チベット・西安編 - グローバル・マーケティングの林廣茂教授

09 年夏、西安・チベットへ(第一日)
8 月 16 日(日) 京都から西安へ
数年来の希望がかなったチベット行き。私たち夫婦、友人の大学教授 OKUT さん、DBS 修了の教え子
HYAM 親子、同じく修了生の UJIK の計 6 人のグループだ。
16 日 9:15 発 CA(中国国際航空)164 で関空から上海へ。空港内の待ち時間に北方謙三『史記 武帝
記(2)』を読みふけった。上海発中国東方航空(MU)が 1.5 時間遅れて 14:30、やっと西安に到着したのが
16:30。外ではたたきつけるような雨。そのせいか荷物がターンテーブルに出てくるのが遅いこと。私たち
が乗ったマイクロバスが西安市内に向ったのは 18:00 頃だ。「うーんっ!」と持っていき場のない腹立たし
さをお腹の中に押さえこんだ。
今年完成した片道 4 車線の高速道路を貸切り状態で走りぬけ、西安市内に入ったとたん、少し低い道
路のくぼみはことごとく冠水して車が立ち往生の大渋滞。水溜りを抜け出る順番がくるまでどうしようもな
い。反対車線から、中央分離帯を壊して少しましなこちら側に車が我が物顔にゾクゾク侵入して、私たち
の前に割りこんでくる。近くの警官は止めようともしない。雨は小降りになっていた。
70 年代の韓国・ソウルでしばしば経験した光景とダブった。
私流に言って、「ものすごく新興国的な交通渋滞への対処法」だ。周りの状況も下町で、低い屋根の古
い家々が雑然と立ちならんでいる。ほころび、埃にまみれている。道路は舗装がはげてでこぼこだらけ、
上半身裸の男たちが行き来している。卑わい感さえある。
あちらこちらで同じような大渋滞をくぐり抜けて Sofitel Hotel 到着が 19:30。滋賀大大学院での教え子・
張潔くんと再会。旦那の高さんは、彼女のヴィオスで里帰りの最中とか。
シャワーを浴びる時間を後回しにして、20:00 過ぎには夕食へ。場所はホテルの近くで、私がお気に入
りの聘珍軒、広東料理の店だ。西安にくるたびに一度は利用する。雨はもうやんでいた。
活魚を食べる。但し刺身にはしないで、この日は、車えびを 1 キロ蒸かし、大ぶりのヒラメを一枚と桂魚
を一匹煮付けてもらった。あとは、鶏肉、なん種類かの野菜、金銀饅頭、スープと焼き飯。
男性 4 人はチンタオやハイネケン・ビールと紹興酒 10 年もの(中国では黄酒と言わないと通じない)で
酒盛り。女性 3 人は暖かいウーロン茶で。
張・高夫妻の一粒ダネ・堂堂くんは 2 歳で、見せてくれた携帯電話のパネルの中で元気に飛びはねて
いた。ラッキョウのような形の頭とでかいおでこは、高さんのものと同じ。
満腹・満足してホテル戻り、シャワー、歯磨き、メールチェックしてベッドへ一直線。明日は 6:30 起床で、
西寧へ。明日の夜 9 時過ぎに、そこでチベット行きの青蔵鉄道の寝台特急の乗り込むスケジュールだ。
Sofitel は、西安の要地にある。陜西省人民政府の建物の横、中央政府要人の定宿である人民大廈
がそびえる一角で、東西に白鳥が羽根を広げているような形のデザインだ。そばにはそのうえ Hotel
Mercue もある。両方のホテルがホールディング・カンパニーACCOR の傘下。西安とパリの親密な関係、
中国とフランスの強い友好関係を思わせる。
部屋が広く、間接照明で目を射さない、適温で快適なエアコン、水周りも大変良い。ここ三年くらい西安
に来るたびにこのホテルを利用している。
今回はチベットを訪ね、再び西安に戻る。「ラサでポタラ宮の実物を自分の眼で観たい」が最大の動機
である。チベット歴史のにわか勉強もしたい。8 月 21 日には(金)西安に戻り、前漢(中国では西漢)の 5
代・武帝(劉徹)の茂陵(もりょう・マオーリン)を訊ねることが二番目の目的だ。うまい料理・うまい酒も楽
しい旅には不可欠な伴侶だ。
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09 年夏、西安・チベットへ(第二日)
8 月 17 日(月) 西安→西寧、そして青蔵鉄道・寝台特急へ乗車
1 回目を書き終えてから、一週間が過ぎた。その間、山のように積みあがっていた仕事をやっと終えた。
グリーン・ビジネス/グリーン・マーケティングの共同研究の企画・申請書の提出、グローバル MBA 第 1
回入学生の受入準備委員会へ出席、地域活性化・地域ブランディングの研究会、教授選考・審査作業、
ファミマとの会合、関西 MBA のプロジェクト提案の審査会などなど。
そして、総選挙で国民としての権利を行使した。日本の政治が一刻も早く活力を取り戻して欲しいもの
だ。
国際政治の地政学的俯瞰を頭に入れて国と国民の安全保障を万全にし、国の経済・技術・金融・文
化などの世界での地位を高めつつ国内では、国民の生活・安全を第一に優先する、というグローバリズ
ムの視点を欠いたかのような民主党の政治感覚。国内では良いコト尽くめの政策をばら撒くような人気
取り。
グローバリズムが格差を生んだのではなく、グローバリズムを自国に有利に先導できなかった政治の
弱体ぶりを自民党がさらし続け、多くの国民を中進国並みの生活水準に陥れたのだ。自民党の人材枯
渇は当分改善されることはなさそうだ。
国民の多くも気づかねばならない。人の能力でもグローバル競争に勝つ努力をすることなく、格差是
正を声高に叫んでも状況は良くならないと知るといい。
日本の政治や経済が、そしてわれわれ日本人が中国や韓国をあなどり、怠けウサギのようにのんび
りと居眠りして停滞している間に、かの国々がどんどんと先を行き、追いつき・追い越して行く。日本の政
治が相対的に弱くなり、日本経済は 20 年間成長がないまま世界の中位国にずり落ちていく。
旅行記に戻る。今回の旅も、カミさんが大活躍して企画から具体的なスケジュールまで創りあげてくれ
て実現した。しかも料金は、日本側の旅行社の当初見積り一人分約 30 万円が、直接中国の旅行社との
打ち合わせ・交渉に切り換えてしかも添乗員役まで引き受けてくれたおかげで、約 18 万円に落ち着いた。
カミさんの企画・交渉・添乗員の価値が六人分で 72 万円に相当する。
8 月 17 日は 6:30 に起床してビュッフェの朝食。オレンジ・ジュース、スイカ、メロン。フランスパン一切
れ。そして禁断の柔らかベーコンをなんと 3 枚も。口に広がる濃いうまみが後を引く。
8:20 ホテル発。ラサからの帰途 21 日(金)にまた戻るので、夏物を預けておく。
朝 10:00 発予定の西安・咸陽空港(シーアン・シャンヤン Xi-an・Xianyang)→西寧(シーニン:Xining)の
フライトが遅れに遅れて 12:00 発。到着が 14:00、真っ先に昼ごはんへ。レストランに 15:00。マトン、ピー
マン、ジャガイモ、チキン、卵を素材にした辛い四川風、カレ
ー風、回教族風などなど中華料理といっても幅広い。
その後チベット仏教寺院とイスラム教寺院へ。
塔爾寺(タール寺:チベット語でクンブム)はチベット仏教
最大の宗派ゲルク派の六大寺の一つ。チベット民族やチベ
ット文化が色濃いここ青海(青海)省(Qinghai Province)にタ
ール寺があり、もう一つのチベット文化圏である甘粛(かん
しゅく)省(Gansu Province)に一つ、残り四大寺はチベット・
ラサにあるとのコトだ。
寺院の極彩色の建物群。お寺と言うより一つの町だ。そ
こで 500 人くらいの修行僧たちは衣食住医まで全てまかな
う。最盛期には 5000 人の僧がいたと言う。建物の中にはバ
ターの灯火で甘ったるい匂いが充満し、それが酸素と交じ
りあってなんとも言いようがないすえた異臭が鼻を刺す。バターで作った仏像や花々、それが解けないよ
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うにガラスのケースで保護されエアコンで守られている。私たち参拝・見学者は汗だくで順路を巡った。
帰路、海抜 2200 メートルの地を走る車の中から見る低い山々は、禿げていて稜線がなだらだ。植樹さ
れた若い木々の細い幹や枝がまっすぐに伸びている。ここは中国大陸の奥深く、降雨量は多くなく、台風
のような強い風も吹かないようだ。ふと、和辻哲郎の『風土』の描写を思い出した。エーゲ海地方の木々
が幹や枝がぐにゃぐにゃと曲がらずにあくまでまっすぐに上に伸びている様子を観て、和辻はかの地は
暴風雨が少ない穏やかな風土だと見抜いた。和辻が中国内陸の奥深く乾燥したこの地にきたらどう表現
するだろう。
ガイド君はチベット族で、名前は南加(なんか)で姓はない。チベット族には氏がないことを知った。彼
は名古屋・南山大学を卒業している。一人っ子で、親の「近くに戻れ」との指示で西寧に戻った。彼が得
意そうに言う。「じゃがいも、にんにく、そら豆が三大輸出品です」。それがとてもおかしかった。
市内に戻り、青海省最大のイスラム教寺院・西寧東関清真
大寺へ。ゆうに 600 年の歴史を刻んでいる。
巨大なブルーの桃のような形をした塔が空に突き出している。
回族(ペルシャ系・アラブ系)が多く、シルク道路を越えてきた商
人の末裔たちであるせいか、西寧の経済を彼等が牛耳ってい
るという。回族、頭に丸い帽子をかぶり、口とあごに濃いひげを
生やしていて、背の高い人たちだ。中国人=漢族とは程遠い
顔立ちとその立ち居振る舞いの違いが際立っている。正直いっ
てイスラム教の雰囲気や儀式がかもし出す心象風景が私はと
ても苦手だ。
市場により果物(桃やトマト)と塩を購入。青海湖は塩水で広さはびわ湖の 6 倍だとか。その湖の塩だ。
500 グラムでわずか一元だった。これでトマトがおいしく食べられる。調味料にも関心がありどんな「うま
味調味料」のブランドがあるのか店を覗いた。「味精」とか「味鮮」が量陳されていた。
青蔵鉄道 K9801 便の出発 21:05 に間に合うように、急いでアラブ風の緬を掻き込むように食べた。油
がいっぱい浮かんでいるスープの中にすいとん・きし麺のような幅広い緬・野菜が大きなどんぶりにぎっ
しりと入っている。食べても、食べても一向に減らない。ビールは常温で生ぬるい。別皿に湯がいた羊肉。
生にんにくをかじりながらカレー味の濃いたれをつけてかぶりついた。結構うまい。
西寧駅は超満員。中国ではどこでも見慣れた光景だ。アリの大群の中でもみくちゃなり、押し合いへし
合い、汗だくになってやっと寝台車に乗り込む覚悟を決めていた。一等寝台といっても乗り込むまではア
リの行列だ。
幸いなことに、旅行者の社長の口利きで VIP のラウンジに入れてもらえて悠々と一等寝台へ。一等寝
台が取れたのは京都を出発する 2 日前だった。カミさんが旅行社に丹念に根気よく依頼し続けたのが効
をそうした。そして、社長さんが本気になって「人間関係」の強さを使って駅の幹部に働きかけたおかげで
ある。西寧→ラサまで 25 時間の旅、一等寝台 4 人のコンパートメントで 1 人 810 元(約 11800 円)である。
寝台の室は日本での二等寝台、左右二段ベッドである。
チベット。にわか勉強だが、チベットの意味を現在の地理的・政治的観点と本来の民族的・文化的観
点との両面から理解しておきたい。
前者の観点からはチベットは、チベット自治区を指し、北は新疆ウィグル自治区と接し、東から青海省
と四川省に包み込まれている。東南には一部雲南省にも突き出ている。チベット自治区は南のヒマラヤ
を越えるとインド、ネパール、ブータン、ミヤンマーにいたる。
後者の観点から言うと、チベット族の居住とその文化・宗教は、チベット自治区から青海省全域、甘粛
省・四川省・雲南省の一部にまでまたがっている。チベット族自治州が甘粛省に一つ、青海省に三つ、そ
して四川省と雲南省に各一つある。合計 7 自治州である。自治区・自治州の総面積は日本の 10 倍に及
ぶ。チベット族の人口は 600 万人でそのうちの 270 万人がチベット自治区に住んでいる。
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自治は認められているが、政治・経済では漢民族がリーダーシップを握っている。ちゃんとした仕事に
就けるのは、中国語ができることが必須だ。文化的にも漢民族と同化・融合する方が何かと有利だ。チ
ベット民族の言葉や文化の中だけで生きていくことは、中産階級への道をあきらめることでもあるのが現
実のようだ。
09 年夏、西安・チベットへ(第三日)
9 月 5 日(土)の書き込み。
8 月 17 日(月)~18 日(火):車中とラサのホテル到着まで。
スタートから閑話休題。
9 月 1 日(火)、京都らしい・日本らしい風景の中をじっくりと歩きたくなった。思い立ち大学から今出川
通り、銀閣寺から哲学の道を南禅寺へ、蹴上を越えて旧道を通り上花山の自宅まで。延べ 2 時間半の
一人歩きだった。
ついこないだ中国内陸部やチベット高原で、乾いて荒涼とした大地、緑の薄い高原や牧草地帯、雪を
被った荒々しい山々、殆んど石とわずかな木材を使って建てた寺院などの建造物に囲まれた一週間を
過ごした反動だろうか。哲学の道の静けさや、疎水の両側の桜並木の濃い緑が眼と身体に染みわたる。
時々立ち止まっては疎水のせせらぎに耳を澄ませて癒された。
極めつきは、南禅寺の屋根の黒と柱のくすんだ褐色のフォルムに包まれたときだ。木々の緑の息吹き
が境内に満ち、建物たちがそれを吸い込みながらたたずんでいる。聞こえるのはセミの鳴き声。「これが
日本のお寺だ。しっくりとする風景。素直に自分の中に語りかける時間が流れていく」。あのチベット仏教
の釈迦如来が放つ豪華絢爛な現世利益の霊気に触れるよりは、今ここにいる自分が心穏やかだと実感
した。そのあと、金地院や何有荘に抜ける横道の溝の水で手と足を冷やした。
旅行記を続ける。
8 月 18 日(火)西寧からゴルムド(Golmud)に到着。7:30 だ。汽車の寝台で 8 時間はぐっすり寝た。
ここで酸素付の列車に乗換えた。青蔵鉄道の始発がゴルムドとのことだ。乗り換えた汽車の中でも私
たち一人ひとりのパスポートやラサへの訪問許可をチェックされた。厳重な監視の中での旅行だと悟らさ
れる。但しチェックの後はほったらかしで、親切心もあらばこそ。旅行者をもてなす文化など有りはしない。
こちらもかえって気が楽だ。
見渡す限り平原地帯が続いている。太陽が地平線から昇ってきた。肉眼で実際に見るのは初めてだ。
南の進行方向に遠く冠雪した山々が見える。手前の平原は、殆んど岩と土だけだけだが、ところどころに
背が低い潅木が丸くなって生えている。それが延々と続く。
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カミさんの写真を撮った。元気で飛び跳ねて同行の友人や修了生たちと交流している。私は魅せる笑
顔で癒され、一緒に旅を楽しむ最愛のパートナーだと悦にいっている。
やがて外の景色を観るのに
飽きてベッドで読書。
カミさんが声をかけてきた。
外の景色が変る。雪一色の山
脈を越え、列車は走り、走る。
延々と続く湿原の中に、箒の先
のように無数に枝分かれしてい
る水の道が見えては去っていく。
そしてこの風景が、行けども行
けども繰り返す。また読書し、う
たた寝し、目覚めてまた読む。
修了生 HYAM のお母さんが、酸素が薄い高地で高山病のかかり始めたのか元気が無く、ベッドでじっ
と休んでいる。食欲もなさそうだ。息子が気配りを怠らない。上品で静かなお母さんだ。私より一学年上
で、二人並ぶと「夫婦」と言っても知らない人は「納得すること間違いなし」と、当人同士が合意している。
私の食欲は健在だ。朝は冷えたスイカが欲しいところだが無いものねだりなので、大ぶりトマトを一個、
青海湖の塩でたっぷりと楽しんだ。しっかりと塩分を取らなければ活気がなえる。
昼飯と夕食は食堂車で、お母さんを除く 5 人。
私と同等かそれ以上の食欲の持ち主が 3 人。OKUT 先
生、HYAM と UJIK の両君だ。一テーブル(3~4 人用)当
たり定食で 260 元(3900 円くらい)。メニューは選べない。
出てくる5~6種類の皿盛り料理(副菜)でひたすらご飯
を掻きこむ。飯は、他では決して食べない・食べようとは
思わないバラバラ飯・こわごわ飯。最初は、酸素と気圧
が低い高所のせいかと思ったが、無断でキッチンを覗
いたら飯を炊いている様子はない。冷凍飯を温めてい
るのなら、もとからそういう飯なのだ。うま味調味料、に
んにく、唐辛子、広東風の甘い醤油などで味付けした料理で飯を食べると結構うまい。空腹を満たすた
めに、飯のお替りを注文した。
で、問題はビール。冷えていない。冷やす習慣がないから気づかない。身体を冷やすことを避ける文
化のせいでもある。私たちにとっては情けない・やるせない生ぬるいビールでの夕食だ。ビアグラスも無
く、飯を入れる茶碗で飲むビールだった。
ハップニングがあった。若い見た目かわいい女性が 1 人、突然声高に食堂車の職員に噛みつき始め
た。それがやむことなく、機関銃のようなスピードと勢いで巻くしたる。さすがに私は彼女から見えるよう
に「しーっ!」のシグナルを送ったが効果はない。彼女の金切り声が続く、食堂車内にがんがんと響く、オ
クターブが高い声だから頭にも切り込んで痛いくらいだ。遂に「シャーラップ!」。彼女の声は更に大きく・
高くなった。あきらめて耳をふさぐようにして食事を続けた。
同席した旅の道連れの、上海在住の日本人夫妻が通訳するには、テーブルを予約したのに、来て見
ると他の人が座っていて、食事ができないと言われたことで逆上したらしい。それにしても、日本的に「は
したない」のか、中国的に「納得するまでの正当な抗議」なのか。後者としても、私たちは平穏な食事時
の楽しい会話をディスターブされた。他人への配慮は要らないということか。
日本では見かけぬ光景だが、韓国や台湾でかなり頻繁に遭遇した記憶がある。東アジアの標準的な
抗議のやり方なのだろう。「静かに抗議する文化がスマートだ」と、いつから私たちは身につけたのだろ
う。
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気がつくと、くだんの彼女は私の斜め前のテーブルに一人で座っていた。周りを見ながら涙ぐんだ目を
手でぬぐっていた。誰か一緒に食事する人たちを待っているようだった。その人たちのためにも、彼女は
果敢にも職員に抗議してテーブルを確保しなければならなかったのだろう。
今は緑なす平原を緩やかに登っている。周囲の山々も緑で被われている。進行方向に向って左側に
は、お椀を被せたような穏やかな稜線、右側にはとげとげしい稜線。
汽車による 25 時間の 1 泊 2 日の旅は「まあまあ」だった。退屈な時間がかりあった。世界最高の標高
4500 メートルを通過しても、乗っている身にとっては「ああ、ここがそうなの」で終わってしまった。
さまざまな風景を通りすぎた。人影の少ない大草原や連なる山脈群、雪解け水が流れる水の道が突
然生まれ、草原の中に消えている。日本では見られない風景。現地で現物を見て、中国大陸の奥深さ・
巨大さを身体で理解した。
列車の旅で困ったことが一つ。トイレは昔懐かしい線路にポットン式だ。駅が近くなると乗務員がトイレ
に鍵をかけてしまう。駅を通過してかなり離れるまで使用禁止である。その時間は 20 分前後あったような
気がする。私は 2 度ばかり「小」の用事でこの使用禁止に遭遇した。「たかが小、されど小だ」。デモの腫
れ物と同じですぞ。水洗式にしてもらいたい。中国が世界に誇る青蔵鉄道の一等寝台車にふさわしく。
日が暮れて 21:00、標高 3650 メートルに建つラサ駅に滑り込んだ。
ラサ駅の照明は暗い。英語による案内もない、あったとしても聞こえないくらい人々の大声が充満して
いる。外国人観光客を歓迎するサービス精神は全く無い。ただ黙々と人の流れ川に押されて進む。かな
りの数の日本人や白人系の観光客が一緒に到着したのに。
駅構内外が人民解放軍の監視下にある。国外からテロが仕掛けられる・チベット内から騒乱の芽がい
つ吹き出るかも分からない、といった緊迫感がある。そのせいかどうか、ガイドは構内に入ることもできず、
駅からかなり離れた場所で待っていた。そのうえ、駅から数百メートル離れたホテルへの送迎バスの乗
り場まで荷物を持って歩いた。
ホテルの部屋に入ったのが 22:30 くらい。高山病対策では、初日の入浴は禁止だとのこと。それでもな
には差し置いても入浴ならぬシャワーをし、顔を洗い、カミさんに「おやすみ」を言ってベッドイン。
チベット・ラサに対面するのは明日の朝だ、ムニャムニャである。
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09 年夏、西安・チベットへ(第四日)。
8月19日(水)ラサ市内、ポタラ宮。
ホテルのまん前を流れているラサ河のほとりまでカミさんと散歩した。空を見上げて感嘆した。青さが
濃く深い。天に近く、空気が薄く、ほこりが少ないせいだと1人で合点した。「ラサ」は、チベット語で「神の
土地」のこと。確かにこの町は天上の神に近い。
振り返ると、のこぎりの刃のように鋭角に切り込んだ稜線を持つ山々がラサの町に上から追いかぶさ
っている。緑の少ない岩山だ。
川の水は薄い白濁色で川底が見えない。空気中のほこりを取り込んだ雪解け水が集まってすごい勢
いで流れている。手を入れた。とても冷たい。
バスターミナルが近く、交通量が多い大通りを渡ってホテルに戻る道すがら、商店が軒を並べていて、
中国語の店名や商売のスローガンがケバく書き込まれている。ふと、昨夜のガイドの言葉を思い出した。
「1951 年チベットが開放され(占拠でなかったっけ?)ました。チベットの自治を尊重し、経済開発に政府
がまい進しています」「チベット自治区の人口は 268 万人でラサは 44 万人。チベット族が 90%で漢族は
わずか 10%です」
その後の 3 日間で見たり聞いたりした実態は、存在感・露出感はいうまでも無く、経済の支配の点で漢
族が 90%、チベット人はマイノリティ。
待望久しかった世界遺産・ポタラ宮(英語では The Potala)への観光は 13:30 にスタートした。
ラサでポタラ宮の本物を観、それに包まれることで、自分の中で何かが確実に変った。メタモルフォー
ゼ(metamorphose)、自分自身が脱皮して別の自分になる。そんな体験だった。
近くで見上げたポタラ宮。両手を広げて「ウォーッ!」と叫んでしまったほどの壮大さ。Magnificent
Archtecture としか言いようがない。濃く青い空を突き破るように、ポタラ宮の壁の純白と建物の赤が屹
立している。何度も何度も「すごい」と声をだした。
最上階まで石段が 300 段。50~60 段登っては休憩をした。空気が薄いから息切れがする(地上でも普
段から坂道や石段は苦手だが)。それを何度か繰り返して広場へ。そこから更に木の階段を登ってやっ
とのことで、初代から 13 代までのダライラマの陵が立ち並ぶ一角へ。「これほどまでも精緻な仏像や歴
代ダライラマの陵を造り続けた信仰心の大きさや強さ」に圧倒される一方で、宗教心が薄い私には、宗
教の別を問わず、「宗教が人々の信仰心を鷲づかみにする力」を不思議に思う。
仏像やダライラマの肖像は全てインド風で表情豊か。金や金箔で造られ色彩も鮮やか。中国・朝鮮を
経て日本にやってきた如来や菩薩が木製で穏やかで慈悲に溢れているのとは大違い。
内部の写真撮影は禁止で、限定販売されている『The Potala, Holy Palace in the Snow Land』を購入し
た。
ポタラ宮を後にして、市内の歴代のダライラマの別荘、世界遺産のノルブ・リンガへ。14 世は 1954 年イ
ンドに亡命するまでの 4 年間、この別荘を利用した。建物の内部にはインドとの深い交流があったことを
示すさまざまな遺産が展示されていた。
帰路、驟雨と雷にみまわれた。しばらく雨宿りしたが止む気配がなく、小降りになったのを期にホテル
7
まで急いだ。シャワーを浴び、洗髪した。
『The Potala』を拾い読みしては「まどろみ」を楽しんだ。カミさんは、「グッ、グッ」と鼻を鳴らして午睡。
疲労困憊とはこのことか。私も気づいたら夕方になっていた。
夕食はきのこ鍋。数種類のきのこを「鳩がらのだし」でしゃぶしゃぶのような鍋にする。他に、豆腐、野
菜、牛肉、ジャガイモなど。スープは上品な味で、具はそのまま食べても美味しいが、濃厚なゴマだれを
つけてもなかなかいける。
裸麦で醸造したチベット・ビールを飲んだ。ガイドさんの計らいで冷やしてあった。男 4 人で小瓶を 4 本、
つつましい酒盛りだった。軽い高山病にかかっている全員には適量である。軽い頭痛や息切れ、食欲不
振などがその症状だ。
行きも帰りもラサのタクシーを利用した。4 キロメートル四方のラサ市内はどこに行っても 10 元だ。例え
ようの無いほどのオンボロ車。座席の汚れが折角シャワーした体にくっつくのではないか。廃車場から、
動きそうな車を拾ってきてタクシーに転用したようだ、と言えば多少のイメージが湧くだろうか。西安のタ
クシーが、素晴らしくきれいでナウく思えた。これも中国の奥地を旅する醍醐味の一つだ。
21:30 にはベッドへ。疲れているはずなのに寝付かれない。デジカメでポタラ宮の写真をカミさんと眺め
た。
やがて、思いはニワカ勉強した少数民族・チベット族の中国でのポジショニングのことへ。中国には 55
の少数民族がいて総人口の 10%近い。新疆ウイグル自治区とチベット自治区の面積が特に広く、中国
全体の 30%を占めるとか。鉱物資源が豊富でかつロシアやインドと国境を接している。自治区の離反を
容認することはなく、力ずくでも領土を守り北京支配の政治体制を維持することは間違いない。
政治主導の経済開発は、少数民族を中国社会や中国文化に益々同化させることを狙っているといわ
れる。経済開発の尖兵は、内陸部から移住してくる漢族である。しかし経済格差は縮まらない。08 年、上
海の 1 人当たりの GDP が 100 万円で、チベットは 20 万円、新疆ウイグルでは 29 万円である。その経済
を漢族が支配しているわけだから、少数民族だけの GDP は一段と低いに違いない。経済格差が民族対
立の大きな原因だ。といったぐわいで、旅先にいても、ついつい経済のことを気にしてしまう。
そういえば現在使用中の西寧-ゴルムド-ラサ間の青蔵鉄道(1956 キロ)の他に、四川省・成都-ラ
サ間の川蔵鉄道(1630 キロ)を着工する予定とか。2017 年には完成が見込まれる。これにより一段と多
くの漢族がラサに移住して経済開発を加速させると期待される一方で、チベット文化が更に破壊されると
いう懸念も高まっているようだ。そのうえ、チベットの防衛は成都の軍区が担当しているので、川蔵鉄道
が完成した暁には、08 年 3 月のような騒乱がチベットで起これば、たちまち成都から大量の人民解放軍
部隊を送り込むことができる。
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09 年夏、西安・チベットへ(第五日)
8/20/09(木)
チベット仏教はあざやかな色彩に包まれている。とてもカラフルだ。にわか情報だが、白・赤・黄・緑・青
の 5 色にそれぞれ意味がある。白はピュア・ホワイトで雪=Peace、赤は火=Authority、黄は Earth、緑は
Water、青は Sky をそれぞれ表わす。中でも目立つのが、ポタラ宮の真白い壁と深紅の壁のコントラスト。
抜けるような Blue Sky の下で神々しい。
ポタラ宮の姿が今も目の底に焼きついている。
ラサ市内めぐり
朝 6:00 起床、6:30 朝食、7:00 ホテル発。1年にたった一度、デプン・ゴンパ(哲蛙寺)で催されるショト
ン祭(ヨーグルト祭)の初日の盛り上がりを現場で見学するためだ。ラッキーな巡り合わせで、全員6人が
勇躍して目的地に向かった。
市内から約 12Km 西北へ。寺の参道入口まで自転車タクシー。それから 3Km の山道を、途中何度も動
悸を静めるために休憩しながら、登った。なにしろ空気が薄いのだ。京都で歩き歩きを重ねたとは言え、
かなりこたえた。
そのうえあちらこちらで大量の香を焚くものだから、その煙にむせて息ができなくなることもある。
すべり易い山肌。岩と灌木があちらこちらにあって、それにつかまりながら登っていく。
前後左右を、数万人とも思える老若男女が黙々と登っている。今日のためにチベット中から、そして中
国全土からチベット族がこの日に参集する。
デプン・ゴンパはチベット仏教ゲルク派の最大寺院とある。
1416 年の創建。敷地は 20 万㎡とか。ダライ・ラマ14世がこ
こで学んだ。
横 32m×縦 42mもの巨大なタンカが目的地の山肌の斜
面に広げられている。愛くるしい表情の釈迦像が織り込ま
れている。この釈迦像に祈りを捧げるために人々が登って
くる。人々が賽銭を包んだビニール袋を釈迦像に向けて投
げる。ショトン祭最大のイベントだ。拡声器を通して読経が
ゆったりと続いている。山肌を埋め尽くした人々にしみ込ん
でいるに違いない。
数カ所でバター茶をわかしている。バターの塊とレンガ茶の粉末を電動式のミキサーで撹拌してバター
茶をつくる。大鍋に入れて、下から薪をたいてわかしている。電動式が、その場の雰囲気に似つかわしく
なく、おかしい。「大変文明的だね」と何度も声を出してみた。
途中で上から石が転がり落ちて、不運にも OKUT 先生の左脚を直撃した。かなりのケガだったようだ。
ところで金持ちや政府の役人たちは、車で麓まで登ってくる。車の 8 割方はトヨタ・ランクルの「プラド」だ。
四輪駆動だから、山岳地帯で空気が薄くてもパワフルな機能・性能を出すところが人気の理由だ。
下山し、山門入口からレストランへ直行。全員食欲旺盛。そうだろう、朝から昼まで山の斜面を上り下り
したのだ。「柳水裏夢」、もっともそうな名前の中華料理店。鶏肉、きし麺のような中華麺、金銀マントウな
ど。確かに美味、いつまでも後を引いて食い止めできなかった。
ホテルに戻り休息。少しまどろんだ。
15:30、市内のジョカン(大昭寺)訪問と寺をぐるりと囲むパルコル(八角街)の散策へ出発。朝の山登り
で脚はヘロヘロなのだが、不思議に「達成感」があって気分が高揚しており、意気は盛んなのだ。
9
チベット仏教の中心寺院とある。中国中、いや世界中から、チベット仏教の巡礼者が五体投地をするた
めにこの寺を訪れる。途中で物故した巡礼者の歯が、近親者の手で、寺院の柱に埋め込まれたりもす
る。
建物の美しさは筆舌に尽くせない。ポタラ宮の壮大さとは異なるが、静謐で高貴だ。
ジョカンの広場。花が咲き乱れ、周囲の建物が白壁と
赤屋根に統一され、空はあくまで青い。太陽がふりそそぐ
地中海に近いイタリアの小さな町並みを思い出したくらい、
「明るい」雰囲気だ。
しかし、私の周囲の現実は、夏のラサ市内。日に焼け
たチベットの人たちが、山岳帽をかぶり、何かしら苦悩を
背負った固い表情をして行き交っている。
パルコルの商店街。門前市だ。その入り口で靴を磨い
た。親しそうに、通じない言葉で語りかける。私も通じない
と知りつつ、英語の短い単語を使って応える。
このやりとりを見ていたのだろう。身なりは決して良いとは言えない年老いた男女が私の周囲に群がっ
てきた。何やら話しかけながら、いくつかの「土産物」を同時に売り込んできた。手だけ出して「金をくれ」
という者までいた。顔はしわだらけで日焼けしており、歯が欠けている。
いたたまれなくなって、靴磨き代5元、周囲の人たちに1元を素早く手渡してその場を退散。何のことは
ない。お人好しの旅行者が、路上生活者たち(のような身なりをしている)にたかられただけのことだ。カ
ミさんも含めて 5 人の同行者たちは、私の戸惑い、慌てふためきぶりを楽しんでいた。写真を撮る者もい
た。少しいまいましい。
パルコル。08 年のチベット騒乱(チベット人の抗議行動)
の折りに、破壊された商店が多かった。漢民族が経営す
る商店だけが狙われたと聞く。今は破壊のあとは残ってい
ない。元の形や姿に戻った。
そんなことを反芻しながら、ゆっくりと歩き、カメラに収め、
ガイドさんの薦めで土産物店へ。カミさんとおそろいで、
「テンチュ」の腕輪を購入。その時以来、私の右手に廻り
ついている。
夕食は外人観光客向けのブッフェ型レストランへ。高い料理の割に食べ物はおそまつ。下手な歌や踊
りのショーの代金を含むとはいえ、後味の悪い夕食だった。
10
09 年夏、西安・チベットへ(第6日)
8/21/09(金) ラサからヤムドク湖へ、そして西安へ
ラサから南西へ車で 2 時間半、標高 4990m のカンバ
ラ峠から下に、ヤムドク湖を眺望した。さらに南に数時
間走れば、ヒマラヤ、インド、ブータンへと続いている。
遠くにヒマラヤの山々が薄く見える。とにかく寒い。
峠でチベット犬と記念撮影すると 5 元、峠の記念碑を
写すと 5 元。観光スポットではあるが、土産物を売る店
もなく、こうでもしなければ地元にお金が落ちない、と
納得。
ヤムドク湖はドーナツを半分に切り離したような形の
淡水湖で、長さは 120Km、最深部で 60m くらいとか。
湖水はトルコ石のように濃い緑色をしている。日が当
っている湖畔は暖かかった。
カンバラ峠のトイレのすさまじさを記しておく。男性用
は小水であふれかえり、もう追加できない。仕方なくト
イレの外に流れ出る溝の端で用を済ました。大きいと
ころをのぞいた。見てはならぬものを見てしまった。先
に用を足した人たちのもの、ものが積み重なっている
のだ。これで使用料2元だ。
ドライバーはチベット族の若者だ。旅行社が 2 カ月前
に購入したフォード製の小型バスを運転できるのが嬉
しくてたまらない。軽快なチベット音楽を流し、そのリズ
ムに合わせて体をゆすりながら歌っている。運転はち
ゃんとしていた。
カンバラ峠までは、蛇がクネクネしているような登り
道だ。塗装はしてあるが道げた(ガード)がない。左下
は千尋の谷だ。ドライバーが軽々と右カーブを切り、前
の車を追い越すたびに左による。すると、左の窓側に
座っている私は、谷に吸い込まれそうだ。汗が噴き出
す。高所恐怖症の私は生きた心地がしない。思わず叫
び声をあげそうだ。横にいるカミさんにすがりつき、目
を閉じて心を静めた。
帰途。通路側に席を変え、居眠りした。怖さは全くなく、
ラサ空港に向かった。途中昼食。そば、焼き飯、豚肉、
金銀饅頭、スイカ、まくわ瓜などをおいしく食べた。
14:25、空港サテライト着。西安のホテルにチェックインしたのが 21:00 過ぎ。咸陽(Xian Yang)空港から
西安市までが大渋滞だった。
夕食はホテル内で、うどんとビール。その後近くのマッサージ店へ。
2:00 就寝。
11
09 年夏、西安・チベットへ(第7日・最終日)
8/22/09(土) 茂陵(Mao Lin)=武帝陵へ
9:00。高・張夫妻と私たち 4 人で茂陵へ。西安から 40Km。咸陽(Xian Yang)空港を越え興平(Xing Ping)
市にある。
武帝。前漢(BC206-AC8 年)第 5 代の皇帝。名は劉徹(Liu Che)。在位は BC140 –BC87 年。16 歳で既
位して 53 年間漢帝国に文字通り君臨、前漢を通して最強の帝国を作り上げた。日本では小帝2人を数
えて第 7 代皇帝とされる。
武帝について。『史記』(大史公書)の「孝武本記」でなじみがある。晩年は独裁者だが、若年から壮年か
けては、平時は沈着冷静で戦時は勇猛果敢を絵に描いた様な皇帝ぶりだった。大将軍衛青(えいせい)、
驃騎(ひょうき)将軍霍去病(かっきょへい)を擁し、匈奴に連戦連勝して漢帝国の領土を北に拡大した。
また張騫(ちょうけん)を西域に派遣して通商の道を開いた。シルクロードを通じて中央アジア、やがて遠
くペルシャやローマとの交易の基礎を築いた。
武帝は衛青の姉(衛子夫)を熱愛し、衛皇后とした。
私は衛青が大好きだ。ここに来た最大理由は、衛青に本国で
再会したかったからだ。
戦いの天才である。しかし猛々しさがない。いつも控えめで、
自分を武帝に売り込もうとしない。武帝は衛青を好みつつ、何
か物足りない。
奴隷の身分から、洗濯女→コーラス・ガールだった姉の衛子
夫が武帝の目にとまった縁かどうか、そうでなくとも実力で、武
帝に引き立てられた。匈奴との戦いに連戦連勝して大将軍(大
司馬)となった。
茂陵と茂陵博物館は私を驚かせた。
武帝に仕えた将軍たちの中で、もっとも重視されたのは衛青だ
が、可愛がられたのは霍去病(衛青のおい)だったと知った。霍去
病の物おじしない自由闊達さが武帝の好みだったようだ。24 歳の
若さで病死した霍去病の墓石が博物館の敷地の真中に、そして
博物館の入り口からまっすぐに歩いた位置に屹立している。武帝
がそう指示した位置を生かして今の博物館が建てられている。
武 帝 ・ 劉 徹 の 陵 の 北 西 に 、 衛 青 ( Wei Qing ) と 霍 去 病 ( Huo
Qubing)の陵が匈奴(北)に対して首を並べて武帝陵を守るように
作られている。あれほど愛した衛皇后の陵はない。「巫蠱の乱(ふ
このらん)」で武帝によって廃され、自殺を強いられた。愛人として
選んだ李夫人(元コーラス・ガール)の陵は近くにあるというのに。
李夫人は「傾国」の出典となるほどの美女だった。
「巫蠱の乱」。虫を血の中で共食いさせ、残った虫で人を呪って
殺そうとすること(出所:鶴間和幸(04)『ファーストエンペラーの遺産』中国の歴史 3)。衛皇后の太子が武
帝を呪い殺して自分が帝位に登ろうとしたと讒言されたと言われる。
武帝と司馬遷(しばせん)。司馬遷は武帝の個人的な逆鱗に触れ、宮刑(去勢の刑)に受けた。人間扱
いされない日蔭者の屈辱の中で、「歴史を書かずして死ねない」執念を燃やして、『史記』(大史公書)全
70 巻・130 篇(526,500 字)を完成させた。私は帰国後、中国の連続ドラマ「武帝対司馬遷」を夢中になっ
て鑑賞した。
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茂陵博物館で、林廣茂の3文字を使った即興の漢詩を創ってもらった。3 文字、現代の簡体字で判読で
きなかったが、中国人留学生の蒋・汪両君のおかげで助かった。詩の意味は、私を目一杯「よいしょ」し
ている内容なので、気恥ずかしい。原文のまま日本語の漢字で紹介する。
林山書海瀟洒游
廣識天下智高伏
茂才大得桃李頌
商業頭脳壮志酬
(於:陜西省漢武大帝茂陵)
14:00 過ぎ、西安に戻り昼食。
「京都千味」。日本食・ラーメン店である。日本人(私)の舌には塩味がうすいが、けっこう食べられるラ
ーメン。そして不釣り合いだがピザを追加。生地のパンが厚くてうまい。
その後老百姓(大衆)大薬所で、カミさんが大満足の買物。胃腸薬や気の薬を買い込んでいた。
夕食は、3 年ぶりで再訪した「曲江生態花園酒店」熱帯雨林地帯の植生を再現した大ドーム型レストラ
ン(Qujang Ecology Garden Hotel)で海鮮料理。生きた魚介類を使った料理が盛りだくさんの夕食となっ
た。全員と高・張夫婦 8 人の大宴会。わいわいと楽しく話し、美味しく飲み食いした。気持ちも腹も満足い
っぱいだ。
帰途、2 日連続でマッサージ。
一週間に及んだ大旅行の最終日が終わった。
追記と今後の予定。
今回の旅行記は足掛け 4 ヵ月かけて書き終えることができた。長い間の借りをやっと返せた気分でほ
っとしている。
その間、昨年同期の 2 倍以上の時間がかかる校務を果たすのに 1 日の休みもない状態が続いた。
日本語による MBA プログラム JMBA は昨年と同様の講義とゼミ指導などのワークロードがあり、それ
に追加して、今年の 9 月にスタートした英語による MBA プログラム GMBA で Associate Dean の役割、2
科目の講義、5 人の外国人学生の指導教授役、Work and Study Scheme で協力していただく京都・大阪
の企業との交渉や調整など。
3 週間後には、13-15 人の教え子や友人たちをリードして、今年 3 度目の上海、2 度目の西安にそれ
ぞれセミナー旅行にでかける。上海では資生堂やキリン・ビールの方たちにお世話になり、西安では 3 年
目になる西安交通大学での MBA 同士の交換ゼミ、親しくしてもらっている教授達、教え子夫妻などとの
交流や友情の交換をする予定だ。
元気でいられることが何よりと、カミさんに大感謝している。
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