(平成 24 年 11 月) ふるさとへの想い 校長 神戸秀巳 昨年 9 月に「地域に愛される学校でありたい」という記事を書きました。その中で私が 住んでいる場所について触れています。 神奈川県西部の小田原から大雄山線に乗り、1駅先は南足柄市(金太郎のふるさと)の 地に住んでいる私にとり、初めての勤務地である茅ケ崎は、「湘南」「サザン」など憧れと 期待を抱かせてくれる街です。 現在住んでいる場所は私が生まれた土地です。今は亡き父と母から、昔の小さな家にお 産婆さんに来てもらったときの様子を何回か聞いた記憶があります。それから増改築を繰 り返し、今の家に建て替えてからすでに 25 年が経過しています。 大学には家から通うつもりでしたが、外的要因によるトラブルが続けて起こり、東京都 中野区、豊島区と予定外の一人暮らしを経験しました。台所に立ったことがない高校まで の状況から大きな不安を抱きながら送り出してくれた両親ですが、大学 1 年生の夏休みに 家に戻り、リンゴをむいて出したときの両親の喜びを含んだ驚きの顔を今でもはっきりと 覚えています。 職に就いてからも一時期厚木市に住み、その後結婚を機に 8 年間秦野市に住んだ後に、 小田原の家に戻りました。様々な見聞や経験により、地元小田原の良さを再発見するとと もに、小田原が抱える課題が以前よりもはっきりと見えるようになりました。 現在勤務する高校が立地する市への貢献と同様に、ふるさとであり現在もこれからも住 むであろう小田原に、様々な形で今後もお役に立ちたいと切望しています。財産である「人 的ネットワーク」も活用していきたいと思います。 実は、小田原市が発行する「広報小田原」10 月 1 日号の「駅のある風景」に、私が毎日 利用している大雄山線の飯田岡駅が載りました。 タイトルには「ほのぼの歩く」が前についています。 そこに紹介されている場所については、地元ですので、 当然「知っている!」となります。 加えて、磯田和一さんの絵がなんとも郷愁をそそりま す。 この写真と絵、それと記事を読んだ時、昨年 11 月に小 田原で開催された「おだわら環境志民フォーラム」のこ とを思い出しました。志ある皆さんが力を合わせて一生 懸命に環境を守ろうとしている姿に心を打たれました。 <参考>「おだわら環境志民フォーラム」に参加して (「校長室」に掲載) ◆「広報小田原」の平成 24 年 10 月 1 日号(該当の記事は最終頁です)は次から見ることが できます。ご覧いただく場合にはこちらをご利用ください。[小田原市広報広聴課] http://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/odawaraArch/11069/pdf/20121001092354.pdf 先日、私も携帯で飯田岡駅付近を撮影しました。昔あちこちにあった田や畑はだいぶ面 積が減りましたが、まだ残っています。西の遠方には箱根の山々が見え、その右手に目を 転じると、日本一の秀峰富士山が見えます。さらに特徴的な姿の金時山があります。北の 方角には丹沢の山々が連なり、冬の澄んだ空気では迫って見えます。そして、ここから南 に5kmほど進むと、小田原の海に到達し、そこからは早川漁港が見えます。飯田岡周辺 は「富水地区」と呼ばれ、水が豊富なところです。ポンプでくみ上げてはいますが、私の 家でも井戸水が湧いています。 【大雄山線飯田岡駅】(小田原駅より 5 駅、所要時間 10 分) 大雄山線は単線で、特別の時間帯を除いて 1 時間に 5 本運行しています。次の相模沼田 駅より南足柄市となります。始発の小田原駅から終点の大雄山駅までは所要時間 21 分。 大雄山行きの電車が飯田岡駅に到着直前 飯田岡橋より西を望む(この川は狩川) 通勤時(6 時 5 分)に南を望む、この先は海 好運なら、鯉を約 20 匹見つけることも可 飯田岡橋より北(大雄山方面)を望む 左奥に見えるのが金時山、前方が丹沢の山々 手前中央と中ほどの小さな多数の点は鳥 飯田岡橋より東を望む 右手は富水小学校 校舎には標語が 「あいさつはなかよくなれるおまじない」 しかし、その一方、同じ日本国内で、 ふるさとが大変な状況に陥り、 苦しんでいる人たちが数多くいます ◆三つの例を紹介します 福島県の友人より届いたメッセージ 今後の日本や古里を復興し、新たな社 会のシステムを構築してくれる人材を 育てることがわたしたちの使命である。 本校の精神「清らかであれ勉励せよ世の ためたれ」の重要性がより明確になった。 また、放射線量が高い箇所もあるなかで、 生徒の安全を確保し健康上のリスクを 取り除くことが最優先されなければな らない。 「今」だから生徒はより自ら考えようと しているので、この機会を逃したくない。 自分が将来、どのような分野で自分の能 力を社会・古里のために役立てていくの かについて考える場を設定していきた い。 (平成23年8月) (平成 24 年 1 月) 被災地からの緊急アピール(抜粋) 宮城県気仙沼高校 佐藤忠司進路指導部長 この一年間、全国から被災地に色々なご支援、ありがとうございました。 現地は今、がれきの処理は終わっています。でも逆に言うとこの一年間でやっと第1ラ ウンドが終わった状況です。復旧は終わったのですが、復興の兆しは見えません。 忘れてならないのは、青森から茨城まで数百キロ、東京湾にも津波が1.2m押し寄せ たことです。 生徒も職員もとにかく頑張ってはいます。しかし燃え尽き症候群と言いますか、頑張っ ているんだけれども前に進めない人がいるのも事実です。第2ラウンドはずっと厳しく、 闘いは始まったばかりです。 探究する心と感じる心が大切だと思うなら、ぜひ被災地に来てください。被災当時のも のは確実に消えています。人の話を完全に共有することも厳しいでしょう。 ただ、いろんな形で人と人が寄り添うことができたら、もっともっと前に進むことがで きるのではと、考えています。 今、何が私たちにできるのだろうかと考えた時に、こういう場で話をすることで、何と か忘れられないようにしたい。風化することを何とか止めよう、それが私に託された使命 です。 (平成 24 年 8 月 京都大学「高校教諭のためのシンポジウム」) 岩手県立高田病院 石木幹人院長 陸前高田市内の様子 左端が高田病院 (平成 23 年 12 月) インタビュー(抜粋) 被災した県立高田高校 (平成 23 年 12 月) 左が校舎、右が流されて衝突した体育館 確かに、陸前高田市の場合は、津波で街のほとんどが流されてしまい、昨年の 3 月 11 日の午後、医療施設がほぼゼロになりました。この高田病院も津波で壊滅状態になりまし た。 ただ、幸運なことに、スタッフの多くが生き残りました。家を流されたりしていました が、変わり果てた街を見て、これはすぐに医療を再開しないと厳しいことになると皆が強 く思いました。 (中略) ここ被災地では、多くの人が被災前にやっていた仕事をどうすれば再開できるかを考え ることになりました。商売をやっていた人たちは店の再建を考え、農家の人は田に植える 稲のことを考え、養殖をしていた方はホタテのいかだをどうするかを考えたわけです。中 には、春が来たら海水を被った田に稲を植えた方や、震災直後にホタテの養殖いかだをす ぐに作り始める人たちもいました。私たちもその人たちと同じなんです。 (後略) (「学研・進学情報」平成 24 年 9 月号より)
© Copyright 2024 Paperzz