オペラの風景(66) 「影のない女」抽象概念が主役 「影のない女」(夢の場面) ロマン派オペラの原典を探って、理解を深めてきました。イタリアオペラ の起源はギリシャ悲劇の再現にありましたからオペラが演劇か小説かと 聞かれれば、演劇と思っていました。「影のない女」を調べていて「オペ ラを読む」 (P・コンラッド)に出会ってから、オペラは演劇より小説に 近いと思うようになりました。小説は多様な文学形式の一つで、その他に 变事詩、ロマンス、アレゴリー、心理小説などがあります。 「魔笛」の延 長で「影のない女」を理解すると、これは「アレゴリー」といえそうです。 アレゴリーでは小説に出てくるような個人はいません。代わってさまざま な観念を忠実に表す劇的人物が登場します。擬人化された「抽象概念」が 登場人物になっています。アレゴリーである、イソップ物語での登場人物 を思えばよいでしょう。人が考えた概念を表す動物が登場人物です。「魔 笛」や「ラインの黄金」では、小説によく出てくる、個人的なことのみに 拘泥する人物が追放され、それらに代わってさまざまの概念を忠実にあら わす劇的人物を後釜にすえた、とバーナード・ショウはいっていますが、 これもアレゴリーに似ています。 「影のない女」に登場する主役は 5 人です。彼らに託した、ホフマンシュ タールの「抽象概念」は何であったかをオペラのテキストから逆に推察し ます。 (皇帝)彼は人間です。霊界の女性を妻にし、自分の意のままに、力づく 身体を奪い、自分を愛させようとします。彼は嫉妬深い夫としても登場し、 最後は呪いから解除され、声たからかに歓喜して歌います。彼は傲慢さと 出しゃばりを示す場面で舞台に登場します。こうした理由で、自分と同じ 人間として皇后と交わっても、彼女の心の結び目を解くことは出来ません。 尊大に扱うことになれているから、愛さえ征服の対象としたのです。そん な人間である彼は、支配への道は奉仕を通じて、ということを学ばせられ ます。彼に託された「抽象概念」は「傲慢」や「暴力」でしょう。 (皇后)皇后は、霊界の人、一種の魔術的変身の最中、カモシカで捕らえ られ、偶然に人間の姿を獲得してドラマに登場しました。彼女は性的な恍 惚感で変身の暗号を忘れてしまい、人間世界にとどまりますが、自分が遠 ざかっている霊界に憧れをいだいています。彼女は心優しい女です。それ は「夢の場面」の独白でわかります。「夢の場面」は鷹庄の小屋内の皇后 のベッドで行なわれます。最初の言葉は「ねえ、乳母よ、ねえ」、・・・男の 目が・・・苦しいわ、 (荘重に)天使よ!そんな目をして見つめないで。―――― バラク…あなたに・・・わたしは罪をおかしたわ!」彼女に与えられた「抽 象概念」は「いたわり=愛」のようです。この場面に平行して、皇帝は扉 を開け、霊界にはいり、石になることが起こります。彼女は眼がさめ、 「あ あ!あなた!何処へ行くの、どこへ! 私の罪のためね!・・・」といいま す。彼女の「愛」の対象は皇帝らしい。はっきりするのは3幕の2です。 「「金色の水」、命の水で身を強める必要はない!あたしには愛があり、愛 はすべて以上のものだから。 」と歌うと、天上から声「愛するものよ、こ の水を飲めばよい、そうすると、あの女[バラクの女房」の影はお前のもの となる。命の水をのめ」。彼女は石になった皇帝に近づき、 「あなたと死ぬ わ。起きて!起きて!眼には眼、口には口、あなたと一緒に死なせてくだ さい!」と叫ぶ。ここで愛の対象が皇帝であったことが明らかになります。 こう見ると抽象概念として「いたわり=愛」が皇后という姿にしたようで す。 (乳母)娘の世話をするよう、大王から命じられている霊界の人。人がう ようよ集ってそうぞうしい、混沌とした人間界に嫌悪をかんじている。オ ペラの前半では舞台の引き回し役として、無類の多弁。この台詞がホフマ ンシュタールの美文です、並みの歌手ではできません。彼女は融通無碍、 皇后の乳母への決別の辞はこうです。「乳母よ、もう永久に会うことは無 いわ。人間の求めるものをあなたは余りにもしらな過ぎた。心に抱く秘密 がどの方向を指していたか、あなたにはまるでわからなかった。いかなる 代償を払っても重き罪からよみがえり、不死鳥のように、永久の死から永 久の生へと、どんどん高みをさして登っていくのよ、貴女は決してわから ないわ。私は、最早人間の一族」 。 「堅牢術策」が乳母の「抽象概念」であ るのがわかります。 (バラクと女房)コンラッドによると、 「彼らは皇后らと異なる文学的領 域の住人である。彼らの出自は童話(アレゴリー)ではなく、小説なのだ。 」 (亭主)はいたわりと善意の固まりのような人物です。相手にすりより、 善意に解釈し、自己批判が強い男です。彼の抽象概念は「善意」でしょう か?人間的な魅力には今ひとつです。 (女房)はストレスの溜まりがちな現代なら珍しくない、欲求不満型のヒ ステリーです。結婚したのに相手のことを全くわかろうとしない。バラク にはすまないと思いながら発作的に当り散らかす。お人よしの相手には好 都合です。これは心理学の示すところです。概念は「欲求不満型ヒス」で す。 こうして、 「童話」 (或いは神話)が出自の皇后、と小説が出自のバラクと 女房が同一舞台で対等に演技をするのがこのオペラです。 その他この劇特有の抽象概念を取り上げ、私見をのべます。 (不妊)皇帝と后妃の間での不妊は伝説的であり、例えばトーテム制度[氏 族]の問題で、異種間の交配は不可能として説明できますが(例えば犬と猫 の間に子は生れない) 、バラクと女房の間では心理的、誤った方向に向け られた本能の間題とされています。 (神話と心理)「影のない女」では神話が心理と共存しているから不思議 です。どうやらどちらも相手を理解していないようです。しかし明らかに 矛盾する二つの基層のあいだが馴染みあって、一つのオペラができたのは フロイドとユングの研究のお陰だそうです。というのも、神話はその起源 が人の心理的不安や禁制の中にあることを彼らが解明したからです。バラ クの女房の心理的不安は神話を生む素材となって当然です。ここで心理に 話が神話と結びつく可能性が生まれます。 これら二つの文学的状況、つまり神話的謎と心理的解明との間を媒介する のがアレゴリーだそうです。(P・コンラッドの説の意訳) この考えを私なりに皇后の不可解な愛(神話的謎)にあてはめてみます。 彼女は霊界に惹かれながら、バラクの行動をみて、こういいます。 (2幕 の2) 「でもたたえたいわ。この男をみいださせてくれた者を!この男は、 あたしに人間とは何かをわからせてくれた。この人のためならあたしは人 間にまざって、人の呼吸をこの身に吸い込み、人の重荷を、この身に背負 おう!」 アレゴリーですから、登場人物はある概念です。皇后は相手と一体化する 能力はあったものの、 「愛」の概念はなく、劇中に与えられたと理解した 方が適切でしょう。共感能力が人界でバラクの優しさ、善意と重なったた めに「愛の概念」がうまれた、と解釈してはどうでしょうか。それがバラ クではなく皇帝に向けられるのは尐し人間臭く、性的臭いがしますが。 概念としての暴力性は人界固有のもので、皇帝の暴力は日頃皇后の体験す るところです。バラクの女房は気にいらないと直ぐ怒鳴る横暴な女です。 これも皇后はみています。皇帝と女房の横暴さを知っている皇后は 2 人を 理解します。アレゴリーの人物概念「暴力」を共通語に、オペラは霊界と 地上とを行き来して進みます。話の最後に全体をしる皇后が暴力を象徴す る血を含んだ「命の水」を飲まない決意をします。これが可能なのは彼女 には「ザラストラの誘惑をはねのけたパミーナ(魔笛)の意志の強さ」が あるからです。 (生まれてこない子供たち)上記各人物に与えられた概念で、オペラの大 事な場面で抽象概念が具体化した人物の振る舞いが説明できますが、皇帝 が石になった動機が今一つ不可解です。皇帝を構成する概念はホフマンシ ュタールがオペラ以後に書いた小説「影のない女」で新たに第四章として、 付け加えられて、詳述されています。皇帝は洞窟で誕生以前の自分の子供 達にあい、饗応をうけ、正体を知ろうとしますが、わかりません。彼らは 皇帝の犯した罪を告発し。彼に罪悪感を起こさせます。 「生れてこない子 供たち」は皇帝の罪を具象化したものでした。最後に彼が両手を彼らに上 げると彼は罪で固まった石と化し、子供たちは消えます。ここで初めて、 皇帝が石と化すという大事な場面が具体像として取り上げられます。オペ ラではここは観衆が空想するだけです。 オペラ3幕の最後の前の場面、皇后が血の入った「命の水」を拒否し、影 をえる最後のチャンスを放棄したとき恐怖にかられます、正面からの光が じょじょに強まる中、石の皇帝に向って進み、 「あなたと死ぬわ、おきて! おきて!・・・・・・・・・・」と叫びます。父カイコバートへ「自分を殺せ」と訴え ます。舞台は一瞬闇、新たな光が上からくる。皇后の輪郭に影がうまれる。 皇帝も玉座から立ち上がり階段を降りようとする。 ここに声が聞こえます。先に述べた皇帝の罪悪感の象徴である「生れてこ ない者」の声です。皇后は天使たちか、ときくが、皇帝は「生まれてこな い者」たちだ。今や彼も生をえて、日の出のような赤い翼で危うく破滅し かけた私たちのもとに降りてくるのだ、と答えます。 「生れてこないもの たち」が天上から「さあ、あなた方に命じるよ・・輪になって踊って抱き しめあおう、僕らの生が楽しいものになるように!・・・」 最後の場面でバラクと女房が抱き合うときにも、彼らは現れ、 「お母さん、 あなたの影だ!ああなんて美しい。貴女の夫が、あなたのもとへ!」と歌 います。そしてオペラの最終の言葉も彼らの声です。 「とうさま、心配はしないことね、かあさま、悩みをいだかないでね。2 人が怖がらせたものは消えていく、いつか祭りがあるとき、きっとこうな るよ。招待客の僕達が、祭の主催者なのさ。」 このようにオペラの最後で「生れてこないもの達」は大事な役を果たして います。彼らは皇帝の石が砕けるのと同時に登場します。彼らは「罪の石」 が崩れ、生れたもの達だと考えれば、話はよくわかります。 (シュトラウスの音楽)この作品のオペラ化準備中のある段階で、皇后を 中心とした超自然的存在には室内楽団を、騒々しい込み入った人間界には、 大オーケストラを用いることによって、この二組の夫婦の間の形而上的断 絶を示そうと彼は意図していたといわれています。 この作品はワグナー以上にオーケストラは歌手と関係なしに演奏します。 オーケストラピットに入っている楽団員は日頃歌手の伴奏の仕事だけに 鬱積した技能的不満を、シュトラウスの音楽では、自立して思う存分発揮 します。彼の作曲法が大音量、極微音量を要求します。 またオペラでの音楽の効果もユニークです。 シュトラウスの場合には、音楽に登場人物がすっぽりと、包みこまれてい る雰囲気となっています。シュトラウスにおける自然の基礎要素はワーグ ナの「土」や「水」ではなく、 「空気」であるかのようです。・・・・また空 中から皇后と乳母が地上にスーッとすべり降りるとき、銅ラン(タムタム) や中国製の、鐘や、音楽コップがでてきますが、これは「影のない女」の 東洋風の放縦さが示しているようです。原作のアレゴリーを異国風なファ ンタジーへ転換させています。舞台の設定は東(アジア)の国です。 アレゴリーの音楽化は難しいようで、これは文学でも同じです。ホフマン シュタールも不満だったようで、後で小説にしたのはそのせいでしょう。 (オペラの全体像)オペラでは、皇帝の罪は過去の経歴に属していて劇化 できないために、后妃はバラクに奉仕する目立たぬ存在となっているため (裁きの場面の前に、自分の罪を傍白で告白するだけ) 、バラクは底なし のお人好しであって、何がおころうとおとなしく受け入れるだけであるた め、結局のところ主導権を握っている二人の登場人物とはバラクの女房と 乳母ということになります。外見は女房のどなり、乳母の雄弁に立ち回る だけです。しかしドラマの主役はバラクであり、彼から学んだ皇后で、彼 女はドラマの筋を左右する場面で決断します。それは霊界に戻るか否か迷 う裁きの場面(3幕1場)で、聞き応えがあります。これでは皇帝が目立 たないということで、後に書いた小説では皇帝のために第四章が書き足さ れます。こう考えると、オペラでは目だったバラクの女房と乳母も、劇の 構成では各5分の1と言えます。 (影)自己同一性(アイデンテイテイ)は照明のなかで溶解する一方、人 間は影の中に存在するようになる。つまり影をえようとする后妃の苦闘は、 一個の人間としての肉体を求めるための探索、ということになりますが、 その探索が示され、形にしたものはひどく曖昧です。影は自然な生を形あ るもとした、というよりむしろ、貧弱な、実質のないアクセサリーとなっ ているだけのように思えます。ホフマンシュタールは、影という一見正反 対を意味するように見えるものを人間の豊穣さの象徴として選ぶことに よって、寓話(アレゴリー)に、僅かな小説的主観性を与えただけです。 影は空虚で不毛です。 (「オペラを読む」から意訳)
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