進行 I14:15-15:35 16:05-17:35 15:35-16:05A.At

賓客~庄司
完モ孝生陸男女寸言舌石汗多毛壬言言己盆景
J
. ハイジク先生│所属・役職
会場
I 中央学術研究所講義室
進行
I14:15-15:35講義
│南山大学教授・南山宗教文化研究所所長
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5質疑応答&自由討論
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5A
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A
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,泊 Y
河野真久
1.講義内容
【l】対話を定義するために
今まで、儒教,道教,仏教等の専門家と研究を続けてきたが、それが宗教的対話といえ
るかどうか、あるいは宗教対話とは何かを考える時聞はなかった.そのためにその定義や
対話論は西洋の学者に任せきりであり、我々は軽視してきたものと言える.アイルランド
の諺に「できる人はやる、できない人を教える Jというものなどあるか? 我々はやはり
時聞がなく分析ができなかった.しかし、対話を考えてみると 10年のものとはかなり異
なり、周辺的,異境的な営みではなく、段々カトリックの中心的関心になりつつあるの
で、もう少し積極的に考察してみるととにしたい.
【2】 「対話j か ? r
布教jか ?
『新訳聖書』を見ると、イエスの最初の命令は、海で網を投げている漁師に、 「私に付
いて来い!私が人聞を釣れる・漁師にして上げよう o Jと告げた言葉であるととに気付く.
ζれは同時にイエスの最初の宣教の言葉である.また、最後の命令は、界天の直前に弟子
たちに告げた「あなたたちは全ての民を私の弟子にしなさい o Jという言葉である.
だから、宣教活動こそ、我々キリスト教の根本である.それがなげれば、キリスト教は
考えられない.ただし、対話は、全ての教祖、全ての宗派を越えた真理を探し求め、そ d
ア
真理に付いて来なさい、あるいは全世界のあらゆる国々の宗教に学びなさいという布教と
J
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正反対の命令に近いようなととになる.現在のカトリック教会の中で、二つの大きな潮流
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)というキリスト教文化を
がある.一つはキリスト教の脱ギリシア化 (
ヨーロッパ文化から開放して、全世界の文化に土着させるという強い運動である.もう一
つは、キリスト教の絶対的な立場合再考する、つまり我々の真理は相対的ではないという
神学的な運動である.これはまだ、一般の信者には浸透していないが、対話との関わりは
非常に深いものと言えよう . ζ の立場から、私は「布教Jか「対話Jかという問題を取り
扱いたいと,思う.特に、ことでは三つの焦点を選ぶことにしたい.
①「布教」と「対話Jのどちらを優先するか? (パティカンの中心課題]
※「布教Jを優先にすれば、 「対話Jはただの作戦にすぎない.まず話し合い、友達
になって皆さんを改宗させるというケース.
※「対話」が中心になれば、それは布教を止めることになるのか?布教を止めたら、
対話に参加しない宗教が強まり、参加する我々の宗教が弱まる.
②カトリックと対話したいとき、本当のカトリックであるという基準は?
※歴史的にはヴァリヤーノらの寛大な宣教師がおり‘またザピエルのような反対の位
置に立つものもいた.仏教は神の啓示である、あるいは悪魔の宗教であるというケー
ス.
※アンゼルムスが回教に非常に寛容な立場をとったのに対し、アベナートクラヴォー
が十字軍を説教したという歴史がある . ζ の場合どちらがカトリックと言えるのか?
館?益還鉱量性銭認論告す害警警官務当i
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簡易主竺誇結路
院に入って修練を勤め、また逆にヨーロッパの修道僧やシスターが日本の寺院にて勤
行するというコースがある.仏教側が参加したいとき、どのようにカトリックと判断
できますか、本当のカトリックの代表者はどとにいるのか?
③「対話Jにより真理が二次的なものになるのではないか?
※各宗における真理の位置は部分的なものなのか、すなわち相対的なものなのか、そ
して哲学あるいは神学的方法論を全く理解できない一般信者にどう説明すればよい
か?それは絶対の真理を求めている信者であるから、真理はどうなっているのか、結
局対話が一種の争いで終わりか、真理は一つなのかという問題.
[3] r
布教Jと「対話Jのどちらを優先するか?
ζ の問題については組織宗教を中心に考えてみたい.つまり、神学として、あるいは哲
学、思想として制度化された宗教を中心に考えてみると、宗教には伝統や物、建物と
いった経済的組織がある.キリスト教には制度として三つの機能を果たさなければならな
いものがある.次にそれを挙げてみたい.
①自己理解・・・自分のアイデンティティは自分でしなければならないというもの。こ
れがないと、カトリックで言うならば、外の組織にそれぞれのカトリックの理解があ
っても、理念を忘れるとか、他の理解に吸収される.例えば、自分はキリスト教の貧
di
しい人々への選択という根本的な理解を忘れるときは、組織としてのキリスト教が経
済的な理解に吸収される、あるいは政治的な理解に暁収されるような場合がある.対
話に入るときはとの自己理解を確認してからでないとならない.
1
0
年前にイスラム教の人々とした対話の中で、 「あなたたちは、宣教という戦争で
我々に負けているので、そのために対話をし始めたのです.そして対話はあなたたち
の作ったルールで行われるのです.私達の自己理解は遣います o Jという文句があっ
たが、つまり、我々はキリスト教に改宗するのでなくて、対話に改心させよう、そし
て対話は西洋的なものであることから、我々の方が勝つのは偏見から生まれたものと
言われたわけである.
②自己普及・・・組織として伝統的な宗教は、自己を普及させなければ、成長できな
い.その意味でいえば、布教と対話のどちらが優先かを議論するのは無意味で、対話
を通して布教するという考え方もある.もっと原始的宗教との対話を活発にしなけれ
ばならない.
③自己保存・・・とれは、地域・言語・文化を超えた共生的な保存をいう.例えば、カ
トリックをカトリックとして保存するのではなく、相利共生の組織としてカトリック
構成しなければならないのである.それは、その文化だけでなく、文化の中にある様
々な宗教との共生を考えることである.物理学者であるルイス=トムスは、 『細胞の
一つの細胞がもう一つの細胞に殺されるとき
生命』の中で、次の例を挙げている o r
は、前者を健全な細胞といい、後者を毒というととがある.ただし、とれを客観的に
見れば、一つの構造を持った細胞が、別の構造を持つ細胞に出会ったとき、その細胞
が自分のととを飽くまでも変わらないように保てば、自殺するのである.毒によって
殺されるのではなく、自殺となるのである o Jもし、細胞が我々人間と同じように、
智恵をもっていれば、共生し、再び解放する.しかし、細胞も人間も実際にはこの智
恵が使えない.だから、共生しないで自分の ζ とだけを保存するために対話しないと
とは、自殺しつつあるというととが出来る.
次に、今のような社会の中で、どのように保存するかといえば、積極的にシンクレ
テイズムを促進する必要があると考えている.全ての宗教は、シンクルテイズムとい
う仲立ちで誕生しその状態のまま共生したものである.だから、保存を進めていく上
では、シンクレテイズムを意識的に保持するととが重要である.シンクレテイズムは
混合主義と訳されるが、とれは折衷主義とは異なる.いろいろな宗教から好きなもの
だけを取り込み、自分なりの宗教を作るのが折衷主義である.これとは異なり、いろ
いろな宗教から学び‘相利共生を図るものである.
【4]カトリックと対話したいとき、本当のカトリックであるという基準は?
20年前の第二パティカン公会議では、ニつの大きなポイントが取り上げられ、承認さ
れた.まず第ーには、キリスト教は普通の救いの道ではなく、委譲の道である.かつては!
キリスト教以外には救いがないとされた.しかし、普通の人は、キリスト教以外で救われト
ている.とれは、キリスト教から見れば、画期的であった.また、第こには、他の宗教
は神の啓示が含まれているとされた.これも史上初めてパティカンで認められたことで
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った.
しかし、現在のパティカンの立場からは、 ζ れに反対をし、他の宗教は、自然の光
(
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)と啓示の光 (
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)というスコラの考え方を確認した.中世の
哲学は、前者の範晴のもので、哲学は神学の蝉であった.現教皇も同様の考え方で、梯教
や儒教、道教を尊重して褒め称えているが、それは自然の光として、そしてキリスト教に
入れば救われる、補う合うとしている.かなり、第二パティカン公会議とは遣うものであ
る.どちらが本当のものか、いろいろな例はあるが、問題の所在は、教皇はじめ教皇
・一般の牧師や信者・修道士もいずれもカトリックの代表者ではない ζ とにある.カト
リックあるいは教会というものは、密網として考えてもいいと思います.
まず、教皇・司教団・普通の教育者という聖職位階がある.洗礼を受けた彼らは教会の
内外で、常に教会の代表である.
以上二つのポイント以外に考えられるのが、両者の中聞に位置する別の考え方を述べて
みたい.修道会は、別の宗教ではないが、我々のプロテスタントの原理である.プロテス
タント教会には、大きな囲み絵があると聞かされたり、あるいは根本的な相違点が問題に
I
Jな組織を作って、別称を付けで新教会を創設する.カトリックは、むしろ根
なったら、)3
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Jえば、 1
9世紀半
本的な争いがあれば、新しい修道会を作る可能性があるのです .
ば、ヨーロッパはヨーロッパ中心的になってしまって、アメリカ以外の国々については
っかり無視をしてきた.とれは、キリスト教徒がいないこと、文化はないと見ていた ζ
が主な理由である.そのとき、ドイツで新しい修道会が創立されて、中国宣教を進めた
とがある.だから、キリスト教は周辺的な営みをしている修道会が、プロテスタントし
ら新しい組織を作るのである.そしてその組織は、司教団として教皇軍属となってい
.現在の修道会の数は、 1
9
4
5
年のものと比べるとその七割が消撮した.
とのように、修道会は発生と消滅を操り返す重要な性格を有している.また、聖職伽皆
は、学者レベルの者がいる.どちらの職業を優先するのかといえば、どちらも優先しな
のである.さらに、教える権利については教皇にもないのである.だから、カト
ックには対話が必要になてくる.そして、だれもカトリックを代表するととはできない
とであり、飽くまでもカトリックの一部にすぎないのである.教室も例外ではない.
ことから、第二パティカシ公会議の内容を見ると、一般の信者を中心にした考え
したものであることが分かる.破門という措置もあるが、滅多にないととで、異教
しでも時間的には寛大であるというとともできる.
あるのは、組織において何か一つの現想が制度化されると、その車想を満た
らである.しかし、時聞が経過すると非常に危険を伴うことがある.その制度が正反
目的を進めることがあるからである.例えば、教育である.教育の一般化は、産業革
おけるペルトコンベア一方式によって進められた.しかし、 20年前アメリ
おいて教育制度について議論されたととがあるが、教育は一つの域を越えて教育制度
ものが教育レベルを低くしているととが分かった.日本の試験教育制度も、内容を低
ているといえる.
自分の国の文化の理解度は、 30年前の教育とは比較の対象にならない. ~式験に
、それで終わりであるとする風潮がそうである.病院も同様で一つの域を越え
、病院で病気を惹起させる.この壊が重要であり、カトリ vクは対話をしなければ、
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ー 一………向、ヤ
カトリックの教えとは正反対の教えを広めていく危険性も有しているのである.
【5] 「対話Jにより真理が二次的なものになるのではないか?
死後における人間の個性の存否、唯一神と多神崇拝、あるいは無神という相違あるいは
世界は神による被造物という考え方と全ては空であるという考え方等、宗教聞における様
様な矛盾がある.論理上、正否は決定できない.そこで、このような問題に対する 4つの
態度と 4つのモデルを紹介したい.諸宗教における真理を問題とする際、 P
.ニッターと J
.
ヒックが次のような態度に分類している.
①排他主義 (
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l凶 ionisml・・・・自分たちだけに真理はあり、他と矛盾が生じれ
ば、他者に誤りを見出す.ただし、信仰的な勇気
という点では意味あるものといえよう.また、自
己批判のレベルが低いため、欺輔に陥る可能性が
強いととも否めない.
(例}従来のカトリック,イスラム教の正統主義運動 (
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)
②包括主義・・・・・・・・・・・全ての宗教を認める考え方. 1983年の総合研
究開発機構基金で南アメリカにおける日本文化の
普及を研究した際に、ブラジルの新宗教の人々の
調査を行った.生長の家, PL教団等々、カト
リックの神父やシスターの信者の存在を宣伝する
傾向が強い.これは、宗教における自己理解を二
次的なもの、また不要なものとし、社会的な問題
や相互の共通点だけに働きかけ、伝統を弱めてい
く.
(例)南北戦争後のアメリカ,戦後日本の新宗教
③平行主義(多元主義) ・・・・・全ての宗教は平行状態に存在するという考え方.
平和保持の状態であれば、相互の共通は問題では
ない.多元性を容認し全ての宗教の生存を維持す
る.宗教間対話は実現しない.
(例)米国大統領選挙の公約
④相入主義{廻互的相入主義) ・・意識的に相利共生を目指す考え方.
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ーパ J
司遁週掴
次に、以上の態度から考えられるモデルを紹介しよう.
①登山型理解・・・真理を山頂に見立て、各宗教はそれぞれの道に書えられるよう
(ラーナ説)
に、真理は相対的な方法によって到達する。
②虹型理解・・・・全ての宗教は一つの虹であるという見方,一つのプリズムを通し
(スミス説)
て、自に見えない光を表しているように、各宗教における共通し
た人間性がプリズムであり、光が真理を指す.すなわち、対話を
通しての人間性の尊重を重視する.
③万華鏡型理解・・全ての宗教には独自性がある.真理は一つでも、各宗教を解剖す
(ハイジク説)
ると、万華鏡の知くパターンは全て異なって見える.すなわち、
哲学的レベルでの宗教間対話が安全で優れている.
④言語型理解・・・各宗教は、真理に対してその一部しか知らない・あるいは部分的
(パニカル説) にしか捉えていない.すなわち、宗教は一つの言語として存在
し、言語は人々の生活と文化の産物である.対話もとの観点よ
り、二か国語を学ぶのと同様な態度で臨むべきである.そして、
他の宗教は飽くまでも外国語であり、母国語にはなりえない.
対話を通して共通の言葉はあるのか、つまり、諸宗教のためのエスペラント寧は必要か
と考えると、それは言葉にはならなくなり、とれを目的にするものではない.
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"編集者レニツァ・ルッファー
【6】二つの宗教における真理の矛盾はどう解決するか?
死後における人閣の個性の存否、唯一神と多神崇拝、あるいは無神という相違など考え
られる宗教聞の矛盾は、言語型対話で見る場合、コンビューターと同様にイエス・ノーの
一通りしか考えられないが、実際にはコンビューターは第三の答えを持っている・それは
電気を切る状態であり、関係ないと見る見方である・道元の言葉を用いれば、とれは不A ・
理と言い換えることができょう・合理的に物事を考えていく場合と、その限界を越えて非
合理に考えていかなくてならない場合がある.すなわち、先述した死後の問題については
我々は何も決定するととはできない性質を有しているため、後者に属する問題である・
例えば、キリスト教では、 「神は愛である J と教えるため、との信仰から道徳は生まれ
てくるが、神は存在しないとする宗教においては、自我を捨てるなどの意味において道徳
を持つ場合がある・どちらの行為も、結果的に幸福に至るものである場合、どちらも超越
的な真理に通じるものと考えられる・すなわち、超越的な真理をどう判断していけばよい
のかという問題は、結果を見ていけばよい.その意味において、対話は全ての宗教にとっ
て重要であり、抽象的・論理的効用を意味するのでなく、実践的・人間的営みとして意味
あるものと考えられる占山折哲雄氏との女神論対話の際に、間もなく迎える還暦以後の目
、標を尋ねたととろ、四国八十八か所巡礼の計画について語られた・その理由は、今までは
純粋な学者として存在していたが、今後は自分の信仰を深めながら歳をとりたいというこ
とである.私自身、カトリックの信者として、自己理解・自己普及・自己保存を通して、
自分の責任において対話の形で、反省してみたいと思う・そうでないと対話論・対話のル
ールのレベルに留まってしまうのである.
以上
2
.パズ・セッションのグループ報告
lG
Q1,二つの立場が矛盾するときには、それについては論争をしないというととである・
とれは釈尊の非論争の立場と酷似しており、非常に仏教的な立場であると思われる . ζ れ
キリスト教の立場と先生の中でどう関連付けされているのか? 本来キリスト教は啓示
v
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の光を重視するのであり、その意味ではイエスかノーかで答えるべきものであると理解し
ていた.従来のカトリックへの批判を聞かせてもらいたい.
Q2. 道徳的善し悪しによる行為の判断によって、超越的善し悪しの判断がなされるとい
うととは、キリスト教的な倫理と超越的な神という存在と見るととが可能だが、仏教で
は、さほどストレートに示されていない.その点について聞きたい.
Q3. 対話を通して、個人の信仰を深めていく必要性を説かれたが、今日の講演は個人の
レベルに偏っていたものと受けとめているが、教団規模の全体レベルの対話というのはど
ういうものか?
Q4. 自己理解・自己普及・自己保存という自己を深く見つめる指摘がなされたが、他者
理解というものについての関係はどうなっているのか? 他者理解が重要であるとすれ
ば、他者理解ができたのかどうかという基準はどうなのか?
Q5. 布教と対話という講演であったが、今日は対話についてだけの印象を受付た.布教
についてはどのような考え方を持っているのか?
2G
Q l,どれが本当のカトリックかという話があったが、その中で教皇の立場は決して一般
信者と閑レベルではないと思うが、実際その立場はどうなっているのか?
Q2. 超越した真理が、結果として行為に現れるという話があったが、真理は超越した部
分にだけあるのか? 仏教的立場で言えば、偏在的な真理、あるいは内在的な真理という
ものもあるのではないか?
Q3. 全体的な布教と対話という枠組の中で、実際には布教と対話は分離されないという
理解もある.必ずしも整然と二分されるものではない.
Q4. 4つのモデルを通して、哲学的レベルでの対話は南山宗教文化研究所でなされてき
たことであるが、実際の宗教協力、つまり社会問題に対する宗教の取組みについての考え
はどうなっているか?
Q5. カトリックのような超教団にとって対話というととは、保存という問題は急務では
ないと考えられるが、比較的小規模の新宗教教団に当てはめた場合、示されたもののまま
ではあてはまらないと思われる.布教の方が優先されるのではないか?
3
.質疑応答&自由討論
Al (2G-Q4)社会的問題については、我々は何を考えているかと言えば、研究所は
空間的な提供のみで、湾岸戦争、脳死問題、部落問題等々の取材に対して、研究所として
の見解は一切行わない.勿論個人的にはその自由はある.一方で、政府等の諸機聞からの
援助の好意も、プロジェクト勧誘も一切避げている.カトリック教会に対しても同様であ
る.純粋なシンク・タンクで動いている.実際にオーム教に勧誘された子供たちの問題に
ついて討論したが、発言は個人のレベルで行っている.
A2 (2G-Ql)修道会と同じように、カトリックの中の学聞にはその自由が認められ
ている.第二パティカン公会識のときは、世界中の枢機卿や神父さんが集合して全世界に
その新しいアイディアを伝えたのではなく、むしろ保守派のリーダーが集合して、禁じら
~
れた思想と行為のフォト=アルバムを見ていたといえる.そして、修道会で自由に研究さ
れていた異端と見られていたものを再検討したのである.だから、我々の研究成果も後世
の者がどう扱うかで決まる性格を持っている.
A3 (1G-Q1,2G-Q2)恐らくキリスト教の問題であると思われるが、イエスか
ノーかが西洋の文化であると思っている人が多いが、実はそうではない. 1
9
1
1年
ウィリアム=ジェームズが、 『宗教体験の諸相』の中で、アメリカ人を批判している.
「あなたたちは、イエス・ノーが言えない.いつも暖昧な返事しかしないが、今はイエス
かノーをはっきり言わなければならないときなのだから答えなさい。悪い癖をやめなさ
い. Jと言っているが、イエス・ノーで答えようとしているのはごく最近の現象である.
そして、英語は非常に暖昧的な言語である.日本語は、大和語と中国語が合併して形作ら
れていて、哲学的および科学的な言葉は中国語で表記する.我々のギリシア語とラテン語
に相当するものであり、大和語は、我々のドイツ語やアングロ=サクソンの言語に相当し
よう.もう一つ、フィリピンと同様にアメリカの文化はキリスト教の文化ではない.キリ
スト教はニスに過ぎないのである.日本も仏教的文化ではないといわれるがアメリカはア
メリカ=インディアンの宗教心理に近似していると言える.アメリカ=インディアンの神
話を見ると、大自然との関係が第ーであるし、神々が動物であるというととが多い.だか
ら、多神論がキリスト教の中で生まれ変わったというのは、ミラーの『蘇る神々 J (春秋
社)にも着されている.
A 4 (2G-Q3)ζ れは個人的な考えであるが、神学会や西洋の人々に訴えているとと
に、これからキリスト教をどうやって布教していけばよいのかという問題がある.既に宣
0
年前にローマで発表したことがある . ζ れに伴う論争が起き、論
教時代は終わったと、 1
文集に掲載するか否かという問題も生じた.しかし、本年 5月にローマに赴いた折、諸論
文の中で拙論を当然の ζ とと引用していた.布教の対象は私にとってシンクレテイズムで
ある.まずキリスト教はヨーロッパの長い伝統の中で実際、地方の多様な宗教と合併する
というシンクレテイズムを通して発展し、ギリシアのアリストテレス哲学の影響を受け
て、神学として体系化された歴史がある.その中には、地上における歴史と地下における
歴史とがある.教会史は地上の歴史であるが、地下の歴史とは迷信・民話・錬金術等のよ
うな密教的なものである.ドイツの森の中で生きた人々の民話は、非常に反キリスト教的
な考え方である.だから、私は迷信を非常に尊重している.迷信は、魂の叫び声であると
考えている.どうも神学は締麗だが、物足りない.もっと背後に何かあるのではないか.
そして、キリスト教の中にも迷信はたくさんあるのである.例えば、キリスト教の墓に、
上には十字架があるが、下には必ず R
.1
.P
という 3
文字が記入されている.とれは、
R
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nP
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e(安らかに)というラテン語である.そして、誰に声を掛けているか
と言えば、死者の霊に対してである.ただし、キリスト教の教えによると、霊が天国か地
獄に行く可能性しかないのである.幽霊になるとか、地上に再生するとは考えられないの
である.それは異教的なのであり、完全な迷信であるが、我々にはそれ以外は考えられな
いのである.だから、吸血鬼やドラキュラの伝説が残っているととは、キリスト教の伝統
の一部であると考えられる.また、錬金術も表面上は科学であったが、実際には神学であ
った。現在、キリスト教は地下運動で進められているように思われる.カール・ラーナと
いう神学者は、 「今世紀の終わり頃、我々は小さな群れになる Jと予言したが、その通り
U
になる傾向が強いと思われる.そとで私はシンクレテイズムの促進を図りたい.シンクレ
テイズムは、どのような立場からいろいろな宗教をキリスト教的なものにするかと言え
ば、それはキリスト教の教えからではなく、キリスト教的な宗教体験からであると言え
る.だから、これからの宗教体験を中心にしなければならないのである.宗教体験とは、
『インドにおける思恵の宗教』の著者、ルードー・オットーは、その中で「いつも人々は
同じような根本的な間違いを犯している.一つの宗教の理想を、もう一つの宗教の実践と
比較するという間違いである.理想と理想の比較、あるいは実践と実践の比較をしなけれ
ばならない. Jと述べている.例えば、キリスト教の独断的な司教との仲で、寛大柔和な
禅仏教に転向した者もいれば、現代日本の仏教の水子供養や葬式で商売している人々が厭
世的になり、清貧なイエズスに転向するという例があるが、これは皆、思想、と実際の誤っ
た比較から来ていることである.日本では正統という訳があるが、英語では o
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t
h
o
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o
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(正教)と p
r
a
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o(正行)のニつの意味から成り立つものが、日本語で言う正統に相当す
るのである.我々の伝統は、論理的に決める前者と実践で決定する後者の両方があること
になる.この後者の実践であるが、私は対話によって、国執しつつある自分の宗教から一
度解放させて上げることが重要な意味を持つであろうと考えている.実際に全世界の教会
の三分のーが、体育館や刑務所に使用されていたり‘会社に買収されたりしているので、
組織的には我々はそう考えている.
ゲーテは「死と真実Jというテーマを、 『若きウェルテルの悩み』の中で著している
が、小説の主人公に自己を投影する ζ とで、自己を解放している.私が、自分の体験を詩
にした場合、それが自分の心理表現となるのであるが、人々が体験なしに、私の詩を理解
することは間違いを起とすのである.だから、どうやって人に体験をさせるのかがポイン
トになってくる.体験すればするほど、人は教会から離れるのではないか.
アッシジのフランシスは、鳥が鳴くと「ほら、神が泣いている j と言った.そして
ベネディクトは、ジャンヌ・ダルクの劇の中で、彼女が神の啓示を受けてい場面で、 「
自
分の無意識下の ζ とだ Jと合理的な大佐が答えたあと、再び彼女が「もちろんそうであろ
う.しかし、そうでなければ、我々は神の声をどうして聞けるのか ?
Jと投げ掛付る描写
をした.このことから、我々は凡夫にすぎないが啓示の体験とそ、自分の信仰を確認する
機会ではないのか.以上のことから‘布教は人々に宗教体験を認められるようにつとめる
ことであると思われる.まず質問を表現できるように教えたい.
A5 (lG-Q2)行為と真理を区別するのは、ギリシア的なキリスト教と言える.しか
し、キリスト教の未来は東洋にある.但し、現在東洋にあるキリスト教は、西洋的である
のは確かである.そ ζ で、どうやってキリスト教を解放するかが課題になる.倫理と真理
の区別も、西洋的なものであって、キリスト教的なものではない.それはギリシア哲学的
な考え方である.倫理は真理を行うことである.真理を実現する、とれが倫理である.そ
して、習慣は倫理になりえないとする考え方である.日本のプロテスタントはとの立場を
とっているものと言えよう.天皇制を批判するなど、社会を強く批判するという立場がそ
うである.しかし、このレベルでは、キリスト教を東洋化していくには支障が大き過ぎる
のである.西洋人として、東洋をどうヨーロッパに紹介するかが今後のテーマになってく
る.
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A6 (lG-Ql)死後の生活などについて、私は何も知らない、全てが神話であると考
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仏
市制聞駒・-国間頃静静姉輔副岡山岡崎~・9岡両官..~時.,_"明伊叩町民『即時一
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SAO. 以上の宗教理論は論理上は、大変興味深いものではあるが、実際に生きている宗
教とは無関係である.両親の信仰を見てもそうであるし、ギリシア人は自分の信仰を本当
に信じたのかという質問と同様に、質問自体に誤りがある.日本の神道を信じている人
に、八百神を本当に信じているのかという質問と同様であると思う.つまり、ロゴス中心
的な質問は、ロゴスが決定されれば何でもよいのであって、とれば当てはまらないのであ
る.行為は理想とは、決して区別されるも のではない.母に、 「神はどうなっているの
か ?J r
三位一体を本当.に信じているのか ?J と質問しても答えられない、またとにかく
信じているのだから答える 必要もないのである.それだけ信仰は漂いのである.
S Ql,アメリカは英語の文化圏であるが、ヨーロッパの大陸文化の相違について、考え
てみたい.ヨーロッパのアングロ=サクソンと比較すると、言語からして名調の性別の有
無、二元論的構造の有無、歴史的に見てもカトリック浸透の経緯で大陸では土俗的なもの
を抑圧したが、イギリスは島国で教会の圧力が弱かったということなどある . ζ のような
ととから、地形的、歴史的な視点はどう考えればよいか?
SA1,宗教的多元性の多い地域は、曜日の由来等々の神話から北ヨーロッバであると考
えられたが、実はそうでなく、カリプ海の地域がそうであると思われる.勿論ことは
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おキリスト教国である.しかし、それは組織的宗教がそれしかないのであり、宗教は一
番多く存在している.また、ケJ
レトはイギリスやアイルランドに多いと言われるが、これ
も実はその影響は大陸が強く受けているのである.己れと関連して、ライアン・アイスラ
而}女史の『杯と万』が近日中に、法政大学出版局より翻訳されるが、とれは従来の考古学
の成果を踏まえて、かつ従来の考古学の先入観を打破した画期的な書物である.我々は、
正キリスト教やギリシア哲学の影響を受付て、神々は男性的、人聞は殺し合う動物という図
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式争椿司ている.そして、楽園神話については我々の理想郷であり、歴史的事実とは何ら
あると信じられていた.しかし、彼女は、トロイやゼウス神話と同様に、歴史的
を基盤とするものという視点で論じたのである.最近発見された旧ヨーロッパ、つま
市キリスト教以前の文化発掘の成果より、もともと人聞は他の動物と同じように、殺し合
い等しないパートナーシップの図れる動物であった ζ とを立証し,楽園はその時代の存在
したものである見解を示している.さらに、彼女は現在の人類の潜在的意識の中か
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えている.だからといって、事実よりも低く見ょうとは思わない.宗教は、どうやって成
り立つのかをテーマにしているが、死、老い、戦争等の限界を体験することは、合理性の
限界を知る ζ とになり、個人的でなく、人聞には限界があるという普遍性を帯びてくると
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o
w
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) でなく感動 (
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o
r
c
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) という感性に響くものと
思う.人間以上の正義力、存在を力 (
して知っていくととと併せて、シンボルが浮上すると考えられる.シンボルは空つぼの状
態であり、自分の体験がなければ、意味もないに等しいのである.
A7 (1 G~Q4) 他者の理解がどのように性格になされるかという問題であるが、今ま
での対話の問題の根本であると思われる.やはり他者の理解が他者の焦点である限り、相
違点が現れたときにとちら側のの考え方を述べなければならない.私の理解した仏教は、
本からではなく実態つまり人聞から理解している.仏教における多元性や正反対の ζ とを
述べる性質は、正に本だけでは学べない.但し教と行の一致はあるが、その区別は余り問
題にされない点、神学と哲学の区別のない点は伝統的に確かなととである.