本編 第二章_PDF - Akira Togawa

第二章
プロメテウス
アパートの一室に差し込んできた朝日の中で身体を起こしゆっくりと背筋を伸ばすと、節々の痛みと
ともに頭の片隅がきりきりと傷んだ、長く深い夢が浅賀亮二の身体に変化を与えているような気がした。
パソコンの電源ランプがホタル火のように淡く点滅を繰り返している。灰皿からこぼれおちそうなマル
ボロの吸いがらと、冷たくなったコーヒーの残りが夜中の作業の匂いを漂わせていた、肉体と精神の疲
れが亮二を蝕んでいた。
父親の手記は彼を痛めつけるに十分なものだった、父が生きている間は眼にすることのなかったであろ
う文章、理解することすら困難な事実が彼を虜にしていた。
文章に込められた想いは強いうねりとなって何回も何回も彼の肉体と精神を突き刺した。
人一倍敏感な神経の持ち主である彼の肉体は文章に耐えきれず、文章に屈服し、文章は彼の肉体を支配
していた。
夜中、彼の肉体はもはや彼自身のものではなく、単に彼の一部を構成しているにすぎなかった。暗黒の
支配者の為すがままにある者に仕えている下僕のようでもあった。但し昼間の亮二はそのことにまった
く気づいていなかった。
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暗黒の支配者は様々な形で亮二を騙し誘惑しようとしているようだった。亮二にとっては夢の中で見え
ることすべてが真実だと思えるようになってきた。
「お呼びでしょうか」
画面上に現れた者の仕草は芝居がかったものだった、身体に布を巻きつけただけの姿はギリシャかロー
マ時代の召使の服装を纏っているかのようにも見えた。
彼は亮二に向かって語りかけているようだった。
「君は誰なんだ?」
亮二は遊び半分で聞いてみた。
「私のことをご存知ないんですか」
「知ってるわけないだろう、こんな変な恰好で」
「あなたが私を呼びだしたんですよ」
「僕が呼びだした?
まったく覚えが無いけど、だいたい君は何なんだ」
「ご挨拶が遅れました、私はプロメテウスという者です」
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「プロメテウス?
なんかギリシャっぽい名前だけど」
「確かにプロメテウスというのはギリシャ神話の神なんですが、ご存知ですか」
「知らないね、ギリシャ神話の神といえばゼウスとポセイドン、あとは酒の神様バッカスぐらいなら知
ってるけど」
「それは残念ですね、プロメテウスは人類に火を与えた神として有名なんですが・・・まあそんなこと
はどうでもいいんです。実は私は4次元の検索ソフトなんですよ、この業界ではちょっと有名なんです
が知らないでしょうね」
「ほう、検索ソフト?
それも4次元の検索ソフトだって」
「そうです。例えばあなたが知りたいと思っている4次元の事象があるとしましょう、私がそのお手伝
いをしたいと思っているんです」
「4次元の事象を検索するというのか」
「何でも検索します。あなたがいつもやっているような一般的な検索もしますが・・・」
いったいこいつは何なんだ?
「何でも検索するが、何か変わった検索でもするということなのかな」
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「そうですね、一般的な検索なら誰にでもできます。私をご利用になる方は特別な、それも4次元の検
索をお望みの方だと思います」
「じゃあその4次元の検索とはどういうものなのかな」
「4次元の検索というのは時間軸を超えた検索ということで、例えばある人物の過去もしくは未来、そ
れも誰にも知られたくないような個人の秘密に関することを検索したいと思う方もいらっしゃいます」
「他人の過去の秘密を暴きだすということか」
「ちょっと待ってください、他人の秘密を暴きだすというと何か後ろめたいことをしているような印象
を受けますが、別に公衆の面前で他人の秘密を暴くわけではありません。他人の秘密を検索してあなた
にお見せするだけです、しかも他人の秘密を検索したいと思ったのはあなた自身です、そしてそれをど
う扱うかはあなた次第ということになります」
「同じことのような気がするがね、まあいいか」
「では誰かの名前を入れてみてください」
亮二は誰の名前を入力しようかと考えた。
そして「黒川太一」と入力した、彼は亮二の会社の同僚だ。
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「黒川太一の何がお知りになりたいのですか」
「何でもいいけど君の言うように彼に秘密があるとしたら、ずっと昔のやつがいいかな」
そんなことができるわけも無い、と亮二は思っていた。
「黒川太一という男は謎の多い人間でしてね、一つお見せしましょう」
画面が一瞬真っ白になった。
そして次に画面に現れたのは男の子と女の子だった、この男の子が黒川太一なのだろうか。
「お兄ちゃん、今日は何して遊ぶの?」
「裏山へいくからついてこいよ」
「裏山に何があるの?」
「こないだタッちゃんと見つけた隠れ家さ、面白そうだぜ」
「お父さんが一人で裏山へ行っちゃだめだって」
「一人じゃないからいいって」
「うん、お兄ちゃんと一緒なら」
男の子と女の子は裏山への細い道を登り始めた、ブナの木が日光を遮って外気はひんやりと感じられる
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ぐらいだった。
二人がブナの林を抜けた先には小さな建物が建っていた、もう何年も使われていないような、しかし昔
は誰かが住んでいたのかもしれない。
「入ってみよう」
扉を押して中へ一歩踏み込むと、そこには何年も前の空気が存在しているような場所だった。
「怖くない?」女の子は怖そうだった。
「大丈夫だよ」
二人はお伽の国へ来たように建物の中を探検し始めた。木製の机が置いてあった、椅子もあった、そし
て奥には畳が敷いてあったのだろうと思われるようなささくれだった部屋があった。
「誰か住んでたんだ」
「どんな人」
「そんなこと知らないよ」
「なんか薄気味悪い。ねえ、帰ろうよ」
「何も怖い物なんかないよ」
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バタン、二人ははっとして扉の方を見た。
「なんだもう来てたのか」
近所のタッちゃんだった。歳は二人よりも上に見えた。
「何にもないよ」
「私、帰りたい」
「駄目だよ、言ってないのか」
年上の男の子が年下の男の子を非難するように言った。
「それは・・・」
「いいよお前が言えないなら、俺が言ってやる」
女の子は二人が何の事を言ってるのか分からなかった。
「マキ、パンツ脱げよ」
女の子には言葉の意味が通じなかった、年下の男の子は言葉に衝撃を受けた。
「さあ、脱げよ」
年上の男の子は女の子の腕を掴んで畳の上に押し倒そうとしていた。
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「おい、お前も手伝えよ、いいって言ったろう」
「放して、いやよ放して」
「いいじゃないか、見るだけだ、おい何してるんだ、足押えてろよ」
身体の大きな男の子は女の子を組み伏して、スカートをまくりあげ、女の子のパンツに手をかけようと
していた。女の子は足をバタバタさせていたが力では敵うはずもない、徐々に男の子の思うが儘になっ
ていこうとしていた。
「イヤ、イヤ、嫌だ、お兄ちゃん、助けて」
お兄ちゃんと呼ばれた男の子は、茫然とこの光景を見ていた、彼が事前に想像していたものとは全く違
ったからだ。
「男の子と女の子が何が違うか見たくないか、だったらお前のところの連れてこいよ」
「お前が連れてきたら、あれ貸してやるからな」
「本当に、貸してくれる」
男の子はあれに触りたかったのだ、動かしたかったのだ。
「連れてくるよ」
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「よし約束だ」
目の前で起こっていることは、想像からかけ離れていた、大きな男の子が女の子にのしかかって、女の
子のパンツを引きずり降ろそうとしているところだった。女の子の抵抗はまだ続いてはいたが徐々に弱
まってきているように見えた。
男の子は眼から何かが頬を伝って落ちてきているようにも思えた、目の前が霞んでも見えた。
「妹が、俺の妹が・・・」
「やめろ!」
年下の男の子が年上の男の子に横からぶつかって男の子を押し倒した。
押し倒された男の子は何が起こったのか理解できなかったんだろう、押し倒されたショックで一瞬目ま
いがした。
「マキ逃げろ!」
「この少年が黒川太一なのか」
「そのようですね」
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「10歳ぐらいかな、彼にもこんな頃があったんだな」
「誰にでも少年時代はありますよ。さてこの少女のことをどう思われますか」
「黒川の妹なんだろうね、彼に妹がいるなんて知らなかったけど」
「マキって言ってましたね」
「マキか、そう言えば会社にも真紀という女性がいるな、しかし彼女がこのマキだなんてことはあり得
ないだろうな」
「そういう偶然があるかどうか、それをあなたが信じるかどうかなのです」
「どうだ、何かいい話は聞けたか」
帝都石油本社の聞き込みから帰って来た新垣を掴まえた朝霧が聞いた。
「特に社内の話からは動機となりえるようなものは何もありませんね」
「じゃあ親族関係のほうはどうなんだ、何か不審な点とかないのか」
「息子の康雄ですが、金銭の動きからは特に不審なものは掴めません。ただ一郎の遺言書の件で弁護士
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事務所にあたってきたんですが、面白い話がありました」
新垣は嬉しそうだ。
「何だ、早く話せよ」
朝霧が睨みつけるように催促すると、
「あの康雄っていう息子ですが、今の嫁さんと結婚する前にある女性と結婚寸前まで行っていたそうな
んです。弁護士はてっきりその女性と結婚すると思っていたそうですよ。それが寸前で破談になったそ
うなんですが、問題はその女性が妊娠していたんじゃないかと、しかも堕ろすことの出来ないぐらいの
状態だったんじゃないかということです。27~28年前のことで彼も記憶があやふやですが、事態の
収拾にあたったのが当時北柳家の顧問弁護士だった浅賀宗平という人物だそうです。ただ彼も5年ほど
前に亡くなっているんですよ、彼が生きていればもう少し詳細が分かったでしょうが」
「面白いな、よし新垣はその女性を追ってくれ。特にその時生まれた子がいたとしたら、今どうなって
いるのか、26~27歳になってるということだな」
「見つかれば容疑者になり得るかもしれませんね」
「どうして容疑者になり得るんですか?」
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若い咲田が疑問附をつけた。
「お腹の大きな女が結婚寸前に婚約解消されて放りだされたんだ、しかも北柳家の顧問弁護士が処理に
当たったとなると一郎の意向が大きく左右しているということだから、生まれてきた子が一郎を恨む可
能性は十分あるということだな」
先輩の新垣が解釈して見せた。
「しかしその子を捨てたのは父親であるべき康雄のほうじゃないですか」
「もちろん康雄に対しても憎しみはあるだろうが、そういう決断をし実行した一郎に対する怒りは十分
犯罪に通じる可能性がある。犯罪者の心理はなかなか通常人には計り知れないものがあるけどな」
「そんなもんですかね」
「とにかく見つけろよ。俺と咲田はもう一度あのママに会ってみよう、もしかしてその辺りの状況を知
っているかもしれないしな」
「咲田君気をつけろよ、あのママは・・・」
新垣が先輩風を吹かして、
「そんなに美人なんですか?」
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「確かに妖艶とはこのことかっていう感じだな」
朝霧警部補も何かを念頭に浮かべているようだった。
黒崎洋子の自宅は代々木の森に囲まれた高層マンションにあった。
「あら警部さんじゃ断れないわね」
入り口からエントランス・ホールに至る通路も高級マンションに相応しいものだったが、二人の刑事が
驚かされたのは室内へ一歩踏み込んだ瞬間だった。
「これは?」
若い咲田は度肝を抜かれてしまったのか、言葉が続かなかった。
「今日はお若い方がご一緒なんですね」
「咲田刑事です」
「ハンサムな刑事さんね、もったいないわね」
白いバスローブ姿で現れた洋子の媚びるような笑顔が浮かび上がった。
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「こんな恰好でごめんなさい、今日はどんな質問をされるのかしら」
この時間帯だ、バスローブの下はもしかしたらと、咲田の脳裏に電流が走った。
「突然伺って申し訳ありませんが、一つ二つ確認したいことがありまして」
朝霧は部屋の中を見回した。厚手の絨毯を敷き詰めただけの部屋、カーテンは一部だけしか開いてない
が、全面ガラスの湾曲した窓にそったカーテンを全て開ければ、部屋全体が新宿の高層ビルからでも見
渡せるような部屋だった。そこに生活する者の全てを覗き見ることができるような不思議な空間だった。
生活感のひとかけらも感じられない部屋、見世物小屋のような部屋。
むしろここに生活する者のすべてを他人に見せる為の部屋だったのかもしれない、男と女の営みも含め
て。
「北柳康雄さんについてお伺いしたいと思いまして。今の奥様と結婚される前に深く付き合っていた女
性がいるようですが、黒崎さんが何かご存知なんじゃないかと思いましてね」
「どうして私が康雄さんの私生活まで、それにどうして康雄さんなんですか、まさか康雄さんが疑われ
ているのかしら」
「いや特に康雄氏をということではないんです、むしろ一郎氏の周りの人間関係ということで、調査の
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範囲を広げて行きたいと思ってましてね、黒崎さんはいろいろお知りのようなので。もちろん黒崎さん
自身にもお聞きしたいことは色々とあるんですが、今日のところはまず」
洋子は何か考えているようだったが、
「警部さんの仰る通りですわ。康雄さんと付き合って結婚寸前までいった女性がいたようです。何処の
誰かは知りませんが。でもその方が今回の事件と何か関係ありまして?」
「何故破談になったかはご存知ないですか」
「そんなプライバシーに関わることまで、私が知っていると思われてるんですか」
「何でもお知りだと伺いましたのでね。その女性は妊娠していたと思われるんですが、生まれた子供が
どうなったかもご存知ないでしょうかね」
黒崎洋子は首を横に振っただけだった。
しかし朝霧警部補は洋子のこの動作を嘘だと信じていた、彼女は確実に何かを知っていると。
「もう一度本人を叩いてみるしかないか」
北柳康雄は会社のほうにいた。
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「お忙しいところ申し訳ありませんが」
「またあなた方ですか。我々は1年365日24時間休みなく国際的な取引をしているんで、全く暇な
んてないですよ、勘弁して欲しいですね」
二人の刑事を見た北柳康雄は露骨に嫌な顔をした。
「お父上の事件に関することですので」
「そりゃまあ・・・5分ぐらいでお願いしますよ」
「奥様と結婚されてどれぐらいになりますか」
康雄の表情が歪んで、
「妻との結婚が何か?」
「結婚されて何年ぐらいかとお聞きしただけです」
「1991年ですから23年かな」
「今の奥様と結婚される前にお付き合いされていた女性がいますね、しかも結婚寸前までいかれたとの
噂があるんですが、確かですか」
朝霧の言い方には有無を言わせぬものがあった。
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「誰がそんなことを?」
「いらっしゃったんですね」
「確かに一時結婚を約束した女性はいましたが、それが何なんです。今回の件と関係あるというんです
か」
「立ち入ったことをお聞きする様ですが、破談になった理由をお聞かせ願いますか」
北柳康雄の顔が明らかに苦痛を示していた。それは決して他人には知られたくない秘密を燻り出されそ
うになっている時の表情だった。
「何でそんなことを私が答えなくちゃならないんですか」
「答えられないことなんですか」
「いや、私は明確な理由を知らないんで、答えようがないんですよ」
康雄は体勢を立て直そうとしていた。
「明確な理由を知らないと仰るんですか。ではお聞きしますが、女性の方から破談を持ちかけてきたと
いうことですかね」
「いや、そういうわけでは」
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康雄の言っていることはもはや支離滅裂だった。
「北柳さん、もう一度冷静になってお考えください。これはお父上の事件と関係あることかもしれない
のです、少なくとも私共はそういう観点でこの事実を見ています。あなたが結婚前に付き合っていた女
性、しかも結婚寸前までいった女性、更に踏み込んで言わせてもらうならその女性は妊娠していた可能
性があるんじゃないですか。もしその子供が北柳家の子供だとしたら」
警部補は妊娠を追認させようとしていた。
「まさか、その子が?」
「絶対に無い、とは言い切れないですよ。捨てられた子、父親に見放された子ですよ、恨みがあって当
然でしょう」
朝霧はちょっと言い過ぎたかなとも思っていた。
「ちょっと待ってください、殺されたのは私の父ですよ、どうして父が?」
「確かにそこのところは気に掛ります、しかし恨まれているのが北柳家だとしたら。もしそうだとした
らあなたも恨まれているはずですから、今後気をつけられたほうが」
「分かりました、しかしその犯人はどこにいるんですか」
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「それを探り出すためにもご協力をお願いしているんです」
北柳康雄は考えていた、言うべきか、言わざるべきか。
「破談のことは実は親父が決めたんです、相手との話もすべて親父と弁護士で、私は出るなと言われま
して」
「お父上に言われて、その後その女性とは一度も会ってもいないと言うんですね」
「父はそういう人間でした、全てを取り仕切っていたんです、北柳家のことも、帝都石油のことも。私
はお飾りのようなものですよ」
北柳康雄の冷たい笑いが伝わってくるようだった。
「一つお聞きしますが、その時の弁護士の方は何と言う方ですか」
「確か、浅賀弁護士だったと思います、そのような処理は全て浅賀さんがやっていましたから」
康雄が一郎の書斎に入るのはこれが事件後初めてだった。
書斎の中は持ち主の性格を反映してか整然と整理されていた、本棚には塵一つなくそれぞれの家具はき
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っちりとあるべきところに収まっていた。
康雄はいつも父一郎が家の中で仕事をする時に使っていたデスクの前の椅子に腰かけてみた。
革張りの椅子は静かに新しい主人を受け入れているようだった。デスクの前に広がる光景は、康雄自身
がこの部屋の、この邸の主人となることに何の疑問も無いようだった。
祖父が興した事業を、父が会社組織として作り上げた帝都石油を引き継ぐのは、康雄にとっても気の重
い作業だ。
父は口癖のように言っていた。
「日本はエネルギー資源の大半を海外からの輸入に頼らざるを得ない、何としてでもそのエネルギー資
源を確保することが我々帝都石油に課せられた使命なんだ。原発なんかだめだ、最終処理の目途もつか
ないようなものをどうして使えるというんだ。日本は石油を輸入するしかないんだ、どんな手を使って
もいい、私たちが石油を確保できなくなったら、日本はどうなる?」
父には石油事業だけしか無かった、そこには家庭生活の余地などなかった。
しかし父の周りには絶えず女の姿があった、いろいろな女の姿が。
この部屋の椅子という椅子には、それらの女達が座っていたのだ。
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康雄にとっては小さい頃から見慣れた光景だった。
きらびやかに着飾った女達、しかも彼女たちは親父よりも20歳も30歳も若かったのだ。
そんな父の後ろ姿だけを見てきたが、その父がいなくなってしまったんだ。
机の引き出しを引いて中を見回した康雄に飛び込んできた文字があった。
一枚のメモ用紙に書かれた文字「下園」。
用済みのメモをそのままおいておくなどということは決して無かった親父のメモ用紙だ。
ということは殺される直前の出来事と関係あるはず。
下園という男のことは知っている、かつて一郎の個人秘書だった男だ。
「康雄さん、いいかげんにそろそろ止めた方がいいんじゃないですか、今ならまだ手を引けますし、後
は私がなんとかしておきますから」
「なんだと、今ならまだ手を引けるだと、冗談じゃない、いくら損してると思ってるんだ」
「会長には適当に報告しておきますよ」
「馬鹿!
こんなことを報告してみろ、親父は絶対に許さないよ、俺はもう終わりだ、だめだ、絶対に
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報告なんかだめだ」
「しかしこのままじゃ、放ってはおけませんよ」
「そうか下園の責任にもなるわけだ」
康雄は何か悪だくみでも思いついた悪ガキのような不敵な笑みをその顔に浮かべた。
「私は別にどう思われようと構いません、所詮は使用人ですから」
「下園、もう一度だけやらせてくれ、次の相場で取り返して見せるから」
あの時の下園の眼には不信感が満ち溢れていた。
父のそばに影のように付き従い、父の言うことには何でも従っていた男だ。
父のことは何でも知っていたに違いない、私生活のことも、仕事上のことも。それらの中には父の裏の
顔もあったかもしれない。
父のボディーガードのような存在でもあったはずだ、防衛省出身でセキュリティ面でも父が頼りにして
いた男だ。
そんな彼が一郎を殺すなどとは考えられない、理由がないからだ。利益も無い。
康雄はしかしこのメモをまったく忘れてしまうことはできなかった、下園という男をもう一度調べてみ
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ようと心に誓ったのだ。
だいたい下園は生きているんだろうか、生きているとしたら何処にいるんだろうか?
「済まんな、こんなことまで」
「後のことは私に任せてください、決して火の粉のかからない様に処理しておきますので」
「頼んだよ、下園君に来てもらって本当に助かったよ、いずれこの礼はきっちりとさせてもらうからな」
男はすっかり酔い潰れて眠ってしまっている女を車の後部座席に運び込んだ。そして優しくドアを閉め、
運転席に戻って車を出発させた、自らの新しい人生へ向かって。
一方、車を見送った男は、失ったものの大きさを残念に思う気持ちもあったが、当面の厄介事を処理で
きたことで一安心できたと思った。
「いずれ真実を知らせて、迎えてやればいいだろう」
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「かつて一郎の個人秘書を務めていた男の消息が分かりました」
「個人秘書?」
「下園義という男です。元は防衛省の幹部候補にまでなっていたものを、一郎に引き抜かれて個人秘書
になったという噂です。防衛省では防諜関係の仕事に就いており、その経験も生かして帝都石油では会
長直属の保安部門の責任者も務めていたようです」
「それで話は聞けるのか?」
「ええ、ただ現在は養護施設に入っていますので、程度がどれぐらいか今確認を取っている最中です」
「場所は?」
「真鶴です、東海道線の」
朝霧の顔が一瞬だが輝いたかのように見えた、一つのきっかけを掴んだと思ったからだろう。
「いや、今すぐ会いに行こう、程度なんか会えば分かる」
東京から真鶴までは東海道新幹線と東海道線を乗り継いで1時間強、駅からはタクシーで15分、山の
中腹あたりに養護施設はあった。
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立派な外観を備えた建物だった。
建物の玄関を入ると、そこには大きな空間があった。
「何か御用でしょうか」
早速年輩の女性が飛んできた。受付というようなものは特に見当たらない。
「こちらに下園さんという方がいらっしゃると思うんですが、お話できますでしょうか」
年輩の女性は朝霧と新垣の二人を見較べながら、
「ご親族の方でしょうか。ご親族の方で無ければ、ご親族の方のご了解が無ければ入居者に面会するこ
とはできません」
「なるほど、ではこちらの責任者の方にお会いできますか、我々警視庁の者ですが」
朝霧警部補が丁寧な口調で。
年輩の女性は取り次ぎに不満気な様子だったが、
「少々お待ちください、今呼びに行かせますので」
「どういったご用件でしょうか、ここの責任者をしている青原といいますが」
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「私共警視庁の者なんですが」
言いつつ、バッジを見せる、
「ある事件に関連して、下園さんとお話できたらと思いまして」
「警察の方ですか、しかしお会いになっても下園さんとはお話ができるかどうか」
「といいますと?」
「普段殆どお喋りになりませんのでね、余程ご機嫌のいい時になら」
「ご病気なんですかね」
「こちらへいらした時から同じ状態で、精神的なことが影響しているのだろうということは分かってい
るのですが。お会いになりますか」
「ええ会わせて頂けるのなら是非」
「分かりました、こちらの離れの方でお待ちください。庭の景色も見えますので」
「下園さん、下園さん、こちらの方がお話をお聞きしたいとお出でくださいましたよ」
車椅子の中で身体を斜めにし、何処を見ているのか焦点の定まらない目付きで、新しい面会人の前に現
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れた人物は、とてもかつて防衛省で防諜関係を担当していたとは思えない老人だった。
「少しの間、我々だけで話をさせていただけますか。もちろん話ができればですがね」
施設の責任者は一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに自らを納得させていた。
「分かりました、こういう状態ですのであまり無理はさせないようにお願いします。また何か変わった
ことがありましたら、そこのベルを押してください、すぐ看護婦が参りますので」と言って出て行った。
「下園さん、ご機嫌はいかがですか。実は私たちは警視庁の者なんですが」
朝霧は一応バッジを出して見せた。
不思議なことに車椅子の男は朝霧の方へ顔を向けたのである。
「今日は、あなたが長く働いておられた帝都石油の北柳一郎氏のことについてお伺いしたいと思ってま
してね。下園さん、聞こえますか」
朝霧は自分の方へ向けた下園の目線を外さずに、彼の手を握り締めるという行動にでた。
「下園さん、聞こえますか?
聞こえてるなら私の手を握り返してもらえるとありがたいんだが」
そう言って朝霧は待った。待ったが何も起こらなかった。
「下園さん、あなたを防衛省から帝都石油に引きぬいてきた北柳一郎氏が亡くなりましてね」
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下園の手に変化はなかった。
朝霧も根気よく待つことにした。
「北柳一郎氏の死因についてはまだ調査中で、自殺かもしれませんが、他殺を疑われるような状況もあ
るんです。北柳一郎さんのことをよくご存知のはずの下園さんにいくつかお聞きしたいと思いこちらに
伺ったんです」
今まで朝霧をぼんやりと見ていた下園が眼を落とした。変化が現れたように見えた。
「もし殺人だとしたら、親族などの近親者かもしくは会社関係者によるものだと考えられているんです。
そこでお聞きしたいんですが・・・」
下園の様子が一変した、彼は口を開こうとしていた。
朝霧と新垣は彼の口から洩れてくる言葉を待った。
「ううううう」
それは意味の無いものでしかなかった。
「何かをご存知なんですね、今回の事件を引き起こす様な何か?」
朝霧の手が強く握りしめられていた。
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しかしそれが何を意味しているのかは分からなかった。
「下園さん、何があるんですか、教えていただけませんか」
朝霧は祈りにも似たような気持で下園の手を握り締めた。
しかしそれ以上の変化は訪れなかった、下園は眼を落としたままだった。
「仕方が無いか、何か応えてくれそうだったんだがな、諦めるしかないか」
新垣の方へ振り向いて下園の手を離そうとした瞬間だった、朝霧の眼に下園の眼が一瞬生気を取り戻し
たように見えたのだ。
「下園さん、何か仰りたいことがあるんじゃないですか」
下園は右手の人差指で何かを指し示すような仕草をした。
「何ですか、教えてください」
朝霧はこの時の下園の目付きに先ほどまでは無かった意志が宿っているのを感じて、その意思を何とか
して掴みたいと思った。
朝霧は下園の眼を食い入るように見つめた、そして顔を近づけて行った。
下園の唇が微かに動いたようだった。
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その唇に耳を近づけて行った。
「ふ、ふ、ふくしゅう」
「下園さんはいつもあのような状態ですか」
「ご機嫌がいい時は、喋ることもあるんですよ。今日は良くなかったですか?」
「下園さんがこちらに入居された当時のことは分かりますか」
下園との面会を終えて出てきた朝霧が、青原に尋ねた。
「私はまだ4年なんです、私がこちらへ来た時には下園さんは既に入ってられましたので」
「下園さんの入居時からこちらで働いている方とお話させてもらえますかね」
「ええ、多分、ちょっと調べてみないと」
「下園さんの入居に関わる費用とかは?」
新垣の指摘は妥当なものだった。
「それも調べてみないと分かりませんが、確か毎月ある口座から引き落とされていたのでは。お時間あ
れば事務所のほうで」
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事務所の作りも立派なものだった。
二人がソファに腰を下ろした頃会いを見計らってか、先程の女性がコーヒーを持ってきてくれた。
「景気は悪くなさそうですね」
「こういうところの院長なんてのも悪くないかもしれないな」
「私には向かないでしょう」
「お待たせしました。下園さんの入居時からの従業員は2名いますが、二人とも今日はオフなんですよ。
明日になれば出てきますので、聞いておきますが」
「いや、日を改めますので、それでお二人の名前は」
「前島と鳴海といいます、二人とも女性です」
「分かりました、ありがとうございます。それで費用のほうは」
「こちらの口座です、名義は下園義さんで、2004年の入居時から同じ方法でお支払いいただいてお
ります」
「銀行は新東京ですか、こちらで調べてみます。いや、いろいろお手数おかけしました」
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「何に対する、そして誰に対する復讐ということなんだろう」
警視庁へ戻った二人が捜査班の連中と打ち合わせていた。
「復讐の対象が北柳一郎だということは明らかなんでしょうね。下園が復讐だと言うんだから、下園が
北柳に復讐したということですかね。しかし下園は動けない、だから誰かが下園に代わって復讐を実行
したということですかね」
「新垣君にかかったら物事は単純だな。まず北柳と下園の接点から行こう、二人の接点は下園が防衛省
を辞めて帝都石油に入社してからだ。何年だ」
「防衛省を辞めたのは1984年で、すぐ帝都石油に入社しています」
「そして?」
「帝都石油を辞めたのは1997年、この年自動車事故で本人は重傷、妻を亡くしています。事故が退
職の原因だったと思われます。そして施設への入居が2004年ということになります」
「84年から97年までの13年間に何があったのか、徹底的に洗い出してくれ、事故のことも良く知
りたい。それから97年から2004年までの7年間は自宅で療養生活ということになるのかな、女房
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もおらず何となく考えにくいんだがね」
そこは大きな部屋だった、床は冷たい色の大理石におおわれているようだった。高い天井には幾重にも
梁が渡され、その梁からは無数の灯りが落ちている、灯りが照らし出しているものは、この殺風景な部
屋に唯一つしかない手術台のような可動式の台だった。
台の上に乗っているのは若い女のようだったが、全身を白い布で覆われ、顔は包帯のような白い布でぐ
るぐる巻きにされていた。
台を見下ろしていた男は突然台の上の人間を覆っていた白い布を取り除いて、大袈裟に部屋の隅の方へ
放り投げてから、大業な素振りで神への祈りをささげるべく膝まづいた。
「神よ、この女の心を自由にさせたまえ、この女の心から悪霊を取り払い、世の中の全ての悩みから解
き放ちたまえ、我をしてこの女の主とさせんことを・・・」
膝まずいた男が一心に祈りを捧げる中、台の上の女は微動だにしなかった。
「神よ、この女は生まれて以来ずっと苦しみの中におりました、この女には安らぎが宿ったことがあり
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ません、この女の悪霊を追い払い、我をこの女の主とすることのみがこの女を救う道であります、どう
かこの女に神のご慈悲を与えたまえ」
高い天井の一角から光が差し込んできた、見る者にこれから始まる荘厳な一瞬を予感させるような光の
筋だった。光の筋は徐々に女の足元から胴体へそして胸元を通り過ぎ顔、白い布でぐるぐる巻きにされ
た顔にあたった。
「起きよ!」
男が鋭く叫んだ。
「女よ!我らの神がそちの復活を許したもうた」
男は膝まづいた姿勢から立ち上がり、芝居がかったように大きく手を広げて女を真っ直ぐに見た。
女は台から上半身を起こして、自らの手で顔の白い布を外していった。
「目覚めよ!」
男が再度叫ぶと、白い布を外し終えた女が目を開けて男を見た。
男は女の顔をまじまじと見て満足そうに頷いた。
「成功だ」
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女は身体を起こして周りを見渡した、その時白い上掛けの端が滑り落ちて女の肩から胸にかけてが顕わ
になった、女の肌の色は小麦色がかっていた。
「女よ、汝が復活したからにはその使命は十二分に心得ているであろうな」
女は頷いた。
女は台を降りて大理石の床に膝まづいた。
「あの者どもに災いをもたらすのだ、あの者どもを我が足元にひれ伏させるのだ。わっはっはっは・・・
わっはっはっは・・・」
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つづく
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