ギ タ ー 教 室 盛 衰 記 - 富山大学クラシックギター研究会

ギ タ ー 教室盛衰記
浜 田
恒
雄
「浜田ギター音楽院」を廃業したのは1985年だから既に 12 年の歳月が流れた。
だが今、
「あれは遠い日のこと」という感慨は湧いてこない。それは自分でも不思議
だが、往時の記憶が鮮やかすぎるためだろう。教師活動を展開した 25 年間は全身全
霊を傾けて生きた歳月でもあり、金では贖えないものを蓄えることができた。その
せいか還暦も過ぎたというのに、どこか年齢不相応の精神を宿したままである。
昨年、2年の歳月を費やしてワープロによる楽譜製版システムを完成させた。あく
までも趣味として楽しむための開発であったが活用してくれる人がいればと思ってい
たところ、富山大学の鈴木教授からお声がかかった。本誌の創刊号の上梓に寄与でき
たことは望外の喜びであった。それで満足していたところ、第2号に音楽院の歴史に
ついて寄稿するように依頼された。鈴木先生の熱意に押し切られ、ペンを取ってはみ
たものの、いささか気が重い。というのも、教室を辞めた経緯を避けては通れないと
思うからである。辞めたくて辞めたわけではなかった。物心両面で倒れたことを正直
に話さなければならないように感じる。真実を語るには懺悔も必要だろう。事実、教
室の倒産は多くの人に迷惑をかけたのだから、自分がいかに身勝手であったか、驕っ
ていたかも告白しなければならないだろう。
私の罪の最たるものは、ギターにかまけ過ぎて家族への思いやりを欠いたことであ
る。もともと私には長男として家業を継ぐ義務と責任があり、家業との両立のために
長年努力をしていたのである。しかし、ギター界の経済状況が急速に悪化してきたこ
とも災いして父親との確執が深まり、私は自宅から 50 キロも離れた富山市のセンター
教室に夜具を運び単身生活に踏み切ったのだった。それは教室存続の姿勢を貫こうと
する私の意志表示のつもりではあったが、教室に寝泊まりするという不自然な生活は、
結局、意志とは裏腹に不安と寂しさをつのらせ、無聊の時間を生み出すだけだった。
一方、教室に集う女生徒たちの同情と好奇の入りまじった遠慮のない視線に気づき、
そこに救いと慰めを求めようとする別の私がいた。魔がさす、とは抗しがたい運命的
なものであろうか。聖人君子には程遠い私が渡辺淳一の世界に足を踏み込むのにさほ
どの戸惑いも逡巡もなかった。世間がそんな私を破滅型の人間と非難することなど簡
単なことだったに違いない。
二年後、天誅が下った。女性との間に感情のもつれが生じ、それが飛び火して合奏
団の離反へと発展してしまった。この事件が私に与えたダメージは大きく、合奏団が
命であった私を虚脱状態に追い込んだ。愚かなる単身生活は四年にも及んだ。その間
に離婚と家督権の喪失を味わい果ては家を失った。家の売却は事後承諾であった。加
えてその間に2度の交通事故に見舞われた。いずれも人事不省に陥り九死に一生の大
事故であった。
今、私はふたたび幸せである。文字通りに匍匐前進した日々、固定給なしの地獄の
セールスマン生活など、今は懐かしい思い出となった。逆境を切り抜けてからは自然
体で生きられるようになり、失った社会的信用もおおむね回復できたと思っている。
失意のあげくに思考が短絡して、ギターに関する全てを捨てようとした事もあった。
それを押し止めたのは、顧問をしている富山大学クラシックギター部の学生諸君であ
った。おかげで26年間にわたる彼らとの付き合いは今日の日まで途絶えることなく
続き、今の私の大きな支えになっている。前置きのつもりが、長くなってしまった。
そろそろ本題に入ろう。
*
*
*
*
カラヤンがベルリンフィルを引き連れて戦後初来日したのは、私が高校を卒業した
翌 1954 年であった。千駄ケ谷の体育館(当時はまだ上野の文化会館もなかった)に駆
けつけた時の興奮を今も鮮やかに思い出す。高額のチケット代と上京費用を捻出して
くれた父に感謝したものだが、その父は私が高校二年の時に大変身を遂げ、M生命の
バッジを捨て、周囲の驚きをよそに豆腐屋になってしまっていた。
私がギターを爪弾き始めたのはその頃である。前年に病死した姉が、少女時代から
琴を弾いたり洋楽レコードに親しんだりしていたのでその影響もあったのだろうが、
ラジオのクラシック音楽番組はすべて聴かねば気が済まぬようになっていた。この習
慣はやがて大いに役立った。
当時、LPレコードが出現して大きな話題を呼んでいた。中学時代からラジオの組
立が得意だった私は、先生格である親友の兄のもとに通いつめ、豪華なハイファイ装
置から溢れ出るLPレコードの音を堪能したものである。私が初めて買ったLPレコ
ードは、P・モントゥ指揮の幻想交響曲。嬉しくて天にも昇る思いがした。一方、レ
コード盤を持ち寄って中南米音楽を楽しむグループにも首を突つ込んでいたが、ある
とき仲間内のNさんが「ギター弾くんだって?」と一枚のLPを持ってきてくれた。
まだ聴いたことのなかったクラシックギターのLPだった。暗黒色のレコードジャケ
ットに、譜面と向き合う白髪のギタリストの写真が飾られていた。私が初めて目にし
たA・セゴヴィアの写真だった。このレコードとの出会いこそ運命的なものだった。
ギター開眼といえば、父の友人だった開業医H氏の存在も忘れられない。日本ギター
界の黎明期に、既にクラシックギターに熱中していた人が運よく近所に住んでいたの
である。純銀のフレットが打ち込まれた特製の中出阪蔵ギター、初めて見るガット絃、
赤茶けた楽譜や武井守成(作曲家)等の古本の数々、訪ねるたびに拝見したそれらの品
々は、私の垂涎の的であった。H氏亡き今、あれらは一体どうなっているのだろうか。
高価な手工ギターを求めるなど、当時の私には清水の舞台から飛び降りるようなものだ
ったが、なんとか加納木鳴氏の作品を発注できたのはH氏のアドヴァイスがあればこそ
であった。
一時はあまりの難しさに投げ出してしまった『セゴビア新教本』
(阿部保夫編著)
を座右に置き、家業を手伝いながら日は日がな夜は夜もすがらギターを弾き続ける生
活が何年も続いた。上京して阿部保夫氏の門を叩く夢をいくど見たことか。
ある日、いつも楽譜を買っていた魚津の楽器店の主人が突然訪ねてきた。楽器店で
教室を開いてくれないかと懇願された。既に生徒も決まっているのだという。あきれ
た話だが、それを承諾したことが私のギター教師生活の第一歩となった。既に結婚し
て子供もいた 26 才の時のことである。
数年のうちに生徒は次第に増えていった。レッスンの為のより良い教本が必要だと
思い始めていた矢先、東京でギターを習っているという一人の女子学生が現れた。
夏休みで帰省中だが短期レッスンを受けたいという。どんな教本を使っているのかと
質すと、彼女はワラ半紙にガリ版刷りの一枚のピースを取り出した。見た目は粗末な
テキストだったが、内容はハタと手を打つもので、著者は新掘寛己と記されていた。
その後、楽器店に届いた指導者講習会の案内状にその著者の名を再び目にした。一週
間におよぶスケジュールには驚いたが、思い切って講習会に参加した。
講習会は盛会だった。各地から集まった指導者たちとの夜を撤しての情報交換は、
大きな刺激と興奮を与えてくれ、とりわけ最終日にレコーダーで流された合奏用ギタ
ーによるバッハの管弦楽組曲のサウンドには強いショックを受けた。
連盟の旗揚げに加わって以来、急に忙しくなった。合奏団を結成し、年2回の教室
発表会を1966年にスタートさせた。翌67年には魚津周辺の町々に教室を3ケ所、
YKKや日清紡など会社サークル指導3ケ所、学園1ケ所と活動の輪を拡大。さらに
2年後の69年には県民会館教室を開設し、それを記念して富山市公会堂で新掘ギタ
ー室内合奏団富山公演を実施した。生徒数は急増したが、その頃の私は朝の早い家業
も手伝っていた。体力、気力ともに充実していた。自宅の二階を改築してスタジオに、
さらに翌70年には長年の夢であった音楽院センター教室を富山市の中心部に開設し
た。分不相応の家賃には不安を感じたが、私は何よりも合奏団のための広いスペース
を持つ常設練習場が欲しかった。同年、東京の新堀先生のもとで二年間の専門過程を
終えて帰郷した松田
学さんを計画通り専任講師として迎え、活動範囲をさらに拡大
した。今日迄顧問を務めている富山大学クラシックギター研究会が誕生したのは翌1
971年である。
身辺がギターで多忙になり、次第に家業を手伝えなくなり父としばしば対立するよ
うになった。が、父が反対すればするほどギターへの情熱はかきたてられていった。
頑固一徹の父は、私の進路に漠然とした不安を抱き続け(これは的中した)
、事あるご
とに衝突したが陰では息子をあちこちで自慢していたという。
父との長い離別の時が過ぎた。私は挫折から立ち直って手堅い勤め人の身となった。
意中の人と共にその報告に行ったとき、父は満面の笑みで歓待してくれたのだった。
父はその後まもなく急逝した。まだ、微かに温もりの残る父の遺体を抱きしめた時、
父との相克の日々が走馬灯のように脳裏をよぎり、私は慟哭した。
さて、富山市にセンター教室を開設した1970年はアポロの月面着陸、大阪万博、
東名高速道全通などで世間が沸いた年である。日本は経済成長の真只中にあった。音
楽界では、アメリカのべトナム反戦運動の高まりで反戦フォークソングが一大ブーム
を巻き起こしていた。それが追い風となりクラシックギター界も大いに賑わい、そし
て潤ったのである。まさに猫も杓子も
ギター
の時代であった。私の教室も見学者
が後を絶たず、落ち着いたレッスンができなくなったことを嘆いたものである。ギタ
ー熱がすっかり沈静化した昨今の斯界の状況からは、とても考えられないほどのベル
=エポック(よき時代)であった。
教室を開いた頃、ギターに対する世間の認識はまだまだ低かった。ギターといえば
酒場の流しの姿しか思い浮かばない人が沢山いて、ギターを持ち歩いて惨めな思いを
したことも一度や二度ではなかった。教室に生徒が溢れるようになり、何もかもが順
風満帆で進んだ時、これはすべて自分の努力の賜物だと大いに自負したのである。
教室開設以降の右肩上がりのグラフに慣れ切っていて、やがて後退の日が来るなど
想像の他であった。今にして思えば何のことはない、たまたまブームに乗り合わせた
に過ぎなかった!とも言えるだろう。人が驕る気持とはそんなものだろう。
時代と共に時間のテンポが早まり、今は五年ひと昔だそうである。まわりの若者た
ちは、私のギター教室が町々に存在したことなど知らないだろう。もし、中高年の方
々で幸いにも覚えてくれている人がいれば、大方は合奏団のコンサートなどに触れた
記憶があってのことではないだろうか。
合奏団の活動は延べ17年間に及んだ。末尾に年表を掲げたが、ステージ160回、
全日本コンクール出場11回、TV出演3回、自主公演6回、アマチュア合奏団とし
ては、まずまずの活動ぶりであったと思う。特に忘れられないのは、合奏団結成8年
目にしてようやく一般公演にこぎつけた第一回「スプリングコンサート」の成功であ
った。
この公演シリ―ズは第六回まで実施したが、毎年4月に県教育文化会館で行われ、
700席がほぼ満席になる恵まれたコンサートだった。公演を指して〈絢燭豪華〉と
評価された時は、当事者として大いに照れたことが思いだされる。このシリーズには
多くの人々の情熱が注ぎ込まれた。なお、全日本ギター合奏コンクールでは、第二位
受賞を含め、通算七回の上位入賞を果たしている。
私の夢の一つは、地域社会に根づいた楽しめるコンサートの実現にあった。そんな
私を理解し、演奏レヴェルの向上に惜しまぬ努力をしてくれた歴代の団員たちには、
今なお感謝の気持を持ち続けている。1980年には、条谷秀夫・信清秀晴の両氏と
「富山県ギター音楽協会」を設立、チャリティ演奏会を行ったりした。
合奏の指導には特に気を入れたが、個人指導はエネルギーを要する最重要の仕事で
あった。入門者が本物の良さに目覚めていくプロセス、生徒さんの嬉しそうな、時に
は苦しそうな表情を責任をもって見守ることは教師冥利につきる楽しみだった。私は
とりわけ初心者を大切にした。初級者は可能な限り私が担当し、中級クラスは講師陣
に任せるという形を好んだのはそのためであり、初心者にはベテラン教師を、という
のが私の変わらぬ信条であった。
音楽教師には明らかに二つのタイプが存在する。演奏家タイプと教育家タイプであ
る。双方の特性を発揮できれば理想だが、そんな教師はめったにいないだろう。演奏
活動が最優先で、そのかたわら生活のために生徒を募集する人は演奏家タイプの教師
に属すると言える。その教師の最大の関心事は、自分の演奏にあるから、生徒指導に
あまり手間取りたくないのが本音だろう。このタイプの教師は、上達した生徒さんに
とっては魅力的かつ重要な存在となるケースが多く、貴重な存在である。
私自身は疑いなく教育家タイプに属する。私の場合は、早期から私淑していた新堀
先生から示唆に富んだアドヴァイスを頂戴していたので、そのお陰で迷う事なく明瞭
なポリシー(方針)を持って教師活動に専念できた。そのアドヴァイスとは、
「教師に
は教師のための勉強がある」であった。何か事を成すとき、ポリシーはとても大切だ
と思う。初心者を大事にすれば自ずと成果が現れ、すぐれた人材を輩出するようになる。
私は、プロを養成しようと思ったことは一度もなかったが、結果的には八名もの生徒
さんがプロの道を目指して巣立っていった。なお、私が理想として志向した教室作りは、
外に開かれた教室、妙な権威臭のない教室であった。
センター教室開設後の10年間は、音楽院が最も充実した時期であった。定期公演
は軌道に乗り、他にもさまざまなイベントが行われた。年々、子供たちも増えてきて、
遂にジュニア合奏団まで誕生した。すべてが順調に推移していくように思われた。
10周年を記念してセンター教室を全面改装し設備も強化した。それは多額の融資
で賄ったが私は悠然としていた。ギター界に不況の陰りが現れたという情報は既に掴
んでいたが、それは対岸の火事だと思っていた。翌年から徐々に入門者が減り始め、
次の年には更に悪化した。それからのことは最初に記した。経費のかさむセンター教
室の撤去を行い、他所に引つ越して懸命に財政立て直しを計った矢先に突然、蹉跌が
訪れたのだった。
幸い、現在の私は、自分の過去の生きざまを反省する事しきりであるが、人生は後
悔していない。ここに、私のギター半生記と音楽院の歴史についての記事を上梓する
機会を与えて下さった鈴木教授に心からお礼申し上げる。
自宅(〒939 ー 8221 富山市八日町 236−1 サンポート八日町 205)
「浜田ギター音楽院」活動記録(1962∼1985)
1962 年
3月
魚津市S楽器に「ギター教室」開設(69 年迄)
1966 年
8月
ギター指導者講習会(東京)に参加。 全国教育ギター連盟(ZKG)加盟
11 月
第1回発表会実施
1967 年
3月
「浜田ギター室内合奏団」結成
6月
教室第2回発表会
9月
黒部市・入善町・朝日町に教室開設(70 年迄)同月 Y・K・Kと日東紡
のギター部顧問となる
1968 年
1969 年
1970 年
11 月
教室第3回発表会
4月
日清紡サークル指導(72 年迄)
5月
富山学園に講師として招かれる(69 年迄)
10 月
教室第4回発表会
4月
県民会館教室開設(75 年迄)
8月
新堀ギター室内合奏団富山公演を主催(浜田ギター室内合奏団賛助出演)
10 月
魚津市にセンタースタジオ完成、 呉東地域の橋頭堡となる
6月
岩瀬教室開設
10 月
富山センター開設(83 年迄)同時「浜田ギター音楽院」に名称変更
11 月
音楽院第5回発表会と新堀女性合奏団「ザ・ドリマーズ」公演を併催、
同時にスクールコンサート実施(1校)
1971 年
4月
栄町教室開設(72 年迄)同月 魚津市勤労青少年ホームに教室を開講
(82 年迄)
6月
音楽院第6回発表会
7月
富山県プレクトラム音楽祭出演(78 年迄連続出演)
9月
第2回全日本ギター合奏コンクール初出場(第三位受賞)
富山大学クラシックギター研究会顧問に就任(現在迄)
11 月
1972 年
第7回発表会
4月 「田部井辰雄ギターリサイタル」主催
魚津工業高校音楽講師に就任(74 年迄)
1973 年
6月
音楽院第8回発表会
11 月
音楽院第9回発表会
8月
合奏団テレビ初出演(75 年迄連続出演)
10 月
第4回全日本ギター合奏コンクール出場(入賞)
11 月 音楽院第 10 回発表会
1974 年
1975 年
12 月
「ザ・ドリマーズ」とスクールコンサート(4校)を併催
6月
音楽院第 11 回発表会
10 月
第5回全日本ギター合奏コンクール出場
11 月
音楽院第 12 回発表会
4月
第一回「スプリングコンサート」開催 /客演・信清秀晴+富山大学
クラシックギター研究会
高岡市坂下町に教室開設(80 年迄)
7月 音楽院第 13 回発表会
東京新堀アンサンブル公演とスクールコンサート(4校)
8月
セーナー苑慰問演奏会
10 月
第6回全日本ギター合奏コンクール出場(第二位受賞)
11 月 音楽院第 14 回発表会
1976 年
4月
第二回「スプリングコンサート」
客演・ぐんま石原ギター合奏団(群馬県)& 信清秀晴
7月 音楽院第 15 回発表会
1977 年
10 月
第7回全日本ギター合奏コンクール出場(銅賞受賞)
12 月
音楽院第 16 回発表会
4月
第三回「スプリングコンサート」 客演・田原ギター合奏団 (京都・福知山)
& 水津正博(津和野)
7月 音楽院第 17 回発表会
1978 年
10 月
第8回全日本ギター合奏コンクール出場(入賞)
11 月
音楽院第 18 回発表会
3月
新川女子高校講師に就任(86 年迄にコンクール出場5回/TV出演1回)
4月 第四回「スプリングコンサート」[客演・岩村通康(長野)]
5月
読売文化センター高岡に教室開設(83 年迄)
7月 音楽院第 19 回発表会
1979 年
10 月
第9回全日本ギター合奏コンクール出場
11 月
音楽院第 20 回発表会
4月
富山医科薬科大学ギター部顧問就任 (83 年4月迄)
5月
「山下和仁ギターリサイタル」主催
7月 音楽院第 21 回発表会
10 月 第 10 回全日本ギター合奏コンクール出場(銅賞受賞)
1980 年
12 月
音楽院第 22 回発表会
4月
第五回「スプリングコンサート」 客演・条谷秀夫(富山)
6月 音楽院第 23 回発表会
10 月
第 11 回全日本ギター合奏コンクール出場(銅賞受賞)
富山県ギター音楽協会を結成(発起人:信清・条谷・浜田)
1981 年
12 月
「チャリティコンサート」を共催(富山県ギター音楽協会結成記念)
1月
音楽院第 24 回発表会
7月 音楽院第 25 回発表会
10 月 第 12 回全日本ギター合奏コンクール出場
1982 年
11 月
「ギター音楽の夕べ」(富山県ギター音楽協会主催)
1月
音楽院第 26 回発表会
4月
第六回「スプリングコンサート」客演・ぐんま石原ギター合奏団(群馬)
10 月 第 13 回全日本ギター合奏コンクール出場
1983 年
11 月
高岡市勤労青少年ホームで教室開講
1月
センター教室の移転(富山市西中野町)
音楽院第 27 回発表会
1984 年
1985 年
10 月
上市町教室開設(85 年迄)
1月
センター教室の再移転(富山市小泉町)
12 月
音楽院第 28 回発表会
8月
教室活動を全面停止する
雑誌「越中クラシックギター研究」≪ 編集後記 ≫ より
☆第2号は、1997 年夏までには発行したいと考えておりましたが、私の一身上の
都合で果たせませんでした。「2号はまだか?」というお訊ねをよくされ、その度
にあれこれ苦しい弁明をしてきました。浜田恒雄先生には昨年春にはお原稿を戴き
ながら、遅延してしまったことをお詫び申し上げます。
先生は「浜田ギター音楽院」を主宰され、本県で長年クラシックギター音楽の普
及に努力してこられ、富山大学クラシックギター研究会顧問を設立以来務めておら
れます。クラシックギターとの出逢いや音楽院の歴史について率直に書いて戴きま
した。先生の音楽院を巣立ってプロの道へ進まれた方が8名もおられます。この音
楽院の活動が本県のクラシックギター界に果たした役割がいかに大きなものであっ
たかが解ります。先生の長年のご努力に心からの敬意を表します。
過去は現在を照らす鏡です。エッセイの後にこの音楽院の活動の歴史の概略を年
表にまとめて戴きました。そこに記された一つ一つの活動の背後に、先生のギター
音楽普及への情熱と、先生の音楽院に集った多くの愛好者の汗の結晶が込められて
いることを強く感じます。さらに、先生には、前回の「アデリータ」に続いて「ラ
グリマ」の新譜面を作成して戴きました。心よりお礼申し上げます。
1998 年 2 月 鈴木邦雄・記
※ 鈴木邦雄(富山大学理学部教授)