2016/07/03 - 日本キリスト教会 大阪北教会

日本キリスト教会大阪北教会
2016年7月3日 礼拝説教 牧師 森田幸男
聖書 ヨハネによる福音書11章28~37節
11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、
「先生がいらし
て、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立
ち上がり、イエスのもとに行った。11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出
迎えた場所におられた。11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人
たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思
い、後を追った。11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足
もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死なな
かったでしょうに」と言った。 11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人
たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、11:34 言われた。
「どこに
葬ったのか。
」彼らは、
「主よ、来て、御覧ください」と言った。11:35 イエスは涙
を流された。11:36 ユダヤ人たちは、
「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられ
たことか」と言った。11:37 しかし、中には、
「盲人の目を開けたこの人も、ラザロ
が死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
説教『 イエスは涙を流された 』
◆只今吉元長老のお祈りをお聞きしながら、思い出したことがあります。本当に世
界は騒然としております。そしてこれはイングランドのことであった、難民のこと
であったというふうなことであって、何かなお外国の出来事のように思っていた面
もありますが、バングラデシュ・ダッカでのテロでは日本人 7 人が亡くなりました。
いつ何時、自分がその出来事の当事者になり、命を落とすかしれないのです。思い
出したのは、21 年前 1 月 17 日の阪神淡路大震災のことです。火曜日の未明に起こ
りました。月曜日が振替休日で火曜日から学校が始まる未明の大地震でした。私も
身に感じた一番大きい地震でした。そのあと、被災した兵庫地区の諸教会を周りま
した。そして西宮中央教会の今は牧師館になっているところに竜馬君という5年生
の小学生が、お兄ちゃん、お姉ちゃんとご両親の5人で住んでいました。いつもは、
子ども 3 人は2階で、両親は階下で休まれたのですが、その日に限り竜馬君は甘え
てお母さんと一緒に休んで、そしてあの地震が起こり、2階が落ちて竜馬君が下敷
きになって亡くなったのです。その前年の秋に召された石田洵牧師のご婦人がこう
言われました。
「毎朝のように、学校へ行く竜馬君に『おはよう』と挨拶するのが常
でした。どうして、
『竜馬君、日曜学校にいらっしゃい』のひと言を言わなかったの
か。そのことが悔やまれます」と、言われました。
◆わたしたちもあれもこれもすることはできませんが、直接、
「竜馬君日曜学校にい
らっしゃい」という言い方でなくても、何が起きてもわたしたちはこの御方イエス
様にすべてをお委ねすることができるのですということを、言葉で、態度で、祈り
で、肉親にも、友人にも、知人にも、伝えることが、私たちができる、そしてまた
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なすべき一番大事なことではないでしょうか。
◆先週のチャリティーバザーは、皆で力を合わせ、良い、祝福を感じる機会でした。
教会でいろんな機会に、バザーといえばいつもと違いますから、誘われてこられた
方々も、主イエス・キリストに出会う、そういう機会にもなったかな、と思います。
そうしてみれば収穫の多いバザーになったと私は思い、感謝をしています。
◆そのようなことで、私たちは先日来、ヨハネによる福音書11章のラザロ物語を
一つの大きな流れの物語を、いくつかに分けて読んでおりますが、読めば読むほど
これはなんという物語だろうかと、興奮を禁じ得ない思いで毎日過ごしております。
私たちはここに、正に、文字通り奇跡を記した言葉を読んでいます。そしてここに
記されている物語、言葉は私たちに奇跡を生み出す言葉でもあります。聖書という
書物は、本当にわたしたちのこの身に奇跡を起こす、そういう言葉なのです。その
ことを本当に強く感じます。このラザロ物語は、11 章全体を通して語られているの
ですが、実に壮大、深遠な物語であります。それこそ汲めども尽きない命の泉、汲
めども尽きない命の物語と云うにふさわしい物語です。引いては聖書そのものが、
私たちに汲めども尽きない、尽きることのない命を与え、それを生かしてくれる、
そういう言葉が聖書なのだ!そのように思います。
◆私たちは細かく切って読んでまいりましたが、ある意味では 11 章の冒頭のところ
で、話は完結しているとも言えます。最初で言っていることを、後で少し具体的に
展開させている。具体的にと言っても、実に省略に満ちた物語ですね。ですから、
わたしたちは想像力を働かせて読むとき、実に汲み尽くし得ない内容を持っている
と思います。冒頭のというのは 11 章ですね。今日読まれた箇所の右のページの下の
段、
『ラザロの死』という小見出しの付いたところです。
「ある病人がいた。マリア
とその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香
油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、
『主よ、あなたの愛しておられる者が病気な
のです』と言わせた。
」
(というのは、ラザロはかねてから障害を負っていたと思わ
れます。だから彼はひとことも話さないのです。イエス様によってよみがえらされ
た後も口を利かないですが、そのラザロが危篤状態になったので、使いをやって、
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたのです。イエスは
それを聞いて言われます。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためで
ある。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と。イエスはマルタとその姉
妹とラザロを愛しておられましたが、ラザロが病気だと聞いてからもなお二日間同
じ所に滞在されました。そしてエルサレム郊外のベタニアに行かれた時にはラザロ
は死んでもう四日たっていたのです。こういう流れでした。
◆私が今、申し上げたいのは、
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」
という報告ですね。
「まだ命のある間に、イエス様お出でください。
」これがマルタ
さんとマリアさんの心からの願いです。それを聞いたイエス様は「この病気は死で
終わるものではない」と言われます。これは以前の口語訳では、
「この病気は死ぬほ
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どのものではない」と訳されていました。イエス様の判断と、マルタ、マリアの判
断では違いがあるのですね。ところが新共同訳では「この病気は死で終わるもので
はない」と訳しています。これではまるで意味が違ってきますね。どちらがイエス
様の言われたことなのか。
「この病気は死で終わるものではない」というのと、
「こ
の病気は死ぬほどのものではない」というのでは、相当意味が違ってきます。
「この
病気は死で終わるものではない」ということが正解だとすれば、使いに行った人た
ちはこれを聞いて、なんのことか分かったでしょうか。けれどもイエス様が「この
病気は死で終わるものではない」と言われたら、イエス様の言葉はその通りに出来
事になるのであります。そしてイエス様のお言葉というものは、この言葉だけでは
なく、聖書が語っているどの片言隻語も、イエス様がおっしゃったことは真実で、
それは必ずその通りになる言葉です。ですから私たちもそれなりに愛唱聖句なり、
心に留めているひと言、ふた言があると思います。そして、その一言の中にイエス
様のすべてが込められているわけです。イエス様の言葉も行為も真実ですし、文字
通りイエス様という方は言行一致の方であります。
◆マルコ伝5章に長血を患っていた女性が、この方の服にでもさわれば癒していた
だけると思って群衆にまぎれてイエス様の後ろから衣服の裾にさわったら、その途
端に長い病が癒えた、という話がありますね。イエス様の言葉でなくていいのです。
着ておられる衣の裾にさわっただけで癒されたのです。イエス様の一言の中にはす
べてが込められております。この病気は死で終わるものではありません。こう言わ
れたら正にその通りのことが起こっていくのです。そしてこのように起こりました
というのが、ヨハネによる福音書の 11 章に記されている物語であります。
◆いままで何度かお話してきましたが、今日の箇所の 35 節は、聖書の中で一番短い
1句です。
「イエスは涙を流された。
」この1句に、この涙に何がこもっているのか。
皆さんこれまで読んでこられたところですね。イエスは、彼女が泣き、一緒に来た
ユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え興奮して言われた。
「どこに葬
ったのか。
」彼らは「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。
これは直訳すると、状況から言えば「葬る」のですけれど、イエス様が言っておら
れるのは「あなたがたは、ラザロを、どこに置いたのか」というのが直訳なのです。
イエス様はこの病気は死で終わるのでないと、おっしやったのですから、ラザロの
葬りはあり得ないということですね。イエス様の言葉を素直にうけとれば、すでに
死んで4日たっているということですけれども。こういうところにもイエス様の思
いと、人々の理解とはずれていると思いますね。
「あなたがたはラザロをどこに置い
たのか?」イエス様にとって、ラザロは死んではいないのですね。そしてここに、
「心に憤りを覚え」とありますが、これもいろんな訳があります。口語訳でしたら
「激しく感動し、また心をさわがせる」となっています。あれこれの訳を参考にし
て、私は「霊においていきり立ち、心をふるわせて言われた。
『あなたがたはラザロ
をどこに置いたのか。
』
『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流さ
れた。
」こういうふうになります。いちいち詮索しますときりのない文章ですね。ヨ
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ハネ伝の文章は。
◆私はマルタ、マリア、ラザロとイエス様との交流は本当に深いものがあったと思
います。この姉弟のイエス様に対する信頼、愛は絶大なものであったと思います。
それはイエス様の言動に接してきて、その真実さというものを彼らは全身全霊で受
け止めていたと思います。だからイエス様の真実を疑うということは彼らになかっ
たと思いますが、それなのに、マルタとマリアは全く同じことを言っていますね。
「主よ、もしここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」
と。どうして来てくださらなかったのですか。という恨みもあるかもしれません。
あとの祭りです。そういう思いもあるでしょうね。これが私達の限界だと思います。
◆道を踏み外した一人の人が、本当に再起再生して健やかな状態に戻るというのは
本当に大変なことです。死んだ方が楽だと思っても、死ぬということは簡単にでき
るものではありません。それが人生だと思います。けれどもイエス様はおっしゃっ
たのですね。
「この病気は死で終わるものではない」と。ですから私たちがこうして
導かれて、イエス様と出会い、本当に、有り余るイエス様の言葉を聞いてきました。
けれどもそんなに沢山いらないですね。一言、自分の存在を託せるイエス様とその
言葉一つあれば、それで私たちは何が起ころうが、私たちの幸いというものは、ど
ういう思いがけない事態が起ころうが、それで崩れるものではありません。そして
マルタもマリアも信頼するイエス様でしたが、どうして早く来てくださらなかった
のですか、という思いもあったでしょうが、しかしイエス様とラザロは一つだった
のだと思いました。
◆「あしあと」という詩がありますね。ある人が、自分の人生を振り返り、人生で
最も深い試練に陥っていた時、主イエスよ、あなたはこの私と共に居て下さらなか
ったと訴えると、主イエスは言われるのです。
「どうしようもなくなったあなたを、
わたしは背負って歩いていました」と。イエス様はラザロと一つです。これがラザ
ロの物語です。そして私たち1人1人の物語でもあります。イエス様とはそういう
方です。そういう方の行動、言葉、これは本当に真実に貫かれているのです。です
からわたしたちがこのお方に出会い、今このようにあることを許されている。これ
に代わるような幸いは世界中どこを探してもありません。そのことを感謝し、信じ、
そしてわたしたちが出会う、1人1人の中にもイエス様がおられます。何が起きて
もイエス様は私たちと共にいて下さいます。これは本当です。何時何が起こるか分
からないこの世界で、自分が事件の当事者になるかもしれないわけですけれども、
何が起ころうがイエス様が共にいて下さいます。そして助けて下さいます。これは、
私たちのこれまでの歩みを振り返っても本当ではないでしょうか。
◆お祈りいたします。憐み深い主イエス・キリストの父なる神様。
私たちが、なあなたの恵みの中に置かれている幸いを新たに覚えて感謝いたします。
どうか、この困難に満ちたこの世にあって、あなたを信じ、そしてこの幸いにすべ
ての人が与っていくことができるように身を捧げる者たちであらしめてください。
この祈りイエス様の御名を通しみ前にお捧げいたします。アーメン。
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