資 料 見よぼくら一銭五厘の旗 花森安治 この作品は花森安治(はなもりやすじ・1911−1978)が 1970 年(昭和 45 年)10 月の『暮しの 手帖』第2世紀8号に掲げた“宣言”です。アジア・太平洋戦争の敗戦の日を迎えて読んでみると 心にしみるものがあります。花森は神戸市で生まれ、1948 年『暮しの手帖』を創刊し、編集者と して活躍しました。原作では表題と本文の「銭」は「戔」が使用されていますが、ここでは原義の 「銭」を用いました。なお、改行・送り仮名などは、雑誌初出時のママとしました。 美しい夜であった もう二度と誰もあんな夜に会う ことはないのではないか 空はよくみがいたガラスのように 透きとおっていた 空気はなにかが焼けているような 香ばしいにおいがしていた どの家もどの建物も つけられるだけの電灯をつけていた それが焼け跡をとおして 一面にちりばめられていた 昭和 20 年 8 月 15 日 あの夜 もう空襲はなかった もう戦争はすんだ まるでうそみたいだった なんだかばかみたいだった へらへらとわらうと涙がでてきた どの夜も着のみ着のままで眠った 枕許には靴と雑のうと防空頭巾を 並べておいた 靴は底がへって雨がふると水がしみ こんだがほかに靴はなかった (……中略……) 戦争には敗けたしかし 戦争のないことはすばらしかった 軍隊というところはものごとを おそろしくはっきりさせるところだ 星一つの二等兵のころ教育掛りの軍曹 が突如としてどなった 貴様らの代りは一銭五厘で来る 軍馬はそうはいかんぞ 聞いたとたんあっ気にとられた しばらくしてむらむらと腹が立った そのころ葉書は一銭五厘だった 兵隊は一銭五厘の葉書でいくらでも 召集できるという意味だった (じっさいには一銭五厘もかからなか ったが……) しかしいくら腹が立ってもどうする こともできなかった そうかぼくらは一銭五厘か そうだったのか 〈草莽(そうもう)の臣〉 〈陛下の赤子(せきし)〉 〈醜(しこ)の御楯(みたて)〉 つまりは 〈一銭五厘〉 ということだったのか そういえばどなっている軍曹も一銭 五厘なのだ一銭五厘が一銭五厘を どなったりなぐったりしている (……中略……) ぼくらの代りは一銭五厘のハガキで 来るのだそうだ よろしい一銭五厘が今は七円だ 七円のハガキに困まることをはっきり 書いて出す何通でもじぶんの言葉で はっきり書く お仕着せの言葉を口うつしにくり返し てゾロゾロ歩くのはもうけっこう ぼくらは下手でもまずい字でも じぶんの言葉で困まりますやめて下 さいとはっきり書く 七円のハガキに何通でも書く ぽくらはぼくらの旗を立てる ぼくらの旗は借りてきた旗ではない ぼくらの旗のいろは 赤ではない黒ではないもちろん 白ではない黄でも緑でも青でもない ぼくらの旗はこじき旗だ ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた暮しの旗だ ぼくらは家ごとにその旗を物干し 台や屋根に立てる 見よ 世界ではじめてのぼくら庶民の旗だ ぼくらこんどは後(あと)へひかない
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