盲学校における図形指導の基礎 高村 明良 1. はじめに ベルナール

盲学校における図形指導の基礎
高村
明良
1. は じ め に
ベ ル ナ ー ル・モ ラ ン 氏 は 、フ ラ ン ス 人 で 全 く 視 力 の な い 数 学 者 で す 。彼 は 、
幾何学を専攻して、その分野で大きな業績を残しました。20年ほど前、彼
が 日 本 に 来 た 時 、私 も 数 度 会 っ た こ と が あ り ま す 。彼 は 、見 え る 人 の た め に 、
針金を丸めて作ったような弾力性のある奇妙なものを持ち歩いていて、講義
ではその形を思うように変形させて見せていました。講義の後、彼は私に、
「私が問題を解決できたのは、穴の開いていない球面を外側と内側から同時
に触ることができたからだ」と話してくれました。もちろん、これは頭の中
の話ですが、触れることで物の形を理解している彼にとっては、当たり前の
ことなのです。
盲学校における算数・数学の図形分野の指導では、いろいろな図形を触察
して、その図形のイメージを頭の中に作っていきます。さらに、そのイメー
ジを頭の中で回転したり、それらを言葉によって表現したりという力を身に
付けることで、より進んだ算数・数学の内容を理解することに役立てていま
す。今回は、この基本となる触察の意味について確認し、私たちが算数・数
学、特に図形の触察を必要とする分野を指導する時に基礎となる留意点を整
理しておきたいと思います。
2.触察とは
これまで触察という言葉を何の定義もしないまま使ってきました。「触っ
て観察すること」とか「触って形などを理解すること」と単純に捉えている
人も多いと思います。ここでは、これからの話を分かりやすくするために触
察という言葉の意味を確認することから始めましょう。
広辞苑第五版の見出し語の中には残念ながら「触察」という語はありませ
ん。この点から考えると、触察も触読と同じように視覚障害教育の研究の中
で使われるようになった造語ではないかと思います。触察に近い言葉として
触覚という言葉がありますが、この二つの言葉の違いをはっきりさせるため
に 広 辞 苑 で「 触 覚 」と い う 語 を 引 い て み る と 、「 物 に 触 れ た 時 に 起 こ る 感 覚 。
皮膚の触点および各種の受容器により感受される。触覚を用いて積極的に物
を認識しようとする行為を能動的触覚という」と載っています。ここでいわ
れている「物に触れた時に起こる感覚」とは一体どのような感覚なのでしょ
うか。ちょっと試してみてください。右手の人差し指を出して、あなたが今
読んでいるブックレットのこのページの上に指先を軽く当ててみてくださ
い。次に同じようにその指先をこのブックレットの表紙の上に当ててみてく
ださい。指先に起こった感覚からあなたは何を感じたでしょう。今読んでい
るページの紙の表面より表紙の表面の方がつるつるしていると感じられたは
ずです。もう少し続けましょう。同じように、人差し指の先を自分の額の真
ん中にそっと当ててみてください。次にその指先を鼻の上に移してみてくだ
さい。最後に指先を右頬に当ててみてください。人差し指の先に起こった感
覚の違いから、今度は何を感じることができたでしょうか。ブックレットに
触れた時とはちょっと違うことに気付かれたと思います。額の真ん中の方が
鼻の上よりも温度が高い、鼻の上よりも頬の方が柔らかい、この他のことに
気付かれた人もいると思います。今のことからも分かるように指先で物に触
れた時に起こった感覚だけでは、つるつるしている・ざらざらしている、熱
い・冷たい、硬い・柔らかいなど触れたものの表面の状態しか知ることがで
きません。
ところで、子どもたちに点図や立体模型を触らせる時、何を理解させよう
としているでしょうか。大抵の場合、眼で見た時に一瞬にして感じ取ること
ができる物の形であるはずです。しかし、本来、指先に備わっている触覚に
は、物の形を感じ取る感覚はありません。それでも私たちは、触ることで物
の形を理解しています。そして、子どもたちにもその力があることを信じて
います。
それでは、私たちは指先を通して得られる情報からどのようにして物の形
を認識しているのでしょうか。両手の中に入る程度の大きさの立方体を手に
持っていることを想像してみてください。右手の手の平を上に向けて、そこ
にそれを乗せているだけではどんな形をしている物か知ることはできませ
ん 。親 指 と 人 差 し 指 の 2 本 の 指 先 で つ ま む よ う に 持 っ て い て も 同 じ こ と で す 。
両 手 の 10 本 の 指 と 手 の 平 を 使 っ て 持 っ た と き 初 め て 、立 方 体 に 近 い 形 と し て
捉えることができます。それでも立方体の全体に触れているわけではありま
せ ん 。こ れ は 、10 本 の 指 先 や 手 の 平 か ら 感 じ ら れ る 立 体 の 表 面 の 状 態 の 違 い
と 10 本 の 指 先 の 位 置 関 係 な ど を 頭 の 中 で 総 合 し て 、一 つ の 形 と し て 認 識 し て
いると考えられます。さらに、各面の形をより正確に知るためには、その辺
に沿って指先を動かさなければなりません。指を動かすことで指先に起こっ
た感覚の変化を感じ取って、その変化によって次に指先を動かしていく方向
を決めています。そして、動かした指先の軌跡を記憶することができて初め
て、面の形を理解することができます。また、その面の形が正方形であるか
どうかを確かめるためには、2 本の指を頂点から頂点までの間隔に開いて、
その状態を保ったまま指を動かすなど、指を上手に使って二つの辺の長さを
比べなければなりません。
こ の よ う に 考 え て み る と 、私 た ち が 物 に 触 っ て そ の 形 を 理 解 す る 過 程 で は 、
主に触覚を頼りに手や指先を動かして、手や指先の位置関係や動きなどを総
合的に組み合わせていると言えます。そして、このような過程を含んだ触り
方を触察と呼んでいます。もう少し正確に言うと、触察とは「手や指先から
得られる情報を基に手や指先を動かしながら、手や指先の位置関係や軌跡な
どを総合的に組み合わせて物を理解しようとする触り方」ということになる
でしょう。
3.意識的に育てなければ発達しない触察の力
視覚を通して立体図形を認識する時には、網膜に映る立体の平面的な像か
ら視覚的経験を基に立体と認識しています。立体図形の奥行きや実際には見
えていない後ろの部分は、視覚的経験と想像力によって補われています。特
に見え方から奥行きを復元する力は、主に日常生活での視覚的経験から自然
に身に付いていく力の一つです。眼に入る物に手を伸ばして触れてみること
を通して、見えている物の実際の形や自分と物との距離を学習していくと考
えられます。子どもが両親と一緒に離れたところにある物を見て、それにつ
いて話し合っている光景も珍しいことではありません。大人と同じ物を同時
に見てそれについて話し合うことで、子どもは眼に入っていても意識するこ
とができなかった部分を意識できるようになっていきます。
これに対して、触察を通して物の形を理解する力は、視覚を中心としてい
る日常生活の中では意識的に育てなければ発達しません。視覚に障害がある
と、自分の前に何かが有るということを知ることが困難です。手を出す時の
最初の目的は、届く範囲に何かが有るか無いかの確認です。これは視覚に障
害のない子どもたちが物に向かって手を伸ばす目的とは全く違っています。
ま た 、親 子 で 同 じ 物 に 触 れ る 機 会 は ほ と ん ど な い と 言 っ て も よ い く ら い で す 。
日 常 生 活 の 中 で 、一 緒 に り ん ご に 触 り な が ら「 こ れ は 、つ る つ る し て い る ね 」
とか、それぞれが両手でボールを持って「これは、丸いね」というような会
話が自然に生まれる環境はほとんどありません。こんな状況では、触察の力
どころかそれを支える触覚という感覚も意識的に育てなければ発達しないと
感じられます。
こうしてみると、視覚に障害のある子どもたちの触察の力を育てるために
は、小学校入学以前から配慮しなければいけないことがたくさんあります。
ここでは、それらは専門の先生にお願いすることにして、私たちが算数・数
学の授業の中で、特に触察の力を必要とする図形の分野を指導する時に配慮
しなければいけない点をまとめておきます。
4.触察の力を育てるためには
私たちが授業の中でいつも意識していなければいけないことの一つは、対
象としている児童生徒は、触察の力をまだ完全に獲得していないということ
です。つまり、児童生徒の触察の力は発達段階にあるため、算数・数学の内
容を教えるための教材・教具を児童生徒の触察の力に合わせて選び、算数・
数学の内容を教えると同時に触察の方法も教え、触察の力を育てていく必要
があるのです。
これを実現するために、六つの観点をあげておきましょう。
①手の特性を考慮する
立体を手の中に入れて触察する時には、立体の表面の状態を最も敏感に感
じる両手の人差し指の腹の部分は、外側から内側に向いています。これは、
立体を眼で見た時に見える部分と、手で触れた時に最もよく認識できる部分
が全く異なっているということです。また、点図を触察する時にも同じよう
な こ と が 言 え ま す 。10 本 の 指 を 机 の 上 に 置 か れ た 紙 の 上 に 置 い て 、指 を 動 か
しながら点図を読み取っていく状態を想像してみてください。いすに座って
机に向かった姿勢では、両方の手の平は机の面に向いています。これは、と
ても自然な状態です。立った姿勢ではどうでしょう。やはり机の上に置かれ
た点図のほうが壁に貼られた点図よりも読み取りやすいはずです。壁に貼ら
れた点図を手の平を正面に向けてやや不自然な状態で触察するときには、手
首 に 余 計 な 力 が か か っ て し ま い 、手 を 動 か し に く く な る こ と が あ る か ら で す 。
これも眼で見やすい状態から少しずれています。
②大きさや材質に配慮する
点図や立体図形の大きさは、両手の中に入る大きさが望ましい、とよく言
わ れ ま す 。両 手 を 使 っ て 、そ の 全 体 像 を 捉 え や す い と い う の が そ の 理 由 で す 。
でも、多くの人が見逃しがちなことは、誰の手の大きさかという点です。言
うまでもなく、児童生徒の手の大きさで、成長とともに変化していきます。
また、算数・数学の授業の中では、学習の内容と児童生徒の発達段階に合わ
せて決めることが重要です。この時に忘れてはいけないことは、触る図形の
大きさがある程度を超えると、触察ではその全体像を捉えることが非常に難
し く な る と い う こ と で す 。見 え な い か ら 何 で も 体 験 す る こ と が 大 切 と 考 え て 、
一 辺 の 長 さ が 1 m の 立 方 体 に 触 ら せ た り 、一 辺 が 10m の 正 方 形 の 周 囲 を 歩 か
せたりするだけでは不十分です。触察を通して、頭の中に大きな立方体や正
方形の全体の形をイメージすることができて初めて、このようなことが意味
を持つようになります。そのためには、触察を通して全体の形を確認できる
ものを一緒に使うことが大切です。
材質も重要な要素の一つです。立体図形の学習では、紙の箱、積み木、加
工しやすい発泡スチロール製のものなど、学習内容によっても選択肢はたく
さんあります。また、触った時の感じ方から、表面の手触りや重さや硬さの
違 い な ど 、こ ち ら も た く さ ん 選 択 肢 が あ り ま す 。算 数 の 学 習 だ け を 考 え る と 、
紙の箱、積み木、それ以外の物のどれを用いても大抵は目的を達成できるは
ずです。しかし、触察の力を育てる視点を加えてみると、積み木のようにし
っかりした物だけでなく、強く触ると形が変形してしまうスポンジのような
材 質 で で き た 立 体 を 触 察 で き る 力 を 育 て る こ と も 大 切 で す 。算 数 の 学 習 で は 、
最も分かりやすい大きさや材質の物を使うことが必要ですが、復習や応用の
時にはいろいろな大きさや材質の物を利用して、触察の力を育てることも必
要です。
③立体の形や点図の線種などに配慮する
学習する内容が似たようなことであっても、その時までに児童生徒が触察
を通して作り上げたイメージの違いによって、立体の大きさや材質に加えて
その形にも注意が必要です。例えば、立方体の形について初めて学習する時
には、各面が平らで、各辺が鋭く、各頂点が尖っているものを選ぶことが大
切です。危ないからと言って、辺や頂点の一部を削って丸くしたものはあま
り よ い も の と は 言 え ま せ ん 。辺 に 沿 っ て 頂 点 か ら 頂 点 ま で 指 先 を 動 か し た り 、
頂点のところに集まる辺の状態を観察したりして立方体全体の形を頭の中に
作り上げていく時に、面と面の境目がはっきり触察できること、辺と辺のつ
ながりがはっきり触察できることなどは、正確なイメージを作り上げていく
過程でとても重要な要素になるのです。しかし、一度正確なイメージが作ら
れてしまうと、それほど正確なものを使わなくても学習を進めることが可能
になります。中学一年生で立方体を扱う時には、市販のブロックなどで作っ
た辺や頂点がやや曖昧なものを使っても学習内容を正確に理解することがで
きるようになります。
④手や指の動かし方に気を付ける
視覚に障害のある児童生徒の場合、立体図形を渡されて「よく触って」と
言われても、それをどのように触るのがよいのか分かるはずがありません。
先生や隣の人の触り方を真似ることもできませんし、日常生活の中でどんな
ふうに手や指先を使って触ると分かりやすいか話し合う機会もありません。
もちろん、自分の力で分かりやすい触り方を見つけていける児童生徒もたく
さんいますが、それができない児童生徒も少なくないはずです。触察の力に
は 、10 本 の 指 の 使 い 方 で 大 き な 差 が で き ま す 。こ の 指 の 使 い 方 を 見 て 真 似 る
ことができない児童生徒にとって、先生の役割が非常に重要なものになりま
す。
⑤時間のかけ方に配慮する
触察を通して物の形を理解する過程で、なくてはならない力に記憶力があ
ります。指先から得られる情報を頼りに指先を動かしても、その軌跡を記憶
することができなければその形を理解することもできません。たとえ、わず
か 30cm 程 度 の 線 分 で あ っ て も 、人 差 し 指 を 線 に 沿 っ て 左 か ら 右 へ 、右 か ら 左
へと動かした軌跡を全く記憶できなければ線分と認識することは不可能で
す。個人差はありますが、この記憶力は、ある程度まで育てることのできる
力です。そのためには、指先を動かす速さや触察している図形の複雑さによ
って、触察にかける時間を変えるなどの配慮が必要です。一方、この記憶力
には限界もあります。リアス式海岸のように複雑な曲線は、普通の記憶力で
は何度指先でたどっても正確に記憶することは不可能です。
⑥言葉を添えて触察させる
視 覚 に 障 害 の あ る 児 童 生 徒 は 、人 の 触 り 方 を 見 て 真 似 る こ と が で き ま せ ん 。
そのため触察の初期指導の段階では、手に手を重ねて一緒に触ったりするこ
とで手や指先の動きを教えていくことになります。しかし、いつまでもこの
ような方法では触察の力は育ちません。できるだけ早い段階で、手をとって
教えることは補助的なこととして使い、言葉による説明を聞いただけで手や
指先の動かし方を理解できるようにすることが大切です。そのためには、触
察の初期段階の指導から手や指先の動きと言葉による説明を対応させていく
ことが重要です。そうすることを繰り返すことによって、言葉による説明を
聞くだけで触察の方法を理解できるようになるだけでなく、友達同士で触り
方について話し合えるようになってきます。さらにこれは、触察している図
形の特徴を言葉で説明する力へとつながっていきます。
5.終わりに
触察の力は、手や指先からの情報を基に手や指先を動かす力だけではあり
ません。算数や理科で学習する長さ、広さ、大きさ、温度、重さなどの概念
の獲得と共に広がっていきます。さらに、算数・数学で学習する図形の性質
の知識や基本図形のイメージは、複雑な図形を触察するベースとなります。
このようにみると、私たちが算数・数学の学習の中で育てようとしている触
察の力は、より複雑なものを理解するための基本の力となることは間違いあ
りません。