古代史の旅⑦ ~「継体(天皇)」は、何者なのか?そして、果たして何を「継体」したのか?!~ 堂本 彰夫 ところで、第 26 代天皇「継体) 」が、我が国の古代史解明において、重要な(臭い?)人物の一人であること は、他言を俟たないであろう。尤も、彼を、 「記紀」が示す、北陸(越前)から担ぎ出された、応神(天皇)5世 孫で、やっとの思いで、晩年、大和の地に入ることができ、そしてそこで正式な主権者(大王→天皇)となった 人物であるということだけでは、ここで言う「重要な(臭い?)」という意味合いは、半減する!と言うのも、 8世紀に入って、天智天皇の子、大友皇子の曽孫とされる文人・淡海三船によって考案された、いわゆる「漢 風諡号」 (死後に贈られる中国風の名前。それぞれの名前に、何らかの史的役割が投影?されているとされる?!もちろん「和 風諡号」もある!)による、 「継体」という名前の意味合いが、十分に(別の文脈で?!)斟酌されていないと、単純 な理解に留まるという意味で、である! これについては、通説では、第 15 代天皇「応神」の、まさに「5世孫」という、血統的には、かろうじての 皇位継承権者ではあるが、一応、その王統を継承することができたということで、 「継体」という名が与えられ ていると理解されているようである。しかし、例えば、前に紹介した(本シリーズ②) 、兼川 晋 氏の本で実証 されている?!「九州年号」の実在、そしてその創始(者?)の年号ではないかとされる「継体(年号) 」と絡ませ てみると、ひょっとしたら、いわゆる「九州王朝」の後継者(→「継体」)という意味合いが炙り出されてくるか もしれないということである!?だとしたら、だからこそ、大和に入るまでに、幾多の紆余曲折(大和周辺の各地 に、都を転々とさせている!)があったのではないかという推察も、俄然現実味を帯びてくるのである?!つまり、 他の大和の有力豪族が、彼の大和入りを、なかなか認めなかったというようなことも指摘されているが、背景 には、そのような事情があったとすれば、それは、かなりの説得力が出てくるのではないかということである?! ただし、一応外部から入ってくるわけであるから、それなりの時間が、かかったということもあろうが?! いずれにしても、もしそうであれば、別に新たな問題も発生してくる?!例えば、九州王統を引き継いだ(実際 は、無理やり引き継いだ、つまり簒奪した?!)彼が、何故、北陸、あるいは近江の出身なのかである(父親は、琵琶 湖北岸の彦主人王・息長氏の後裔)‼しかも、引き継いだ王統、すなわち、それが「応神王統」だとすると、その応 神(王統)は、 (元々は?)他ならぬ九州王朝(ひょっとすると、 「邪馬台国」王統?!)と結びつくものではなかった のか、ということにもなってくる?!もちろん、両者、つまり九州年号の創始者であった「継体」と、記紀に示 されている「継体(男大迹王・男弟王) 」は、全くの別人であり、記紀編纂者(時の政権)が、その両者を、 「継体」 という暗号で結びつけたとも考えられるであろう?!とは言え、全くの別人ではなく、何らかの類縁は有してい たのではないか?!例えば、後に誰かの入り婿となって、そちらの王統をも継承したとかである?!そうでなけれ ば、まったくの創り話となるからである?!やはり、それは有り得ない?!とにかく、この応神王統や継体王統に ついては(も?) 、多くの、そして大きな謎が隠されていることは確かなのである?! そんな中で、かの有名な神功皇后(息長帯日女尊)や武内宿禰、あるいは神功皇后の夫とされる仲哀天皇(北 部九州で頓死?!)等のことが、その前触れ?として出てくるが、そこにある幾つかの謎も含めて、我が国の歴史、 その成り立ちに大きく関わっているであろう「百済」や「扶余」 (→高句麗) 、そしてそれ以前からの関係である 「伽耶」 (韓半島南部地域)という、外国?の地域が絡んでいることは、現時点においても、かなりの真実性があ るように思われる?!これらについても、これから徐々に考察していくことになると思うが(本当に出来るのか、 かなりの不安はあるが?!) 、要するに、この応神(天皇)から継体(天皇) 、そして実は、その継体(天皇)の正嫡と されている欽明(天皇)へと至るあたりが、一つの重要な(臭い?)時期なのではないかということでもある?! 例えば、 「継体」は、前出の兼川氏によれば、百済王統の出で、昆支王子(コンキ:軍君・コニキシ) 、そして応 神が、その兄であり、百済宗家(佛流系百済)の「兄王」 。さらには、例の「倭の五王/讃・珍・済・興・武」 ( 『宋 書』倭国(俀?国)伝)も、実は、九州王朝に入り込んだ(婿入りした?)百済王統の系列だということもある?! ま た、同じようではあるが、応神(天皇)と継体(天皇)は百済宗家(佛流系百済)の兄弟王子で、兄応神(天皇) の死後、弟継体(天皇)が、その王統を継いだが、実は欽明(天皇)は応神(天皇)の子で、継体(天皇)の死後、 その嫡子(安閑・宣化→従兄弟関係?)を排除し(→「辛亥のクーデター」と呼ばれる?!)、政権の座に就いたという 解釈もある?!私にとっては、これらはみな、真実を理解する上で、かなり魅力的な説と思われるわけである! ちなみに、その後の王権(天皇家)は、その欽明(天皇)の血統ということであり、そこから蘇我系(→上宮王 家)と非蘇我系に分かれ、かの有名な乙巳の変(→大化の改新)において、非蘇我系の中大兄皇子(→天智天皇) と中臣鎌足(→藤原氏)が蘇我本宗家を倒し、その後蘇我系の天武(天皇)が、壬申の乱において政権を握った が、その皇后持統(天智の娘!→天皇?)の代から、藤原氏(不比等→百済系?)が実権を握り、以来万世一系の天 皇家が連綿と続いてきたとされる?!平安京に遷都した、後の桓武(天皇)の母親が百済系であったことはつとに 有名だが、天皇家自体が、それ以前から百済王統の血脈を有していたことは、確かなのではないだろうか?!
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