分析批評・宮沢賢治「やまなし」の授業シリーズ(19) 浜上氏の宮沢賢治の年譜を検討する 浜上氏は、第1時に次のような「宮沢賢治の年譜」を子ども達に提示して いる。 1896年 賢治生まれる。 1914年 賢治18歳。菜食主義になる。トシ(妹)入院。 1919年 賢治23歳。トシ全快。 1922年 賢治26歳。トシ死亡。『春と修羅』 1923年 賢治27歳。「やまなし」発表。 1933年 賢治37歳。死去。 ※賢治は自分の書いた作品を「心象スケッチ」と呼んだ。 非常にしぼられている、と私は考える。「やまなし」に関することに、しぼ って年譜が提示してある。例えば、「妹トシの死亡」と「やまなし」の関係 を暗示した年譜となっている。 ただ、「仏教」や「岩石採集」や「社会状況」等の記述が不足している考 えて、より詳しい年譜を作成して、子ども達に提示した。次のようなもので ある。 ねん ぷ 野坂幸弘氏作成のものを元に 宮沢賢治の年譜 [木村がまとめたものである。] 1896(明治29年) 現在の岩手県花巻市に、父政次郎・母イチの 長男として生まれる。家業は、質・古着商。 1898(明治31年) 妹トシが生まれる。 1901(明治34年) 妹シゲが生まれる。 1903(明治36年) 小学校入学。 *前年の凶作のため大ききん。 1904(明治37年) 弟清六が生まれる。 *日露戦争 1905(明治38年) *盛岡に初めて電灯。大凶作。 1906(明治39年) 仏教研修会に参加。 鉱石や昆虫採集に熱中する。 *大ききん。 1907(明治40年) 妹クニ生まれる。 *豊作。 1909(明治42年) 中学校に入学する。岩石の採集に熱中。 13才 1911(明治44年) 短歌を作り始める。 15才 1914(大正 3年) 中学校を卒業する。 18才 「妙法蓮華経」を読み感動、一生の信仰を定 める。 1915(大正 4年) 高等農林学校に入学する。 妹トシ日本女子大に入学。 1918(大正 7年) 高等農林学校卒業。童話を作り始める。 菜食主義開始。 1919(大正 8年) 全快した妹トシを連れて帰郷。 23才 1920(大正 9年) 仏教団体の国柱会信仰部に入会。 24才 1921(大正10年) 妹トシ病気で帰郷。農学校の教諭になる。 「法華文学の創作」を志す。 25才 レコードを聞き音楽熱高まる。 1922(大正11年) 「春と修羅」第一集の下書きを書き始める。 妹トシ死亡。「無声慟哭」詩群を生む。 26才 1923(大正12年) 岩手毎日新聞に「心象スケッチ外輪山 童話やまなし」を発表する。他にも作品を発 表する。妹トシとの交信を求め青森・北海道 等を旅行する。 27才 1924(大正13年) 「春と修羅」を自費出版する。 28才 イーハトブ童話「注文の多い料理店」も自費 出版。 1931(昭和 6年) 肥料工場技師になる。 「雨ニモマケズ」を記す。 1933(昭和 8年) (病気)死亡。37才 浜上氏も、私と同じ野坂幸弘氏作成のもの(『実践国語別冊』から)を元に されているようだが、違いが出ている。私は、作者年譜の提示は難しいもの だと感じた。どの程度の年譜を提示するのがいいのかが、難しい。くわし過 ぎれば何が書いてあるのか分からなくなるし、簡単すぎれば作成者の意図が 出すぎる。ころあいが、難しい。 私は、浜上氏の年譜は簡単すぎる、と考える。また、私のものはくわし過 ぎる、と考える。今のところ、この中間がいいと私は考えている。 なお、次のことは、是非賢治の年譜に入れたい事項と考える。 「仏教」と「岩石採集」 作品を理解するには、是非知っておきたい事項である。 なお、浜上氏の年譜で「春と修羅」の記述がよく分からない。作品の構想 の時期か、出版の時期か…。「春と修羅」の出版の時期は、「1922年」 でなく「1924年」である。
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