俺の死亡フラグが留まるところを知らない;pdf

俺の死亡フラグが留まるところを知らない
泉
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︻小説タイトル︼
俺の死亡フラグが留まるところを知らない
︻Nコード︼
N4449CJ
︻作者名︼
泉
︻あらすじ︼
その辺にいるような普通の大学生・平沢一希は気が付いたらゲー
ムのキャラクターに憑依していた。しかもプレイヤーから﹃キング・
オブ・クズ野郎﹄という称号を与えられた作中屈指の嫌われ者、ハ
ロルド・ストークスに。そんな彼の周囲には死亡フラグと見える地
雷が盛り沢山!果たして一希は山のような死亡フラグを回避して生
存ルートに辿り着けるのか!?
1
1話︵前書き︶
辛抱堪らず新作投稿。
既存の方と並行してやってきます。
2
1話
ガシャン、という甲高い音が室内に響き渡る。
反射的に両手で耳を塞ぎたくなる程の騒音を撒き散らしたのはカ
イゼル髭を生やし黒光りしたステッキを携え、詰め襟の軍服に身を
包んでいる30代半ばの男性だ。彼はその右手に握ったステッキで
高さ1メートルはあろうかという巨大な花瓶を叩き割った。
白い花弁が舞い散り、漏れ出した水が深紅の絨毯に広がっていく。
﹁どう責任を取るつもりだ!?﹂
﹁申し訳ございません!どうかお許しください⋮⋮っ!﹂
﹁ふざけた口をきくな、この低劣めが!﹂
男性の表情は怒りに染まっている。鬼の形相とは今の彼を指して
使う言葉だろう。
烈火の如き怒りは花瓶を破壊した程度ではまるで収まる様子はな
く、彼の眼前で膝を着き頭を垂れて泣きながら謝罪の言葉を吐き続
ける使用人へ口汚い罵詈雑言を浴びせかける。
そんな彼の隣には少年を抱き締めて使用人に軽蔑したような目を
向けるきらびやかなドレスを纏った妙齢の女性の姿もあった。構図
としては軍服の男性とドレスの女性が1人の使用人を責め立ててい
る、ということになる。
状況を整理した平沢一希はこう結論を下した。
3
︵⋮⋮もしかしてこれゲームのイベント?︶
とち狂ったとしか思えないような結論だが、こんな答えを出した
のには当然理由がある。一希にはこの人物と光景に見覚えがあった。
Hear
今彼の前で繰り広げられている一連のやり取りは数年前に発売さ
れた家庭用ハードのソフト、1人用RPG﹃Brave
ts﹄のワンシーンと酷似していた。
瞬時にそう思い出せたのは一希がこのゲームのファンだからに他
ならない。周回プレイの回数も両手の指では足りないくらいにはや
り込んでいる。
各イベントシーンにおけるキャラクターのセリフもおおよそ記憶
しているのだから間違いようがない。
軍服の男とドレスの女はゲームに登場するキャラクターの両親で
あり、涙ながらに許しを請う使用人もメインキャラクターの母親だ。
そこまでの状況を把握し、先ほどからドレスの女性に抱き締めら
れている一希は極度の混乱状態に陥って膠着してしまう。
どうしてゲームのキャラが動いているのか、そもそもこれは現実
なのか、自分の身に何が起こっているのか。
次々と湧き出す疑問に思考が空転する。
唐突に訪れた修羅場に理解が追い付かない中、それでも明確にな
っていることがひとつだけあった。
︵いきなりこんな鬱イベントに放り込まれても困るんですけど!?︶
それは仮に眼前の光景がゲームのシナリオをなぞるならば使用人、
クララの命が風前の灯だということ。
4
一希が鬱イベントと言ったことから察せられるかもしれないが、
これは使用人が殺されるイベントである。クララは軍服らの息子、
ハロルドの手によってその命を奪われるのだ。
︵肝心のハロルドはどこだ?このシーンじゃ確か心配した母親に⋮
⋮って、まさか︶
そして一希は追い討ちのような事実に気が付く。今の自分の立ち
位置がハロルドと同じだということに。
連鎖的にとある違和感が生まれる。それは視界の高さに起因して
いた。
しっかりと両足で立っているにも関わらず視界がかなり低くなっ
ていたのだ。
このイベントシーンは作中で過去の回想として描かれている。詳
細な年数は不明だが、その際のハロルドは10歳程の少年だった。
様々な要素が嫌な符合をみせる。
︵もしかして俺、ハロルドになってんのか⋮⋮?︶
それは突拍子もない思い付きだ。何か確証があるわけではない。
しかしその可能性が頭をよぎった瞬間、背筋に強烈な悪寒が走っ
た。
︵いやいや何言ってんだ俺。これは夢だろ、普通に考えて︶
嫌な予感を振り払うように自分へそう言い聞かせる。それが最も
常識的で納得のいく答えだ。
だが理性がこんなものは夢幻だと必死に主張しようとも、抱き締
5
められる温もりが、耳を打つ怒声が、現実味を持って一希の五感に
訴えかけてくる。いくら否定してもこれが夢だとは到底思えなかっ
た。
︵じゃあなんだ、これが夢じゃないとしたらやっぱゲームの世界っ
てことか?あり得ねぇだろ⋮⋮けどこのリアルな感じは現実としか
⋮⋮しかしいくらなんでもゲームの世界って⋮⋮とは思うけどもし
そうならクララさんが死んじまうぞ!?︶
理性と本能、二律背反の思考で板挟みに陥った一希はただ呆ける
ことしかできない。思考が堂々巡りを繰り返すうちに考えることを
止めたくなった。
そんな心とは裏腹に体が自分の意思と切り離されたように動く。
母親の腕を振りほどくと、足が一歩二歩と前に踏み出した。
﹁貴様の命乞いなどに耳を貸す価値はない。その穢れた血を私が直
々に粛清してやる﹂
﹁待って父さん。この女の処刑は俺に任せてよ﹂
壁にかけられていた剣を取り使用人をいざ切り捨てようとする男。
その背後からハロルドが制止の声をかける。
それは一希にとって画面上で見慣れた台詞。
本来のゲームではボイスがあてられていない台詞を、聞き慣れた
ハロルドの声で、自分が喋っていた。そこに自らの意思は全くもっ
て介在していないが。
﹁お前に?どうするつもりだ?﹂
6
﹁最近新しい魔法を覚えたんだ。その実験台にさせてよ。こんな劣
等種の血で部屋を汚すよりいい使い道でしょ?﹂
自分の口角が上がるのが分かった。一希の感情とは裏腹に悪役ら
しい笑みを浮かべていることだろう。
言うまでもないが一希に笑みを浮かべる余裕は微塵もない。訳が
分からない状況に置かれた上、体が己の意思に反して行動を起こす
のは耐え難い恐怖だった。
そんな状態で機転を利かせられるほど一希は豊富な人生経験を積
んでいない。この状況で臨機応変な対応ができる人間は冷静や優秀
を通り越してもはや変人だろう。
幸か不幸か一希は変人ではなかった。
しかしそれは裏を返すとこのイベントの流れを変えられないとい
うことを意味する。
﹁ほほう、それも一興か。それまでこの女を地下牢に放り込んでい
ろ!﹂
軍服が声を張り上げるとすぐさま現れた兵士に腕を掴まれてクラ
ラは連れ去られていく。一希はその後ろ姿をただ見送る他ない。
﹁穢らわしい混血め。情けをかけて雇ってやったというのに仕事ひ
とつまともに出来んとはな﹂
﹁所詮は劣等種ですもの。ハロルドの魔法を試すのだから役に立つ
方だわ﹂
7
﹁ふん、それもそうか﹂
まるで汚ならしい物を見るような、嫌悪感を隠そうともしない眼。
この夫婦は使用人のクララを人間とは認識していなかった。
通常ならそれに対して一希は不快感を露にしただろう。
だが混乱で視野が狭まった一希の耳に夫妻の言動は届かない。届
いてはいてもその内容をしっかりと知覚できていなかった。
そんな呆然自失の状態に陥ること数十分。周囲の事はおろか、あ
れから誰とどんな会話を交わしどうやってこの場所へたどり着いた
のかさえ何ひとつ記憶になかった。
意識がはっきりした時、一希は見覚えのない部屋で1人用のソフ
ァーに深く腰掛け視線を虚空にさ迷わせていた。
﹁⋮⋮ここはどこだ?ハロルドの部屋か?﹂
力の無い声で呟きながら、宛もなく泳がせていた目でぐるっと部
屋の中を見回す。
ゲーム中に登場したことがないので正確なところは分からないが、
部屋の広さと天蓋付きのベッドや腰掛けているソファーなどの内装
から誰かの個室であることは窺い知れた。
その部屋の一角に成人男性の背丈を越える大きな姿見があった。
ごくり、と唾を飲み込んで一希が喉を鳴らす。
震える膝にありったけの力を込めて立ち上がり、覚束ない足取り
で姿見へと向かう。
自身の予想を確認するために。その予想が外れていることを祈り
ながら。
8
一歩、また一歩と近付くにつれ心臓の鼓動が激しくなり、呼吸も
早く浅くなっていく。それでも一希はその足を止めることはしない。
そしてついに、姿見の前に立つ。
俯いて自身の足先しか見えていなかった顔をゆっくりと上げる。
姿見と相対し、強く瞑っていた瞼を開く。そこへ映し出されてい
たのは紛れもなく︱︱
﹁嘘、だろ⋮⋮﹂
無情にも、少年時代とおぼしきハロルドの姿だった。
9
2話
艶のある黒髪に赤い瞳。日本を飛び出しアジアからもかけ離れた
造形の容姿はハロルドの面影を嫌でも感じさせる。
身長はおよそ140センチほどで年齢はやはり10才前後。
ピンタックの付いた純白のクロスタイブラウスに膝丈のハーフパ
ンツという装いで、まさに絵に描いたような名家の英国少年といっ
た風体である。
平沢一希はハロルド・ストークスへと成り代わった。受け入れが
たいが、それが事実なのはこれでほぼ確定した。
その理由も方法も分からない。果たしてこの事態が憑依と呼ぶべ
きものなのか、ただ恐ろしいほどリアルな夢を見ているだけなのか。
それとも平沢一希とハロルド・ストークスが入れ替わったのかもし
れないし、もしかすると平沢一希という自意識はこの体の持ち主の
気が触れて生み出された妄想に過ぎないのかもしれない。
自己を証明する要素の喪失。足元が崩れ去るような感覚に襲われ、
力が抜けそうになった膝に手をつくのと同時に込み上げてきた嘔吐
感を寸でのところで食い止める。
息が苦しい。目眩で視界は白く染まり、胃酸が逆流しようと暴れ
回る。
とにかく酷い気分だった。
もうこのまま全て投げ出して眠ってしまおうか。そんな投げやり
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な気持ちで一希はベッドに倒れ込んだ。すでに思考を働かせる気力
すらない。
寝て起きたら夢オチで、マジ焦ったわーとか呟きながら冷や汗を
拭う。そんな希望にすがって手放しかけた意識は、しかし扉をノッ
クする音によってハロルドの体へと引き戻された。
﹁⋮⋮入れ﹂
無視を決め込むという選択肢も頭を過った。
だが深く考える前に口は返答を吐き出していた。それがハロルド
の意思なのか、一希の無意識だったのかも判然としない。
︵ああ、でも“俺”ならいきなり﹁入れ﹂はないよな︶
誰かも分からない相手にそんな不遜な物言いをするほど一希は礼
儀知らずではない。となると先程と同じように体が勝手に動いたの
だろうか。
返答してしまった手前仕方ない、と気だるい体を起こしながらそ
んなことを思い付いてさらに気分が沈み込む。
だからといって来訪者が入室を控えてくれるわけもない。白髪混
じりの男性が扉を開き恭しい一礼を見せてから部屋へと踏み入って
きた。
その顔を見て一希は相手が誰なのか認識した。
ノーマン。
この屋敷で執事を務める彼はプレイヤー達から﹃ストークス家の
良心﹄という異名を与えられ、親しみを込めて﹁ノーマンさん﹂と
呼ばれるキャラクターである。ただの執事であり血縁者というわけ
でもないのでストークス家の一員ではないのだが。
11
ハロルド
ともかくヘイト値高めなストークス家関連のイベントにおいて心
の清涼剤となる彼が一希の自室を訪ねてきた。
﹁失礼致します﹂
﹁何の用だ?﹂
﹁実はハロルド様にご相談したいことが⋮⋮﹂
言いかけてノーマンの言葉が途切れた。
不審に感じて一希はノーマンの顔を見つめ返す。すると返ってき
たのは困惑したような言葉だった。
﹁もしや体調が優れないのですか?でしたら⋮⋮﹂
﹁問題ない﹂
﹁しかし顔色が︱︱﹂
﹁問題ないと言っている﹂
なんとも無下な態度でノーマンの気遣いを切って捨てる。
正直なところ問題しかないのだが、﹁実はハロルド君に憑依しち
ゃったみたいです﹂とバカ正直に伝えられる訳もない。なのでやん
わり断ろうとしたらこの有り様だ。
どうもこの口は言葉を自動的にハロルド口調へと翻訳してしまう
らしい。先程の﹁入れ﹂もこの口の仕業だろうか。だとしたらなん
とも迷惑な機能である。
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対してそんなハロルドの素っ気ない反応にノーマンは大きな違和
感を感じていた。
彼が知るハロルドという少年は我慢することを極端に嫌う。努力
はせず、苦痛からは逃げ、気に障るものは全て排除しようとする。
それを全面的に容認する両親にも大きな責任はあるのだが、つま
りハロルドが体調を崩しているならばこうして堪えるなどせず体の
不調を大袈裟に訴えるはずなのだ。
ところが今日に限ってそうはせず、顔を真っ青にしながら話の続
きを促してくる。
時間を改めるべきかとも考えたが、ハロルドの目が﹁早く語れ﹂
と訴えているのを見てノーマンは言葉を続けた。
﹁⋮⋮では手短に。クララに課した処罰の軽減をお願いしたいので
す﹂
一希は言われて思い出す。自分が今、人の命を握っているという
事実を。
ハロルドに成り代わってしまったという衝撃があまりにも大きす
ぎて完璧に失念していた。
新しい魔法の実験台にするというのはイベントのセリフを口が勝
手に消化しただけであり、もちろん一希にそんな心積もりは一切な
い。
なのでノーマンの申し出を二つ返事で快諾しようとして、しかし
それを言葉にすることができなかった。
ハロルドの意思が邪魔をしたとかそういう訳ではない。一希自身
が言葉を飲み込んだだけだ。
13
なぜか、と問われれば原作の知識を持っているからと答える他無
い。
原作通りならば使用人のクララはハロルドの魔法によって焼き殺
される。それによって身寄りをなくした彼女の娘・コレットはスト
ークスの領地から追い出されてしまう。
やがて心身共に疲弊して行き倒れたコレットを保護し、それから
同じ屋根の下で暮らすことになるのが原作主人公とその家族なのだ。
早い話がコレットはメインヒロインであり、ここでクララを助け
てしまえば主人公と出会う本来のストーリーから大きく解離してし
まう。一希はそれに気付いて返答に窮したのだ。
これはあくまでも可能性の話だ。
別にクララを助けても殺してもコレットは主人公と出会い、仲間
になるのかもしれない。歴史の修正力、などと呼ばれる事象だ。
もし一希が好き勝手に動いても修正力が働くならば良くも悪くも
気にする必要はない。
︵でもそんなものがあったら原作のイベントは回避できないし俺の
お先が真っ暗だ。ここは修正力なんて存在しないものとして考えて
おこう︶
そうでもしておかないと一希の精神衛生上よろしくなかった。
だが逆にいえば修正力なんてものが作用しなければ原作知識を有
する一希にとってハロルドが犯したクズ行為を避けて好感度を下げ
させないように振る舞うのは困難極まる話ではない。
一希の心に希望の光が差す。
︵その為には原作からの大幅な解離はアドバンテージを失うことに
14
なるから下策だよな。大まかなシナリオは変化させずに結末だけま
ともな方向に誘導できれば⋮⋮!︶
ハロルド
このまま何も行動を起こさずシナリオが原作通りに進行すれば、
どうせ一希は数年後に死を迎えることになる。
ならば四の五の言わずにできることをやるしかない、と一希は腹
を括った。
ハロルド
そんな強い決意を宿した一希の瞳にノーマンはドキリとする。こ
のような目をする彼の少年は見たことがなかったからだ。
﹁クララ、とはあの使用人だな?アイツを助けるために俺が行動を
起こせというのか、貴様は﹂
口を開いたことを一希はすぐさま後悔した。
一希としては﹁クララさんってさっきの使用人の方ですよね?助
けたいのは山々ですが俺は大っぴらに動けないんです﹂と口にした
つもりなのだ。それをどう意訳すればこんな発言になるのか。
当然ながらノーマンの表情も気落ちしたように曇る。
︵これはイカン!︶
非常にマズイ流れになっているのを一希は肌で感じていた。この
ままではヘイトポイントが従来と同じく加算されてしまう。
なんとか取り繕おうと必死に言葉を絞り出す。
﹁助けたいと思うならまずは自分で動け。話はそれから聞いてやる﹂
﹁そ、それでは⋮⋮!﹂
15
﹁くどいぞ。さっさと行け﹂
予想以上の悪態を発する自分の口に焦った一希は半ば追い出すよ
うにしてノーマンを退出させた。
そんな扱いでも感謝を述べて出ていった彼を見て、なんとか協力
する意思があることを伝えられたらしいと安堵する。
ベッドへ今度は仰向けに寝転がり、一希は自分の軽率な考えを深
く反省し始めた。
早くも前言撤回せざるを得ない。この口がある以上、好感度を下
げずにイベントの結末だけを変化させるのはかなりの難題となりそ
うだった。
だからと言って﹁やっぱり諦めるか﹂というわけにもいかない。
最悪の状況を想定するならばこの世界での死が正しく平沢一希の
死へと直結する場合が最も困るのだ。ここで死ぬことによって元の
世界に戻れる可能性もあるが、それを試すにはリスクが高過ぎて行
動には移せない。
なのでこの状況から脱する糸口が掴めるまではハロルド・ストー
クスとして原作に沿いつつクズ的行動を避けていくのがベストな手
段だ。
Hearts﹄と同じ世界なのか、似て非なる別物
そうやって原作に近い位置で世界の流れを注視していけばここが
﹃Brave
なのかもはっきりするはずだ。
そして今一希がすべきことは何か。それは現状を把握するための
情報収集である。
16
希望を見出だしたことで若干気力を回復させた一希は、ベッドか
ら降りて引き出しや本棚を漁り家捜しを開始した。すると部屋の中
には雑貨以外にもゲームに登場するアイテムがいくつかしまってあ
った。
本棚に収納されていたのは魔法に関する書籍や挿し絵の多い伝記
などがほとんど。幸いなことに記されていたのは日本語であり一希
でも読むことができた。
やはりメイド・イン・ジャパンの世界なのかもしれない。
一通り家捜しを終えると次は部屋を出た。クララと話をするため
だ。
近くにいた甲冑の兵士に声をかける。
﹁おい、貴様﹂
﹁ははっ!﹂
兵士が片膝を地につけて頭を下げる。
ちなみに言葉遣いに関してはいちいち気にしないことにした。
﹁クララという使用人が収監された地下牢まで案内しろ﹂
﹁地下牢へ、ですか?﹂
﹁なんだ?文句があるなら聞いてやる﹂
﹁いいえ、ありません!こちらです!﹂
きびきびした動きで兵士が先導する。甲冑がガチャガチャ煩い。
夜中に邸内を彷徨かれたら迷惑になりそうだ。
17
そのまましばらく兵士の後ろへ着いて歩く。
到着したのは屋敷の裏手に建てられた石造りの寂れた3メートル
ほどの棟だった。
﹁ここが地下牢です﹂
﹁収監されている人数は?﹂
﹁今は1人のはずですが⋮⋮﹂
となるとこの中にはクララしかいないらしい。一希にとっては好
都合だ。
﹁貴様はここに残り誰も入らないように見張っていろ﹂
﹁か、かしこまりました﹂
兵士を外に立たせ一希だけが木の扉を開いて棟の中に入る。
﹁は、ハロルド様!?うおっ!﹂
詰め所のような造りをしている手狭な部屋にはこれまた兵士の姿
があった。椅子を並べその上で横になっている、というあからさま
なサボりの態勢である。
焦って身を起こそうとした兵士は椅子から転げ落ちた。一希はそ
れを無視して部屋の左隅、地面に取り付けられた地下牢へと続いて
いるとおぼしき鉄格子の扉に手をかける。
引いてみるが扉は固く閉ざされていた。
18
﹁鍵をよこせ﹂
﹁は、はい!﹂
兵士が壁にかけられている鍵の内、1つを一希に手渡す。それを
鍵穴に挿し込み左に回すとガチャンと錠が開いた。
﹁地下牢の人間に話がある。貴様は入ってくるなよ﹂
釘を刺し、万が一閉じ込められないように鍵を持ったまま地下牢
へと続く階段を降りる。
階段は薄暗く足元もよく見えない。転ばないように10数段の階
段を降り終えるとようやく牢獄へと辿り着いた。
左右に2つずつ、計4つの牢獄。中には藁を集めただけのベッド
らしきものと剥き出しの簡易トイレくらいしかない。
奥の壁の上部には縦20センチ、横30センチほどの小窓があり、
そこから僅かな光が射し込んでいるだけだ。
クララが収監された右奥の牢獄前で一希は足を止める。
﹁貴様がクララ・アメレールで間違いないな?﹂
﹁ハロルド様⋮⋮?﹂
一希からもよく見えないように、クララからも牢獄の前に立つ人
物の顔は窺い知れなかった。
人影が小さかったこと、そして声で相手が誰であるかなんとか判
別できた程度だ。
19
しかし疑問も浮かぶ。
なぜ彼がここに来たのか、という疑問だ。
﹁もしかして⋮⋮もう、なのですか?﹂
声が震えた。
新しい魔法の実験。自分の前に立つ少年は先ほど確かにそう言っ
ていたのだから。
ならばもうその時が訪れたのか、とクララの顔はさらに絶望の色
を刻む。
だがハロルドからの返答は予想から大分外れたものだった。
﹁貴様が望むならそうしてやる。だが今は別件だ﹂
腕を組んだハロルドが向かいの牢の鉄格子に背を預ける。
別件とはなんだろうか。この屋敷に勤めて2年になるがハロルド
と直接会話を交わしたことは数えるほどしかないクララは首を傾げ
る。
﹁別件、ですか?﹂
﹁ただの確認だ。貴様は俺の質問に嘘偽りなく答えろ﹂
﹁⋮⋮はい、何なりとお答え致します﹂
有無を言わせぬ迫力にクララは頷くしかなかった。
我を通そうとする普段の癇癪とはまるで別物。年に似つかわしく
ない落ち着きさえ発するハロルドの空気に呑まれてしまう。
20
﹁貴様の家族構成は?﹂
﹁娘が1人おります﹂
﹁名前は何だ?﹂
﹁コレット、と申します﹂
﹁それ以外の肉親や身内はどうなっている?﹂
﹁夫とは駆け落ち同然で村を飛び出したので実家とはそれ以来絶縁
状態です。夫も病で3年前に⋮⋮﹂
︵コレットが母親以外に身寄りがなかったのにはそういう理由だっ
たのか︶
質問の目的は原作知識との擦り合わせである。
クララは処罰とは全く関係のない事柄を次々と聞かれて困惑して
いくが、一希はそれに構わず根掘り葉掘り問い質す。
﹁娘の年齢は?﹂
﹁今年で9つになります﹂
﹁魔法を使えたり武術の経験はあるか?﹂
﹁いえ、そういったものは特に⋮⋮﹂
時間にして数分。一希は淡々と質問を繰り返した。中々の成果で
21
ある。
クララからの情報は全て一希の知識と一致した。これで今の段階
で得られる情報は出揃ったし、今後の方針も決めることができた。
﹁以上だ。じゃあな﹂
﹁お待ちください!﹂
ハロルド
立ち去ろうとした一希をクララが呼び止めた。
足を止めて振り返る。
﹁⋮⋮何だ?﹂
﹁私が死ねば娘は⋮⋮コレットは天涯孤独の身となります。あの年
では1人で生きていくこともままなりません⋮⋮﹂
クララは涙を流しながらそう語る。
﹁ですから私が亡き後、どうかコレットをよろしくお願いします!
あの子には罪はありません。どうか、どうかお願いします⋮⋮!﹂
自らの命よりも我が子の将来を案じて冤罪を吹っ掛けてきたに等
しい憎いはずの相手に這いつくばって頭を下げ懇願する。
本当のハロルドならその姿を嘲り笑うのかもしれない。
ハロルド
だが一希は違う。今の彼がクララに感じたのは母親の娘へ対する
無償の愛だ。
もうじき終わる自分の命よりも娘の幸せを願う母親を笑うなど一
希にはできない。彼女はコレットに絶対必要な存在なのだと確信し
た。
22
そんな人間を殺すなどあり得ない。
﹁不様だな。その姿も、意味のない杞憂に囚われる愚かさも﹂
ハロルドにとってはこれが慰めの言葉になるらしい。一体どこま
で尊大なのか。
﹁それは、どういう⋮⋮﹂
クララの質問には答えず一希は歩き出す。これ以上彼女の前にい
てはもらい泣きしてしまいそうだったからだ。
しかしそれでは彼女を不安にさせてしまう。背を向けたまま手短
に一希はこう告げた。
﹁それほど愛しているならばもう二度と手離すな﹂
やがて足音も消え入口の鉄格子が閉ざされる音が地下牢に響く。
クララはハロルドが消えていった闇をぼんやりと眺め、彼が残し
た言葉を噛み締めた。
﹁この絶望は杞憂なのですか⋮⋮?私はまた、コレットをこの腕で
抱けるのですか⋮⋮?﹂
クララが漏らした呟きに答える者は居らず、その言葉は静寂の中
に吸い込まれていく。
なぜだろうか、その静寂が今の彼女には優しさのように感じられ
たのだった。
23
3話
重要な情報を手に入れたとはいえ問題の解決にはまだほど遠い。
クララとコレットを助けるための具体的な策を練る必要がある。
とりあえず2人にはストークスの領地から出て、原作主人公のラ
イナー一家が暮らすブローシュ村に移り住んでもらおうと一希は考
えていた。
クララが存命のままでコレットとライナーが出逢う確率はこれが
最も高いはずである。原作をプレイした限りブローシュ村は決して
大きくはないし、ゲーム中のライナーの発言から村の子どもは全員
顔見知りだったということも分かっているのだ。
問題はコレットとライナーが原作ほど密接な関係になれるかどう
か、なのだが。
クララが生きていればコレットがライナー一家と共に暮らすとい
う状況を作り出すのは難しい。
ならばなんとかしてコレットを幼馴染みポジションに据えられな
いものかと思案する。
うむむ⋮⋮と唸っていても妙案は浮かばない。そんな行き詰まっ
たタイミングで現れたのは他ならぬノーマンだった。
﹁失礼致します﹂
数時間前と全く同じ動作で頭を下げるノーマンを見て一希は、さ
すが鍛え抜かれた執事は違う、と無意味な感動を覚えた。
24
先程と異なる点があるとすれば両腕に抱えられた紙の束だろうか。
﹁ハロルド様、ご気分の方は⋮⋮﹂
﹁何度も言わせるな、問題ない。で、それはなんだ?﹂
﹁ストークス領周辺の地図と領内外に位置する近隣の集落に関する
情報でございます﹂
︵ノーマンさん有能!︶
というキャラ崩壊を招きかねない歓喜の声は抑え込んだ。まあ発
したところで﹁ほう、少しはやるじゃないか﹂くらいの賛辞かどう
かも怪しい言葉に訳されるのだろうが。
それにしてもノーマンは僅か数時間で山のような情報をかき集め
てきたらしい。その間の仕事はどうしたんだという疑問は無視する
ことにした。
﹁大層なことだな。それで貴様はどうやってあの使用人を救うつも
りなんだ?﹂
﹁⋮⋮非常に申し上げにくいことですが、私としてはストークス領
外に移住させるのが理想と考えております﹂
これはノーマンにとって大きな賭けだった。
領民を外へ出す、ということは労働力と税を納める人間を減らす
ということだ。最初から殺すつもりなら気に留めはしないかもしれ
ないが、ハロルドがそう考えているとは思えなかった。
25
しかしそれ故に労働力と税収が他貴族のものになることを不快に
感じるかもしれない。
貴族の面子、というやつだ。
﹁そうか。候補の町はどこだ?﹂
﹁そ、それは此方に⋮⋮﹂
だがハロルドの何事もないような対応に、警戒していた分ノーマ
ンは肩透かしを食らう。
肝心のハロルドはノーマンの話を聞きながら持ち込まれた資料に
目を通している。その姿勢は真剣そのもの。
むしろノーマンの提案に乗り気ですらあるかのように、問題とな
りそうな箇所の解決策をすぐさま勘案し始めた。
﹁領外へ移住するとなると揃えなければならない物が多いな。そも
そも他貴族の領地間は気軽に行き来できるのか?﹂
﹁個人であれば特に規制はありません。しかし慣れぬ土地に何も持
たず送り出されては生活も儘なりますまい。最低限の物資は必要か
と⋮⋮﹂
そうなれば小型の荷馬車を使う必要がある。もちろんストークス
家の荷馬車だ。
そして貴族や商人の馬車となると通過するために通行証が必須と
なる。
﹁物要り、加えて娘も一緒となれば馬車を利用せざるを得ないな。
通行証もどうにかするしかない、と⋮⋮全くもって面倒この上ない
26
話だ﹂
言葉とは裏腹に資料から目は片時も離れない。
そしてノーマンはハロルドが当たり前のようにクララとその家族
を把握していることに驚いていた。普段は両親と同じように無関心
だとばかり思っていたのだが。
︵もしや⋮⋮いえ、そうなのでしょうな。ハロルド様はこの歳にし
て民のことを真に想っているのだ︶
だから彼女を助けてほしいと進言した当人にも自らで事に挑めと
仰ったのではないか?
そう考えれば全てが腑に落ちる。
魔法の実験台などと嘯いたのも斬り殺されそうになった彼女を一
時でも安全な場所に隔離するためではないのか。
たった1人では実利など皆無に等しい労働力や税収の移譲に難色
を示さないのは見栄を持たず本気で彼女を救いたいがためではない
か。
今後のことを考えればクララはストークス家の力が及ばない地へ
逃げるのが最も安全なのだ。ならばその提案を拒否するはずがない。
彼は最初から彼女を助けるために動いていたのだ。図らずもその
助力を申し出た自分に本気を求めるのは当然だった。
ノーマンの胸に熱いものが込み上げてくる。そして同時にハロル
ドに対して疑念を抱いた自分を恥じた。
1人の使用人を救おうとここまでひた向きに方法を模索している
少年を疑うなどあってはならない。
27
彼が本気なら自分も本気にならなければ。そう思うと口調にも自
然と熱が入る。
﹁こちらの町ではこれからの季節に収穫祭で常に人手が必要となり
⋮⋮﹂
﹁ストークス領に比べると物価が高い。安定した収入が得られる環
境がなければ⋮⋮﹂
自分の意見に対し、ハロルドは資料を元に的確な指摘を行う。そ
の思考力・視野・知識は10歳のそれではない。
ハロルド
中身が大学生なのだから出来て不思議はないのだが、それを知ら
ないノーマンには一希が神童に思えてならなかった。
素直な思いを口にするならノーマンはストークス家に良い感情は
微塵も抱いていない。
現在の当主とその妻は純血主義にして選民思考の塊だ。純血貴族
以外は見下し、領民を人とも思っていないのだ。
だがそんな2人の息子である彼は違った。
安易な偏見に囚われず、人として大切な倫理観を持ち、大人と遜
色のない物の見方ができる。
この少年はストークス家を変える希望の光なのではないか。そん
な期待を抱かずにはいられない輝きをハロルドは放っていた。
﹁︱︱以上でございます﹂
結局、ヒートアップした話し合いが終了したのは開始から2時間
以上経過した頃だった。窓の外ではもう空が茜色に染まっている。
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ノーマンとの意見交換によって一希にも見えていなかった細かい
部分にいくつか気付くことができた。
これで2人をブローシュに移住させる算段の見通しは概ね立った。
迷うのは決行日をいつにするかである。原作をプレイした限りハ
ロルドがクララを殺すまで大きな日数の経過は感じられなかった。
最短で当日の夜、長くても翌々日といったところだろう。
大幅な遅延さえなければ原作に影響は出ないだろうが、保険をか
ける意味でも今日を含めて3日の内には決行したい。あまり焦らせ
て両親に疑惑を持たれる事態も避けたいからだ。
とはいえ今日これからというのは現実的ではない。ならば明日か
明後日だろう。
﹁ノーマン﹂
﹁はっ﹂
﹁決行は明日の夜だ。通行証は俺がどうにかしてやる。貴様はそれ
までに準備を整えておけ﹂
﹁承知致しました﹂
悩んだ末、一希は翌日の決行を選択した。
ハロルドの性格からしてクララを殺したのは恐らく当日、つまり
今日の夜だ。なるべくそれに近い状況にしたかったための判断であ
る。
退出するノーマンを見送り、1人きりとなった部屋で西陽を浴び
29
ながらこれから明日夜までの行動とセリフを何度もシミュレーショ
ンしていく。
絶対に失敗は許されない一発勝負。なにせ人の命まで背負ってい
るのだ。
これで緊張しないはずがなかった。
その緊張を振り切るように一希は一心不乱にシミュレーションを
繰り返す。
夕食の時間となり、没入した意識が現実に引き戻されるまで、ず
っと。
その甲斐あってだろうか。
いざ夕食が始まり父親を欺くための嘘をすんなり切り出すことが
できたのは。
﹁そうだ、父さん。お願いがあるんだ﹂
﹁どうした?ハロルド﹂
﹁最近レイツェに鍛冶屋が店を開いたらしくて、そこの剣がすごい
んだって。俺もそれが一振り欲しいんだ﹂
﹁ふむ、ならば商人にそこで適当に何本か買ってこさせるか﹂
﹁それじゃ時間がかかるよ。俺は今すぐにでも欲しい﹂
﹁ハロルドは本当に勇敢ね。将来はアナタのように立派な貴族にな
るわ﹂
ほほほほ、と笑う母親。
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剣を欲しがっただけでなぜ勇敢なのか一希にはさっぱり分からな
いが、援護射撃には違いないので利用させてもらうことにした。
﹁母さんもこう言ってるし、ねぇいいでしょ?通行証があれば遣い
に買いに行かせられるからさ!﹂
﹁ハロルドがこんなに欲しがっているんですよ?一筆したためてあ
げれば良いじゃないですか、アナタ﹂
﹁そうだなぁ。では明日の朝に通行証を書いてやろう﹂
﹁ありがとう父さん!﹂
笑いに包まれる食卓を一見すれば、仲の良い幸せな家庭。
だが周囲の使用人達にその光景を温かく見守る者はいない。
皆分かっているのだ。彼らは自分達を路傍の石のようにしか見て
いないことを。
居ても居なくても同じ。そもそも眼中にないのだから。
雇い主の一家とはいえ、そんな連中を好ましく思うはずがない。
当主とその妻以外にとっては寒々しい団欒が夜と共に更けて行く。
だが、それが偽りの光景だと知る者はこの場にはいない。
一希とノーマン以外は。
31
4話
翌日、この日は朝から精力的に動き回っていた。
主に2人の兵士が、である。
両者とも昨日の一希の行動を知る兵士だ。
今回のクララ救出計画は箝口令を徹底させるため関わる人間は可
能な限り少ない方が好ましいと考え、一希は守秘において信用でき
る人物か昨日の内にノーマンへ確認を取っておいたのだ。
ノーマンからの返答はイエス。一希にとっては幸いだったが、兵
士達にとってはそう言い難い。
朝早くにハロルドから呼び出せれ、一体何事かと戦々恐々しなが
ら部屋へ赴けばいきなり使用人の救出計画について説明されたのだ。
状況への理解が追い付かない中で兵士2人と、彼らと同じように
呼び出されていた荷馬車の騎手の心に強く刻まれたのは、この計画
が失敗したり第三者に露見すれば自分達の命が危うい、ということ
だった。
そんなわけで兵士の片割れは次々と下される命令をヒィヒィ言い
ながらこなしている。もう1人の方も今頃町中を駆けずり回ってい
るだろう。
楽をしているのは夜まで仕事の無い騎手だけである。
﹁は、ハロルド様、買って参りました⋮⋮﹂
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﹁見られない内に地下牢に放り込んでおけ。それが終わったら次は
馬に乗って街道までの経路を自分の目で確認してこい﹂
﹁馬はまだ連れてきてないんですが⋮⋮﹂
﹁邸のを一頭拝借していけばいいだろう。ただし怪しまれるような
怪我はさせるなよ。日が暮れる前には戻しておけ﹂
情け容赦のない、正にスパルタ。
釈明するならば一希自身もそれなりにテンパっているため周囲に
気を配る余裕があまりないのだ。
顔を引きつらせた兵士が馬屋へ向かったのを確認してから一希は
魔法の練習を再開する。
練習しているのは低級魔法の﹃フレイムカラム﹄、直訳で火柱。
原作でハロルドがクララを殺す際に放ったと思われる魔法だ。
実際はどうだか分からないが、ムービーシーンを見たプレイヤー
達の間では﹁たぶんフレイムカラムだろう﹂という認識が主流なの
でそれに則ることにしたのだ。
まあそれは割りとどうでも良いのだが、如何せん威力が弱い。
最初は恥ずかしさに加え本当に魔法を使えるか半信半疑で詠唱を
行った。驚いたことに一発で成功したのはさすがに興奮したのだが、
よく見れば火柱の高さは40センチに満たず太さもアルミ缶ほどの
小さなものだった。
原作では成人女性が優々と収まる高さと太さがあったし、戦闘画
面では目測で2∼3メートルの火柱だったはずである。
この体が本当にハロルド・ストークスのものなら一希にだってで
33
きるはずなのだ。
クララを焼き殺しはしないのだからそこまでの火力がどうしても
必要なわけではないというのは一希も分かっている。本番でもイベ
ントムービーほど広範囲に魔法を発動するつもりはない。
とはいってもクララを逃がす以上死体を出すわけにはいかず、ど
うしても“消し炭すら残らない火力で焼き殺した事実”が必要にな
る。そのために一希は魔法の練習を兼ねて先ほどから地面や木の幹、
葉に焦げ目をつけている最中だ。
拓けた場所ではあるが木々が生い茂る森の中。山火事など起こさ
ないよう細心の注意を払いながら実に地道な作業を繰り返している。
﹁ふう⋮⋮この程度で良いだろう﹂
独り言ですら不遜な声色は変わらない。これがハロルドにとって
は素の喋り口調だということだ。
まあそれはそれとして、ひとまず辺りを焼け跡のように偽装し終
えた。後は本番でこれ見よがしに火柱を立てておけば死体が燃えつ
きても不思議はないと判断するだろう。
正直なところ不安はある。というか不安だらけだ。
自分の判断で人1人が生きるか死ぬかの分水嶺なのだから、これ
で心中が穏やかであろうはずがない。
所詮ゲームのキャラクターだとしても実際に言葉を交わし、その
感情に触れた一希にとって彼らはもう既に人間だ。ただのアイコン
として見ることは到底できない。
どれだけ準備を整えようと﹁これで絶対大丈夫﹂と納得すること
はできないだろう。
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だが今はそれがかえって一希にとって幸いでもあった。
気が付けばゲームの中らしき世界に迷い込み、キャラクターに憑
依しているという未曾有の体験を現在進行形で味わっている。こん
な状況下で平静を保つことは容易ではない。
しかし今の一希には命に差し迫る危機が目に見えており、それを
なんとか回避するために思考を割いているおかげで他の事柄に構う
余裕がなかった。一種の現実逃避に近いのだが、そうすることによ
って精神的安定が確保されているのは動かざる事実だ。
これで本当に大丈夫なのか、考えた計画に不備が存在するのでは
ないか、まだ他にやっておくべきことがあるのではないか。
一希は思考を一切止めることなく日が暮れるまで入念な準備に没
頭し続けた。
そして迎えた満月の夜。
月明かりに照らされた森の中へ兵士に連れられてクララがやって
きた。
その姿は使用人が着るメイド服ではなく町中によく馴染む普段着
である。日中、一希が兵士に買いに行かせそれに着替えておくよう
指示させたものだ。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁黙っていろ﹂
不安げなクララの声をピシャリと遮る。未だに一希の緊張は継続
中だった。
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それからしばらくは無言の張りつめた時間が続く。一希、ノーマ
ン、クララ、兵士A︱︱昨日サボっていた方︱︱の間に降りた沈黙
を破ったのは、遠くから聞こえる馬の蹄が大地を駆る音だ。
﹁⋮⋮ようやくか﹂
森の奥、町の方角から草木を押し退けて兵士が小さな女の子と2
頭の馬を従えて姿を現した。
お互いを見るなりクララと女の子が声を上げる。
﹁ママ!﹂
﹁コレット!﹂
馬から降ろされた少女をクララが強く抱き締めた。それを尻目に
一希は兵士からの報告を受ける。
﹁遅くなりましたハロルド様。馬を引きながら森を突っ切りました
もので時間が⋮⋮﹂
﹁それはどうでもいい。あの娘を連れてくる際、町の人間には姿を
見られなかっただろうな?﹂
﹁問題ありません。ですが彼女と同じように町から邸へ通っている
者が事情を漏らしてしまったようで、既にクララが殺されるかもし
れないという噂が広がっています﹂
﹁ちっ﹂
思わず舌を鳴らす。言われてみれば当然のことだがそこまで頭が
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回っていなかった。
やはりまだ冷静にはなれていないようだ。
だが今それを気にしている暇はない。後悔と反省は後回しだ。
涙を浮かべて抱き締め合う2人に歩み寄り声をかける。
﹁貴様らに選択肢を与えてやる﹂
ハロルド
一希を見上げる2人の顔の前で人差し指を立てる。
﹁1つ、ここで死ぬ﹂
一希の言葉にコレットがひきつったような声を上げた。対してク
ララは一希の目を真っ直ぐに見つめたままだ。
その眼前で次は中指を立てる。
﹁2つ、この地を捨てストークスの領外で新たな生活を始める﹂
﹁えっ?﹂
この提案にはさすがにクララも目を大きく見開いた。領外、つま
り他貴族の領地へと移住すればストークス家に干渉されることもな
くなる。
すなわち無罪放免だ。
﹁後者を選ぶなら貴様らは死んだことになる。二度とこちらに戻っ
てくることは許さないし、今まで築いた繋がりも全て断て﹂
﹁⋮⋮許していただけるのですか?﹂
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半ば呆然と、呟くようにクララがそう漏らした。
﹁なんのことだ?﹂
しかしハロルドは尊大な態度で聞き返す。一希としては﹁なんの
ことですか?﹂と笑顔で惚けたかったのだが。
だいたいこの騒ぎの原因はハロルドが花壇で水やりをしているク
ララにぶつかってずっこけた挙げ句泥塗れになる、という実にしょ
うもない出来事だったとゲーム内で明らかになっている。これで殺
されるなど不憫どころの話ではない。
だからこそ原作でのコレットのハロルドへ対する恨みは相当なも
のだ。
もちろん一希としては微塵も腹に据えてなどいないし、記憶があ
るのはその後からなので怒りようがない。
﹁良いからさっさと選べ。俺としては殺してしまう方が楽で助かる
ぞ﹂
﹁⋮⋮申し訳ありません。私はまだこの子と一緒に生きて行きたい
と思います﹂
︵ですよねー︶
これで﹁殺してください﹂なんて言われたら苦労が全て水の泡だ。
第一、人を殺すなんて所業が一希にできる訳もない。
﹁ふん、つまらん。ならこれを持っていけ﹂
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一希は懐から麻袋を取り出して無造作に投げ捨てる。その口紐を
解いて中身を目にしたクララは再び驚きによって硬直した。
﹁こ、これは⋮⋮?﹂
﹁手切れ金だ。まさかその意味が分からないなんて抜かすなよ﹂
﹁︱︱ありがとう、ございます﹂
クララは地面に手を着き、声を震わせながら感謝を述べた。
お金自体は剣を欲しがるハロルドのために父親が渡した小遣いな
ので一希としてはその感謝を素直に受け取りづらい。
﹁貴様にはこれをくれてやる﹂
内心の気恥ずかしさを隠すように一希はコレットにもとあるもの
を手渡した。
それは翼を模した黒曜石と銀色に輝く一本の剣という、聖王騎士
団のエンブレムが装飾されたネックレスだった。ハロルドの部屋を
家宅捜索している最中に発見した代物である。
﹁これを肌身離さず、常に首から下げていろ。貴様らを逃がすこと
への条件だ。分かったな?﹂
﹁は、はいっ﹂
コレットは怯えながらも首を縦に振る。
﹁⋮⋮だが、もしそれを欲しがる男が現れたら渡せ。年が近く多少
なりとも腕が立つような奴にだ。その代わり騎士として貴様を守る
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ように約束させろ﹂
﹁えっと⋮⋮?﹂
やたらと細かいハロルドの指示にコレットは混乱する。もっと噛
み砕いて説明したくともこの口がそれを許してくれない。
すると横から助け船が入ってきた。
﹁ハロルド様はあなたを守ってくれる人にそれを渡しなさい、と言
ってくださっているのよ﹂
ナイス意訳、と一希は小さく拳を握ってガッツポーズ。
意味を理解したコレットは首を縦にコクコクと今度は2回振った。
﹁わ、分かりました﹂
﹁ならもう行け。これ以上貴様らに手を煩わされてはかなわないか
らな﹂
振り返り、一希は2人の兵士に指示を出す。ここからはクララと
コレットを馬に乗せて街道付近まで運ぶ手筈になっている。
あとは兵士ABと荷馬車の騎手に任せる他はない。
﹁ハロルド様。本当にありがとうございました﹂
馬にまたがる直前、クララとコレットは揃って深く腰を折りなが
らそう告げて去っていった。
きっとあれやこれやと手を尽くしてくれたことへの感謝なのだろ
う。
40
だが元はといえばハロルドが原因なのだから礼を言われる筋合い
はないのである。確かに一希がいなければクララは死んでいたかも
しれないが、そもそもハロルドがいなければこんな窮地に陥ること
もなかったはずだ。
︵自作自演の救出劇でお礼を言われてもなぁ︶
少なくとも誇る気分にはなれなかった。まあクララとコレットが
この先幸せになれるならそれでいいか、とひとまず胸のモヤモヤに
ケリをつける。
残るは最後の仕事だ。
﹁ノーマン、貴様は先に戻っていろ﹂
﹁⋮⋮畏まりました﹂
ハロルドの命令にノーマンは一呼吸開けてから応じた。どこか思
い詰めたようなハロルドの表情を見て、今この少年を独りにしてし
まって良いのか迷ったからである。
しかしその表情もほんのわずかで泰然としたものへと戻っていた。
ならば今は余計な口を挟むべきではないと引き下がることにした。
そしてそれが間違いであったとすぐに気付かされることになる。
やや後ろ髪を引かれつつも邸へと戻るノーマンの耳へ、風に運ば
れたハロルドの声が届く。
木々のざわめきに紛れて途切れ途切れに届いたそれにノーマンは
思わず歩みを止めた。
﹁はっ、醜い顔⋮⋮生きる価値も⋮⋮﹂
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微かに聴こえる少年の声は自嘲を含み
﹁許されるはずが⋮⋮﹂
まるで己の罪を懺悔するようで
﹁命⋮⋮ムダ⋮。せめて、死ねば⋮⋮だろう?﹂
それでいて自らの身を切り裂くほどの鋭さを宿していた。
10歳の少年の独白。子どもとは思えない機転で親子を救った、
讃えられるべきことを成したはずの彼が苦しんでいる。
誰にも悟られぬよう、たった独りで。
﹁終わりだ︱︱﹃フレイムカラム﹄﹂
ゴウ、という轟音とともに熱風が森の中を吹き抜けた。高々と立
ち昇る火柱はまるでハロルドの胸の内を顕現したかのように激しく
燃え盛る。
その小さな体に宿す苦しみを焼き払うかのように。
ハロルドが抱える葛藤。その一端を垣間見たノーマンは呆けたま
ま立ち竦み、結局ハロルドが枝葉を踏み鳴らしながら戻ってくるま
で動けなかった。
そんなノーマンの姿を目にしてハロルドが顔を歪める。
﹁こんなところで何をしている?先に戻れと命令したはずだが﹂
ハロルド
一希の口調が荒くなる。なぜならたった今、イベントのセリフを
42
消化してきたからだ。
誰もいない場所でとうに消えたクララを嘲り笑いつつ独り言を呟
くなど黒歴史に燦然と輝く羞恥プレイである。それを誰かに聞かれ
たとなれば本気で首を括るか考慮するレベルだ。
ましてやハロルドが中二病の如く痛い人間だ、などと勘違いされ
ればキャラ崩壊どころの騒ぎではない。あの醜態を晒したとなれば
口止めしておかないと後々面倒な事態に繋がる可能性がある。
﹁今日起きた事、見たもの、聞いた言葉は全て忘れろ。もしくは生
涯誰にも打ち明けず墓の中まで持っていけ。返事は“はい”以外認
めない﹂
詰め寄らんばかりの勢いでノーマンに捲し立てる。
それだけ必死ということなのだが、ノーマンの目にはその必死さ
が別の意味として映っていた。
︵なぜそこまでして弱さを隠そうと⋮⋮まだ子どもだというのにハ
ロルド様は一体どれ程の物を背負おうとしているのだ︶
頑ななまでに他者を頼らない姿勢は悲痛そのものだった。
だがノーマンは頷く他無い。
了承の意を示したノーマンを一瞥してハロルドは足早に去ってい
った。その後ろ姿は酷く疲れているように見えた。
恐らくハロルドは実の両親を反面教師とし、実権の無い今は真っ
向からの対立を避け彼らの目を欺いている。
そうするしかなかったのだ。もし自らの考えが誰かを通じて両親
に露見すれば間違いなく軋轢を生むだろう。
43
普通の子どもならそのまま親と衝突したかもしれないが、この少
年は聡明すぎたあまりそれが将来に与える影響の大きさを理解して
しまったのかもしれない。
そうならないために両親を、さらには邸の人間全員を騙すという
選択をしたのだ。そしてストークス家に関わる人間は誰1人として
彼の本当の姿を看破することはできなかった。
彼のそうした思惑も今回のイレギュラーが発生しなければこれか
らも明らかにならなかっただろう。
孤独に戦い続けてきた少年に対し、辟意を持ってきた自分が心配
する資格などない。
ノーマンにはそれが堪らなく悔しかった。
﹁⋮⋮いえ、後悔ばかりはしていられないですな﹂
きっと自分は残りの人生でハロルドに寄り添わなかったこの10
年間を悔やみ続けるのだろう。
しかしそれだけでは何の解決にもならない。今までの無為な10
年を、残された時間全てを使って取り戻すしかないのだ。
あの優しき少年が偽悪に心を苛まれることのなくなるその日まで。
◇
荷馬車に揺られてどれほどの時間が経っただろうか。
44
自分の太ももを枕にして眠る愛娘の頭を撫でていると空が白みは
じめていることに気が付いた。もう夜明けが近い。
それでもクララは眠気を感じることもなく、まるで宙に浮いてい
るようなフワフワとした感覚を味わっていた。
この2日間で世界がガラリと変容してしまった。
牢屋に入れられた時はもう処刑されるのだと思った。死への恐怖
と一人娘を残して逝くことへの絶望。
そこから掬い上げてくれたのは娘とひとつしか年の変わらない少
年だった。
いくらでも替えを用意できる使用人のために服を買い与え、馬や
荷馬車まで準備し、新たな生活のために大金まで無償で渡してきた。
クララを﹃劣等種﹄などと罵るハロルドの両親がこんなことを許
すはずがない。つまりこれは彼が自分の意思で招いた結果なのだ。
荷馬車まで送り届けられる間、2人の兵士からあの少年がどうや
って自分達を救い出そうとしているのか聞いた。
まずはレイツェで名を挙げている鍛冶屋の剣が欲しいと訴え通行
証を手に入れる。それを遣いに持たせて朝早くにレイツェへ出立さ
せるように見せかけ、町から離れた人通りの少ない街道付近の森に
潜ませておく。
その間に兵士の2人は目立たないように私服で町へ出て馬を借り
たり必要なものを買い揃えるなどしていたらしい。﹁おかげで1日
中駆け回ることになった﹂と苦笑いで、しかしどこか誇らしげに語
っていた。
そしてブローシュに入ったらクララとコレットは村に残し、荷馬
車と兵士の1人はそのままレイツェに向かうとのこと。ストークス
45
領からレイツェへ行くにはブローシュを通過するのが最も近いルー
トのため怪しまれることもないという。
レイツェとの往復もおよそ4∼6日の道のりなので丸1日の遅れ
も計算に入れている。
この話を聞かされたクララは驚くしかなかった。10歳の少年が
ここまで緻密な計画をわずか半日で立て、こうして見事にやり遂げ
てしまったのだから。
加えて自分に渡した大金は父親から剣を購入するための資金とし
て貰ったものだという。
それではレイツェに行っても肝心の剣が買えないのでは、とクラ
ラが心配すると荷馬車の騎手はクツクツと笑い出した。
理由を伺うと一連の計画を聞かされた時、彼も同じことをハロル
ドに問うたらしい。するとこう返されたというのだ。
﹁バカか貴様は。適当に安物の剣を見繕えば済むだろうが﹂
辛辣な言葉に彼の優しさが滲み出ているように思えた。
それを感じてか、騎手も愉しげに話していたのが印象的だった。
決して順風満帆な人生とは言い難いクララの半生ではあるが、そ
れでもコレットが産まれたこと、そしてハロルドと出会ったことは
かけがえのないものとなった。
﹁クララさん、起きてます?﹂
﹁はい。どうかいたしましたか?﹂
﹁ブローシュ村が見えてきましたよ﹂
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騎手の言葉に荷台から顔を覗かせる。
クララの視界に入ったのは地平線から昇り始めた日の出に照らさ
れ、朝靄に包まれながらキラキラと輝くブローシュ村。
﹁日が完全に昇りきる頃には到着しますよ。それまで少しだけでも
休んだらどうですか?﹂
﹁お気遣いありがとうございます。でも今はこの風景を目に焼き付
けておきたくて⋮⋮﹂
﹁そうですか。まあ分かりますよ、その気持ち﹂
クララも、騎手も、そして2人の兵士もその幻想的な風景に心を
奪われていた。
まるでクララとコレットの新たな船出を祝福するかのようなブロ
ーシュ村の姿に。
47
5話
ハロルドの報告を聞いた両親はクララとその娘のコレットは完全
に死んだものだと信じ込んでいる。息子を疑うという発想が無さそ
うだった。
我が子が女子どもを手にかけたというのに﹁魔法の才能がある﹂
と持て囃すだけの姿を見て、一希は両親との間に一生かけても埋ま
らないほどの深い溝を感じた。この価値観から脱却しない限り両親
との和解はないだろう。
まあその妄信的溺愛のおかげで疑われていないのだから今はそれ
だけで充分だと考えることにした。
クララとコレットの救出計画はひとまず成功したと言える。
本当なら喜びたいところなのだが新たな問題に直面している一希
にとってはその時間すら惜しい。精々コレットがライナーとお近づ
きになれるよう祈るくらいである。
それより一希が頭を悩ませているのはストークス家の圧政へ不満
を募らせている領民に対してだ。早い話が徴税が厳しいという一言
に尽きる。
ストークスの領地は北東に山脈が聳える以外は平地に面し、街道
が町を沿うように敷かれているため交通の便にはかなり恵まれてい
る。周囲に海はないが山脈の渓流により出来た川も近くを通ってい
るし、北西から東側にかけて森が広がっているので林業にも適した
地だ。
人や物の流通があり自然も豊か。当然一次産業、二次産業共に盛
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んである。
ただストークスの領地があまり広くないこともあってその利を活
かしきれていない。手狭な割りに発展した町、程度の規模である。
そんな経済規模の自治領にストークス家はかなり重い税を課して
いるのだとか。
比較的所得の高い中心街近辺の住人には払えないこともないのだ
が、郊外の農村の住民にとってはかなりの負担になっているらしい。
特に近年は毎年のように自然災害に襲われるなどして農作物の収
穫量が芳しくなく、それに伴い利益が下がり赤字経営の農家も少な
くない。
そのため農家からは一時的な減税を訴える声が上がっているのだ
が、あの夫妻がそんなものに耳を傾けるわけがなかった。それどこ
ろか締め付けをきつくし﹁これ以上騒ぐならさらに税率を上げるぞ﹂
と脅しをかけたという始末。
ゲームでは領民が圧政に苦しんでいるという話は出ていたが、そ
ういった部分の細かい描写はなかった。ノーマンの資料がなければ
一希も気付かなかっただろう。
もし現状が長く続けばストークス家の圧政に募った不満がいずれ
爆発することになるのはほぼ間違いない。
それはストークス家凋落の訪れを告げる最初の一歩となる。
まあ一希としてはこの家がどうなろうと知ったことではないのだ
が、自分が巻き込まれて悲惨な目に遭う可能性が非常に高いので手
を打たないわけにはいかないのだ。
﹁失礼しまーす⋮⋮って、何をしてるんですか?﹂
49
ノックもそこそこに応答を待たずハロルドの部屋へ顔を見せたの
はクララ救出計画の片棒を担いだ荷馬車の騎手、ゼンである。
何故かここのところ用もないのにハロルドに絡んでくるようにな
った。いくらこの口が邪険に扱おうともカラカラと笑うばかりで堪
える様子はまるでない。
ゼンは19歳と若く、一希と同世代の青年だ。また、邸で働く同
性の人間の中ではハロルドと最も近い年齢ということもあり、一希
の内心としても付き合いやすい存在だった。
どことなく犬っぽいというか人懐っこさを感じさせるゼンの性格
も大きいかもしれない。
ハロルド
そのゼンが一希の奇行を目にして首を傾げる。
奇行とはいっても部屋の窓に備え付けられた奥行き50センチほ
どのバルコニーで育てている植物の成長を記録しているだけだが。
﹁貴様には関係ない。早く扉を閉めろ﹂
﹁おっと、何やら秘密の香りがしますね﹂
後ろ手で扉を閉じてやはり犬っぽいセリフを吐きながらゼンがバ
ルコニーを覗き込む。態度としては不敬もいいところだ。
バルコニーには20個ほどの鉢植えが並べられており、それを3
分割して計3種類の植物が育てられていた。なぜかその中に飛び抜
けて成長している個体がいくつかある。
﹁スズイモにブルーナ、それに赤グルト⋮⋮育てて食べるんですか
?﹂
50
﹁ハラワタを切り裂いて鉢ごと貴様の胃袋にねじ込んでほしいのか
?︵※ゼンに食わせてやろうか?︶﹂
﹁遠慮します!﹂
﹁⋮⋮﹂
このままじゃ一生気安いやり取りはできないかもなぁ、なんて凹
みつつ記録をつける手は動かし続ける。
ゼンが言った通りこれらはすべて食用の野菜だ。スズイモなど実
は地中で葉しか見えないのだがよく言い当てられたものである。
言葉を付け加えるとストークス領の農村で最も栽培されている主
要作物のトップ3だ。
﹁それにしても育ち方がバラバラですね﹂
ハロルド
一希の発言にも物怖じせずゼンが興味津々といった様子で尋ねて
くる。鋼の心臓なのか神経が図太いのか、どちらにせよ打たれ強い。
サンドバッグ並みの耐久値がありそうなゼンに感心しつつ、一希
は1本のガラスビンを差し出す。
Hearts﹄ファンにはお
﹁これを水に混ぜたものとそうじゃないのがある﹂
一希の手にあるのは﹃Brave
馴染み、半透明な水色のボトル。ゲーム序盤でのみ重宝する、体力
を2割回復させるアイテムだ。
その名を﹃ライフポーション﹄という。
﹁作物にライフポーション⋮⋮?﹂
51
そんな栽培方法は耳にしたことがなかった。だがライフポーショ
ンを与えられている方が明らかに大きく瑞々しい。
常識に囚われないハロルドの発想にゼンの瞳は驚愕に染まるが、
Hearts﹄のシステムの中には“調合”が存在
一希にとっては単なる仕様である。
﹃Brave
する。材料と材料を掛け合わせてアイテムを作るのだが、材料の一
部に自ら栽培しなければ手に入らない物が存在するのだ。
しかもマニュアル通りに育ててもその材料が栽培できる確率が非
常に低いため、プレイヤー達は数打ちゃ当たるの精神で畑を耕した。
やがてライフポーションや上位互換の﹃エーテル﹄を注ぐことで
収穫効率が上がるという事実が公になり、勇者兼農家と化したプレ
イヤーは畑に回復アイテムをばら蒔いたのである。
かくいう一希もその1人だった。
ここでもそれが適用されるのか試してみるために一希はノーマン
を通して鉢と畑の土、食物の種子、そしてストークスの倉庫で眠っ
ていたという賞味期限切れのライフポーションを手に入れたのだ。
ところがライフポーションだけで育てると成長は早いのだが実を
つける前に枯れてしまった。そこで水と併用しながら試行錯誤を繰
り返し、ようやく適正な水との割合を探し出したのだ。
一希は赤グルトをいくつかむしり取ってゼンに放り投げる。
﹁おっとっと﹂
﹁食え﹂
﹁生でですかぁ?﹂
52
器用にもそれを全てキャッチしたゼンはハロルドの命令に嫌そう
な顔を隠しもしない。
その気持ちはよく分かる。一希が知る野菜で赤グルトと味が最も
近いのは玉葱だ。
熱を通さなくても食べれるが、基本的に加熱調理される野菜らし
い。
﹁自分から首を突っ込んだ軽率な行動を呪うがいい﹂
﹁⋮⋮ええい、ままよ!﹂
観念したのかそれ以上抵抗もせずゼンは赤グルトにかぶりついた。
シャク、という小気味良い音が鳴る。
﹁んん!?﹂
赤グルトを飲み込んだゼンが興奮したような声を上げた。
﹁なんですかコレ!普通のより甘くてめちゃめちゃ美味いですよ!
?﹂
この反応を見る限り出来は上々のようだ。ライフポーション農法
にそんな効果があるとは一希にも予想外だった。
嬉しい誤算ではあるがゼンだけではさすがにサンプルが少なすぎ
る。
﹁それを厨房に持っていって調理師達に食わせてこい。味の感想、
通常の物との長短、市場へ出回るに値するか、その他の情報も聞き
出せ﹂
53
﹁了解しました!﹂
ゼンがビシッと敬礼を決める。左手で赤グルトを抱えているせい
でまるで様にならない。
﹁くれぐれもそれをどこで手に入れたとか誰の指示で動いているか
は︱︱﹂
﹁秘密なんですよね?分かってますよ、ハロルド様!﹂
ゼンは満面の笑みでそう答える。
彼にとってハロルドという少年の評価は先の計画で一変してしま
った。
今まではクソ生意気で自己中心的な頭の悪いガキだとばかり思っ
ていたのだが、どうやらそれは何かしらの意図を持って装っていた
らしい。ハロルドの本質はむしろその真逆。
優しく、身分の低い者にも心を砕き、精神的にも成熟した聡明さ
すら持っている。
それを知ってからはハロルドの口の悪さなど天の邪鬼のようにし
か見えなくなった。ある意味ハロルドが子どもらしさを感じさせて
くれる唯一の部分とも言える。
こうして部屋に上がり込んであれこれ構っても悪態を吐くだけで
嫌がる素振りは見せない。
ハロルドの年齢ならば身分の差というものも認識しているはずだ。
幼少から親密な関係を築いている相手ならまだしも、ゼンが彼と初
めて言葉を交わしたのはついこの間である。
54
そんな相手が不敬な態度を見せてもまるで気にしていない。見せ
掛けには興味がない、とでも語るかのような態度。
ゼンにとってそんなハロルド・ストークスという少年は非常に好
ましく思えた。
この赤グルトにしても彼がまた何かをしようとしているのは明白
だ。きっと学の無い自分には考えつかないようなことだろう。
それをどんな形でも手伝えるのがゼンには嬉しかった。
55
6話
﹁んじゃ行ってきまーす!﹂
そんな訳でハロルドの命を受けたゼンは意気揚々と部屋を飛び出
していく。なぜそこまでやる気があるのか分からない一希は首を捻
るばかりだ。
張り切りすぎて余計なことを仕出かさなければいいけど、と一抹
の不安が募る。
まあノーマンの判断を信じるのなら悪いようにはならないだろう
と自分を納得させ、気分転換も兼ねてそろそろ日課になりつつある
剣の鍛練を行うことにした。
ここはRPGの世界だ。人の生活圏外には普通にモンスターが闊
歩している。
危険極まりないこの世界で生き抜くためには相応の強さが求めら
れるのは言うまでもない。ましてや一希はこれからハロルド・スト
ークスとして激しい戦いの渦中に飛び込んでいかなければならない
のだ。
可能な限り戦闘は避けていくつもりだが原作イベント関連ではそ
んなことも言ってはいられないだろう。
なので有事に備える意味で剣術の真似事を始めたのだ。
ゼンがレイツェで購入してきた剣を携えて裏庭に出ると、周囲に
誰も居ないことを確認してから自分なりに考えたトレーニングメニ
56
ューを実践していく。
両手で剣の柄を握り、頭上まで掲げて一気に降り下ろす。その状
態から手首を左に返し右手1本で右上に切り上げる。
そこから踏み出した右足を軸にして時計回りに旋回し、遠心力を
利用して左から真一文字に切り裂く。
これがゲームにおけるハロルドの基本となるコンビネーションだ。
操作キャラで攻撃ボタンを3連打すると出るタイプの連続技である。
剣道の経験すらない一希にはこの攻撃が果たして実戦で有効なの
かどうか判断がつかないが、今はこれをベースにしようと考えたの
だ。
最初は剣道の素振りのように踏み出して上段から切りつける練習
をしていたのだが、実戦を想定するならゲームと似た動きを練習し
た方が恩恵が大きい気がしたからである。
こうした鍛練を開始して1月近く経過したこともあって動き自体
は体に馴染んできた。それを感じ取れる感性は一希本人のものでは
なく、恐らくハロルドのものだろう。
考えてみればハロルドは最低なクズ野郎ではあるものの、単独で
ダンジョンを踏破したり主人公パーティーと渡り合ったりこと戦闘
においてはかなり優秀なキャラクターだ。こうして真面目に鍛練し
ていればそれに劣らない強さを手にできるかもしれない。
︵そう考えるとちょっとテンション上がるな!︶
Hearts﹄ファンであった。
この非常識な事態に遭遇しながらもそんな風に思ってしまう一希
はやはり根っからの﹃Brave
憑依したのが原作最大の嫌われ者であっても、ゲーム内と同じ技
57
が使えるかもしれないとなれば心が踊るのを抑えられない。
決意と興奮を糧に一希は黙々と剣を振り続ける。小さな少年が大
人サイズの剣を軽々と振り回す光景は傍目から見るとかなり異様な
光景だった。
本来ならまともに振り抜くこともできないだろうが、スペックだ
けは高いハロルドの体がそれを補っている。まあ一希自身もその事
実には気付いていないのだが。
何だかんだハロルドという男は優秀らしかった。
こうして作物の世話、剣の鍛練、両親のご機嫌取りが一希のルー
ティーンと化しておよそ1ヶ月と半月。バルコニーの鉢植えが揃い
も揃って青々と茂った頃、ようやく次の行動に移る準備が整った。
その日一希が自室に呼び寄せたのはメガネを掛けた細身の男。年
は30代の前半であり、鋭い目つきのせいか見る者にどこか冷たい
印象を与える。
男の名前はジェイク。ストークス家の財政管理を担っている経理
の1人だ。普段から愛想がなく無口なジェイクも自分が置かれた状
況に少なからず戸惑っていた。
部屋に中にいたのは合計3名。部屋の主人たるハロルド、古株の
使用人ノーマン、そしてゼンである。
﹁座れ﹂
ハロルド
部屋を訪れた彼に対し、呼び出した一希は開口一番そう口にした。
ハロルドの斜め後ろに立っていたノーマンが大人しく椅子に腰か
けたジェイクへ数ページの冊子を手渡す。
58
﹁それを読め﹂
﹁はい﹂
一体なんだというのか。ジェイクの戸惑いは増すばかりである。
しかし冊子を開きその中身を読み進めると彼の目の色が変わった。
そこに記されていたのはストークス家の事細かな財政状況。頭が
痛くなる数字ばかりが並んでいるが、悲しいかなジェイクには見慣
れた数字でもある。
﹁記載に大きな間違いはあるか?﹂
﹁⋮⋮いいえ、ありません﹂
間違いも何もこれはジェイクが取りまとめた収支報告書の内容を
丸写ししたものだ。自分が作成した書類に不備がないかはしっかり
と確認している。
もしやこの内容にいちゃもんの1つでもつけるために呼び出され
たのでは?そんな考えが頭をよぎる。
﹁だろうな﹂
だが彼の予想とは裏腹にハロルドが重々しいため息を吐く。そこ
にジェイクをなじるような色はなかった。
どちらかといえば心底うんざりしたような声である。
﹁ここ数年ストークス家の財政は赤字続きだ。最たる原因は両親が
見栄を張るための無駄な浪費。先代までの蓄えや重税で補填してい
59
るがそれも長くは続けていられないし領民への負担も増すばかりだ
な。この見解に異論は?﹂
﹁そのような傾向にあることは承知しております﹂
感情の機微が表に出にくいジェイクだがその内心は狼狽に近かっ
た。
幼い少年が収支報告書の内容を完璧に理解していることも驚きだ
が、何よりも質問の意図がまるで掴めない。
当主の嫡男であるハロルド本人がその当主たる両親を批判してい
るのだ。どんな態度が正解なのか分からない。
反応に窮したジェイクはノーマンを見る。しかし彼は穏やかな表
情でハロルドの後ろに佇むばかりでジェイクの視線に取り合う様子
はない。
﹁火急の事態というわけじゃないがこのままだといずれはストーク
ス家も領民の生活も立ち行かなくなる。まあ貴様らにとってはスト
ークス家なんて潰れてしまった方が良いんだろうが﹂
﹁そのようなことを仰らないでください。誰かに聞かれれば叛意が
あると勘違いされてしまいます﹂
とりあえずジェイクは無難な対応を取る。
しかし一希からすればあながち勘違いというわけでもない。お家
騒動を起こして家督を奪うなんて大それたことは考えていないが、
何がなんでもストークス家を存続させて次期当主になりたいとも思
っていないのだ。
はっきり言うなら原作通りに潰れてしまっても構わない。
60
自分は原作終了とともにフェードアウトして無難に町人Aにでも
なれればいい。
もちろん最善は1日でも早く元の世界に帰還することだが、その
ための手掛かりは全く掴めていないので今はとりあえず脇に置いて
おく。
﹁ふん。何にせよ領民、特に農業地区の収益を増加させなければ将
来的に破綻するのは目に見えている﹂
ジェイクは言葉を返せない。何故なら事実、ストークス領の農業
は既にもう衰退が始まっているのだ。
重い税率を課されたことで経営が苦しくなり辞める者、ストーク
ス領地から離れる者が増えてきている。特に小さな農家などはその
傾向が顕著だ。
この流れが止まらなければ農業地区からの税収が著しく下がる。
そうなった時、果たして現当主が不利益を覚悟で税率を緩めるだろ
うか。
ジェイクにはあの男がそんな対策を打つとは思えない。逆に税率
をさらに重くして金をむしれる所からむしり取ろうとするだろう。
︵ハロルド様はそれを理解しているのか⋮⋮?︶
到底10歳の子どもが頭を悩ますことのできる問題ではない。普
通なら収支報告書の内容を正しく読み取ることすら困難なのだ。
しかし目の前の少年にはその程度のことなど壁にすらならないよ
うだった。ジェイクはすぐにそれを痛感する。
﹁だから貴様を呼んだんだ。農業地区の査察を任されている貴様を
な﹂
61
﹁どういう意味でしょうか﹂
﹁ゼン﹂
﹁はいはーい!﹂
ハロルドの呼び掛けに応じてゼンがバルコニーへ通じる窓を開け
放ち、カゴに鈴生りとなった赤グルトを収穫してジェイクの前にド
サッと置く。
またもや状況についていけず目が点になる。
﹁あの、これは⋮⋮?﹂
﹁まあまあ、ここは何も言わずハロルド様お手製の赤グルトをご賞
味あれ!﹂
﹁貴様こそ余計な口を挟むな。肥料にでもなりたいのか?﹂
﹁ごめんなさい!﹂
﹁これをハロルド様が⋮⋮?﹂
率直な感想を述べるなら﹁なぜ?﹂である。
ハロルドが部屋で野菜を栽培する理由も、それを自分に食べさせ
ようとする意味も分からない。
とはいえこうして出されたからには口をつけないわけにもいかず、
恐る恐る赤グルトにかじりついた。
62
﹁⋮⋮!あ、甘い?﹂
﹁ですよね!﹂
﹁どうして貴様が自慢気なんだ⋮⋮﹂
ジェイクからすればハロルドを敬う様子を見せないゼンに肝を冷
やすが、ハロルドはそれを叱責せずただ呆れたようにこめかみを押
さえるだけだった。
﹁とにかく、今貴様が食べたものは俺が独自の方法で育てた作物だ。
その方法を広めるために力を貸せ﹂
﹁何故私なのでしょうか?﹂
﹁この農法を実現させるには当然ながらコストが掛かるし場合によ
っては専用の設備が必要になる。ストークスの財政を熟知し査察官
としても現場をよく知る貴様が適任だと判断した﹂
確かに必要になる費用は使用する資材とおおよその数量が決まっ
ていれば弾き出せるし、設備がどんなものかによって設置について
可不可の判断や条件を満たすための提案をすることもジェイクなら
ば出来るだろう。
ハロルドの言い分は理に敵っている。
問題は新しい農法を普及させる実現性があるかどうかだ。
この赤グルトは通常の物と比べて格段に食べやすい。市場に出回
れば需要も大きいだろうということは想像できる。
しかし生産するのに相場で付く値段と同等かそれ以上のコストが
63
掛かるなら作る意味がない。初期費用で嵩む赤字から純利益に転換
するまでの期間が長ければ持ちこたえられない農家もあるだろう。
実現するには課題が多い。
﹁どうやら考える頭は持っているようだな﹂
協力を要請されても沈黙するジェイクに対しハロルドは気分を害
した様子もなくむしろ感心していた。
一希からすれば上からの圧力に唯々諾々と従うような人間より、
こうして自分の頭で物事を考えられる人間が必要なのだ。一希が知
っているのはあくまでゲームに描かれた部分のみでありそれ以外の
問題に気付いてくれそうなノーマンやジェイクはこれから先も頼り
になるだろう。
﹁現状を改善できるならばいくらでもお力になりたいと思います。
ですが⋮⋮﹂
﹁話を聞かないことにはおいそれと頷けない、と。父相手なら口答
えするなと怒りを買うか、最悪地下牢にぶち込まれるな﹂
その言葉を受けてジェイクの身が強張る。やはり所詮はあの男の
息子なのか、と。
だが何故かノーマンとゼンは苦笑を浮かべていた。
﹁⋮⋮まあ当然の反応だ。詳しい説明も聞かずに快諾されればゼン
がもう1人いるようで気苦労が増すところだった﹂
﹁それどういう意味です?﹂
﹁貴様も少しは頭を使えってことだ﹂
64
﹁ひでぇ⋮⋮﹂
分かりやすく落ち込むゼンを無視して一希は話を続ける。
ここからが本題だ。
﹁ではお望み通り聞かせてやろう。鍵になるのはこれだ﹂
ライフポーションの瓶を見せ付けながらジェイクに説明を始める。
一希のプランはこうだ。
作物にライフポーションを与える農法、仮にLP農法と仮称しよ
う。
現時点で試した3種類の野菜はどれも成長が早く、加えて甘味が
強くなることが判明している。
これをいきなり全ての畑で試すのではなくまずは一部分、それも
いくつかの農家に共同させて試運転を開始する。最大の理由は失敗
した際の経済的リスクを分散させるためだ。
加えて経営規模が小さく一度の失敗が致命傷になったり金銭に苦
しくLP農法に割く農地がない農家を救済する意味合いもある。
LP農法が上手くいったとしても経済的に余裕がある農家とない
農家で格差がより広がることをなるべく抑え、数件の農家を一纏め
にすることでストークス家に備蓄されている内の破棄されるライフ
ポーションだけで対応できる範囲に収められれば理想だ。こうすれ
ば初期費用もあまりかからないはずである。
この1ヶ月の間に幾度も栽培を繰り返したがLP農法で育てた作
物の成長速度はかなり早いというのが最大の特徴だ。もはや異常と
65
言うべきレベルである。
赤グルトであれば種を撒いてから実が収穫できるまで2ヶ月弱か
かるのが通常だが、ライフポーションを与えたものは5日から1週
間で実をつけた。ゲームでは種を植え宿屋で1泊すれば翌日には収
穫できていたがさすがにそこまでの成長速度はないようである。
ともかくこの回転数の早さなら狭い農地でも利益を生み出せると
一希は睨んだ。
﹁わずか5日で収穫が可能に!?﹂
衝撃的な事実に普段は落ち着いているジェイクの声も思わず大き
くなる。
画期的、もはや革命的とも言える発見だ。
﹁だがその早さのせいで上手くいきすぎるわけにもいかない﹂
﹁何でですか?﹂
﹁安価で高品質な商品が大量に出回れば市場を破壊しかねないんだ
よ。結果としてストークス領外の農家を潰してしまう恐れもある﹂
LP農法は従来より多少コストは掛かるだろうが生育の早さから
短期間で大量に生産できる。生産が軌道に乗れば通常の物と同じ価
格、大量生産が可能になればさらに安価で取り引きしても利益が出
るかもしれない。
それによって恨みを買いたくない、というのが一希の本音だ。何
よりも大切なのは自分の身の安全なのである。
もしLP農法を考案し広めたのがハロルドだとバレれば逆恨みさ
66
れる可能性もある。
しかし金に執着心のある両親が知ればストークス家でLP農法を
独占しようとするだろう。それを避けたい一希としてはまずは小規
模で細々と、収穫量に制限を設けてスタートさせるべきだと考えた。
そうして徐々に浸透させ経済的に余裕が出れば他の作物でLP農
法を試していくことも可能だろう。
今のところ赤グルトとスズイモは水との割合が半々、ブルーナは
7:3で水の割合が大きい方が育ちやすく味も良いことは分かって
いる。
ブルーナはライフポーション100%で育てれば朝に植えたもの
が日が沈む頃には収穫できたほどだ。これはゼンに持たせて厨房に
送り込んだところ味は不評だったので没にしたが。
つまり作物によってライフポーションを与える割合や成長速度、
そして味にも違いが出る。その辺を一通りの作物で試せれば農業地
区の収入も高い水準で安定させることができるはずだ。
今回はその資金源を得るための布石ともいえる。
﹁本来なら専門のチームを組んで取りかかりたいところだが⋮⋮﹂
そのためには父親に話を通さなければならない。しかし一希は金
に目が眩む両親の姿を幻視する。
農家内での軋轢は生みたくないし、他貴族から無用な恨みも買い
たくない。最後まで隠し通すのは無理でも農家の経済状況を回復さ
せ、自分達で必要分のライフポーションを購入できるくらいには経
営状況を建て直したいところだ。
どれだけ頭が痛くても死亡フラグを回避するためにはやるしかな
い。
67
ふと気が付けば説明を聞いていたジェイクがポカンとしている。
ノーマンも似たような顔で、ゼンは話についてこれず半分眠りかけ
ていた。
ゼンは諦めるにしても残り2人の表情はどういうことだろうか。
﹁貴様らは人にマヌケ面を晒す趣味でもあるのか?﹂
﹁も、申し訳ありません。ただお話の内容に驚いてしまって⋮⋮﹂
﹁事前にある程度は聞いていましたがこれほどまで考えていらっし
ゃるとは感服致します﹂
︵素人の発想にそこまで感心されると逆に不安なんですけど⋮⋮︶
一希に専門的な経済、経営の知識はない。
今はあくまで大枠を組むための材料を提示しているだけである。
ここから枠を組み細かい部分を詰めていくにあたって頼りにしたい
2人がこれで大丈夫なのだろうか。
﹁言っておくがイエスマンはいらない。おかしな点があると感じれ
ば1つ残らず進言しろ。いいな?﹂
でないと一希の心がプレッシャーでヤバい。
そんな思いがノーマンとジェイクには食い違って伝わっていた。
︵この歳にして歴史を覆す画期的な栽培方法を発見し、かつ現実的
な政策を打ち出す頭脳。それに慢心せず自らに厳しさを課す飽くな
き向上心︶
︵得られるであろう金や名誉など欲には目もくれずひたすらに民を
68
救おうと努力なされる強き想いと慈愛の深さも持っておられる︶
︱︱ハロルドは人の上に立つ器を備えている。
確信にも近い直感。
着いていきたいと思ってしまうカリスマ性を彼は放っていた。
﹁では最終確認だ。ジェイク、貴様は俺の手足となるか?﹂
その問い掛けに首を横に振るという意思はもう残っていなかった。
﹁私が持ちうる力をハロルド様の為に使わせていただきます﹂
﹁俺に仕えるのなら俺ではなく憐れな領民のために奮え。あいつら
そうでもしなければ生きられない弱者だからな﹂
あくまでも不遜に、しかしどこまでも弱き者のために。
その在り方は何者よりも誇り高かった。
69
7話
﹁分かったらさっさと取りかかれ。ノーマンは領民への説得用に俺
がさっき説明した内容を書面にまとめろ。不明点や気になった部分
は漏らさず俺に聞け﹂
﹁畏まりました﹂
﹁ジェイクは隣接する農家同士で経営規模が可能な限り均等になる
ように区分けしろ。栽培に使用する畑の面積はこっちで指定するか
ら考慮しなくていい﹂
﹁承知致しました﹂
これくらい言っておけばあとは有能そうな2人のことだからいい
感じに働いてくれるだろう。今できるのはこれくらいかなー、と背
もたれに身を預けたところで未だ部屋に残るゼンと目が合った。
﹁⋮⋮何だ?﹂
﹁おれは何をしましょうかハロルド様﹂
目をランランと輝かせるゼン。
だが悲しいかな現地に向かうまで彼に仕事はないのである。
﹁大人しくしてろ。というか自分の仕事に戻れ﹂
70
そもそも一希はゼンを呼んでいない。何時ものごとく部屋に入り
浸っているのでそのまま放置していただけだ。
﹁おれ今日は休みなんです!﹂
﹁何しに来たんだ貴様は﹂
サムズアップするゼンの背中を蹴っ飛ばして部屋から叩き出す。
無人となった部屋ではぁ、と大きな息を吐いた。
まずはこれで一段落。あとはノーマンとジェイクの準備が整うの
を待つ状態となった。
どのくらいの時間がかかるかは分からないがとりあえず1週間は
ゆっくりできるだろう。
しかしそう考えていた矢先に新たな問題が舞い込んできた。
それは夕食での出来事。ハロルドの父親は食卓に突如として爆弾
を投下した。
﹁ハロルド、お前の結婚相手が決まったぞ﹂
口にしていた果汁水を噴き出さなかったのはハロルドに許嫁が居
ることを一希が知っていたからだ。
それでも驚きを隠せなかったのは目の前に山積する問題にかかり
きりになって許嫁の存在を失念していたせいである。
﹁結婚相手?誰ですか?﹂
内心で白々しさを感じながらそれらしい反応で聞き返す。
﹁スメラギ家のご息女だ。正確にはまだ婚約だが、これでよりスト
71
ークス家の血筋が強まるぞ﹂
﹁まあ、素敵なことね!﹂
両親はキャッキャウフフと喜び勇む。確かに純血主義の2人にと
ってはかなりの朗報だろう。
スメラギの一族はこの国の建国に尽力した貴族の内の1つで、そ
の成り立ちから今でも王国との縁が深い。そんな家と血の繋がりを
持てばストークス家も純血主義としての箔が付くというものだ。
﹁それでだ、先方が是非ともお前に会いたいと言っている。近くス
メラギ領へ出向くぞ﹂
ぜってぇ嘘だわ、という悪態をぶちまけるのはなんとか思い止ま
った。しかし原作知識がある一希はこの婚約にスメラギ側が乗り気
ではないことを知っている。
本来ストークス家とスメラギ家では圧倒的に格が違う。それでも
婚約が成り立ってしまうのは原作のシナリオが関係しているせいだ。
︵あれ、待てよ?この時期ならもしかして⋮⋮︶
頭の中の情報を繋ぎ合わせている内にふとした妙案が浮かぶ。
婚約の話が出ているということは既にスメラギ側に被害が出てい
るのは間違いない。しかし原作開始前ならばまだ最小限のはずであ
り、一希が介入することでこれ以上の被害拡大を食い止められる可
能性は充分にある。
多少ストーリーに影響が及ぶので気乗りはしないが人命に関わる
となれば背に腹は変えられない、と一希は判断した。
﹁近くっていつ頃?﹂
72
﹁2、3日中の予定だ﹂
︵はえーよ!︶
その猶予期間では必要な物を揃えられない。特にゲーム内ではモ
ンスターを倒してドロップさせるしか入手方法のないアイテムが問
題だ。
まあ限られた店でしか買い物ができないゲームとは違い実際に経
済活動が行われている世界なのでもしかしたら流通しているのかも
しれないが、良く良く考えれば仮にもし必要なアイテムを集められ
たとしてもスメラギ領ででしかその効果を立証できない。
ならば手紙にしたためておき両親の隙を窺ってスメラギ家へ渡す
のが最善策だろう。
一希は食事を終えるとすぐさま自室へ引っ込み、記憶を頼りにと
ある粉末を作り出すレシピを思い起こし始める。
︵アニスヒソップとガドゥンの牙、リール草⋮⋮あとはなんだっけ
な?確か漢方みたいなのも入ってた気が⋮⋮︶
Hearts﹄にお
膨大な組み合わせによって回復アイテムはもちろん武器や防具、
時には機械すら完成させるのが﹃Brave
ける調合だ。そのほとんどを頭に詰め込んでいる一希でも詳細に思
い出すのは一苦労である。
結局計5つの調合アイテムを思い出し忘れない内にスメラギ家へ
の手紙を書き終えた頃には夜が明け、朝日が窓から差し込んでいた。
その甲斐あって会心の内容に仕上がった手紙を携えて、当初の予
73
定通りあの夕食から3日後に人生初の馬車に乗り込んだ一希はいざ
スメラギ領へ向けて旅立った。
全行程は9日間。野営も辞さなければあと数日の短縮も可能だが
そこは高貴な身分のストークス家現当主である。
野宿なんてもっての他、という主義によって毎日町1番の宿屋に
泊まることを余儀なくされた。モンスターの行動が活発になる夜間
の移動を徹底的に避けたことで強敵に遭遇しなかったのは幸いでは
あったが。
往復で3週間近くも不在にして仕事は大丈夫なのか、という疑問
は気にしないことにした。
そんなこんなで父親と2人きりになる時間が多かったこと以外は
特に問題のない道中の末、やっとスメラギの屋敷に到着する。
その外観は古き良き日本を感じさせる木造建築。軒先には赤い灯
籠が垂れ下がり、庭では鹿威しが音を鳴らし桜色の花びらが鮮やか
な大木がそびえるなど和風テイストで溢れている。
スメラギ家は東方の流れを継いでいるという設定なのでこの屋敷
だけでなく町並みも純和風だ。
﹁ようこそお越しくださいました。旦那様と奥様がお待ちになって
おりますのでどうぞこちらへ﹂
正門で待ち構えていたのは白髪の老公。その身なりや佇まいから
してただの使用人ではないだろうと一希は感じた。
彼の先導に従い屋敷へと上がり込む。
﹁家の中で履き物を脱ぐのはどうも落ち着かん。この内履きという
のもな﹂
74
﹁これがスメラギの文化ですのでご考慮頂きたく存じます﹂
父親が文句を垂れる傍ら、一希は脱いだブーツを慣れた手つきで
踵合わせにし下座に揃えて置く。
やってから﹁あ、これハロルドっぽくないわ﹂と気が付いた。
しかし父親達には見られていなかったようで胸を撫で下ろす。
そのまま後を追って縁側を沿うように屋敷を半回り程したところ
でようやく老公の足が止まった。
﹁旦那様、ヘイデン・ストークス様とご子息のハロルド様をお連れ
しました﹂
﹁どうぞお入り下さい﹂
障子の向こうから渋く、それでいて落ち着きのある声が発せられ
る。老公が膝を着き両の手で障子を引く。
20畳程の広々とした和室。部屋の中心に置かれた木製机には3
人が並んで座っていた。
中央はスメラギ家の現当主、タスク・スメラギ。その右隣には妻
のコヨミ・スメラギ。
温厚、穏健といった表現がピタリと当てはまる優しさ溢れる夫妻
だ。しかし今はその顔色にどこか陰が差しているように見える。
そして問題はタスクの左隣で無表情を貫く少女。
肩まで伸びた黒髪と、それに映えるピンクを基調にした簪、淡い
緑が特徴的な振り袖に身を包んだスメラギ家の長女、エリカ・スメ
ラギの存在だ。
75
︵目のハイライト消えてるよおい。生気が感じられないぞ⋮⋮︶
容姿が整っているだけにまさしく人形のようである。
この婚約を無邪気に喜べるほど幼くはなく、胸の内を隠して笑顔
を浮かべられるほど大人でもない。それでも何とか自分なりに折り
合いを着けようとした結果がこの姿なのだろう。
だが本当の彼女は違う。エリカはその名の通り花のように笑う奥
ゆかしい少女だ。
それを知っているだけに一希の胸が締め付けられる。10歳の少
女にこんな顔をさせてしまっているのは自分達なのだ。
ハロルド
しかしこの顔を止めさせることができるのもまた一希しかいない。
主人公と出会うまでの8年をこのまま過ごさせるのはあまりに不
憫だ。
﹁お初にお目にかかるね。私がスメラギ家の当主、タスク・スメラ
ギだ﹂
﹁⋮⋮ハロルド・ストークスと申します。初めまして﹂
一希はタスクと挨拶を交わして敷かれていた座布団に座る。意外
にもこの口は敬語も喋れるらしい。
新たな発見をしつつ懇談会はスタートした。
﹁本日はご足労頂きありがとうございます﹂
﹁何をおっしゃる。当然の事ですよ﹂
76
両家の当主が内心はどうあれ和やかに話を切り出す。仮にも婚約
者同士の顔合わせということもあって険悪なムードで睨み合う事態
には発展しなさそうである。
そのことに安堵しつつ様子を窺う。基本的にはヘイデンとタスク
が社交辞令のようなとりとめのない会話をしつつ、時たまコヨミが
愛想笑いとは思えない上品な笑顔を浮かべながらそこへ加わる。
親同士が決めた政治的理由での婚約ということでハロルドやエリ
カの出番はほとんど無いようだった。当人達の意思が介在する余地
はないので仕方がない。
﹁どうだい、エリカちゃん。ハロルドはかなりの男前だろう?﹂
﹁はい、とても﹂
ふとヘイデンが冗談めかしてエリカへ問い掛ける。返答は間髪入
れずに物凄く平坦な声で返ってきた。
﹁すみません、ストークス様。どうやらこの子は緊張しているよう
で⋮⋮﹂
タスクが取り繕うが緊張しているというより明らかに嫌悪に近い
声色だった。まあこの年の子どもに大人の対応を求める方が酷なの
だが。
対するヘイデンも気にした様子は無い。たとえエリカがはっきり
と拒絶したところで気に留めることもしないだろう。
﹁まあこの歳で結婚相手が決まったとなれば戸惑うのも当然でしょ
う。ハロルドも似たようなものですよ﹂
77
﹁ええ。エリカさんほど可愛らしい方とは初めてお会いするので緊
張してしまいます﹂
半分以上事実なのでおべっかを使ったわけではないが、エリカと
は違い逆に余裕たっぷりな物言いのせいでお世辞のようにも聞こえ
る。
口調は変わっても“らしさ”は消えなかった。ハロルドという男
は恐縮やしおらしい態度と無縁のようである。
﹁ねえ貴方、折角だしエリカとハロルド君が打ち解けられるように
2人きりにしてあげたらどう?﹂
﹁おお、それは良いですな!﹂
コヨミの提案にヘイデンが飛び付く。
ここから本格的に婚約の話し合いが行われる。コヨミからすれば
本心では嫌がっている娘に聞かせるのは耐え難い、という親心から
きた配慮だった。
﹁そうだな。エリカ、少しハロルド君を案内してきなさい。会食の
時刻までには戻ってくるようにな﹂
﹁⋮⋮はい。ではハロルド様、どうぞこちらへ﹂
しかしこれは一希にとっても渡りに船の申し出だ。同じような状
況を作り出すために自分から話を切り出す必要がなくなった。
﹁エリカさんにエスコートしてもらえるなんて光栄ですね﹂
78
立ち上がりエリカに付き従って和室を後にした。
ここからが一希の正念場である。
79
8話︵前書き︶
日間1位ありがとうございます
皆様に評価していただいたおかげです
4000ptいけば1位狙えるかなぁと思っていたらまさかの60
00pt越え
悪役転生モノは人気あるんですねぇ
80
8話
和室から退出した一希はエリカに連れられて隅々まで手入れの行
き届いた庭園へと降りる。
エリカが履き替えた黒漆の下駄をからんからんと鳴らしながら前
を歩いていく。
その足が止まったのは20メートル以上ある大木の下。桜色の花
弁が舞い散る幻想的な光景の中で一希へと向き直った。
﹁改めてご挨拶を。タスク・スメラギが子女、エリカ・スメラギと
申します﹂
﹁ハロルド・ストークスだ﹂
お互いが名前だけ名乗るとすぐに沈黙が訪れた。ハロルドの言葉
には友好的な雰囲気が一切含まれていない。
︵というかいつの間にか口調が戻ってるし⋮⋮︶
そういえば、と原作でもハロルドがエリカに対してきつい口調だ
ったのを思い出す。もしや敬語は目上の人間の前でしか使えないの
だろうか。
﹁この木は﹃サクラ﹄といって私達スメラギの故郷を代表する花で
す。この地には存在していませんでしたが当時の領主がこちらへ移
り住むことになった際に持ち込んだ苗木を植えたのだそうです。5
81
00年以上前の事ですが今ではスメラギの象徴と呼ばれるようにな
りました﹂
一希がハロルドの口の悪さに辟易している間に突如としてスメラ
ギの郷土史が語られだす。
沈黙に困った末、エリカはとりあえず目についたサクラの木につ
いて説明し始めたようだ。平静ではないだろう精神状態で案内を務
めようという心意気は見上げたものである。
はっきり言って子ども同士が打ち解けるには不向きな話題ではあ
るが、幸いにも桜と馴染みが深い一希が食い付くには格好のネタだ
った。
﹁俺が知っている﹃桜﹄とは違うな﹂
ゲーム内ではこの木の名前は明らかになっていなかったが日本で
良く目にしていたソメイヨシノとは花弁の形や付き方が異なる。心
なしか色も濃いようだ。
こういう品種もあるのか?と頭を捻るが答えが出てくるわけもな
い。
﹁サクラをご存じなのですか?﹂
ここまで感情の色が希薄だったエリカの瞳が若干揺れた。
﹁いや、恐らく似て非なる別物だろうな。まあそんなことはどうで
もいい﹂
本日も絶好調なこの口はエリカの疑問をすげなく切り捨てる。
単に話題を変えようとしただけでこれだ。
82
冷たくあしらわれエリカの表情も険しくなる。
その顔は嫌悪か警戒か。
ハロルド
︵そーいや登場人物の中で唯一エリカが嫌ってたのって俺なんだよ
なぁ︶
エリカを最も分かりやすく表現するならまさしく“大和撫子”だ。
名家のお嬢様でありながら誰に対しても分け隔てない態度、味方
はおろか敵にまで向けられる笑顔と優しさ、そして主人公をそっと
支える包容力。常に清楚な佇まいを崩さない彼女に骨抜きにされた
プレイヤーは星の数ほどいる。
そんな彼女が激昂して平手打ちを食らわせたのが他ならぬハロル
ドだ。そこまでされるのはある意味快挙である。
中にはエリカの平手打ちを“ご褒美”と称してそのイベントを繰
り返し鑑賞するプレイヤーもいたが。
﹁それはスメラギの家には興味が無いということですか?﹂
﹁好きなように捉えろ﹂
﹁⋮⋮そうですか。欲しいのはあくまでスメラギの名だけなのです
ね﹂
﹁名しかない、の間違いじゃないか?それ以外にストークス家が劣
っているとは思えないぞ。有数の名門貴族なんて言われてるくせに
情けなくもこうして家に泣き付いてるだろう﹂
自分でも驚くほど口が回る。
83
多少嫌われておいた方が好都合なのでちょっと意地の悪いセリフ
でも吐いておこうか、と思ったのが間違いだった。
意地が悪いを通り越してもはや罵倒である。これは言い過ぎた感
が否めない。
﹁貴方に何が⋮⋮!﹂
エリカが呻くように呟く。原作の8年前、まだまだ子どもなので
当たり前だが沸点はかなり低くなっているようだ。
俯いているので顔は隠れているが、怒っているのは良く分かる。
これ以上煽るのはまずい。
悪印象の楔を打ち込むのはここまでにしてエリカへ封書を差し出
した。
﹁⋮⋮これは何でしょう?﹂
﹁黙って受け取れ。そして俺達が帰った後に父親へ渡せ﹂
﹁お断りします﹂
取りつく島もないとはこの事だ。完全に自業自得である。
ふいっと顔を逸らしてエリカは立ち去ろうとする。
﹁ああ、そうか。苦しむ領民を見殺しにしたいならそうすればいい﹂
しかしその言葉に思わず足を止めた。
何故ならハロルドの言い様はまるで︱︱
﹁⋮⋮彼らを助ける方法があるとでも?﹂
84
﹁ある、とは言い切れないな。だが試すだけの価値はあるぞ﹂
エリカが封書に目を向ける。
迷っているようだが、こう言えば受け取ってくれるだろうという
確信が一希にはあった。
彼女はとにかく優しい。言い替えればお人好しであり、困ってい
る人や苦しんでいる人を見捨てることができない。
何せゲームではモンスターを倒すことにさえ心を痛める描写があ
るほどだ。
そんなエリカが床に臥す自領の民を救えるかもしれない手段を知
らされればどうなるか。
たとえ信憑性が乏しくとも、嫌っている人間からの提案だろうと、
話を聞かずに無視はできない。
一陣の風吹き抜け、2人を包むようにサクラの花弁が舞う。しば
し無言で見つめ合った後、先に動いたのはエリカだった。
﹁貴方の言葉を信じるわけではありませんが⋮⋮﹂
不服そうな表情ではあったがエリカはしっかりと封書を受け取っ
た。一希としてはそれで充分だ。
彼女なら言葉通りそれをタスクに渡してくれるだろう。
﹁理由もなく信じる必要はない。結果で判断しろ﹂
果たしてタスクが齢10歳の荒唐無稽な手紙に目を通してその内
容を実践するかは分からないが、不発に終わればその時はその時だ。
85
また何か手を考えることにする。
一希はため息を吐く代わりにサクラの木を見上げ、かすみ雲のか
かった青空を仰いだ。
◇
ストークス親子が乗った馬車が柔らかな日差しの中をゆっくりと
遠ざかって行く。それを見送るエリカの心中には穏やかな気候とは
対称的に暗雲が漂っていた。
原因のひとつは言うまでもなくハロルドとの婚約だ。
エリカは自分が低くない身分だということをしっかり理解してい
る。自らの意思で結婚できるとは考えていなかったし、心を寄せる
想い人がいるわけでもない。
だがそれでも他人の弱味につけ込んで婚約を取り付けるような厚
かましい家の一員になることを無私に徹して納得できるほど大人で
もなければ人生に希望を抱いていないわけでもなかった。
ましてやストークス家の現当主は強い純血主義者であり、貴族の
血を引かない民を物同然に扱う人物だと聞いている。
彼らのような人間にとっては確かにスメラギの血は喉から手が出
るほど魅力的だろう。
軽蔑すべき人間の食い物にされることがただただ悔しい。自分の
力ではスメラギの家や領民の助けになれないことが恨めしくて堪ら
ない。
86
しかしそうすることで多くの命が救えるのだとエリカは幼いなが
らに理解していた。
エリカの苦悩を露ほども知らないでハロルドはスメラギの名を貶
した。彼女にとっては到底許しがたい行為だ。
そんな相手から受け取った封書がエリカの手にある。心のままに
破り捨ててしまいたいところだが口約束だろうと約束は反故にでき
ない。
スメラギの顔に泥を塗り、何より今まさに苦しんでいる領民を救
う可能性を放棄するくらいならば自分が感じた屈辱などいくらでも
飲み込んでみせる。
﹁すまないな、エリカ⋮⋮﹂
並んで馬車を見送っていたタスクが悔恨の声でそう漏らした。
彼も人の親だ。自分の娘が望んでいない相手と結ばれることには
喜べない。
それでも領地で暮らす数万人の命と生活の基盤を守るために苦渋
の選択を下さなければならないのが当主としての責務なのだ。
﹁気になさらないでください、お父様。これもスメラギとここに住
まう民のためです﹂
その気持ちに嘘はない。
ただ今は独りで心を落ち着ける時間が欲しかった。
﹁お父様、これを。ハロルド様が自分達が帰った後にお父様へ渡し
てほしいとのことでした﹂
87
エリカは懐から封書を取り出してタスクへと差し出す。
﹁ハロルド君から?﹂
両親から婚約に際して挨拶をしておくよう言い聞かせられたのか、
と思いながら封書を受け取る。仮にそうだとしてもエリカを経由し
たことといいおかしなタイミングを指定したものだ。
普通ならば直接手渡すだろう。
﹁では私は部屋に戻ります﹂
﹁ああ、ゆっくり休みなさい﹂
労るような笑顔を浮かべたタスクに頭を下げてエリカは足早にそ
の場から立ち去った。
タスクとコヨミは真に自分の心を案じてくれている。そんな両親
の優しさが今のエリカには余計に辛い。
気丈に振る舞う娘の姿に自分はなんて重荷を背負わせてしまった
のだろうとタスクは自らを責めた。
もっと他の、エリカを傷付けないで済む方法は無かったのか、と。
﹁⋮⋮今さら考えても詮なきことか﹂
全ては自分の力不足が招いた事態だ。それ故にエリカと領民に負
担を強いることになってしまった。
自嘲する気も起きない。
陰鬱とした胸中でハロルドからの封書を開く。
88
その書き始めは子どもらしからぬ時候の挨拶が記されていた。字
も大人が書いたようなしっかりしたものだ。
同年代と比較すれば礼儀と教養は身に付けているのかもしれない。
これだけでもタスクのハロルドへ対する心証は悪くなかった。
しかし手紙を読み進める内にそんなことを気にする余裕は吹き飛
んだ。
手紙を持つ手には自然と力が入り、読み終えた頃には端々が深い
皺を刻んでいた。
﹁誰かいるか!?キリュウを呼べ!﹂
屋敷中にタスクの大声が響き渡った。珍しいことに狼狽えたのか
屋敷で働く使用人達は慌ててキリュウを探し回る。
程なくパタパタと床を鳴らして呼び出した人物が姿を現した。昨
日ハロルド達の到着を門柱で待っていた老公である。
﹁如何なご用件でしょうか旦那様﹂
﹁ここでは話せん。来い﹂
タスクが選んだのは人目のない執務室だった。そこでハロルドの
手紙をキリュウにも読ませる。
キリュウが読み終えたのを見計らってタスクが切り出す。
﹁それがハロルド君からの手紙だ。どう思う?﹂
﹁⋮⋮率直に申し上げるならば疑わしいかと﹂
89
﹁同感だ。しかしこれが事実にしても虚偽にしてもストークス家に
は利がない。むしろストークス家の凋落を示唆している﹂
﹁となれば第三者の差し金でしょうかな?少なくともあの少年本人
が書いたものとは思えませんが﹂
﹁彼はあくまで橋渡しに使われたに過ぎないということか﹂
その線が最も納得のいく答えだ。
しかしそうだとして最大の疑問は晴れない。
﹁問題は誰の手によるものか、だな。スメラギに助力したい者なら
ばここまで回りくどく不確実な手段は選ばないだろう﹂
﹁ではストークスに対し辟意を持っている者の仕業だと?﹂
﹁それもハロルド君に頼みを聞き入れられるほど近しい人間か、も
しくは彼を意のままに操れるかだ。それこそ洗脳したようにな﹂
そうでなければこの手紙がタスクの元へ届くことはなかったし、
書かれた条件を履行させることができない。
首謀者の目的はストークス家の凋落か、その先にある別の何かか。
それを計ろうにも現時点では情報が足りない。
﹁穿った見方をすればスメラギへのだめ押しなのかもしれないが⋮
⋮﹂
﹁それにしては得るものに比べてリスクが高いですな。お言葉です
が今やスメラギは窮地、静観していれば焦らずとも望む形になるで
90
しょう﹂
キリュウの言う通りだ。このまま解決方法が見付からない限りス
メラギはいずれ経済支援無しには成り立たなくなる。
﹁つまりこの手紙の主がそれを望まないのだとすれば⋮⋮﹂
﹁記された内容が事実だという可能性は大いにありますな﹂
これは根本的な解決策ではない。
だが効果が得られれば解決策を模索する時間に猶予が生まれる。
まだエリカを自由にしてやれる希望は潰えていないかもしれない。
﹁キリュウ、直ちに必要な物を揃えろ。危険性を説明した上で希望
した者には使用する﹂
手紙が全て事実だという確証はない。しかし五里霧中の状況に差
した一条の光だ。
たとえ誰かの掌で踊ることになろうとも、タスクはこのチャンス
に賭けてみることにした。
91
9話︵前書き︶
明けましておめでとうございます。
92
9話
およそ3週間振りに戻ったストークスの邸にこれといって変わっ
た様子はなかった。何かしらの変化を上げるとしたらジェイクが自
宅の庭でLP農法による自家栽培を始めたくらいのものである。
どうやら話を聞いただけでは半信半疑だったらしい。
しかしその甲斐もあってLP農法に財政難脱出の希望を見出だし
たジェイクは精力的に試験運用へ向けて尽力している。
ノーマンも上手く水面下で動いてくれているので両親に勘付かれ
てもいない。ここまでは計画通りと言えた。
そしてスメラギ領から舞い戻り10日ほど経ち、LP農法の試験
運用が差し迫ってきたある日。日課の鍛練をこなしていた一希の元
へ来訪者の報せが届いた。
﹁俺に来客だと?﹂
﹁はい、そのようです﹂
いきなりそんなことを言われても一希に心当たりはなかった。さ
すがにハロルドの幼少時の交友関係までは把握していない。
﹁来客者の名前は?﹂
﹁エリカ・スメラギ様です﹂
93
ノーマンが口にした名前に一希は振るっていた剣を止めた。
︵なんでエリカが来るんだよ⋮⋮︶
LP農法の試験運用開始直前という微妙に忙しい時期に面倒事は
勘弁してくれ、というのが一希の偽らざる心境だった。
そもそも何用なのだろうか。初対面であれだけ悪態を吐いた相手
にわざわざ自分から会いに来るとは思えない。
考えられるとするならば例の手紙に対する何らかのレスポンスだ
ろう。そのメッセンジャーにエリカが抜擢されたのは納得できなか
ったが。
何にせよ剣を手にしたまま裏庭で考えていても埒が明かない。
﹁テラスの方に通しておけ﹂
ヘイデンは仕事で不在だが母親のジェシカは在宅だ。本日もパー
ティールームで優雅に貴族流ママ友会を開催しているので屋内の来
客室でも遭遇確率は低いだろうが、手紙の件があるだけにできるだ
け邪魔が入りにくい場所を選ぶ。
本当ならば自分の部屋が最適なのだが仮にも婚約者をいきなり連
れ込むのはいらぬ誤解を招きそうなので自重した。10歳児同士で
誤解も何もあったものではない気もするが念には念を、である。
ひとまず一希はかいた汗を水で流し着替えを済ませてからテラス
へと出向く。
そこにはストークス家の給仕が淹れた紅茶を楽しんでいるエリカ
の姿があった。
先日の着物とは違い、今日の装いは袴を履いた書生姿である。純
94
和風の出で立ちで洋風のウッドチェアに腰掛けているというなかな
か不釣り合いな光景だ。
﹁何をしに来た?﹂
向かいの席に座りながらハロルドはいかにも不機嫌そうな声を発
する。
手紙の件であれば誰かに聞かれるわけにはいかないのでとりあえ
ず手を振って給仕を下がらせた。
﹁この場合の第一声は普通なら“お待たせしました”ではありませ
んか?﹂
一希としては似たようなことを言ったつもりである。言葉もニュ
アンスも全く反映されていないだけだ。
相手をするのが面倒、という本音が滲み出たのかもしれない。
﹁俺は貴様と違ってヒマじゃないんだ。こうして顔を見せてやった
だけありがたいと思え﹂
﹁うっ⋮⋮確かに急に訪問したこちらが悪いのですけど⋮⋮﹂
正論をぶつけられて悄気るエリカ。
言い分としては自分の方が正しいのだが、相手が子どもというこ
ともあってシュンとされるとまるで虐めているかのような気分にな
る。
﹁ふん、まあいい。用件は何だ?﹂
良心を抉られた一希はさっさと話を進めることにした。
95
ハロルドの空気を察してエリカも凛とした雰囲気を瞬時に整える。
﹁まずはスメラギ家を代表してお礼をさせていただきます。此度は
多くの民を救っていただきありがとうございました﹂
エリカが深々と頭を下げる。救った、ということは一希が手紙に
記した調合アイテムを作り、実際に使用して効果があったのだろう。
タスクが手紙を受け取ったのが20日ほど前。タイムラグを踏ま
えれば一希が去ってすぐに試したということになる。
予想していたより行動が迅速だ。
﹁あんな眉唾物に飛び付くとはスメラギも相当追い込まれているよ
うだな﹂
せせら笑うかのようなハロルドに対してエリカは表情を崩さない。
﹁ハロルド様のおっしゃる通りです。現状ではスメラギに打つ手は
ありませんでした﹂
﹁ならその恩は高く売っておいてやる。だが勘違いするなよ﹂
﹁どういうことでしょうか?﹂
﹁俺が貴様らに提示してやったのはあくまで対症療法だ。根本的な
解決はできないし副作用が出ないとも限らない﹂
ゲームなら材料を選んで調合するだけだが実際に作るとなればそ
れぞれの分量を試行錯誤していくつもの割合を試さなければならな
い。それだけに一希はこうも早く効果が出るなど思ってもみなかっ
96
た。
加えて大量摂取や長期服用によって副作用が引き起こされるかど
うか、またその程度などゲームで描かれていない部分は一切不明だ。
当然それらについては手紙でタスクにも伝えてある。
そういったリスクを天秤にかけても試すほどにスメラギは手詰ま
りなのかもしれない。
﹁つまりハロルド様のお薬では完治しない、と﹂
﹁症状が軽度であれば根治は可能かもしれないが重篤患者は無理だ。
そしてそこまで面倒をみてやるつもりもない﹂
なぜならそれを解決するのはライナー達主人公一味であり、エリ
カが主人公パーティーに加わるきっかけとなるイベントでもあるか
らだ。
冷たい物言いかもしれないが、しかしそれはエリカも承知の上だ。
婚約者という間柄ではあっても所詮は政略結婚。物資や資金の援
助など最低限の義理を通しさえすればストークス家は面目を保てる。
それでもハロルドはわざわざ︱︱
︵作った⋮⋮?“薬”を?︶
エリカの頭を過った疑問。
それはハロルドがいつあの薬を作ったのかということ。
エリカとの婚約が決まってから、というのはあり得ない。専門的
な知識のないエリカでもたった数日で薬を開発するなど到底不可能
だということは分かる。
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では知識として知っていただけでハロルドが作ったものではない
?先程もエリカが﹁ハロルド様のお薬﹂と口にした際に肯定も否定
もしなかった。
ハロルドはあくまで“対症療法を提示した”というスタンスでい
る。
しかしスメラギが総出で調べ上げたにも関わらず有効な手立てが
見付けられなかったものをハロルドが知っているというのも考えに
くい。
仮にそうだったとしても有効性が少なからず実証されるほどの臨
床例があれば相応の資料や文献が残っているはず。副作用について
まるで分からないというのもおかしな話だ。
︵それでは一体どうやって⋮⋮?︶
﹁貴様の用件はこれだけか?﹂
深く潜りそうになったエリカの思考を遮ったのは億劫さを隠そう
ともしないハロルドの声だった。
追い返そうという雰囲気が嫌でも伝わってくる。
﹁まだあります。父からハロルド様へ手紙を預かって参りました﹂
﹁寄越せ﹂
やはりエリカはメッセンジャーに抜擢されたらしい。
タスクが手紙だけでは礼に欠くと判断して感謝の意を直接示そう
と考えたのかもしれない。
98
エリカも不本意なんだろうなぁと彼女に些か同情しつつ、一希は
タスクからの手紙に目を通していく。
その内容は予想通り。
例の薬は効果があったこと、副作用を始めとした諸注意事項に関
しても今のところ問題は起きていないが経過を注意深く観察してい
く意向であること、そしてハロルドへの感謝の言葉が綴られていた。
まあ現時点でこちらに報告できるのはそんなところだろう。
手紙は拝見した、後は静観する、という旨をタスクに伝えればこ
れ以上干渉する必要もされることもないはずだ。
︵ん?︶
ふと2枚組みだと思っていた便箋の後ろにさらにもう1枚便箋が
重なっていたことに気付く。その書き出しには“追伸”の文字があ
った。
﹃追伸
君も知っての通り今スメラギの地は異常な事態に見舞われ、その
対応に追われていて立て込んでいる。前例の無い出来事だけにいつ
不測の事態が起きるかも分からない。
そこで心苦しいのだが君に相談がある。誠に申し訳ないがエリカ
の身をしばらくストークス家で預かってはもらえないだろうか。私
情を挟むのは当主として失格かもしれないが大切な1人娘を案じる
父親として︱︱﹄
そこまで読み進めて一希は手紙から目を離した。眼精疲労でも起
こしているのかと思いながら目を擦り再び手紙に視線を戻して最初
99
から読み返す。
しかしそんなことをしてもエリカの身の安全に助力してほしいと
いう文言に変化はなかった。
両手で頭を抱えてテーブルに突っ伏しそうになるのを堪え、それ
でも絞り出した声は怨嗟を含んでいた。
﹁どういうつもりだ、これは⋮⋮﹂
﹁如何致しました?﹂
一希は無言で追伸が書かれた便箋をエリカの前に置く。
それを読み終えたエリカはさも驚いたようなセリフを淡々とした
調子で口にした。
﹁まあ、これは困りました。婚約者とはいえ同じ屋根の下で暮らす
などご迷惑をお掛けすることになってしまいます﹂
﹁⋮⋮おい﹂
﹁ですが私を乗せてきてくれた馬車はもう帰ってしまいました。こ
こはどうかハロルド様のご慈悲で助けていただくしかありません﹂
﹁おい貴様﹂
﹁はい、なんでしょう?﹂
ニッコリと笑うエリカ。初めて見せる満面の笑顔だった。
﹁なかなかいい根性をしてるな﹂
100
﹁お褒めにあずかり光栄です﹂
ハロルドの皮肉に涼しい顔で皮肉を返すエリカ。この一件はタス
クの独断ではなく彼女も承知の上らしい。
つまりエリカは何かしらの目的を持ってここに居座ろうとしてい
る。
単純に婚約者だからという理由ではないだろう。タスクにはエリ
カがストークス家に嫁がないで済む手段を知らせている。
まあそれはあくまでタスクが手紙の内容を信じてくれればの話だ
が、そうではなかったとしてもエリカを送り込んでくる理由に見当
がつかない。
加えて一希を困惑させているのがエリカの言動だ。
ゲーム内では確かにお茶目さやささやかな悪戯をする描写はあっ
たが、言葉だけの応酬とはいえ決して意趣返しを行うような性格で
はなかった。
まだ精神面が成熟しきっていないといえばそれまでなのだが、そ
のギャップは一希を惑わせるには充分だった。
﹁こんな一方的な申し入れを聞き入れてやる義理はない﹂
格上貴族からの願い入れなどほとんど命令のようなものではある
が、それを一希は躊躇なく突っぱねた。
タスクの人柄、スメラギの現状を考慮して問題はないと判断した
からだ。
もしこれでストークスとスメラギの仲が多少拗れたとしてもそれ
はそれで一希の望む展開でもある。
101
いずれ婚約を解消する際の後押しになればいい。
﹁つれない方ですね。他領の民は救ってくださるのに婚約者は無下
に扱うだなんて﹂
エリカがこれ見よがしに悲しげな表情を作る。
まさに“作った”表情であり悄気ていた時とは違って一希の心は
微塵も揺れない。
﹁あれは高い恩を売れると踏んだからだ。だがこの件に関しては俺
への見返りが少ない﹂
﹁そうですか。そこまで言われるのならこれ以上ハロルド様にお願
いするわけにはいきませんね﹂
すっと立ち上がったエリカは再びハロルドへ深々と頭を下げる。
﹁改めてハロルド様に感謝を申し上げます。スメラギの民を救って
いただき本当にありがとうございました﹂
ここが畳の上ならば三つ指をついていたんじゃないかと思うほど
丁寧な一礼に、エリカの偽り無い心が見えた気がした。
彼女が民を想う気持ちは本物なのだろうな、と一希はそう感じだ。
﹁この貸しは後で盛大に取り立ててやる。精々今の内に切れるカー
ドを増やしておくんだな﹂
﹁お気遣いのほど痛み入ります。それでは失礼致しました﹂
そう言い残し、エリカは淀み無い足取りでストークスの邸を後に
102
した。
やけにあっさり引き下がったことを不審に感じつつ、そういえば
馬車もないのにどうやって帰るつもりなのだろうという疑問に思い
到ったのはそれからしばらく時間が経ってからだった。
その答えを知るのはそれから数時間後、ヘイデンの口から告げら
れることになる。
103
9話︵後書き︶
年末は忙しかった分、年始は5連休なので最低もう1話は投稿した
い。
104
10話︵前書き︶
祝スマホデビュー
今まで通りメールの下書き機能で書いてるけどスマホだと執筆した
文字数が分からない
なので今回はお試し投稿
105
10話
陽も傾きジェイクが書き上げた報告書に目を通していると、邸に
帰ってきたヘイデンから呼び出しがかかった。
まさかと思いながらハロルドを呼びに来た使用人に従ってヘイデ
ンの書斎へと足を運ぶ。
そこで待ち構えていたヘイデンの顔を見て嫌な予感は確信へ変わ
った。なぜならいつもは厳しい顔つきをしていることの多いヘイデ
ンがかなりの上機嫌だったからである。
彼はハロルドが部屋に入るとすぐに話を切り出した。
﹁喜べハロルド、良い話がある﹂
﹁いい話?﹂
何を言い出すか分かりきっているがあたかも初耳であるかのよう
な態度で聞き返す。
虚しいが仕方がない。
﹁今日タスク殿から報せが届いてな。しばらくの間エリカ嬢がスト
ークス家に滞在することになった﹂
やっぱりか、という思いが一希の胸に去来する。
ヘイデンの中でエリカの居候はすでに決定事項らしい。スメラギ
としても最初からこちらが本命だったのだろう。
それでも一希は抵抗を試みる。
106
﹁俺は気乗りしないね、あの子と一緒に住むなんて﹂
﹁照れることはない。お前とエリカ嬢の仲は両家公認なのだからな﹂
しかしヘイデンには恥ずかしがっていると勘違いされてしまう。
浮かれているのかハロルドの言葉をまともに取り合う気配はなかっ
た。
その後も食い下がってはみたものの決定を覆すことはできず、結
一希はエリカを出迎えるためにストークス領と街道を繋
局一希は渋々エリカを迎え入れることになった。
翌日、
ぐ東門へと向かっていた。予定では朝方に到着することになってい
るようだが、昨日の内に姿を見せたので恐らく近くの宿にでも宿泊
したのだろう。
一希は暗澹たる気分で迎えの馬車に揺られる。
︵つーか日程がタイトすぎじゃない?︶
急いでも6、7日はかかる旅路のはずなのに手紙が届いた翌日に
到着するというのは返答を聞く気がないか、ヘイデンが承諾するの
を分かっていたかのどちらかだ。まあ恐らく後者なのだろうが。
どちらにせよこれは原作には無かった展開である可能性が高い。
事の発端はまず間違いなく一希が書いた手紙なのだから。
つまり自業自得じゃん、と凹んでいるといつの間にか東門に到着
していた。
足枷がついているのではないかと錯覚するほど重い足取りで馬車
を降りるとそこにはエリカと、その右手後方に見知らぬ女性が立っ
ていた。
107
﹁ハロルド様が直々に迎えに来て下さるなんて光栄です﹂
﹁はっ、心にも無いことを﹂
今日も今日とて人間関係を破壊しにかかるハロルドマウス。
この口と付き合うことおよそ3ヶ月、一希はもはや嘲笑のバリエ
ーションに感心すらする境地に達している。
自分の無駄な成長を感じつつ一希は視線をエリカの後ろに控えて
いる女性へ向けた。
年齢は10代後半から20そこそこ、毛先近くを大きな白いリボ
ンでひとまとめにして房のようになっている腰まで伸ばした栗色の
髪が印象的だ。
﹁そいつは誰だ?﹂
﹁お付きのユノです。滞在中私の身の回りの世話は彼女が﹂
﹁ユノと申します∼﹂
語尾を伸ばし緩慢な動作でユノがお辞儀をする。ふにゃっとした
笑顔と相まっておっとりとした雰囲気の女性だ。
そして一希は彼女のことを知らない。つまり原作には登場してい
ないキャラクターだ。
﹁あらかじめ忠告しておくが俺には貴様らに構ってやる時間は無い。
居座るのは勝手だが俺の邪魔だけはするなよ﹂
相手の目的もユノの正体も不明なのでとりあえず釘を刺しておく。
108
LP農法の試験運用をいざ開始しようというタイミングでの来訪
だけに一希としては不確定要素を可能な限り排除しておきたいのだ。
ハロルドの険がある言葉を2人は動じることなく受け止める。
﹁心得ております﹂
﹁了解致しました∼﹂
︵マジで心得てんだったら帰ってくんねぇかな⋮⋮︶
などと愚痴ったところでエリカも家の都合に逆らえずここまでや
って来たのであり、どうやっても追い返せはしないのだろう。
ならば非接触に徹するのが賢明だ。
だがしかし、そうは問屋が卸さなかった。
エリカ達と邸へ戻った一希を無慈悲な言葉が襲う。
﹁この間のお礼に明日はお前がエリカちゃんを連れて街を案内して
あげるんだ。女性のエスコートも貴族には必要な能力だからな。今
の内から練習をしておくに越したことはない﹂
言うまでもなくヘイデンからの提案である。
それだけでも厄介だというのにエリカもエリカで﹁お心遣い感謝
致します﹂などど好意的に受け答えるものだから一希はもう言葉を
失うしかなかった。
連日エリカ関連の事件に見舞われて憔悴する一希。
だがハロルドというフィルターを通すとそれは怒りに変換される
らしい。
109
﹁いつにも増しておっかない顔をしてますね。そんなんじゃ許嫁に
怖がられちゃいますよ?﹂
部屋を訪ねてきたゼンはハロルドの顔を見るなりそう言い放った。
よくそんな顔をしている貴族に臆することなく話しかけられるもの
である。
﹁その許嫁が原因だ。全くもって忌々しい⋮⋮﹂
﹁何がそんなに不服なんですか?かなり可愛い娘だったのに﹂
﹁そうか、貴様の趣味は分かった﹂
﹁全然分かってないですよ!ものすごい誤解ですからね!?おれは
ユノさんの方が好みです!﹂
濡れ衣を被せられ必死に否定するゼン。一希にとってはショタコ
ンじゃない限りゼンの性癖などどうでもいい。
なぜゼンがこの話題を知っているのかといえばエリカが到着する
なりヘイデンが邸中の人間を集めて大々的にハロルドの婚約者とそ
のお付きであると紹介したからだ。既成事実でも作っておきたいの
だろうが、一希からすれば単なる公開処刑である。
ちなみにハロルドの婚約者として紹介されたエリカに向けられた
視線の9割は憐れみを帯びていた。
そこにハロルドを含めストークス家への評価が如実に表れている。
﹁ぎゃあぎゃあと喚いていないでノーマンとジェイクを呼びに行け。
明日以降の予定を調整する﹂
110
﹁おれは本当に大人の女性が好きですからね!?﹂
ゼンが最後まで否定しながらハロルドの部屋を後にして邸内を探
し回っている頃、エリカとユノもまた頭を悩ませていた。
その原因は他でもないハロルドである。
﹁話には聞いていましたけどなかなかやんちゃそうな男の子でした
ね∼﹂
ユノ位の歳からすれば小生意気辺りが妥当なところではないかと
思うが、それでも“やんちゃ”の一言で済ませてしまうのがユノの
包容力だった。
しかし最たる問題点はハロルドの憎たらしい言動ではない。
﹁お父様はハロルド様が内通者と繋がっているか利用されている可
能性があると仰っていましたが⋮⋮﹂
﹁彼の性格からして素直に誰かの言うことを聞くようには思えませ
んね∼﹂
となればハロルド自身が気付かない内に傀儡とされている可能性
の方が高くなる。彼を従順させるのは相当困難を極めるだろう。
逆にもしあの言動が演技で内通者と与しているなら昨日の段階で
こちら側に何かしらの手段で接触があるはずだとタスクは睨んでい
た。そうしやすいように家主が不在で邪魔が入りにくいタイミング
を見計らいハロルドに接触し、無礼を承知でこれ見よがしに刺激し
たのだ。
しかし結果は空振り。これがより事態をややこしくさせていた。
111
タスクはハロルドが傀儡にせよ自身のの意思で動いているにせよ
目的はストークスを害するかスメラギを助けるかの2択だと考えた。
故に手を組もうと同盟を持ちかけてくるなり、邪魔をするなと警告
をしてくるなり何でもいいから相手側からのアクションが欲しかっ
たのだ。
だが相手は未だに沈黙を貫いている。
相手の目的が不明確な以上スメラギとしてもただ指をくわえてい
るというわけにはいかない。勝手に味方だと思い込んで痛い目を見
ることになりかねないのだ。
だからこそタスクはそれを探るためにユノを送り込んだのである。
エリカの居候はユノを自然に潜入させるための目眩まし、言わば
囮にすぎない。これはエリカも承知の上だ。
今回の目的や自分の役目をエリカはしっかりと理解している。
その中で1つだけ彼女に伏せられている可能性があった。それは
ハロルドが自分の意思など微塵も関係なく洗脳されているかもしれ
ない、という唾棄すべき可能性。
もしそれが現実のものとなれば︱︱
﹁これは少々骨が折れるかもしれませんよ∼﹂
ユノはエリカに聞こえないよう嘆息と共に袖の内側に潜めていた
暗器をカシャンと鳴らした。
112
11話
計らずも少し重くなった空気を払拭するかのようにユノが話題を
変える。
﹁ところでエリカ様、明日のデートはどうするおつもりですか∼?﹂
﹁当然行きます。ハロルド様と接触する絶好の機会なのですから﹂
胸の辺りで両の拳を“むん!”と握り気合いを示すエリカ。
顔を合わせてすぐに近寄るなと言われた時は内心どうしようかと
焦ったが、ヘイデンの発言でチャンスが転がり込んできた。エリカ
としてもヘイデンの思惑に乗ることに良い気はしないがこれを逃す
手はない。
﹁ではおめかしをしないといけませんね∼。せっかくですし着る機
会の少ない洋服などはどうですか∼?﹂
﹁別にそこまで意気込む必要はないのですけど⋮⋮﹂
ユノはデートだと囃し立てるが実際は中心街を淡々と見て回る程
度になるだろう。デートよりも視察という言葉の方が相応しい空気
になりそうだ。
﹁そんなことではいけませんよ∼。乙女は如何なる時でも可愛くな
ければいけないのです∼﹂
113
お姉さんらしく乙女の心得を説くユノだが、そのセリフはむしろ
エリカのものだ。
仕事中は仕方がないにしても休日まで割烹着で過ごすのはそれこ
そうら若き乙女としてどうなのだろうと思わずにはいられない。エ
リカの記憶にあるユノの姿はただの1度も例外なく割烹着を身に纏
っている。
そんな彼女に乙女とはなんたるものかと諌められたところで説得
力は皆無だった。
﹁貴女こそたまにはお洒落をしてみたらどう?綺麗なのだからもっ
たいないわ﹂
﹁ふっふっふっ∼、それは駆け引きなのですよ∼。ここぞという時
に普段とは違う自分をアピールして異性のハートをつかむのです∼﹂
﹁なら私もここぞという時までとっておくことにします﹂
﹁えぇ∼、初デートなのですよ∼?上手くいけばハロルド様を骨抜
きに出来るかもしれませんよ∼?﹂
﹁その程度で誰かに靡くような人ではないでしょう﹂
女性に甘い顔を見せるハロルドというのはどうしてもエリカには
想像できなかった。めかし込んで現れた自分を容赦なく罵倒するハ
ロルドならば想像は容易なのだが。
﹁昨日こんなに可愛いワンピースを見付けたんです∼。着てくださ
いエリカ様∼!﹂
﹁いつの間にそんなものを買っていたんですか⋮⋮﹂
114
荷物の中からフリルが装飾されたワンピースを取り出して懇願す
るユノ。その訴えは乙女の矜持やハロルドの籠絡など通り越して、
ワンピースを着たエリカが見たいという個人的な願望だった。
﹁ユノ、私達はここへ遊びに来たわけではありません。それは貴女
も理解しているでしょう?﹂
﹁むむ、残念ですね∼﹂
交渉の余地なしと判断してユノはワンピースを荷物へ戻した。
無論、本気のやり取りではない。エリカの緊張をほぐそうとユノ
が意図して砕けた空気にしただけである。
それを察しているからこそエリカも強く嗜めることはしない。
﹁では本題へ戻りましょうか∼。ハロルド様と接触するときの留意
点をお伝えしますね∼﹂
﹁ええ、お願い﹂
ひとつ屋根の下で両者の思惑が交差する。互いの腹を探り合う、
水面下での戦いの火蓋が切って落とされた。
◇
エリカの案内役を強制的に任せられた一希だが、このミッション
115
を遂行するにあたって彼には大きな欠点があった。
それは案内すべき街をほとんど知らない、ということだ。
元々ストークス領は会話文とイベントシーンでしか描かれておら
ず、実際のゲームではマップ表記すらないのでノーマンが地図を持
ってこなければ正確な場所を把握できなかっだろう。
そしてこの3ヶ月をフラグ回避に費やしてきた一希は街に出向い
た回数など片手の指で足りるほど。それも移動がてらに立ち寄った
だけで買い物や観光目的で訪れたことは皆無である。
むしろ自分が案内してほしいレベルだった。
しかし一希はこれをチャンスととらえることにした。
一希は街について何も知らないが、ハロルドがどうだったかは分
からない。もし足繁く通っていた場所などあればそれを知らないと
なると怪しまれてしまう。
だが今回に限っては“エリカを案内する”という免罪符がある。
自分が楽しむためではなく人を連れていくのに向いた場所が知りた
いという立場ならあれこれ聞いても不自然ではないはずだ。
という仮説は正しかったようで一希は邸の人間からそれとなく情
報を仕入れることに成功したのだった。
︵まあそれを活かせるわけじゃないんだけどさぁ⋮⋮︶
元よりエリカからの好感度を上げないためまともに案内するつも
りはない。これから先必要になるだろう情報を手に入れるチャンス
をしっかりものにしたというだけの話だ。
それでもこの状況は些か予想外だった。
﹁あ、あのハロルド様⋮⋮﹂
116
ハロルド
エリカが気まずそうに一希へ声をかける。
そこには純粋な戸惑いがあった。
﹁なんだ?﹂
﹁⋮⋮いいえ、何でもありません﹂
うんざりしたようなハロルドの反応にエリカは二の句を継げず押
し黙る。気まずい空気が馬車の中を支配していた。
その原因は馬車の外、街の住人である。
彼らの異変に気付いたのは始めに馬車から降りた時だ。
いや、恐らくその変化は一希達が街に入った瞬間から起こってい
たのだろう。
そこにあったのは耳が痛くなるほどの静寂。
一希の記憶から似たような状況を抜き出すなら中学時代に校則違
反の代物を放課後の教室で広げていたところを、全校生徒が恐れて
いた生活指導の体育教師に見つかった瞬間の凍りついた感じに近か
った。
そしてこの場合の体育教師はハロルドなのである。
ハロルドが姿を現すと街の人々は動きを止め、歩けば避けるよう
に人垣が割れる。声をかけられた店主の顔は恐怖で青ざめ、遠くか
ら様子を窺う住民の視線には明確な敵意が込められていた。
異様な静けさに包まれた街はとにかく居心地が悪かった。その態
度は一希のメンタルをごっそり削っていく。
︵クララを殺したって噂を放置してたのがだめ押しになったかな⋮
117
⋮︶
それに関しては一希も何か手を打とうと考えていた。しかしクラ
ラとコレットの安全、そして両親との間に軋轢が生まれるという面
倒な事態を避けたいがあまり有効な対策を思い付けずにいたのだ。
その結果がこれである。
ハロルド
ハロルドの、ひいてはストークス家の嫌われっぷりを目の当たり
にしたエリカも絶句していた。
彼らはエリカのことを知らないのだから一希と一緒にいればこん
な反応をされるのは当然と言える。まあすぐにエリカはハロルドの
婚約者だと公表されるのでストークスの使用人達からも向けられた
憐れみの視線に変わるのだろうが。
とはいえこれ以上街を散策しても得える物より失う物の方が多い
気がした。主に精神的な部分で。
街へ繰り出すこと1時間と少し、一希としてはそろそろ限界だっ
た。
﹁もう充分だろ。帰るぞ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
どこか意気消沈した様子でエリカが頷く。その顔には薄くない疲
労が浮かんでいた。
原因はストークスの住民達の敵意ある視線に晒され続けたことだ。
両親からの寵愛を受け、側付きや自領の民からも敬愛されている
彼女にとって嫌悪の感情を浴びるのは人生で初めての経験だった。
それがここまで堪えるものだとは思いもしなかったのである。
118
故にハロルドの言葉に反対する気力も沸かない。言われるがまま
帰路を選ぶ。
それからストークスの邸に戻るまで2人の間に会話はなかった。
﹁お早いお戻りでしたね∼﹂
とんぼ返りで帰ってきたエリカにユノはそう声をかける。
しかしどうして?とは問わない。
何故ならユノは離れた位置からずっと観察していたからだ。それ
でおおよその事情は把握はできていた。
﹁ストークス家は領民からの支持が低いとは聞いていましたがまさ
かあれほどとは思っていませんでした﹂
疲れた声でエリカがそうこぼす。
正直に言うなら若干ではあるものの身の危険を感じたほどだ。
﹁確かにあの嫌われようは尋常ではありませんね∼。まあ話を聞く
限りでは当然ですけど∼﹂
ユノが使用人から聞き出した話や巷に流れている噂は酷いものだ
った。特に領民は利益のほとんどを税金として搾り取られ、生きる
のに最低限の生活を強いられている者も少なくない。
暴動が起こす余力さえ奪われ、逆にストークス家は同程度の領地
や経済力の貴族と比較しても飛び抜けて軍備に投資している。その
せいで領民の生活がさらに厳しくなっているのだ。
これでは暴動など決起したところで無駄死にするのは目に見えて
いた。
119
﹁その様子だと内情を探るのは上手くいっているようですね﹂
﹁それはもう∼﹂
邸の人間に話を1振れば10も20も返ってくるのだ。余程嫌わ
れているようだ。
しかしその中にはどうしても看過できない情報が含まれていた。
﹁ただ、ひとつだけ気になるお話がありまして∼﹂
﹁気になるお話、ですか?﹂
﹁はい∼﹂
それはユノが自分の耳を疑い、思わず何かの間違いではないです
か∼?と聞き返さずにはいられなかった、しかし信ずるに足る数の
証言が得られた話。
エリカに伝えるのは憚られたが、そうすることで彼女を危険に晒
す可能性を無視するわけにはいかずユノは口を開いた。
﹁実は最近ハロルド様が使用人とその家族を魔法で焼き殺したそう
なのです∼﹂
﹁︱︱え?﹂
ユノから告げられた言葉の意味を処理できずに、エリカは呆然と
息を漏らす。
﹁殺害したのは邸の使用人だったクララさんという女性とその娘さ
んらしいですね∼﹂
120
﹁ま、待ってユノ!それは本当なのですか?ただの噂では⋮⋮﹂
﹁その可能性はありますが個別に話を聞いた人達からほぼ同様の証
言が得られました∼。根も歯もない噂話ではないようです∼﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
ハロルドは口も悪いければ態度も高圧的だ。他者を見下すし毛嫌
いしているのか自分を避けているというのはエリカ自身感じている。
それでもハロルドはスメラギの民を救う希望を見出だしてくれた。
そこに彼なりの思惑があったとしてもその事実は揺るがない。
だから心のどこかでハロルドは彼の両親とは違うのではないかと、
エリカはそう思っていた。
それだけにユノの言葉は小さくない衝撃を彼女にもたらした。口
を覆うエリカの両手がカタカタと小刻みに震える。
﹁内偵は継続しますがこれからはハロルド様と2人きりになるのは
お控えください∼。何があるか分かりませんので∼﹂
﹁⋮⋮ええ、気を付けます﹂
﹁大丈夫ですよエリカ様∼。わたしが居ますから∼﹂
赤子をあやすような優しい声色でユノがエリカを励ます。自分が
いる限り絶対に安全なのだと言い聞かせるように。
それでもしばらくエリカの震えが止むことはなかった。
121
12話
﹁生育状況はどうなっている?﹂
﹁全6ヶ所で順調な生育を確認しています。収穫量も概ね想定通り
です﹂
﹁ならさっさと手を拡げたいところだが⋮⋮﹂
﹁残念ながらこれ以上規模を拡大させるとなると人手が足りません﹂
﹁監査が入らないと利益に目が眩み自分勝手な栽培に走る農家も出
るでしょうな﹂
LP農法の試験運用を開始して2週間、一希はノーマンとジェイ
クの2人とその成果を確認しつつこれからの展望を話し合う。
場所はもちろんハロルドの部屋だ。この頃は部屋にいても1人と
いうことが少ない。ノーマン、ゼン、ジェイクの誰かしらが部屋に
居ることが多くなった。
﹁人手不足に関しては俺じゃどうにもできない。この邸で他に使え
そうなのはいないのか?﹂
﹁現状では難しいですな。アリアスやセクソンに協力してもらえば
一時しのぎにはなるでしょうが⋮⋮﹂
ノーマンがクララ救出計画に尽力した兵士達の名前を挙げる。
122
だが彼らに本来の仕事と平行して農村まで出向いて監査役までや
らせるのは現実味が薄い。ノーマンが自分で口にした通り一時しの
ぎにしかならないだろう。
﹁ちっ、ならいっそのこと外部の人間でも雇うか⋮⋮?﹂
﹁外部ですかな?﹂
﹁例えば父に自分専用の側近が欲しいと頼み込んで⋮⋮いや、それ
では駄目だ。父の息が掛かった奴じゃ余計に動きづらい﹂
ハロルド
ぶつぶつと独り言に没頭しそうになった一希をジェイクが呼び止
める。
﹁ハロルド様、まずは報告の続きをさせていただきたいのですが﹂
﹁ん?ああ、土壌の件か﹂
﹁はい。試験畑の土壌についてですが大きな変化は見られていませ
ん﹂
試験畑というのは早い話がジェイクの自宅に作られた畑のことで
ある。そこで3種類の野菜をただひたすらに栽培し続けているのだ。
確認したいのは長期間、もしくは大量にLPを注いだ場合土壌に
問題が発生するかどうか。これで土が痩せ細って畑として使えなく
なるとなれば即刻中止しなければならない。
﹁今回でローテーションはいくつになった?﹂
﹁赤グルトが7回、スズイモが6回、ブルーナが11回になります。
123
定期的に調理師達にも試食してもらっていますが味にも違いは出て
いません﹂
﹁悪くはない報せだがまだまだ試行回数が足りない。引き続き試作
栽培を行って経過を見ろ。それから⋮⋮﹂
こうして数日に1度は顔をつき合わせ状況の把握に勤しむのが一
希の日常になっていた。学生時代には味わえなかった充実感はある
が未だに前途は多難である。
そして高校や大学の授業とはまた違う頭の使い方をすると、その
反動か体が暴れることを要求してくるようにもなった。
というわけで議論を終えた一希が剣を携えて足を運んだのはすっ
かりお馴染みになった邸の裏に広がる森の中、クララ救出計画で利
用した拓けた地点だ。
思い切り剣を振れる唯一の場所である。
到着するなり一希は軽く体をほぐすと早速いつものルーティーン
を開始する。
袈裟斬り、斬り上げ、回転斬りの3連撃。
しかしその剣速や剣閃の鋭さは鍛練を始めた当初とは比較になら
ないほどの域に達していた。空気さえも斬り伏せてしまいそうな、
ハロルド
見る者を圧倒する剣舞。
だが一希の剣技はそれだけに留まらない。
目を閉じ呼吸を落ち着け神経を研ぎ澄ます。
訪れる静寂。それを破るように一希が動き出す。
1秒足らずで繰り出されたのは先程までと同様の3連撃。異なる
124
のはそこからさらに先。
回転斬りで振り抜かれた刀身に宿っていたのは︱︱雷。
らいじん
﹁﹃雷迅﹄﹂
その言葉に呼応するように輝きを増した電流は、刀身が地面に突
き立てられた瞬間に放たれた。
一希を中心に8本の雷撃が発生し周囲を襲う。ひとつは地面を抉
り、ひとつは岩を焦がし、ひとつは幹を砕いた。
雷撃のリーチはおよそ3メートル。しかも全方位への攻撃が可能
Herts﹄では初級
という数的不利をものともしない一撃を放った一希は、しかし不服
そうに呟いた。
﹁この程度じゃ使い物にならない﹂
今しがた一希が放ったのは﹃Brave
技に数えられる﹃雷迅﹄という技だ。
MP消費5の雑魚技である。主人
マジックポイント
見た目は中々派手であり初めて成功した時は一希自身がビビった
りしたのだが、ゲームでは所詮
公がレベル1桁で修得するだけにダメージもお察しだ。
ではなぜ不服なのかというと、不思議なことに一希の中には“も
っとやれる”という感覚が芽生えているからに他ならない。最初は
雷撃の数が4本だったことを考えればその感覚はあながち間違って
いないだろう。
ハロルドは基本的にどの属性の魔法も使用可能だが、中でも彼を
象徴するのは雷である。そんなハロルドの体が“俺はこんなものじ
ゃない”と叫んでいるようで、その訴えに応えるように一希は脳裏
をよぎる理想の雷迅を完成させようと一心不乱に剣を振るう。
125
だから気が付かない。今の自分が10歳の子どもでは到底辿り着
けない高みに登っていることに。
それがどれだけ異常であるかということに。
そんな自分が他者からどう見られるかということに。
︵これは大変なものを見てしまいましたね∼︶
内心はいつもと変わらぬおっとりとした口調のユノだが、珍しく
その頬には一筋の汗が伝う。
ストークス家の内偵が一段落し、本格的なハロルドの調査に乗り
出した初日に目を疑う光景に遭遇してしまった。彼に出会ってから
自分の五感を疑ってばかりいる、と微かな苦笑が漏れる。
しかし笑ってばかりもいられない。どう考えてもハロルドは普通
ではなかった。
自分の背丈に近い鉄剣を軽々と振り回し、その剣速は歴戦の剣士
に引けを取らない。加えて既に魔法を付加した剣術まで扱えている。
それ自体は何かを証明する決定的な根拠にはならないが、彼には
大きな秘密があるとユノは確信した。
問題はその秘密がスメラギ家、そしてエリカに危害を及ぼす危険
性があるかどうか。
事前に用意していた手筈では正面から接触しようと考えていたが、
万が一のために探りを入れる手段を練り直した方が良さそうだ。そ
う思い踵を返し音もなく立ち去ろうとした瞬間にそれは起こった。
ハロルドに背を向けたユノの背後でガン、という重々しい衝撃音
と共に空気が震える。
126
︵︱︱っ!?︶
突然の事態にユノは反射的に身を竦めた。
音の正体はハロルドの剣。それが今は主人の手を離れ、ユノが身
を隠していた木に深々と突き刺さっていた。
意識が切り替わる一瞬の隙を狙い澄ました不意打ち。そこに木が
無ければ確実に彼女を貫いていただろう。
その事実にユノの血の気が引く。それでも声を上げなかったのは
彼女がこれまで培ってきた鍛練と経験の賜物だろう。
だが驚きのあまり茂みを盛大に踏み鳴らしてしまったのは致命的
な失態だった。
﹁誰だ?コソコソと隠れていないで姿を現せ﹂
ハロルドの鋭い声が響く。
このまま逃走を図ろうかとも考えたが自分の隠密行動を的確に見
抜いた彼の目を誤魔化すことはできないだろうと観念し、ユノはハ
ロルドに姿を晒した。
するとハロルドは若干目を見開き、次に本当にわずかながら表情
を変えた。
︵今のは安堵⋮⋮でしょうか∼?︶
その変化を読み取れたのはユノの類い稀な観察眼の力である。
しかしそれが意味するところは分からない。
対する一希は最高潮にテンパっていた。
127
雷迅の練習に熱中し過ぎたあまり右手からすっぽ抜けた剣はあら
ぬ方向へと飛び立ち、10メートル以上離れた位置の木に刺さるこ
とで止まった。
驚いたのはそこに何かの気配があったことである。
まさか人にでもぶち当たって怪我をさせてしまったんじゃないか
と大慌てで声をかけた。そのまま茂みの方へ駆け出そうとしたとこ
ろで木の陰から現れたのはユノだった。
見たところ怪我をしている様子はなく一希は胸を撫で下ろす。危
うく殺人犯になりかけてしまった。
﹁申し訳ありませんハロルド様∼、つい出来心で∼﹂
一希がハロルドの口でも謝罪の言葉を捻り出せるのかと悩んでい
ハロルド
るとなぜかユノが頭を下げた。
どうやら一希の鍛練を覗いたことへの謝罪らしい。一希にとって
別にそんなことはどうでもいいのだが。
﹁陰でうろちょろするな、小賢しい。立場を弁えなければ手痛い傷
を負うことになるぞ﹂
見てるなら目の付くところに居てください。どこに居るか分から
ないと怪我をさせてしまうかもしれないので、という一希の気遣い
は微塵も伝わらない。
むしろユノにはこう聞こえていた。
︵釘を刺されてしまいましたか∼⋮⋮︶
こちらの存在を易々と看破し、抵抗の余地を与えずに、かつ無傷
で鎮圧する鮮やかな手腕。エリカという護るべき存在が側に居る状
128
況ではとても相手取れるものではない。
彼もそれを理解しているからあえてこうして警告しているのだろ
う。
︱︱これ以上踏み入るのなら次は無いぞ、と。
ハロルドが子どもだからといって気を抜いていたつもりはない。
甘くも見ていなかった。
それでもユノは軽々と上回られてしまった。まるで最初から全て
を見透かされていたかのように。
完敗だった。果たしてハロルドには戦ったという意識があったの
か。そんな疑問すら感じるほどの力量差を見せ付けられた。
彼は武力だけではなく智謀すらも兼ね備えていた。
﹁ふん、まあいい。ところで箱入り娘はどうしている?﹂
言葉を返せないでいるユノにふとハロルドがそんなことを尋ねて
きた。
いきなりの話題転換にユノは面食らいつつもその質問に答える。
﹁エリカ様はまだ少し体調が優れないようです∼。慣れない環境に
戸惑っているのかもしれません∼﹂
︵ただの体調不良にしちゃ2週間は長いよなぁ。病弱設定は無かっ
たはずなんだけど⋮⋮︶
街の案内から戻ったエリカは気分が優れないと言い出し、あれ以
来ほとんど部屋に篭っていて姿を見ていない。お陰でLP農法の試
験運用にかかりきりになれているが、ここまで長いとだんだん心配
129
が大きくなってくる。
もしや何かのフラグじゃあるまいな、と危機察知能力が警鐘を鳴
らす。まあ既に手遅れなのだが。
﹁大方自分の家が恋しくなったんだろ。さっさと帰ったらどうだ?﹂
﹁冷たいお言葉ですね∼。仮にも婚約者なのですからもう少し優し
さを見せてもよろしいのでは∼?﹂
それができたら苦労はしないのである。ハロルドの口はさながら
呪いの装備だ。
﹁下らない。貴様の言う通り俺とアイツの関係は仮初めだ。そんな
ものに縛られるつもりはない﹂
﹁どういう意味でしょうか∼?﹂
︵あ、ヤバい。喋りすぎたかもしれん︶
将来的に婚約を破棄するつもりであることはまだ公にはできない。
この思惑を知っているのは手紙を読んだタスクだけだ。そして書
いておいてなんだが一希もタスクがそれを全面的に信じているとは
思っていない。
だからこそハロルド・ストークス自身に婚約を解消する意思があ
るということを今の段階で誰かに知られるのはリスクが高い。
現段階では準備が整う目処すら立っていないのだ。
﹁貴様に説明する必要はない﹂
130
まともに誤魔化すこともできず、そんな負け惜しみ染みたセリフ
を吐いて一希はユノから逃げるように邸へと戻る。
後頭部辺りにユノの視線を感じたが無視を貫いた。
131
12話︵後書き︶
こういう展開が勘違いものの王道だと思うんだ。
ちょろい?そんな声は聞こえません。
感想で様々な意見が出ていますが、ぶっちゃけユノは序盤でこれが
やりたいがために登場させたキャラクターなので暗器持ってたりす
るのにあまり深い設定はないです。
あとは戦闘の指南役くらいでしかまともな出番はないかも。
それもあくまで繋ぎ役の予定ですが。
次はちゃんとエリカメインの話を書きます。
ハロルドの評価をもっと下落させなきゃ!
132
13話
ユノの乱入によって予定していたより早く鍛練を切り上げたもの
の、こうなると一希は時間をもて余してしまう。
最近は少しでも暇があれば剣の鍛練に励んでいた。将来を見据え
必要に駆られて始めたはずが、ゲームの動きを模倣し技を習得して
いく過程が病みつきになりつつある。
その弊害か剣を振るう以外に時間を潰す手段を開拓していないの
だ。気軽に街へ繰り出すことのできないこの体が恨めしい。
ならばたまには大人しく読書でもしようと思い立ち、本棚に納め
られている図書をいくつか手に取ってパラパラと流し読みしていく。
児童書に類するものが多い中、一希の目を引いたのは魔法関連の
書籍だった。
といっても技術的な内容ではない。魔法の成り立ちや遍歴、代表
的な使い手とそれに関する逸話などが細かく書かれているものだ。
取り上げられている魔法は大技、ゲーム内では上級に分類される
ものばかりである。子ども受けする必殺技みたいなものか、と納得
しながら読み進めていく。
その中に見覚えのある名前を発見した。
フィンセント・ファン・ヴェステルフォールト。
原作では若くして聖王騎士団の団長を務めていた傑物。剣の腕は
もちろん、こうして歴史の偉人と肩を並べて紹介されるほど魔法に
も長けている。
133
彼を一言で表すなら“超火力”。
甲冑を着ているだけとは思えないほど異常に高い防御を活かし、
正面突破から作中キャラクターで最強の攻撃力にものを言わせて相
手をねじ伏せるのが戦闘スタイルだ。
そして悲しいかなフィンセントは物語の終盤に主人公パーティー
と戦う敵キャラクターである。ラスボスではないもののその強さは
折り紙つきで、前衛が薄いパーティー編成や盾役の回復が遅れると
瞬殺されることも少なくない。
そんな彼はハロルドと違いプレイヤーから高い人気を博していた
りする。主人公達の前に立ちはだかる理由やフィンセントの心情を
慮り、﹁コイツも苦しんでたんだなぁ﹂と同情するプレイヤーがほ
とんどだった。
一希もフィンセントは嫌いではない。
だが今は自分がハロルドに憑依しているからだろうか。一希はふ
と原作ではあり得なかったハロルド対フィンセントの戦いを夢想し、
どうすればハロルドが勝てるだろうかと頭を回転させ始めた。
片や作中最高火力、片や作中最速。
真正面からぶつかればハロルドが不利だろう。フィンセントの攻
撃をまともに受ければ長くはもたない。
だが立ち回り次第では攻撃の速度とバリエーションに秀でたハロ
ルドなら渡り合えるはずだと一希は考える。
Herts﹄の戦闘システムは格闘ゲー
発売当時の時代では奥行きや3D移動という概念は今ほど浸透し
ておらず、﹃Brave
ムのような横軸移動のみだった。それだけに操作キャラクターだけ
ではなくパーティーメンバーにも細かく指示を出し、いかにコンボ
数を稼げるかに重きを置いている。
134
一希を含め熟練者となれば安定して80はコンボを繋げることが
可能だ。
しかしそれは当然ながら4人1組のパーティーで行ってこそだ。
単騎の敵キャラクター故に性能が高く設定されているとはいえハ
ロルドは主人公戦で30コンボ以上を平気で繋げてくる。特に1度
空中に打ち上げられると仲間の攻撃でコンボを中断しない限りライ
フが尽きるまでサンドバッグにされてしまう。
つまりハロルドがフィンセントに勝つにはとにかく攻撃を回避し
続け、コンボに入ったら絶対に落とさず延々と斬りまくればいいの
だ。
まあそれができれば誰が相手でもまず負けないが。言い替えれば
それくらいのことができなければ1対1でフィンセントに勝利する
のは難しいのである。
ならあのキャラクターが相手だったらどうだろうか、と一希はハ
ロルドVSあり得なかった誰かとの戦いを次々と考え始めた。
仮想の対戦カードを思い描いて勝ち筋を探るのはディープなファ
ンだからこその楽しみ方だろう。
こうして時たま思考が脱線したり途中で夕食を挟んだこともあっ
て100頁あまりの本を完読した頃には夜も更けていた。
パタンと本を閉じふぅ、と軽い息を吐く。中々に読み応えのある
1冊だった。
時刻を確認すると既に日付は変わっている。
明日起きたら次は剣術の本を探してみよう。ベッドで横になる寸
前にそんなことを考える。
そこで一希はようやく気付いた。
135
︵あっ、森の中に剣置いてきたままじゃん⋮⋮︶
そそくさと逃げ帰りすぐ読書に熱中していたせいで今の今まで忘
れていた。
ユノが気をきかせて回収してくれているかもしれないが、あの後
訪ねてこなかったことを考えるとあの剣は未だに突き刺さったまま
なのだろう。
一希はそりゃ付き人やってるような普通の女性じゃ真剣なんて物
騒な物を持つのに抵抗あるよな、と的外れな納得の仕方をする。
実際はこれ見よがしに武器を携帯してストークスの領内を闊歩す
るわけにはいかず、かといって邸の人間に剣の在処を伝えようにも
なぜそんな場所に居たのかと要らぬ疑いをかけられたくないのでそ
のままにされているだけだ。
窓から外の様子を窺う。雲の切れ間から覗く夜空には数多の星の
光を掻き消すように煌々と輝く月が浮かんでいた。
一希が知るものより2回りは大きい月に照らされた庭は灯りがな
くても歩くには問題なさそうなほど明るい。
思い出したついでだ、と一希は腰を上げる。
あれは真剣で、有り体に言えば凶器だ。日本人の感覚として巨大
ハロルド
な凶器を野外に放置しておくのは落ち着かなかった。ましてやあの
剣は一希の所有物であり、万が一問題が発生した時に自分の責任を
問われたくない。
ほとんどの人間が寝入っているため静まり返った邸内を音もなく
通り抜ける。
そのまま無人のホールも突っ切り、重厚感のある正面玄関の扉を
136
押して外へと出た。
予想をしていた以上の明るさにこれなら森の中でも大丈夫そうだ
と安堵する。モンスターと呼ばれる類いは存在していなくとも真っ
暗闇の森をさ迷うにはかなりの度胸が必要だ。
月明かりが雲で陰る前に済ませてしまった方がいいだろう。
やや早足で邸をぐるっと迂回し裏手に向かう。地下牢の塔がある
のとは反対側、南西に面した花壇へと差し掛かる。
その広々とした花壇はいっそ花畑と評した方が正しく思えるほど
だ。色とりどりのは花々が緩やかな風に吹かれて揺れている。
その風景をじっと見つめるエリカの姿に一希は足を止めた。
真っ先に感じた疑問は﹁あれ、元気になったの?﹂である。2週
間も静養していたのだからたとえ全快したのだとしても夜風は身に
染みるだろう。
これはただ純粋な心配だった。大人が子どもを案じる、とても当
たり前で常識的な反応。
だから行動を起こすことになんの迷いもなく、いつもの調子の憎
まれ口でエリカを部屋に押し返そうと彼女に声をかけた。それが原
作と、そして自身の計画を瓦解させる1歩になることには気が付か
ずに。
もし未来の記憶を持ったままこの時を繰り返すことができたなら
一希は絶対に声などかけない。かけてはいけなかったのだ。
だがそんな都合のいいものを持っているわけもなく、一希が過去
を振り返りここが人生で最大のターニングポイントだったかもしれ
ないと痛切に感じることになるのは数年後。
今ではなかった。
137
﹁こんな時間に何をしている?﹂
その声にエリカはその細い肩をビクッと震わせた。恐る恐る振り
向いてハロルドの姿を確認したエリカがたじろぐ。
今までにないリアクションに多少の違和感を抱いたが、特に気に
せず一希は淀みない足取りでエリカとの距離を詰める。
﹁貴様は体調を崩して寝込んでいると聞いたが。にもかかわらずこ
んな時間に夜風を浴びるなんて考え無しのバカとしか思えないな﹂
我ながら“そこまで言うか”と一希も思う。
ここから﹁べ、別に貴様の心配をしている訳じゃないからなっ!
?﹂と続かない辺り、さすがツンデレなどという甘さが一切無い真
性のクズたるハロルドだ。見下げ果てた人間性だがそれでこそとい
う感じである。
一希としても量産型のツンデレと化したハロルドにはなりたくな
い。想像しただけで身の毛もよだつ代物だ。
﹁⋮⋮﹂
﹁突っ立ってないで部屋に戻れ。俺としてはそのまま自分の家に帰
ってもらった方が清々するがな﹂
とても身を案じているとは思えない言葉を浴びせかけられてもエ
リカは身じろぎひとつせず俯いたままだ。
何を考えているのか一希にはまるで推し量れない。
﹁⋮⋮おい、黙ってないでなんとか言え﹂
138
ハロルドの口調がイラつき始めるのを一希は他人事のように感じ
ていた。諦観とも言う。
エリカは依然として沈黙しているが基本的には物分かりのいい子
だ。これ以上言葉を続けるのは無抵抗の彼女を傷付けるだけになる
と判断して一希は話を切り上げる。
恐らく原作よりだいぶ幼いこともあって毛嫌いしている相手の手
前素直になれないだけだ。ハロルドが立ち去って少し冷静になれば
一希の言わんとしていたことを理解してくれるだろう。
﹁ふん、まあいい。貴様の体調が悪化しても俺の知ったことじゃな
いからな﹂
ハロルド
ならばなぜ声をかけたのかと言いたくなる本末転倒なセリフを吐
いて通りすぎようとする一希。
だが意外なことにエリカはそれを呼び止めた。
﹁⋮⋮お待ち下さい﹂
﹁何だ?﹂
﹁ひとつお聞きしたいことがあります﹂
その声はひどく不安気で、しかし意を決したようにハロルドの目
を見据えている。
ここまで気合を入れて尋ねたいことがあっただろうかと一希は内
心で首を傾げる。
そんな疑問は次の言葉で氷解した。
139
﹁貴方が使用人を魔法で焼き殺したという噂があります。それは事
実なのですか?﹂
︵ああ、そのことか︶
エリカの質問を一希は冷静に受け止める。焦りや動揺はなかった。
2週間前にエリカを案内した時点でどうせすぐバレるだろうと感
じていたからだ。一希や両親を含めて誰1人隠す気がないのだから
むしろバレない要素がない。
そしてこれに対する答えは最初から決まっていた。
﹁いや、違うな﹂
﹁ではっ⋮⋮!﹂
ハロルド
はっきりと否定したハロルドへエリカは喜色を浮かべて歩み寄る。
一筋の希望を見出だしたような彼女を一希が奈落の底へと突き落
とす。
﹁俺が殺したのは使用人とそいつの娘の2人だ。まあ武勇の語り草
にもならない奴らを何人殺しても大して変わりはないがな﹂
喜びから一転、信じられないものを⋮⋮いや、信じたくないもの
を見てしまったようにエリカの瞳が大きく見開かれる。
﹁何故ですか⋮⋮?どうしてそんなことを⋮⋮﹂
哀しみ、怒り、失望。
沸き上がる様々な感情をなんとか抑え込みエリカはハロルドの真
140
意を探ろうとする。
しかし彼から返ってくる言葉は悉くエリカの心を切り刻むものば
かりだった。
﹁大した理由はない。強いていうなら癇に障ったからだ﹂
ちょっと気に入らなかったから殺したと、そう平然と口にするハ
ロルド。
たったそれだけの理由で何故容易く命を奪えるのか、エリカには
微塵も理解できない。それは人として“理解できてはいけない”一
線のように思えた。
﹁アイツ等は家畜同然だ。気分ひとつで生かすも殺すも俺の自由だ
ろ?﹂
﹁⋮⋮もう結構です﹂
﹁情けをかけて娘が天涯孤独にならないよう一緒に殺してやったん
だ。むしろ感謝しているかもな﹂
﹁止めて、下さい⋮⋮!﹂
﹁所詮は劣等種だ。生まれ落ちた時から自由なんて︱︱﹂
パン、という音が響く。
その正体はエリカの手のひらとハロルドの頬だった。
貴族の血が入っていない人間を差別する﹃劣等種﹄という発言に
エリカの我慢は限界を越える。
振り抜かれた右手は怒りで震え、涙を流す瞳には軽蔑の色を湛え
141
ていた。ハロルドをキッと睨みつけ、エリカは人生で初めて罵倒の
言葉を口にした。
﹁貴方は最低の人間です!﹂
﹁だからどうした?﹂
まるで堪えた様子もなく、いつもの人を小馬鹿にした笑みさえ浮
かべている。
人を殺すことも、最低だと罵られることも、自分にとってはどう
でもいいと言わんがばかりだ。
エリカは悟る。この人間を説き伏せるのは不可能なのだと。
﹁⋮⋮もう貴方とお話しすることは何もありません﹂
﹁はっ、それは喜ばしい報せだな﹂
﹁失礼します﹂
遠ざかるエリカの背を見つめていると平手打ちされた左の頬がじ
んじんと痛みを主張し始めた。
一希なりの理由があって彼女を突き放したのはいいが、やはりダ
イレクトに敵意をぶつけられるのは辛いものがある。
︵とても“ご褒美”には思えねぇよ︶
一部の熱狂的なファンには悪いが、これを喜ぶのはどう考えても
頭がおかしいだろうと呆れたようなため息が出る。
まあ凹んでいてもなんの足しにもならない。18歳になったエリ
カの平手打ちを食らうよりはましか、と半ば無理矢理前向きに考え
142
ることにした。成長し冒険を経たエリカの平手打ちはこんな威力で
はすまないのだから。
﹁揺らぐな。この程度慣れなければこれから先はやっていけない﹂
自分を奮い立たせようとした呟きは風に乗り何処かへと運ばれて
いった。
143
13話︵後書き︶
これでエリカのハロルドに対する評価は底値。
144
14話
その後無事に剣を回収し部屋へと戻ってきたが、胸に引っ掛かり
のようなものを感じていたせいか中々寝つけなかった。
ベッドの上で何度も寝返りを繰り返し、ようやく睡魔が訪れたの
はもう夜明けも近くなった頃。わずかに白んだ空を尻目に少しだけ
でもと一希は眠りの淵へと落ちていく。
その淵は思っていたより深かったようで、一希が目を覚ましたの
は昼を回ってからだった。
重い体を引きずるようにして起き上がる。まだ昨日のダメージが
残っているのかもしれない。
︵つっても体にじゃないけど︶
エリカに打たれた頬をさする。肉体的にはもうなんら痛みは残っ
ていない。
響いているのは体の内側、心の方だ。
一晩経っても胸中は年端のいかない少女を泣かせてしまった罪悪
感に苛まれている。
とはいえあそこで﹁殺していない﹂とは口が裂けても言うわけに
はいかなかった。それは一希の保身だけでなくエリカのためでもあ
る。
﹁ふん、下らない﹂
145
ため息交じりに呟いた“仕方ないか”という弱音すらハロルドの
口は許してくれなかった。これが彼の素なのならそのメンタルの強
靭さには感服である。
単に自己中心的なだけとも言えるが。
立ち上がった途端に朝食と昼食を抜かれたお腹が空腹を主張する
が、まずは寝起きで回転の鈍い頭をスッキリさせるためにシャワー
を浴びることにした。
ちなみにストークスの邸には風呂が無い。入浴という文化自体が
根付いていないからだ。
ハロルドに憑依してもうすぐ4ヶ月になる。その間風呂に入れた
のはスメラギの邸に1泊した時だけだ。
しかも屋外に設置された檜らしき大浴場は風呂というより温泉に
近い豪勢なものだった。また入る機会があれば源泉なのかどうか確
認してみようと胸に誓う。
入浴への渇望を感じながらシャワーを終えた一希は次こそ空腹を
満たすために食堂へ足を向けた。
その途中で廊下の反対側から歩いてきたユノと出くわす。立ち止
まり会釈をする侍女のユノにわざわざハロルドが言葉をかける必要
はない。
だがエリカの泣き顔がフラッシュバックした一希は気が付くとユ
ノに彼女の様子を問い質していた。
﹁病弱女の調子はどうだ?﹂
ハロルドの認識ではいつの間にかエリカは箱入り娘から病弱女へ
とクラスチェンジしていた。
146
これで心配しているつもりなのだから手に負えない。
﹁それが今日は一段とご気分が悪いとのことで∼。ハロルド様が仰
った通り落ち着くためにスメラギ領へ戻ることも検討した方がいい
かもしれませんね∼﹂
あんまりな呼び名だったがユノは特に表情を変えることなく受け
流す。そのおおらかさに助けられ、いい加減に怒られるんじゃない
かとビクついていた一希は密かに冷や汗を拭った。
避難先で体調を崩して自治領に戻るのは時間を浪費するだけのよ
うな気もするが、エリカの滞在という想定外の事態に見舞われてい
るだけに彼女らには速やかに帰宅してもらえると一希としては安心
できる。両親とはまた別の理由でクララの一件をエリカ達には知ら
れたくなかった。
﹁ところでハロルド様はエリカ様が体調を崩されている原因をご存
知でしょうか∼?﹂
﹁知るか。俺は医者じゃない﹂
嘘である。
ここ2週間の不調は分からないが、今日一段と酷いというのは恐
らく昨晩の煽りが原因とみてまず間違いない。
加えていうならば一希が知らないだけでそもそもの理由はハロル
ドがクララとその娘を殺したという噂にショックを受けたためであ
る。つまり1から10まで一希が原因だ。
仮にそれを一希が知れば更なる良心の呵責に襲われていただろう。
一希は10歳の少女を辛い目に遭わせて悦ぶ人格破綻者ではないの
だ。
147
自領で異常事態が発生し、家族がその対応に追われ疲弊していく
中、それでも成果が上がることはなく多くの民が苦しみ、そんな弱
みに漬けこむように突如として取り決められた婚約。その相手が人
を人とも思わず平気で殺す度しがたい最悪のクズとなればエリカが
抱えているストレスは相当なものだろう。
彼女が置かれた境遇や心理状態を鑑みればビンタ程度いくら食ら
っても安いもんだ、と一希は断言できる。
その代わり好感度は最低値でお願いしたかった。
﹁それは残念です∼。お薬を作れるくらいですからさぞ病気などに
お詳しいのではと思ったのですが∼﹂
それとなく探りを入れるユノ。あの薬の出所が掴めていないため
彼女としてもかなり気がかりだ。
一希はそんな意図にまるで気付かず﹁俺ってそんな風に思われて
んの?﹂と自分への評価に驚く。
﹁心配ならお抱えの医者にでも診せろ。ここにいても無駄に長引か
せるだけだぞ﹂
スメラギほど大きな家なら専属医の1人や2人いても不思議では
ない。自領に留めておくのが不安なら別宅なり別荘なりにエリカと
医者を突っ込んでおけば解決するだろう。
それをせずこうして粘っているのだからやはり何かしらの目的が
あるのだろうというのは一希もとうに勘付いている。何を狙ってい
るのかまでは依然として不明だったが。
ユノの目的は大まかに分けてストークス家の内情とハロルドの素
性を探るという2つだ。前者の方は一枚岩ではないというかストー
148
クス一家が嫌われているので邸の使用人は基本的に口が軽く、彼ら
の愚痴の聞き役に徹するだけで欲しい情報が得られた。
だが後者、ハロルドの周辺だけは異常にガードが堅い。
ファーストアクション
まず当人の警戒心、そして気配察知能力が高いせいでまともに近
付けないのだ。観察初日でユノの存在を看破し警告してきた程であ
る。
これによりユノはターゲットを変更せざるを得なくなってしまっ
た。
そのため彼の元に度々集まっている3名の使用人へと接触を図っ
たのが、そちらも一様にはぐらかされ続けている。最も付け入り易
そうなゼンは1度口を滑らせそうになったりしたが、それでも今の
ところ有力な手がかりは掴めていない。
あくまで日常会話の雑談の中で違和感を抱かれないよう慎重にな
っていることを含めても情報統制の意識が徹底されている、とユノ
は感じていた。それが忠誠か脅迫かによるものか判然とせず攻めあ
ぐねているのが現状だ。
︵内偵班からの報告では頻繁に農村地区へと出向いているらしいで
すが∼⋮⋮︶
ストークスのお膝元に潜伏している内偵達とも情報を交換してい
るがそこで何をしているかまではまだ分かっていない。個人農家の
集まりなどは少数でのコミュニティが確立されてしまっていて潜入
するのは難しい。
やるならば数年のスパンで事に当たる必要があり、今回はそれだ
けの準備をする余裕がなかった。急くあまり人口の多い中心街に内
偵を集中させたタスクの采配ミスとも言える。
149
その後二言三言で会話を終えると一希は進軍を再開した。邸で食
事を摂れるのは普段ストークス一家が利用しているダイニングルー
ムと客を招いて会食を行う大広間、そして使用人専用の大衆的な食
堂の3つがある。
一希が向かったのはこの内の1つ目、ダイニングだ。
ノックをすることもなく無遠慮にドアを開く。すでに14時を回
っているため両親の姿はなく、いつも食事をサーブしているメイド
服の少女がテーブルクロスを交換している最中だった。
突然現れたハロルドに少女は驚き、そして狼狽える。
︵恐怖と混乱で動けないと見た︶
基本的にハロルドの顔を知っている人間からは老若男女問わずビ
ビられるのでこの手の反応にはもう慣れたものだ。ショックを受け
るどころか観察する余裕すらある。
その心情を慮り彼女の邪魔にならない席へ腰かけた。
﹁それが済んだら厨房に軽食を作るように伝えてこい。ついでにノ
ーマンを此処へ呼べ。ぐずぐずするなよ﹂
﹁は、はいっ!﹂
命令を受けた少女はクロスを手早く交換し終えると慌ただしくダ
イニングルームから退出した。廊下をパタパタと駆ける音が遠ざか
っていく。
それから10分と経たずに食事が運ばれてきた。仕事をしている
途中だったのかノーマンが到着したのはそれを粗方食べ終えようか
という頃だった。
150
﹁申し訳ありません、遅くなりました﹂
﹁座って待ってろ﹂
残っていたパンを口の中に放り込み、ほとんど噛まずにスープと
一緒に胃へと流し込む。行儀はよろしくないがノーマンとメイドし
かいないので気にする必要もない。
メイドに皿を下げさせ2人きりになったのを見計らいノーマンは
声をかける。
﹁本日は遅いお目覚めでしたな。疲れが溜まっているのでは?﹂
﹁問題ない。少し寝付きが悪かっただけだ﹂
﹁なら良いのですが﹂
﹁まあその分知恵を絞る時間はあったがな﹂
ハロルド
一希が口角を吊り上げた。その表情を見てノーマンは合点がいく。
﹁人員不足についてでしょうかな?﹂
﹁ああ。外部の人間を協力者として取り込んではどうかという話を
しただろう?﹂
﹁何か妙案がお有りで?﹂
﹁そうかどうかを確認するために貴様を呼んだんだ﹂
羊を数えるなどという古典的な手段には走らず小難しいことでも
151
考えていれば眠くなるだろうと思っていたのだが、予想に反して全
く眠気は訪れず明け方までどっぷりと思索の海に浸かってしまった
のである。
その甲斐あって思い付いたことがあるのだが、所詮は素人の浅知
恵だ。実現可能かどうかはノーマンやジェイクに判断を仰がなけれ
ば答えは出ない。
﹁で、外部の協力者についてだが商人にLP農法の有益性を示しそ
の利権で契約を結ぶことは可能か?﹂
商業に詳しくない一希でも高サイクルで収穫できるLP農法の作
物、そしてその技術自体も利益を産み出すものだという確信があっ
た。従来よりも多少のコストはかかるが生産効率は格段に上昇する。
味にも差異が生じることから差別化も図れるし新たな市場の開拓
にも繋がるかもしれない。
LP農法の技術を商人に売り付けて、それを更に商人が農家へ売
る。農家はLP農法を使用するための契約料を商人に払いそれをま
たハロルドと商人で折半する、という形が一希の理想だ。
しかし今の段階では収穫量を意図的に抑える必要があり、農家が
それに反しないよう定期的に監査する人間を送り込める程度には規
模の大きい商会でなければ難しい。
ハロルド
ノーマンは一希の計画案に感心しつつ気になった部分を尋ねる。
﹁して、その商会について当てはあるのですか?﹂
﹁ないな。そこを含めて貴様やジェイクの意見を聞かせろ﹂
﹁伝がないとなるといきなり商会に話を持ちかけても取り合っても
152
らえないでしょうな。個人で運営している商人ではやはり人手が足
りないでしょうし⋮⋮﹂
伝ならばハロルドの両親もいくらかはあるだろう。しかし話を通
すためにはLP農法の存在を明らかにしなければならず、それはま
だ時期尚早だと一希は考えている。
﹁現状では実現させるための方法が見当たらないということか﹂
﹁残念ながら。ですが商人を味方につけるのは良い案かと﹂
﹁ならその方向で話を煮詰めてみるぞ。ジェイクにも方針を伝えて
おけ﹂
﹁畏まりました。問題は信用に足る商人と如何にして渡りをつける
かですな﹂
その後あれやこれやと意見を出し合う2人だったが、それ以上話
が進展することはなかった。
◇
ガラガラと音を立てながら畦道に刻まれた轍をなぞるように進む
馬車がストークスの邸の門を潜る。門柱に立つ守衛の兵士と軽口を
交わしながら入ってきた馬車の騎手はお気楽そうな笑みを張り付け
たゼンだ。
備蓄品の買い出しを終えたゼンは積み荷を下ろし荷馬車を所定の
153
ルド
ハロ
場所に戻すとその足でハロルドの部屋へ向かう。仮にその光景を一
希が見ていれば﹁まるで飼い主に依存した駄犬だな﹂と小馬鹿にす
ることだろう。
しかしそんな毒舌など気にも留めなさそうな当の本人は通い慣れ
た足取りで扉の前まで来ると最近部屋の主に厳命されたノックをし
て在室を確認するが応答はない。
﹁ハロルド様ー?いないんですかー?﹂
普通の使用人ならそのまま立ち去るところだがハロルドに対する
馴れ馴れしさでは他の追随を許さないゼンは扉を開けて中を窺う。
が、そんなことをしてみてもやはり無人だった。
今の時間で居ないとなると剣術の鍛練だろうかと退散しようとし
て廊下に佇む小さな人影が目に留まる。
見るからに気落ちしているその小さな影にいたたまれなくなった
ゼンは努めて明るく声をかけた。
﹁こんにちは、エリカ様﹂
緩慢な動作で振り返ったエリカはその声で初めてゼンの存在を認
めたかのように小さく目を見開いた。
﹁ごきげんよう。貴方は⋮⋮﹂
﹁あ、おれはゼンって言います。ユノさんはどうしたんですか?﹂
珍しく1人でいるエリカにそんな疑問を感じる。まさか喧嘩でも
して元気が無いのだろうかと邪推するが、全くの見当外れだ。
154
﹁彼女なら今は私用で街の方へ出ていますので﹂
包み隠さずいうならば他の内偵との情報交換のために出掛けてい
る。今日もついさっき出たばかりなのであと1∼2時間は戻ってこ
ないだろう。
そんなことを口にはできないが。
﹁そうだったんですか。それでどうしてここに⋮⋮もしかしてハロ
ルド様にご用事でもありました?﹂
部屋の近くなのだからゼンがそう思ったのは無理からぬことでは
あった。しかしハロルドの名前が出た途端にエリカの表情がさらに
曇る。
今最も会いたくない人物だ。
だがエリカは目の前の相手がハロルドに対して険を抱いていない
ことにふと気が付いた。
彼はあの噂を知らないのだろうか。そう考えた時、エリカは反射
的にゼンへ問いかけていた。
﹁貴方は知らないのですか?﹂
﹁えーっと、何についてでしょう?﹂
﹁ハロルド様が使用人を魔法で殺したことについてです﹂
﹁そ、それについてはですね、なんというか⋮⋮﹂
今度はゼンが動揺する番だった。
155
その反応を見てエリカは彼がハロルドの蛮行を知っていると確信
する。そして同時に疑問が湧く。
それを知って尚、どうしてハロルドを主として接することができ
るのか。あくまで対外的なものかと思ったが、言葉に躊躇う様から
はハロルドへの畏怖や嫌悪感ではなく、彼の肩を持ちたいが持てな
いもどかしさを滲み出ていた。
﹁あー⋮⋮巷でそんな噂が真しやかに囁かれているのは耳にしたこ
とがあるにはあるんですけど果たして事実かどうかという確認はで
きていないわけでして、真偽が定かではないのにそれでハロルド様
を判断するのは憚られるというか⋮⋮﹂
﹁その噂をハロルド様は肯定していました。そもそも殺されたのは
ここで働いていた方なのですから貴方も事実だと分かっている筈で
は?﹂
﹁う⋮⋮﹂
エリカの言う通りだ。しどろもどろの弁明でゼンは自ら墓穴を掘
って言葉に詰まる。
はっきり言ってゼンにはこの状況をひっくり返したり煙に巻くほ
どの弁舌はない。
彼がノーマンに見込まれたのは人の良さ、つまりはハロルドの心
根を理解して味方になれる人間だからだ。
しかし人の良さというのはハロルドだけに発揮されるわけではな
い。今のエリカはそんなお人好しを刺激するには事足りるほど消沈
していた。
﹁なのにどうして貴方は⋮⋮いえ、どうすれば貴方のようにハロル
156
ド様を慕うことができるのですか?﹂
重々しい声で発せられたそれは疑問でありながら懇願のようでも
ある。
人間性がどうであってもスメラギ家の為を思えばエリカはハロル
ドと結婚しなければならない。彼を許容できない自分の意思など邪
魔なだけだ。
そう頭では理解していても責任と感情の狭間で揺れ続けるエリカ
はどうやって自分を納得させれば良いのか分からなくなっていた。
自らの立場を自覚した時から自由な恋愛や結婚は諦めた。
婚約相手の家が純血主義で民を虐げていると知って怒りに苛まれ
た。
それでもハロルドは苦しむスメラギに光明を与えてくれた。
しかしそんな彼も結局は貴族の血を持たない人間を人間とは思っ
ていなかった。
勝手に期待して勝手に失望したと言われればそれまでである。返
す言葉もない。
だがどうしようもない暗闇に差した一縷の希望がまやかしだった
という現実は、エリカを失意のどん底に突き落とすのに充分過ぎた。
使命と感情の板挟みで擂り潰されそうになりながらそれでも懸命
に出口を探そうと模索するエリカの姿はあまりにも無情だった。
だがゼンは知っている。彼女の前にそびえ立つ絶望が意図して作
り上げられた虚像だということを。
きっと彼女を待ち受けている世界はとても優しい。
なぜならこうして誰かに嫌われ、侮蔑され、その身に“人殺し”
157
という咎を背負う覚悟をしてまで2人の命を救ったハロルドがエリ
カをこのまま見捨てるわけがないのだ。
そしてまたこうも思う。
家の為、民の為にと己の心を殺そうとする彼女もまたハロルドと
同じく強さと優しさを持っている人間なのだと。
幼くありながら重荷を背負い込んででも意思を貫き通そうとする
き
ハロルドとエリカ。とても不器用で、壁にばかりぶつかるであろう
生き方。
もち
この似た者同士はすれ違うのではなく互いに向き合って本当の自
分をさらけ出すべき相手、それができる唯一無二の相手なのではな
いだろうか。
﹁エリカ様、おれに着いてきてもらえませんか?﹂
じぶん
だから頼りない大人では微力にしかならずともその支えになれる
ならば、たとえハロルドに不興を買っても、見限られても構わない。
﹁少しでいいから時間を下さい。聞いてもらいたい話があるんです﹂
158
14話︵後書き︶
操作ミスで下書きのデータ全消しした時の喪失感がヤバイ。
ひとまず次回でハロルドへの誤解が全て解ける予定です。
その話も半分くらいは書き上げてたのにな⋮⋮。
159
15話
強い決意を宿した眼差しにエリカは気圧される。ゼンが何を思っ
てその言葉を口にしたのか真意は図れない。
しかしエリカは根拠もなくただ直感的に今彼の誘いに乗らなけれ
ばいずれ大きな後悔をすることになるのではないかという強迫観念
にも似た焦燥に駆られた。
﹁分かりました。どちらに赴けばよろしいのですか?﹂
﹁こちらへ﹂
その場所へ案内するためにゼンが踵を返し確かな足取りでとある
一室の前に立つ。
ゼンが真相を語るに相応しいと選んだ場所。それは︱︱
﹁ここです!﹂
ハロルドの自室だった。
﹁⋮⋮へ?﹂
予想外の展開に思わず出したことの無い気の抜けた声が漏れる。
それを恥じる余裕も吹き飛ぶほどエリカは混乱していた。
先程までの話の流れからして使用人の殺害に関してハロルドが伏
せている何かしらの事情、つまり彼の秘密を明かしてくれるのだろ
うと考えていた。
160
それをわざわざ秘密にしている本人の部屋で行うとは何事だろう
か。もしや自分はゼンとの会話で致命的な思い違いをしていたのか
もしれない。
でもそれは一体どこで、どんな?とエリカの思考は混迷を極める。
﹁ささ、どうぞ﹂
﹁え?あっ、ちょっと⋮⋮﹂
混乱が収まらないエリカの虚を突き、ゼンは彼女の小さな背を押
して部屋へと踏み込む。ハロルドの不在は既に確認済みなので躊躇
うこともない。
ゼンは室内をキョロキョロと見回して目についたクローゼットを
開くと、もう状況に着いてこれていないエリカを押し込んだ。
﹁ごめんなさい!ちょっとここで待っててください!﹂
クローゼットを閉じたゼンは駆け足で部屋を出ていこうとする。
﹁えぇ⋮⋮?﹂
再び自分のものとは思えない声がエリカの口から漏れた。
主の客人、それも婚約者という立場の人間をこんな場所に閉じ込
めるなどもう不敬の域を越えている。人が人なら殺されても文句は
言えないだろう。
幸いにしてエリカはそこまで苛烈な怒りの表現方法を取らないが、
それでも常識的に考えてこの仕打ちにはさすがに物申さなければい
けない。が、今はそれどころではなかった。
161
何よりも優先するべきはいち早くこの部屋から脱することである。
エリカにしてみれば全くの不本意ながら闖入者の身だ。これがバ
レればハロルドが何を言い出すか分かったものではない。
ゼンを追おうとクローゼットの扉に手をかけた瞬間、無情にもガ
チャという音がエリカの耳に届いた。
﹁おわぁっ!﹂
次いで届いたのは驚いたゼンの悲鳴である。今まさに扉を開けよ
うとしたタイミングで部屋の主が帰ってきたのだから驚くのは無理
もない。
そんな彼の悲鳴を聞いてハロルドは顔をしかめる。
﹁耳障りな声を出すな。というか貴様は俺の部屋で何をやっている
?﹂
﹁い、いやぁ∼⋮⋮実はハロルド様にお伝えしたい事があったんで
すけどノックしても応答がなかったから中を覗いてみたんですよ﹂
﹁応答がないなら大人しく引き下がれ。どこまで馬鹿なんだ﹂
クローゼットに備え付けられたブラインドの隙間から部屋の様子
を窺うエリカ。完全に脱出する機会を失ってしまった。
ここで姿を表し釈明すればまだ言い分も立つだろう。しかしゼン
はどうなる?
相手はただ気に入らないだけで人を殺すような人間だ。自業自得
だとしても彼が死ぬのは避けたい。
だがハロルドがエリカの助命の訴えを受け入れてくれるかどうか。
162
彼の言動を鑑みるにその可能性は低いように思えた。
︵どうすればいいのでしょう⋮⋮?︶
エリカが判断を下せないでいる内に状況はどんどん悪化していく。
﹁それでお伝えしたい事なんですけど!﹂
ゼンが強引に話題を戻す。それに対してハロルドは呆れたような
ため息を吐くとソファーに腰掛ける。
そしてエリカにとっては意外にもハロルドは話の続きを促した。
﹁何だ?手短に済ませろ﹂
﹁えー、非常に申し上げにくいんですが例の噂がかなり広まってま
して⋮⋮﹂
例の噂、とゼンは言葉を濁すがそれが何を指すかはこの場にいる
人間にとって明白である。
﹁さっきも街で買い出しをしてきましたけど立ち寄った店で店主や
お客からことごとく根掘り葉掘り聞かれるんですよ﹂
﹁⋮⋮﹂
ハロルドは腕を組み、目を閉じたままゼンの話に耳を傾ける。
クローゼットの中のエリカも彼が何を言いたいのか分からず傾聴
していた。
﹁口外はしてないですけど、していないからこそこのままじゃハロ
163
ルド様の評価が地に落ちちゃいますし何か対策を取らないとまずい
気がして⋮⋮﹂
﹁何を言い出すのかと思えば下らない。そんなものはとうに失墜し
て泥にまみれているだろうが﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁でも、なんだ?貴様は“クララとコレットはブローシュ村に落ち
延びてまだ生きています”とでも吹聴する気か?﹂
﹁まさかそんな!おれは死んでもその事実を口にはしません﹂
︵︱︱え?︶
2人のやり取りを聞いてエリカの頭は真っ白に染まる。
ハロルドはなんと言った?使用人とその娘、クララとコレットが
生きている?
ゼンはなんと言った?それが事実?
受けた衝撃は昨夜の殺害告白を上回る。エリカは思考も体もフリ
ーズしたまま2人の話を微動だにせず聞いていることしかできない。
﹁なら無意味なことは考えるな。万が一アイツらが生きていると両
親に知られれば俺が疑われる。その可能性は徹底的に排除するのは
決定事項だ﹂
﹁それは分かってますけどせめてエリカ様には真実をお教えしたら
どうですか?例の噂を信じたせいですっごい落ち込んじゃってます
よ﹂
164
﹁絶対に駄目だ﹂
明確な拒絶。
声に温度があるとすればそれは間違いなく氷点下だろう。ゼンの、
そしてエリカの背筋が一瞬で凍りつく。
﹁⋮⋮どうして、ですか?﹂
ゼンが抑えきれない疑問を口にする。
Herts﹄の世界においてある意
ハロルドはなぜそこまでエリカを拒絶するのか。それはハロルド
がエリカをこの﹃Brave
味最も警戒すべき人物だと考えているからだ。
エリカというキャラクターの特色は優しさだ。ただしその前に“
行きすぎた”が付属される。
原作のハロルドは自分は特別な存在でありそれ以外の人間には何
をしても許されるという選民意識の塊だった。だから平気で使用人
を殺し、力無き民草を差別し虐げ、自身が生き残るために町を丸々
ひとつ火の海に変えてモンスターへの生け贄にすらした。
それだけの悪逆非道を重ねて尚、エリカはハロルドを嫌悪しなが
らも見限れず婚約者であることに苦悩していた。
その理由はストークス家からの経済支援に恩義を感じていたため、
である。普通に考えればストークスとの繋がりなど家名を貶め足を
引かれる危険が付いて回ると思うのだが、そこはやはりエリカのイ
ベントを盛り上げるゲームシナリオの都合だろう。
そしてこの愚かしいほど突き抜けて設定された優しさがこれから
先ハロルドに牙を剥く恐れがあるのだ。
165
まず大前提としてだがハロルドの目標は死なずに生き延びること
である。そのために必要だと考えているのが死亡フラグの回避と原
作シナリオのクリアだ。
前者は説明するまでもない。では後者はどういった理由かという
と、仮にラスボスが倒せなかった場合ハロルドを含めて大陸の人間
がほぼ全員死ぬからである。
確定ではないがゲーム内の情報から推測してその可能性は極めて
高い。何せラスボスの暴走を止められなければ世界唯一の大陸が沈
むだろう、という話だった。
つまり自分が死亡フラグを回避しきっても原作から解離しすぎて
ボスが倒せませんでした、では意味がない。
主人公達には是が非でもシナリオをクリアしてもらう必要があり、
エリカは主人公パーティーの中で貴重な回復役なのだ。彼女がいる
いないでは攻略の難易度が変わる。 生存率に大きく関わってくるのでハロルドのためにもエリカは絶
対に主人公の仲間になってもらわなければ困るのだ。
さらに言うと原作通りにシナリオをクリアすれば元の世界に戻れ
るのではないか、という淡い希望もある。というか元の世界への帰
還に関してはそれくらいの手段しか思い付かない。
ここで話を戻すが、原作ハロルドさえギリギリまで見捨てること
ができなかったエリカが一般的な常識と良心を身に付け、あまつさ
えスメラギ家の窮地に手を差し伸べるハロルドを見たらどうなるか。
想像したくない仮定だが婚約を積極的に受け入れるかもしれない。
まあそれはまだ良い。
だがもしそれが原因で主人公の仲間にならなかったらどうするの
か。それがハロルドが恐れている事態なのだ。
166
だから死亡フラグを回避するため悪道を歩めないハロルドはそれ
以外の部分で徹頭徹尾エリカに嫌われておいた方がリスクは低いと
睨んだ。彼女からの好感度などクソ食らえだと断言してもいい。
そう説明できれば幾らか楽なのだが頭の状態を疑われるのがオチ
だろう。適当な理由をでっち上げて追求を阻むことにした。
長い沈黙を破ってハロルドが語り出す。
﹁⋮⋮アイツは泣いていた﹂
﹁え?﹂
﹁俺が人を殺した事実にか、それとも俺に殺された親子を想ってか
は知らん。だがどちらにせよアイツは他人のために心を痛めて涙を
流した。馬鹿としか思えない﹂
蘇る昨夜の記憶。月明かりに照らされるエリカの頬には一筋の涙
がしっかりと刻まれていた。
どうしようもないほど厄介ではあるが、それは確かにエリカの美
徳なのだろう。
﹁そして同時に優しすぎるんだよアイツは。それも相手を憐れむこ
としかできない弱者の優しさだ。そんな奴が俺と共に歩もうとすれ
ば数えきれない傷を負うことになる﹂
﹁だからわざと遠ざけているんですか?エリカ様のためを想って⋮
⋮﹂
﹁アイツのためじゃなくてお互いのためだ。事あるごとに泣くよう
な面倒な女と結婚してたまるか﹂
167
ハロルドの言葉がエリカの胸に深々と突き刺さる。とても鋭利で、
しかし昨夜とはまるで異なる痛み。
良心の呵責、自己嫌悪、後悔。
負の感情が次々と沸き出してエリカを飲み込もうとする。感情の
波もハロルドの言葉も止まらない。
﹁そんな⋮⋮って、ハロルド様はエリカ様と結婚する気ないんです
か?﹂
﹁あるわけないだろう﹂
﹁じゃあなんで婚約なんて話が⋮⋮﹂
﹁貴様の頭でも理解できるように噛み砕いて言えばこれは金で買っ
た婚約だ﹂
血筋を欲したストークス家が、森で瘴気が異常発生したことによ
り経済の主軸だった林業での収益が著しく落ち込んだスメラギ家に
付け入ったのだ。
瘴気の異常発生という大陸全土でも前例の無い災害なだけにスメ
ラギが立ち直れるのか、果たして借りた金を返済できるのか。そう
いった諸々の事情で国や他領の当主が大規模な資金援助にたたらを
踏む中、ストークス家が後先考えず恩を売りに行った結果である。
両家の思惑と事情を知ったゼンがあることに気が付いた。
﹁だったらスメラギ家にとって婚約破棄は致命傷になるんじゃ?﹂
168
確かにゼンの言う通りハロルドが一方的に婚約を破棄して経済支
援が無くなればスメラギ領は近い将来立ち行かなくなる。まあハロ
ルドが駄々をこねても血統に執着している両親が婚約破棄を認めは
しないだろうが。
しかしハロルドはそれに翻弄されるつもりなど毛頭ない。
﹁もう手は打ってある。そのための抗体薬とLP農法だ﹂
瘴気による汚染が薄い地域であればあの薬を服用することで今ま
で通り森林の伐採を行うことができる。瘴気溜まりは主人公一味が
解決するまで徐々に範囲を広げていくだろうが、言い換えればゲー
ム以上には広がらないはずだ。
タスクへの手紙にもゲームのマップを記憶から掘り起こし予想さ
れる最大の汚染範囲を報せている。事前に被害の最大値を想定でき
ればスメラギも防衛線が引けるだろう。
加えてLP農法のノウハウを提供するつもりでいる。とはいって
もまだその目処は立っていないので手紙には﹁産業技術の提供も検
討している﹂という胡散臭い表現で留めておいたが。
ゲーム知識云々は抜かした説明を受けて、ゼンは呆気に取られた
ようにポツリと漏らした。
﹁そんなことまで考えてたんですか⋮⋮﹂
抗体薬と手紙については初耳であり、LP農法にもそんな思惑が
隠されていたことにゼンは驚嘆するしかない。この少年はいったい
どれだけ先の未来を見据えているのだろうか。
そして驚いているのはゼンだけではない。息を潜めているエリカ
もまたハロルドの先見と思慮深さに衝撃を受けていた。
169
ハロルドは事前にスメラギの危機を察知していたのだ。それこそ
婚約などという話が出る前、瘴気が発生した直後から。
そう考えれば婚約が決まった数日後にも関わらずあの薬に必要な
材料の情報を揃えることが可能だったのにも納得できる。
それはつまりハロルドが全く無関係だったはずのスメラギを救う
ために手を尽くしてくれていたことを意味する。彼は恩を売るため
にしたことだと言い張るだろうが、薬を開発するまでにかかる金銭
と手間暇を天秤にかければスメラギ家を救うメリットは少ない。話
ぶりからして純血主義ではないだろうハロルドにとっては尚更だ。
その献身に、彼の想いにエリカの視界が滲む。
正直なところこの辺りはハロルドとしてもかなり悩んだ末の決断
だった。
これだけの支援をしていることが知られればエリカが原作以上の
恩義を感じてしまうのは明白。ではなぜ原作には無かった行動を起
こしたのかといえばパトロンが欲しかったからである。
ストークス夫妻の目が届く場所では自由に動けず行動を起こすた
めの人員を集めることもままならない。
そこで婚約者という隠れ蓑を利用してスメラギ家に接触しようと
ハロルドは考えた。ゲームで熟知しているタスクの人柄ならば信用
できると目論んだのだ。情も理解も人脈もある彼の協力が得られれ
ば主人公達を影からサポートするのも楽になる。
抗体薬を提供して産業の冷え込みを遅延させ、LP農法で経済を
潤わせ、主人公が障気溜まりのイベントを片付ければ林業も回復す
る。そうなればストークス家の支援がなくとも領地経営は問題がな
くなりエリカの婚約を破棄しても痛手はない。
しかも破棄についてはハロルドから申し出てもいいとあの手紙に
170
記しておいた。
︵数え役満ばりのまさに“恩”パレードだ。押し売り感は半端ない
けど無茶なお願いさえしなけりゃタスクなら大抵のことには協力し
てくれるだろ︶
それは自信ではなく確信。
ただひとつだけ懸念があった。“無茶なお願い”に分類されるだ
ろうその懸念は目の前にいるゼンにも関係することであり、ついつ
い警告してしまう。
﹁ああ、それから貴様も身の振り方を考えておけ﹂
﹁どういう意味ですか?﹂
部屋の外に聞こえないよう調整していた声量をクローゼットに潜
んでいるエリカがかろうじて聞き取れるまで下げてハロルドは話を
続ける。
﹁前にも言ったが近い将来ストークス家は凋落する危険がある。無
職になるのが嫌なら万が一には備えておいた方が賢明だ﹂
﹁それを防ぐためにLP農法を普及させるんじゃ?﹂
﹁今の重税と散財をどうにかしない限り先伸ばし程度にしかならな
いんだよ。俺も手は回すが功を奏すとは限らないからな。貴様らを
斡旋してやるつもりはないから自分で何とかしろ﹂
いつも能天気そうなゼンもこれには狼狽える。
あたかも当然のように話すハロルドがおかしいのだ。
171
﹁もしそうなったらストークス領の人達はどうなるんですか?﹂
﹁さあな。だがタスク・スメラギなら悪いようにはしないだろう﹂
ぞんざいな口調。しかしエリカとしては聞き逃せない名前が上が
った。
︵なぜここでお父様が⋮⋮?︶
﹁えっと⋮⋮どういうことですか?﹂
﹁手紙にストークス家が凋落した場合領民が不当に扱われないよう
にスメラギ側へ嘆願してある。全く、そうでもしてやらなければ生
きられない脆弱さには笑うしかないな﹂
嘆願といってもスメラギに養ってほしいとかそういう意味ではな
い。王族とも親交があるスメラギならば多少の口利きや支援を期待
してのことだ。
この“お願い”を受諾してくれるか分からないので過剰に恩を売
り付けたとも言える。
︵恐らく他貴族の領地になるんだろうし今よりまともな人間がくる
ことを祈ろう︶
その時にはもう自分はこの地にいないだろうが。後任に丸投げす
る気満々だった。
﹁とにかくそういうわけだ。他言無用の禁を破ればたたじゃおかな
いぞ﹂
172
﹁わ、分かってますって。おれは誰にも言ってませんよ⋮⋮?﹂
ハロルドの鋭い眼光に射抜かれてゼンの声が震える。その震えて
いる理由が他にもあるのだということに、そして﹁おれは言ってい
エリカ
ない﹂というゼンの言い回しにハロルドはこの時気付かなかった。
まあたとえここでクローゼットに潜む天敵の存在に気付いたとこ
ろで手遅れだったのだが。
173
15話︵後書き︶
ハロルド
一希、ハロルド、一希という3つの表現がややこしいとの声が多数
あったので﹁ハロルド﹂に統一しました。
ゼンが無能呼ばわりされてて辛い。
俺のせいだけど。
174
16話︵前書き︶
お久し振りです。
投稿が遅れた理由につきましては後書きにて。
175
16話
﹁話はそれだけか?終わったならさっさと出ていけ﹂
﹁そうしたいのは山々なんですけど∼⋮⋮あ、ハロルド様のこの後
のご予定は?﹂
﹁なんだ突然。貴様に教える必要はない﹂
﹁いやぁ、今日は剣の鍛練をしないのかなぁと思いまして﹂
視線をあちこちに泳がせるゼンの不審な挙動にハロルドは内心で
小首を傾げる。
確かに雑談をしているうちに腹もこなれてきたのでいつもの場所
で技の練習でもしようかとは考えていたが、それはゼンにとってな
んら関係のない事柄のはずだ。
﹁それがどうした?﹂
﹁今まで秘密にしてましたけど、実はおれ剣術に興味があるんです
!だからハロルド様が剣を振るうところを見てみたいなーって﹂
だったら本職の兵士のところに行けよ、と思わず突っ込みを入れ
そうになる。ハロルドは身体能力が高いだけの素人に過ぎない、我
流というにもおこがましい腕だ。
以前それを危ぶんで邸の兵士に指南を頼んだのがハロルドに怪我
を負わすことを恐れてか皆防御に徹してまともに攻撃を仕掛けてく
176
る者はいなかった。
お互いの立場を考えれば当然なのだがハロルドとしては対人の練
習相手がいないのは問題である。
いっそ両親にでも頼もうかとも思ったがハロルドを偏愛している
あの2人が用意する指南役だ。ハロルドが望む実戦を想定した剣を
学べるかは疑問である。
その辺も追々考えるとして、今日のところは練習相手が見付かっ
たので良しとすることにした。
﹁なら見せてやるよ、特等席でな﹂
﹁あの、ハロルド様?どうして剣を2本もお持ちなんでしょうか?
興味はあっても経験はないですからね?いきなりお相手とかはちょ
っと⋮⋮﹂
﹁口答えするな﹂
﹁か、勘弁してくださーい!﹂
襟首を捕まれて引きずられるゼンの悲鳴が遠ざかっていく。やが
て声や足音が聞こえなくなり、静けさが訪れたのを見計らってエリ
カはハロルドの部屋から脱した。
幸い誰にも見られることはなかったが、あてがわれている部屋に
戻ってもエリカはない交ぜになった感情を整理することができずに
いた。
頭の中で反芻されるのは先ほどハロルド自身の口から語られた言
葉。
177
殺されたと思っていた使用人が生きていること。
それを手引きしていながら彼女達の安全を優先するために汚名を
被っていること。
婚約者であるエリカにわざと嫌われようとしていること。
にもかかわらずエリカとスメラギをどうにかして救おうとしてい
ること。
もちろんこれらが全て事実だと信じたわけではない。あのやり取
りがハロルドとゼンの仕込みである可能性も認識している。
しかし同時に納得のいく話でもあった。エリカへ向けた敵意を煽
る態度や数年前から薬の開発に着手していたのではないかと匂わせ
る言動などは特にだ。
何が真実で何が偽りなのか、ハロルドにどう接するべきなのか、
エリカにはもう答えを見出だすことができない。どうしたいのかと
いう自分の気持ちすら不明瞭だ。
まるで深い霧の中をあてもなくさ迷い歩くような錯覚。その意識
を掬い上げたのは用事を済ませて帰ってきたユノだった。
﹁エリカ様いらっしゃいますか∼?﹂
コンコンと軽いノックに続いていつも通りの間延びした声が扉の
向こうから聞こえる。
そのことに少しだけ心が落ち着いた。
﹁⋮⋮ええ、入って構いませんよ﹂
﹁失礼致します∼﹂
相変わらずの割烹着姿。どんな時も変わらないその出で立ちが今
178
はとても心強く思える。
そんなエリカの心の機微をユノは目敏く察知した。
﹁わたしが留守の間に何かありましたか∼?﹂
問い掛ける形ではあったがユノはエリカに何かがあったことを確
信していた。そしてそれが恐らくハロルドに関することだろうと直
感的に悟る。
ユノの鋭い指摘にエリカは身を強張らせる。
果たして聞いたことをユノに打ち明けるべきかどうかに迷った。
もし語られていた内容が真実ならハロルドの心遣いを無下にしな
いためにも沈黙を貫くべきなのだろう。ハロルドは汚名を被ってま
で彼女たちの安全を守ろうとしているのだから。
だがスメラギの人間としてこれについてはどうしても真偽を定か
にしなければならない。ハロルドがどのような人物がどうかを見極
めるためにも。
﹁︱︱ユノ、聞いてください﹂
エリカは悩んだ末ユノに伝えることにした。もちろん一部始終で
はない。
ゼンにハロルドの部屋へ押し込まれ、そこで殺されたと噂されて
いる2人が生きていると思われる話をしていた、という最低限の情
報だけだ。
大分部は省略する形になったがユノの眉をひそませるには充分な
内容だった。
179
﹁ですからクララとコレットが本当に存命かどうかを調べてもらい
たいのです﹂
﹁かしこまりました∼。すぐに手筈を整えます∼﹂
言うや否やユノは帰ってきたばかりの街へ舞い戻る。ユノ本人は
あまり邸から離れられないので他の内偵にブローシュ村まで調査を
頼まなければならない。
そして街へ戻る道中もユノは頭を回転させ続ける。
エリカからの話を聞いてユノは大きな違和感を感じていた。
︵ハロルド様が部屋に潜む第三者に気付かないなんてことがあるの
でしょうか∼?︶
ハロルドは隠密を生業としているユノの存在を容易く察知するほ
どの実力者だ。そんな人間が気配を殺す術を持たないエリカを見落
とすことがあり得るのだろうか。
ユノが導き出した答えは否。
ハロルドは意図してこの情報をエリカ、つまりスメラギ側に流し
た可能性が高い。なぜ周りの人間には伏せていた情報をスメラギに
漏らしたのか、その真意についてまでは図りかねるが。
そうならば恐らく今の自分はハロルドの思うままに動かされてい
る状態なのだろうと考えるとユノは臍を噛む思いだ。
︵あの年で底知れない恐ろしさを感じさせますね∼。成長すればど
れほどの神算鬼謀を巡らす人物になるのでしょうか∼︶
その未来像を期待するべきか恐怖するべきか。味方にできればこ
れほど頼もしく思う人物もそうはいないだろう。
180
知謀のみならずあの歳ですでに類い稀なれな武すらも身に付けつ
つあるのだ。神童という言葉でさえ生温く思える。
だが相対することになった場合は紛れもない強敵となるだろう。
それこそ幼い内に謀殺してしまった方が後の損害を格段に減らせる
かもしれない。
そんなことを考えてしまうほどの脅威足り得る。
ハロルドの言動に対してユノがそう判断を下したのは仕方のない
ことだ。
子どもらしからぬ、ではない。大人顔負け、でもまだ足りない。
その程度ではタスクに思惑を悟させずに立ち回り、ユノを軽く翻
弄することなどできはしないのだ。
例えそれをハロルド自身が狙っていたわけではなくとも、結果と
して相手にそう捉えられるのは必然と言えた。
そしてハロルド最大のミスは好感度の操作と原作の遵守に躍起に
なるあまり、そんな周囲の評価を二の次三の次と軽視していたこと
である。彼自身も自らの言動が年相応のものから逸脱していること
は理解していたが、だからと言ってそれを気にして自重していられ
るほど時間にも心にも人手にも余裕がなかった。
ある意味ではなるべくしてなった状況でもある。
しかしここで自分に下されている評価とそれが持つ意味を正しく
認識できていれば不用意に窮地へと足を踏み入れることはなかった
はずだ。避けようと思えば避けられた展開だった。
また、エリカとユノのあまりに急な長期的滞在を不可解に感じて
いながら彼女達の目的を探ることを怠ったのも致命的である。
釈明するならば不正や道理の通らないことを嫌う原作のエリカを
181
知っているハロルドだからこそ招いた油断。彼女やその付き人がス
パイの真似事をするとは露ほども思い至らなかった。
エリカ、そしてユノの動きに注視していればクララ達の生存を知
られる事態に、少なくとも今の段階で陥る可能性は低かったはずで
ある。
そういった諸々の要素を華麗にスルーした結果、ハロルドは愚か
にも自ら望んで再びスメラギ家に出向くなどという行動を選択して
しまう。
事のきっかけはクララ生存の可能性がエリカ達に知られた日から
さらに3週間近く、エリカの滞在日数が1ヶ月を過ぎた頃に父親の
ヘイデンからもたらされた命令だった。
﹁俺がスメラギに?﹂
いつかのごとくハロルドを書斎へと呼びつけたヘイデンがもっと
もらしく語ったその内容は、体調が優れないエリカをスメラギに送
りそのまま今度はハロルドが向こうに滞在して親交を深めてこいと
いうものだった。
前者は建前で狙いは後者である。彼はエリカの体調不良などホー
ムシック程度にしか考えていない。
﹁そうだ。今回私は行けないからな。だが誠意を見せるために必要
なことだ﹂
︵誠意ねぇ。大方同伴させて俺とエリカの仲が良好だってことを周
囲にアピールしたいんだろうけど⋮⋮︶
ストークス領内ではすでにエリカがハロルドの婚約者だというこ
とは公表済みだ。それによって案の定エリカに対するストークスの
182
領民の感情は憐れみへとシフトした。
自分の家の人気の無さにハロルドは呆れるしかない。これをプラ
ス評価まで持ち直す自信はなかった。
﹁分かったよ。ならすぐにでも発つ準備をしておいた方がいいね﹂
﹁ははは、そこまで心配するとは知らぬ間にずいぶんと親密な仲に
なったようだな﹂
もちろんそんなわけがない。そもそもエリカはずっと部屋に籠り
きりなので親密になる隙などありはしないのだが、ヘイデンは自分
に都合のいいように解釈したようだ。
なんともおめでたい頭をしているなと皮肉のひとつでも飛ばして
やりたいところだが両親の前では猫を被るこの忌々しい口がそれを
許すはずもなく、機嫌良く笑うヘイデンを尻目にハロルドはスメラ
ギ家への遠征をチャンスと捉えていた。ここで勝負を賭けてみるか、
と人知れず意気込む。
内心に焦りがあったとはいえ、それはあまりにも軽率な判断だっ
た。未だ問題が山積していながら、それでも状況を改善する糸口が
掴め始めた慢心もあったかもしれない。
いわば最大の地雷源へと踏み入るようなものだ。もっと冷静にな
って行動しなければならなかった。
そんな初歩的な事さえこの時のハロルドは失念していた。それに
よって新たな死亡フラグを招く結果になることを彼はまだ知らない。
183
16話︵後書き︶
まずは投稿期間が1ヶ月も空いたことを謝罪致します。
申し訳ありませんでした。
その理由ですが私生活の方で大きな変化があったからです。
それにより小説の続きを書く気力も湧かないほど気落ちしてしまい、
日常生活でも必要最低限のこと以外手につかないような状態でした。
言い訳としては心に区切りをつけるための充電期間といったところ
でしょうか。
ですがそんな状態からもひとまずは脱し、徐々に物を考える余裕が
戻ってきたので投稿を再開する運びとなりました。
お待ちいただいていた読者の方々には重ねてお詫びを申し上げます。
これからは今までのように週1話のペースで投稿していければ、と
考えています。
それにしたって他の作者様と比べればスローペースなのが悩みでは
あるのですが。
とにもかくにも﹁悪いこともあれば良いこともある﹂と前を向いて
﹃俺の死亡フラグが留まるところを知らない﹄の執筆を続けていき
たいと思います。
184
17話︵前書き︶
長くなりそうなので分割ちょい出し。
それから後書きにて小さな報告があります。
185
17話
そんなわけで急遽スメラギ家への遠征が決定したその日の夜、ハ
ロルドはノーマン達へ今後の方針を説明するのもそこそこに、長期
的に滞在するための準備を整えた。
それから数日後にはストークスの邸を発ち、そこからさらに1週
間後にはサクラが咲き誇るスメラギ領に到着していた。
ハロルドの知る桜ならば満開の状態を1ヶ月もキープすることは
できないがこの世界ではそうではないらしい。“桜”と“サクラ”
は似て非なるものなのだろう。
そんなことを考えながらハロルドは畳の上に置かれた座布団に正
座し、風に揺れる桃色の花弁を見つめていた。
時間にしてかれこれ30分ほど。元の世界で仕入れた足がしびれ
ない正座の仕方を実践しつつ、時たま緑茶をすすってはタスクが公
務を終えるのを待ち構えていた。
﹁ハロルド君、おかわりはいかがかしら?﹂
﹁⋮⋮次はもう少し濃く淹れろ。香りが薄いし何より温い﹂
机を挟んではす向かいに座るタスクの妻、コヨミがまるで侍女の
ようにハロルドの湯飲みが空になったのを見計らい机の脇にある4
0センチ四方の小さな囲炉裏で熱されている鉄瓶に手を伸ばす。
まったくもって恐縮するばかりの内面とは裏腹に恐れを知らない
口は注文をつける。まあ美味しくはあるのだが温いのに加え、お茶
186
請けの和菓子の甘さに対して薄めの緑茶が少々物足りなく感じてい
たのは事実。
だからといってこんなセリフを吐く必要はないが。
﹁あら、では次はもう少し濃いめの熱いお茶を淹れますね﹂
﹁そうしろ﹂
どうやら敬語は目上の人間ではなく両親の前でしか発動しないら
しい。しかしハロルドの傲慢な態度にもコヨミは柔和な微笑みを崩
すことはなく慣れた手つきで鉄瓶のお湯を急須に注ぎお茶を淹れる。
余談ではあるが質の良い、つまりは高級な玉露は70度程のやや
温めのお湯で淹れるのが適しているということをハロルドは知らな
かった。
い草の匂いが薫るお座敷でサクラを眺めながら緑茶を啜る。耳に
入るのは風に吹かれた草木のさざめきと、一定の間隔で響く鹿威し
の竹が岩を叩くカコンという音色だけ。
まるで日本のわびさびを詰め込んだような風流なひととき。
︵ああ、癒される⋮⋮︶
中身が日本人のハロルドにとっては最上級のおもてなしだ。この
世界に来てからというもの常に頭か体を動かしているハロルドに初
めて訪れたといえる安らぎだったのも大きい。
そんな至福とも言える時間にほだされ、このままスメラギ家で暮
らすのも悪くないかも、などという誘惑が首をもたげる。
目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返すハロルドをコヨミは微笑ん
だまま、しかしどこか興味深げに眺めていた。彼女の関心を引いた
187
のはハロルドの堂に入った所作だ。
コヨミが知る限りこの国において正座という文化があるのはスメ
ラギ領だけである。
ハロルドがスメラギの文化にある程度精通しているのは前回の訪
問で把握済みだ。
しかし玄関で靴を脱ぎ内履きに履き替える、長時間正座する、箸
を使って食事をする。こういったスメラギ独特の文化や習慣をあら
かじめ知ってはいたとしてもそれを実際に行えるかは別の話だ。
普通は知識があっても戸惑うところをハロルドはなんの苦もなく、
それこそ普段からそうしているかのように自然とこなしている。玉
露の味や温度にさえ自分なりの好みを持っているとはさすがに予想
外だった。
彼はスメラギの文化を知っているのではない。体験しているのだ。
︵でもそれはどこでかしら?︶
ストークスの邸というのは考えにくい。当主のヘイデンはそれら
に対してほとんど無知だった。
もしハロルドの近くにスメラギ出身の者がいたとしたら彼にだけ
マナーを教えヘイデンには黙する意味が分からない。
とにかく不可解な点の多い少年だった。
そのせいかコヨミはついハロルドの動作を観察してしまう。
結果として無言の空間が形成されていた。まあお互いが苦に感じ
ていないので困ることもない。
こうして静かな時間を過ごすことさらに10分、トントンと廊下
を歩く音が近づいてきた。
188
﹁お待たせしてすまない。仕事が長引いてね﹂
開け放たれている障子の向こう側から歩いてきたタスクが姿を現
す。その顔はハロルドを待たせたことに対する申し訳なさからかば
つが悪そうな笑みを浮かべていた。
﹁相変わらず手を焼いているようだな﹂
﹁これでも大分ましにはなったよ。ハロルド君が作ってくれた抵抗
薬のおかげさ。本当に感謝している。ありがとう﹂
座布団に腰を降ろすや否やタスクは深々と頭を下げた。コヨミも
それに倣う。
唐突な出来事にハロルドは面食らった。
﹁頭を上げろ、見苦しい。俺は貴様らに感謝されるためにしたんじ
ゃない﹂
﹁そういうわけにはいかないさ。ハロルド君が何を考えての行動か
は分からないけど、それでも君のおかげで状況が好転したのは揺る
ぎない事実だ﹂
だからスメラギ家の当主として礼の意思を示さないなんてことは
できないよ、とタスクは裏表など感じさせない朗らかな表情でハロ
ルドの目を見つめる。
それに耐えきれずハロルドは視線を逸らした。
﹁ふん、下らない。俺のような子どもに頭を下げざるを得ない自ら
の無能さを恥じろ﹂
189
﹁返す言葉がないよ。まあ私としては君のような将来を嘱望できる
若者と出会えたことは喜ばしい限りだけどね﹂
﹁そうか。なら尻尾を振って俺に協力するんだな﹂
﹁⋮⋮それが私と話をしたいと申し出た理由かい?前置きもなくい
きなり本題に入ろうとするなんて気が急いているのかな?﹂
﹁ゴマのすり合いなどする気はないからな。まずはこれを読め﹂
ノーマンとジェイク謹製、現時点で判明しているLP農法の効果
と活用法をまとめ上げた最新版の資料を机に置く。
ハロルドに視線で“読め”と促されたタスクはそれを手に取った。
そしてページを捲るごとにタスクの顔には真剣味が増していく。
その反応はハロルドとしては予想通りである。
というかそうでなければ困るのだ。まずはLP農法に破格の価値
があることを理解してもらわなければならない。
そこが今回の交渉を行う上での前提だ。
食い入るように資料を読み込むタスクは、最後の1ページまで目
を通し終えると小さくふぅ、と息を吐いて冊子を閉じた。
﹁なんというか⋮⋮突拍子のない内容だね﹂
﹁だろうな。だが事実だ﹂
﹁疑われるのは想定内というわけかい?﹂
﹁疑う?素直に“信じていない”と言ったらどうだ﹂
190
不敵。口角を釣り上げてほくそ笑むハロルドを表すにはその一言
で充分だった。
裏を返せばそれだけの自信がある、ということだ。もしこれが仮
にブラフならば中々の役者だろう。
しかし彼には実績がある。スメラギ領内の森に発生した瘴気に対
する抵抗薬の製造法を無償で提供してきた。
それによって追い込まれつつあったスメラギ領の運営は建て直し
に光明が差し始めている。
﹁⋮⋮そう言い切ってしまえない辺りが君の凄味だ。こんな荒唐無
稽な内容でありながら、話を聞いてみたいと私に思わせるのだから
ね﹂
﹁真実でも嘘でも聞く分にはタダだろうが﹂
﹁確かにね。だけどこの資料を見せてもらっただけでも私としては
大きな収穫だよ?﹂
﹁そんなものが欲しいならくれてやる。どうせ写本だ﹂
どうでもよさげに切って捨てるハロルドにタスクは内心だけでは
あるが初めて動揺した。
LP農法という独自の栽培法が記されたこの資料は、内容もさる
ことながら情報量も多くよくまとめられている。方法自体も簡単な
うえにリスクも低く手を出すことは容易だ。
ここで﹁やはり信じられない﹂と話を打ち切ってしまえば、スメ
ラギは損なく利益を得る可能性だけを手にすることができる。
191
だというのにハロルドは話し合いの主導権をこちらに預けてきた。
それの意味するところは、このLP農法そのものは本題の前座に過
ぎないと考えているということだ。
︵その可能性に気付かされた時点で引くことはできなくなった︶
正確に言うのならば引くことへのリスクが増したのだ。LP農法
に何か欠陥があるのか、スメラギに試させること自体が狙いなのか
もしれない。
もしくは実質的な被害がなくとも他のところへその話を持って行
かれて、いずれ自分達を苦しめる危険もある。
それを防ぐためにはやはりここでハロルドが言う本題を聞き、彼
の思惑を可能な限り読み取らなければならない。
この思考誘導まで折り込み済みなら手強いどころではないな、と
嘆息する。
数日前にユノから届けられた報告書ではハロルドは何者かの傀儡
ではなく、自らの意思で考え行動している可能性が高いという報せ
を受けた。そしてこうして向かい合い、実際に言葉を交わせばそれ
が事実であると確信した。
入れ知恵や洗脳でここまで高度に操ることは不可能だ。
﹁ならそのお言葉に甘えさせてもらうとしようかな﹂
﹁そうしろ。というかそうでなければ話が進まない﹂
﹁フム、それはどういう意味だい?﹂
﹁その資料に書かれた内容が全て事実だと仮定して貴様はどう考え
る?﹂
192
ハロルドの問いかけにタスクは一拍の間を開けてから答える。
﹁画期的な発明だ。実践して成果を上げ、特に問題が生じなければ
まずは自領で生産体制を整える。そしてある程度優位性を確保して
から国中に広めて行くだろうね﹂
﹁独占はしないのか?﹂
﹁限られた人間が富を独占すればそれは遠からず争いの火種になる。
目先の利益に囚われて四面楚歌に陥るほど愚かではないと自分では
思っているからね﹂
﹁⋮⋮いいだろう、合格だ﹂
タスクの人柄を熟知するハロルドからすれば理想的な返答だ。
自分自身に﹁何様だよ﹂と突っ込みたくなる衝動を抑えて交渉を
続ける。
﹁俺も貴様とほぼ同じ意見だ。LP農法で儲けたはいいが周囲の有
象無象から目の敵にされるのも鬱陶しい。そこで提案をしにきてや
ったわけだ﹂
﹁是非聞かせてもらいたいね﹂
両者の視線がまるでつばぜり合いをしているような緊張感に、座
敷の雰囲気が一気に張り詰める。
そして再びハロルドはあの不敵な、猛禽類のような笑みを貼り付
けた。
193
﹁貴様にはLP農法の共同開発者になってもらう﹂
194
17話︵後書き︶
Twitter始めました。
アカウントは﹃@orefura﹄です。
RTか野球の話がほとんどですが興味のある方はちょっと覗いてみ
てください。
195
18話
その提案はタスクにとって完全に意表を突かれるものだった。理
由は語るべくもない。
タスクはLP農法の開発になど全く携わっていないからだ。
﹁どういうことかな?私は開発に関わっていないけど⋮⋮﹂
﹁今まではな。だがこれから先、LP農法を広めて行くに当たって
はスメラギの名を出す﹂
その言葉にタスクは思い至る。ユノからの報告の中に“両親の前
では振るまいが違う”という情報があったことに。
単に身内とそれ以外の差だと考えていたのだが、脳裏にひとつの
可能性がよぎる。
それはハロルドが自身の能力を両親に隠しているのではないか、
ということだ。もし彼らがハロルドの有能さを知っていたならば婚
約の取り決めに際してもっとアピールしてきたはずである。
加えて当のハロルドは以前手紙でストークス家の凋落を示唆して
いた。それが意味するところは⋮⋮。
﹁ハロルド君はLP農法がご両親に知られることを得策とは思って
いないのかい?﹂
﹁さすがに俺の両親の人間性をよく理解しているな﹂
196
彼らがLP農法を知れば十中八九タスクが危惧した展開へと発展
するだろう。ハロルドはそう確信している。
だからこうしてスメラギ家へと協力を仰ぎに来たのだ。
﹁さらに言うなら俺には手駒が足りない。これ以上試験農家を増や
せば監視の目が届かなくなるんだよ﹂
﹁なるほど﹂
ここでハロルドの言わんとしていることを理解した。
彼は両親に知られることなくこの事業を拡大させたい。しかしそ
うするためには今のままだと限界がある。
これほどまでに画期的な手法であれば情報の漏洩を防ぐために管
理を徹底しなければならない。そのための人員が足りないからこう
してスメラギ家へと話を持ちかけてきたのだろう。
﹁でもどうして私のところへ?これだけの旨味があれば誰でも飛び
付くと思うけどね﹂
﹁求める条件を満たしている中で最も与しやすい相手が貴様だった
だけに過ぎない﹂
これは虚勢だ。タスクに首を横に振られれば他に伝のないハロル
ドは窮地に立たされる。
だが彼の人柄とウイークポイントを把握しきっている強みはここ
で活かせるのだ。
﹁貴様が断るなら第2、第3の候補に声をかけるだけだ。まあその
必要はないだろうがな﹂
197
﹁私が絶対にこの提案を受諾すると?﹂
﹁ああ、貴様はそうせざるを得ない﹂
どこまでも絶対的な自信。何が彼をここまでそうさせるのか。
根拠もなく強い姿勢に出るとは思えない。むしろ理詰めで事前に
相手の退路を塞ぐぐらいはしそうなものだ。
︵待て、退路を塞ぐ?まさか⋮⋮!︶
タスクの頬をじとっとした嫌な汗が伝う。
唐突にもたらされた閃きが散りばめられていたピースを繋ぎ合わ
せてひとつの答えを形作る。それ辿り着いた瞬間、タスクの背筋に
凍りつくほどの悪寒が走った。
﹁気が付いたか?﹂
その声はまるで死神の鎌のような禍々しい鋭さを宿してタスクの
耳朶を打つ。
﹁⋮⋮君は最初からこの状況を見越していたのかい?﹂
﹁だとしたらなんだ?それで貴様の返答が変わるのか?﹂
タスクが目を伏せる。ハロルドの言う通り、答えは変わらない。
どちらであったにせよエリカの身を天秤にかけられたのでは頷く
しかなかった。
﹁これが手紙に記されていた﹃産業技術の提供﹄か⋮⋮﹂
198
タスクは肩を落としてポツリとそう漏らした。その理由はエリカ
の婚約破棄に関してだ。
愛娘が責任感だけで受け入れた、本心では望んでいない束縛され
た未来。それをハロルド自身が破棄しても構わないと以前渡された
手紙で申し出ている。
その条件となるのが抵抗薬を調合・服用させ患者の症状を改善さ
せること、予想された瘴気の最大汚染範囲を目安に予防線を張るこ
と。そして提供された産業技術を活用して経済力を回復させること
だ。
あの時は世迷い言か第3者の甘言としか考えなかった。
しかしあの手紙の内容を全てこの少年が書いたとなれば話は違う。
当主としてではなく1人の父親として、その条件はあまりに魅力的
だ。
ハロルドの提案に不利な部分が見当たらないことも決断を後押し
させる。 年齢にそぐわない大人びた文章は意図したものだったのかもしれ
ない。そうすることで相手に黒幕の存在を匂わせ、その疑念を抱か
されたことによってハロルド本人が書いたものだという可能性まで
思い至れなかった。ユノからの報告があったにも関わらず、だ。
つまりあの手紙を受け取った時からタスクはハロルドの掌で動か
されていたに過ぎない。彼はこの状況を作り出すために、いったい
いつから動き始めていたというのか。
まるで未来を見通しているかのように打たれていた布石に愕然と
する。
﹁確かに思わず飛び付きたくなるくらい魅力的な話だよ⋮⋮だけど
ここまでスメラギに手をかける理由は何なんだい?﹂
199
スメラギと懇意にしたいだけならすでに提供したものだけでも事
足りる。ましてや最も強固な結び付きとなる婚約を破棄するはずが
ない。
ハロルドの思惑が読み取れずに混迷ばかり深まる。
しかしそれは当然でもあった。ハロルドは徹頭徹尾、将来に訪れ
るであろう自分の死亡フラグを回避するために動いているのであり、
それを知らない者からすれば彼の意図を汲み取ることはほぼ不可能
だ。
たとえ説明したところで理解はされないのでするつもりもないの
だが。
﹁言ったところで貴様には⋮⋮いや、俺以外の人間には理解の及ば
ないことだ﹂
自嘲するような口ぶり。ここまでの不敵さからハロルドがそんな
態度を見せると思っていなかったタスクは言葉に詰まった。
その虚を突くようにハロルドは選択を迫る。
﹁で、どうする?信用できないというならこの話はここまでだが﹂
確かにハロルドが信用に値するかと問われればまだ首を縦に振る
ことはできない。
スメラギ家も、スメラギの民も、エリカの未来
しかし彼の目的がスメラギを害すと決まっているわけではないし、
この提案を飲めば
も救うことができる。
言い方を変えるならばハロルドはそこまで手を尽くしてくれてい
るのだ。今回の件も有無を言わせず従わせたところで異を唱えるこ
200
とはほとんど出来なかったであろう。
そんな圧倒的有利な立場にいながら彼はあくまで提案という形で
話を持ってきた。
一見タスクには拒否権の無いような話だったがそれは違う。エリ
カの婚約という犠牲に目を瞑れば断ることも可能だった。
そうなればストークス家とスメラギ家の結び付きは確固たるもの
になり、LP農法がなくとも事前の取り決め通りストークス家から
の支援を受けるだけだ。
今回の提案でリスクがあったのはむしろハロルドの方だ。それも
普通に考えれば負わなくてもいいようなリスクである。
抵抗薬の開発など相当な時間と資金をつぎ込んできただろうこと
は容易に想像がつく。そうまでして作り出した状況が水泡に帰す危
険を省みずに手を取るか否か、その最後をタスクに委ねたのだ。
︵中々出来ることではないな⋮⋮︶
素直にそう思えた。思わされてしまった。
よくよく考えてみればハロルドはスメラギが一切損をしないよう
な立ち回りをしている。
本来ここまで都合の良い話を持ち出されれば簡単に頷くことはな
い。相手を疑い、不審な点を探り、それで疑いが晴れなければ断る
だろう。ハロルドからの提案も然りだ。
その判断が結果として得られるはずだった利益をみすみす手放す
ことに繋がる可能性もある。
だがハロルドは“エリカの婚約を破棄できる”という免罪符をわ
ざわざ用意した。タスクが提案を受け入れやすくするために。
201
こうまで言うと好意的に解釈しすぎだと思われるかもしれないが、
ハロルドが不要なリスクを負ってまで交渉という体面を崩さなかっ
たことへの説明はそれ以外につかなかった。
︵この思考を逆手に取るためとも考えられるが、そうだった場合は
太刀打ちのしようがない。どちらにせよ私の完敗だ︶
タスクは大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。俯かせてい
た顔を上げ、向かいに座るハロルドの瞳をしっかりと見据えた。
﹁此度のご提案、お受けさせていただこう﹂
それがタスクの出した答えだった。
﹁既定通りだが、まあ即決した点は褒めてやる。近日中に貴様の息
がかかった人間とスメラギ家が所有している畑を用意しろ。まずは
そこでLP農法に関するノウハウを叩き込んでやる﹂
﹁それだけでいいのかい?﹂
﹁あとは予定だと数年後に規模の大きい商会が必要になるな。情報
を守秘できて信用が置けるところだ。その判断は貴様に任せる﹂
﹁なるほど。下地を固めてから商会と協力して管理可能な畑を増や
し、ゆくゆくはその商会を通して技術を売り出していこうというこ
とかい?﹂
﹁俺の手駒よりはましな頭をしているみたいだな﹂
上から目線ではあるが、タスクの察しの良さにハロルドは内心で
202
舌を巻く。ずいぶんと頼もしい仲間を得られて大満足だ。
技術を売り出すにしても両親に秘匿するためにスメラギの名を借
りたい、という意図も彼ならば言わずとも読み取ってくれるだろう。
﹁他に必要な物は?﹂
﹁あとは⋮⋮﹂
言いかけて口を閉じた。このタイミングで言うべきことではない
か?と逡巡する。
それに勘づいたタスクは純然な厚意で手を差し伸べた。
﹁何かあるなら遠慮せずに申し出てほしい。ハロルド君が望む物な
ら可能な限り取り揃えよう﹂
﹁⋮⋮なら強い奴を用意しろ。ここに滞在している間、極力対人戦
闘の経験を積む﹂
この世界を生き抜くために絶対必要となる対人戦の強さ。ストー
クスの邸では得られないそれを手に入れるため、ハロルドは意を決
して1歩を踏み出した。
203
19話
ハロルドとタスクが協力関係を結んだその晩。
夜の帳が下り分厚い雲に阻まれて月明かりも地表には届かない暗
闇の中、その闇から逃れるように煌々とした明かりが灯っている一
室があった。
その一室では上座に座ったタスクを始め、妻のコヨミと娘のエリ
カ、タスクの側仕えであるキリュウ、そして汚れひとつ無い割烹着
がトレードマークになっているユノの計5人が一様に押し黙ってい
た。
緊張感をほぐすようにこの屋敷の主であるタスクが会話の口火を
切る。
﹁さて、何か報告があるようだね?ユノ﹂
﹁はい。旦那様、そしてエリカ様にお伝えしなければならないこと
があります﹂
おっとりした声ではあるものの普段の間延びした口調とは違った
様子でユノはそう切り出した。
﹁エリカにもか?﹂
﹁左様でございます。エリカ様からのご用命で動いていましたので﹂
その言葉にユノ以外の視線がエリカに集まる。彼女はそれを受け
て深く頭を下げた。
204
﹁彼女達を勝手に動かしてしまい申し訳ありません、お父様。です
かどうしても確かめなければならないことがあったのでユノの力を
お借りしました﹂
﹁確かめなければならないこと、とはハロルド君についてかい?﹂
﹁そうです。お父様はハロルド様が使用人親子を殺害した、という
お噂はご存じですか?﹂
﹁ああ、ストークスの市井ではそのような話が出回っているという
報告は上がってきているよ﹂
商人や旅人を装ってストークス領に潜入した内偵からも母子殺害
の件は聞いている。ストークス家へ対する元々の嫌悪感もあってか
領民の間でかなり広まっているようだった。
﹁⋮⋮それが虚偽である可能性が浮上しました﹂
﹁虚偽?つまり殺害されたとされている親子はまだ生きているとい
うことか?﹂
﹁その真相を確かめるためユノ達に協力をしてもらったのです﹂
そして今、その調査結果を伝えるためにユノはここにいる。
今度は全員の視線がユノに集まった。全員が次に彼女が発する言
葉を待つ。
それに対してユノは勿体つけることもなくこう語った。
﹁今回の件に関してですが流布している噂は誤りでした。殺害され
205
たと噂されている使用人のクララとその娘のコレットは今も存命で
す﹂
その報告にタスクは目を細め、エリカは顔を俯かせ両膝の上に置
いていた拳を強く握りしめた。彼女の心を罪悪感が覆う。
そんなエリカを気遣うように見やりながら、それでも報告を続け
る。
﹁今彼女達が暮らしているのはブローシュ村という他貴族が管轄し
ている小さな村です。かなり手間取りましたが本人からの証言も得
られました﹂
﹁手間取ったとは?﹂
﹁名前を変えておらず村人に聞いて彼女達に辿り着くのは容易でし
たが当時の事を頑として語ろうとはしませんでした﹂
先んじた仲間からその報告を受けたユノは自分の足で現地へ赴い
た。実際に話してみれば門前払いとまではいかないが、クララに真
相を語る気は全くなさそうだった。
しかしユノとしても﹁それでは仕方ありませんね∼﹂と引き下が
るわけにはいかない。そしてクララと言葉を交えている内にあるこ
とにも気が付いた。
それは彼女がハロルドに対して多大な恩を感じている、というこ
とだ。
ハロルドは自ら殺したと主張しながら彼女達の生存をひた隠しに
し、殺害されたという噂を知りながらそれを鎮静化させる動きはま
るで起こさない。加えて殺されたことになっている彼女がハロルド
に恩義を感じているのは何故なのか。
206
そこまで考えた時、ユノの中にとある仮説が浮かび上がった。そ
の仮説が正しかった場合はクララを揺さぶれるかもしれない妙案だ。
と同時にそれはハロルドとクララ、両者の想いを踏みにじるよう
なものだった。
しかしそうなったとしてもユノに口をつぐむという選択肢はない。
苦い思いを噛み殺して彼女はこんな言葉を続けた。
﹃ハロルド様は貴方達を守るために人殺しの汚名を被り、それを進
んで肯定しているのですよ。そのせいでハロルド様は今自領の民か
ら敵視されており、表にこそ出していませんが非常に憔悴なさって
いました。
わたしも隠された真実を白日の下に晒す気はありません。ですが
その真実を語っていただければ秘密裏にハロルド様の理解者を得る
ことができるのです。どうかあの方を救うと思ってご助力いただけ
ないでしょうか﹄
所々盛られたその口説き文句は効果覿面だった。ユノの言葉を聞
いたクララは顔を真っ青に染め上げて口を手で覆う。
瞳には涙が滲み、痛々しい数分の沈黙を経てようやく彼女はあの
日何が起きたのかその全てを明らかにした。
そして後悔する。無理強いをしてまで語らせることしかできなか
ったことを。
﹁⋮⋮彼女はなんと?﹂
﹁事の顛末は5ヶ月ほど前、クララが誤ってハロルド様に怪我を負
わせそうになったのが発端だそうです﹂
207
そこからユノは彼女から聞いた話を正確に、過不足なく部屋いる
全員に伝えた。
それをきっかけにハロルドの両親が激昂し斬り殺されそうになっ
たこと。
ハロルドがクララを魔法の実験台にすると嘘をついて地下牢に閉
じ込めたこと。
そうして時間を稼ぎながらクララを救出する手段を編み出したこ
と。
娘が天涯孤独にならないように自分と引き合わせてくれたこと。
荷馬や家財道具、さらには多額の支度金まで用意し無償で提供し
てくれたこと。
今そうして汚名を被っているのは恐らく自分達の身の安全を確保
するためだということ。
﹁⋮⋮彼女は涙ながらにそう話してくれました﹂
ユノの報告を聞いて誰もが言葉に詰まっていた。
あの不遜な態度の内側にハロルドがどれだけの強さと優しさ、そ
して苦しみを抱えていたのかを知ったから。
またそれを知っているクララが彼を助けるためとはいえ彼の想い
を無下にして真実を口にするのはきっと身を切るような思いだった
だろう。
不意にエリカが立ち上がり襖に手をかける。その背中をタスクが
呼び止めた。
﹁エリカ、どこに行くつもりだい?﹂
﹁⋮⋮私はハロルド様に謝らなければなりません。何も知らず、知
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ろうともせず、ただ感情のままに罵り、あまつさえ手まで上げてし
まいました。到底許されることではないですけれど、それでもせめ
て⋮⋮﹂
誠心誠意謝ることくらいはしなければいけない。
しかしその想いはタスクによって阻まれた。
﹁それは認められないな﹂
﹁何故ですか?﹂
﹁彼がここまで身を呈して守っているんだ。それを知った私達が取
るべき行動は秘密の共有ではなく秘密の厳守だ。まだお互いを信用
しきれていない相手に情報が漏洩したと知ればハロルド君のことだ、
さらなる漏洩を警戒して今より孤立してしまうだろう﹂
そうなればこれまで孤軍奮闘してきたであろうハロルドをさらに
孤独に追いやる危険性がある。ハロルドならそれでも何とかしてし
まいそうではあるが、やはりそれは荊棘の道だ。
分厚い仮面の下では絶え間なく傷付き、時には涙しているかもし
れない。
﹁エリカが謝りたいと思うのは当然のことだよ。でもそれは本当に
彼への罪の意識からくるものかな?酷い仕打ちをしてしまったこと
への許しが欲しいだけじゃないと言い切れるかい?﹂
﹁っ!﹂
だからタスクは止めた。愛娘に理不尽で厳しい言葉を向けてでも。
エリカもタスクが言わんとしていることは分かる。頭でなら納得
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もできた。だが心は、感情は、理性で片付けることができない。
﹁⋮⋮ではどうしたらいいのですか?過ちを正すことも、頭を下げ
ることもできない私はどうすればいいというのですか!?﹂
そう叫ぶエリカの姿は年相応の幼子だった。普段必要以上に大人
びているエリカの子どもらしい振る舞いに、非常に場違いであると
は承知しながらもタスクは微笑ましく思う。
スッと立ち上がりエリカに歩み寄ったタスクは、自身の腹部ほど
の高さに位置するエリカの頭を優しく撫でた。
﹁お前はハロルド君を支えられる人間になりなさい。彼は優秀だけ
どあまりに優れすぎている。時にその力は彼を孤独にするだろう﹂
ハロルドと言葉を交わしたタスクは直感的に悟ったことがある。
恐らくハロルドは自分と、というより一般的な人間と違う視点で世
界が見えているのだろう。
そうでなければ“俺以外の人間には理解の及ばないことだ”など
という言葉は出てこない。
どこか嘆くような口ぶりでそう語っていた彼はタスクが懸念した
自身の未来を理解しているのだろう。しかし幸か不幸か、ハロルド
はその孤独に耐えるだけの強さも持っている。
彼ならばどれほど苛烈な道のりでも止まることなく歩み続けて行
くはずだ。そんな意思の強さをタスクは感じ取った。
﹁自分の行動を償いたいと思っているなら許しを請うのではなくて
彼が成そうとしている事を見守り、支え、寄り添い、真に理解でき
る人間になってみせるんだ﹂
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﹁ハロルド様に寄り添い、真に理解できる人間に⋮⋮﹂
﹁それはとても難しいことだろうね。ハロルド君はその優秀さ故、
協力者は求めても仲間は必要としないかもしれない。1人で多くを
こなせてしまう彼の独断を信じて付いて行くことがエリカにはでき
るかい?﹂
何よりハロルド自身がエリカを遠ざけようとしているのは明らか
だ。タスクにはハロルドが意味もなくそのような態度を取るとは思
えない。
エリカに対してそうするだけの理由が彼にはあるのだろう。
つまりエリカがどれだけ心を尽くしたところで省みられないかも
しれないのだ。それもまた過酷な道を歩むことになる。
﹁⋮⋮﹂
そしてここで安易に﹁できます!﹂と断言できるほど、エリカは
思慮の浅い子どもではなかった。自らの行動がどれだけ自己中心的
で、タスクが言う理想像からかけ離れたものか痛いほど分かってい
るからだ。
悔しそうに唇を噛んだエリカに屈んで目を合わせたタスクは、情
に満ちた優しい声で諭すように語りかける。
﹁今すぐ答えを出す必要はないよ。彼の姿から学んでどうしたいか
を決めればいい。まあ手を上げたことについてはやり過ぎたと謝罪
するべきだけどね﹂
意気消沈した様子で小さく﹁はい⋮⋮﹂とだけ漏らしたエリカを
自室に帰す。今日これ以上何かを言っても心を整理できないだろう
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と判断した。
エリカと、その背中に従ったユノが退室するとタスクは苦笑いを
浮かべた。
﹁婚約が決まった時も相当だったが、今回もかなり落ち込んでいる
ようだな﹂
﹁その理由はまるで逆のようですけどね﹂
対してコヨミはくすくすと鈴を転がすような声で笑う。
ほんの2ヶ月ほど前は気丈に振る舞いつつも望まぬ相手との婚約
に内心では気落ちしていたエリカ。
それが今やその相手を傷付けてしまったことに後悔を覚え、認め
られたいとすら思っている。その気持ちを本人はまだ気付いていな
いようではあったが。
﹁子どもはこうして成長していくのだな⋮⋮﹂
﹁しみじみと何を仰るのですか?我が子の成長を実感するのは初め
てのことではないでしょう﹂
﹁愛娘となるとその感慨もまたひとしおだよ。ところでキリュウ、
イツキの返答はどうだった?﹂
﹁明朝にはお戻りになるとのことです﹂
長らく無言で控えていたキリュウの言葉にまたもやタスクは苦笑
を漏らした。
﹁まあアイツのことだからそう言うとは思っていたが﹂
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﹁あの子はエリカを愛していますからね。鍛練でもハロルド君と戦
わせてしまったらやり過ぎてしまわないかしら?﹂
﹁恐らく大丈夫だろう。ユノからの報告ではハロルド君もかなりの
腕前らしい。一方的なことにはならないはずだ﹂
とはいえタスクとしてもイツキが負けるとは思わないのだが。何
にせよあの2人がぶつかり合うのは中々に面白そうだ、と少年じみ
た出来心が顔を覗かせる。
﹁悪い顔になっていますよ、貴方﹂
﹁心外だ。未来ある子ども達に心が踊っているだけだよ﹂
﹁旦那様もまだまだお若い、ということですかな﹂
﹁はは、違いない﹂
﹁はあ、男の人というのはいくつになっても子どもなんですから﹂
ニヤニヤしながら頷き合うタスクとキリュウにコヨミは呆れてた
め息を吐いた。
そんな大人達のやり取りが行われていることなど知るよしもない
ハロルドは、予期せぬ事態もあったがそれでも順調に事が運ばれて
いると満足していた。
そして迎えた明くる日の朝。
上機嫌さなど微塵も感じさせない冷めた表情を貼り付けたハロル
ドはタスク、コヨミ、そしてエリカの3人と一緒に朝食を摂ってい
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た。その会食も一段落した時の出来事である。
﹁そうだ、ハロルド君。昨日の件だけど君に相応しい相手を用意し
たよ﹂
食後の緑茶を口にしているとタスクがそう切り出した。
ハロルドはその言葉に眉根を寄せる。
﹁昨日の今日でずいぶんと手際がいいな﹂
﹁たまたま実力者が近くに来ていてね。手合わせを打診したら二つ
返事で了承してくれたんだよ﹂
﹁そいつは何者だ?﹂
﹁それは会ってのお楽しみさ。今朝戻ってきたばかりだけど早速手
合わせをしてみるかい?﹂
﹁無論だ。場所は用意してあるんだろうな?﹂
逸る気持ちを抑えきれずに食い付くハロルド。その姿を見てタス
クは一層笑みを濃くする。
﹁当然だとも。馬車で移動するから準備を整えてくれるかい?﹂
タスクのセリフを聞くや否やハロルドは席を立ってあてがわれて
いる自室へと戻る。和装︱︱旅館の浴衣のような格好では戦いづら
いので着替えるためだ。
﹁昨日もそうでしたけどハロルド君は正座が平気なのね﹂
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﹁侍女の説明を聞かなくとも和服を着れたというしな。箸の使い方
や内履きに関してもそうだがスメラギの文化への造詣が深いようだ
な﹂
﹁⋮⋮そういえばサクラのことも知っているようでした﹂
空いたハロルドの席をスメラギ一家は不思議そうに眺める。
それから数十分後、いつもの装いに着替えたハロルドの姿は馬車
の中にあった。乗り合わせているのはタスクとキリュウ、そしてな
ぜかエリカである。
ハロルドの隣に座るエリカは非常に気まずそうだった。その気持
ちはハロルドもよく分かる。
本人が嫌がっているのは間違いない。恐らくタスクに何かしらの
考えがあってのことだろう。
そう結論付けたハロルドは余計な口を開かず馬車に揺られ続けた。
それからしばらくして到着したのは巨大な武道館だった。
馬車を降りてまず目に入ったのが有に10メートルはある門。そ
れは見る者に威圧感を与え、門をくぐり抜けて敷地内に入れば広大
な土地の中に様々な施設が立ち並んでおり、そこかしこから掛け声
や床を打ったようなドン、という音が耳を澄まさなくとも聞こえて
くる。
ハロルドが案内されたのはその中でもとりわけ厳かな雰囲気で佇
む2階建ての道場だった。
外観と同じく木製の外付け階段を登り2階に備え付けられている
正面玄関から道場内へと入る。
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格子状の窓からは太陽の光が差し込み薄暗さを感じさせないその
フロアはまるで休憩所のようだった。一角には何人もの大人が横た
われる広さが確保された畳が敷かれている。
ガヤガヤと活気溢れていた休憩所はタスクとエリカが姿を現すと
一瞬で静まり返り、その次の瞬間には全員が頭を下げて礼をの姿勢
を取った。
﹁いきなり訪ねてすまないね。少し下の道場を借りるよ。イツキは
来ているかい?﹂
﹁はい、今朝方お見えになりました﹂
タスクは道場内にいる人間に気安く話しかけ、話しかけられた男
達も慕うようにそれに応える。信頼関係が目に見えるようだ。
そんな光景を目にしながら先導するキリュウの後を追ってハロル
ド達は1階に下りる。
そこにあったのは剣道場だった。競技用のコートが2面並んでお
り天井は吹き抜けになっている。
2階は観客席が設置されていて、タスクの訪問があったせいか何
事かと上から1階の様子を覗き見ようという人間がぞろぞろと現れ
る。
だがそんな見物客などハロルドにとってはどうでもいいことだっ
た。彼の目は既にある一点に釘付けとなっていた。
剣道場の中心で竹刀を振るう1人の少年。ハロルドより年上だろ
う12、13歳ほどの少年が黙々と素振りを繰り返している。それ
だけで視線を引き付ける力が彼にはあった。
﹁イツキ﹂
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タスクが名前を呼ぶとその少年は素振りをやめてハロルド達の方
へと向き直る。
純日本人のような黒髪黒目。身長はハロルドより10センチは高
く、爽やかで端正な顔立ちはハロルドの元の世界でもアイドルとし
てやっていけるほどだ。
目の覚めるような美少年ことイツキは開口一番こんなセリフを口
にした。
﹁おお、エリカ!しばらく見ない内に一段とキレイになったね!﹂
タスクをスルーしてエリカへと一直線に突進し、その手を握りし
めてひたすら賛辞を吐き出し続ける。エリカは困ったようなものを
見る目をイツキに向けていた。
﹁⋮⋮おい、まさかこいつが俺の相手か?﹂
﹁言いたいことは分かるが実力は確かだ。安心するといい﹂
﹁俺は“強い奴を用意しろ”と言ったはずだぞ。どう見ても子ども
だろうが﹂
﹁それは君もだろう?﹂
エリカ以外眼中になし、といった様子だったイツキはしっかりと
ハロルドの方にも意識を割いていたらしい。エリカに向けていたも
のとはまるで違う、どこか黒さが漂う笑みでハロルドに向かい合う。
﹁まずは自己紹介をさせてもらおう。僕はイツキ・スメラギ。エリ
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カの兄だ﹂
﹁⋮⋮ハロルド・ストークスだ﹂
﹁それだけかい?違うだろう?最も大事なことが抜けているじゃな
いか﹂
イツキはハロルドの左肩にポンと手を乗せる。
﹁君はエリカの婚約者なんだろう?僕の!自慢の!!妹のねっ!!
!﹂
右手が置かれた肩がギリギリと握りしめられるのを感じながらハ
ロルドは悟った。
こいつは間違いなく重度のシスコンだ、と。
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19話︵後書き︶
戦闘まで入れませんでした。
ごめんなさい。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4449cj/
俺の死亡フラグが留まるところを知らない
2015年3月23日19時55分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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