世界史B 授業プリント (第 3 回;第 4 回スクーリング用) 第3,4回提出課題対応 2006.6.2,3/鶴巻 1.イスラム世界の形成(教科書pp.74∼85) ・アラビア半島∼交易ルートとして繁栄∼その裏には格差!=社会不安 新しい宗教を求める機運! =預言者1 の登場(メッカのクライシュ族;商人) 唯一神・2 の導きによる救いを主張 ↓∼一時メッカで迫害されてメディナへ移住 ↓ =3 (622年) ウンマ=共同体を形成し勢力拡大!!/630年にメッカへ ・イスラム教の教え ユダヤ教→キリスト教と受け継がれた一神教の 決定版 と自称 1 は最後にして最高の預言者 =その言葉をまとめたのが「4 (クルアーン)」 六信五行の実践 六信(神/天使/預言者/啓典/来世/運命) 五行(信仰告白/断食/喜捨/礼拝/巡礼) ・イスラム帝国の成立と発展 1 の死後は後継者=5 のもとで勢力拡大 (=正統4 時代) ビザンツ(東ローマ)帝国と争い、エジプト・シリアを獲得 6 朝ペルシャを滅ぼし、イラン・イラクへ進出 ※ 征服地 ではユダヤ・キリスト教 徒には土地税( =ハラージュ )の 他に 人頭 税 (=ジズヤ) 支払を条件に信 仰の自由を認 める ↓ 661年 7 朝の成立=ムアーウィアが実力で5 に 北アフリカ・中央アジアへ進出/ヨーロッパへも侵入 734年 トゥール・ポアティエ間の戦いでフランク軍に敗退 2つの宗派が生まれる スンニ派=ムアーウィア以降も5 と認める シーア派=それ以前のアリーの子孫に指導の資格認める ↓ 750年 8 朝の成立=首都・9 ※7 朝の王族はイベリア半島に後ウマイア朝を建国 (首都・コルドバ) その後各地にイスラム教国が成立 北アフリカ∼ファーティマ朝→アイユーブ朝(サラディン) 中東∼セルジューク朝(トルコ系) アフリカ∼ムラービト朝・ムワッヒド朝(ベルベル人) マリ王国(マンサ=ムーサのメッカ巡礼) インド∼デリー・スルタン朝 ※各地のイスラム教国を旅行∼イヴン・バットゥータ ・イスラム文化 遊牧民/交易民だったアラビア人の文化が基礎 =交易が活発/平等・互助精神のある文化(イスラム法は万人に平等!) 様々な文化・科学の融合 「10 」(アラビアン・ナイト) イヴン・シーナー(医学)、イヴン・ルシュド(哲学)など 2.ヨーロッパ世界の形成と変動(pp.86∼100) ・東ヨーロッパ世界 476 ローマ帝国の東半分は東ローマ帝国に=11 帝国 首都・コンスタンティノープル(現・イスタンブール) 独 自の 文化がスラ ヴ民 族に影響 12 人∼モスクワ大 公国 ・西ヨーロッパ世界 476 ローマ帝国の東西分裂 西ローマ帝国は13 侵入 13 民族の移動が遠因で滅亡 民族 (German) フン族 侵入 西ローマ =滅亡 東ローマ (1453まで存続) 13 民族の中では特に14 族が勢力拡大 (Franc) クローヴィスが14 王国を形成 →15 大帝が800年に ローマ皇帝 に 後に分裂∼フランス・ドイツ・イタリアの祖に (France) (Germany) ↓ その後の中世ヨーロッパは「森のヨーロッパ」の時代に =騎士が荘園を支配し、農民達は農奴として支配される =16 制の時代 その頃、ローマ教会の影響力が拡大! =リーダーの17 (法王)の力は絶大!! 例:1077 カノッサの屈辱 教皇・グレゴリウス7世 VS 皇帝・ハインリヒ4世 1095 18 の派遣がクレルモン公会議で決定 イスラム教徒に占領された聖地イェルサレム奪回を目指す 7回にわたり派遣=結果としては失敗! ※その後、ヨーロッパで黒死病=ペストが流行 ↓ 社会が大変革を迎える∼外部への進出(レコンキスタ・東方移民) 「自由」を求める動き(ルネサンスなど) ※英仏百年戦争の時代 フランス救国の乙女・19 3.内陸アジア世界と諸地域世界(pp.102∼112)・ 明清帝国の繁栄(pp.116∼121) ・唐末から宋へ 唐末期 政治混乱→黄巣の乱で衰退/907年 朱全忠により滅亡 ↓ 五代十国の時代=軍事政権(節度使などの軍人が強い勢力) ↓ 960 20 (北宋)の建国 開祖・趙匡胤 首 都を 開封 に 定める(黄河 と大運河の合流 点=交通の要 衝) 節度使の勢力を削ぎ、文治主義に基づく政策 例:21 の発展(殿試の導入) 軍事力の弱体化=周辺民族の圧迫 北方の契丹族が建国した遼と澶淵の盟を結ぶ (宋が遼に莫大な銀・絹を贈る) 西北部には西夏が建国され、強大化 政治改革も失敗 王安石の新法∼司馬光ら旧法党の反発で挫折 ↓ 東北部の女真族が建国した22 と戦い、一時滅亡 ∼江南で臨安を首都に宋の王族が建国=南宋 ・宋の文化 新興地主層や商人たちが文化の担い手に=士大夫層 儒学 23 により23 学(宋学)が大成 大義名分論を主張 ∼中華と夷狄の区別/君臣(上下)関係の絶対視 歴史学 司馬光「資治通鑑」<編年体> 仏教 浄土宗や禅宗が栄える→日本へ(平安∼鎌倉) 道教 全真教の発展 文学 詞の流行/雑劇の隆盛 美術 山水画の隆盛∼南画(文人画)←→北画(院体画) 陶磁器の生産拡大(24 等が中心) 技術 木版印刷 火薬の使用 (方位)磁針の利用<羅針盤として> ・モンゴル帝国の成立 モンゴル高原の遊牧民族∼長らく金の影響下 テムジンが統一達成∼25 =ハンと名乗る ↓ 彼と彼の子供が歴史上最大のモンゴル帝国を建設 →26 が大ハンとなり、首都を大都(現北京)に =元王朝の成立 特徴=モンゴル人第一主義 支配者=モンゴル人/財政・通商=色目人優遇 もと中国人(漢人/南人)と区別 モンゴル人の国家は通商の活性化を重視 =駅伝制(ジャムチ)を整備し、街道交通を確保 (内陸路の安全確保/東西貿易が活発化) 例:マルコポーロの活躍;「 世界の記述(東方見聞録)」 ・明・清帝国の成立 27 王朝(1368∼1644) 始祖・朱元璋<太祖洪武帝>(貧農から皇帝に) 中央集権化を進展させる 徴税の徹底化∼魚鱗図冊(土地台帳)・賦役黄冊(徴税台帳) その子・28 帝はクーデターにより政権奪取 積極的な対外策∼モンゴル・ベトナム遠征 29 の鄭和を南海遠征に派遣 =アフリカなどの多くの国々が朝貢 東南アジアに華僑(中国系商人)増加 その後北虜南倭に苦しめられる 北虜∼オイラートとの一戦で正統帝とらえられる 南倭∼倭寇(日本人海賊)の来襲 ↓ さらに30 が朝鮮半島に侵攻∼朝鮮の李舜臣など活躍 国内混乱/外圧(女真族の強大化) ↓ 31 王朝(1636∼1912) ∼女真族の王朝・始祖はヌルハチ 軍事的社会制度である八旗を整備して軍事力整備 1644 明滅亡後の中国に侵入 1673 三藩の乱(∼1681)で康煕帝が勝利→全土を掌握 巧妙な支配政策で政権安定 あめ∼中国文化尊重/漢民族も政治登用 など むち∼弁髪(辮髪)強制/文字の獄 など 全盛期=康煕帝→雍正帝 →乾隆帝(領土最大/ロシアとネルチンスク条約締結)
© Copyright 2024 Paperzz