三潴 忠道 先生

[No.49]インタビュー ―この人に聞く―
本格的漢方治療実践の夢実現に福島へ赴任
外来から入院まで、漢方で診て治す診療科創設へ
三潴 忠道
先生
東日本大震災後の平成 23 年 5 月に福岡県飯塚市から福島県会津若松市へ赴任した三
潴忠道先生を訪ねた。
福島県立会津総合病院と県立喜多方病院は 2 年後に合併し、平成 25 年 2 月に福島県立
医科大学会津医療センターとして開設を予定している。現在、会津若松市内の会津総合病
院内に準備室が置かれ、すでに同病院内に漢方診療科を新設され、治療にあたると同時
に来たるべき開院の準備に多忙な日々を送っている。
三潴先生は、千葉大学医学部を卒業後、富山医科薬科大学附属病院(当時)の和漢診
部の立ち上げに参画。その後、福岡県飯塚市の麻生飯塚病院に転任し、ゼロから漢方診
療科を立ち上げた。1,000 床を超える大規模基幹病院での漢方診療科と他科との連携シス
テムの構築、病院内だけでなく地域の医療関係者への漢方教育も継続的に行い、麻生飯
塚病院は日本東洋医学会の臨床研修病院として機能、漢方教育者、臨床家を育成してき
たリーダーシップは高く評価されている。
母校である千葉大学の学生で組織される東洋医学研究会にたびたび九州から駆け付け、
講師を引き受けている。また、各地の漢方セミナー、研究会の講師も快く引き受け、自らの
経験、漢方の持つ魅力と可能性を熱く語る先生でもある。
平成 23 年 6 月には日本東洋医学会の副会長にも就任、日本の漢方医学の牽引者のひと
りに数えられる三潴先生は、いま新たな仕事に挑戦している。
会津津若松市内は、江戸末期には戦場となった。敵軍の圧倒的な戦力を前に、街は火の
海になり、少年たちや女性らも戦った歴史がある。その街のシンボルである鶴ヶ城の近くに、
準備室のある会津総合病院はある。
平成 25 年春、福島県立医科大学会津医療センターがオープン
―― 先生がなぜこの春に福島県会津若松に赴任されたのか。お話いただけますか。
三潴 福島県立医科大学で今回の話があると伺い、自ら希望し、それが受け入れられたと
いうことです。平成 25 年 2 月に福島県立会津総合病院と県立喜多方病院が合併して、
福島県立医科大学会津医療センター(仮称)ができる予定です。そこに東洋医学科を
設置して大学病院で本格的な漢方診療を開始します。それは単に漢方外来というだ
けでなく、漢方治療の入院患者も受け入れ、他科の入院患者も西洋医学と連携して
治療にあたること。さらには鍼灸治療も取り入れ、食生活等の生活習慣の指導も含め
漢方的な考え方を取り入れた統合医療を目指しています。
―― 福島赴任を決意なされたのはいつでしょうか? その後の大震災、それに伴う原発
事故もありましたが。
三潴 決定したのが昨年(平成 22 年)の秋でした。私自身、医師となって漢方を勉強し、富
山医科薬科大学附属病院の和漢診療部の立ち上げに立ち会うことができました。そ
の後、福岡・麻生飯塚病院の漢方診療科の設立に参画してから 19 年勤めました。飯
塚病院では、私が居なくても機能する後進の先生方、スタッフで充実しています。
ちょうど還暦を迎え、残りの人生、自分の歩むべき道を考えている時に、今回のお
話を耳にして血が騒いだといいますか……。自分が学んだ漢方医学で役に立つこと
ができる--そういう思いですね。
私の妻は、千葉大学東洋医学研究会の同志でもありますから想いは一緒です。そ
れに、妻の実家は茨城で実家が近くなりました。私は東京生まれですが、うちの先祖
は江戸末期には山形県米沢藩、この会津とは車で 40 分ぐらい、目と鼻の先にありま
す。それに米沢藩の上杉家は、米沢に移封される前は会津にいたわけですから、先
祖が住んでいたか通りすぎたかであろう街です。余談ですが、私の名前の三潴は、
福岡県に同名の場所があり、明治の一時期に三潴県というのがあったようです。飯
塚に住んで、なんとなく懐かしく思ったことがあります。いまもそんな親しみをもって会
津で暮らしています。
震災の後、心配して声を掛けてくれる方がいらっしゃいましたが、そんなことで自分
の道を曲げる性格じゃないようですね (笑)。
もう私も福島県人、その痛みを共有し、医師として最善を尽くすつもりで赴任してい
ますよ。現在、この会津総合病院で漢方外来の診療を開始しながら準備に入り、医
師、看護師、薬剤師らを含めた漢方の勉強会も開始しました。漢方の勉強会は何人
集まるか当初は不安でしたが、想像以上の方々に集まっていただきました。
三潴忠道(みつま ただみち)先生 経歴
昭和 26 年、法律学者の父の三男として東京都に生まれる。都立新宿高校から千
葉大学医学部に進学、千葉大学東洋医学研究会のハウプト(部長・キャプテン)を務
め、昭和 53 年に卒業し、同大附属病院第 2 内科入局。昭和 55 年国保旭中央病院
内科医員。昭和 57 年より富山医科薬科大学(現富山大学)附属病院和漢診療室に入
局、助手、病棟医長を務める。平成 4 年より福岡県飯塚市・麻生セメント飯塚病院
(現麻生飯塚病院)に漢方診療科創設のために赴任。漢方診療科を立ち上げ軌道に
乗せるとともに、1,000 床を超える大規模拠点病院において外来・入院患者の漢方医
学の併用を定着させた。医師、看護師、薬剤師、鍼灸師、栄養士などが参加する病
院内の漢方勉強会や門戸を広げた「麻生飯塚漢方診療研究会」「筑豊漢方研究会」
なども開催され現在も続いている。また同病院は日本東洋医学会の臨床研修施設と
して指定された最大規模の医療施設でもある。
本年(平成 23 年)春、福島県立会津総合病院内にある福島県立医科大学会津医療
センター準備室に赴任(東洋医学科教授)。同年 6 月には日本東洋医学会副会長に
就任。
著書に『はじめての漢方診療ノート』(医学書院・平成 19 年)、『はじめての漢方診療
十五話』(医学書院・平成 17 年)、監修書に『はじめての漢方診療症例演習』(医学書
院・平成 23 年・貝沼茂三郎編集)、『使ってみよう!こんな時には漢方薬』(シーピーア
ール・中村佳子、木村豪雄編集、平成 20 年)などがある。
曾祖父が残したドイツ語筆文字の医学研究ノートが
―― もともと医師になろうと思ったのは?
三潴 先祖は、江戸末期には米沢藩(山形県米沢市)に仕えていた藩医で、家には江戸末
期から明治に生きた曾祖父のノートや医書が残っています。曾祖父の名は三潴謙三
といい、学んだのは東京医学校(東京大学医学部の前身)でした。残されたノートは、
筆でドイツ語、日本語を織り交ぜたもので、熱心に勉強していたのでしょう。父は医者
ではなかったのですが、私は幼児期から医者になろう--と考えていました。
また、小さい頃は小児ぜんそくや肺炎になったりと、いまでは考えられないほど病
弱で、ひと月に一度は寝込んでいました。病院や医院だけでなく、近所の指圧などを
する治療院で、この漢方薬を飲むといいとアドバイスされて飲んでいたこともあります。
ホームドクターをされていた先生は良導絡学会の副会長もされていて「医者になる
んだったら漢方もわかる医者になりなさい」といわれましてね。
漢方のわかる医者に--というのは、受験当初から意識していたのです。
【曾祖父の三潴謙三氏は各歴史人物辞典にも収録されている<嘉永5年・1852~明
治 27 年・1894。米沢藩医、三潴白圭の子、東京医学校を卒業、東京病院でシュルツ
の助手となり、明治 8 年ジフテリアの治験報告で世界に先駆けて細菌原因説を主張
した。明治 10 年警視第一病院副長、明治 12 年避病院院長、のち芝警視病院院長、
43 歳で逝去>とある。(デジタル版・日本人名大辞典参照)】
曾祖父・三潴謙三の理学ノート
主に毛筆で筆記されていて、漢字、カタカナ、ドイツ語と共に図も見られる。
―― 高校時代は?
三潴 ちょうど 70 年安保闘争の真っただ中、新宿駅は毎日デモやフォークソングを歌う若
者たちで騒然とし、高校でもデモに参加し、学校封鎖があった時代でした。私自身は
どちらかというと体育会系でした。最初に入ったのは卓球部、その後陸上部に入って、
国立競技場で 3,000 メートルを走った時は気持ちよかったですね。
―― 千葉大学に入学したのは、東洋医学研究会があったからですか?
三潴 いえ、そんな選択はできませんでした。運よく入れたのです。そして、たまたま東洋
医学研究会があることを知りました。ですから、最初は陸上部にも入り、大学対抗の
東日本大会にも出ています。2 年ぐらいまで陸上部と並行して活動していました。全
国レベルには及びませんが、それでも千葉大では中距離のエースだったんですよ。
千葉大学東洋医学研究会の部長を経験。
藤平健先生、伊藤清夫先生、小倉重成先生が指導
―― 当時の千葉大学の東洋医学研究会は?
三潴 平井愛山先生(千葉県立東金病院院長、土佐寛順先生(富山医科薬科大学助教授
を経て、さいたま市の土佐クリニック院長)たちがおられました。入会した頃の部員数
は東洋医学研究会の歴史からみてもかなり少ない時期でした。
秋になって、翌春の新学期に新入生を大量に入会させることに成功、特に薬学部
からの入会者には、鳥居塚和生先生(昭和大学薬学部教授)の他に、妻も入っていま
した。毎週月曜日に部会、木曜日の公開自由講座がありました。薬学部の原田正敏
先生には傷寒論の講義をしていただきました。最初のうちは、ここに 6 年間入ってい
れば、なんとか漢方も知っている医者になれるかな、といった感じだったのですが
……。学部1年(3 年目)には、有力な先輩が卒業されてしまってハウプトに指名され、
自然に引きずりこまれていってしまったのです。当時は、千葉大学東洋医学研究会
の生みの親の藤平健先生、小倉重成先生、伊藤清夫先生がいらっしゃって自由講
座の講師、学生の臨床実習などを頻繁に引き受けていただいておりました。
夏には合宿研修があり、その教材は藤平先生や小倉先生の講義をまとめ、ガリ版
で印刷したもので、それはもう直前には泊まり込みで作るわけですね。
この教材は、はじめ 3 年先輩の土佐先生が作られ、毎年改訂していったのです。そ
の後、飯塚に私が赴任してから後輩たちに指導する立場になった時も、教材に使う
のは、この資料を発展させたものでした。これはのちに『はじめての漢方診療ノート』
(医学書院)として出版されています。
全国の先輩の医師たちを訪ねて資金を集め、いくつもの有力な漢方診療施設にお
ける漢方診療の実態調査も行っています。これは当時としてもレベルの高い、面白い
研究だと思いますよ。
また、学部に進んでから入会した同期もおりましてね。その仲間と矢数道明先生の
飯田橋(新宿区小川町)のお宅をお訪ねしたことがあります。お昼になると、たぶん神
楽坂だと思うのですが、そこで天丼をご馳走になりました。その天丼の海老の大きく
美味しかったこと、一同感激しましたね。初学者ながら、私たちが学んでいる千葉古
方とは一線を画する後世方の矢数先生と認識して訪ねていましたが、矢数先生は
「漢方はまず傷寒論・金匱要略の古方をしっかりと学ぶこと。あなた方は藤平先生に
ついてしっかりと学びなさい」と、おっしゃったことを天丼の美味しさとともに鮮明に覚
えています。
それと、小田原の間中善雄先生をお訪ねして、鍼灸のお話しを伺ったり、生薬研究
をしている本草班も活発に活動して東洋医学研究会の活動も充実していた時期だっ
たと思います。
―― 藤平健先生、小倉重成先生、伊藤清夫先生のエピソードは?
三潴 千葉大学東洋医学研究会の三羽ガラスとも言われていますが、それにしても漢方
を学ぶ環境としては申し分ない先輩に恵まれていたものです。
藤平先生は、大変な酒豪で、若い頃には 2 升ぐらいは平気で飲んだそうですが、私
が学生のころは還暦を過ぎたあたりでしたが「1 升で足りるようになったよ」と笑ってお
っしゃる。先生の都合のつかない日にコンパを設定すると機嫌が悪くなる。お酒の場
では、厳しい漢方の講義とは裏腹に非常に愉快で楽しい思い出ですね。
小倉先生の木更津の医院では玄米菜食、1日 1 食、マラソン、それに座禅が日課。
マラソンは陸上で鍛えていたので得意でしたが、座禅が苦手でした。そうすると先生
から、さあ「三潴さん座りましょう」と、ここぞとばかりに平気な顔で勧めてくる、あれに
は諦めて座るしかなかったですね。
伊藤先生は、料理が好きで、それも凝っていらっしゃる。ある時会員たちにお茶漬
けをつくって下さって、私が受け取ったのです。私がそれを先輩に回そうとすると「そ
れは君のためにつくったのだから、他にやっちゃだめ。君は塩辛いのが好きだからそ
うしてある」と。お茶漬けひとつに、材料にこだわって、一人ひとりの好みまで考えて
つくるのです。この思い出ひとつでも、単にオーダーメイドというだけではなく、人との
接し方、もてなし方をそれとなく教えていただいたような気がします。
―― 卒業されて、すぐ第 2 内科に入局されたのですか。
三潴 小倉先生の医院は、17 床の入院患者を受け入れ孤軍奮闘されていました。まだ医
学生の身でその治療を目の当たりにすることができたわけです。よし、私も漢方を使
ってという思いを強くしました。ただ、西洋医学の臨床を一通り、みっちり学び経験し、
その上で漢方の良さを取り入れた医療を目指しました。当時の日本の医学教育では
ごく自然の選択でした。身体全体を診るのは内科がいいだろうと、附属病院に 2 年、
旭中央病院に 2 年おりました。そんな時に富山医科薬科のお話があったのです。
寺澤捷年先生、諸先輩の先生と富山医科薬科・和漢診療
体制確立に参画 漢方の臨床研究で博士論文
―― それまで漢方薬を使うことはなかった?
三潴 駆けだしの医者修行ですから、現場の西洋医学の診療のみで、ほとんど使うことは
ありません。漢方の勉強には見向きもせずに、むしろ、もう少し現代医学の修行をし
て、それから漢方を、と思っていたのです。
富山では先輩にあたる寺澤先生が主任をされ、大学の付属病院で漢方を使われ
ていました。しかも外来だけでなく、入院患者まで漢方で診ることができる環境を寺
澤先生はしっかりと築きあげたいというお話しを伺い、先輩から推薦をいただけたの
は名誉なことでした。学生時代から、小倉先生の医院で漢方治療を拝見していて、漢
方は外来患者だけでなく、急性病や難病、重症な患者も診ていないと、漢方の本当
のよさや深いところの実践にはならないのではないと考えるようになっていました。
―― 富山で、漢方の臨床研究によって博士号を取得されたと伺っていますが?
三潴 富山医科薬科大学には土佐寛順先生、今田屋章先生が寺澤先生のもと附属病院
の和漢診療にあたって、あとで後輩にあたる薬系の鳥居塚和生先生も赴任されて、
臨床実習に藤平先生や小倉先生がいらっしゃったこともありました。本格的に臨床の
現場で使うことができて、研究も可能であったのは、気軽にアドバイス、指導していた
だける師匠・諸先輩が近くにいたからで、恵まれた環境でした。
博士号は、慢性腎不全に大黄という生薬、および大黄を含む温脾湯という漢方薬
を処方し、その経過とデータを追跡してまとめたものです。医学博士号の論文は基礎
医学の研究が多く、臨床しかも漢方に関する研究は非常に珍しいケースのようです。
福岡・飯塚病院。ゼロからの漢方診療科の立ち上げを経験
―― 平成 4 年ですか、福岡・飯塚赴任はどのような経緯だったのですか?
三潴 1,000 床以上、外来患者が 1 日 2,000 人を超える総合病院、福岡・筑豊地区の中核
病院が漢方診療科を設けたいというので、何年か前から寺澤先生、平成 3 年には土
佐助教授らが訪問されていました。私にとっては医師となって 10 年あまり、今後の方
向性を定める時期でもあったのだと思います。
富山では、一期生の嶋田豊先生はじめ富山医科薬科の卒業生が活躍される時代
になったし、富山医科薬科の和漢診療を軌道に乗せる役割はほぼ達成できたかな、
と思った時期でもあるのです。さらに富山で学んだこと、それをどこかで実践したいと
思うようになったのです。ちょうどその頃に寺澤先生から飯塚へ赴任するお話しをい
ただいたわけです。
小倉先生に学んだ、外来診療だけでなく大きな総合病院で入院患者においても漢
方治療をする、漢方病棟を設ける--という気持ちが強く、それを立ち上げるわけで
すから、たいへんなことというより、非常にやりがいのある仕事と感じ、ファイトが湧き
ましたね。
赴任してあとから聞いたのですが、診療科が 24 あり、ほとんどの最新の設備、検査
機器は完備しています。しかし、来院した 100%の患者さんが治療に満足して帰るわ
けではない。どうしても 2、3 割の患者さんは期待した結果が得られないのが現状な
のです。そういう人たちの満足度を少しでも高めたいというので、漢方という現代医
学とは異なったタイプの医療を導入したらどうかとなったようです。
生薬・煎じ薬の漢方治療の試み
―― 漢方診療科の医師である先生が病棟を回診する姿やスタッフのカンファレンスを見
た時、漢方でここまでやっていると感動しました。大病院、大学病院で漢方外来はか
なりありますが、ここまで連携がとれて、ましてや入院患者までというのは、特筆され
る功績だと思います。患者さんはほとんど生薬ですか、エキス剤との割合は?
三潴 「生薬を使って、入院治療までやらせてほしい」ということが受け入れられ、それを
実行できたことに感謝です。病院の経営を考えたら、煎じ薬での処方は難しいものが
あります。大病院であったこと、他科との連携を考えた場合の大局的な判断をしてい
ただきました。主要な処方は生薬を用いることを原則と考えていましたが、併用処方
も入れればエキス剤もほとんどの症例で使っています。
最初は漢方診療科の医師は、私と新谷卓弘先生(現・近畿大学東洋医学研究所教
授)、半年後に後藤博三先生(現・富山大学和漢診療学講座准教授)が加わり 3 人体
制でスタートしました。のちに医師は増えて常勤 5 人体制、出向中、専修医、実習医
などを含めれば 10 人を超えるチームになりました。
【三潴先生は、これまでのインタビューの中で立ち上げにあたって以下の基本方針を
あげ実行してきた。
1・診断と経過観察は現代医学で実践
(漢方診療の有効性の科学的裏付けと蓄積)
2・治療は可能な限り漢方治療で行う
(漢方医学的診断・証による治療が原則、漢方薬本来の生薬の治療を中心にする)
3・必要に応じて現代医学的治療の併用や他科と連携する
(東西医学を融和し、よりよい医療を目指す)
4・外来診療、入院診療、病理解剖まで実践する
(一貫した漢方診療体系を構築する)
5・漢方の臨床研修環境を確保し提供する
(医学部における漢方を担う教官育成に協力する。研修の受け入れ、漢方臨床部門
の立ち上げ援助)
その他に病院食での玄米菜食の試み、病院スタッフとの勉強会、地域の医師など
に対象を広げた研究会などを軌道にのせてきた】
院外の医師らも参加する『麻生飯塚漢方診療研究会』
―― 西洋医学との連携、実際 19 年の間に実現完成されてきた。苦労も多かったと思いま
すが、その秘訣は?
三潴 漢方はあらゆる病気に対応できるものの、決して万能ではないということをいつも
意識してきました。現代医学の検査も必要だし、時には外科医に手術してもらわなけ
ればないないこともある。それらとフォローしあうことで、漢方は、進化もするし現代医
療、将来の医療として信頼が得られると思っています。基本は漢方の良さを追究する
ことと、それによる医療の発展を視野に入れています。理想に向かって走るのは苦
労ではないかもしれません。
それより、煎じ薬の調剤、入院患者への配薬、ナース、栄養士、スタッフの協力と苦
労の賜物ですね。
―― 地域の医師も対象とした研究会「麻生飯塚漢方診療研究会」は、もう 150 回を超えて
いると伺いました。
三潴 毎月 1 回、地域の医師たちにも声をかけて始めたのですが、何人集まるかと心配し
ていましたら、初回には地域の全医師の1割にあたる 100 名近くが参加され、その後
も診療の時間を割いて、また診療後の勉強会参加ですからね、予想以上でした。そ
れまで漢方に関心はあるけれど、漢方を学ぶ機会がいかに少なかったか、ということ
でもあるのです。ここでは古典を学びながら症例問題を出し、その回答を検討してい
く形で進めていました。病院内では、毎朝診察前に『傷寒論』や『金匱要略』、『類聚
方広義』などの古典を輪読していました。
涙を流して別れを惜しむ患者たち。飯塚は後輩たちにバトンリレー
―― 会津赴任が決定してスタッフ、患者さんの反応は?
三潴 当初、私が飯塚で描いたほとんどのことはやってきたし、それを引き継いでくれる人
材もいる。その人たちにバトンリレーですね。田原英一先生(飯塚病院漢方診療科部
長)はじめ、独自のカラーで、新たな発想でやってほしいですね。
患者さんには、何人もの方から、(福島に)行かないで欲しいといっていただきました。
引き止められるのは光栄なことです。うれしかったですね。そんな中、3 月 11 日の大
震災。しかも原発事故のあった福島県。その後「先生、もう行かなくてもよくなったの
でしょう。」ともいわれました。
「いえ、予定通り行きます」、というと、ほとんどの方が黙ってスーッと診察室から出
で行かれ、おそらく涙を見られないようにと……。そんな時には介助のナースもたま
らず診察室から離れ……。患者さん、スタッフ、飯塚の思い出は有り難く、楽しいこと
ばかりだったような気がします。
医学生の漢方教育、卒後教育にも力を入れて
―― これから準備は大変だと思うのですが、その目標は?
三潴 福島県立医科大学の校舎、附属病院は福島市内にあります。まず、ここ会津若松
にオープンする福島県立医科大学会津医療センターで東洋医学科を軌道に乗せる
と同時に、県立医科大学の医学生教育と卒後の漢方教育にも協力したいと考えてい
ます。
会津では、生薬での漢方治療の実践と他科との連携システムの構築、大学病院で
の鍼灸治療の併用を考えています。鍼灸治療との併用も、軽度の病態を鍼灸治療で、
といったものではなく、難病への対応などを視野に入れたものを作りたいですね。
生薬に関しては、ここ会津は江戸時代に人参栽培で名を全国に轟かせたところで、
御薬園という会津藩の薬草園がいまでも残っています。生薬によっては地元で栽培
することまで視野に入れてスタッフが動いています。漢方は、明治初期に排斥され、
日本の医療には必要なしと判断された。そして先輩方の努力によって漢方は生き残
ってきた。そんな時代に医師になって、漢方をかじった私としては、漢方が一人前の
医療として認められ、治療に役立てたい想いが強いのです。
総合病院の一部門として存在し、他科と連携し治療にあたり、入院患者の治療も漢
方でという形を整えることができればいいな、そうすれば、より良い医療を患者さんに
提供できると思っています。
―― 座右の銘は?
三潴 一所懸命ですか。自宅に犬を飼っておりましてね。会津で借家を探そうとしましたが
震災の影響もあって、犬と住む手ごろな借家がなくて、最終的には飯塚病院の退職
金を頭金にして買ってしまいました。まあ、ここに骨を埋めるかどうか別にして、ここで
頑張れというわが家族の犬のエール。会津に来たのは天命、私たち夫婦のこれから
の人生そのもの、自分の夢を実現する場所でもあるのです。私たちとしても愛犬のお
陰で漢方と福島と運命を共にする覚悟が一層強まったということですか。
【取材を終えて】
福島会津地方には、外から転居した人に“三泣き”という言葉がある。会津人は頑固で受
け入れてくれない厳しさに泣き、ひとたび気を許すと人情味に感動して泣き、会津を離れる
時に別れの辛さに泣く、と 3 回涙の場面があるというのだ。
この言葉は三潴先生には必要ないようだ。かつての職場の福岡筑豊地区は、従来は炭
鉱で栄え、川筋気質という会津と似た頑固さと人情を持つ。多くは語らずとも、すでに飯塚
で“三泣き”を経験してきたのではないか。
そんな人間力だけではない。すでに大病院でのゼロからの漢方診療科立ち上げの実績
は、富山医科薬科大学、麻生飯塚病院で立証してきた。
福島は筆者の故郷でもある。漢方界を取材してきた経験から三潴先生が、各所から引く
手あまたの臨床家としての実力とリーダーシップの持ち主であることを知っている。赴任前、
大震災後の惨状から福島・会津赴任を振り出しに戻しても、誰も責めはしなかったろう。
さすがに直球での問い掛けを躊躇したが、先生はその問い掛けを察したのだろうか。
夫婦で借家を探しているうちに愛犬が住める住居を買うことになってしまった--これから
子供作る予定もないし(笑)--との言葉で自らの覚悟を示してくれた。
2 年後の福島県立医科大学附属会津医療センターの開設が楽しみである。
<取材・文・ジャーナリスト・油井富雄>