ジェノサイド記事

THE
STORY
OF
ONE
RWANDAN
GIRL
ルワンダ・ジェノサイド この2つの言葉の結びつきは未だ固く、切り離せないものです。
1994年 ルワンダ史上、最大規模の紛争が起こりました。ツチ、フツと呼ばれる2つのグループ
が争い、約100日間で80万人〜100万人のルワンダ人が亡くなったと言われています。
1994年から20年という節目の年を迎えたジェノサイド追悼週間(4月7日を含む1週間)には、
例年以上の規模と数で、様々な集会や追悼行事がルワンダ各地で開催されました。
この時期が近付くと身近な同僚を初め、胸元にグレイのリボンを付けた人を多く見かけるようになり
ます。
そして、いつもの歩き慣れた町中にある大きな広告用の看板が、グレイをベースとした追悼ポスター
へと変わります。2 年間の協力隊員生活の中で隊員誰もがこの時期を2回経験します。
活動も午後はお休み。式典や集会に行く同僚や友人を見送り、改めて自分が “ ムズング ”(ルワンダ
で外国人の意味)である事を再認識します。簡単には踏み込めない話題、簡単には話せない本音、簡
単には受け入れられない事実が生活の身近にあり、様々な想いが交錯しながら少しずつ時間が過ぎて
いるように感じます。
ジェノサイドから20年という節目のルワンダにおいて、ルワンダの人達はどんな想いでいるのか、
これからのルワンダをどう見ているのか。
虐殺で生き残った 1 人の女性に話を聞いてみました。
当時私は7歳でした。私はルワンダ西部のキブイエ、ニャマシェケという場所で生まれました。幼稚園教師の母親と、小学校教師の父親
の元で7人の兄弟と共に暮らしていました。私が4〜5歳の2年間はクリスチャンの義理母に育てられました。その女性が私の両親に一
定の期間は彼女と過ごすように伝えたようです。そして6歳の時に家族の元に戻りました。母はとても元気な人で、叱られるときはよく
叩かれました。父は静かな人で、いつもドアの側でラジオに耳を傾けていたのを覚えています。幼稚園年長の時はお母さんが勤めている
学校に行きました。その後小学校1年生になり父が勤める学校に通い始めました。
私が小学校1年生だった1994 年、ジェノサイドが始まりました。殺す側の人たちが来た時、私と姉2人は森に逃げました。そこには殺
す側の人たちも一緒でした。彼らから、両親と兄弟5人が殺された事を知らされました。そして、彼らはこう続けました。
「君のお父さ
んはいい人だった。たくさんの良いことを僕たちにしてくれた。僕は君を殺さない。僕らも罰せられることを恐れている。一緒にコンゴ
に行こう。
」こうして、私と姉2人の3人はそれぞれがバラバラに引き取られコンゴまで逃げました。コンゴについた私はとてもショック
を受けていました。両親の死が本当に辛かったのです。でもコンゴでは、コンゴ人の年配のクリスチャンの女性(以下おばあさん)に引
き取られました。なんのつながりもない私たちをおばあさんは受け入れ面倒を見てくれました。バラバラになってしまった姉たちの行方
はわかりませんでした。でもある日、味方だと思っていた私たちを連れてきた彼らが小さな会議を開いてやっぱり私の姉を殺すことを決
めました。なぜそうなったのかはわかりません。誰かからの制裁に怯えていたのかもしれません。そして偶然にもその状況を知ったコン
ゴ人が、おばあさんの所に来て忠告しました。「彼らはあの若い女の子を殺そうとしてる。
」そして、その状況を聞いたおばあさんは、自
分の息子に「お姉さんから目を離してはいけない。ずっとそばにいなさい。どんな事をしてでも彼女達を守りなさい。
」と伝えました。お
ばあさんは身寄りもない、ただ偶然出会った私たちに本当にやさしくしてくれました。ある日、彼らは姉をキブ湖に落としに行くと決め、
実行する日がきました。でもおばあさんの息子がずっと付いてきました。殺そうとしている人等は、彼が状況を知ってるとは思ってなかっ
たので不思議に思っていたようです。いざ、姉を落とそうとした時おばあさんの息子が止めました。
「お前たちがしていることをぜんぶ言
う。そうなればお前たちは二度とコンゴには戻れないぞ。」
おばあさんとその息子のおかげで姉は命を取り留めました。そして彼らはコンゴに戻らず、姉をルワンダに連れていきました。
その時は、ルワンダ国内では内戦が激化しており、安全とは言えない状況でしたが、姉はルワンダに戻り赤十字のキャンプに保護されま
した。
コンゴで私は姉の無事を知らされました。おばあさんは、「心配しないでいいよ。あなたのお姉さんは無事よ。あなたのために全てのこと
をしてあげる。
」と言ってくれ、私の身の回りの全てのお世話をしてくれ、学校にも行かせてもらい、幸運にも小学校2年生に戻ることが
できました。
姉は赤十字の難民キャンプで、赤十字の人に「妹がコンゴにいるから呼び寄せてほしい」とお願いしていました。その後、赤十字の人が
コンゴにきて、私に状況を話してくれました。「おなたのお姉さんはルワンダにいて、もう平和だから一緒にもどりましょう。
」そして、
私はルワンダに戻り親戚の叔母の所に引き取られました。
その後はキガリのセントファミール小学校に通い、中学、高校を卒業しました。中学、高校の成績がよかったので奨学金をもらって大学
に行くことができました。その時に姉が結婚したので、叔母の家を出ていっしょに暮らし始めました。そして、大学3年生の時、妊娠し
ました。子どもが好きだったし、どんな子が生まれるのか楽しみで、勉強を止めて子どもを生むことを決めました。子どもができたとき
は本当に嬉しかったです。どんな子が生まれるだろう。どんな子に育つだろうと思っていました。
でも子どもの父親が一緒にいられない決断をした時はとてもショックでした。私は仕事もないし、生活していくのが大変だと思いました。
姉に助けられながら生活しました。大学の時の成績がよかったので、2年前政府機関からインターンシップをもらいました。でも大学を
卒業していないため、しっかりとした職に就くのは難しいです。今はサポートを受け、大学に行きながらレストランで働いています。簡
単な人生ではないけど、今は幸せです。子どもがいて、生活ができる。でも将来は今よりもっといい仕事について、子どもを育てていき
たいと思います。
話をしてくれた女性について
彼女と出会ったのは、私の配属先の地方行政機関にインターン生として来ていた時です。赴任初日、英語が伝わってるか伝わってないのかわからない無反応の同
僚達を前にして挨拶をすませ、ぐったり項垂れていた時に、一番最初に話しかけてくれたのが彼女でした。小柄な女の子で、笑顔で走り寄ってきて「日本から来
たの?ずっとここで働くの?」と声をかけてくれた事が、私に慣れない雰囲気の職場、そして初日であったのも重なり本当に嬉しかったのを覚えています。それ
から一緒にご飯を食べに行ったり、他愛ない話で互いに笑い合えるルワンダで出来た初めての友人でした。約1年10ヶ月、彼女と共に過ごしてきた時間の中で
両親をジェノサイドで亡くした事、兄弟も5人亡くした事が少しずつ会話に出てきていました。でも、詳しい事は聞きませんでした。今年の追悼週間、彼女は私
を式典へと誘ってくれました。しかし、追悼週間の間は様々な所で治安が安定せず、隊員はそういった場への参加は控えるように注意喚起されていたため参加で
きませんでした。彼女はバスの窓から溢れる位の大きな花を抱えてさみしそうな表情で式典へ向かって行きました。
彼女の話を聞いてみたいと思いました。好奇心というのが全くないといえば嘘になりますが、一緒に過ごした時間の信頼と彼女への想いを込めて彼女の過去につ
いて記事作成の依頼をしました。彼女は快く引き受けてくれました。インタビューの間、彼女は「フツ、ツチ」という言葉を決して使いませんでした。時には涙
声になりながら話してくれました。お互いに簡単な英単語での表現なのでおおまかな内容な部分や、ストレートな表現になっている箇所もあります。
当時7歳から20年、彼女は 1 人の息子とお手伝いの女の子と今もキガリで仲良く暮らしています。彼女のこれからの人生がどうか笑顔の絶えない日々でありま
すように。
文:西村緑(24 年度 3 次隊)