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平成 21 年 1 月 19 日 矢野憲一氏談
「伊勢神宮と食文化~もっとしりたい!神宮さんの食の話~」
伊勢神宮の成り立ち
私たち日本人はどこからきたのでしょうか。高天原からといわれ
ますが、どこか海の向こうでしょう。そこで初めて天照大御神がお
米を手にして、これから行く国の主食にしようとしてお孫さんに預
けます。お孫さんは邇邇芸命(ニニギノミコト)という方です。こ
れが天孫降臨といわれることです。日本書紀によりますと、子供と
いってもまだおむつに包まれた子供の邇邇芸命が、長い長い旅をし
ながら瑞穂の国に向かいます。瑞穂の国というのは、日本のことで、
お米ができる国ということで豊葦原(トヨアシハラ)の瑞穂の国と
いいます。邇邇芸命は、お米と一緒に三種の神器も持って行きまし
た。高千穂の海辺から瑞穂の国に上陸しました。その方が、天皇の
ご先祖で、それから何代かの天皇が皇居でお米をつくったのです。
日本書紀によりますと、その後、国民の三分の一が死ぬという大
変な伝染病がはやりました。どうしてそのような病気がはやったの
か、占いをしたところ、この国で一番いいところでお祭りをしなさ
い、という結果がでたのです。
そこで、天皇のお血筋のお姫様である倭姫(ヤマトヒメ)の命が、
当時の日本をあちこちまわられました。岐阜県から愛知県、滋賀県
をまわって伊勢へ着いたのです。そして今の伊勢神宮内宮の場所で
ある、五十鈴川の流れる所で、ここにいたい、という天照大御神の
声を聞いたのです。こうして、今から2000年前、伊勢神宮がで
きました。
そうすると、今度は神様に食事をしていただかなくてはなりませ
ん。今、私たちは三食食べていますが、昔は朝と夜の二食でした。
室町時代まではほとんど二食で、働きに応じて非時食を食べました。
神様の食事は、少なくとも記録にある1300年前からは毎日、朝
と夕方の二回です。でも、伊勢神宮の外宮が御鎮座したのは150
0年前ですから、本当は1500年前からかもしれません。
神様の食事
大昔は、今と違ってご馳走を食べました。ご馳走というのは、走
り回って採集してくるという意味です。お店はありませんから、全
部自分で採ってこなくてはならず、それがご馳走でした。
基本的に、毎日、お米とお塩とお水、これだけはどんな時もかか
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せませんでした。水のことについて、伊勢の昔話があります。瑞穂
の国に上陸する前、偵察隊が先にきたのですが、全てのことがうま
くいき、食べ物がありいい国でしたが、水が悪いということがわか
りました。そこで天照大御神が八つの瓶に水を入れて運んできたと
いう伝説があります。そしてその水を伊勢神宮の外宮の井戸へ入れ、
それが日本中の谷水になり神様が飲んだ。これは神話ですけれども。
その伊勢神宮外宮の井戸へは、毎日、水を戴きにいきます。雨の
日も風の日もです。私も40年間伊勢神宮に奉仕させていただきま
したが、伊勢湾台風の時のように、どうしても行けなかった日があ
ります。そのときのために、御用意として、前の日に瓶に一杯だけ
必ず汲み置きしています。
また、井戸は二つあり、万が一枯れた場合には、もう一つの井戸
でくみます。井戸には神様がおられ、こんこんと水が沸いているの
です。その井戸で、何か事故などあったときは、すぐに天皇陛下に
ご報告することになっています。そのようなことが長い歴史の中で、
5,6回あり、その中で蛇が死んでいたと言う記録も平安時代の話
としてあります。
塩の話ですが、倭姫の命が二千年前に塩をつくりなさい、と言っ
た所で今も塩作りを続けています。三角の塩です。塩の田んぼがあ
り、そこに海の水を引いて、海の水だけでなく川の水と混ざった所
があり、そこで作りなさいと倭姫の命が決めています。
お米と神嘗祭と新嘗祭
高天原から瑞穂の国に、邇邇芸命がお米をもってきましたが、お
米は、神様から戴いたのではなく預かったのです。古事記、日本書
紀には、
「依奉(ヨサシマツ)りき」と記載があり、お米は預かった
のですからお返ししなくてはいけません。
「今年も大御神様と約束したとおり作りました。豊作でした。あり
がとうございます。」と神様にご報告する場所が、伊勢神宮であり、
それは神嘗祭(カンナメサイ)です。神嘗祭とは、神様が食べると
いうことですが、嘗という字はただ食べるのではなく味わって食べ
る、おいしいと嘗めながら食べるという意味です。
また、新嘗祭(ニイナメサイ)では、天皇陛下が初めて新米を食
べることです。伊勢神宮の神主は神嘗祭までは新米を食べないとい
うことになっています。ただ、神嘗祭は十月で、昔はまだお米が取
れていませんでしたが、今は八月には新米が取れます。お店などで
は、十月より前に新米が出ていますが、私たちも家では神嘗祭前に
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新米は買いません。
ところで、伊勢神宮の中で私たちは、新米は一年間食べません。
普段戴くお食事は古米です。昔、三十年くらい前は古々米のときも
ありました。そのころは、もし不作で出来なかった時のために、新
米は神様に、古米はストックして、私たちは古々米を戴いていまし
た。
お米を作る田んぼも、二千年以上前からずっと同じところで作っ
ています。神宮神田といい、お米を天照大御神さまから戴いた儀式
どおりに、毎年毎年作っています。種をまく前に農機具の鍬を作る
お祭りを行い、忌種(イミタネ)を播きます。鍬を作るお祭りでは、
山の神様にお許しを得て鍬になる木を切るのですが、その前に猪を
追い払わなくてはなりません。猪狩という神事も、明治時代まであ
りました。そんな祭りを二千回も続けてきたのです。毎年一回です
から、これまでに二千回、これまでずっと一回も休まずに続けてき
ました。
稲魂といって、稲には魂があるのです。万葉集の時代、全てのも
のに魂が入っていて霊があるという信仰がありました。山には木魂
(こだま)、水には水の魂、そしてお米は稲魂、言葉には言魂。お米
には、天照大御神様が日本人の食にしなさい、といった気がこもっ
ています。
皆さん、元気という字を書いてみてください。本来の氣という字
の中は米という字です。日本人は、お米を食べて元気なんですね。
しかし、戦後は米という字でなくなってしまいました。
また、神嘗祭は、一年で一番のお祝いの日であり、お米を中心と
した物に感謝する日でしたが、なくなってしまいました。
また、新嘗祭は現在は勤労感謝の日で11月23日になりました
が、昔は天皇陛下が天照大御神と一緒にお米を食べる日であり、あ
らゆる物と働く人に感謝する日でした。
神饌について
現在私は、伊勢神宮を退職して、五十鈴塾という NPO 法人をやっ
ていますが、ここでは日本文化の体験学習塾のようなことをしてい
ます。たとえば食の体験として、ご飯を釜戸で薪を使って炊きます。
神宮の釜戸では、まず木と木をすりあわせて火をおこすことから始
めます。これが大変なのです。私も、大学を出て、伊勢神宮で初め
てそれをやったときは、なんでこんなことをしないといけないのだ
ろう、ちょっとマッチがあったらつくのになあ、と思いました。そ
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うしたら先輩に「千五百年間ずっと先輩がそうやってきたんだよ。
今日やめたら終わりだよ。いつでもやめられるんだよ。」と言われま
した。昔の人の気持ちになって、何も考えずに一生懸命やれば火が
つくのです。その火の玉は、お灸のもぐさのようなものなのですが、
それからポッと火をおこすまでがまた大変です。煙突のない釜戸で、
火吹きだけでご飯を炊きます。
神饌のお米は土臼で手でついたものですから、白米ではないお米
で、それを蒸します。蒸したおこわです。魚は、鰹節が毎日つきま
す。野菜や果物は、神宮御園というところで栽培しています。そこ
では、神職が責任者となって全ての農作業をするのですが、一年間
に百種類の野菜果物を作ります。サイズも決まっていて、大きく作
るのではなく、決まったサイズのお皿にのるように作らなければな
りません。
また、朝と夜では野菜の盛る種類が違って、葉っぱ物は朝に、根
菜は夜にというふうです。これは、毎日、神宮御園(ミソノ)から
野菜を運んでくるのですが、葉っぱのほうが早くいたむので、早く
使うのです。野菜は、明治時代になってからは、神宮御園で作って
いますが、それまでは御薗、御厨(ミクリヤ)、神戸(カンベ)とか
そういう名前のところから納まっていたのです。たとえば、名古屋
の御園座というところには、昔、神宮の畑がありましたので御薗と
いう名なのです。
神様のお食事は、毎日、ご飯、野菜、海草、お酒が毎日三杯です。
一番最後にお酒なのですが、昔のお酒はどぶろくで、あまり最初か
ら飲むとお腹がいっぱいになるので、最後に飲むのです。このよう
に、毎日の食事は、全部神宮で作った物をお供えします。ただし、
生の魚を明治時代以降は供えるようになりました。鰹節の他に生の
魚の鯛です。これは特定の魚屋から仕入れており、毎朝運んできま
す。夏はこれがするめになりますが、ムツとかの干物の日もありま
す。
神饌はお供えした後、ご奉仕した人がいただきます。私も四十年
間いただいてきましたから元気です。神様がお召し上がりになった
後ですから、パワーがいただけます。神饌はお下がりなのです。た
だし、神饌は持ち出し禁止です。
神饌というと、古い食べ物、日本人の原点の食べ物と思われるで
しょうが、昔ながらの神饌は、三節祭にかぎってお供えします。三
節祭とは、神嘗祭と六月と十二月の月次祭です。この三節祭と二十
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年に一度のご遷宮には、昔ながらの神饌をお供えします。その一つ
に鮑があります。
倭姫の命が天照大御神の「伊勢の国は、傍国のうましくになり。
この国におらんとおもふ」という声を聞いたのはどうしてだろうか
と考えてみてください。うまし(美し)国というのは、風景が美し
いと共に、おいしいものがとれるということです。伊勢は、鮑や伊
勢えび、海の幸山の幸に恵まれています。神様のご鎮座後、倭姫の
命が神饌を探しに鳥羽の国崎(クザキ)というところに行きました。
そこで海女さんが大きな鮑を潜って取ってきて「神様に供えてくだ
さい」と言ったそうです。その二千年前の海女さんは「おべん」と
いう名前でつたわっていて、神社に祀られています。
神饌は、お米、餅、お酒は別格として、副食としては鮑が一番大
事にされています。鮑は、二千年前にブームがありました。中国で
秦の始皇帝が徐福(ジョフク)という者を日本に遣わし、不老長寿
の薬を探しに行かせました。私は、それは鮑のことでないかと思い
ます。今でも中国の奥地へいくほど鮑は大事にされていて、古代中
国では鮑をたべると永遠の命を授かるといわれています。
日本では今は簡略化されていますが、贈り物をするときに昔は熨
斗(ノシ)をつけることが正式でした。熨斗は、本来は鮑をつけた
のです。これも、あなたの長生きをお祈りしますということです。
熨斗鮑は、特殊な包丁を遣ってかつらむきでカンピョウをむくよう
にします。一つの鮑をずっとむいて、長いのを作ります。切らずに
むいて伸ばします。
これは私の説ですが、中国では贈り物に石の玉を遣いました。生
のあわびは、色といい艶といい、玉そっくりです。鮑が珍重された
その時代に、伊勢に神様がここにいたいと思うのは、鮑がとれる所
だったからではないかと私は思います。その鮑を伸(の)す、
「のし」
というのは命を伸ばすということです。
熨斗鮑はどのような味かというと、口の中でなくなるまで最初の
味が持続します。とびきり美味しいわけではありませんが、日本人
のおいしいというのは鰹節、しいたけ、など生よりも太陽に干した
方が、日本人好みの味に思えます。太陽の力は天照大御神の力です
ね。
さめのたれ
伊勢には、『さめのたれ』、というものがあります。神宮の神饌と
してお供えするのですが、三重県でも知らない人が多く、伊勢から
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松阪まではあるのですが、津までいくとありません。さめのたれは、
さめの干物で、みりん味と塩味があります。塩味は大昔からありま
すが、みりん味は大正時代からです。
「たれ」
、と言うのは、さめの肉をぺらーんと垂らして作ったから
だと思います。江戸時代の文献には「たれ」とか「たり」と書いて
あります。伊勢では、
「さめのたれ」といわずに、ただ「たれ」と言
います。室町時代以前は、さめのたれ、というのはでてこず、その
代わりに「すはやり」という言葉が出てきます。これは、ジャーキ
ーのようなもので、神道は四つ足を嫌いお肉を食べませんでしたか
ら、貝や魚を切って乾燥させたものです。
式年遷宮
伊勢神宮では、二十年に一度、社殿を新しく造り替え、神様に新
しい新宮へおうつり願う式年遷宮(シキネンセングウ)があります。
皆さんが、永遠に若くありたいと思われると思いますが、伊勢神
宮には「常若(トコワカ)
」という信仰があります。死なないように
したい、という信仰はよくありますが、死なないのは無理ですので、
自分は死んでも子供にバトンタッチして、次に孫にバトンタッチし
て永遠に命を続ける、そのためには生まれ変わらなければなりませ
ん。そのため、20年に一度生まれ変わり、常に若がえる。
伊勢神宮では内宮、外宮とも、東と西に同じ敷地があり、順番に
社殿をそのまま同じものを建てます。それによって、文化が伝わる
のです。記録では1300年前からずっと続けられています。建て
るだけではなく、しっかりとその時々の行事を8年かけて行います。
今年平成21年は、11月3日に宇治橋を建て替えます。2月1日
で今の橋は終わり、11月3日までは仮橋を使用します。このよう
な方法で、永遠に生きるのです。
江戸時代には、おかげ参りという集団でのお伊勢参りが大流行し
ました。最近も、若い方の伊勢神宮へのお参りが多くなり、またブ
ームがきているのかなと感じています。
神宮参拝のおすすめは、朝十時までの人が少ない時間帯です。霧
がかかっているときは、神気漂う気配です。ぜひ、大勢の方に伊勢
神宮に足を運んでいただきたいと思っております。
終
文・編集:マーケティング室ブランドグループ
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