多文化主義、多文化共生、そして インターカルチュラリズム 小倉和夫 多文化主義は、間違っていた─────ここ数年、そんな発言が、主としてヨーロッパ の政治指導者の間であいついだ。プランスのサルコジ大統領、イギリスのキャメロン首相、 そしてドイツのメルケル首相などだ。 このような、多文化主義に対する幻滅や批判は、近年のヨーロッパ情勢を反映している。 すなわち、多文化主義は、左右双方からの攻撃にさらされ、社会をまとめてゆくスローガ ンではなく、むしろ社会の分裂と摩擦を増大しかねない概念とする見方が、強くなってき たからだ。 もともと多文化主義は、文化、言語、風俗が著しく異なる移民の増大を前に、これらの 移民集団と既存の社会集団との和合、共存をめざすスローガンだった。移民の杜会参加へ のプロセスを容易にし、また既存の社会集団の「受容」と「理解」を深めるための概念で あった。それは、「統合」や、「同化」のように、もっぱら既存の集団の立場から唱えられ た概念と異なり、移民集団の「相違」を受け入れ、それを社会の創造性と再生のために生 かして行くという考えにもとづいていた。 ところが、実際に起こったことは、共存、共栄の定着ではなく、むしろ、 「相違」の固定 化や反発の強化であった。 「相違」をそのまま受け入れることは、受容の過程で「相違」の固定化や強化へつながっ ていった(あるいは、そういう認識が広がった)。イスラムの移民集団の女性が、スカーフ を家庭の周辺ばかりではなく広く公共的場所一般で着用することを避けるどころか、むし ろ着用に固執する傾向があらわれたことも、 (個々人の動機はさまざまとしても、社会現象 一般として見ると)「相違」の強化の一例とみられた。 「相違」を許容することは、結局「相違」をいつまでも残存させ、うかうかすると、社会 の「基本的」あるいは「普遍的」価値観とも衝突することになりかねないという危惧が高 まったのだ。 また、別の形の反動もあった。移民集団の権利や「相違」を尊重するのなら、その国な り既存の社会集団の「伝統的」価値なり風俗も尊重きれるべきであるとして、ある種の文 小倉和夫、青山学院大学特別招聘教授、青山学院大学国際交流共同研究センター客員研究員 39 化的保守主義の激化をまねいたのである。フランスにおける、いわゆる「極右」の主張に は、そうした傾向が読み取れる。 これに対して、もっぱら「少数派」の文化的権利の擁護という観点から、主としてカナ ダで唱えられて来たのが、インターカルチュラリズムという概念だ。これは、カナダの「少 数派」の、フランス語系の人々の言語文化を守ろうとする動きの一環で、文化的アイデン ティティの「二重性」(DUALITY)を政治的に堅持する活動の標語である。すなわち、英 語文化が「多数派」をしめるカナダで、フランス語文化の少数派は、次の世代のためにも、 フランス語文化を守るための特別の施策(たとえば、学校教育や、公共放送におけるフラ ンス語の義務付け)を認められるべきであり、またそうした権利は、違った形にせよ、少 数派のなかの少数派(フランス語圏のなかに住む、英語使用者)にも認められるべきであ るとする。簡単に言えば、 「二重性」こそが、カナダの本当のアイデンテイテイである、と いうのだ。 この概念は、隣国にアメリカという広大な影響力を及ぼす英語使用国が存在するカナダ の特殊な状況を反映したもので、他国に容易に写し替えることのできるものではないが、 その考え方には傾聴すべき要素がふくまれている。すなわち、民族や国家のアイデンティ ティは、一つの言語や文化的風習に基づくものである必要はなく、複数の言語や文化に基 づいてもよいという点を強調しているからである(その意味では、インターカルチュラリ ズムは、多文化主義と類似しているが、多文化主義が、文化の意味を広くとり、同時に、 各文化の並列的存在を前提とするのに対して、インターカルチュラリズムは、異文化同士 の相互浸透を初めから前提としつつ、文化的単位の根本として「言語」を据えているとこ ろに違いがあると言えよう)。 他方、日本では、多文化共生という言葉がはやっている。出稼ぎの外国人労働者や、農 村地帯に嫁いで来た外国人花嫁たちの、地域社会への参画をスムーズにしようとする概念 として用いられている。たしかに、「共生」という言葉には、外国人を受け入れることが、 受け入れ側にとっても、好ましいものであるという考えが含まれており、その意味で、多 文化主義、インターカルチュラリズムといった概念よりも、社会的にまた普遍的に受け入 れられやすい概念に見える。 けれどもここには、また別の落とし穴がある。それは、 「文化的」共生は、政治的、社会 的共生の欠如を覆い隠す「ごまかし」にならないかという問題である。たとえば日本に永 住している「少数派」の在日韓国人の参政権や社会的平等の確保といった問題は、文化的 共生という「美しい」言葉の陰に追いやられていないか────そうした問題を正面から 扱える概念はなにか、を考えねばなるまい。その際、日本においては、共生という言葉は、 単に外国人との関係ばかりでなく、身体障害者と健丈者との関係などについてもしばしば 用いられていることに留意せねばならないであろう。 ひるがえって、豪州などでは、そもそも多文化主義、多文化共生だのと言いたてること 40 自体が(特に若い世代にとっては)意味が薄くなっているという見方もある。すなわち、 青少年たちは、ネット上で、自分自分の架空の「世界的」文化グループに属しており、物 理的な周辺の人々との「文化的」差異は特に気にしない傾向にあるというのだ。こうした 傾向は、一見開放的で、望ましい姿のように見えるが、裏を返すと、青年たちは、文化的 伝統に無関心であり、そうしたものは、グローバリゼーションの下で失われつつあるとい う現象が、典型的な形で、豪州の青年社会に現れていともいえる。そうだとすれば、ここ にはまたここで、考えるべき問題が潜んでいると言えよう。 41
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