社(蒋介石・宋美齢:
1929-1949)史料展示
12:00 行車
12:44 昼食(山西人家)
13:53 行車
14:10 九華山
15:14 行車、玄武湖畔
16:20 中華門
17:30 記念写真、行車
17:55 帰宿
19:07 徒歩で夕食に(紹興酒店雨田餐飲)、23 日
夕食用食料買い出し
22:10-24:00 団会議
9 月 23 日(水)
09:00 行車
09:27 空軍基地正門付近
09:35 第二歴史档案館、通訳:袁
09:40 馬振犢副館長挨拶
・刈田団長による挨拶と団員の紹介
・意見交換
10:51 記念写真
11:00-11:31 第二歴史档案館展示(2 階)
11:43 行車
12:05 中山陵ゲート ⇒ 中山陵を見学
20
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
13:20
14:20
14:55
15:13
15:45
16:20
17:10
18:00
19:00
22:50
23:30
昼食
中山陵ゲートから徒歩にて
行車
ラーベ紀念館
行車
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館、書籍購
入、芦鵬さんより档案受理
行車
南京駅
D5447 南京発、22:30 上海着、荘儉さんの出
迎え
西里 袁さんに駅のタクシー乗り場からタ
クシーに乗せてもらう。上海宝隆美爵酒店チ
ェックイン
西里以外は荘儉さんの案内で上海空港内ホ
テル、莫泰 168 空港店着
9 月 24 日(木)
07:30 ガイドの荘儉さんの案内でホテル発
07:40 搭乗手続
09:15 莇、西山(勝)、原 、西山(登) CA921 上海発 12:34
関空着陸、13:00 ゲート出口
10:35 刈田 CA155 上海発、14:25 仙台着
2010 年 5 月
9 月 24 日(木)
14:00 東華大学人文学院教授 上海社会科学院歴
史所特聘研究員 陳祖恩氏と面談
通訳:復旦大学留学生、木浦マサト
15:30 上海捕虜収容所、民間人抑留所についての上
海社会科学院作成報告書解読 通訳:木浦
18:00
復旦大学日本研究センター副所長張一家
と大学の教授用レストランで夕食
9 月 25日(金)
10:00 上海市当案館 訪問 閲覧カード作成 デ
ータベース当案資料の請求 助手:木浦マサト
12:00 福民病院跡地訪問、写真撮影、昼食
15:00 上海市当案館に戻り資料閲覧、コピー注文
16:30 海南島捕虜収容所共同研究者(オーストラリ
ア人)と打ち合わせ後日本レストランで夕食
9 月 26 日(土)
13:00 ホテルチェックアウト 木浦とタクシーで
近くのバス停へ。空港行きのバスに乗せても
らう。14:30 浦東空港着
17:05 Air China15 便上海発
21:00 成田
・西里:上海市で継続調査
調査の概要と特徴、今後の課題
刈田 啓史郎
教授から、15年戦争時の医学犯罪に関する同大学
2009 年 9 月 15 日から 24 日の間、戦医研による「戦
での研究の状況について講義を受けた。また、馬学
争と医学」第7次訪中調査が行なわれた。今回調査
博准教授により、同大学解剖学展示室、図書館等の
が行なわれた地域は、中国哈爾浜市とその郊外、南
施設を案内していただいた。解剖展示室には、教育
京市、ならびに上海市の3ケ所であった。なお、1
用に作られたプラスチック加工の遺体が展示されて
5日から19日までを哈爾浜で、19日から24日
いた。図書館では史興偉副館長より館内の説明を受
までを南京での調査に充て、その後に上海の調査が
け、閲覧室、書棚の図書を見学し、必要な文献コピ
行なわれた。訪中調査団のメンバーは、莇 昭三、
ーをしていただいた。
刈田啓史郎(団長)
、西里扶甬子、西山勝夫(事務局
哈爾浜市社会科学院において鮑海春院長の挨拶を
長)
、西山登紀子、原 文夫の6名で、その内西山登
受けた後、研究員の紹介があったが、そこには、日
紀子団員(以下、西山(登))は南京市のみの参加、
本から中野勝夫夫妻が、客員研究員として来ておれ
上海市は西里扶甬子団員のみによる調査であった。
ていた。研究者との意見交換の後、地下資料室にて、
それぞれの地域ごとの主な調査内容の概略(詳細
研究所の業績の展示を閲覧した。
は別個に分担して報告する)を列挙すると、
1.哈爾浜市およびその郊外
① 研究者との交流
中国侵略日本軍第七三一部隊罪証陳列館において
金成民館長(哈爾浜市社会科学院七三一研究所長を
兼任)と、今後の研究や調査活動の進め方、さらに
は今後書籍、資料を共同で発行する件等について連
日協議した。
同館研究所(陳列館管理中心)内で、金東君元哈
爾浜市病院副院長から、前回の訪中調査時に引き続
き、旧日本軍が 731 部隊を引き上げた直後に平房周
辺地域に大量に発生したペスト等の伝染病と、その
対策の内容について説明を受けた。
哈爾浜医科大学において、李志平医学教研室主任
②
遺跡、史料調査
哈爾浜市档案館では、哈爾浜市地域でのペスト流
行に関する史料の閲覧を受け必要な部分のメモ、コ
ピーを行なった。なお、まだ未公開の CD(戦争直
後の 731 部隊の航空写真などを含む映画撮影記録)
の閲覧(莇、西山両団員が代表して)を行なった。
中国侵略日本軍第七三一部隊罪証陳列館では、以
前に発見はされてはいたものの、これまで一般市民
には公開されておらず、近い将来公開予定の陳列館
中央地下通路を、汚れを防止するための特別の作業
服を着用して見学した。内部は、まだ未整備の状況
であった。
731 部隊の軍属が当時居住していた集合住宅の調
21
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
査では、現在同じ建物に居住していた方の住居(集
合住宅の別の部屋であるが、軍属が居住していたも
のと構造は同じと思われる)を案内していただき、
当時の建物の構造を調査し、当時の生活を思い浮か
べた。
東北烈士紀念館、伍連徳紀念館を再度訪問した。
May, 2010
に保存されていた旧日本軍関係の貴重な史料が現在
台湾に移動している可能性があるとの説明を受けた。
医学犯罪被害者との面談
罪証陳列館保護建設指揮中心の会議室で、731 部
隊特移扱被害者、李鵬閣さんの家族(娘の風琴、孫)
と面談し、これまでの被害者家族としての生活の苦
しみなどの訴えを聞いた。さらに家族から日本政府
に対する訴状を託された。
② 栄 1644 部隊遺跡の調査
1939 年、石井四郎は、南京に防疫給水部(栄 1644
部隊)を設置した。その規模は、かなり広大なもの
であった。現在残されている建物を中心に調査を行
なった。その地域は、現在軍の病院として使用され、
かなり変わってきているが、当時の建物も一部残っ
ていた。生体実験が行なわれていたとされる研究室
建物は現存しており、四階建ての建物で、その三階
部分で生体実験などを行なったとされている。現在、
建物全体が軍病院の管理棟として使用されていた。
④
③
③
中国の市民との歓談
9 月 18 日は歴史的な 9・18 記念日であったため、
それを記念する行事が、罪証陳列館近隣の住民が多
数参加して開催された。この式典に我々日本人も招
かれて参加した。団員は、それぞれの住民が持参し
た記念カードに署名を要請された。
2.南京市
① 研究者、学生との交流
袁建軍(上海工科大学准教授)さんの通訳により、
南京、長江の近くにある侵華日軍南京大屠殺遇難同
胞紀念館を訪問した。朱成山館長から 1998 年 8 月に
発見された首だけ切り離された遺体について、それ
を栄 1644 部隊の生体実験のものと同定した経緯に
ついて説明を受け、引き続き劉相雲主任、芦鵬館員
などが参加して、紀念館や 1644 部隊関連の研究交流
を行った。
南京医科大学において、孟国祥社会学教授より講
義を受け学術交流を行った。なお、大学食堂で孟教
授と一緒に会食をし、昼食時の教職員食堂を見学で
きた。
南京師範大学において、経盛鴻教授による講義を
ゼミ院生と一緒に受けた後、学生との意見交流を行
った。
第二歴史档案館(中央政府直属の管理運営)にお
いて、馬振犢副館長から館で保存されている史料に
ついての説明がり、そこで、中華民国当時、この館
歴史的記念地の訪問
励志社(蒋介石、宋美齢がつくった)の史料を閲
覧し、展示の写真から 1644 部隊の建物を知ることが
できた。
その他、ラーベ紀念館、中山陵、九崋
山を訪問した。
3.上海市
南京の調査終了後、上海市档案館史料調査、福民
病院跡地調査が西里団員により行なわれた。
4.今後の課題
まだ、きちんと検討していないが、今後の検討課
題となると思われること、私の判断で列挙する。
① 医学犯罪被害者・家族との話し合いが行なわれ
たが、今後訴状、裁判などを依頼された場合の対応
をどうするか考える。
② 中国研究者と共同で、資料等の出版が考えられ
ているが、どのように実現していくか検討する。
③ 台湾に移動しているとされる史料の調査が今後
の課題である。
④ 哈爾浜市档案館所蔵のCDの公開を要請してい
く。
⑤ 731 部隊の地下道の公開について、日本側からの
要望を伝えていく。
⑥ 毎回中国の研究者から要望が出ていることであ
るが、日本に移動していると思われる史料の公開を
進める。
金東君医師及び趙
金東君医師及び趙桂芹氏との懇談
莇 昭三
2009年9月16日「731 部隊細菌戦贈害・哈
爾浜鼠疫流行事件」関連の金東君医師(元哈爾浜市
鼠疫防疫員)及びその被害者趙桂芹氏と、
「731 部隊
陳列館管理中心」で懇談した。
「731 部隊細菌戦贈害・哈爾浜鼠疫流行事件」
は、1946年6~10月にかけて平房 731 部隊付
近の村落でペストの流行があり、東井子村で死亡3
8人(38人)
、后ニ道沟村で死亡42人(50人)
、
義発源村死亡41人(41人)、哈爾浜市死亡14人
(14人)の被害があった(金成民「日本軍細菌戦」
661頁―括弧内は楊彦君著「731 部隊細菌戦贈害
研究」)
。この事件は敗戦で 731 部隊が破壊された後
に、同部隊で飼育されていた鼠およびペスト菌によ
る被害と言われている(同上)
。
① 金東君医師(元哈爾浜市鼠疫防疫本部・防疫班下
設班第ニ組医師)
昨年の第6次訪中団が同氏の自宅に招待されて以
来の親交を深めるためにはるばる来られた。同事件
で「防疫班として参加した」
「その後市の伝染病院の
副院長をしていた」と発言があったが、特に新たな
情報はなかった。
22
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
② 被害者趙桂芹氏(74 歳)の証言
1946 年8月、日本軍が去ってから、この近辺の村
でペストが流行した。このペストは 731 部隊で細菌
実験をしていたことによる。ここから3キロの私の
住む場所(義発源村)でもペストが流行した。30 人
以上が亡くなった。
私の姉は当時 14 歳だったが、朝9時に症状が出て
11 時に死んだ。この症状は、脇の下にオデキが出て
きて、そこから膿が出てきた。私の兄と兄の奥さん
が、当時 22 歳だったが、10 分も立たないうちに亡
くなった。私の父の弟の子供の妹が3人、弟が1人、
皆亡くなった。一番年長が 10 歳で、一番下が2歳だ
った。私の言うことはすべて事実だ。私は当時 10
歳だったが、直接この目でみたことだ。その時の様
子はとてもひどかった。その時、中国政府から防疫
隊が来て、ペスト感染防止を取り組んだ。3つの村
で 100 人ぐらいが死んだ。そのことからもう 60 年経
ったが、日本人が罪を犯したことは確かだ。日本軍
国主義者は 731 部隊で細菌を生産し、中国人にいろ
いろと被害を加えた。日本政府は歴史を直視しなけ
ればならない。731 部隊が細菌実験を行っていたこ
とを認めなければならない。
*質疑応答
団 鼠をたくさん見るようになったのはいつごろか
ら?
趙 1945 年8月に関東軍は日本に帰ったが、その後
から田畑の中にいっぱい鼠が出てきた。
団 その鼠は冬も出たのですか? どんな鼠(色と
か)でしかか? 以前から村にいた鼠だったのです
か?
趙 冬は穴の中にもぐっていて出てこない。色は灰
色のものだった。
団 46 年にペストが流行したということだが、以前
にはそういう病気はみたことがありましたか?
趙 なかった。ペストもなかった。
団 1945 年はあなたは9歳だったわけですが、当時、
日本の 731 部隊が村に鼠を買いにきませんでした
か?
趙 当時、731 部隊へ村から鼠を渡さねばならなか
った。私の父の兄は当時、村の村長だった。それで
私の家に村の人たちが集めた鼠を集め、それを 731
部隊がとりに来た。
団 1日に何匹くらいを 731 部隊にわたしたのか?
趙 正確な数字は分からないが、多いときは何百匹、
少ないときは何十匹という程度だった。
団 その時、731 部隊は代金を払いましたか?
趙 まだ小さかったからわからない。
団 その時、村の人たちは鼠を何に使うのか知って
いたのですか?
趙 わからない。
団 (731 部隊が鼠を集めることが)1943 年頃から
始まったと思いますが、実際、何時ごろからだった
かわかりますか?
趙 1943 年頃からと思う。
団 1946 年には非常にたくさんの鼠を見るように
なったと言われたが、非常にたくさんとはどれぐら
いの数なのか?
趙 田畑の中に一杯出てきたが、数についてはわか
らない。
団 ペストが流行する時には鼠の死骸があたりに見
られるが、1945 年から 46 年当時、鼠の死骸はあり
ましたか?田畑に一杯鼠が出たと言われたが、死骸
はありましたか?
趙 ありません。
金館長 その当時、ペストが流行してから人民政府
の防疫隊が入り、外から村に入れないように隔離し
た。また家の中の人は外へ出ないように隔離したか
ら、当時 10 歳の彼女には分からなかったと思う。今
日はその当時、防疫隊に参加した金先生がおられる
ので、質問があれば金先生にお尋ね下さい。
哈爾浜市档案館におけるペスト流行に関する档案調査
哈爾浜市档案館におけるペスト流行に関する档案調査
莇 昭三
哈爾浜市档案館へは9月 16 日午後訪れた。訪中
団としては1946年の 「731 部隊細菌戦贈害・
哈爾浜鼠疫流行事件」関連の「档案」の閲覧を事前
に希望していた。訪問すると約20点ばかりの「档
案」が用意されていた。しかしこの事前に用意され
ていた「档案」で、私の閲覧したのはすべて195
5年~1959年の防鼠、薬品生産に関係した中国
共産党哈爾浜市委員会の通達類であった。
(例)
・中省衛生部門
関予防鼠防痛工作的通知、経験
自1955年~至1959年
・中国共産党哈爾浜市委員会 中央・省委関係除害
減病、医薬生産、愛国衛生活動体育工作的指示、通
知 1959,1,9~1959、11、19
・その他
以上のような档案で、 「731 部隊細菌戦贈害・
哈爾浜鼠疫流行事件」直接関連の「档案」はなかっ
た。
(訪中団として他の団員の閲覧した档案について
は、まだ充分な情報交換がなされていないので、不
明であるが)。
しかし、この档案館の閲覧の前に哈爾浜市社会科
学院から調査団に楊彦君著「731 部隊細菌戦贈害研
究」が贈与されたが、市社会科学院はこの本に詳細
に「哈爾浜鼠疫事件」の分析がされているという見
解であった。贈与された楊彦君著「731 部隊細菌戦
贈害研究」には「哈爾浜鼠疫流行事件」が分析され
ているが、中国語のため未だ読了していなく、ここ
に報告できないことを了承されたい。
西山勝夫
23
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
哈爾浜市が保存していた、1956 年飛行機から撮影
した 16mm フィルム映画を DVD 化したもの(撮影時
間 10 分 10 秒、無声)を、档案館責任者の許可で鑑
賞(2 人に限定ということで、莇、西山のみが参加)
できた。
屋根が残っているロ号棟、まだ建物が残っている、
その上から撮ったシーンなどがある。
金成民 731 研究所所長の説明では製鉄運動で
1958 年に鉄が全部持ち去られた建物は無くなった。
ソ連が終戦時に鉄など撤収したのではない、煙突も
残っていた、兵器班の建物、用途不明の建物が残っ
ていたことがわかるが、全部私も説明できない」と
いうことであった。
ロ号棟以外の建物で人体解剖室が数室並んでい
るという説明の建物や地下室のシーンもあった。
山口班の付近、細菌爆弾工場付近にあった(今は
May, 2010
ない)「解剖室」の液槽や消毒テーブル(傾斜がつい
ている)といわれるもの、傾斜がついている壁の穴
などのシーンがあるが、まだ解明はされていない様
子で、人体解剖室であったかどうかも含めて、建物
/・施設・設備に関する検証が今後必要と考えられた。
田中班の建物(塀の一部は残っている)、航空班の建
物(今も残っている)
、陶器爆弾の断片の山、ロ号棟
の西側・東側・滅菌ボイラー・遠景、ボイラー棟(ボ
イラー室の下の建物、非常に鮮明で、タービンも撮
影されている)
、地下、マルタ死体焼却炉などが観ら
れた。
金成民 731 研究所所長によれば、撮影者は、今は
亡き人、当時 40 数歳でハルビン市弁公室の秘書職
務で撮影したとのこと、撮影者も何を撮影しか分か
らなかったと思う、731 部隊罪証陳列館とは全く関
係なかったとのことであった。
哈爾浜医科大学医史学教研室との交流
哈爾浜医科大学医史学教研室との交流
莇 昭三
きない。これを公開させる必要があり、誰かがやる
9月16日午後、哈爾浜医科大学医史学教研室を
必要がある。
「帝国医学」という言葉があるが、どの
訪問した。李志平主任教授、馬学博副研究員と短時
ように思うか?日本が「アジア解放戦争」といって
間懇談した。
いたが、それは間違いである。
・李医史学教研室主任教授の挨拶
医の倫理教育は2年生で教え、90分である。731
「731 部隊については今後も研究したい。日本で
部隊については「医学の悪い面」として教えている」
。
はいろいろの意見があるらしいが、朝鮮戦争でアメ
以上のような内容の挨拶があり、暫時懇談した。
リカは細菌戦を実施した。731 部隊の資料はアメリ
カが持っている。これが公開されないと充分解明で
哈爾浜市社会科学院との懇談
哈爾浜市社会科学院との懇談
莇 昭三
際会議」をカナダ、モントリオールで開催予定とも
9月16日午後、哈爾浜医科大学医史学教研室訪
説明された。
問後、哈爾浜市社会科学院を訪問し、鮑所長はじめ
懇談の中で、哈爾浜市社会科学院の収集した 731
8名の所員と懇談した。
部隊関連の新しい写真集の出版について、戦医研と
鮑所長及び金成民氏を中心に中国での 731 部隊研
して協力を要請され、協力を前向きに検討すること
究と資料収集の現状を聞く。中国政府としても「731
を表明した。尚社会科学院所蔵の「資料目録」集及
部隊遺跡」をようやく「世界遺産」として登録させ
び「籑収写真集」の寄贈を受けた。
る方向で運動がはじめられていることが伺えた。
尚、席上で金成民氏は朝鮮戦争でアメリカ軍が細
説明では、3万点の資料、写真3620枚、関連
菌戦に使用したという「資料」を保管しているとい
単行本20冊、731 部隊関連の目録作成が完成し、
う表明があった。
「世界遺産」への登録が国家的にすすめられ始めた
という説明を受ける。また明年10月には第5回「国
伍連徳紀念館訪問
莇 昭三
という。伍連徳氏の生い立ち、生涯の業績の展示で
社会科学院訪問後、新装された伍連徳紀念館を訪
充実したものとなっていた。ペスト菌蚤の媒介動物
問した。以前は紀念館の前の棟は保育園であったが、
としてリスの一種の「タリバハン」の展示もあった。
小規模の病院に改造され、後ろの紀念館も新しく改
装され、展示物も充実して、本年8月に開館された
東北烈士紀念館(哈爾浜
北烈士紀念館(哈爾浜市)訪問
哈爾浜市)訪問
莇 昭三
①「哈爾浜警察局と 731 部隊」
伍連徳紀念館訪問後、前回訪問時に説明を受けな
・大藪武雄口述(1954年8月10日)
(119-
かった展示物(当時の売春宿と哈爾浜警察と 731 部
2、144、1、第3号)
隊との関係品)の再確認のために短時間訪れた。
24
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
「1941年6月、哈爾浜警察局司法科長鹿毛繁
太の命令で、既に死刑の判決を受けている2名を石
井部隊に送った。両人ともロシア族で、一人は越境
して逮捕された人で25,6歳」
・鹿毛繁太口述(1954年8月21日)
(119-
2、33、1、第4号)
「1940年6月、哈爾浜警察局司法科長に在任
時に、哈爾浜憲兵隊が来庁したので、調査完了した
ロシア族2名を、部下の大藪武雄に石井部隊に移送
させた」
・松本英雄の口述(1954年12月23日)
(11
9-2、856、1、第4号)
「1941年7月、哈爾浜警察庁捜査科に在職中、
司法科逮捕蘇聯人2名、外事科逮捕蘇聯人6名、合
2010 年 5 月
計8名を 731 部隊に送った」
*これらの展示物からみると、所謂「マルタ」は関
東軍憲兵隊による「特移扱」だけではなく、当時の
「満州」の「偽警察局」も直接関係していたことが
推定できた。
②当時の「哈爾浜の売春宿」
1936年当時、哈爾浜には176軒の「妓院」、
「烟館」56軒、
「毒物発売所」194軒があった。
吉林省、黒竜江省を合わすと「照妓院」は550軒
で日本人「妓女」等―ロシア人少女、日本婦女、朝
鮮婦女、中国婦女等―は7万人であった。
731 部隊員住居跡
部隊員住居跡
西山 勝夫
9 月 18 日午後、731 部隊員がかつて
住んでいたといわれる 3 連棟の建物跡
を探すために、調査団一行はマイクロ
バスで、かつての居住区の中に入った。
関東軍防疫給水本部満洲第 731 部隊要
図(右図)が唯一の手がかりであった。
右図左下○印周辺を一行歩き回ったが、
3 連棟らしきものは一つしかなく、向き
は右図とは異なっていた。連棟ではな
く壁で繋がっている感じだった。建物
左下の○印付近が、今回調査した 731 部隊員がかつて住んでいたと
自体は頑丈なコンクリート造り(右写
真)で、現在も居住に供されていた。2 いわれる 3 連棟の建物跡
階。3 階には外の階段を利用して、吹き
さらしの通路から、各戸に入るようになっていた(右
下写真の一番右側壁面に外階段がある)。
Google Earth による空撮(下が南)でもわかるよう
残念ながら最西端の棟の最西端 1 階は改築工事中
に、中央 3 連棟の向きが図面と異なり北東向き
で住人がいる様子がなく、1 階の入り口が開いてい
の並びとなっていた、折線は凡その調査点軌跡
る他の住居内部を見せていただく折衝を通訳の馮産
にお願いした。すぐ東隣は大理石の細工作業場にな
っていて断られた。その隣は老婦人と息子らが住ん
でいて、迎えてもらい知っておられる限りの説明を
受けることができた。
室内は暖房により暖かかった。コンクリートの壁
は 30cm 弱はあると思われた(メジャーを忘れてき
た)
。もともとの間取りは 1K で、1 階については北
側に一部屋分増築(棟全体)されたことがわかった
(最下段写真、1 階部分が手前に張り出して見える)
。
婦人の話によるとこの家族は、平房区工場家族住
居地区(1953 年から住んでいた)から 1964 年に移
ってきて住んでいるとのこと「連棟の繋ぎの建物は
まだ残っていた、廊下を通っていけるようになって
3 連棟の建物は 3 階建であることがわかった(手
いた、今は壁だけ。1981 年に改築があり、壁だけに
前が南側)
なった。この部屋の天井は新しくしたものである」。
「暖房設備は来た時からあったか」と尋ねたとこ
ろ、
「後から、スチームだ、噂だが地下室から送って
きている。3 棟の北側の広場にはもともと 2 つの煙
突があった。市場もあった、その前に浴場があった。
もともとは日本人の浴場。赤い煙突と灰色の煙突が
あった。
25
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
各棟には地下室がある。怖いので誰も地下室には
行かない。
平房区の前は別の哈爾浜市郊外に住んでいたが、
その頃に 731 のことを聞いた覚えはないとのことで
あった。
伺った話を参考にして周辺をあらためて歩き回っ
たが、浴場や煙突の跡形は全くみられず、地下室へ
の入り口も定かでなかった。また、3 連棟の中には
May, 2010
全く人の気配が感じられないものもあった。区画内
にも今後の変貌をうかがわせるような 10 階程度の
高層住宅ビルがいくつか見られた。
前頁の図面によれば、他にも当時の住宅が残って
おり、現在は中国人の居住に利用されているが、建
物の構造・施設や間取り、居住の実態を知ることは出
来なかった。
731 部隊管理棟・ロ号棟連絡地下通路跡
部隊管理棟・ロ号棟連絡地下通路跡
西山
2009 年 9 月の第 6 次訪中調査で果たせなかった
地下通路の調査が、南京に午後出立することになっ
ていた 9 月 19日午前に実現した。地下通路は、前
頁図面右上の○印付近である。731 部隊罪証陳列館
を訪問すると普通は診療部・総務部があったとされ
る建物、731 部隊本部管理棟の正面階段から 2 階に
あがるが、階段を上がる前の右側の壁 1 枚を隔てた
勝夫
所の南側の部屋が警備員室となっている。調査団一
行はその中に案内された。室の南東隅の床にある蓋
が開けられていて、地下室は個々から入るのだとい
われる。覗いてみると梯子が漸く見える程度で電灯
の設備も無いという。調査団一行が地下に入りたい
と強く要望したところ、急遽、懐中電灯や防寒コー
地下入口の蓋を開けると下に降りる梯子があった
警備員室、窓の側が南側、東南角の床に地下入口
正面階段地下からロ号棟に向かう地下通路
警備員室直下の地下室、奥に梯子が見える
26
到達可能の北端付近での調査団一行
地下通路の途中東側の地下室入口、資材部付近?
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
トの用意が指示された。用意された防寒着に身を固
め、原さんが調度持参していたマスクも着用し、団
員、通訳、館員らは地下に降り立った。懐中電灯が
無ければ本当に真っ暗闇で、時々写真のフラッシュ
で下のようなシーンが瞬間に目に入るだけであった。
錆付いた配管・バルブが壁面、天井に沿ってはしって
いる。緑色の断念津材で覆われた配管は新しく、現
在も使われているように思われた。調査時に内部の
様子について随行していた中国側で説明できる人は
残念ながらいなかった。団員の中からは、
「悪魔の飽
食」や映画「黒い太陽」を髣髴とさせるなどの声が
あがった。
床は土が積み重なってでこぼこ状になっていて、
うっかりするとつまずき倒れそうになるぐらいであ
った。長年の崩落と粉塵の体積、激しい寒暖の差に
より石のように固まってしまった土の下にはまだ証
拠となる物品が埋もれているように思われた。通路
の途中はところどころで枝分かれしていて、資材部
付近と思われる地下は多数の小部屋に分かれている
ようであったが、地下通路側からは入口とはいえな
いほど幅の狭い空間しかなく、床には崩落したと思
われる壁・天井材が散乱・堆積していて、入れそうに
なかった。到達できた一番奥には、窓のような高さ
から出入りする密室空間があったりしたが用途は知
る由もなかった。
地下調査後、金成民館長から伺ったところ、この
地下通路も整備し、出来るだけ早く来館者が見学で
きるようにする構想があるとのことであった。調査
団は、現状が損なわれることのないよう、また堆積
物、その下にあるものについて細心の調査がなされ
るようにという希望を館長に伝えた。
帰国後の資料調査で、一瀬敬一郎、荻野淳弁護士
が、篠塚良雄(元 731 部隊員、柄沢班所属)
、松本
正一(元 731 部隊員、航空班所属)を現場指示説明
者、金成民(当時、731 部隊罪証陳列館副館長)を
現地案内者として 1998 年 8 月 11 日及び 13 日に調
査した報告書「731 部隊本部施設現地調査写真撮影
報告書」によると、警備員室は当時哈爾浜市第二十
2010 年 5 月
五中学校の教室であり、地下通路入口の内縁は
53.5cm×88cm、梯子は前頁右上写真の位置でなく、
左縁に掛けてあった。篠塚氏の証言によれば「この
教室は部隊員(とりわけ上層部の人)が出入りする
受付のような所であった。また湯沸かし器があり、
ここから上の階にいる上層部の隊員にお茶を運んで
いた」「蒸気の管を通す所だと記憶している」「この
地下通路に修理する人が入っていったのを見たこと
がある」
、松本氏は「731 部隊に来たばかりのころ
(1939 年)、建物の説明を聞くため、この教室に 1
度来たことがある」、金氏は「現段階で地下通路がロ
号棟へ 40m 続いているのを確認した」と述べている。
篠塚氏の話から察せられることは、地下への入口
は今回調査団が利用した所にそのまま残っているよ
うに思えるということである。金館長から、本部管
理棟(診療部・総務部)に他の地下入口があるとの説
明はなかったことから、本部管理棟からの入口は 1
箇所であったかもしれない。地下通路の用途が、ボ
イラー棟から送られてくるスチームや電力の供給で
あったであろうことは、今回の調査で見た配管など
からも推察できるが、その他にどんな用途があった
かはわからなかった(給排水施設も未確認)。今回調
査団が最奥端から梯子下まで戻るのに 2 分 30 秒弱
を要しているから、通路で到達できる距離は当時と
同じと考えられる。
ところで、哈爾浜市档案館で鑑賞した映画の説明
では、1958 年の製鉄運動であらん限りの鉄製品は持
ちさられたというのならば、この地下通路にある配
管は取り残されたのか、あるいはその後敷設された
のという疑問が生じ、今後解明されねばならないだ
ろう。また、ロ号棟が製鉄運動で破壊しつくされた
というのならば、なぜ本部管理棟の建物は製鉄運動
による破壊を免れえたのかという疑問も生じる。日
本軍の敗退時、旧ソ連軍の撤収時、製鉄運動前の
「731 部隊本部」の様子についても調査を行なうこ
とが、かつての真相の解明にも必要だと思われた。
731 部隊遺址ユネスコ世界遺産登録の取組み
西山
今回の哈爾浜市における調査の受け入れについ
ては、金成民 731 部隊罪証陳列館館長に全面的にお
世話になった。同氏は 2008 年の第 6 次訪中調査時に
は哈爾浜市社会科学院 731 研究所所長であったが、
中国政府の 731 部隊遺址保護政策と予算配分のもと
で、2009 年 3 月に、併任で平房区職員として、731
部隊罪証陳列館の館長に任命された。金氏は折に触
れて自身の構想を熱意を持って語ってくれ、調査団
と意見を交換した。
建設保護指揮の事務所としては、旧 731 部隊罪証
陳列館の建物が供用されていた。その敷地の通りに
面した掲示板には、731 部隊遺址ユネスコ世界遺産
登録の取組みのキャンペーンの掲示が右側の写真の
ように多数なされていた(調査団が哈爾浜飛行場に
勝夫
夜到着し、宿舎のホテルに案内される際には、わざ
わざその事務所前に停車してくれたところ、緑色の
電球多数でイルミネーションがされていた)
。その構
想をまとめた A3 の数百頁の冊子は不許複製であっ
27
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
たが、かつての 731 部隊の管轄区域全体を包括した
もののように思われた。既に構想の一部は着手され
ているとの説明を受けた。実際に、2008 年の第 6 次
訪中調査時まではあった 731 部隊罪証陳列館正門左
手の高層住宅(2008 年には空家となっていた)は撤
去されており、右側も近々撤去の予定との説明があ
った。また、ロ号棟の北側に立ちはだかっていた数
棟の高層住宅も撤去計画に入っていた。下の右側の
写真は 1997 年調査時のものであるが、正門の左右に
7 階建ての高層住宅が数棟ずつ東西に並んで建って
いた。しかし、2009 年 9 月訪問時には、下左側の写
真のように西側の建物はロ号棟のあった区画の西端
まで全て撤去されていた。
私は 1981 年東ドイツ・ブッヘンヴァルト収容所、
2002 年にドイツ・ザクセンハウス収容所、ポーラン
ド・アウシュビッツ収容所の跡を訪れた体験から、
中国以外でも戦後の戦争遺跡の保存そのものも苦難
731 部隊罪証陳列館正門西側の見通し(2009 年 9
月)
の歴史を歩んできたこと、アウシュビッツ収容所跡
May, 2010
程度を編集した冊子が紹介された。各写真には中国
語でタイトルが表記されている程度で、理解を進め
るためには当時の医学・医療水準を踏まえた解説が
必要と思われた。中国側からは日本語版を出版した
い意向が示された。また、731 部隊遺址に来たこと
がない人にも当時の施設の様子を知ってもらうこと
を目的として、コンピュータグラフィックスの技術
を応用して、パソコンやテレビの画面に 3 次元で復
元する取組みも紹介され、作成途中の作品も視聴さ
せていただいた。これについても日本語版を作成し
普及したい意向が示された。調査団は試供品を 1 枚
贈呈されたので、帰国後調査団は視聴を試みたが、
コンピュータシステムの違いなどがあってスムーズ
には行かなかった。新技術の活用も、異国間、異文
化間の間では乗り越えるべき課題がさらに多いと認
識を新たにした。
731 部隊罪証陳列館正門(2007 年 8 月)
では、戦後破壊されてしまった遺跡そのもの復元も
できるだけ避け、破壊されてしまった遺跡のそのま
まの姿が「人類が何を学ぶべきかを教えてくれる」
歴史的遺産になるという考え方で運営されているこ
とを中国の方々に紹介してきたが、今回は、構想全
体を十分吟味し、意見交換できるだけの時間や機会
は残念ながらなかった。
731 部隊遺址ユネスコ世界遺産登録の取組みの一
環として、731 部隊において人体実験や人体解剖な
どに使用された器具、用品などの遺物の写真 800 枚
731 部隊の CG による復元全景(右上地図内の矢印
は同方向からの鳥瞰であることを示す)
中国第二歴史档案館訪問
刈田 啓史郎
に関する史料として、1990 年第四期号の『民国档案』
2009 年 9 月 23 日、南京市、栄 1644 部隊跡地と
(中国第二歴史档案館発行の研究誌)を団員各自に
中山門の中間に位置し、中国中央政府の管轄である
贈与してくれた。馬副館長として、細菌戦に関する
第二歴史档案館を訪ねた(通訳袁さん)。いかにも中
調査を進めるにあたって、知ってもらいたい資料と
国風の建造物で、歴史史料を保存するのにふさわし
して提供されたものと思う。そこで、今回、この第
い雰囲気を漂わせていた。我々を迎えてくれた馬振
二歴史档案館訪問の報告を、この民国档案に載って
犢副館長が、初めに館で保存している日本軍関係の
いる夏茂粋の論文「侵華日軍在常徳作戦中曾使用過
歴史档案の内容を説明してくれた。そして、細菌戦
28
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
細菌武器」
(日本語訳「中国侵略日本軍は常徳作戦の
中で細菌武器を使っていた」)を紹介しながら書いて
みたいと思う。
夏茂粋の論文の冒頭には、次の様な文章が載って
いる。それを抜粋して紹介する。
「中国侵略日本軍栄 1644 部隊の罪業を一歩進ん
で
1. 2つのルートから日本に渡ってきた思われる旧日本
軍が行なった細菌戦に関する史料
明らかにするため、日本・毎日新聞の竹田昌弘記者
が江蘇省人民対外友好協会の招請に応じて、昨年
(1989 年;著者注)9 月南京を訪問し、その間「二
史館」が館に所蔵している“戦争犯罪処理委員会”、
“行政院衛生部”などの「全宗档案」を閲覧調査し
た。これら公文書のなかに、竹田昌弘は当時の日本
の飛行機が湖南常徳でペスト菌を散布した関連報告、
日本人捕虜の罪業証明書、湖南省常徳ペスト病例発
見状況図など第一級資料を探し当てた。」
この内容は我々戦医研訪中団にとって大変興味あ
る内容である。ここで紹介されている史料を、我々
は 2006 年の第四次訪中で、長春にある吉林省社会
科学院を訪れた時に、細菌戦の研究者である解学詩、
郭洪茂、李力の3氏から紹介された。そのとき、彼
らは日本の研究者松村高夫氏(慶応義塾大学教授)
にすでに紹介済みであることを話してくれた。なお、
私が個人的に松村氏に聞いてみたところ、それが正
しいことを確認している。さらに、松村氏は竹田記
者とは面識がなく、竹田氏が第二歴史档案館を訪ね
た時期より後に、解学詩氏らから史料を紹介された
と話してくれた。従って、竹田記者は、旧日本軍が
行なった細菌戦に関する貴重な史料、特に陳文貴の
報告書(常徳におけるペストの記録)などを日本人
として最初に発見し、日本に伝えたと考えられる。
そして、独立に松村高夫氏は、吉林省社会科学院か
ら得られた史料(おそらく解学詩氏らのその史料は
南京の第二歴史档案館から入手したもの)を日本に
導入したものと思われる。現在、我々は、731・細
菌戦裁判キャンペーン委員会が発行した資料集「裁
かれる細菌戦」からその内容を日本語として読むこ
とができる。夏茂粋の論文は、さらに次の様に述べ
ている。
「今年(1990 年)7 月 6 日、日本・毎日新聞は「旧
日本軍の“常徳作戦”資料:空中でペスト菌を注入
した鑿をばらまいて市民をペストに感染させた」を
表題にして、中国侵略日本軍の常徳作戦の真相を暴
露した。記事の中で、日中戦争(日中戦争という表
現で間違いないか)の 1941 年 11 月、旧日本軍が中
国湖南省常徳市の空中から地面に向かって撒き散ら
かしたペスト桿菌を注入した蚤が市民をペストに感
染させた。これらの資料は中国国民政府軍西部主任
医師陳文貴がペスト桿菌を撒き散らした 20 日後に、
当該市に行って被害状況を調査して書いた“常徳ペ
スト調査報告書”
(1941 年 12 月 12 日)英訳本の原
文および当該政府衛生部王詩恒の書いた“常徳ペス
ト滅除方法報告書”(1942 年 7 月 20 日;英文版)
である。
(以下略)
」
私は、上記の毎日新聞を入手して、記事を確認し
てみた。それは、1990 年 7 月 6 日の毎日新聞の夕
刊(宮城県図書館所蔵)に載っていた。そこには、
竹田記者の名前はなく、「毎日新聞社が入手した史
料」となっていたが、記事の中でその史料の価値を、
常石敬一神奈川大学教授の言葉として、
「ソ連や米英
の資料と符合している。―以下略」として、その重
要性を述べておられる。
2. 台湾に移動している旧日本軍関係の史料について
馬副館長は、国民政府の当時第二歴史档案館にあ
った史料の中でかなりのものが、国民政府が台湾に
移動したときに持って行ったことを話した。さらに
彼は、
「もし皆さんが、台湾にいって日本軍関連の史
料を調べれば、ご希望の史料を見つけることができ
るのではないか」と教えてくれた。今後、訪中調査
対象を台湾に広げる必要性が出てくるのではないか
と考えられた。
馬副館長との話し合いを終えた後、館員の案内で
館内博物館を見学した。南京大虐殺の実態を日本側
から記録した写真のアルバムを展示しているショー
ケースの前で、そのアルバムの入手の経緯を解説し
ていただいた。
南京医科大学にて孟国祥教授との懇談
原
孟教授の挨拶
南京まで来ていただきありがとうございます。私
は昔2回ほど日本へ行ったことがあります。
私は主に戦争の責任に関する問題を研究していま
す。日中両国は 2000 年に及ぶ友好の交流が続いて
いた歴史があります。しかし、近代に入ってこうい
う悲惨なことがありました。今は未来に向けていろ
んな経験をまとめないといけません。例え歴史に対
する認識は違うとしても、事実を尊重した上で議論
文夫
を深めたいと思います。戦争というのは人類の歴史
の中で避けられない時代もありました。しかし人類
は、戦争を避けるためのいろいろな規則などをつく
ってきています。例えば、毒ガスや細菌、あるいは
生物兵器の使用、小児・児童の虐待や女性の強姦な
どは国際的に禁止されています。
しかし昔、日本軍は戦争で、細菌戦をおこないま
した。これは当時の日本軍の国策だったことが明確
になっています。これらは人道上も問題でしたが、
29
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
その(証拠資料などが)保存されているものは少な
いようです。
今は皆さんのような平和を愛する人たちに感謝
しなければなりません。歴史を尊重する人たちは永
遠に中国の人々から尊敬されます。そして細菌戦に
関するあらゆる問題についても、交流を深めたいと
思います。
刈田団長より
挨拶と 15 年戦医研および、今回の調査の目的な
どを説明(略)
孟教授より
本当に残念だが、細菌戦に関する資料はむしろ中
国より日本の方が多い。なぜなら、細菌戦は 1907
年に国際法(ハーグ陸戦条約)で禁止されていたが、
日本はそれを使った。戦後、日本はそのことを知ら
れるのを恐れ、関係の資料を全て焼却したためだ。
だから現在の中国には細菌戦の原資料、証拠資料は
少ないと思う。加えて、戦後、戦争責任を裁く極東
裁判で、アメリカは日本との極秘資料の交換で石井
四郎などを免責するなど卑怯なやり方で細菌戦部隊
を免責した。だから日本側の方が、元兵士の日記な
ど資料は多いだろうと思う。
だが、我々が把握している栄1644部隊などの
資料の紹介をしたい。これ等の資料は中国と日本、
そしてアメリカ側から集めてきたものだ。この資料
は、戦後、極東裁判と、南京軍事法廷、それに旧ソ
連の軍事法廷(ハバロスク)で集めたものが殆どだ。
1 つは、1945 年 12 月、元日本軍の植民地だった
台湾の華僑である謝金龍さんの証言によるものだ。
彼の証言の中で初めて、1644部隊が中国軍の捕
虜をたくさん集めて細菌戦の実験などに使ったとい
うことが明らかにされた。これに関する当時の資料
は、今は南京档案館にある。そして南京の中級人民
法院の档案室にある。昔は毎日 20~30 人の捕虜を
使い実験したとの証言で、このような証言を極東軍
事裁判に提出した。それは 1946 年の極東軍事法廷
の記録に書いてある。
2番目は、近くに細菌工場が残っていて、その中
から多くの証拠が発見された。その細菌工場を接収
する際、上海国防医大の李教授と南京大学の朱助教
授も参加した。その細菌製造工場は、当時、日本軍
の間では血清研究所と言われていた。そして細菌を
培養するための原料や容器をたくさん発見した。こ
れは 1950 年2月 8 日と 10 日、18 日付の人民日報
に報じられた。新華日報にも報じられた。なぜ 50
年にこれらが報道されたかというと、当時アメリカ
は北朝鮮に対して細菌戦をおこなっていたところだ
ったから。そして南京にある機関車の工場の作業員
の証言によるものだ。
当時の工場の工場長は日本人で、たくさんの人を
使ってマウスを集める作業を行った。それは新華日
報の 1950 年2月 27 日に報道された。その背景は、
米軍の北朝鮮に対する細菌戦をやめさせるために、
日本軍による同じ細菌戦を批判するものだった。
正面左から 3 人目が孟教授
もう一つは 1950 年に出版されたポリ(ハバロフ
スク)で行われた裁判のまとめで、1949 年に行われ
た裁判の記録を中国語で出版したものだった。この
本の名前は、
「元日本軍軍人が細菌兵器を使用したこ
とで提訴されたことに関する裁判」というものだ。
その中に、元1644部隊の部隊長だった佐藤俊二
による証言もある。彼は1644部隊の第4代の部
隊長だった。彼は南京で細菌兵器を使ったことを認
めた。他にも、柄沢十三夫や川島清、古都義雄など
の証言がある。
そして次には元1644部隊の日本兵だった榛葉
(しんば)修の証言もある。彼は当時の1644部
隊の残虐な行いに耐えられず、中国国民党政府の側
に逃亡した。かれは 1946 年4月 17 日に法廷で証言
し、細菌部隊に関する地図も描いた。1644部隊
の内部情報も記録した。彼の書いたものはいくつか
の場所に保管されており、南京第2档案館にもある。
そしてアメリカの国立公文書館にもある。このアメ
リカ公文書館にある資料は、日本の立教大学の教
授・粟屋憲太郎氏が発見した。そしてアメリカの情
報機関にもこれ等細菌部隊に関する資料がある。
上等兵の捕虜(米軍に捕えられた日本軍捕虜)に
関する証言だが、1644部隊の南京近くの九江支
部のものがある。1644部隊は南京が本部であり、
周りに 12 の支部があった。その中には蘇州支部も
あり、対外的には防疫給水部という名称を使った。
自軍の防疫や、中国軍に対するす細菌戦の研究を行
っていた。
その当時の日本軍上等兵の捕虜の番号は 229 番
(名前はアメリカの情報機関が把握していると思わ
れる)で、捕虜になったのは 1944 年 12 月3日だっ
た。彼が認めたのは浙江省と贛(カン)省で細菌戦
を行ったという供述だった。そして彼ら自身も感染
した(戦前の資料で英文)
。
次いで、戦後ないし中華人民共和国の成立以後の
ものを紹介する。
先ず、1989 年、中華書局から出版されたもので、
この本は中央档案館、中央第2档案館と吉林省档案
館により出版された「細菌戦と毒ガス戦」である。
この中に、日本軍が中国を侵略した際に行った全て
の毒ガス戦と細菌戦が載っている。そして一部分だ
30
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
けだが、栄1644部隊に関する記述もあった。
そして、細菌戦についての研究で最も成果を上げ
たのは、河北省の謝本厚という人だった。しかし、
南京栄1644部隊を専門に研究している人は少な
い。この謝さんは 80 歳位の高齢だがまだ健在だ。
今年、北京での会議で会った。河北省の社会科学院
に勤務し、北京に住んでいる(連絡先は教える)
。こ
の人は中国でのあらゆる細菌戦に関する研究をおこ
なっている。そしてシンガポールや瀋陽における細
菌戦部隊の研究もやっている。80 年代以降に164
4部隊に関して発表した論文は 10 数編ある。その
中の代表的ないくつかの論文を紹介する。
80 年代にロコというところで発表した論文で、
「日本1644部隊の細菌戦の暴行」
。そして学術的
に評価されたのは、南京大学の高興祖教授だった。
彼は 1992 年に「侵華日軍細菌戦とその罪行」とい
う名の論文を発表した。そして5冊も出版した。名
前は「栄 1644 部隊」だった。残念ながら彼はもう
亡くなっている。南京大虐殺に関する研究もたくさ
んあり、それは哈爾浜の王希亮氏の論文だ。
南京でいちばん重要な証拠としては、1998 年8月
18 日に、北京東路の元細菌工場の跡地のあった場所
に、たくさんの頭骸骨が入った箱が発見されたこと
だ。発掘現場に私も行った。それは地表から 1.5m
の地下にあった。頭骸骨は木製の箱に集められてお
り、他の部分の骨は別の容器に入れられた状態だっ
た。同時に、人民解放軍の軍事医学に関する専門家
を呼んで、76 のサンプルをとって分析した。また南
京の公安部門、刑事部門、農業大学の専門家、法医
の専門家などで関連の研究を行った。この研究の結
論としては、これ等は残虐な細菌の人体実験などに
よる被害者だということだった。これについては研
究の報告も、実物も写真などもある。報告書は、南
京虐殺紀念館の朱館長と南京大学の高興祖教授がそ
の起草者だった。それは恐らく南京大虐殺祈念館に
保存されていると思う。当時はサンプルを取り北京
へ持って行って研究もした。またそれは8月 18 日
前後の新聞で報道された。例えば人民日報の海外版
や地元の新聞など。
2010 年 5 月
次に、1993 年に水谷尚子氏が、栄1644部隊の
美術兵だった彼女の大叔父による証言をまとめて発
表した。その後彼女は元兵士達を取材し、出版した
(水谷氏の論文「1644 部隊の組織と活動」の「付記」
には取材した部隊員などは「十数名」と記している)
。
またフリージャーナリストの近藤昭二氏、森正孝
教授(静岡大学)、中央大学の吉見義明教授などの研
究がある。彼は日本の防衛庁図書館から1644部
隊に関する日記を発見したが、それは井本熊男(参
謀)の日記だった。
それから、アメリカのハリスという学者が「死の
工場」という本を出しているが、これはあらゆる細
菌戦に関する本だ。ここに書かれているのは、アメ
リカ政府が隠蔽した細菌戦に関する犯罪で、戦後日
本政府とアメリカが、細菌戦のことを隠蔽する取引
をしたことを紹介している。
そして当時1644部隊の少年兵(当時 18 歳)
だった松本博の証言もある。彼は当時の犯罪を詳し
く証言した。いかに人体実験するか、いかに血液を
採取するかなど、人体実験の内容を詳しく証言した。
我々が持っている資料は非常に少なく、今述べた
ものが全てだ。しかし、犯罪の事実を証明するのに
は十分だと思う。
我々学者による研究の結果、1644 部隊に関する認
識は、次のようなものだ。
1つは、1644部隊は 731 部隊との関係がとて
も緊密だ。石井四郎が第1代目の1644部隊長を
兼任した。主な作業内容は、細菌戦のための細菌を
培養することだった。そして生体解剖し細菌戦を行
う人員を育成することだった。そして華中地域はと
ても広く、日本軍の 12 の派遣軍があり、第4代部
隊長・佐藤俊二の証言によれば、300 人に及ぶ専門
家とスタッフの育成をおこなった。もちろんペスト、
コレラ菌などの細菌兵器もたくさん開発した。まだ
生きている人間に対する生体実験も行った。164
4部隊はまた「多摩部隊」とも言われたが、多摩部
隊とは恐らく第9部隊で登戸研究所ではないかと思
う。かつて多摩地域にある第9研究所から人を派遣
して、1644 部隊との共同研究もおこなったようだ。
そして日本側の研究については皆さ
んの方が詳しいと思うが、私の把握し
ているのは次のようなものだ。
先ず、当時の軍医と接触のあった下
級医官の中西義雄が日本共産党の「ア
カハタ」に発表した声明である。そこ
に1644部隊のことが触れられてい
た。ただし、私はその現物を調べては
いないが、そういう情報を聞いている。
それから、1984 年に日本の常石敬一
教授とジャーナリストの朝野富三氏が
17 人の 1644 部隊関係者を取材して、
「細菌戦と自殺した2人の医学者」と
いう本を出している。1984 年に常石敬
一教授が「岡本・戦後自殺 ― 人体
実験」というような本を出版している。
孟教授(左から4人目)と記念撮影
31
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
コレラ菌などの実験の際、毎週 20 人ほどの生体実験を
した。そして、1644 部隊で何人ほどの死者をだした
かというデータはないが、ハリスの本には、1,200 人ほど
ではなかったかと書いてある。
そして実際の細菌戦に関しては、731 部隊と協力
して3回ほどの細菌戦を行ったということだ。
最初は 1940 年の9~12 月に、浙江省の寧波、金
華などに行った。そしてそれによる死者は、寧波だ
けできちんとした苗字のある死者の数だけでも 106
人だった。この本に、寧波で細菌戦の後、いかに防
疫を取り組んだかが書いてある。
そして第2回目は、1941 年 12 月、常徳にペスト
蚤を撒いた。
第3回目は、1942 年の6~7 月にかけて、浙江省、
江西省の地域に行った。これは一番ひどいものだっ
た。それは浙江省に日本軍を攻撃する米軍の飛行場
があり、日本側が大規模な復讐を行うためでもあっ
た。
1980 年代から 90 年代に(細菌戦被害実態の)調
査が行われたが、浙江省だけで細菌戦による死者が
およそ6万人いるとみられた。その時に細菌戦の生
存者で、炭疽菌により足を削り取られた人たちの写
真集も作られた。
1941 年常徳に対して行われた細菌戦の調査は、
1990 年代に共産党常徳支部の党史研究所によるも
のだった。それによると、常徳地域とその周囲での
死者は、7643 人だった。
西山 第2回目の時は、共産党党史研究所の調査で
7643 人の死者という非常に細かい数字が出ている
が、第3回目の調査の時はどこが集計されたのか?
孟 3回目の調査の6万人という数字は、大体の統
計の粗い推計数字だ。詳しくは分からないが、李秀
鵬?という人が「土、涙、
・・・」という本を出版し
た。その中に炭疽菌の被害者 200 人ほどを取材して
本を出したようだ。
我われが持っている資料は本当に少ない。だから
日本の研究者が当時の関係者の原資料などを収集し
ていただければ助かる。
質疑
刈田 1998 年8月に旧細菌兵器工場跡で発見され
た骨に関して。生体実験で使われたコレラの遺伝子
が発見されたとのことだが、その遺伝子の分布には
何か違いはあったのか?
May, 2010
った。それで、これが細菌戦に使われたものだとい
うことに関しては、高興祖教授が「南京大虐殺(5) 日
本戦争罪責」本に詳しく書いている。例えば、遺伝
子の配列に関して、国際的に行われている方法を詳
しく参照ながら行われているという。微生物の分析
法なども。もしこれを詳しく研究したい場合は、南
京大虐殺紀念館の朱館長に聞いた方がよいのではな
いかと思う。彼は最初から発掘と分析に関与したか
ら。
当時は歴史学からの研究や生物学からの研究、ま
た南京農業大学の先生も、当時使われていた水槽の
研究から関わった。また歯の研究者も関わり、金の
入れ歯に関する研究もある。それで伝染病の考証お
こなった。それで、コレラの遺伝子があったが、こ
の地域には歴史的にみて昔から無かったもので、風
俗学の研究等から見てもありえなかった。骨の埋葬
の方法も、例えば一般の人では、頭だけを集めると
いうことはありえないことだ。それでその研究結果
は、
「非正常死亡による非正常埋葬」ということだっ
た。
莇 1950 年の人民日報で朝鮮戦争の際に細菌戦が
行われたと報道されたとのことだが、この人民日報
は档案館へ行けばわかるのか?
孟 南京の档案館か第 2 档案館に行けばあるとは思
うが。今閲覧できるか行ってみないとわからない。
もし皆さんが必要なら、後で私がコピーして送る。
莇 南京にあった列車工場の工場長は日本人で、従
業員に鼠を集める仕事をさせていたとのことだが、
もう一度詳しく。
孟 列車を作る工場だった。私の記憶では確か山本
と言った。今私が持っているのは、1944 年に164
4部隊から逃げた国民党兵士・榛葉氏の証言だ。列
車の工場と1644部隊の直接の関係はないが、工
場長が鼠を捕まえることを従業員にさせていたとい
う証言がある。哈爾浜の王希亮先生の本に書いてあ
る。
西山(登) 孟先生はこういうことを日常的に医学
生に教えておられるのか?
孟 私は歴史を学生に教えている。しかしたまたま
日中間の歴史のときは教えている。しかし主な部分
ではない。
孟 私は医学の研究者ではないが、北京の科学院の
調査で、コレラの遺伝子が確かにあったとのことだ
南京師範大学・経盛鴻教授&院生との交流より
原 文夫
1937 年冬の日本軍による南京陥落と大虐殺の行わ
れた当時、
「国際安全区」として婦女子の駆け込み寺
の役割を果たそうとした旧金陵女子大学の跡地にあ
る南京師範大学の教師教学学院の校舎で、同校史学
科の経盛鴻教授とその院生約 20 人余りとの意見交
流を行った。その概略は以下のとおりである。
32
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
経教授より挨拶
日本から調査研究にはるばる来られたこと
に敬意を表する。今日は私たちの研究の成果
などを皆さんに紹介したいと思います。
刈田調査団長の挨拶 「戦医研」の紹介と今
回の訪問目的などを説明した。
経教授の話
我々の研究は、南京大虐殺であるが、その
中の一部に細菌戦の問題もある。最近私は日
本軍の南京戦に関するまとめて、
「日本統治南
京史事日誌」という表題の本を出した。20 世
紀の初めには、日本は世界的にも医学的にも
優れた国だった。ご存知のように魯迅も郭末
南京師範大学教師教学学院の教室で挨拶する刈田団長
若さんも日本へ行き、医学について学んだこ
物の隣に、死体を焼却する炉があった。彼らは、細
とがあった。しかし残念なことは、日本の軍国主義
菌実験を行った後の死体を、そこで焼却した。
者は医学を細菌戦あるいは戦争に用いたことだ。そ
当時の1644部隊の所在地は警備がとても厳し
の中で最も悪名高い人物は石井四郎だった。彼は日
く、関係者以外は立ち入り禁止だった。中国人はも
本が鉄などの資源が少ないため、細菌戦での対外的
ちろん、日本軍も関係者以外は出入り禁止となって
侵略を考えた。そして 1931 年9月 18 日の柳条湖事
いた。秘密厳守も極めて厳しかった。そして南京で
件の後、哈爾浜で 731 部隊を立ち上げた。そして 37
8年間存在していたが、南京にいた日本の他の部隊、
年の7月以来、全面戦争に突入して、中国全土の主
あるいは国民党軍もその存在を殆ど知らなかった。
に3つの場所で細菌戦の基地を置いた。1つは北京、
彼らには1644部隊はすごくおかしな部隊だ、と
もう1つは南京、そして杭州で。北京は華北、南京
しかわからなかった。そして1644部隊本部以外
は華中、杭州は華南という細菌戦のための基地だっ
にも、1キロ離れたところの南京では太平門という
た。南京の基地は、悪名高い栄1644部隊だった。
ところに、大きな細菌兵器工場があった。というこ
これは 1939 年4月 14 日に、哈爾浜の 731 部隊長
とは、日本軍が細菌に関する研究が成功した後、そ
の石井四郎により作られた。場所は南京の中山東路
の細菌工場で生産をしたわけである。そして生産さ
にあった元・国民党軍の病院で、その建物はいまも
れた細菌兵器が、中国の各地で使用された。
保管されている。
我々が把握している中国の档案やあるいは日本側
1644 部隊はどうしてこんなところに研究基地を
の証言・資料によると、1644部隊が使用した場
置いたかというきちんとした理由はわかっていない。
所は大体3つの場所だ。1つ目は、1940 年4月に浙
1937 年に日本軍が南京を侵略してから8年間にわ
江省で使用された。2番目は 1941 年 10 月に常徳と
たり、その場所は南京の中心地にあった。日本軍は、
いうところで使用した。
そして3番目は 1942 年5~
当時そこにいた中国人を全て追い払い、そして日本
9月にまで、中国の浙江省から山西省までの大きな
人が住んだ。日本軍はその中で店や工場、慰安所な
地域で使用された。そこで使用した細菌兵器は、当
どをつくり、日本人にとっての「安全区」とした。
時中国の数万人に及ぶ一般の人々に大きな被害を与
1644 部隊には2つの大きな建物がある。1つは6
えただけでなく、その後にも大きな後遺症を遺した。
階建ての建物で、主にオフィスとして使われた。も
つい最近まで我々は、浙江省などで調査を行った
う1つは4階建ての建物だが、その心臓部的なもの
が、後になっても大きな後遺症が残った一般市民が
だった。その4階建ての建物の1階は、実験に使う
沢山いた。彼らは足や手、肩などに大きな跡が残り
資材などの倉庫だった。2階には各種細菌を入れる
今も苦しんでいる。しかしながら、もっと多くの人々
容器または蚤を保管する器具などがあった。そして
が亡くなっている。それは日本軍国主義者が中国に
3階は、中国および南京の各地で逮捕した中国国民
おいて犯した最も大きな罪だ。
を生体実験する場所だった。中国国民を使い、3階
1945 年8月、当時日本軍が投降した時、1644
で各種の細菌の実験を行った。例えば、細菌を一般
部隊の幹部の命令で、全ての証拠を焼却した。その
の中国人に注射して、実験を行った。あるいは、細
1644部隊のメンバーたちは、日本へ密かに安全
菌がついた饅頭を、一般の中国人に食べさせたこと
に逃げた。歴史の罰を与えないままに。
もあった。4階は、中国人の一般の人を監禁する場
しかしながら我々は、1644部隊の当時の場所
所だった。中にはたくさんの鉄製の檻があり、一般
で沢山の証拠を見つけた。数年前、我々は太平門と
の市民を裸のままその中に入れた。
いうところの建設現場で、1644部隊と思われる
我々がいま把握している、日本兵の記述したもの
証拠を見つけた。その時、細菌実験で死亡させられ
やあるいは中国の当事者・被害者の証言などの資料
たと思われる中国人の遺骨を沢山発見した。その遺
によると、当時の状況は極めて残虐だった。その建
33
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
骨を詳しく分析した後で、かつての細菌実験による
死者であると確認できた。それらの資料は今は南京
大虐殺紀念館に保管されている。しかしながら、1
644部隊が使用した細菌兵器は、日本軍が使用し
た細菌兵器のごく一部分に過ぎない。彼らは中国の
他の地域、例えば北京、河北省や他国の、例えばシ
ンガポールなどでも細菌戦を行った。それらは哈爾
浜にあった 731 部隊と一体の大きな侵略基地となっ
ていた。今、中国の学者は、これらに関して深めて
いくところだ。若い学者も年配の学者といっしょに、
これ等の研究を深く取り組んでいるところで、我々
は日本側の研究者との協力を強く望んでいる。
質疑
西里 昨日の朱館長、そして今日の孟教授の話を聞
き、1998 年に発見された骨に関して、非常に科学的
な研究が行われているということに感銘を受けた。
日本でも軍事医学のために使われたと思われる人骨
が発見されたりしているが、それに対する徹底した
科学的調査が行われていない。たいへん恥ずかしい
ことだと思う。特に強制連行というかたちで奴隷労
働を強いられた人の人骨は、まだあちこちにあると
思われるが、それとは別に、新宿の陸軍軍医学校跡
地で見つかった骨、これはバラバラなものだが、108
人分の骨だと鑑定され、その8割位が中国の方の骨
だと見られている。
1644 部隊のことに限定すれば、3 人のお話では、
やはり日本の方により多くの資料があるように思わ
れるが、元隊員などはほとんど亡くなっていて、生
前の証言などが残っている。それから、蚤の研究な
どの直接的にペストの細菌兵器と関係あると思われ
る論文なども残っている。
ただ我々が知りたいのは、この南京市内に 1644
部隊の目撃証人とか、あるいは何らかのかたちで日
常的に 1644 部隊の動向を見ていた方がおられるの
ではないかと思うが、早急にそういう方に私共もお
会いしたいし、聞き取り調査などをやれないものか
と思う。
西山 私たちは今回で7回目の訪中調査団になる。
2005 年には瀋陽にある中国医科大学に約1週間滞
在した。その時、向こうの大学から日本語学系の学
生たちに、私たちの活動の内容を知らせる講義の要
請があり講義をしたこともある。しかし、今日この
ように医学とは直接関わりがないと思われる若い学
生さんたちとお話するのは初めてだ。非常に感謝し
たい。それで、どういう学生さんなのか、どういう
目的で用意されたのか、最初に先生にお伺いし、私
たちも話を用意したい。
経 我々の大学は中国の全地域から学生を受け入れ
るので、この学生たちは全国の各地からあつまって
きた学生で、私の研究室の院生だ。そして研究分野
は、日中関係、あるいは南京大虐殺、経済史、歴史、
日本中国侵略史、国際関係史など様々だ。数学を勉
強している学生もいる。
May, 2010
西山 皆さんは博士課程か修士課程か?
年生か?
経
学年は何
博士課程も修士課程もいる。
原 私は、去年の8月に南京師範大学の日本語学科
の学生さんの集まりに参加させていただいた。そこ
で日本の学生7~8人と歴史認識についてのディス
カッションを行った。中国の学生さんは歴史問題を
非常に勉強されていて、日本からきた大学生たち、
この人たちも中国に対する戦争の問題に関心があっ
てきたのだが、南京大虐殺の問題の詳しい経過や、
またそれをどう見るかという認識が不足していて、
非常に大きな格差を感じた。それで日本へ帰った学
生たちは、一生懸命勉強して報告をし、また中国で
幸存者のおばあさんと面談した衝撃の感想などを歌
にして歌い、何も知らない周りの学生たちにアピー
ルしたりしている。日本の学校教育、あるいは医学
教育の中でも、そういう問題を教えることが本当に
欠落しており、私たちは医療・医学の分野での教育
の中に、過去の医学犯罪というものを位置づけてい
くように、との思いから今回の調査にもやってきた。
莇 私は2つの質問と1つの感想を述べたい。先ほ
ど経教授は1644部隊の2つの建物のことを言わ
れたが、4階と6階と何が根拠で言われているの
か? またそこで行われていたことが紹介されたが、
その客観的な根拠は何によるものなのか?
経 建物は今残っている。1644部隊は当時秘密
が厳守され、外部の人たちにはその内容がほとんど
知られていなかった。さらに日本軍の幹部の命令で、
そのほとんどの証拠が焼却された。だから我々が証
拠としているのは、1つが謝金龍さんの証言などで
ある。謝さんは戦争が終わった後、当時の国民党政
府の関係者を連れて中を調べ、南京の市中級人民裁
判所に対し、1644部隊の幹部を、細菌を用いて
中国人民を殺害した罪で告訴した。
莇 細菌戦により、現在でも後遺症があると言われ
たが、どういう後遺症があるのか?
経 1644部隊の主な仕事は細菌兵器のための実
験で、細菌兵器が使われたのは南京以外の浙江省な
どだった。1644部隊で製造された細菌兵器は、
1644部隊の道路の対面にあった飛行場から運ば
れた。
莇 私たちが 15 年戦医研をつくった理由をもう少
し詳しく説明したい。
日本軍が犯した南京大虐殺は非常に大きな罪だ。
しかし医学的立場から見ると、それだけでなく、中
国のすべての地域で日本の軍医たちが非常な犯罪行
為を行っていた。731 部隊だけではなくて、中国各
地に作られた陸軍病院の中で、軍医の手術演習でた
34
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
くさんの中国人を生体実験した、私たちの把握して
いる限りでは、東北以外に華北、華中の陸軍の病院
の 16 箇所ほどで生体実験が行われていた。つまり、
軍医たちが衛生兵の教育のために生体実験をおこな
っていた。非常に残念なことだが、そうした残虐な
ことを行っていた軍医たちで、それを反省告白した
のは僅か1名だけだった。
この事実をいろいろと調べていくと、ひとつの問
題に当る。軍隊の組織では、上から命令されたもの
はせざるを得ないという事実だ。上官の命令を拒否
した場合には、自分が処罰されることになる。した
がって、この命令というものをどう考えるのかとい
うことがある。だから命令された軍医は、生体解剖
をしなければならないということになる。その場合、
命令というものをどのように考えるのか、というこ
とが重要だ。いろいろな考え方があると思うが、我々
の結論は、例え命令されても、人道に反する場合に
はそれを拒否することだ。そのために人権意識が非
常に重要だ。これは現在の医学・医療の研究の場合
にも言えることだ。上司から間違ったことを命令さ
れた場合、拒否する能力を持つことが必要だ。今の
1644部隊の問題も、客観的データをもっともっ
と探しながら、日本軍が犯した犯罪を検証していき
たい、というのが我々の立場だ。(大きな拍手)
学生A 中国の1学生として、日本の医学・医療界、
そしてマスコミ関係の方がこのように南京を訪れて
いただいたことに感激している。さきほどの原さん
の話によると、日本の学生は南京大虐殺やこのよう
な医学犯罪などがなかったかのように教育されてい
るように聞いた。それで先ず知りたいことは、①南
京大虐殺の事実を、日本の学術会でどれだけの人た
ちが分かっているのだろうか、ということ、②番目
は、「15 年戦争と日本の医学・医療研究会」という
組織は、公的な組織なのか、それとも私的な組織な
のか? それから数回にわたって中国に調査にきた
とのことだが、この場合の経費はどこが負担したの
か? ③は、長年の研究を経て今日にいたったとの
ことだが、具体的にどのような成果をあげたのか、
ご紹介いただければ嬉しい。
原 私が①と②の一部についてお答えしたい。日本
の学校教育では、いわゆる南京大虐殺について詳し
く教えるということはほとんど無きに等しい状況だ。
教科書には一応そういうことを、
「南京事件」という
ことは書いてはある。しかし日本の歴史については、
最初の石器時代から始まると、終わりの方の近現代
史はほとんど教える時間もなくなってしまうという
ぐらいで、よほど意識をもった学生でないと南京大
虐殺を認識したり、また教えられるということがな
されていない。ご存知のとおり、一部の右翼的な研
究者などが「南京大虐殺は無かった」などと言って
おり、またそういうような教科書が一部で採択され
教育の場で使われるというような残念な動きもまだ
ある。ただ日本の歴史学会などの中心部分では、南
京大虐殺の史実を前提とした研究の蓄積がなされて
2010 年 5 月
いると思う。
2番目の質問の一部に対して。私も8回くらい中
国へ来て、731 部隊の問題や旧ソ連と中国との国境
にある関東軍の要塞郡の調査とかを行い、今回は初
めて南京の栄1644部隊の調査などに来たが、休
暇をとり自費で自分の意思で行っている。
西山 続いて 15 年戦医研の説明をしたい。設立は
2000 年6月 17 日。60 年くらいにわたり日本の医師・
医学者たちが自らの問題として過去の医学犯罪に向
き合うということが無いままに 21 世紀を迎えよう
としていた。研究会は民間の有志によるもので、会
員は 150 人ほどであり、その3分の2が医師・医学
者と医療に関係する人たちだ。毎年 2~3 回研究会を
開いており、この 11 月に第 27 回目の研究会を行う。
この研究会に参加した人たちを含めると大体 300 人
くらいに案内を出している。大学の医学部にいる現
役の先生が非常に少ないという状況だ。こういう問
題に取り組むと、これからの昇進とかにマイナスの
影響があるということで、心の中では大事だと思っ
ていても、取り組めないという状況がまだ残ってい
る。若い日本の医師や医師の卵にもできるだけ入っ
ていただきたいと思っているが、勉強も忙しいしこ
ういう問題は危険だということで、なかなか難しく、
そこが私たちの困難だ。しかし、日本の文部省とい
うところから公的な補助を受けるということが大事
なので、計画を提出して補助を受ける努力もしてお
り、時々お金が少しくる事がある。
どんな研究成果があるのかという点では、私たち
は年に2回研究会誌を出している。そこに私たちが
研究した結果というのがたくさん書かれている。日
本へ帰った後、経先生に送るのでぜひ読んでいただ
きたい。2007 年には、私たちはこの問題を日本医学
会総会で取り上げるように、自主的にパネル展示と
国際シンポジウムを行った。その時展示したパネル
は冊子にして日本語版の他に中国語、英語、ハング
ル版で発行した。これはすべてインターネットから
プリントすることができる。URLのアドレスから
120 ページの冊子を、皆さんもぜひ見ていただきた
い。いろいろ意見があれば、メールアドレスにメッ
セージを送っていただきたい。
(拍手)
学生B 私は歴史学を学んでいる博士課程の者だ。
遠くから中国まできていただいたことに敬意を表す
る。私は南京生まれ南京育ちで、私の父母もすべて
南京人だ。こうした南京の人は日本に対していわゆ
る南京大虐殺のことでとてもマイナスの印象を持っ
ている。私の親も 1945 年以降の生まれだが日本軍は
南京において 30 万人以上虐殺し、2万件以上の強姦
犯罪を犯したと、南京事件のことを教えられてきた。
正直に言えば、私自身も周りの人も、
「日本」という
2文字を聞くとすぐに反感を感じる。でもある時、
私はおばあちゃんから次のような話を聞いた。当時、
私のおじいちゃんとおばあちゃんは、いわゆる資本
家で、家にたくさんの鶏を飼っていた。ある日、日
本兵が来て鶏を盗んだ。それでおばあちゃんは日本
35
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
の軍隊へ行って鶏を日本兵に盗られたことを訴えた。
すると日本軍の上官が、日本の兵隊を一列に並ばせ、
盗んだものは前に出ろと言った。そして出た兵士の
顔を上官は2回殴った。結果としてその日本兵にき
ちんと謝罪してもらい、鶏の代金を払ってもらった。
そして私のおばあちゃんから聞いた話だが、日本人
もとても礼儀正しいんだと。
それで今、私がほんとうに知りたいことは、日本
人は礼儀正しい民族でありながら、なぜこのような
大虐殺ができたのか? それは当時の当局者、権力
者がさせたことなのか、或いは戦争がうまくいかな
くて、各兵士のストレスによるものだったのか??
西里 個人的な答えになるが。私自身は 25 年くらい
731 部隊のことをやっている。そしてこの 15 年戦医
研に入れていただいたのは、私は科学的な人間でも
ないし医学の知識も乏しいので、いつもものを書く
とき大変苦労するので、専門家の中でいろいろなこ
とを教えていただきたいと思ったからだ。そして軍
医、細菌戦部隊の犯罪行為、残虐行為というのは、
科学者、医学者の犯罪だ。どうして人間が、普通の
人、普通の父親や普通の息子がそのような残虐行為
を働くことができるのか、という問題だ。それはひ
とつには軍国主義、全体主義的教育というものがあ
ったと思う。その召集令状というのは葉書だったが、
当時のお金で葉書の値段は1銭5厘だった。つまり
1人死んでも兵隊はまた1銭5厘で補充すればよい
ということだった。お前たちの命はそれほどの値段
しかないので死ぬまで闘え、という風に教えられた。
そして陸軍のモットーの中に「生きて虜囚の辱めを
受けず」という、行きながら捕らえられることは恥
だという教えがあった。だから戦いで負けた者は殺
されると教えられた。降伏せず死ぬまで戦えと教え
られた。負けたら死ぬしかなかった。戦後、一部中
国に残って人民解放軍に協力した兵隊がいた。その
人たちが新鮮な感動を受けた話は、聞く方も感動さ
せられる。というのは、戦場では上官の命令には絶
対服従なのだが、戦争していない時には上官が立っ
ていて自分が寝そべって話をしていても別に大丈夫
な、そういう人間関係にとても驚き感動し、そして
人間性に目覚めたと言っていた。だから人間性を否
定し、殺人マシンになるということだったと思う。
西山(登) 「日本の2文字を聞いたら反感を持つ」
というのは当然のことと思う。私たちも子どもが3
人いるが、皆さん方と心から仲良くなるためには何
をしたらよいのか。それには、何故そういうこと(大
虐殺)をしたのかという原因と、将来どうしていく
のかという方向をちゃんと持つことだと思い、私は
日本共産党員として活動している。北京の抗日紀念
館に、1931 年に、当時の日本共産党と中国共産党と
が日本の侵略戦争反対で共同声明を出しているもの
が掲げられていた。5年前に北京へ行ったときに見
てとても感動したし、今、日本共産党の一員として、
歴史を反省しない人々と闘っていることに誇りを感
じた。日本共産党は 87 年の歴史があり、今は中国共
May, 2010
産党とも仲良くしてきている。
それはさて置き、やはり政府が犯した行為と、日
本の国民とを別に論ずる必要があると思っている。
日本政府はいろいろ危うい対応をしており、本当に
戦争を反省したのか反省してないのかどっちなんだ、
分からないといわれるが。今年の8月 31 日まで続い
ていた自民党の政府というのは、心からはそれを認
めていない。日本では右翼の日本会議というのが主
流になっている政権がずって長く続いてきた。その
点で、表向きは 1995 年に村山政権が「侵略があった」
と認めた以前は、全然認めていなかった。だから、
まだ我々はそこのところを格闘している。今回、一
応政権交代で民主党政権ができたが、どちらかとい
うと根っこは自民党と同じという性格もあり、日本
共産党は入閣せず、外から、良いことは良い、悪い
ことは悪い、憲法を変えそうになった時にはきちっ
と歯止めをかけるという立場で頑張っていきたいと
思っている。
学生C 私は日本語学科の学生だ。質問が2つある。
第1は生体実験に関する質問。医学研究において、
生体実験は一番有効な研究方法だと思われる。でも
いろいろな制約があり、生体実験はなかなかできな
い。でも日中戦争のとき、この制約が無くなり、生
体実験を行えるようになった。医者として生体実験
を通じて、普通の研究があるのか? 例えば細菌な
どの研究があるのか?
第2は1644部隊の名前だ。この名前には特別
な意味があるのか? この名前は 1644 年と同じだ。
この年は中国人にとって特別な年で、その年に清朝
が成立した。この1644部隊の名前は、この清朝
の誕生と関係ありますか?
経
1644部隊と清朝の成立とは関係ない。
刈田 質問にお答えする。第2次世界大戦の時、い
ろいろな人道に反するような医学的研究が行われた
が、これは日本だけでなくドイツでも行われた。戦
争が終わり、それを反省するために、医学実験を行
う際にどういう倫理的な基準をもってするかという
ことが話し合われて、作られてきた。人間を用いた
実験があるとすれば、必ず被験者になる人の了解が
得られることが前提だし、その実験に意味があるの
か、医学的に有効なのかということもきちんと決め
られなければならない。
その意味において、731 部隊や1644部隊が行
った生体実験は、全くその基準に反している。それ
だけでなく、昔、日本がつくった満州医科大学が瀋
陽にあったが、その大学の医学部・解剖学の人たち
が、中国人の生体実験をしたということが言われて
いる。いずれにしても人間を対象にした実験という
のは存在すると思う。それは医学の発展の上で必要
な時はありうる。しかしその前提として、人間の尊
厳や守らねばならない倫理的な基準というものをし
っかりと持っていることが必要だ。日本の医学者が
昔中国で行った実験のように、民族の蔑視、他の民
36
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
族は自分の民族より劣っているというような見方は
けっしてしてはいけない。そのためには大学の医学
部の場合では、きちんとそれが教育されていく必要
があると思う。
2010 年 5 月
*予定時間を過ぎたため、終わることtなり、玄関
前で記念写真を撮った。
経教授の院生たちと記念撮影
37
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
栄1644部隊跡等の現地調査より
原 文夫
今回の調査の目的
今回の我々(私)の目的は、15 年戦医研(私)と
して初めて1644部隊跡を訪れて、かつての建物
(跡)などを確認し、当時の1644部隊の実像を
より鮮明にすることだった。
1.人骨発見現場
2009 年9月 22 日(火)
、ホテルを朝9時に出発
し、9時 15 分に九華山、太平門近くの北京東路に
面する空軍基地の正門前を車で通過。ここは 1998
年8月 18 日、工事中に木製の箱に入れられた多く
の人骨が発見された場所で、関係者及び各種専門家
による科学的研究の結果、ここは戦前に日本軍栄1
644部隊の細菌兵器工場があった場所で、発掘さ
れた人骨は1644部隊で生体実験されて殺害され
た中国人だと確認されている。
(詳細は各種文献およ
び南京大虐殺紀念館=侵華日軍南京大屠殺偶難同胞
紀念館=の朱成山館長、南京医科大学の孟国祥教授、
および南京師範大学の経盛鴻教授の話等参照。また
人骨発見当時、この骨を法医はじめ各関連分野の専
門家が分析・鑑定した「南京市公安局・物証鑑定書」
を参照)
2.南京軍区総医院
9時 30 分~11 時まで、戦前に旧日本軍南京栄1
644部隊が置かれていた現在の南京軍区総医院を
見学した。この「軍区」とは、現在の中国人民解放
軍陸軍が地域別に区分されているもので、南京を含
め瀋陽、北京、蘭州、済南、広州、成都の7つの軍
区がある。予め南京大虐殺紀念館の朱館長を通じて
視察を要請し、許可を得たもので、同日は紀念館の
劉相雲主任が同行していただいた。
先ず、同病院の北側入り口から入ると、若い軍人
が待っていて案内してくれた。その若い軍人は、こ
の病院が戦前、日本軍の秘密機関の栄1644部隊
だったこと、さらにここで多くの中国人を細菌兵器
の開発研究のために生体実験・生体解剖などが行わ
れていたことなどはまったく知らなかったとし、現
在ここに勤務する人たちのほとんどが知らないだろ
うと語っていた。
元南京栄1644部隊のあった現在の南京軍区総
医院の北側入り口
(1)元南京栄1644部隊の場所
南京市内の南北の
龍蟠中路の東側と、
東西の中山東路の北
側で、中山東路に面
している南京軍区総
医院(中国人民解放
軍陸軍南京軍区病院
=軍の病院だが、一
般市民も受診・入院
している)
。
また同病院から西
へ約1キロの珠江路
小菅口路西側(北川
は北京東路)の空き
地に面して、164
4部隊の細菌兵器工
場があったとされる。
(地図参照)
元南京栄1644部隊の場所は南京市内、龍蟠中路の東側
と、東西の中山東路の北側にある。
38
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
名があり、
部隊設立の 1939 年時には石井四郎部隊、
翌 40 年には多摩部隊、後(筆者注: 金成民「日本軍
細菌戦」には 1941 年 12 月 12 日以降と記されてい
る)に栄 1644 部隊と呼ばれた」(元同隊軍画兵・石
田甚太郎の証言。水谷尚子「元一六四四部隊員の証
言」
『戦争責任研究』1995 年冬季号)
。
・1945 年8月、日本が敗戦で撤退。その際、あらゆ
る証拠の焼却、隠滅を図った。同年 11 月に国民党
政府がこの病院や細菌工場を接収。
・1949 年、中国人民解放軍が南京を解放し、この病
院を接収し管理。
・1950 年6月に、
「華東軍区医院」と命名。
・1954 年、更に「南京軍区総医院」と改名。
・1986 年 11 月に、更に「南京軍区南京総医院」と
改名。今日に至る。
(2)栄1644部隊があった病院の沿革と経緯
・1929 年、国民政府(蒋介石政権)の中央医院(旧
南京中央陸軍病院)として発足。
(同病院の説明表示
より)。
・1939 年、
「「満州」
(背陰河)の 731 細菌部隊が平
房に移転した時点で、南京に 731 部隊の人材、機材
を分割して移し、作戦上も新たに創設した。内容も
作戦作業も満州と変わらぬスケールのものだった。
南京軍区総医院の沿革を記した同病院のパネル
隊名を数字的に見て ・・・ 1+6=7、3+1
=4、6+4=(1)0。上下1、4で(石)《石
井四郎》で、731 部隊と栄1644部隊は表裏であ
った」。規模は「一個大隊であっても、特別な研究
の関係で一個連隊の軍事費を使用されたと聞く」、
「軍事郵便が栄1644部隊だけで届くことから
も、特殊部隊と認識できた」。
「部隊は一般に中支派
遣軍南京防疫給水部と称されるが、これとは別に通
1929 年当時の「南京中央病院」の写真(南京軍区総
医院の沿革を記した同病院のパネルより)
国民政府の中央医院だったことを示す碑
1939 年に日本軍が「南京中央病院」を接収し、
「16
44部隊」とした当時の写真(水谷尚子「元一六四四
部隊員の証言」
『戦争責任研究』1995 年冬季号)
1950 年の華東軍区医院発足時の記念写真(南京
軍区総医院のパネルより)
39
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
3.部隊跡の全体図(写真等)
①栄1644部隊跡の現在の場所(建物等)を上空
から鳥瞰すると、写真のようになっている。
(グーグ
ルアースによる写真と、GPSによる調査移動の灰
色の線で表された軌跡は西山勝夫調査団事務局長に
よる、以下同じ)
。
2000 年代に入っての病院全景(資料・同)
1990 年代の病院全景(資料・同)
宿舎
空軍基地門
九崋山
May, 2010
1644部隊跡
紫金山
南京市旧市街の栄 1644 部隊跡と関連の施設等があった場所
1644部隊跡
調査ルート
空軍正門
入門
出門
1998 年8月に多数の人骨が発見された空軍基地の
正門前(上)。1644 部隊の細菌兵器工場跡と見られ
ている
今回の調査団による調査ルート。北側から入り、南
の正門へ出た
40
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
病院正面(1644 部隊での本部棟)
1644部隊跡
手前(南側)中央の道路に面した建物が南京軍区
南京総医院の入り口で、かつて 1644 部隊の本部棟
だった(上に同じ)
●かつての建物の配置
・当時の建物の配置等を示す図は、かつて1644
4.建物について
我々が見てきた建物は、次の写真のとおりである。
②元栄1644部隊であった南京軍区総医院の東
側を、道路(黄埔路)を隔てて蒋介石と宋美齢が組
織した励志社があり、
たまたまここに立ち寄ったと
ころ、30 年代に航空写真で上空から撮影した励志
社の写真が飾ってあり、よく見ると、励志社よりも
その隣にあった1644部隊の模様(全体ではない
が)が写っていた(下の写真参照)
。
1科棟=生体実験が行われていた建物(当時は3
階建てで、その後4階を増築?)
1科棟の正面(南側)
旧薬局・診療部跡
1644 部隊の航空写真(右が励志社)
部隊に在籍していた隊員によるものと、これら元隊
員らの証言をもとに作成されたものなど数点存在す
る。
(1)石田甚太郎・元同隊軍画兵による作図
同隊の軍画兵だった石田甚太郎によるもの。石田
は 1942 年8月から 45 年8月までの3年間、南京栄
1644部隊1科の専属軍画兵として勤め、
「どの将
校、どの技師の研究室へも自由に入る権利があった」
(水谷尚子前出論文の石田甚太郎証言)。その石田が
帰国後に、当時の記憶に基づき描いたものが、水谷
尚子「元一六四四部隊員の証言」『戦争責任研究』
1995 年冬季号にある。
41
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
May, 2010
旧本部棟の正面玄関より
石田甚太郎・元同隊軍画兵による作図
(2)山中太木・元同隊技師(後
の大阪医科大学学長)による作図
とその修正
田中明・松本高夫編『七三一部
隊作成資料』(不二出版 1991 年)
に収録された 1644 部隊図。これ
は同部隊の4科(主に水質検査な
どを担当)の軍医だった江本中尉
が所蔵していたものとされ、16
44部隊の技師だった山中太木 山中太木・元 1644 部隊技師(後に大阪医科大学学長)による作図(右
(もとき)が 1940 年当時に描い 図は、石田、榛葉の作図と対比しやすいように左図の上下を逆にしたも
たものと言われる。この図を元に、 の)
後に水谷尚子氏が山中太木など
十数名の元1644部隊員から聞き取り
調査して、敗戦当時の部隊図に修正したも
のが、水谷尚子「一六四四部隊の組織と活
動」
『戦争責任研究』1997 年春季号に掲載
されている。
(3)榛葉修・元同隊員による作図
栄 1644 部隊員(防疫給水部防疫科九江
支部)でありながら、同隊の非人道的行為
の実態を知り、1943 年3月に脱走して中
国国民党軍に投降した榛葉(しんば)修が、
1946 年(民国 35 年)4月 17 日付で国民
党軍に提出した内部告発の供述書に添付
されていた当時の1644部隊の概略図
榛葉修・元同隊隊員による作図
がある。これは、中国における日本軍の細
菌戦等を調査した東京裁判の国際検察局
42
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
(IPS)文書として立教大学の粟屋憲太郎教授が
米国国立公文書館で発見したもの。東京裁判には出
されず、40 数年間眠っていた。(西里扶甬子『生物
戦部隊 731』草の根出版より)
(4)高興祖教授(元南京大学教授)の作図
南京大学の故・高興祖教授が、1998 年に安徽大学
出版社から出した『侵華日軍南京大屠殺国際研究会
論文集』に載せた論文「日軍南京栄第1644細菌
戦部隊の罪行」の中にある図。これは前出の榛葉修
が「日軍罪行照明書」として、1945 年1月8日付で、
栄1644部隊多摩部隊(防疫給水部隊本部)や自
らが所属した日本の中支派遣 11 軍 68 師直属桧16
44部隊防疫給水部九江支部の上官が、1942 年と
43 年の浙贛作戦、常徳作戦などで細菌兵器を使用す
るなどで中国の良民多数を殺傷したことを告発した
文書に添えて、栄1644部隊の配置図を描いてい
た(1946 年4月 19 日に描いたとされる)もの(3
のIPS資料と基本的に同じような内容のものだが、
これは中国語で、国民政府国防部裁判戦犯軍事法廷
档案にある資料)を基にして、高興祖教授が現地を
2010 年 5 月
見てつくったと思われる。
●4つの図を比較し、現地を視察して
①図のそれぞれが若干時点を異にしているため、ズ
レがある。
②今も現存して確認できたのは、上記で言えば
A:
(1科棟)、B:実験動物舎、C:本部棟、G:
薬局、診療部 だった。
③ただし、生体実験などが行われたとされる1科棟
は、現在は4階で、また高興祖教授も4階としてい
るが、前述の水谷尚子論文に掲載されている当時の
写真では3階に見え、石田甚太郎の証言でも3階と
している。これは戦後に増築した可能性があり、写
真のように3階建だったのではないか。実際、建物
の4階部分は、下の3階部分と色も少し異なってい
るように見える。
この点に関して、かねてから栄1644部隊に関
しても調査を取り組んでいる西里扶甬子氏は、山中
太木の作図を基に、1科の建物はかつて2棟あり、
この棟に言及してきた各人のそれぞれが正しいので
はないかとの見解を示しされた(09 年 11 月の「15
年戦医研」例会で)。その可能性も大いにありうると
思われる。
④石田証言をはじめ、十数人の元1644部隊員に
インタビューしたという水谷尚子氏によれば、いく
高興祖教授(元南京大学教授)による作図
B・A・G・C 部分が現存する建物
以下のような建物群だったとされている。
A:コレラ、チフス、赤痢、ペスト菌培養の4
階建(1科棟)
B:実験動物舎
C:本部棟(庶務、人事、部隊長室・・・)
D:本部軍属、軍官居住室
E:ボイラー室
F:教学室(講堂等・・)
G:薬局、診療部
H:車庫、厨房
I:
J:高煙突
K:倉庫
L:部隊所属の庭園(薬草園)
M:航空兵の宿舎
M1: 同
N:傀儡政権(汪兆銘政権)の軍官学校
細菌兵器工場跡地から発掘された人骨(発掘現場の再
現、骨は実物)
43
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
つかの図のうちで、終戦前の1644部隊の配置に
最も近いと見られるのが山中太木によるもので、そ
れを一部修正したという上記(2)が最近似図だと
する。
May, 2010
4.建物内の様子と中で行われていたこと
---これに関しては、敗戦時に徹底的に証拠の抹消、
隠滅が行われたため、さしあたってはこれまでに明
らかにされている元隊員の証言や、戦後に現地など
で発掘ないし確認されたものを吟味するしかない。
発掘された人骨に関する鑑定書(南京市公安局)
44
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
その場合の資料としては、
①水谷尚子「元一六四四部隊員の証言」
『戦争責任研
究』1995 年冬季号
②水谷尚子「一六四四部隊の組織と活動」
『戦争責任
研究』1997 年春季号
③西里扶甬子『生物戦部隊 731』草の根出版
④高興祖、「日軍南京栄第1644細菌戦部隊の罪
行」『侵華日軍南京大屠殺国際研究会論文集』所収
1998 年安徽大学出版社(中国語)
⑤朱成山、
「侵華日軍“栄”第1644細菌戦部隊 生
体実験受害謝遺骸の考証」、
『朱成山研究 南京大屠
殺史文集』所収 2008 年、侵華日軍南京大屠殺遇難
同胞紀念館(中国語)
⑥金成民「南京栄1644部隊」『日本軍細菌戦』
2008 年黒竜江人民出版社(中国語、当該部分は原が
翻訳)
などがあり、この中に引用されている中国の档案館
などにある断片的な各種資料がある。
1科棟の概要と行われていたこと
--- 水谷論文で紹介されている元1644部隊軍画
兵・石田甚太郎の証言と、同部隊の少年看視兵だっ
た松本博の証言(西里扶甬子『生物戦部隊 731』草
の根出版 参照)が生々しい凄惨な真実を伝えてい
る(細部にはさまざまな食い違いが見られるが)
。
・石田証言によると
2010 年 5 月
1階:事務所、写真室、倉庫・器材室、浴室 ・・
等々。
2階:20 程の部屋が。各将校、技師、技手の研究
室 --- ペストなどあらゆる細菌の研究に分
かれた研究室。生体解剖室、人体標本室など。
(東の方は標本室、兵の内務班、休息室、物
置。
3階:マルタを入れておく檻(ロツ、大5、小
2)
・・・等。
5.関連の施設
(1)細菌兵器工場と九華山
南京栄1644部隊の細菌兵器工場は、南京城の
東北角、1644部隊本部建物の西約1kmの珠江
路小菅口路西側に設けられ、北側は北京東路の空地
に直通し、兵営と射撃場を過ぎた場にあった。空地
の外周には高い壁と鉄条網があり、壁の外には水の
堀があった。北側には九華山という土山があり、こ
こは小菅路と言われた。その土山には洞窟があり、
貯蔵室にされていた。この細菌兵器工場には見張り
所が設けられ、物々しく警備していた。偽装と隠蔽
のために、ここは表向きは「血清ワクチン製造工場」
だとしていたが、何の標識もなかった。近所の住民
が言うには、工場の中には木と鉄でつくった部屋が
あり、中国人の入室が禁止されていた。彼らは皆、
製薬工場だと思っていた。
・・・(金成民「南京栄1
644部隊」『日本軍細菌戦』)
。
九華山からみた紫金山
九華山から1644部隊跡方面を遠望
九華山の洞窟①
九華山の洞窟②
45
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
冒頭で触れた、1998 年8月 18 日、工事中に木製
の箱に入れられた多くの人骨が発見された場所であ
る。
・・ 現在は工場の跡として実感できる地上の建
物などはほとんど残されておらず、我々の今回の調
さらに金成民『日本軍細菌戦』
「南京栄1644部
隊」のこの部分を紹介すると、
--- 1945 年 11 月、国民党政府がここを接収する
のを協力した元南京大学生物学系助教授の朱洪文が
言うのには、
「接収の時、そこはまだ部屋と同じよう
な大きさの高圧消毒装置の残りがあり、その横に蒸
気を供給する大きなボイラー装置があった。内側に
は鉄道レールがあり、一切の培養細菌の材料を先に
車に載せて消毒し、その製造規模が膨大に見えた」。
彼はさらに言う「当時、多くの残っていたものを
受け取った。実験動物としての、2000 余りの小型白
鼠と幾百匹の天竺鼠がいたが、しばらくして全部死
んでしまった。細菌培養用の器具としての試験管、
平板が各数十万個、孵卵器、冷蔵庫各数十個、アル
ミニウムの培養箱数百個があった。培養基としての
寒天 30 余トン、魚肉精膏 100 余箱があった。およそ
の推計で、2~3グラムの寒天で、20~30ccの細
菌液が製造できた。日本軍が残していたこの培養基
だけで、殺人細菌兵器3万ccを製造できた。この
細菌工場は、巨大な細菌戦兵器の生産能力を擁し、
1生産周期(期間)で、10 キログラムの濃縮細菌水
を作ることができた。日本軍の投降後、前上海国防
医学院微生物学系主任教授の李振翩などが南京九華
山細菌工場を接収管理した時、巨大で小部屋同様の
高圧蒸気消毒鍋、さらに多くの石井式細菌培養箱を
見つけた。この工場は血清製造で、馬 60 頭余りがい
た。馬は後に劉学儒によって上海へ運ばれ、上海中
法血清ワクチン製造工場へ譲った。専門家が見るに、
この工場は細菌戦兵器工場だった」
。 ・・・
なお、石田の証言では、日本の敗戦により、16
44部隊の証拠隠滅作業が終わると、幹部医師や軍
人高官は早々に日本へ帰国したが、1科の技官技師
と3科のワクチン専門人員、2科の自動車輸送の軍
属は・・約1年間南京へ残った。その数は兵士も含
めて約 70~80 人であったという。残留組は南京九華
山の南西にあった日本軍の南京第1陸軍病院と合併
して「九華隊」を編成した。隊員数は計 127 名で、
部隊は九華山の塔の下に壕舎をつくり、1644部
隊の医薬品やワクチンの材料、食料の大量疎開をし
た。中国の内国部から復員してくる兵士に対して医
療活動を行うことが目的だった。(前掲水谷論文①)
(2)老虎橋江蘇第1監獄跡地の捕虜収容所 --マルタの供給基地
南京市中級人民裁判所書類 第1-3512 号(銘心
会から提供された、高興祖他著「日本帝国主義在華
暴行」所収「第 1644 細菌部隊の犯罪」の北山敏博氏
による抄訳)によれば、1945 年 12 月1日に、当時
この栄1644部隊と接近する機会があった台湾籍
の謝金龍が、次のようなことを暴露している。
May, 2010
査では、車でその当りを通過したことと、九華山の
山頂からかつて工場があったといわれる場所を眺め
ただけだった。また、九華山を降りる際、かつて細
菌兵器工場の貯蔵室に使用されたと思われる洞窟も
いくつか確認できた。
--- 1942 年、日本軍捕虜収容所所長の森田中尉
は、中支那派遣軍司令部第3課長広本大尉の命令を
遵守し、中国人捕虜を 100 人余名選び、中山門の中
央病院跡地で、多摩部隊に引渡し、細菌実験に提供
した。そして比較的強健な捕虜の体に各種の病原菌
の注射をし変化を観察した。その結果、数日のうち
に百余名の全員が死亡した・・・ことを彼は自分自
身の目で確認した。
また石田甚太郎の証言でも、
「マルタは深夜、輸送
を担当する2科のトラックで、老虎橋の憲兵隊から
連れてこられた。トラックにはシートがかけられ、
外から中が見えないようになっていた。部隊に到着
すると2科から1科に引き渡される。時期によって
かなりの差はあるが、多い時でだいたい5人から8
人のマルタが一度に受領されてきて、実験に供され
数が減るとすぐに補給した」。
・・今回の調査時に、かつて江蘇第1監獄および
捕虜収容所の跡地といわれる老虎橋付近のレストラ
ンで昼食を摂ったが、建物には「軍事管理区」のパ
ネルが貼ってあった。通訳・ガイドの姜小玲さんは、
30~40 歳代の南京生まれ南京育ちの女性だったが、
小さい頃、両親などから老虎橋は監獄などがある怖
いところだと聞かされ、そう思っていたと話してく
れた。
6.山中太木・元栄1644部隊技師(後、大阪医
科大学学長)の関わりに関して
ここで、山中太木(もとき)
・元南京栄1644部
隊技師(軍医)のことに触れたい。
前出の水谷尚子論文「1644部隊の組織と活動」
『戦争責任研究』第 15 号(1997 年春季号)は、水
谷氏が山中太木を 1996 年9月 11 日ほか数回を含め
元1644部隊員 10 数名から聞きとりを行って書
かれたものだが、山中に関する部分が興味深い。
山中は「大阪医学専門学校(第2期生:原)から
陸軍軍医学校へ進学、卒業時の 1940 年1月、戸田
正三・京大医学部教授から南京行きを強く勧められ
て入隊した。1644部隊の1科に佐官級の軍属待
遇で敗戦まで勤務。主にチフス、コレラなど腸管器
系伝染病を研究。
『山中式鞭毛染色法』の考案で博士
号を取得。これによって衛生兵でも誰もが簡単に細
菌の鞭毛を染色できるようになり、菌検索に大いに
役立つようになった。
『山中班』は1科の一大勢力で
あり、様々な実験や作戦に関わった。班に所属した
長野在住元衛生兵らの複数証言によると、山中は浙
贛作戦時に江西省絵江山などの撤退戦で、
『細菌入り
饅頭』散布の指揮をしたという」。
また、
「731 部隊は京大閥の医者が勢力を誇ってい
たが、1644部隊には複数の学閥が存在したよう
である。
『部隊の医師は計 120 名ほど。731 は既に
博士号を持っていた医学者が多かったが、1644
46
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
はこれからという若手が“活躍”した』と山中太木
は言う」
。複数のグループとは①小島三郎の弟子と伝
染病研究所(伝研)関係者、②実戦部隊と後の厚生
省関係者、③戸田正三の弟子、④木村廉の周辺、⑤
古参幹部たち、⑥後の防衛庁への就職組、⑦その他
(詳しくは水谷論文を参照)で、山中は③に位置し
犯罪人の氏名
所属組織名称
責任者氏名
被害者被害時職業
被害時住所
期日
場所
犯罪の種類
被害の詳細
備考
調査者
た。
前出の「南京市中級人民裁判所書類 第1-35125
号」によれば、1975 年 12 月1日付で南京在住の蘇
復生という人が調査に基づいて以下のような告発を
南京市中級人民裁判所に提出している。
集団
敵日本軍「登(栄)
」1644部隊、多摩部隊
山崎彰(著者注:新の誤記?) 官職・部隊長
国軍捕虜
中山門内中央病院内
1938 年~1945 年
中山門内中央病院内
第1類 組織的な恐怖行為
この部隊の野戦病院が受け継がれ、中支那防疫給水部として改められ中山門内
の中央病院跡地に設置された。この部隊の第1部は、特殊研究と実験などの秘密
工作を主管した。すなわち、国軍の捕虜を選んで各種の病原菌薬品をその体に注
射し、実験・研究した。前後の死者は非常に多かったが、それは厳重に秘密にさ
れ、一部分の者を除いて詳しい状況を知りようがない。
犯罪人は、第1部長の小野寺秀雄(現在は既に日本に帰っている)、後任
の部長岩崎少佐、山下少佐、部員の近喰少佐、黒川中尉、村山中尉、山中技師
山中技師(太
山中技師
線・下線は著者による)、後藤少尉、木村准尉、秋之曹長、ならびに夫野、小松両
雇員
蘇復生 40 歳、南京人 住所:鄧府巷 15 号の1
1975 年 12 月1日
山中は、石井四郎が創設し主導した陸軍軍医学校
防疫研究室の「研究報告」にも、研究論文を寄せて
いる(第2部 第 893 号「起泡分析法ノ防疫学的応
用」)
。
山中は敗戦から1年後に日本へ帰国し、その後母
校である大阪医科大学で教授を経て第5代学長をつ
とめ、1997 年に没している。
母校である大阪医科大学の同窓会誌『仁泉会五十
年史』には、1979 年執筆の山中の一文「別れた戦友
たちの後姿」があり、その末尾に「南京を中心とし
て中国に満七年間居たので各地各方面での戦友たち
と共に遭遇して夫々死線を越えた遭難苦斗は陸上で
約十一回(誰かが傷つき、葬れ去るという死線)船
上で一回、空中で二回、実験室で一回あってその当
時のことを想い起こすと今でも冷汗を感ずる・・」
と記している。
細菌学の権威として後学を育ててきたわけだが、
その一方で、多数の中国人を細菌兵器の開発のため
の生体実験で殺害した秘密部隊、南京栄1644部
隊の元隊員であり有力な医学指導者として、同部隊
の戦友会「清風会」を中心となって立ち上げるなど、
戦前の活動を戦後も引きずってきたと言える。今後、
改めて真実に迫り、その評価や教訓を明らかにして
いく必要があると考える。
第 7 次訪中調査報告記
加害の地に立って
加害の地に立って
西里 扶甬子
本稿では報告を割り当てられた行程を中心に、日
中関係、あるいは自分自身と中国との関係を考察す
るルポルタージュのような形をとった。
第1章 人間モルモット(マルタ)の遺族と対面
「特移扱」
(特別移送扱い)とは?
日本帝国陸軍の極秘細菌戦部隊であった 731 部隊
は、旧満州国哈爾浜郊外 50 キロの平房(ピンファ
ン)にあって、捕らえられて送り込まれた、日本の
支配に抵抗するレジスタンスの戦士や八路軍兵士、
国民党軍兵士、そして赤軍のロシア人兵士などを使
った人体実験をもとに、細菌兵器の研究開発を行っ
ていたことはよく知られている。ここでは、人体実
験のための人間モルモットを「マルタ」と称して供
給し続けた憲兵隊の仕組みである「特別移送扱い」
についてまず説明したい。私は日本軍の細菌戦部隊
について調べるようになってから 30 年近くなるが、
いまだに、この人体実験の犠牲者たちを漢字で「丸
太」と書くことに抵抗を覚える。この細菌兵器実験
開発部隊は最初やはり哈爾浜近郊の五常県背陰河に
47
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
あって、
「東郷部隊」とか「中馬城」と呼ばれていた。
その頃捕らえられていた「人間モルモット」たちは
胸に名札をつけていたという証言があるが、そこで
の何回かの脱走事件を教訓に 1938 年平房に新設移
転された 731 部隊の呂号棟と呼ばれていた監獄は、
脱走というわずかな希望さえ決して叶わないほど強
固にできていた。そして、一度 731 部隊に送り込ま
れたら、名前を奪われ番号で呼ばれるようになった。
南京「栄」1644 部隊では、衣服を裂いて首を吊るな
どの自殺防止のため、全裸で檻に入れられていたと
いう証言もある。何度かの監獄内の暴動も空気を送
っていたパイプから毒ガスを送り込んで鎮圧した。
終戦を目前に敗走した部隊は、建物の徹底的破壊と
同時に 400 人余りの囚人全員を青酸ガスなどで殺害
し、部隊の焼却炉で処理仕切れない分の死体は外に
運び出して薪にガソリンをかけて焼却された後、骨
は手錠や足錠と一緒にカマスに入れられてトラック
で運ばれ、松花江に捨てられたという。
従って、ナチスの強制収容所とは違って、これま
で、この日本帝国陸軍の「死の工場」からの生還者
は発見されていない。人間としての尊厳も名前さえ
も奪われ、文字通り「丸太」のように一本、二本と
数えられた彼らは、一人の人間の生きた証として一
片の骨さえ残すことを許されず、完璧に隠滅されて
しまった。そうした彼らを思う時、
「丸太」という言
葉を使う度に胸が痛い。英語で材料という意味の「マ
テリアル」から来ているなど諸説あるわけなので、
私は本稿においては「マルタ」と片仮名で書くこと
にしたことを初めにお断りしておきたい。
May, 2010
1995 年 11 月 29 日東京地裁に提訴された「731 部
隊」に対する国家損害賠償請求訴訟の原告敬蘭芝さ
ん側の証人として法廷に立った、元大連の憲兵三尾
豊氏は、憲兵隊とその重要な任務のひとつであった
「特移扱」について陳述書中で以下のように述べて
いる。
憲兵の本来の任務は、軍の秩序維持のための
軍事警察一般でありますが、戦時にあっては、戦
争地域における防諜・民心の動向の査察が主な任
務とされていました。そして、憲兵の指揮命令系
統は、内地では、陸軍大臣の管轄で「勅令憲兵」
と言われ、戦地では、軍司令官の管轄で「軍令憲
兵」ということになっていました。そして「軍令
憲兵」は、戦地勤務であるということから、全て
の行動が、戦闘行動的なもので、法を無視した乱
暴な行動であったと言えるのです。
当時、満州の治安警察業務は、完全に憲兵隊の
掌握するところでありました。すなわち関東軍憲
兵隊司令官は、満州国の警務統制委員長となり、
カイライ国家満州の警察・鉄道警護並びに満州軍
憲兵隊を統制指揮していたわけであります。全部
で一八の憲兵隊が満州における三千万の中国人民
を厳重な暴力的支配の下においていたのでありま
す。そして、この関東軍憲兵隊の主な任務は、関
東軍の作戦行動に関する防諜活動とカイライ国家
満州の内部と外部から浸透してくる思想に対する
対策にあったと思います。更に詳しく言えば、憲
兵隊が、カイライ国家満州統治一五年間に行った
活動は、ソ連から間断なく派遣されて浸入にして
くるスパイ対策、
「西南国境」であった熱河省に浸
入する中国共産党に対する対策、及び関東軍が極
秘裏に推進した細菌戦部隊 731 部隊への積極的な
協力と化学兵器部隊五一六部隊・五二六部隊に関
する防諜活動などでありました。(中略)
当時細菌兵器について、対ソ作戦上不可欠の兵
器と考えられていましたので、その実験手段とし
ての生きた人間の確保が是非とも必要であったと
言われています。その為に、731 部隊における生
きた人間の実験材料を充分に確保する目的で生み
出された手段が「特移扱」でありました。この「特
移扱」という秘密協定は、1938(昭和 13)年 1 月
26 日「特移扱規定」という極秘書類で関東軍憲兵
司令部警務部長名でその摩下隊長に通牒されたも
のであります。(中略)
当時の満州における憲兵隊は、客観的に見る限
り法的に処刑することの不可能ないわゆる被疑者
を確実に、何らかの法的手続きもなしで、処分す
ることのできる手段を手に入れたわけでありまし
た。
731 部隊に護送される途中の八路軍兵士
憲兵は、逮捕した被疑者をいつでも恣意に、
「特
移扱」として、憲兵隊司令官に上申し、その許可
48
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
を得ることによって、731 部隊へ生体実験用人間
として移送するこができたのであります。
(中略)
憲兵隊は、何時でも、何処でも人を逮捕し、731
部隊に送って、これを抹殺することができたので
あります。
憲兵は、やっかいな通常の尋問調書や意見書を
必要とする事件の送致手続きよりも、より簡単な
意見書一本で申請することができ、しかも、そう
することが、自分にとって、より多くの功績と評
価される「特移扱」に、より一層積極的に取り組
んでいました。
731 部隊の石井四郎は、部隊所属の軍医はもと
より、日本の大学から連れ込んだ医師にしても、
「実験材料」として監禁されている「マルタ」は、
すべて死刑囚であると胡麻化していたのでありま
す。医師たちは、
「死刑囚ならどうせ死ぬんだ、医
学のために貢献できるのなら本望であろう」など
と勝手に決め込んで、残酷極まる生体実験を何の
躊躇も無くやっていたのであります。しかし、そ
こに、強制的に移送されたほとんどすべての人々
は、
「死刑囚」ではありません。死刑囚を生体実験
に使えるのなら、
「特移扱」を考えだしたりする必
要はなかったのです。裁判所の手続によって判断
され、すべての事実関係が公に判明している人間
を「マルタ」として扱うことは、しょせん不可能
であったのです。
私が思うに、「特移扱」とは「非人道的で世界
の何処にも存在しえない「狂気の沙汰」でありま
した。カイライ国家満州でなければ、絶対できな
いことであったと言えます。石井四郎などによっ
て考えだされ、現実化された人間の生体実験とそ
の実験材料としての人間を作り出し、実験室に送
りこむための「特移扱」というような非人間的に
して野蛮極まる手続・制度と行為は、天人共に許
されない大罪であります。
そして、この実験に協力し、多くの無辜の中国
人民を実験材料とするために、生体実験室に、送
り込んだ憲兵の具体的な「特移扱」手続または制
度の利用行為も又、石井四郎の生体実験と同じく
人道上も国際法上も許されることの無い重大な犯
罪行為であったのです。すなわち石井四郎や関東
軍の首脳たちによって化学兵器や生物兵器の生産
が計画され、その生産と生産された化学兵器・生
物兵器そのものの効果の測定のために、生体実験
が日本軍の組織的な行為として行われ、三千人を
超える人々が、実験材料として「処理」されたと
言われています。
2010 年 5 月
は 2006 年になってから、初めて父親が 731 部隊に
送られた抗日運動の戦士だったことを確認したとい
うことで、
「69 年の生涯で日本人に会うのは初めて
だ」と、震える声で証言を始めた。
日本軍の惨い仕打ちで殺された被害者の遺族が、
どれほどの痛手を蒙り、辛い思いを味わったか想
像もできないだろう。
言葉で言い尽くせないほどの困難を生き抜いて
きた。祖母の代から私の子ども達の代まで永遠に
影響を受けている。
父は牡丹江鉄道局に勤務し、牡丹江駅の副駅長
泣きながら証言する李風琴さん
だった。1941 年春憲兵隊に捕らえられ、二度と帰
らなかった。私の父は愛国者で、抗日運動を助け
ていた。優秀な人で、英語ができた。この写真は
祖母が懐に入れてやっとの思いで保存していた。
父が逮捕された時、私はまだ母親のお腹の中に
いた。2006 年に 731 部隊の研究者の助けでやっ
と父親の名前を探し出した。67 年の間、ずっと父
の行方を捜し続けていた。
私の祖母は息子を失い、悲しみに明け暮れた。
祖母は毎日のように家の前の交差点に立って、息
子の帰りを待っていたそうだ。
大黒柱の父親を失った私の家族はずっと苦しい
生活を送った。私が生まれて 1 ヶ月で、牡丹江か
ら遼寧省まで歩いて帰った。母と祖母と兄と 4 人
で帰った。お寺に身を寄せて、食べ物は色々な人
から恵んでもらった。飼い犬に食べさせることも
できなかった。ひどい貧乏生活は解放まで続いた。
有為の人材
2009 年 9 月 16 日私たちは、このような「特移扱」
という仕組みの下に 731 部隊に「移送」され、再び
帰ることのなかった3人の男性の遺族に対面した。
場所は平房の「侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館」管
理棟だった。
最初に証言してくれた李風琴(Li Feng qin)さん
49
1936 年奉天鉄路学院卒業の日
前列左が父李鵬閣
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
憲兵隊はすべての抗日活動家を馬賊とか匪賊とか
呼んで、犯罪人扱いしたが、実態は社会の中枢にあ
る有為の人材や資産家の中に、隠れ活動家がいた。
国民的悲願として、日本帝国の支配から脱しようと
命を賭けて苦闘していたことが分かる。どんな場合
でも侵略者に対して抵抗する民衆の力を完全に抹殺
することはできない。しかし、日本国は侵略の地で
こうして無数の有能な国を担い得る有為の人材を虐
殺したことは事実だった。
父親が逮捕された精神的ショックと、貧困のどん
底に落とされた李さんの母親は、満足な食べ物もな
い状態で、李さんを生んだので、李さんは生まれな
がら健康ではなかった。母親も心臓が悪かったが、
李さんも先天性の心臓病で、2008 年には 3 回に分
けて心臓の大手術を受けたという。
李さんは 69 歳で、娘の夫 李季(Li Ji)さんに
付き添われてやって来たが、一通りの証言を終える
と、きっとして言った。
「父親を見つけるまでは生きていようと頑張っ
たが、父親の最期を知った今は、日本人からちゃん
とした謝罪の言葉を貰いたいと切望している。日本
政府を提訴したいというのが正直な気持ちだ。日本
政府は狡い。責任をとろうとしていない。多くの戦
争犯罪を犯したことを認めず、謝罪もしないことに、
憤りを感じる」 李さんは以下のような訴状を用意
して来て私たちに託した。
初めて日本人に会って思いの丈(たけ)をぶつけ
ようとする意気込みと緊張とで表情の硬かった李さ
んは、昼食を共にしようという誘いも頑なに拒んで
いたが、抗弁の言葉もなく聞き入っていた私たちの
態度にだんだん表情がほぐれてきて、最終的には一
緒に昼食のテーブルを囲んだ。胸がつかえて食事が
喉を通らないという感じだったが、結局食べられる
状態まで気持ちが和んだ様子だったのが、せめても
May, 2010
の救いだった。このとき初めて彼女にとっての戦争
が終わったのだと思った。しかし、彼女が負った傷
は癒えることはない。それでも、勇気をふるって私
たち日本人に会い、率直に思いをぶつけたことが、
彼女の気持ちを幾分でも和らげることができたこと
を願っている。
民主党政権が成立した直後だったこともあり、日
本が政府として補償と人道的な見地からの謝罪を、
侵略したすべての国に対して、虐待したすべての捕
虜・抑留者に対して行う日が近いのではないかとい
う希望を語ることができたことは、私たちの心を明
るくした。また、
「国家無答責」という巧みな無責任
論や「除斥期間」という都合のよい時効の壁を盾に、
高齢な原告を尻目に延々と時間をかけて、結局戦後
補償については、サンフランシスコ条約で決着がつ
いている問題としてことごとく、原告敗訴、棄却な
どの結論を出してきた日本の司法界に期待を持たず、
和解や請求といった「裁判以外の方法」を模索して
はどうだろうかという提案をした。また、その後の
西松建設と強制連行被害者中国人とその遺族との和
解の例にもあるように、最初から和解を目指して裁
判をするというのもひとつの行き方であろう。花岡
事件の和解、そして今回の西松建設の和解について
も、裁判の原告の中にも、支援者の中にも意見の対
立が生まれたことも事実であるが、長い不毛の道に
差し込んだ一条の光と考えてゆくべきだろう。
直接的被害者の子供の世代も 60 代後半となり、
立派な子どもや孫に囲まれて「もう老い先短い身だ
からお金はいらない」
「人間としての尊厳を踏みにじ
ったことに対する正式の謝罪の言葉」が欲しいと言
う。日本国は残虐行為の事実を認定しておきながら、
個人としては損害賠償を請求する権利がないという
ような欺瞞的な法律論で、何とか逃げ切った形にな
っているが、最後に逃れられない問いが「国として
のモラル」であるならば、きちんと向き合い、謝罪
する勇気を持って欲しいと思う。
控訴書
日本国政府:
私は、李鳳琴と申します。我が父・李鵬閣は 1941 年に日本の中国侵略者 731 部隊によって殺害されまし
た。私は、日本国政府に、過去の日本帝国主義政府が中国侵略戦争を発動し、我々の国に与えた重大な損害
について、また、日本の軍隊が我々の国土において我が父を殺害し、我が祖母、母、兄弟たちから肉親を奪
い、我々一家に、経験すべきではなかったはずの数え切れない苦痛と、永遠に消し去ることのできない心の
傷を残したことを、強く訴えたいと思います。
我が父・李鵬閣は遼寧省蓋平県熊岳城蘇屯(現在の遼寧省営口市熊岳鎮黎明村)の出身で、1917 年 3 月
12 日(旧暦 2 月 19 日)の生まれです。1936 年 2 月 24 日に偽満州奉天鉄道学院電文科を卒業し(当時の卒
業集合写真が残されています)
、その後牡丹江駅で働いていました。父は 1937 年に遼寧省の故郷で我が母蘇
桂蘭(李蘇氏)と結婚し、1938 年旧暦 11 月 12 日にわたしの兄李智貴がそこで生まれました。後に母と祖
母李孫氏、兄智貴が牡丹江で父との同居生活を始めました。当時一家は、牡丹江金鈴街の鉄道局職員宿舎に
住んでいました。
祖母と母から聞いたところによりますと、1941 年旧暦 5、6 月ごろのある日、父が仕事に出かけたまま、
ずっと帰って来ませんでした。祖母と母は非常に心配し、祖母が父の勤めていた駅に訪ねていったところ、
日本の憲兵隊に連行されていったが、どこへ連れて行かれたかはわからない、とのことでした。当時、母は
私を身ごもっていましたが、あちこち捜して歩き、尋ねて回り、警察庁にも行ったそうですが、父の行方は
50
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 5 月
わかりませんでした。この間、日本人と日本に協力する売国奴が我が家の捜索に訪れましたが、彼らが探し
ている物は見つからず、母を殴りました。母は当時私を身ごもって数か月が経っていましたが、父が連行さ
れたことで精神的に大きな打撃を被っていたさなかに、家の中を捜索され、殴られ、身体的にも非常に大き
な損害を被りました。そのため、私は出生時から体が弱く、先天的な心臓病を患う身です。家宅捜索を受け
た際、祖母が 2 歳になる兄を抱きながら、父の写真をズボンの胴部分に隠していたおかげで、写真を今日ま
で手元に残すことができました。
当時、祖母と母は、父がすでに日本人に殺害されていたことを知らず、いつかひょっこり父が家へ帰って
くるのではないかと期待し、昼も夜も待ち続けていました。数ヶ月後、1941 年 11 月 8 日に私は牡丹江で生
まれました。父が日本の憲兵に連行されてから、我々一家の生活は苦境に立たされていました。牡丹江駅の
周という職員が親切な人たちから少しばかりのお金を集めて、我々一家 4 人を遼寧の田舎に帰らせてくれ、
そちらで苦しい日々を送ることになりました。このとき、祖母と母はすでに人づてに父が殺害されたという
情報を得ており、一家は遼寧の田舎に帰るしかなかったのです。当時、我々一家には家もなく、土地もあり
ませんでした。一家の大黒柱を失った孤児と寡婦にとって、生活は非常に苦しいものでした。一家 4 人の悲
惨な体験、苦しい生活が、我々家族全員に、日本の侵略者への比べようもない憎しみを生み出しました。
母と祖母は私と兄に、小さい頃から、父のことを話してくれたので、ずっと父の真相を追い求めてきまし
た。侵華日軍 731 部隊罪証陳列館の勤務員が、記録の中から父の資料を探し出してくれました。書類「関憲
高第 764 号」によって、我が父・李鵬閣が日本の侵略軍憲兵により連行されたこと、父が 1941 年に日本侵
略軍 731 部隊によって残酷に殺害されたことが証明されました。日本の侵略軍が私の父を殺したのです。我
が父は、殺害されたとき、たったの 25 歳でした。私は日本政府に強く訴えます。日本の侵略軍が私の父を
残酷に殺害したことを訴えます。日本の侵略軍が私たち一家にもたらした傷と損害について訴えます。誰が
晩年の祖母から息子を奪ったのでしょうか。
誰がたった二十数歳の母から夫を奪ったのでしょうか。誰がたった 2 歳の兄から父を奪ったのでしょうか。
誰が、私を生まれたときから父のない子にしてしまったのでしょうか。
私は、日本政府に我が父・李鵬閣の生命の尊厳について賠償するよう強く求めます。日本政府に李鵬閣の家
族が受けた精神的傷と人生の損失を賠償するよう求めます。
我が父・李鵬閣は愛国の志士です。日本の侵略軍は中国において、父と同じような日本軍国主義の侵略に
抵抗する多くの愛国志士を殺害し、多くの無辜の庶民を殺害し、甚だ大きな罪を犯しました。日本軍国主義
が発動した戦争が、中国人民に重大な災難をもたらしました。私は、日本政府に日本の侵略軍の犯罪行為を
訴え、今日の日本政府が歴史の真実を正視し、戦争に対する徹底的な反省を行うよう求めます。
訴え人 氏名:李鳳琴
現住所:吉林省長春市朝陽区自由胡同東北師範大学二教 2 棟 1 門 101
2009 年 8 月 7 日
発見された憲兵隊「特移扱」文書
私は 2003 年、黒龍江省档案館で発見された関東
軍憲兵隊「特移扱」文書から判明した遺族を取材し
て、「『マルタ』と呼ばれた英雄たち」という記事を
「季刊中帰連第 27 号・28 号」に 2 回に分けて掲載
した。黒龍江省档案館で発見された関東軍「特移扱」
文書合計 66 件、52 人分の中から、黒龍江省社会科
学院の二人の研究員が 2 年近く足で調査をして、23
人の被害者遺族を捜し当てた。私はこの 2 人と日本
語が流暢な王希亮先生の 3 人にエスコートしてもら
って、哈爾浜から夜汽車で 9 時間ほど東南へ下った、
鶏西(チェーシー)という町にその遺族たちに会うため出
向いた。以前共産党幹部などが出張や会議の宿舎に
使っていた「招待所」と呼ばれていたホテルのよう
な場所に部屋をとって、3 組の家族が聞き取り調査
のために来てくれた。その中に今回、平房で再会し
た朱玉芬(Zhu Yufen)さんがいた。2003 年に会っ
た時は、発見された憲兵隊文書から父(朱雲彤=Zhu
Yuntong)と伯父(朱雲岫=Zhu Yunxiu)がソ連の
スパイ(蘇聯諜者)として 731 部隊に「特別移送」
されたことが判明して間もない時で、話していても
51
蘇聯諜者朱雲岫抑留とある「憲兵隊文書」
すぐ涙声になった。1941 年 11 月生まれの彼女は、
父親が逮捕されてから 2 ヶ月足らずで生まれたので、
李さん同様に父親に一度も抱かれることなく育った。
長い間何の手がかりもなかった父親の消息が突然判
明し、いつも父への思慕の思いに満たされて、胸が
いっぱいになっているのが分かった。中国の元気な
おばあさん特有の大声で力強くしゃべったが、すぐ
に感きわまって声が潤んだ。
どん底の
生活に墜
ちてしま
った。
黒竜江
省档案館
で発見さ
れた関東
軍憲兵隊
の特移扱
文書はい
ず れ も
1941 年の
5 月から 9
月の間に
抗日運動
のソ連ス
パイ容疑
で 逮 捕 さ 「蘇連諜者一覧表」に昭和 16,9,16 検挙
れ、人間モ 奉天省朱雲彤、特移扱とある<吉林省 文書>
ルモット
として 731 部隊に送られた人々の記録文書だった。
この資料は 2001 年 12 月専門家の解説付き資料集
として日本語版と中国語版が同時出版された。全
400 頁中、284 頁は、文書原文をカラーで復元して
いる。
『「七三一部隊」罪行鉄証 関東憲兵隊「特移
扱」文書』という題のこの本は大きくて重い。文書
は全文日本語で、謄写印刷、タイプ、また万年筆書
きのものもある。すべてについて、逮捕者の氏名、
逮捕地点、住所、本籍、出生地、職業、年齢、拘束
時の状況(人相・服装・特徴など)
、活動範囲、情報
「蘇諜ノ処置」として李鵬閣が哈爾浜に「特別移送」さ 収集の対象、教育レベル、活動費の出所・使用状況、
情報提供の対象などが関東憲兵隊司令官原守への取
れたことを示す文書
調報告書として記されている。各地の憲兵隊、分遣
6 年経って、70 歳近くなり彼女は幾分年老いて物
隊隊長の名前で、
「左記ノ通リ特移送シタル付報告通
静かな感じになっていた。しかし、以下のような彼
牒ス」とか「逆利用ノ価値ナク特移扱ヲ適当ト認ム」
女の言葉が私たちの胸に突き刺さるようだった。
などの文字が散見できる。また原司令官側からは、
「ソ諜ノ処置ニ関スル件指令」として、
「XXXハ特
父は戦争中に銃や爆弾で殺されたというならま
移扱ニスベシ」というような指令文書が出されてい
だしも、細菌兵器の人体実験の材料にされて殺され
る。
た。それは遺族にとって余りにも酷い事実だ。この
陳列館に来ると、お父さんが死ぬま でどんなに苦
本稿では朱玉芬さんの父と伯父の特移扱文書を具
しんだかと思い、辛くて心が痛いから、本当は来た
体的にとりあげながら、60 年以上前に抹殺された彼
くない。
らの人柄や、憲兵隊の逮捕捜査の手法、そして遺族
の心境などをできる限りリアルに伝えたいと思う。
伯父が先に憲兵隊に捕まり、それから父が捕ら
えられて、祖父は二人の息子のことを心配して憲兵
「東安憲兵隊高一七二号 朱雲岫」
隊に行ってみたが「犬の檻に放り込まれた」と言わ
朱玉芬さんの父、朱雲彤は朱雲岫の兄であり、共
れ、意気消沈して家に帰り、3 日もしないうちに死
に抗日運動に参加していて 1941 年弟雲岫に4か月
んでしまった。
遅れて憲兵隊に逮捕されたまま、二度と帰らなかっ
祖母の弟は満州国鉄道局の局長という地位にあ
り、ソ連に留学したこともあった。学歴も高く地位
もある名家で大家族だったが、父もその弟(朱さん
の伯父)も抗日運動に参加して捕らえられ、一家は
た。2000 年になって朱雲岫「特移扱」文書が発見さ
れ、初めて伯父は子どもの頃から聞かされていたよ
うに「犬の檻に入れられ犬に食われて死んだ」ので
はなく、
「特移扱」となって平房の 731 部隊に送ら
れたことを知った。後に吉林省档案館に父雲彤の「特
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October, 2009
ったという。当然その時は朱玉芬さんは生まれてさ
えいなかった訳だが、叔母から何度も聞かされたら
しく、その場に居たかのような臨場感で後ろ手に縛
られた叔父の様子を身振り手振りで説明し、涙を拭
きながら話してくれた。それが肉親が見た朱雲岫の
最後の姿だった。
移扱」文書があることを知らされ、自ら長春(満州
国時代の首都新京)まで出向いてその文書のコピー
を手に入れた。土の中から掘り出されたというこの
文書はあわてて焼却して埋められたらしく、全体が
茶色く焼けていて縁がギザギザに焦げている。昭和
17 年1月 30 日付けの東安憲兵隊本部の文書で、表
紙の表題は「昭和一六年度蘇聯諜者捕捉一覧表」と
ある。23 番目に朱雲岫の名前があり、72 番目に奉
天省朱雲彤二五歳とある。81 番までの通し番号がつ
いて、一番下の欄には特移扱と記されているケース
が大半だが、中には「利用中」「放置」「国境地帯外
追放」「利用後特移扱」というのもある。
朱雲岫のロシア名は「プラトノフカ」、赤軍諜報
部。
「王振達ノ供述ニヨリ判明ス」とある。一番下の
欄には特移扱の 3 文字。朱雲岫と王振達は幼馴染み
で、密山県東安街で同時に逮捕されたというから、
「王振達の供述」という文字からは拷問が加えられ
たことを容易に想像させる。
吉林省档案館所蔵のこれらの文書は『「七三一部
隊」罪行鉄証 特移扱・防疫文書』として出版され
た。この本に収録された特移扱文書は、1945 年 8
月 9 日ソ連の満州侵攻に慌てふためいた関東軍が、
敗走直前に焼却処分しきれなかった分を関東憲兵隊
の庭に埋めたものの一部で、「1950 年代に、建築工
事中に発見され、1982 年吉林省档案館に移譲したも
のである」と、劉鳳楼吉林省档案館館長が序文に述
べている。
黒龍江省档案館所蔵の特移扱文書は傷みのすくな
い完全なものが多いのに対して、これらの文書は一
部が焼け焦げたり、地中で濡れて傷み、文字の判読
もやっとというものも多い。長い間消息の判らなか
った犠牲者一人一人の命の記録ということで、僅か
な手がかりでも残そうとする編集者の執念を感じさ
せる。収録者 277 名中、34 名は黒龍江省档案館で発
見された氏名と一致している。
朱一族にとって、朱雲岫と共に逮捕され、抗日地
下運動の戦友でもあり、幼馴染でもあった王振達の
家族は朱雲彤・雲岫兄弟を直接知る、貴重な存在だ
った。2003 年私は王振達の二番目の妹で 80 歳にな
る王秀珍と、弟の息子王選才にも会った。
「特移扱」文書には、王振達の別名は王明生、住
所は東安省密山県城子河村保山屯とあるが、実際は
その近くの哈達崗村金家屯に住んでいた。遺族によ
ると、王明正が本当の名前で、王振達という別名は
きいたこともないという。このように、家族に類が
及ぶことを恐れて、捕らえられた抗日の英雄たちは
巧みな嘘で自分の身分・出生を隠した。憲兵隊も王
と朱は同村の出身とは気づかず、抗日活動の仲間と
しか考えなかった。そうした事情も、
「特移扱」者の
家族が消息をたどれなくなったひとつの原因ともな
2 人の写真と「抗日烈士」の証明
黒龍江省档案館で発見された 52 人分の「特移扱」
文書のうち 2 人分につき、白黒の写真が添付されて
いる。これは、囚人が入獄時に撮られるような、正
面と側面から撮った一組の写真だった。一人は東安
憲高第一六四号として「特移扱」とされた王振達(別
名王明生)で、一人は朱雲岫だった。朱玉芬さんは、
今回も「特移扱」文書と共に、この伯父の写真を大
きく引き伸ばしたものを持参して見せてくれた。
叔母朱秀嫻(父の妹)から聞いていたのは、朱雲岫
の「娘のような優しい顔立ち」だった。朱玉芬さん
には叔母・叔父にあたる父の3人の妹、末の弟も今
は亡く、直接父を知る人は身内にはもう居ない。2
歳年下の朱雲岫と良く似ていたと聞いていたので、
当時 25 歳だった父親の面影を追い求めて伯父の写
真を持ち歩いているのだった。
叔母の秀嫻は兄の朱雲岫が憲兵隊に捕まった 1 ヶ
月ほど後、偶然のことから後ろ手に縛りあげられ憲
兵に護送される途中の兄と列車の中で会ったという。
朱雲岫は妹に「心配しないで家に帰りなさい」と言
朱雲岫の親友王明正の妹王秀珍
写真7 憲兵隊文書と一緒に発見された
「蘇聯諜者朱雲岫写真」
っている。
朱雲岫
は仲の良
かった王
明生に影
響されて、
--
王明正の甥王選才
80 歳(2003 年当時
抗日軍にはいったものと思われる。その後はあまり
家には帰らなくなったが、家に帰るのは、王明生の
妹の王秀珍に会うためだったという。しかし、彼女
は王雲岫のことを尋ねられると、
「背が高く丸顔でと
ても格好のいい人だった」という以上は多くを語ろ
うとしなかった。朱玉芬は「恥ずかしがっている」
と声をひそめるが、子どものように小柄な静かな老
女の目は、遠い昔の喪失の悲しみを思い出すことを
拒絶するかのように、空ろだった。
王明生の父王兆金には、三人の息子と六人の娘が
いた。1933 年頃から次男の王明生が抗日戦に身を投
じ、あまり家によりつかなくなると、日本軍の特務
が絶えず一家を威嚇しにやってきた。1936 年、王兆
金は一家を引きつれ、他の家族と共に北山の抗日連
軍部隊に参加した。3 男の王明徳は抗日連軍の兵士
となり、王兆金と長男王明武は抗日連軍の秘密駐屯
地で農作業をした。当時 13 歳の長女王秀清や、母
親、義姉は抗日連軍第4軍の被服廠にはいった。後
に、部隊の移動に伴って、北山の秘密駐屯地は放棄
され、王一家と他の抗日家族はそのまま農作業を続
けて生活していた。しかし、ここも日本軍の山探し
で発見され、機関銃をつきつけられて追い出された。
それから王一家はまた金家屯に戻ってくるまで、二
年間の流浪生活を送る。王秀珍は、この流浪生活の
中で、姉の王秀清がひどい凍傷にかかり、足が不自
由になったと語った。
人民服姿の甥の王選才は、叔父王明正について、
次のように語った。
叔父は学問もあり、能力も高く、強い人だった。
抗日連軍第3軍の連長でもあった。しかし、文化
大革命の時、抗日軍の幹部だった者たちは、スパ
イや日本人の手先である特務の容疑をかけられ投
獄された。自分はそれまで村長だったが、叔父が
抗日連軍にいて、憲兵隊に捕まって以来行方不明
ということで、村長を首になり、後手に縛られ村
を引き回された。あの時点で、
『特移扱』になった
ことさえ分かっていれば、そんなことにならずに
済んだ。私は日本軍国主義を恨んでいる。絶対に
許さない。
発掘された監獄跡に立って、身を裂かれる思いを味
わうのだった。
犠牲者の数
細菌戦の犠牲者は二つに分かれる。日本軍の細菌
戦の結果、ばらまかれたベスト菌、コレラ菌、チフ
ス菌などに感染して死んだ人々。さらにその家族や
隣人は看病や悲痛な埋葬作業の過程で、二次感染を
起こし倒れていった。やがて、旅人や、行き来する
商人などを介して近隣の町や村に伝播し、おびただ
しい数の人々が死んでいった。細菌戦そのものの犠
牲者の数はまだまだ未解明な部分が多く今後の調査
にまたなければならない。三尾豊が陳述書の中で引
用した、細菌兵器開発のための人体実験の犠牲者 3
千人という数は、ソビエトが 1949 年関東軍の抑留者
の中から、
「細菌戦用兵器の準備及び使用」に従事し
た者 12 人を捜し出して「起訴」した、いわゆる「ハ
バロフスク裁判」の公判記録iにある、川島清(731
部隊第四部細菌製造部長)の以下のような供述に基
づいている。
「部隊ガ五カ年、即チ一九四〇~一九四五年ニ平房
駅ニ所在シタ期間中ニ、三千名ヲ下ラナイ人間ガ、
此ノ『死ノ工場』ヲ通過セシメラレ、殺人細菌ノ感
染ニヨッテ殺戮サレタ。
」
この後、川島は「1940 年以前については、自分は分
からない」という意味の供述をしている。川島はさ
らに、
「マルタ」にされた人々の人数を割り出すのに
有効と思われる次のような供述をしている。
「第七三一部隊ニハ、毎年、五〇〇――六〇〇名
ノ囚人ガ送致サレタ。
」
「第七三一部隊デハ、実験ノ結果、毎年少クトモ
約六〇〇名ノ人間ガ死亡シタコトヲ言明シ得ル」
3 千人という数は、単純に川島自身が承知してい
る 5 年間に 600 人をかけあわせた数字であり、平房
に 731 部隊が建設されたのが、1936 年、
「特移扱に
関する通牒」が出されたのが 1938 年であることを考
慮すれば、それが、細菌戦部隊における人体実験の
犠牲者の一部にすぎない数字であることがわかる。
以下に3千人に加えなければならない数字の根拠を
列挙する。
ベイインホウ
(1)731 部隊の前身五常県 背 陰 河
満州国をでっちあげて、中国人を残酷に支配した
日本人は、将来国を担うような優秀な人材の多くを
抹殺した。それだけでなく、文化大革命の時期にな
っても、
「抗日の戦士」だった者の直系の子どもばか
りか、甥までもが理不尽な容疑に「黒五類」のレッ
テルをはられ、地位や仕事を失ったことを、どれだ
けの日本人が知っているだろうか。
憲兵隊「特移扱」文書で「丸太」と呼ばれ、実験
材料として虐殺されたことが判明した抗日の「英雄」
たちは、晴れて「烈士」となり、「侵華日軍第 731
部隊罪証陳列館」の一角にある殉難者名単に名前を
刻まれた。
遺族はその前に立ち、誇りに胸を熱くすると共に、
陳列館に並ぶ数々の残酷な人体実験の実態を目にし、
ベイインホウ
1933 年哈爾浜近郊の五常県背 陰 河 に作られた細
菌実験所「東郷部隊」が、平房に移ったのは、手狭
になったのと、
「マルタ」の脱走騒ぎが一度ならずあ
ったからだという。1935 年から背陰河の「東郷部隊」
に勤務した栗原義雄によれば、
「ロツと呼ばれた檻に、
鉄製の足枷をはめられた人体実験用の中国人の男性
ii
1940
ばかりが、
常時 50 から 100 人はいた」
という。
年以前の 7 年間に、どんなに少なく見積もっても、
1500 人程度の人間が人体実験で殺されたと考えら
れる。しかも、細菌戦部隊は北京、広東、南京、さ
らにジンガポールにもあった。
(2)南京「栄」1644 部隊
北京「甲」1855 部隊、広東「波」8604 部隊、シン
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第 100 部隊に留置されていた実験用の「生きた人
間」の中にロシア人がいたことは、ハバロフスク裁
判の被告三友一男が証言している。
「各種の実験の果
てに、衰弱した 1 人のロシア人を三友自身が青酸カ
リを注射して殺し、別のやはり実験に使って衰弱し
た2人のロシア人は、家畜の墓地で憲兵が射殺して、
その場に埋められた」と供述している。v また炭疽
菌が最も使いやすい有効な細菌兵器として、731 部
隊でも精力的に研究され、戦後米軍に研究が引き継
がれたことを思えば、実態が今ひとつ判明していな
い 100 部隊の「マルタ」についても、解明が待たれ
る。米軍捕虜をはじめとする連合軍捕虜を使った人
体実験は、戦後の日米の取引の中で念入りに隠蔽さ
れ、奉天(瀋陽)捕虜収容所や、ラバウル憲兵隊捕
虜収容所のケースについて僅かな記録が発見されて
いるのみで、全容は不明である。
ガポール「岡」9420 部隊の人体実験の実態について
は、今ひとつ未解明であるが、南京「栄」1644 部隊
については、
「松」という監獄部屋の看守だった松本
博が戦慄の証言を残している。自分の仕事以外どこ
で誰が何をしているのか一切知ることの許されなか
った職場だったが、松本が監視していた 7 つの狭い
檻に入れられた「全裸のマルタ」は入所すると間も
なく生菌を注射され、発病してから同じ階にあった
処置室で最後の一滴まで「全採血」され、遺体は隣
の電気焼却炉で灰にされていた。人体を細菌製造機
にして、汚染血液を「収穫する」現場だった。看守
として勤務した 10 か月の間に松本は、40 名から 50
名の全採血に立ち会ったという。iii
(3)もうひとつの細菌戦部隊 関東軍軍馬防疫廠 第
100 部隊
人体実験の犠牲者を考える時、忘れてならないの
は、満州国首都新京郊外に 1936 年設立された関東軍
軍馬防疫廠である。別名第 100 部隊とも呼ばれてい
たこの部隊は「軍馬防疫」という仮面の下、実は、
家畜と植物を対象とする生物戦部隊だった。獣医を
中心に 700 名の隊員を擁し、馬用のワクチンや血清
の製造、炭疽菌、馬鼻疽菌、類鼻疽菌などの人畜双
方に感染する細菌や、羊や牛のペストの細菌戦応用
研究、植物の伝染病である赤枯れ病、モザイク病な
どの実験研究を行っていた。iv ハバロフスク裁判
では、第 100 部隊の実験手だった証人畑木章が次の
ような証言をしている。
「第一〇〇部隊ニ於ケル細菌ノ効力試験ハ、家畜
及ビ生キタ人間ヲ使用スル実験ニヨッテ行ワレタ。
是レガ為、同部隊ニハ、馬、牛及ビ其ノ他ノ家畜ガ
有リ、亦隔離所ニハ、人間ガ留置サレテイタ。私ハ、
コレヲ直接見テ知ッテイル。」
(4)捕虜となった国民党軍及び八路軍兵士
25 ページに載せた写真は 731 部隊元レントゲン班
の班員だった人物がもっていたものを複写させて貰
った。この写真は同僚の隊員が「マルタ」受領に出
かけていって部隊まで護送してくる途中に自ら撮っ
たもので、この 3 人は八路軍の兵士だという。八路
軍や国民党軍の捕虜の場合、
「特移扱」文書が作成さ
れたのかどうか、少なくとも「特移扱文書」で、
「捕
虜」と明記されたものがあったということは聞いた
ことがない。この元隊員は 1994 年、731 部隊戦犯免
責の記事を新聞で読むまで、長野の開拓部落に息を
潜めるようにして暮らしていたという。731 部隊は
「玉砕」したことにして、地上から消されたと理解
していたので、病気になってもカルテに名前が残る
のが怖くて医者にもかからなかったという。
--
その T さんは、貨車いっぱいの「マルタ」受領の
仕事に駆り出されたことがあるという。憲兵隊が厳
重に護衛していて、閉じられた扉の中に何人のマル
タがいたのかみることはできなかった。憲兵隊の証
言がみな哈爾浜まで護送したというものなのに対し
て、731 側から受領に出かけてゆくのはどのような
ケースだったのであろうか。南京では国民党軍兵士
が捕虜になった後、何千という単位で虐殺された。
「マルタ」を扱った元隊員の証言でも、国民党軍将
校や兵士がいたことを証言する者がいる。ただし、
この場合は「特移扱文書」がなかったとしても、川
島の年間「6 千人」という数字に捕虜も含まれてい
たと思われる。要するに、憲兵隊の「特移扱」以外
のルートがあったということを考慮する必要がある。
(5)細菌戦野戦部隊の実戦的実験
また、「細菌戦野戦部隊」の存在も明らかになっ
た。これは、9 人一組となって、トラックで中国人
の集落をまわり、井戸にパラチフス菌のアンプルを
投げ込み、発病した頃に村に戻り、村民を生体解剖
して標本を持ち去るという部隊だ。vi証言者は 1998
年、
「2週間で4か所、子どもも入れて、30 人くら
いを手にかけた」と私に語った。それは、終戦間際
の末期的謀略作戦だったとはいえ、そうしたゲリラ
的活動による、実戦的実験の犠牲者も相当数にのぼ
るものとみられる。
(6)自作自演の「防疫隊」
1940 年、新京と、その北西 60 キロの農安県で
流行したペストも「田中技師以下 6 名によるペス
ト攻撃既往実績 1kg PX(ペスト菌液)で 500
たお
1940 年 6 月の農安ペスト流行時に防疫隊としてとし
て出動した「満州国保健司防疫科」が写真集を残して
いた。
人~1000 人斃れ得る」として、陸軍省医務局会報
(1943 年 11 月)に石井自ら報告している。
『「七
三一部隊」罪行鉄証 特移扱・防疫文書』に収録
されている、新京・農安ベスト「防疫」関係写真
計 25 枚の中の、凄惨な解剖写真は、日本人住民
の中にも犠牲者を出したこの「流行」が、実は一
連の浙江省での細菌戦を前に、大都市人口密集地
帯での自作自演「フィールド・テスト」だったこ
とを示している。石井に率いられて乗り込んでき
た「臨時防疫隊」は、車で駆け回って患者を捕ら
え、死体を持ち去り、密葬された遺体を掘り返し
石井四郎率いる「関東軍臨時防疫隊」が平房の 731
「即地解剖」というキャプションのついたこの写真
は生体体解剖を伺わせる。
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何事もない」ということを説明したが、事実上、私
たちはどこかで右翼的勢力からの物理的、精神的攻
撃に晒されることを覚悟しているようなところがあ
る。
私は一切の私的感情を抑制して、右翼の街宣車に
同乗して取材したりしたこともあるが、
「大音響で相
手やその隣人たちを困惑させ、結局は言論や活動を
封じ込める」
「一人一殺」というような言葉を口にす
る彼らは、
「騒音防止条例」などで取り締まられるこ
ともなく、野放しになっている。外国人にはそうし
た現象は「不可解」であるし、日本の民主主義や言
論の自由も見せかけに過ぎないと思われているのか
も知れない。またこのような調査旅行がすべて自費
で賄われていることも、不思議に見えるのかも知れ
ない。
て、その場で解剖するなど凶暴に振舞った。同様
の振る舞いは、浙江省崇山村などの細菌戦被害地
に現れた防疫衣姿の「防疫給水部隊」にもみられ
た。彼らにとっては勿論治療や防疫ではなく、自
分たちの開発した細菌兵器が「仕事」をしている
かを確かめる「菌検索」が最優先の目的だった。
以上のことを考えあわせれば、犠牲者 3 千人とい
う数は、証言は、現実的な数字をはるかに下回るも
のであることがわかる。それは、跡形もなく消し去
られた人々の存在を、証拠がないからというより、
証拠が見つけられないという、こちら側の非力を省
みず、再度消し去ることでもある。
第2章 黒龍江省社会科学院座談(2009 年 9 月 18 日午
後)
中国には、各省の首都に省の社会科学院と、首都
の社会科学院がある。歴史、経済などの社会科学の
分野において、最先端の場所と言っていい。アカデ
ミックな世界が現行の政治から必ずしも独立してい
ない中国にあっては、研究者や学者の発言も時とし
て、リアルタイムに時の政権の意向を反映している
場合がある。そういう意味で、曲偉(Qu Wei)院
長の率直なコメントは日本人全体、民主党新政権へ
の、語りかけとして受け止めた。
「前事不忘 後事之師」
刈田団長が「15年戦争と日本の医学・医療研究
会」について紹介し、
「戦争と医の倫理の検証をすす
める会」を立ち上げ、2011 年の日本医学会総会でこ
の問題をとりあげるために働きかけ、全世界に呼び
かけるという決意を述べた。
それに対して曲院長は、
「前事不忘 後事之師とは
1800 年前の、
『三国志』の中の言葉である。皆さん
はこのことを実践されているわけで、心から支持し、
そして敬意を表したい。こうした活動を通じて日中
関係は良い方向に向かってゆくと信じている。日本
では「平和と正義」のための研究は、ボランティア
でなければできないし、政府からの支援はないとい
うことを聞いている。また、その場合右翼からの攻
撃にさらされるということも聞いている。
」と述べた。
「前事不忘 後事之師」という言葉は中国でよく
目にするモットーである。それはしばしば、中国が
列強に利権を蝕まれ、ついには最後の帝国主義国日
本に、傀儡政権満州国の設立を許した過去を「恥の
前事」と位置づけて語られることが多い。その恥を
「師」として出発点に共産党の下、今日の中国(後
事)を築いたという誇りと自信をうかがわせる言葉
でもある。しかし、この日、曲院長がこの格言を持
ち出して言いたかったのは、日本人への苦言だった。
そして国民の「平和と正義」を追求する研究活動
に対して、日本政府は一切の支援をしないばかりか、
右翼の攻撃にさらされるという現実に同情されてし
まった。西山事務局長が、
「2000 年のこの研究会立
ち上げの時には心配したが、結局これまでのところ、
「怨み」に報いるに「徳」をもって為せ
曲院長はさらに次のように続けた。
731 部隊では 3 千人という中国人が人体実験さ
れて殺されたというようなことがあったが、日本
国民に対して、怨みの感情を抱いてはいない。友
好的な関係を保つことが大切だと思っている。
抗日戦争が終わった後、黒龍江省には 3 千人あま
りの日本人の残留孤児が残され、中国人が保護し
て育てた。このことからも分かるように、中国人
民は「怨みに報いるに徳をもって為す」という教
えを実践する平和を愛する民族だ。
日本軍国主義が引き起こした戦争によって 3 千万
人の中国人民が犠牲となった。しかし、中国人民
は日本人を含む世界各国の人民に対して、友好的
な気持ちをもっている。
「特移扱」として細菌戦部隊に送りこまれ、残酷
な人体実験のモルモットとして消費された抗日運動
の英雄たちの遺族の話からも判るように、彼らにと
っては「日本軍の残虐行為」はまだ忘れられるよう
な類いのことではない。自らの国土を犯され、残酷
な被害に遭った側は子や孫に言い伝えても、その怨
みを忘れまいとする。当時の日本軍の行いの実態を
知れば知るほど、日本人がもっと多くの復讐の刃に
倒されながったことが不思議でさえある。
加害側の日本では、忘れようという強烈な力が一
貫して働いていた。歴史の事実として、学校で教え
るという次世代への記憶の継承の努力が著しく不足
しているのは事実だと思う。中国の人々の「怨み」
--
最晩年の東史郎氏、丹後市の自宅で
とは何なのか、なぜ「徳」なのか、若い世代には全
く理解されない。
「怨みに報いるに徳をもって為せ」
とは、終戦直後蒋介石が全軍に対して命令した言葉
で、敗戦を認め、武装解除された日本兵に対して、
いたずらに復讐の刃を振るうことを戒めた言葉だっ
た。南京大虐殺の証言者として 90 歳を超えるまで
戦闘的に生き抜いた東史郎さんは、よく講演などで
以下のような話をして、中国人の「徳」を讃えた。
敗戦直後、寧波(ニンポー)で武装解除された私は、
上海に武器弾薬を運べと命令された。
上海で兵器受領の蒋介石軍の将校に言われた言
葉が忘れられない。
「日本軍の捕虜になった私は、
南京下関(シャーカン)で日本軍の虐殺に遭った。次々銃
殺される戦友の死体の中で、死んだふりをしてう
ずくまっていた。夜陰に紛れひそかに脱出して今
日まで生きてきた。その時のことを思うと無念で、
今お前たち捕虜を銃殺したい。しかし蒋介石総統
の、怨みに報いるに徳をもってせよ、との命令に
従って助けてやる。
(中略)
大人の風格で中国人民が寛大に対処してくれた
のである。
我々は姑息卑怯であってはならない。
(中略)
隠しきれない事実を、隠そうとする臆病と卑怯
さこそ、平和と友好を阻害すると思う。
中国軍が日本を侵略して来たのではない。日本
軍が中国を侵略して行ったのである。この原点を
忘れると、すべての観点が狂ってくる。この原点
が考える根本である。vii
東はこの時、日本人は「人間」として中国に負け
たと思ったと私に語った。2008 年、胡錦濤主席が来
日した時の発言などを分析すると、まさに「大人の
風格」なのである。戦時の日本侵略軍による数々の
残虐行為とそれに対する不十分な反省を批判しよう
としなかったのは、戦後 60 年以上経っても、癒え
ることのない傷を負った人々の反日感情を無視して、
現在と未来の経済的提携関係がもたらす繁栄をより
重視した現実的路線を象徴しているとも言えるが、
何千年に及ぶ日中関係の歴史において、あの 20 年
ほどの戦争は瞬きのように過ぎた時間とみなしてい
るようにも見える。
中国文化が日本にもたらしたものを考えて見れば、
「漢字」
「陶磁器」
「食文化」
「漢方」とどれを取り上
げても、中国は日本文化の「母」なのだと思わざる
を得ない。もっと言えば、圧倒的人口と、財力を誇
る現代中国の存在感は強大で、いわれのない優越感
から暴言を繰り返す日本の政治家など、手の平の上
で騒いでいる虫のようにしか見えないのかも知れな
い。
南京大虐殺の生き残りであり、七三一・南京・無
差別爆撃賠償請求裁判の原告の一人である、李秀英
さんを 2000 年 5 月南京の自宅に尋ねた。インタビ
ューの最後に、彼女が鋭い眼差しできっと前を見据
えて言った言葉が忘れられない。
「中国は今や昔のよ
うに貧しい弱い国ではない。私の孫は人民解放軍に
入っている。」彼女は国際難民区に侵入してきた日本
兵の暴行に抵抗して、銃剣で腹部を突き刺され、身
篭っていた胎児を殺された。白髪の丸い背中のおば
あさんが、祖国を後に背負って、日本を恫喝してい
るかのような迫力だった。中国の被害者の話を聞い
てみると、
「賠償」しないことが、むしろ「怨み」と
なって消えず、
「将来の紛争の火種になりかねない」
という観があった。それから 10 年、直接の被害者
が急速に死に絶えようとしている現在、中国人全般
の中に「責任と向き合わない、狡い日本人」という
イメージが定着しているようにも思う。
相当数の富裕層も出現し、日本の基準からすれば、
大邸宅に住む中国人の友人が私だけでも 2 人いる。
土地の私有は許されていないので、政府からの 75
年リースで借地権を買うというのだけが違うが、銀
行から 25 年ローンを組んで借金をするところなど、
資本主義国とあまり変わらない。一人っ子政策が徹
底し、大切に何不自由なく育った若者たちも多い。
そうした若者たちが、日本の大学に留学し、差別や
いじめに直面して、傷心のままに帰国するケースも
多いと聞いている。
アメリカやカナダ、オーストラリアを選ばず、日
本を選んだ彼らにはそれなりの期待や日本への憧れ
もあったものと思われるが、そのような成り行きで
志半ばで挫折するとすれば、国際的なレベルでの損
失であり、不幸だと言わざるを得ない。
この 10 年間の中国の変化はめざましい。都市部
と農村との格差はまだまだ大きいとしても、日常生
活のレベルは日本と余り変わらないとさえ思う。特
に上海、瀋陽、広州、南京などの大都会の活気と熱
気には圧倒される。若者たちは生まれながらに自国
の繁栄を目の当たりにして育ち、優秀であればある
ほど時として、危険なほどに誇りに満ちている。
ドイツに学べ
私は近年ドイツテレビの仕事を多く手がけている。
ニュースの発信地として、魅力を失った日本から、
北京オリンピックを前に多くの海外メディアが「チ
ャイナ・シフト」を実行した。ドイツテレビも例外
ではなく、私がフルタイムで働いていたドイツテレ
ビ東京支局は縮小して、特派員を廃止、北京支局傘
下に入った。北京支局は特派員二人体制となり、ス
タッフ、機材ともに拡大されて、極東地域すべてを
担当することになった。私のボスとなった北京支局
黒龍江省社会科学院曲偉院長
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
長がある日私にこんなことを言った。
「中国政府の役人は親しくなるとみんな同じこと
をいう。ドイツ人は偉い、ナチスドイツの残虐行為
を長い時間をかけて償ってきた。それに比べて日本
は良くない。謝罪の言葉もないし、反省も賠償もし
ていない」
第 3 章侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館館長
朱成山氏との交流 (9 月 20 日)
日本軍による残虐行為の現場
朱成山館長は年間世界中から合計 50 万人の来館
者を迎える中国一の紀念館の館長として、超多忙な
日常を送っている様子だが、2 時間以上にわたって、
ブリーフィングしてくれた。2008 年新装なった紀念
館の特色を中心に紀念館の概要、歴史を紹介してく
れた。最近の遺骨発掘調査(2005 年)は別格として、
それ以前の発掘については、紀念館の工事と同時進
行であったことから、現場保存や、遺物・遺骨の収
集・保存について、杜撰な扱いがあったことを率直
に認められた。日本軍国主義正当化の観点から、修
正主義的理論をもてあそぶ日本の一派に比べて、科
学的に真実に迫ろうとする姿勢が感じられた。
黒龍江省社会科学院曲院長の話は最後に民主党政
権への提言で終わった。冗談半分と言いながら、眼
差しは結構真剣だったし、肝に銘じる話でもあった。
中国は日本に対する賠償を要求しなかった唯
一の国である。私はイスラエルに行ったとき、多
くの車両がドイツ製でドイツから無料で供与され
たものだときいた。もし、中国がイスラエルのよ
うに日本に車を要求したら、大変なことだったと
思う。私は日本の知識人たちがこのような事実に
対して正しい認識をもって欲しいと願っている。
このような背景からして、皆さんの研究は大変意
味が深いと思う。日本の国民はこの間の歴史的事
実について、深く考えていただきたい。
ドイツは日本のように戦争中細菌化学兵器を
使いはしなかったけれど、戦後戦争に対しての深
い反省を賠償その他の行動で示した。
例えば、ドイツは首都ベルリンの中心に、棺を
かたどったセメントの巨大なモニュメントを建て
た。これはドイツ国民が戦争中に犯した残虐な罪
を忘れないようにするためのものだ。皆さんの「医
学者による戦争を反省する活動」の意義は大きい
し、今後ますます発展していくものと期待してい
る。
紀念館が建っている付近ではおよそ 1 万人が殺害さ
れ、その骨が今でも埋まっている。
南京「栄」1644 部隊についても相当の時間をさい
て、説明してくれた。この場合、1998 年地中から発
見された人骨が中心であり、
「現地」であるにもかか
わらず、極めで情報が少ない事情をうかがわせた。
発見当時の様子を、紀念館に再現して展示している
他、人骨の分析や保存についても南京大屠殺紀念館
が責任を負っており、朱館長がまさにその中心人物
であるということが今回確認できた。
1644 部隊所属の山中太木軍医や、軍画兵石田甚太
郎の証言(石田の姪水谷尚子著の論文 2 本)viii 西里
著作本ixの 1644 部隊の松本博少年隊員の証言などの
日本側の資料については率直な興味を示したので、
コピーを進呈した。
細菌工場跡地や、飛行場などこれまで一定程度調
査を続けてきた私のような者にも、位置関係などは
っきりイメージできずにいた場所がかなり地図上で
はっきりしてきた。
終わりに昼食の時間が大幅にすぎているにもかか
わらず、山中論文や石田甚太郎の図、そして 1644
部隊の脱走兵榛葉修が自筆供述書に書いた図など持
ち寄って、現在の「南京軍区総医院」付近の地図と
照らし合わせ、朱館長を囲んでワイワイガヤガヤ確
認しあったのが楽しいひとときだった。
日本もドイツに学んで戦争の反省をしてみて
はどうだろうか。これは勿論半分冗談だと思って
聞いて欲しいが、日本の民主党新政権は鳩山首相
を団長として、ドイツに行って、戦争の反省の意
志表示や、戦争反対のための遺跡や戦後建てられ
た様々な建物などを見学する視察をしてみて欲し
い。そして、ドイツにならって、戦争を反省する
ための建物を建て、また賠償を実行し、認識を深
めて欲しい。それは日本の面子を傷つけるどころ
か、国としてのイメージを良い方向に展開させて
いくと信じている。
ドイツは戦後ヨーロッパの被害国に対して、ド
ルにして 250 億の賠償金を払った。また 50 億ド
ルは戦争捕虜に対して支払った。勿論ドルの価値
は現在の価値に換算すると、何倍にもなる。
賠償をしないのならば、その代わりに日本と極
東アジア地域の経済協力を発展させるために、具
体的に目に見えるような形での貢献をして、その
地域の経済発展に寄与するということで、戦争を
反省する意志表示になるのではないかと思う。
以上の私のメッセージを、メディアを通して日
本の皆様に伝えていただければ幸いに思う。
--
中国各地に抗日戦争当時の中国民衆の悲惨な実態
や、侵略・征服者日本軍の残虐行為を記録し、勇敢
に抵抗した抗日戦士を讃える紀念館がある。中国侵
略の発端となった満州鉄道爆破事件(1931 年 9 月
18 日の柳条湖事件)の現地に作られた 9-18 歴史博
物館、哈爾浜市内の東北烈士紀念館、そして第 731
部隊罪証陳列館などはその典型的な例だが、南京大
屠殺紀念館の際立った特色は、1万人とも見られて
いる虐殺の現場に作られた建物だということだ。端
的に言えば無差別に殺害した人間の死体を無造作に
穴を掘って埋めた「死体捨て場」の跡だということ
だ。館内には地表部分を掘り出してそのまま展示し
ている場所がある。その下はさらに6層に渡って遺
体が埋まっているという。遼寧省撫順郊外の平頂山
殉難同胞遺骨館にも同様の展示があった。累々と横
たわるそれらの人骨を前に、私たちは言葉を失う。
余り遠くない過去に日本人が中国を侵略し、武装し
た軍隊が武器を放棄して降伏した中国軍の捕虜や、
女性、子ども、老人を含む一般市民多数を虐殺した
という事実を、日本人すべてが知らなければならな
い。ドイツが国策としてナチスドイツの暴虐を子ど
も達に学校で教えているように、新しく育ってゆく
世代に教えなければならない。また、炭坑や大規模
な工事のために奴隷労働を強制し、暴力的支配の下
に酷使して、朽ち果てた人々の遺体を捨てた集団墓
地「万人抗」が「旧満州国」を中心に、中国各地に
ある。その傍らでは、人々の生活が続いていた。残
酷に殺された同胞の遺体が埋められた側で生活しな
がら、その強烈な出来事を忘れることができるはず
がない。日中国交回復後、多くの戦後補償裁判が起
こされたのも当然のことだと言える。加害者の日本
軍は一部を除いて、寛大な中国魂に救われ無事帰還
して、多くは戦後日本の繁栄の恩恵に浴した。
「万人
抗」同様の中国人・朝鮮人の集団墓地は九州、北海
道などの炭坑や軍需工場などにも存在している。50
年代にすでに発掘されたという、北海道室蘭のイタ
ンキ浜の朝鮮人集団墓地に出かけたことがある。浜
と海を見下ろす崖の上にそびえる慰霊塔が忘れられ
ない。浅く埋められた海岸の集団墓地は戦後間もな
いある時から、表面の砂に蠅が真っ黒にたかるよう
になったという。
連合軍捕虜収容所の調査で最近何度か訪れている
海南島でも、日本軍が占領していた6年間の間に「抗
日分子」の掃討を理由にした住民虐殺、村落破壊、
放火、略奪が各地で繰り返し行われた。謝罪と補償
を求めて日本政府を提訴したいという声が今でも聞
かれる。
(東海岸の月塘村 yuetang)また、1939 年
占領後進出してきた日本企業が多数の労働者を奴隷
労働に駆り出し、道路や港湾施設の建設や、鉄鉱山
の採掘にあたらせた。その過程で栄養失調、ケガ、
マラリアや脚気、虐待などで使いものにならなくな
った人間の捨て場だった「万人抗」は付近の住民な
ら誰でも場所を知っているが西海岸の八所の場合は
手つかずのままになっている。戦後建てられた「八
所死難労工紀念碑」の碑文には、
「抗日戦争当時日本
侵略者によって 3 万人余りが虐殺埋葬された場所」
とある。
それにしても、江沢民時代からさかんに作られた、
このような抗日戦争時代をフィーチャーした博物館
は、近年多額の国家予算がつぎこまれ非常に充実し
た施設となっている。同時に抗日戦争勝利、共産中
国成立ということがこの国の原点であり、誇りであ
ることを強く感じる。人心を掌握し、ひとつにまと
めるという意味でも、原点に戻るということが今大
事になっているのかも知れない。まさに「全国愛国
主義教育模範基地」として充実させているのだ。
今回訪れた哈爾浜郊外の平房の「侵華日軍第 731
部隊罪証陳列館」も隔世の観があるほど、充実して
きており、改装や新設の企画案なども出せば通ると
いう状況にあるようだった。金成民館長も出費がと
もなう資料や図書の収集について、豊富な予算が認
められているらしく、考え方がすっかり変わってい
る様子だった。
「マルタ」の監獄である呂号棟と本部
棟をつなぐ地下道を整備して公開する案や、一時中
学校になっていて、現在は陳列館となっている建物
の隣接地を買い上げて、陳列館を拡充する計画など
さまざまなプロジェクトが進行していて、
「寝る時間
もない」と半ば誇らしげな様子だった。
瀋陽の 9-18 歴史博物館が瀋陽市、遼寧省、北京政
府 3 者から合計 5400 万元(8 億 1 千万円)という
巨額の予算を得て建設中の「戦俘管旧址紀念館=捕
虜収容所跡地紀念館」についても同じことが言える。
一昔前までは中国での会議やセミナーといえば、食
事が出る程度で、自費が常識だったが、この捕虜収
容所跡地紀念館建設プロジェクトでは、完成前のセ
ミナーや遺品などの収集のため、米軍捕虜やその家
族、研究者など 50 人ほどを 2 回に渡って旅費・滞
在費もちで招待している。
以下に朱成山館長のブリーフィングの内容を一人
称でまとめた。
I) 侵華南京大屠殺紀念館新館について
●設立 1985 年
<改造> 1995 年と 2005 年から 2007 年にかけて
の2回の大規模改造 2007 年 12 月オープン
建築面積 2.5 万平方km 敷地面積は 7 万平方km
に及ぶ。
紀念館自体が当時の虐殺現場・万人抗(約1万
人)で、死体を運んだり埋葬したりした労働者
の証言でも裏づけられている。
●1995 年と 2005 年の大改造と遺骨発掘調査(3 回)
● 1984~85 年
当時の発掘調査については、日本の藤原彰先生、
本多勝一氏、吉田裕先生(一橋大学教授)
、姫田光
義先生(中央大学教授)洞富雄先生(当時早稲田大
学教授)などが著作に記録している。
今認めざるを得ないことは、あまり科学的ではなか
ったこと、また現場の破壊が行われ、右翼の批判を
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
た。そのお棺も戦争中のものと断定されたのは、紅
十字会が薄い木の板のお棺を使って遺体を埋葬し
た。やがて、そのようなお棺も不足して、そのまま
埋葬した。
民間の正状死であれば、もっと厚い板のお棺を使
うので、数十年くらいではお棺は地中で無くならな
い。しかし、この薄い板のお棺はほとんどなくなり
かけていた。
<戦時に虐殺されたと思われる理由>
普通に埋葬されたのなら南北になっているはず
だが、むきがまちまちだった。
南京地方の習慣では赤ちゃんは大人と一緒には
埋葬しない。子供用の墓地がある。
南京の風俗としては水のあるところに遺体を埋葬
するということはあり得ない。ほとんどが高い場所
に埋葬する。人を池に埋葬するということはあり得
ない。
受けた。
紀念館建設作業中、万人抗の一部を破壊してしま
った。鉄管と水道管を万人抗の真ん中を通した。専
門家もおらず、経験不足でおかしなことをしてしま
った。
私は今でもこのことを思うと残念で心が痛い。そ
の時点でわかっていれば、建物を作らなくても虐殺
の現場を大事に保管する作業をするべきだった。
万人抗はそのままの状態であるとはいえない。
(正
直な実態)一部分だけが昔のまま残っている。80
年代は学術的にも遅れていて、専門家もすくなかっ
た。90 年代に紀念館をつくっていれば今とはだい
ぶ違った姿になっていたはず。
1998~2000 年 第2次発掘調査
考古学者の分析:遺骨の年齢、性別、死の状況分
析 など詳細に調べた。
考古学者のチームだったので現場を破壊せずに
すんだ。各遺体に番号をつけ、資料文書もつけた。
遺体は7層になっていて、各層に土がはいってま
た遺体という風に重なっていた。一番上は白い石灰
だった。
現在の発掘は 7 層の一番上のまわりだけ。下は
そのままになっている。
(万人抗)
考古学者の判断によるとこの辺は池だった。その
証拠としては土の中に、蛙や木の根などがあった。
被害者の年齢は幅広い;男女 70 歳~3,4,5 歳、
年齢もはっきりしない赤ちゃんもいた。
●
この現場は紀念館の中に保存。
★現場の保存と新館の建設とは矛盾する二つの作
業。
<解決策>方位、高さを計測して全体を切り取りお
おきなクレーン車で別の場所に移した。建物の基礎
を作ってから元にもどして、屋根を作り、建物を建
てた。
遺跡の保護のために多額の費用をかけた。
戦闘による死ではない。名古屋市長(河村たかし)
xの発言は遺憾。3歳の子どもが戦場に立つという
ことはあり得ない。70 歳以上の老人が中国軍の軍
人であることもない。
南京市法医による検死鑑定(頭蓋骨、歯の分析か
ら年齢、性別を割り出す)
アメリカから輸入した骨密度の測定で 60 年程度
経っていると鑑定。
北海道大学の錫谷教授(骨密度についての教科書
を書いた)によると、大体 60 年経っていると鑑定
された。
考古学で一般的に使われている C-14 法xiによる
鑑定は、数 100 年以上経っている場合に適してい
る。
数 10 年という場合には必要ないと判断した。
南京大学現代分析センターで、遺骨のカルシウム、
りん、鉄などの成分分析を行った。
鑑定報告書は貴重な档案資料である。
● 2005 年 第 3 次遺骨発掘調査
★新館の隣に新しい虐殺現場が発見された。
丸い「坑」の状態:当時の証言者の話を総合する
と、この丸い「坑」は動物や人間の糞尿をためてお
く肥溜めだった。平和時には考えられないことだが、
死者を冒涜する意味で遺体を「肥溜め」に投げ込ん
だ。遺体は 19 体。「ぐちゃ・ぐちゃ」の状態。ま
わりには薄い木の板でできたお棺がいくつかあっ
--
写
解放軍がこの門を新築したときに人骨の入った箱が
見つかった。
●虐殺の歴史的考証
第6(師団長谷寿夫中将)
、第 16 師団(師団長 中
島今朝吾中将)による虐殺があった。
遺体の埋葬にあたった、あるいはそれを目撃した生
き証人; 王秀英、朱有最
被害者で現存の人々;
劉世海:虐殺の生き残り(survivor)首のところを
切られたが、何とか生き延びて逃げた。
紀念館のあるあたりでは大体 1 万人くらいの虐殺
があったと見られているが、検証した遺骨は1万体
にはおよんでいない。
60 年間の間に数回の破壊、損害が起こっている。
50 年代には大虐殺の跡地とは知らないで、解放軍が
施設を作ったりした。コンクリートの基礎が発見さ
れている。
万人抗の西側の道路工事をした時には壁もつく
ったが、その時にも遺骨が発見され掘り出して、今
は紀念館に保存されている。
博物館であり、慰霊塔であるというのが
南京大屠殺紀念館の特色
●新館の特色
1) 前事不忘、後事乃師
2) 証明に力を入れた;写真、証言、ビデオ
3500 枚の写真、3000 コの遺物、149 本のビデオ
12000 件に及ぶ被害者の档案
中国各地に散らばっている生き証人が見つかり次
第、聞き取り調査を実行している。
● 1998 年の発掘
北京東路に面した開放軍の施設の門の工事の現場
で木製の箱が地下から発掘された。1644 部隊の本部
に近い場所。細菌工場跡地。箱の中にはバラバラに
なった骨がはいっていた。ある箱には頭蓋骨だけが
はいっていた。
箱:幅 30cm 長さ2m
骨は人間の骨と確認できたが、色は黒かった。強
い硫酸の臭いがした。
発掘された場所は昔は幅3-4mの溝(水路)で、
埋め立てた。水草も一緒に発見された。また牛の皮
でできた帽子の縁(ふち)がまだ腐敗していない状
態で見つかった。
正常の状況下であったとは思われないという判断。
現場関係者以外立ち入り禁止として封鎖した;
1998 年 8 月~9 月 20 日間
専門家による調査チーム結成;リーダーは南京大
学 高興祖教授
―川の研究者
―水道の専門家
―水草の専門家(水産研究所の研究員)
;梱包用の材
料に使われていた草(緩衝用?)
―歯の専門家(金歯の調査)30 年代か 40 年代の技
術
―帽子の縁の皮の鑑定;当時の国民党軍の制帽―捕
虜か?
―細菌戦の研究者; 北京の郭成周氏に鑑定を依頼
に自宅を訪問して、現場にも来てもらった。中国の
北京軍事科学院の専門家 9 人;土と骨の分析。
数万のデータ:コレラ菌、ペスト菌、炭疽菌の遺
伝子が残っていた。南京ではコレラが流行したとい
う記録はそれまでなかった。
結論として、細菌戦に関係ある人骨と認定された。
3)新館オープン以来社会的に好評。
2008 年の見学者 542 万人
世界 85 カ国から 50 万人の外国人見学客。そのう
ち日本人は 10 万人ほどでトップ、第2位は韓国、
第 3 位はマレーシア。
日本人は例年 5 万人程度、2008 年は新館オープン
の最初の年だったので、増えたが今年はまた減るだ
ろう。
中国の博物館の中で最高の集客。南京に来る外国の
観光客がほとんど必ず来る場所となっている。
4) 新館の構成(4部門)記念的意義をもつ遺跡
型歴史博物館(全国愛国主義教育模範基地、全国文
物保護団体)
① 資料の展示・集会区
② 遺跡追悼区
③ 平和公園区
④ 館コレクション交流区
一般の人たちは最後に平和を目的として歴史を展
示している場所と理解して帰ってゆく。
平和を目的に歴史を研究する。
1644 部隊について
1644 部隊については各種の地図を参照し合って細菌
工場や飛行場の位置関係などがかなり解明された。
また感染の危険がないということで現場の封鎖も解
除された。
―マスコミ動員:証人捜し。
近くの住民の証言:
1) 陸軍病院の外に塀に囲まれた場所があって
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
多くの軍馬が飼育されていた。そこに細菌
工場もあった?
2) 細菌工場には木製の小部屋が沢山あった。
● 日本軍が撤退した後、細菌工場は上海軍医大学が
接収した。細菌が恐ろしくて誰も手がつけられなか
った。コレラ菌、炭疽菌などの工場だった。
培養に使う箱(培養缶)もいくつか見つかって大学
の方に持っていった。郭成周氏は上海軍医大学から
その箱をいくつか持ち去り今自分の部屋においてい
る。
● 人骨の分析
頭蓋骨 合計 41 個 17 歳から 38 歳成人 女性 1
人 男性 27 人を特定。他は性別不明
大屠殺紀念館の中に発掘当時の場面を再現し、展示し
ている。
共産中国が成立してから初めて見つかった細菌
戦に関する遺骨。
骨は紀念館に展示、色は前ほど黒くなくなった。
● その他の調査
―九華山の洞窟などに隠されたものがないか調査し
たが、何もみつからなかった。
(森正孝の調査団など)
機材などを日本軍が埋めたという情報があったが、
所在は判明していない。
―1644 部隊細菌工場は静岡県の部隊が担当してい
た。
(日本側からの情報)
―骨の入った箱が見つかった場所に記念碑を建てる
話もあったが、解放軍が反対した。
南京で 1644 部隊の研究をする学者はいない。な
ぜならほとんど資料がない。
脚注
ⅰ ババロフスク裁判は、米軍占領下の日本におい
ては、細菌戦部隊関係者はアメリカとの取引に守ら
れ、誰一人戦犯裁判にかけられることもなかったし、
--
そのような取引自体が極秘であったから、当時はシ
ベリア抑留者問題から目をそらすための、ソビエト
のでっち上げとして無視された。公判記録の日本語
版は 1982 年復刻出版された。生体実験や生体解剖な
どの当事者による戦慄すべき陳述が、すべて真実で
あったことは、後に研究者やジャーナリストの調
査・取材で証明され、731 部隊研究には必須の資料
となっている。
『公判記録―731 細菌戦部隊 原題=
細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日
本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』1993 年 第二刷
三進社(以下 『公判記録』)
ⅱ 西里『生物戦部隊 731』陸軍軍医学校と 731
部隊発祥の地背陰河 124~127 頁
ⅲ 同上 細菌戦部隊「栄」一六四四部隊の少年看
視兵 松本博証言 182~186 頁
ⅳ
P. ウィリアムズ/D. ウォーレス著 西里扶甬子訳
『731 部隊の生物兵器とアメリカ ~バイオテロの
系譜~』2003 年 かもがわ出版 第一章 悪魔の兵
器 58 頁(以下 ウィリアムズ/ウォーレス 『731
部隊の生物兵器』
)
ⅴ 『公判記録』被告三友ノ訊問 405~426 頁
ⅵ 西里『生物戦部隊 731』細菌戦野戦部隊 204
~205 頁
ⅶ 『加害と赦し 南京大虐殺と東史郎裁判』
(現代
書館 2001 年)第 I 部 東史郎南京裁判 南京俯仰
天地に愧じず 15 頁
ⅷ 「元 1644 部隊員の証言」
(『季刊 戦争責任研究』
第 10 号 1995 年冬季号)
「1644 部隊の組織と活動」
(『季刊 戦争責任研究』第 15 号 1997 年春季号)
ⅸ 西里扶甬子 「生物戦部隊 731 アメリカが免罪
した日本軍の戦争犯罪」草の根出版会 2002 年
ⅹ 川村たかし名古屋市長(民主党)はこの日(2009
年 9 月 20 日)の数日前、市議会での質問に答えて「南
京の人口は当時 30 万人もなかったので、30 万人の
虐殺があるはずがない」
「一般的戦闘で市民が亡くな
ったり、捕虜収容所で放火があって市民が亡くなっ
たり、残っている日本人を逃がそうとして銃撃戦に
なり市民が亡くなった。そういうものが誤解されて
伝わっているのではないか」などと発言。
それが新聞(毎日新聞など)に報道されたことを受
けて、朱館長はこのようなコメントをした。
ⅺ 放射性炭素年代測定(radiocarbon dating)は、
生物遺骸の炭素化合物中の炭素に 1 兆分の 1 程度以
下含まれる放射性同位体である炭素 14 の崩壊率か
ら年代を推定すること。炭素年代測定、炭素 14 法、
などともいう。
「15 年戦争と日本の医学医療研究会」の「戦争と医学」第 7 次訪中調査に参加して
西山とき子
「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」訪問記(09
年 9 月20日)
小泉政権以来、過去の日本を「美しい国」と賛美
する危険な動きがあったが、この8月の総選挙で「自
公政権」は退場、新しい民主党中心の鳩山政権とな
った。新総理は「靖国参拝はしない」
「アジア諸国と
の友愛外交」を明言した。新しいアジアとの友好関
係を築くために現場に行って学びたいと思いたち
「15 年戦争と日本の医学・医療研究会の南京調査」
団に参加した。
9 月20日朝 9 時半ホテル出発。ツーリスト専用の
マイクロバスで調査目的にそって自由に移動した。
道路は広く、いい車も多い。自転車やバスによる出
勤光景は人口のわりには人が少なく感じた。30 分ほ
どで「南京大虐殺紀念館」に朱成山館長を訪ねた。
車を降りるとそこには朱館長ご本人が出迎えてくれ
た。中国の礼儀だというが温かい配慮にほっとした。
館長の朱さんらスタッフの格段のご協力で午前中に
しっかり説明と交流、午後、館内を案内・貴重な資
料もいただき、夜には調査団が招待した夕食会に朱
館長・劉主任が参加されて、なごやかな中にも信頼
関係が深まった。
朱館長はこの紀念館で17年間も歴史とむきあっ
てきた方だった。朱館長の話は落ち着いた話ぶりで、
公式会談の通訳は日本語の堪能な若い研究者にお願
いしたのでスムーズに進んだ。今回の調査目的の核
心部分「731部隊」
「栄1644部隊」の話になる
と、両者が椅子からたちあがり、朱館長のまわりに
集まり、図面をもとに額を寄せ合って熱心なやりと
りが行われた。2年前、ハルビンの「731部隊調
査」に同行した折にも目の当たりにした光景だった。
そのときも両国の研究者の熱の入った真摯な態度に
感動したが、ここでも同じ場面に遭遇
した。真理に向かって意気投合した瞬
間だ。
朱館長は「栄1644部隊について
の資料は、日本軍による証拠隠滅、ア
メリカが持って帰ったことなどでいま
だに見つからない。だが、みなさんの
ように歴史的なことに責任をもってい
る調査団がここにきてもらうだけでも
意義がある。日中両国の学者がこのテ
ーマで今後深めることは可能だ。日本
側の資料・中国側の資料・アメリカ側
の資料を集合させていくいことが大切
だ」と話された。
この紀念館の正式名称は「侵華日軍
南京大虐殺遇難同胞紀念館」。1985 年に
落成いらい 2 回の増改築がなされ、2
007年12月13日、南京大虐殺7
0周年の折りに新館が完成・公開され
た。敷地面積は7・4万平方メートル。
展示陳列面積だけでも9800平方メートルという
巨大なもの。朱館長は文学にも建築にも造詣が深く、
「紀念館」の新展示館は平和な未来にむかう「巨大
な船」をモチーフとした芸術的な建築物だと構想を
説明してくれた。広大な敷地内にはA区(集会広場)、
B区(展示陳列区、106の陳列展示・解説)
、C区
(遺跡区、26の遺跡・祭場・瞑想ホール)、D区和
平公園エリアがあり、
「遺跡型歴史物館」とよばれて
いた。
B区に着くと、黒い重い扉に両手をあてるだけで
自動的に扉が開いて、1937年12月にタイムス
リップする。そこは「戦火の南京」
。中山門で万歳を
叫ぶ日本軍、破壊された戦場に立ったとき、私たち
は、日本人としてつらい侵略戦争の加害の真実に向
き合わなければなりません。序章ホールには犠牲者
300000 の文字が浮かび、ホールの壁には10万人の
犠牲者のリストが刻まれていた。幼い犠牲者は「子」
とのみ印されていた。私はひとりひとりの名前を指
でたどりながら戦場の惨事に思いをはせた。館員の
芦さんの説明では、
「12秒ごとに荘厳な鐘の音とと
もに犠牲者の遺像が切り替わり霊を弔うようになっ
ています。なぜ12秒ごとかおわかりですか。6週
間で30万人余りが殺害されたと推定されることか
らです」と。
展示は、
「万人坑」の白骨化した遺跡や1998年、
2007年にも発掘された「江東門集団虐殺遺跡」
の遺骸の惨状を原状のまま陳列し、日本軍の大虐殺
の「鉄の証明」としていた。カメラを向けることも
はばかられ手を合わせた。
また「栄1644部隊」の展示解説には「193
9年4月18日、石井四郎は南京栄字1644部隊
を設立させました。同時期に設立された華北、華中、
朱成山館長と劉研究員と紀念撮影
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 6 月
華南の三大細菌部隊の一つとして、上海、蘇州、常
州等の他に12箇所の支部を設立し、本部は南京中
山東路305号の元南京中央陸軍病院(現在は南京
軍区総医院)におかれ、南京市小営で細菌工場を設
立しました。ここで細菌を培養し、後に731細菌
部隊を提携し、戦場で広範囲にわたり細菌作戦に使
用しました。ここに復元するのは1998年8月、
南京小営の工事現場で発掘された、一群の解体され
た栄1644部隊の細菌実験被害者の遺骨現場で
す。」(あと省略)とあり、箱つめの生体実験の遺骸
発掘現場の写真が展示されていた。朱館長の話では
「1998年から調査している。東路の門の建設工
事現場から発見された大きな木造の箱の中に、41
個の頭骸骨・手や足が分解されて骨は真っ黒で硫酸
のような強い刺激臭がした。即立ち入り禁止にして
今も封鎖して調査している。95人の専門家チーム
を構成。炭素菌、ペスト・マラリアの菌は消滅して
いたが遺伝子は残っていた。南京では流行したこと
はないので調査の全容から日本軍栄1644部隊の
ものだ」という。先に進むにつれて、犠牲者と遺族・
南京住民・国際関係者・国際法廷での日本軍責任者
の断罪・日本軍兵士からの聞き取りなどひとりひと
りの歴史的事実に忠実であろうとする実証的手法と
とっていること、進歩する科学の力を取り入れ、日
本軍の蛮行を、人類史上に明記さるべき歴史的証拠
として後世につたえ世界平和に貢献しようとする真
摯な姿勢に深く学ばされた。しかもその研究調査の
努力は今も継続され展示に蓄積されていた。朱館長
のアイデアで、犠牲者の12000人の個人ファイ
ルは今もみられるようになっていて、現存者の証言
も追加しているとのこと。最近はニュージランドや
オーストラリアにいる人からも告発があったという。
この「新館」は建物の形だけでなく「平和の船」
として、世界平和にむかって前進している印象を強
くもつた。
「南京大虐殺」の歴史的証拠と事実解明が
この「新館」を発信基地としていまも真剣に世界的
な注目の下でおこなわれていたからだ。
「紀念館」に
はビデオ映像ホールも備えられ、
「案内レコーダーだ
けでも8ヶ国語とモンゴル語など12種類」、展示は
中国語・英語・日本語の 3 ヶ国語で説明があった。
国際的なネットワークつくりも苦心されていて、京
都の立命館大学国際平和ミュージアムとは連携が深
いことも話されていた。朱館長の提唱で2001年
「南京国際平和研究所」ができ、世界から著名な方
に名誉所長になってもらっていること、立命館大学
の国際平和ミュージアム名誉館長の安西育郎さんも
名誉所長とのこと。私たち日本の調査団に協力と期
待が寄せられたのもその強い姿勢からだった。
展示の最後に「終わりの言葉」があった。
「歴史は現在を照らす鏡です。そして最も真理に富
む教科書でもあります。」「平和、発展、協力の旗印
をかかげ、人類の平和と発展の崇高な事業のために
貢献していこうではありませんか。
」と。私はこの言
葉の意味を深く心に刻み込んだ。
息をのむ深い鎮魂の時間と空間を通りすぎると大
きな空がひろがる出口へ。正面に高々と鳩を手に力
- 65 -
強い平和の母子像が見えた。救われる思いがした。
「和平 Peace」の文字がくっきりと目にやきつく。
私たちは犠牲者と中国のみなさんに心からの謝罪と
慰霊の気持ちをこめてお花とお線香をたむけた。
「紀念館」では多くの写真集・資料・書籍・DV
Dが売られていた。
「世界平和への真摯な態度」で国
際活動に意欲的な同館の活動に大いに学ばされた私
は、日本語の解説パンフと 2 枚のリーフを30組、
お土産に買った。トランクは紹興酒とパンフでいっ
ぱいになった。この「展示解説パンフ」とリーフの
日本語も大変丁寧でわかりやすく、日本人が深く学
べるものとなっている。以前にこられた方も、この
パンフをお見せすると「内容が豊富ですばらしい紀
念館になっている」と驚かれていた。去年542万
人が訪づれ、外国からは85カ国50万人、日本人
はまだまだ少ないようだ。
「南京大虐殺」を知らない人も、
「うそだ」とい
まだに信じている人も、
「謝罪する必要ない」と思っ
ている人も、できればこの新しい「紀念館」を訪ね
てほしい。
戦後64年、はじめて南京に足を踏み入れた私は、
ひとときとして、過去の日本軍国主義の残虐な行為
と無関係ではいられなかった。
「南京には足がむかな
い」という声もきく。確かに思い十字架だ。しかし
救いは日本国憲法「9条」だの存在だった。
中国に限らず、日本人ひとりひとりがアジアで生
きていくためには過去の15年もの侵略戦争の実際
に向き合い、心からの謝罪と平和への毅然とした決
意と行動なくしては信頼は得られない。これからの
真の「友愛」関係のためにはこの「憲法」を掲げた
平和外交に徹することしかないと思った。
南京調査 2 日目、9 月 21 日
「栄1644部隊」(現南京軍区総医院)跡地見学。
「南京医科大学孟国祥教授」「南京師範大学経盛鴻
教授・大学院生との学術交流」
南京調査の 2 日目は大学関係者との懇談と栄 1644
部隊跡地・細菌工場跡地見学となった。南京市中を
マイクロバスで移動する。プラタナスの巨大な並木
が広い車道の両側に葉を広げていた。日本ではみか
けないが太い幹が途中から二股にのびて自然の緑の
日覆のようになっていたのに関心した。1929年
に植樹というから、戦火を耐えてきた「生き証人」
といえよう。
南京医科大学に孟教授を尋ねた。やはり車まで迎
えにきてくれた。
物腰の低い方でにこやかに話された。
「戦争と加害
に関する研究が専門」
「日本には2度行ったことがあ
る。」
「戦争は人類の歴史上させられない時があった。
人類自身がよく生存するためにいろんな規則をつく
ってきている。毒ガス・細菌・女性捕虜に対する侮
辱などは法律で禁止されていた。しかし日本軍が国
策として細菌戦をしたことははっきりしてきた。人
道上きわめて残念なうえに、日本軍は追及を恐れて
「証拠隠滅」、アメリカは極秘資料を手にいれ石井四
郎らを無罪にした。」 「しかしこの間の多くの証
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
言・調査で犯罪の事実の証明には十分だ。
」
「石井四郎は1644部隊と兼任で第1代の責任
者。細菌戦・生体解剖・スタッフの育成にあたった。」
「佐藤の証言では300人の細菌戦スタッフを育成
した。」
「1644部隊は多摩部隊ともよばれていた。
日本の多摩研究所と合同の研究を行っていた。毎週
20人の生体実験、ハリスの本では合計1200
人。」「細菌戦も40年、41年、42年の3回実施
された。これまでの調査では細菌戦の死亡者は約6
万人。
」約3時間の講義のあと、
「今後も日本側の学
者・研究者による収集にとりくむことを希望したい」
と結ばれた。
学生への講義は、歴史が専門なので日本と中国の
ところではこうしたことをふれているという。時間
が迫ってきた。
「教授用の食堂」に案内してくれて、
定食をいっしょに注文。次の講義のために足早にシ
ャトルバスの中に消えた。
そのあと訪問したのは南京師範大学(旧金陵女子
大学)だった。
「師範」という言葉は今日の日本では使われな
くなり「教育大学」となっている。経盛鴻教授と院
生との懇談会に期待した。中国の若い人たちとの交
流こそ望むところだから。痩身の経教授は入り口ま
でにこやかにでむかえてくれた。小さなゼミ教室の
ような部屋に20数人の学生といっしょにがやがや
と入った。黒板を背に調査団がすわり、コの字型に
学生たち。
経教授は前置きを省略して端的に「日本軍の細菌
戦についての研究の概括」を淡々と話された。経教
授は「南京大虐殺についての研究が専門で、日本軍
の細菌戦について著書も出版されていた。
「当時日本の医学は進んでいた。魯迅も日本で学
んだ。石井四郎はその医学を悪用し中国の3箇所で
細菌戦を実施した。悪名高い1644部隊は石井が
1939年4月につくった。二つの大きな建物。6
階だてのオフィスと死体焼却炉も4階だての建物。
4階では市民・捕虜が裸のまま監禁され残虐な生体
実験が行われた。警備は厳しく、日本人でも、また
当時の国民党も知らなかった。
「おかしな部隊だな」と思われていた。1キロ離れ
たところに細菌工場をつくった。細菌戦は3回、3
箇所で実戦された。日本軍国主義者はさらに大きな
罪を犯した。1945年8月15日降伏と同時に1
644部隊の証拠を焼却し断罪されないまま日本に
逃げたことだ。最近その証拠が発掘された。紀念館
の朱館長が保管しているが1644部隊のごくいち
部分だ。日本軍はシンガポールでも細菌戦を行った。
「731」部隊とともに「1644部隊」は日本軍
の中国侵略の重要な中心だった。
中国の医者も若い人も関心を持ってきている。日
本側の協力をのぞんでいるところだ」と結ばれた。
莇名誉会長があいさつで「日本の医学会ではいま
だに侵略戦争に加担したことを認めないで不問にふ
し、反省がなされていない」
「2000年に15年戦
争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明を目的と
- 66 -
June, 2010
して「15年戦争と日本の医学医療研究会」と結成
した。」
「ひとりの医者としてたとえ軍の命令がくだ
っても拒否する能力をもつこと、人権意識が重要だ
と考えている」という発言に大きな拍手がおきた。
学生との活発な質疑応答が続いた。
最初に手を上げたひとりの学生は「ジャーナリス
ト、政治家、医学界の方で構成された調査団を歓迎
する。」
「南京大虐殺について日本ではまるでなかっ
たかのようにいう人もいる。どれだけの人がわかっ
ているか?」「中国訪問の費用は自費ですか?」
「あなた方の研究会はどれだけの成果をあげている
か?」と短刀直入に聞かれた。
西山事務局長から「会員が150人に増えている
ことや、日本に医学会総会でもシンポジュウムにと
りあげられてきていることが紹介された。費用は自
費だというと」ホーという声が起きた。
「活体(生体)
実験についての有効な実験としての基準はあるか」
の質問には刈田医師が「被験者の同意を前提に、実
験の目的に意義があるかどうかが必要だ」と答えた。
教室の一番後ろで手を上げた黒いシャツの男子学生
が緊張したおももちで話だした。
「僕は南京で生まれ、南京で育った。
「日本」とい
う2文字にいまでも反感を持っている。」
「親は1945年以降に生まれた。しかしおばち
ゃん、おじいちゃんからこんな話を聞いた。お金も
ちだった祖母の家に日本兵がきてニワトリを盗もう
とした。その時上官がきて兵士たちを一列に並べて
殴り、お金を払わせたという話です。日本人は礼儀
正しい民族でありながらどうして大虐殺をしたの
か」とこわばった表情で話し終えた。
教室内は静まり返った。私はどうしても彼に答えた
いと発言した。
「日本・反感」という言葉は、矢のように胸につ
きささってきた。
「あなたが日本という言葉に反感を
もつことは当然だと思う。」とその矢をしっかりうけ
とめてから話しを続けた。
「私の3人の子どもたちと
あなた方がどうしたら仲良くなれるか。何をしたら
いいのかそれをつかむためにここにきた。
」「戦争は
「個々の民族性」の問題ではない。政府の行為と国
民は分けてかんがえてほしい。」「日本の戦前の歴史
をふりかえってみると、1931年当時日本の侵略
戦争に反対して犠牲になった日本人達もいた。私た
ちは、
「戦争の放棄」を明記した「日本国憲法」を守
り、平和で民主的な日本を創って生きたい。
」と話し
た。いきなり会った彼とどこまで心が通じるだろう
か。紀念写真を撮るときも彼の顔は緊張したまま。
ほかの学生の笑顔とちがっていた。
別れる時に 気になってもういちど彼に話しかけ
た。涙がでそうになった。
「これからも交流を深めて
いきましょう」というと、若者らしく、
「メールでで
すか」といわれた。私は「いいえ。できるだけ会っ
て交流することが一番いいですね」というと、よう
やく笑顔で握手をしてくれた。ほっとしたがややお
ばさんパワーでおしきった感がのこった。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 6 月
ひとりひとりの日本人が「日中友好と平和な未来
への扉」をあけるための努力に「遅い」という時間
はないと思った。
- 67 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
June, 2010
15 年戦争と日本の医学医療研究会
第 11 回定期会務総会議案
回定期会務総会議案
(2010
2010 年 3 月 21 日)
山本 啓一 (山本医学鑑定研究所、龍谷大学非常勤
講師)
座長 吉中 丈志(京都民医連中央病院)
記念講演Ⅱ(14:30-16:30)
「京大病理学教室史から見た 731 部隊の背景」
杉山 武敏 (元京大教授:病理学)
座長 若田 泰(近畿高等看護専門学校)
一般演題
鼠とノミとペスト菌」
(陸軍軍医学校防疫研究報告2
部から)
莇 昭三莇 昭三 金沢・城北病院
第 1 号議事 2009
2009 年度事業報告
1. 会務総会の開催
第 10 回会務総会
2009 年 3 月 20 日
京大会館 2 階会議室(211 号室)
出席者数:委任状を含め過半数の出席で成立
役員 全員再任
総会議事録は会誌第 9 巻 2 号に掲載
2. 幹事会
(1)日時:3 月 20 日
京大会館 2 階会議室(211 号室)
出席:莇、刈田、末永、土屋、西山、若田、吉中
委任状:石原、井上、水野
審議事項 第 10 回(2009 年度)総会議案
② 第 27 回研究会、11 月 15 日
東京大学医学部 教育研究棟 2 階 第 1 および第 2 セ
ミナー室
参加数:20 人
【記念講演】
記念講演
「細菌戦をめぐる残された諸問題」 松村 高夫
2007 年 3 月まで慶応義塾大学経済学部教授
座長 住江憲勇(保団連会長)
【一般演題】
座長 土屋貴志
東京空襲による精神的被害―植松七九郎・盬入圓祐
の資料から―
岡田 靖雄
ノモンハン事件(戦争)学術研究会ならびに日本軍
要塞学術研究会の参加報告
一戸 富士雄
中国、オーストラリアにおける化学、細菌戦の傷跡
と訴訟等について
西成 辰雄
『陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部』の分析(その四)
-山中太木論文と1644部隊・人体実験-
莇 昭三
座長 色部祐
「戦争と医学」第 7 次訪中調査(2009 年 9 月 15 日
~24 日)哈爾濱・南京調査結果概要報告、第 7 次訪
中調査団(刈田 啓史郎、莇 昭三、西里 扶甬子、西
山 勝夫、原 文夫、西山 とき子)
・「調査の概要と特徴、今後の課題」
刈田 啓史郎
・
「金東君元哈爾濱市病院副院長との座談」爾濱市档
案局におけるペスト流行に関する档案調査」「哈爾濱
医科大学医史学教研室交流」「哈爾濱市社会科学院座
談」「伍連徳記念館」「東北烈士館調査」
莇 昭三
・「731 部隊趾実地調査(地下通路、軍人・軍属住宅
の趾などを含む)」
西山 勝夫
・
「731 部隊特扱被害者家族」「黒龍江省社会科学院で
の座談」「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館朱成山
館長、劉相雲・副館長等との学術交流、展示・資料
(2) 11 月 15 日
東京大学医学部 教育研究棟 2 階 第 1 および第 2 セ
ミナー室
出席:莇、石原、刈田、末永、土屋、西山、吉中、若田、
色部
委任状:水野洋、井上英夫
報告
西山事務局長より 2009 年度事業計画に沿って報告
審議事項
1.第 27 回研究会の運営
2.第 28 回研究会・第 11 回総会の企画(2010 年 3 月)
3.編集委員会
3-1.会誌第 10 巻第 2 号の編集
3-2.著作権に関する告示
3-3.投稿規程の見直し
4.米国が日本政府に返還した 731 部隊関係文書の開
示請求に関する決議(別紙参照)
5.731 部隊特移扱被害者家族の要請(別紙参照)
6.「戦争と医の倫理」を検証する会への協力と寄付
6-1.特別会計(基金積立)からの寄付
6-2. 「戦争と医の倫理」を検証する会にかかわる会
員への目的寄付の呼び掛け
7.その他
3. 研究交流事業
研究交流事業
(1) 研究会の開催
① 第 26 回研究会、3 月 20 日
京大会館 2 階会議室(211 号室)
世話人 西山勝夫
参加数:49 人
記念講演Ⅰ(11:00-12:30)
「ナチ時代の医師の犯罪と医師たちの戦後」
- 68 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 6 月
など閲覧」「上海調査」
西里 扶甬子
・
「南京医科大学孟国祥教授との学術交流」「南京師範
大学経盛鴻教授・大学院生との学術交流」「栄 1644
部隊(現、南京軍区総医院)、『細菌工場』の趾、九
華山の実地調査」
原 文夫
・「第二歴史档案館の档案調査」
刈田 啓史郎
会務報告
米国が日本政府に返還した 731 部隊関係文書の開示、
731 部隊特移扱被害者家族の要請、「戦争と医の倫
理」を検証する会への協力と寄付、次回研究会・総
会などについて
事務局
(2) 会報の発行
会報 No.14 2010 年 1 月 22 日
会報 No.15 2010 年 2 月 6 日
(3) 会誌の発行
会誌第 9 巻第 2 号、6 月 12 日発行
会誌第 10 巻第 1 号、10 月 5 日発行
4. 調査研究事業
調査研究事業
(1) 陸軍軍医学校防疫研究報告プロジェクトチーム
①3 月 21 日
京大会館 2 階会議室(211 号室)出席:莇、岡田、
刈田、末永、土屋、西山、若田
議題:
『陸軍軍医学校防疫研究報告』第2部の抄録作成
プロジェクト
②11 月 15 日
東京大学医学部 教育研究棟 2 階 第 4 セミナー室
出席:
欠席連絡:
『陸軍軍医学校防疫研究報告』第 2 部の抄録作成
プロジェクト
(2) 第 28 回日本医学会総会に向けての取り組み(:以
下は本研究会役員として当日出席した者の氏名)
①4 月 26 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会(仮称)準備
委員会(第 2 回):莇、刈田、西山
②6 月 4 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会(仮称)準備
委員会相談会:西山
③7 月 5 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会(仮称)準備
委員会(第 3 回):莇、刈田、西山
④7 月 26 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会準備委員会常
任世話人会(第 1 回)
:西山、吉中
⑤8 月 30 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会準備委員会常
任世話人会(第 2 回)
:西山
⑥9 月 10 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会準備委員会記
者会見:西山
⑦9 月 27 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会の設立
- 69 -
⑧9 月 27 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会世話人会(第 1
回)
:莇、刈田、西山、吉中、末永
⑨11 月 3 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会世話人会(第 2
回)
:莇、刈田、西山
⑩12 月 5 日
「戦争と医の倫理」の検証を進める会常任世話人会
(第 1 回):西山、吉中
(3) 訪中調査
「戦争と医学第 7 次訪中調査団」の派遣
2009 年 9 月 17 日~9 月 23 日、哈尓溟、南京、上海
団員:莇、刈田、西里、西山(勝)
、西山(登)
、原
哈尓溟:731 部隊特移扱被害者家族・金東君元哈爾
浜市病院副院長との座談会、哈爾浜市档案局資料閲
覧、哈爾浜医科大学解剖学教師解剖展示、哈爾浜医
科大学図書館閲覧室、哈爾浜医科大学医史学教研室
座談、哈爾浜市社会科学院座談・731 研究所意見交
換/資料閲覧・地下展示室、伍連徳記念館、東北烈士
記念館、侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館管理中心 9・
18 記念式典、侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館展示・
731 部隊跡調査、黒竜江省社会科学院座談
南京:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館座談・展
示、孟国祥社会学教授(江蘇中国近現代史学会副会
長、江蘇中共党史学会副会長、南京大虐殺史研究会
副会長)と学術交流、南京師範大学(旧金陵女子大
学)経盛鴻教授・ゼミ院生と学術交流、栄 1644 部隊
趾調査、励志社(蒋介石・宋美齢: 1929-1949)史料
展示、九華山、中華門、第二歴史档案館座談、中山
陵、ラーベ記念館
上海:上海市档案館史料調査、福民病院跡地
(4) 史料・証言などの収集
特になし
5. 支部活動
東北支部研究会活動
① 5月14日
場所:艮陵会館(仙台市)
出席:一戸、大村、刈田、興野、末永、村口
1.人体の不思議沖縄展と今後の対応(末永)
2.アウシュビッツ訪問記(刈田)
3.坂先生の業績紹介(村口)
4.ノモンハン国際会議の案内(一戸)
5.ジャムス医科大学同窓会役員(池田医師)との懇談
(一戸)
② 7月16日
場所:艮陵会館(仙台市)
出席:一戸、刈田、興野、末永、冨永、村口
1.最近の「人体の不思議展」の動きについて(末永)
2.中国で開催されたノモンハン事件国際会議の報告
(一戸、村口)
3.「日本の科学者」への寄稿(末永、富永)について
(刈田)
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
June, 2010
6.ホームページ
6.ホームページ
http://war-medicine-ethics.com/を維持・運営
第 2 号議事 2009
2009 年度(200
年度(2009
2009 年 1 月 1 日~12
日~12 月 31 日)決算
一般会計
収 入
項目
内容 予算
決算
内訳
内訳
前年度繰入金
130,030
130,030
特別会計
200,000
200,000
会費収入
474,500
381,500
正会員会費
450,000
350,000
備 考
会員数106名
2008年度4名、2009年度62名
2010年度4名
学生会員会費
会誌会員会費
2,000
22,500
会員数1名 0
31,500
会員数4団体、1名 2008年度1団体、
2009年度4団体1名、2010年度1団体
事業収入
72,000
第26回研究会
第27回研究会
会誌売上
その他
財務運用益
預り金
153,290
25,000
25,000
20,000
2,000
500
合計
3/20 京都(参加者49名)
49,000
20,000
84,290
0
11/15 東京(参加者20名)
189
214
877,030
源泉徴収税12月分
865,223
支 出
項目
内容
予算
決算
内訳
事業費
205,000
研究会
備
内訳
考
詳細
156,430
100,000
100,501
68,841 第 26 回 案内・謝金・交通費・会場費等
31,660 第 27 回 案内・謝金・交通費等
会務総会
調査研究費
幹事会
事務局費
印刷費
40,000
10,000
15,000
40,000
390,000
会誌
会報・研究会
通信費
26,160
19,769
10,000
0
中国 EMS 等
3/20 案内・会場費等
318,900
380,000
10,000
124,000
308,900
10,000
第 9 巻第 2 号、第 10 巻第1号印刷
研究会案内印刷
84,215
100,000
24,000
消耗事務用品
第 10 回(3/20) 案内・会場費・交通費等
58,615
25,600
振替手数料
人件費
預り金
その他
次年度繰越金
8,000
15,000
130,000
198
2,000
2,832
4,680
9,960
93,790
198
0
197,050
合計
877,030
865,223
- 70 -
郵送費・発送費・通信費
レンタルサーバーサービス年間契約料・更新料
封筒
口座徴収料金・振込手数料
2008 年12 月分
源泉徴収税
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 6 月
特別会計(基金積立)
収 入
項目
内容 前年度繰入金
寄付金
合計
予算
407,700
150,000
557,700
決算
407,700
130,500
538,200
支 出
項目
内容 事業費
一般会計
次年度繰越金
合計
予算
10,000
200,000
347,700
557,700
決算
300,840
200,000
37,360
538,200
監査報告
- 71 -
備 考
備 考
戦争と医の倫理の検証を進める会へ寄付
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
June, 2010
第 3 号議事 2010
2010 年度事業計画
1. 会務総会の開催
第 11 回会務総会 2010 年 3 月 21 日
京都大学医学部本館管理棟 2 階基礎第 2 講義室
第 12 回会務総会の準備(2011 年 3 月)
(2) 第 28 回日本医学会総会に向けての取り組み
第 28 回日本医学会総会へ向けて「戦争と医の倫理」
の検証を求める会参加団体として協力する他必要な
活動を行う
2. 幹事会
2~3 回開催し、総会決定に基づく会務の調整並びに
諸事業計画を推進する。
(3) 戦争と医学第 8 次訪中調査団の派遣
3. 研究交流事業
(1) 研究会の開催
第 28 回研究会 2010 年 3 月 21 日
京都大学医学部本館管理棟 2 階基礎第 2 講義室
第 29 回研究会 2010 年 11 月 東京
第 30 回研究会の準備
2011 年 3 月 京都
5. 支部活動、会員のいる地方における支部結成や研
究交流
(4) 史料・証言などの収集
6. 事務局体制
事務局移転
7.日本学術会議との関係
日本学術会議との関係
日本学術会議は日本学術会議協力学術研究団体の称
協力学術研究団体の称
号を得るための要件として①学術研究の向上発達を図
号を得るための要件として
ることを主たる目的とし、かつその目的とする分野に
おける学術研究団体として活動しているものであるこ
と、②研究者の自主的な集まりで、研究者自身の運営
によるものであること、③「学術研究団体」の場合は、
その構成員(個人会員)の数が 100 人以上であること
をあげている。15 年戦争と日本の医学医療研究会は、
この要件を満たしているので、日本学術会議との間で
緊密な協力関係を持つことを目的として、日本学術会
議協力学術研究団体の申請を行う。
協力学術研究団体の申請を行う。
(2) 会報の発行
随時発行
(3) 会誌の発行
会誌第 10 巻第 2 号
会誌第 11 巻第 1 号
2010 年 5 月 1 日発行
2010 年 10 月 1 日発行
(4) ホームページ
充実をはかる
4. 調査研究事業
(1) 陸軍軍医学校防疫研究報告プロジェクト
陸軍軍医学校防疫研究報告等の「研究」論文の解題・
編集・解説・出版
第 4 号議事 2010
2010 年度(20
年度(2010
2010 年 1 月 1 日~12
日~12 月 31 日)予算
一般会計
収 入
項目
前年度繰入金
特別会計
会費収入
内容 金額
197,050
40,000
520,000
内訳
備 考
500,000 会員110名
正会員会費
2008年度3名、2009年度17名、
2010年度80名
2,000 2010年度1名
18,000 2010年度3団体、1名
学生会員会費
会誌会員会費
事業収入
77,000
30,000 参加費1000円×30名
25,000 参加費1000円×25名
20,000 会誌2000円×10冊
2,000
第28回研究会
第29回研究会
会誌売上
その他
財務運用益
合計
180
834,230
- 72 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 6 月
支 出
項目
事業費
内容 金額
230,000
研究会
会務総会
調査研究費
幹事会
事務局費
印刷費
内訳
120,000
30,000
20,000
10,000
50,000
備 考
第28,29回研究会会場費・講師交通費等
第11回会務総会3/21会場費・交通費等
年3回予定 会場費・交通費等
移転費用含む
320,000
310,000 第10巻第2号、第11巻第1号
10,000 会報No.14、第28・29回
会誌
会報・研究会
通信費
106,000
80,000 郵送費・発送費
26,000 ホームページ運営費
消耗事務用品
封筒・宛名シール等
15,000
11,000
120,000
214
30,000
2,016
834,230
振替手数料
人件費
預り金
その他
次期繰越金
合計
源泉徴収税前年分
創立10周年記念事業等
特別会計(基金積立)
特別会計(基金積立)
収 入
項目
前期繰越金
寄付金
合計
内容 金額
37,360
130,000
167,360
内容 金額
120,000
40,000
7,360
167,360
備 考
支 出
項目
事業費
一般会計
次期繰越金
合計
備 考
戦争と医の倫理の検証を進める会へ寄付等
第 5 号議事 役員等
役員等
役員
名誉幹事長
幹事長
副幹事長
事務局長
幹事
監事
莇
刈田
吉中
西山
末永
住江
土屋
長島
若田
色部
昭三
啓史郎
丈志
勝夫
恵子
憲勇
貴志
隆
泰
祐
(城北病院)
(東北大学大学院歯学研究科)
(京都民医連中央病院)
(滋賀医科大学)
(福島県立医科大学)
(全国保険医団体連合会)
(大阪市立大学大学院文学研究科)
(東洋大学文学部)
(近畿高等看護専門学校)
(働くもののいのちと健康を守る東京センター)
会誌編集委員会
委員長 若田 泰
委 員 石原 明子、末永 恵子、西山 勝夫
- 73 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(2)
June, 2010
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌に掲載の著作についてのお願い
年戦争と日本の医学医療研究会会誌に掲載の著作についてのお願い
15 年戦争と日本の医学医療研究会は、
「15 年戦争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明を目的として」
きました。その目的達成のために、会は、
「15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌」を刊行してきました。
これらに掲載された著作については、目的達成に積極的に利用されることが望ましいという理念で、特に著
作権についての定めをしてきませんでした。
しかし、各種書誌についての公的な電子化事業が進められる時代となり、本会の刊行物の公的な電子化と
その公開により、目的達成のためのさらなる取り組みの強化や重要な知的資産の保存などの社会的貢献が可
能な状況となってきました。つきましては、今後の本会の刊行物に掲載された著作の著作権は本会にあるこ
ととします。
ただし、これまでについては、前述の様に著作権の記載がありません。本来ならば、すべての著者に対し
て個別に掲載著作の電子化保存・公開の許諾を求める必要があります。しかし、それは現実にはほとんど不
可能です。
そこで、ここに 2010 年 5 月以前の、本会の刊行物掲載記事のすべての著者に対し、当該記事の著作権を
本会に委譲されることをお願いする次第です。ただし、電子化保存・公開を希望されない著作については、
お知らせいただければ対象から除外します。この取り扱いについて、ご質問、ご意見がある場合は、本会事
務局宛お知らせください。2010 年 12 月末日までを意見のお申し出期間とし、それまでにご異論がなければ、
2010 年 5 月以前の会の刊行物に掲載された著作についても、著作権を本会に委譲されたものとして、電子化
保存と公開の対象といたします。なお、このお願いは「15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌」を通じて行
うほか、本会ホームページにも掲示します。
本会会員及び本会の刊行物の著者の皆様のご理解とご協力をお願いいたします。
2009 年 11 月 15 日
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
本誌に掲載された論文等の扱い
1)論文等の著作権(著作権法 27 条翻訳権、翻案権等、28 条二次的著作物の利用に関する原著作者の権利)
は、当研究会に帰属させていただきます。当研究会の許可無しに会誌の記事の全体または部分を転載するこ
と、複写して頒布・配布すること、あるいは公開のデータベース等に登録することを禁止します。
2)会誌に掲載された論文等を、執筆者本人がまたは執筆者の許可にもとづいて転載される場合には、事前に
「転載許可願」を当研究会に提出して下さい。
3)当研究会は、当該論文等の全部または一部を、当研究会ホームページ、当研究会が認めたネットワーク媒
体、その他の媒体において任意の言語で掲載、出版(電子出版を含む)出来るものとします。この場合、必
要により当該論文の抄録等を作成して付することがあります。
2010 年 3 月 21 日
15 年戦争と日本の医学医療研究会誌編集委員会
、
- 74 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 2 号
2010 年 6 月
編集後記
まず、第 10 巻第 2 号を予定より約 1 ヶ月遅れの発行となったことを、読者の皆さんにお詫びいたしま
す。遅れの原因は昨年 9 月の第 7 次訪中報告の編集に予想外に多くの時間を要したことです。今までの
訪中報告の中でも最大の量となり、複数号に分割しての掲載も編集委員会では検討されました。しかし、
原稿が出揃っているので、速報性等を考慮すると一つのまとまりである方がよいという結論に至りまし
た。
「戦争と医学」訪中調査団初参加の西里、原両会員の担当部分が大きい比重を占めるものとなってい
ますが、これは第 7 次訪中調査の特徴をも現しています。すなわち、これまでの訪中調査は中国東北部
平房にあった 731 部隊に焦点があったのですが、第 7 次訪中調査で、初めて南京の栄 1644 部隊の医学犯
罪に焦点が向けられたからです。モノクロのためどれだけ読者の皆さんにお伝えできるか心配すべき点
もありましたが、執筆者の意向に沿ってかなりの写真の掲載もしました。
本 誌 は 、 医 学 中 央 雑 誌 刊 行 会 が 年 1 回 発 行 す る 収 載 誌 目 録 も 掲 載 さ れ 、 Web サ イ ト
http://www.jamas.or.jp/user/database/mokuroku.html からも検索できるようになっていることが、近
着の収載誌目で判明しました。3 月 21 日の第 11 回会務総会では日本学術会議との間で緊密な協力関係
を持つことを目的として、日本学術会議協力学術研究団体の称号を得るための申請を行うことが決定さ
れ、事務局ではその準備中です。同称号を得るための要件として、その構成員(個人会員)の数が 100
人以上であることがあげられています。この要件を恒常的に満たすためには会員増が必要と思います。
読者に皆さんには会誌の充実と共に是非会員を募っていただきたいと思います。
来年東京で開催される医学会総会に向けての「戦争と医の倫理」の検証を進める会の取組みもいよい
よ本格化し、日野原重明先生にもご講演を引き受けていただくことができ、6 月 6 日の世話人会は午前
から開催されグループワークも始まりました。読者の皆さんのご参加・協力をお願いします。
ところで、創刊号から編集委員を務めておられた水野洋会員がご都合で残念ながら編集委員を辞退される
ことになりました。この間の会誌発行へのご貢献について、本紙面をお借りしてお礼を申し上げさせていた
だきます。上記総会では、本会創立当初からのである石原明子さんに新たに編集委員に加わって頂くことが
了承された。新しい編集体制で、会誌の発展が図られることを大いに期待しているところです。
(西山 勝夫)
投 稿 規 定
会員の皆さんからの、論文・総説・随想・書評・資料解題などの積極的なご寄稿をお待ちしております。
ただし内容は、本研究会に関係したものに限ります。論文掲載の可否は編集委員会で決定します。
i
掲載原稿の規格は以下のとおりとします。
ババロフスク裁判は、米軍占領下の日本においては、細菌戦部隊関係者はアメリカとの取引に守られ、誰一人戦犯
①ファイルは
Windows(あるいは Macintosh)のワードで作成し、印刷した原稿 1 部と FD、CD、USB のいず
裁判にかけられることもなかったし、そのような取引自体が極秘であったから、当時はシベリア抑留者問題から目をそ
れ か で 提 出 し て く だ さ い ( メ ー ル 輸 送 も 可 、 送 り 先 は1982
戦医
研事務局でアドレスは
らすための、ソビエトのでっち上げとして無視された。公判記録の日本語版は
年復刻出版された。生体実験や生
[email protected]
)。図、表、写真は表題、説明を明記しデジタルデータで提出してください。
体解剖などの当事者による戦慄すべき陳述が、すべて真実であったことは、後に研究者やジャーナリストの調査・取
②原稿の分量は、2
万字以内を目安にしてください。印刷は白黒印刷となります。
材で証明され、731
部隊研究には必須の資料となっている。『公判記録―731
細菌戦部隊 原題=細菌戦用兵器ノ準
③原稿は、既刊号を参考にされた上、題目、キーワード、著者の氏名・肩書き・所属・連絡先住所(以上は
備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』1993 年 第二刷 三進社(以下 『公判記録』)
ii 邦文、欧文)、電話・FAX・E-mail アドレスを記したものを先頭頁とし本文、文献、著者プロフィールを記
西里『生物戦部隊 731』陸軍軍医学校と 731 部隊発祥の地背陰河 124~127 頁
iii して下さい。
同上 細菌戦部隊「栄」一六四四部隊の少年看視兵 松本博証言 182~186 頁
iv ④表記は、新仮名遣いを基本とし、句読点は明瞭に、英数文字は半角文字とします。外国語の人名、雑誌
P. ウィリアムズ/D. ウォーレス著 西里扶甬子訳 『731 部隊の生物兵器とアメリカ ~バイオテロの系譜~』2003 年
名は原語を付記することが望ましい。
かもがわ出版
第一章 悪魔の兵器 58 頁(以下 ウィリアムズ/ウォーレス 『731 部隊の生物兵器』)
v ⑤度量衡は C,G,S 単位とし m,cm,mm,kg,ml,mg/dl 等を用い、数字は算用数字を使用します。
『公判記録』被告三友ノ訊問 405~426 頁
vi ⑥文献は、本文の終わりにまとめて記載してください。本文中の引用順に 1),2)と番号を付し(上付きで)
、
西里『生物戦部隊 731』細菌戦野戦部隊 204~205 頁
vii 下記の順、要領で書いてください。
『加害と赦し 南京大虐殺と東史郎裁判』(現代書館 2001 年)第 I 部 東史郎南京裁判 南京俯仰天地に愧じず
著者名:題名,雑誌名,巻数,頁-頁,西暦年号
15雑誌の場合
頁
viii単行本の場合
著者名:書名,版数,発行者,頁-頁,西暦年号
「元 1644 部隊員の証言」(『季刊
戦争責任研究』第 10 号 1995 年冬季号)「1644 部隊の組織と活動」(『季刊 戦
著者名は
1
人までとし、2
人目からは他(または
et.al.)とする。
争責任研究』第 15 号 1997 年春季号)
ix 外国雑誌名を略する場合は、index medicus 所載のものに従う。
西里扶甬子 「生物戦部隊 731 アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪」草の根出版会 2002 年
x
川村たかし名古屋市長(民主党)はこの日(2009 年 9 月 20 日)の数日前、市議会での質問に答えて「南京の人口は
0 0字詰原稿用紙に記入して下さい。また図表はコピーしますの
当時なお手書きしかかなわない場合は市販の4
30 万人もなかったので、30 万人の虐殺があるはずがない」「一般的戦闘で市民が亡くなったり、捕虜収容所で放
で良質のものをお願いします(手作りですので電子文書での寄稿にご協力の程を願います)
。
火があって市民が亡くなったり、残っている日本人を逃がそうとして銃撃戦になり市民が亡くなった。そういうものが誤
2003
年
3
月
15
日
編集委員会
解されて伝わっているのではないか」などと発言。
2010
年
3
月
21
日
改定
それが新聞(毎日新聞など)に報道されたことを受けて、朱館長はこのようなコメントをした。
xi
1
5年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
放射性炭素年代測定(radiocarbon dating)は、生物遺骸の炭素化合物中の炭素に 1 兆分の 1 程度以下含まれる
委員長 若田 泰
委員 石原 明子、末永恵子、西山
放射性同位体である炭素 14 の崩壊率から年代を推定すること。炭素年代測定、炭素
14 法、などともいう。 勝夫
- 75 -