「グローバル金融危機とロシア住宅市場」 新潟大学経済学部 道上 真有

「グローバル金融危機とロシア住宅市場」
新潟大学経済学部
道上 真有
1.はじめに
2008 年世界金融危機は、
金融部門と実物部門のリンケージがまだ弱いロシア経済にも大きな
影響を与えた。当初その影響は金融部門のみに終始し、かねてからまだリンケージが弱い実物
部門にはそれほどの影響がない様相を示していた。しかし今回の危機はその後、ロシアの実物
部門にも大きな影響をもたらすこととなった。その影響の引き金となったものは、2008 年 9
月の米大手投資銀行の破綻による世界金融市場の混乱というよりも、むしろその前年の 2007
年から始まっていた米国のサブプライムローン危機が 2008 年 7 月からの国際原油価格の下落
をもたらしたことによるところが大きい。1998 年のロシア金融危機以降のロシア経済にとって
の生命線は、依然として資源価格市況の動向にある。1998 年から 1999 年にかけて、ロシア経
済が危機からの回復に要した時間は実質的には 1 年弱であった。この素早い経済回復とその後
のプラス成長を実現させた要因の一つが、原油価格の上昇による資源輸出利得の増大にある。
さらにルーブル為替レートの切り下げが国内製造業に対して輸入代替効果をもたらした。この
原油輸出利得の国内への還流と国内製造業の輸入代替効果が、1999 年から 2007 年までのロシ
アの高成長を支えていたのである。
ロシア産原油(Urals)の国際市場価格は 1999 年 2 月に 1 バレル=8.96 ドルにまで落ち込
んだ後上昇を続け、
ピークとなった 2008 年 7 月には 1 バレル=137.61 ドルにまで高騰した 1。
この原油価格の高騰はロシア経済に巨額の貿易黒字をもたらしたと同時に、国際資源価格の下
落リスクの緩衝材としてロシア政府が 2004 年から設けた安定化基金 2(2008 年 1 月 1 日から
U.S. Energy Information Administration
原油価格が 1 バレル=27 ドルを超えるとき、その価格を上回る部分に対応する輸出関税と採
掘税の連邦予算の増収分が基金に繰り入れられる。
(田畑伸一郎著「第 3 章 ロシアの財政状
況:安定化基金とその再編をめぐって」
『平成 19 年度財務省委託研究会ロシア問題研究会』p.37
参照。
)
1
2
1
は準備基金と国民福祉基金)の蓄積を増大させた。ロシアが外貨準備高で世界第 2 位となった
のはこの 2008 年のことである 3。しかしロシアにとってこの資源価格高騰による景気拡大は諸
刃の剣でもある。ルーブルの対ドル為替レートは 2007 年から徐々にルーブル高に転じ始め、
資源輸出による景気の好転がやがては為替レートの自国通貨高をもたらし国内製造業にマイナ
スの影響を与えるいわゆる
「オランダ病」
を想起させる状況にロシア経済は進行しつつあった。
2008 年 7 月の対ドル・ルーブル相場は 2007 年 1 月の水準から約 12%上昇していたのである。
ルーブルの為替レートが下降に転じたのはその翌月 8 月からであり、この歩調は原油価格が
2008 年 8 月に 1 バレル=105.96 ドルに下落した時期と一致している。ロシア株式市場(RTS)
の指数もこの原油価格と為替レートの動向と一致しており、2008 年 5 月 16 日に記録した
2478.87 から徐々に下落し始め、2008 年 7 月 25 日には 1951.29 にまで下落した後は続落し、
2008 年 10 月 24 日には 549.43 にまで 78%もの株式指数の低下を経験することとなった。こ
の背景には、ロシアの株式市場上場企業が資源産業でその大半が占められることと関係してい
る。
2008 年の金融危機はロシア経済に対して景気過熱やオランダ病の進行を食い止める効果を
もたらしたものの、ロシア最大の貿易相手である欧州経済の回復の遅行が、ロシアの実物部門
に対する打撃となって跳ね返ってきた。それまでのロシア国内経済を支えてきた製造業、小売・
卸売業、建設業の生産が大きく落ち込み、企業倒産や失業が増加し所得低下が長引くこととな
った。
1998 年の危機時と比較して 2008 年の危機の回復には時間を要しているのが現状である。
本稿では 2008 年の危機によって著しい生産の落ち込みを経験した建設部門、住宅市場を中心
に、世界金融危機がロシアの住宅市場に与えた影響と今後の課題について考察する。
2.2007 年~2010 年のロシア経済と住宅市場
ロシアの住宅市場は近年のロシアの資源景気の経過に沿って拡大した経緯がある。一つは国
内外の資本による不動産投資の増大、二つ目には国民所得の増加により新たな購買層の増大が
住宅市場の拡大に貢献したと考えられる。さらに巨額の安定化基金(準備基金、国民福祉基金)
が象徴するロシア連邦政府の財政黒字が、これまで事実上実施できずにいた各種社会保障改革
の本格的な実施を可能にし、住宅建設、建設産業の発展と公的住宅ローン制度の普及を促して
きたのである。
2008 年の金融危機はこのような芽が出始めたばかりの住宅市場の拡大に冷や水
を浴びせる結果となった。図 1 には 2007 年~2010 年までの四半期別実質 GDP 成長率と建設
工事高とモスクワ市の1㎡当たり住宅平均価格の推移を示している。
総務省『世界の統計』2009。2008 年 8 月で外貨準備高は 2008 年 8 月 5965 億ドル(ロシア
中央銀行)
、準備基金は 1409.8 憶ドル、国民福祉基金は 319.2 億ドル(ロシア財務省)
。
3
2
図1 四半期別ロシアの GDP、建設、住宅価格(2007 年~2010 年)
7000
住宅価格
40
6,058
6000
5000
建設
4,193
30
3,878
4000
4,504 20
10
3000
0
2000
-10
1000
-20
0
-30
(%)
モスクワ市平均住宅価格($/㎡(実質))
GDP
(出所)Kratokosrochnye ekonomicheskie pokazateli Rossiskoi Federatsii, 2009 Mar. and
2011 Mar.および Metrinfo サイトによるモスクワ市平均住宅価格より筆者作成。
建設工事高は 2008 年第 1 四半期に前年同期比でこれまでで最大の 31.3%の上昇を示すほど
に増大したが、2008 年第 2 四半期から伸び率が低下し始め、2009 年第 1 四半期にはとうとう
マイナス 16.4%に陥り、翌第 2 四半期にはマイナス 19.5%と最大の落ち込みを記録した。ロシ
アの住宅市場価格もモスクワやサンクト・ペテルブルグといった大都市を中心に高騰を示し
2007 年第 1 四半期で平均 4193.3 ドル/㎡であったモスクワ市の住宅価格は 2008 年第 3 四半期
には 6058 ドル/ ㎡にまで達した。これはロシア政府が定める標準世帯住居面積 58 ㎡に換算す
ると約 35 万ドルに相当し、2008 年の一人当たり平均月間賃金は 588.5 ドルであることから考
えると相当に高い価格である。ロシアでは住宅購入による住み替え需要が根強く存在する。ソ
連崩壊により旧国営住宅を無償で私有化された住居は市場経済化の混乱期において、国民生活
の瓦解をかろうじて食い止める役割を果たした。この役割は今回の 2008 年危機後の生活にも
引き続き果たされている。しかしその内実は、ソ連時代から更新が進まず劣悪化した居住環境
に住み続けざるを得ないというものであり、昨今の経済成長による個人所得の上昇が、民間住
宅市場での住宅購入による住み替え需要の顕在化を促した。このことが 2008 年危機までの国
内経済の内需拡大要因の一つであったことは想像に難くない。
2008 年の金融危機によってロシア最大の住宅市場であるモスクワ市の住宅価格は、2008 年
第 4 四半期から下落しはじめ 2009 年第 3 四半期には 3878 ドル/㎡の 36%の価格低下を記録し
た。住宅価格の高騰によって悪化の一途をたどっていた住宅価格の年収倍率や住宅取得可能性
(アフォーダビリティ)数値も価格の低下によって若干の好転を示したが、同時に引き起こさ
3
れた所得低下のため、依然として平均的な世帯が住宅を新たに購入するには程遠い住宅市況が
続いている 4。危機の住宅市況への影響は 2009 年第 3 四半期を境に徐々に好転し始め、再び住
宅価格が上昇に転じ始めている。2010 年第 4 四半期のモスクワ市の住宅平均価格は 4504 ドル
/㎡で、
2008 年第 3 四半期に記録した 6058 ドル水準の約 7 割の水準にまで回復してきている。
2010 年第 1 四半期からプラスに転じた経済状況については後述する。2010 年のGDP成長率プ
ラス 4.0%は 1998 年危機からの回復を想起させるような景気の反転ではあるが、生産部門別に
詳しく見てみると、実物部門の回復力はまだ確固とした強さを示しておらず、同じく 2008 年 8
月にロシアとグルジアの間で発生した紛争による外資の流出も手伝って、今回の危機の影響が
2008 年後半から 2009 年一年間を通してロシア経済全般に景気後退の影響をもたらしたことは
明らかである。
危機までの住宅市場の高騰および住宅を含む建設工事高の増大を促した背景に、固定資本投
資と最終消費支出の二つの内需拡大要因が 2008 年までのロシア経済成長を牽引してきたこと
が挙げられる。換言すれば金融危機によってそれまで成長をリードしてきたこの二つの要因の
急落が、景気低迷とロシア経済の生産低下をもたらしているのである。図 2 は支出面でみた
GDP の寄与度を示している。2007 年の GDP 成長率 8.5%のうち最終消費支出が 7.4%、その
うち家計消費だけで 6.9%の寄与度を示している。また粗資本形成の寄与度も 4.7%に達しその
うち固定資本形成は 3.9%でああった。2008 年においても最終消費支出の寄与度は 5.7%、粗
資本形成の寄与度は 2.6%と前年よりは規模を縮小したもののプラスの値を示し、2008 年まで
の好景気はこの最終消費支出と固定資本形成が牽引してきたことが分かる。このことは生産部
門別に見た寄与度と寄与率を示した表 1 にも明らかである。
4
詳細については、道上(2008)および(2011)を参照。
4
図 2 ロシアの GDP(支出)寄与度(2007 年~2010 年)
GDP寄与度
30.0
25.0
20.0
15.0
10.0
%
5.0
0.0
-5.0
-10.0
-15.0
-20.0
2007年
2008年
2009年
2010年
輸入
-5.5
-3.1
6.7
-5.2
輸出
2.1
0.2
-1.5
2.0
純輸出
-3.4
-3.0
5.2
-3.2
3.9
2.2
-3.5
1.3
粗資本形成
4.7
2.6
-9.5
5.3
家計消費
6.9
5.2
1.2
1.6
最終消費支出
7.4
5.7
-3.4
1.9
GDP成長率
8.5
5.2
-7.9
4
粗固定資本形成
(出所)ロシア統計年鑑 2010 年およびロシア統計局サイトより筆者計算。GDP 支出項目には輸入は控除され
るため、輸入が増加すると寄与度はマイナス。
5
表1 生産部門別実質 GDP の対前年比と寄与率(%)
実質 GDP 対前年比(%)
寄与率(%)
2007 年 2008 年 2009 年 2010 年 2008 年 2009 年 2010 年
GDP(市場価格)
8.1
5.6
-7.8
4.0
100
100
100
農林業
2.6
8.5
1.3
-10.7
6.0
-0.7
-10.3
水産業
0.6
-2.8
5.5
-3.9
-0.1
-2.9
-0.2
鉱業
-2.7
0.4
0.5
4.7
0.6
-0.5
9.1
製造業
8.1
1.2
-14.9
12.3
3.3
29.1
38.8
電気・ガス・水道業
0.4
1.0
-5.0
5.5
0.5
1.7
4.8
建設業
13.7
13.2
-14.6
-0.7
11.6
10.6
-0.9
卸売・小売・修理業
12.5
8.4
-6.2
5.0
25.7
14.3
19.7
ホテル・レストラン
14.9
10.3
-14.9
2.2
1.5
1.7
0.5
運輸・通信業
3.4
7.4
-8.5
7.7
10.6
8.9
16
金融業
12.5
6.6
2.2
-2.4
4.8
-1.1
-2.7
不動産・リース
19.5
10.8
-7.2
-1.2
17.7
8.8
-3.2
公務・国防・社会保障
3.9
3.6
1.1
3.9
2.7
-0.6
5.5
教育
1.2
0.7
-1.4
-1.9
0.3
0.4
-1.4
保健衛生・社会事業
2.7
0.6
-0.2
1.3
0.3
0.1
1.1
その他サービス
7.4
4.2
-19.5
-5.5
1.2
3.8
-2.1
その他
9.6
5.5
-13.7
7.9
13.3
26.4
25.2
(出所)Rosstat, Informatsiia o sotsial'no-ekonomicheskom polozhenii Rossii, Jan-Mar.2009 and
2011.より筆者計算。
(その他には純生産物税や金融仲介サービスなどが含まれる。
)
表 1 に示された生産部門別にみた実質 GDP の対前年比は、
2007 年で不動産・リース業 19.5%、
ホテル・レストラン業で 14.9%、建設業 13.7%、卸売・小売業、運輸・通信業で 12.5%、製
造業 8.1%の伸び率で、固定資本形成、最終消費支出にかかわる生産部門での生産拡大が 2008
年までの経済成長を牽引してきたリード産業であることが分かる。特にホテルや住宅、オフィ
6
スといった不動産に係る建設、不動産業の拡大が著しかったのが 2006 年から 2007 年にかけて
であった。このことがモスクワ市の住宅価格の高騰にも結びついていると考えられる。ちなみ
にモスクワ市のホテル宿泊料は世界でも有数の高価格帯に入り、外資系の大手ホテルチェーン
が開業したのも 2006 年~2008 年にかけてのことである。2008 年の寄与率でみれば、卸売・
小売業 25.7%、不動産・リース業 17.7%が目立って高く、建設業 11.6%、運輸・通信業 10.6%
がそれに続いて高い数値を示している。住宅市場、建設業に焦点を絞ると、ロシアの固定資本
投資の拡大には外国資本の流入が影響をもたらしていたことが次の表 2 からもわかる。
表 2 ロシアの固定資本投資
固定資本投資
2007 年
外資による固定資本投資
2008 年
2009 年
(単位:10 億ドル)
固定資本投資総額
2007 年
2008 年
2009 年
(単位:10 億ドル)
273.6
298.9
262.2
120.9
103.8
81.9
建設
10.9
13.6
9.3
2.9
3.4
1.0
不動産
50.0
55.1
39.4
8.4
15.4
7.9
対前年比
対前年比
固定資本投資
122.7
109.9
83.8
219.5
85.8
79.0
建設
128.8
126.2
64.7
408.3
116.4
29.9
不動産
130.3
109.5
68.4
140.3
182.8
51.6
(出所)ロシア統計年鑑 2010 年、数字で見るロシア 2010 年より筆者計算
ロシア連邦全体での固定資本投資総額に占める外資の割合は 44%に相当する。2008 年で
34%、2009 年で 31%であった。特に建設業では 2007 年 27%、2008 年 25%、不動産業では
007 年 17%、2008 年 28%の投資が外資系企業による直接投資によるものであった。国内資本
に外国資本の流入が後押しする形で拡大してきた固定資本投資は、
2009 年に急速な減少に転じ
る。特に 2009 年の建設業における外資系企業の資本流出は激しく、前年比約マイナス 70%に
も達するほどの著しい流出を招いた。不動産業においても約 50%の外資がロシアから撤退して
おり、このような外国資本の急速な流出が建設工事高の激しい低下をもたらした要因に挙げら
れる。2010 年の完成予定で建設されていた大型都市開発プロジェクト、モスクワ・シティ建設
工事が中断を余儀なくされたことは、この現象を象徴的に物語っている 5。
危機後の 2009 年の経済成長はマイナス 7.8%を記録し、建設業、不動産業のみならず他の生
産部門にも大幅な生産低下をもたらしたことが同じく表 2 の 2009 年の寄与率の数値からもう
かがえる。これまで成長を牽引してきた業種を中心に著しい生産の低下がみられ、特に 2009
5
モスクワ市政府が開発主体となっている大型都市開発計画で詳細についてはモスクワ国際ビ
ジネスセンター「モスクワ・シティ」サイト(http://www.citynext.ru/)を参照。
7
年の寄与率で大きな数値を示しているのが製造業の 29.1%である。対前年比でみれば製造業の
落ち込みはマイナス 14.9%と激しいものとはいえ、他の建設業、ホテル・レストラン業と同程
度の落ち込みであるが、GDP に対する寄与率で見た場合、製造業の生産急減がもたらした影響
が最も深刻であったことが分かる。これは 2009 年の支出面でみた GDP の寄与度(図 2)の中
で粗資本形成と最終消費支出が大幅なマイナスを記録したことからも、危機によって国内製造
業への需要低下と生産低下に見舞われたと考えられる。
危機によってルーブルの対ドル為替レートは 2008 年 7 月の 1 ドル=23.45 ルーブルから
2009 年 2 月に 1 ドル=35.72 ルーブルにまで約 50%も切り下がったが、2000 年代の国内製造
業の輸入代替効果が建設産業や不動産業にたいする波及効果をもたらすまでには至っていない
のが現状である。表 1 の 2010 年の GDP 成長率プラス 4.0%の回復に寄与した部門は製造業と
卸売・小売部門であることが確認されるが、建設業および不動産・リース業はマイナスの値を
示している。
ロシア経済における建設業の停滞は、
労働市場においてはロシアの地方および CIS
諸国からの移民労働者を吸収する部門でもあり、失業者や賃金未払のショックを和らげる第 2
雇用(副業)の効果を失わせてしまう。また住宅市場の需要面では、老朽化が進んだ居住設備
(電気、水道、ガス、暖房等の公共サービス設備および集合住宅建物そのものの)の更新、建
て替えや住み替えが進まず居住環境の悪化、さらには住宅関連産業の需要が喚起されない状況
を長引かせることになりかねない。賃金未払いと失業といったロシア特有の雇用面に対する危
機の影響は後述するが、所得や雇用の回復が原油価格や株式指数、為替レートの回復の程度よ
り時間がかかるものである以上、製造業の輸入代替効果が強固なものになるまではロシア国内
にはまだ予断を許さない懸念材料が存在している。
輸入代替効果の発生とその持続に抑制をかけているのがやはり原油価格の情勢である。図 3
は 2007 年~2010 年までのロシアの株式指数と対ドル・ルーブル為替レートを各々2007 年の
年初値を 100 とした場合の推移と、ロシア産原油(Urals)の国際価格(ドル/バレル)の推
移を示している。
8
図 3 ロシアの株式指数(RTS)、原油価格(Urals)および対ドル・ルーブル為替レートの推移
RTS(2007=100)
160.0
RUB/$(2007=100)
Oil
(RTS および RUB/$ (2007=100) )
140.0
120.0
100.0
80.0
60.0
40.0
20.0
0.0
2010/10/05
2010/07/05
2010/04/05
2010/01/05
2009/10/05
2009/07/05
2009/04/05
2009/01/05
2008/10/05
2008/07/05
2008/04/05
2008/01/05
2007/10/05
2007/07/05
2007/04/05
2007/01/05
(出所)RTS, EIA, Kratokosrochnye ekonomicheskie pokazateli Rossiskoi Federatsii, 2009
Mar. and 2011 Mar.より筆者作成。為替レートは月末値、原油価格、RTS は各週の終値を掲載。
2008 年の半ば以降、
危機の影響によってロシアの株式指数がロシア産原油価格の動向と見事
に同調していることが分かる。
ロシアの国内製造業の輸入代替効果に向かわない要因の一つは、
この原油価格が 2009 年第 1 四半期を底に再び上昇し始めたことにある。ロシア産原油の国際
価格は、2008 年末に 2007 年以降で最安値である 1 バレル=34.81 ドルにまで落ち込んだのち
上昇に転じ、2007 年 1 月初めの 1 バレル=52.36 ドルを 2009 年 5 月には再び上回り(1 バレ
ル=52.52 ドル)
、2009 年 6 月には 1 バレル=69.10 ドルにまで上昇した。その後も原油価格
は緩やかに上昇を続け 2010 年 4 月には 82.54 ドルを記録し、2010 年末で 1 バレル=90.40 ド
ルにまで再び上昇した。この原油価格の反転に沿う形で株式指数(RTS)の値も反転に転じ、2009
年 1 月末で 2008 年 10 月 24 日に記録した最高値 2296.56 から最大 80%の下落をもたらした
株式指数は、その後回復基調に入り 2010 年末で 2008 年 10 月の水準の 7 割にまで回復してき
ている(2010 年 12 月 31 日 RTS Index 1770.28)
。このことがドルに対するルーブルの為替レ
ートの再上昇をもたらしていることが同じ図からもわかる。2009 年 2 月に 1 ドル=35.72 ルー
ブルにまで切り下がった対ドル・ルーブルレートが、2009 年第 2 四半期から再び徐々に上昇
9
し始め、2010 年末値(1 ドル=30.48 ルーブル)で危機以前の 2007 年年初(1 ドル=26.53 ル
ーブル)の水準に迫りつつある。原油価格、為替レートの動きと製造業をはじめとする生産へ
の影響、輸入代替効果の発生経路については複雑な因果関係を別途考察しなければならない。
ここでは事実として、
2010 年のロシア経済が建設業や金融業の停滞やそれによる雇用への影響
を抱えながらも特に鉱業、製造業、卸売・小売業を筆頭に再び資源輸出利得による経済成長局
面に入りつつあることが示唆される(表 1 の寄与率を参照)
。他方で、為替レートが原油価格
の動向を反映して再び上昇に転じ始めていることから、今後、原油価格市場の動向如何によっ
てはかねてからのロシア経済の懸案である「オランダ病」が再び生じ、回復しはじめたばかり
の製造業、卸売・小売業に再び深刻な影響を与えかねない懸念も同時に膨らみつつあることが
観察されるのである。
3.2008 年金融危機の雇用への影響と今後の課題
2008 年金融危機の影響が失業者数と失業率に大きな影響を与えたのは 2009 年である。失業
率は 2007 年 6.1%、2008 年 6.3%、2009 年 8.4%と推移し、2010 年には 7.5%と約 1%低下
した。失業者数は登録された失業者数だけで 2009 年 3 月に 900 万人を記録した。雇用への影
響がこれだけでも大きいといえるが、その裏にはこれらの数字に表れないさらに深刻な問題が
存在している。ロシアの労働市場で特有である現象は、危機の生産面への影響に比べて失業者
数と失業率の著しい増大が見られないことにある。そこには失業者数や失業率には反映されな
い「賃金未払」による雇用調整の慣行があるからである。ロシア統計局(Rosstat)によると、
賃金の未払いを累積させている企業の 96.4%が、賃金未払いの原因は自己資金の不足が原因で
あると答えている。金融危機の影響で業績が悪化し賃金が支払えなくなった企業は、倒産せず
に従業員を解雇しないかわりに賃金を支払わない状態を従業員の許容させることで、企業側の
危機のショックを和らげ、倒産のリスクを軽減し企業従業員生活の急激な不安定化を防ぐ意味
をもつ。しかしながら、賃金未払いの期間が長引けば長引くほど従業員の生活に深刻な影響を
与えるものである。このような賃金未払いを被っている労働者数を加味すれば、ロシアの事実
上の雇用喪失の状況は登録失業者数よりもはるかに大きくなるのである。図 4 は 2007 年初か
ら 2010 年末までのロシアの賃金未払残高と企業に雇用されているため失業者ではないものの
その内実は賃金が支払われない状態にある労働者数の推移を示している。
10
図 4 ロシアの賃金未払いと未払い労働者数
賃金未払残高
未払労働者数
60.0
10000
9000
50.0
7000
40.0
6000
30.0
5000
4000
(万人)
(100万ルーブル)
8000
20.0
3000
2000
10.0
1000
2010年12月
2010年09月
2010年06月
2010年03月
2009年12月
2009年09月
2009年06月
2009年03月
2008年12月
2008年09月
2008年06月
2008年03月
2007年12月
2007年09月
2007年06月
2007年03月
-
(出所)ロシア統計局サイトより筆者作成。
図4からも明らかなように、賃金未払いの労働者は 2007 年初めの時点で約 50 万人弱存在し
ていた。賃金未払い残高および賃金未払い労働者数は 2008 年 9 月に約 20 万人にまで減少して
いる。
景気拡大によって賃金が支払われ、
未払い労働者数の減少に転じたことが想起されるが、
2008 年後半から危機が浸透することによって賃金未払い労働者から失業者に転じるケースを
上回るペースで正規従業員から賃金未払い労働者に転化するケースが増大するようになった。
2008 年 9 月以降、
再び賃金未払い労働者数が増大し同年 12 月には 56.
8 万人を記録した。
2009
年の第 1 四半期から第 2 四半期にかけて賃金未払い労働者数と賃金未払い残高が急上昇してい
る。賃金未払残高は 2008 年 11 月ごろから急増し始め、2009 年 6 月には 2007 年以来最大の
約 87.8 億ルーブル(約 2.8 億ドル)の未払残高を記録した。2009 年 7 月 1 日現在の賃金未払
残高は前月よりも 18%下がり約 72 億ルーブル(約 2.3 億ドル)となったが、それでも 2008
年の 30 億ルーブル弱の水準よりは 2 倍以上の残高である。
賃金が支払われない労働者の数は、
2008 年は年間を通じて 20 万人前後のレベルにまで減少していたが、同年 11 月から増加し始
め、12 月の急増を季節調整として割り引いて考慮しても、2009 年代前半に急激に増加に転じ、
50 万人前後で推移するようになったことが明らかである。2009 年の第 3 四半期以降は再び減
少しはじめ、2010 年 12 月末の賃金未払い労働者数は 15 万人であった。事実上の失業者とし
てこの賃金未払い労働者数を加味して換算すると、2010 年には回復基調にある(実質賃金は年
11
4.6%の成長)とはいえ、2010 年 12 月の失業者数は 690 万人に 15 万人が加算され 700 万人超
えることになるのである。このような賃金未払い労働者の存在が、経済全体での個人所得の低
下を招き、消費の減退を導いている。2009 年の実質賃金は年平均マイナス 3.5%に陥った。こ
のことが最終消費支出の大幅な減退を生じさせている要因でもある。
ロシアの労働市場研究の専門家カペリュシニコフとギンペルソンが 2009 年に発表した
(Kapelyushnikov and Gimpelson, 2009)による企業 800 社に対する調査によると、60%の企業
が雇用を危機以前の水準で維持し続けている。その理由は、危機の際には政府の支援にかかわ
らず、自発的に労使双方が労働時間の短縮、賃金引下げ、時には賃金未払いといったオプショ
ンを同時に多様に組み合わせて対応しているからであるとの結論を発表した。雇用削減のオプ
ションのほかに、雇用を維持するための時短、賃下げ、未払いという複数のオプションを組み
合わせることで雇用調整を行う企業が 60%も存在するのである。このようなロシアの雇用調整
は、日本の「隠れ失業」の存在としてクローズアップされる日本政府の雇用調整助成金を原資
とした一時帰休等の雇用調整とは異なる。あくまでも時短、賃下げ、未払いの負担は労使双方
が負担する自発的な雇用調整であるところにロシアの特徴があり、1990 年代にも実施され、企
業にとっては久しく慣れ親しんだ雇用調整手段である。このような雇用調整方法が、大量失業
の発生を防ぎ、失業と雇用の長期的な並存状況を生み出しているのである。さらにはこのよう
な雇用調整の存在が、ロシア政府の雇用対策の効果を推し量ることを難しくさせているのであ
る。他方でこのような現象は、カペリュシニコフとギンペルソンの言葉を借りると「人々はひ
っそりと職を失い、総じて皆が以前より貧しくなっている」状況を作りだしている。この状況
は、ロシア全体の個人消費をさらに冷え込ませ、内需の回復をより難しくさせるであろう。
表 4 は 2007 年~2010 年までのロシアの住宅ローン融資残高の推移である。景気拡大と住宅
政策による住宅金融制度の普及も手伝いロシアの住宅ローン融資残高は 2008 年第 4 四半期を
ピークに拡大してきた。住宅金融制度の普及が住宅購入者の増大、ひいては住宅建設および販
売の増大に一役買ってきたが、2009 年に入ってその拡大の流れは急激に消滅した。表 4 の住
宅ローン融資高は 2009 年に入って急激に縮小している。さらに賃金未払いや失業、賃金低下
といった個人所得のマイナスの影響が、すでに融資を利用して住宅を購入した家計の返済計画
を狂わせ、住宅ローン返済が滞るリスクが生じ始めている。まだ GDP に占める住宅ローン融
資残高の割合は 2%前後であり、期限超過債務が増大したとはいえ 2%程度ではあるが、ロシ
アではこれまで住宅ローンという制度を利用した経験が少ないため、今後の住宅ローン需要の
冷え込みが懸念される。まだ住宅ローン金利も 13%前後と日本よりはるかに高く、返済が滞れ
ば担保として住居が清算されるという措置を初めて経験する人が多い。景気低迷によって住宅
を失うというある意味、市場経済の通常のルールにロシアの家計はこれから初めてさらされる
ことになるのである。このような未経験のリスクに対して現状のロシア家計が対応できるだけ
の力を持っているとは言い難い。
12
表 3 ロシアの住宅ローン融資残高
単位:100
万ドル
住宅ロー
ン融資額
(a)
融資残高
(期限経過
分も含む)
(b)
期限経過
不良債権
債務残高
比率(%)
(c)
(c/b)
2007‐Ⅰ
3012
11109
10.5
0.1
2007‐Ⅱ
7270
13931
14.2
0.1
2007‐Ⅲ
13452
18389
19.9
0.1
2007‐Ⅳ
21349
23604
33.4
0.1
2008‐Ⅰ
6423
28908
63.9
0.2
2008‐Ⅱ
14656
34380
103.5
0.3
2008‐Ⅲ
21182
36970
139.8
0.4
2008‐Ⅳ
22236
34617
208.9
0.6
2009‐Ⅰ
866
28688
283.5
1.0
2009‐Ⅱ
2030
30621
425.4
1.4
2009-III
3350
30710
552.9
1.8
2009-IV
5734
32548
695.5
2.1
2010-I
1795
32369
775.3
2.4
2010-II
4792
32661
824.1
2.5
2010-III
9885
34545
932.6
2.7
2010-IV
13540
35710
866.1
2.4
(出所)ロシア中央銀行年報各年版より筆者作成
これまでは旧国営住宅を無償で私有化することで住宅ストックは確保されていた。既存の居
住環境に忍従さえしていれば不況においても住宅を失わずに生活をなんとか維持することはで
きた。2008 年の危機においても賃金未払いや失業に陥ったとしても、住む家だけは確保されて
いることで生活がかろうじて維持されてきたのである。住宅ストックの存在と政府の資源エネ
ルギーの安価供給がロシアの社会安定の一つのよりどころであった。今後の更なる経済発展の
ためには、ロシア住宅、建設市場の発展は不可欠の分野であるが、その市場拡大を促進する政
策と同時に、金融危機といったマイナス成長の局面に入った際のリスクを受け止める力がまだ
弱いロシア家計やロシアの社会の基盤を強化する制度整備も行う必要がある。
2010 年から再び
景気が上向き始めたこれから、今度こそ住宅をはじめとする社会制度改革に本格的な成果をも
たらす必要がある。
13
参考文献
田畑伸一郎「第 3 章 ロシアの財政状況:安定化基金とその再編をめぐって」pp.35-50 参照。
『平成 19 年度財務省委託研究会ロシア問題研究会』財団法人国際金融情報センター、平成 20
年3月
金野雄五「最近のロシア経済情勢-金融危機下の生産急減をどう見るか?-」
『みずほ欧州インサ
イト』みずほ総合研究所、2009 年 10 月 5 日
総務省『世界の統計』2009
ロシア統計年鑑 Rosstat, Rossiskii Statisticheskii Ezhegodnik, 2009 and 2010
ロシア中央銀行 Bank of Russia, Bulletin of Banking Statistics, 2007- 2010.
Rosstat, Informatsiia o sotsial'no-ekonomicheskom polozhenii Rossii, Jan-Mar.2009 and
2011.
Rosstat, Kratokosrochnye ekonomicheskie pokazateli Rossiskoi Federatsii, 2009 Mar. and
2011 Mar.
ロシア統計局サイト(http://www.gks.ru/)
U.S. Energy Information Administration (EIA) (http://tonto.eia.doe.gov/)
"Russian Trading System (RTS)", Stock Exchange(http://www.rts.ru/)
Kapelyushnikov
and
Gimpelson,(2009),
Rostislav
Kapelyushnikov
and
Vladimir
Gimpelson, “Reaktsiya na krizis: Bezrabotitsa na budushee”, Vedomosti, 15 July 2009,
No.129 (2399) (http://www.vedomosti.ru)
道上真有(2008)
「沿海地方、ウラジオストク市の住宅市場」
『ロシアユーラシア経済』No.910, 18-33 ページ。
道上真有(2009)
「世界金融危機とロシア経済(1)雇用への影響」
(財)日本国際問題研究所コラム 2009 年 8 月 4 日
(http://www.jiia.or.jp/column/200908/04-Michigami_Mayu.html)
道上真有(2009)
「世界金融危機とロシア経済(2)住宅市場への影響」
(財)日本国際問題研究所コラム 2009 年 11 月 2 日
(http://www.jiia.or.jp/column/200911/02-Michigami_Mayu.html)
M. Michigami (2011), Comparison of Affordability of Russian and Japanese Housing
Markets, Far Eastern Studies (Center for Far Eastern Studies, University of Toyama),
Vol.10, March 2011., pp.25-56
14