第299回平成27年5月月例会 ① チャールズ・H・ダラスと米沢牛の歴史 槙 良生 はじめに 米沢牛は神戸牛、松阪牛、近江牛と並ぶ日本を代表する ブランド牛として知られている。このうち神戸牛は積出港「神戸」 の名を採ったもので、本来の産地は但馬牛であり、松阪牛も同様で ある。3大ブランドの中で最も歴史があるのは近江牛である。肉食 を禁じられていた藩政時代にあって、彦根藩は陣太鼓に使う牛皮を 毎年幕府に献上するため、唯一牛の屠殺が認められていた。この時、 味噌漬けにされた牛肉は「反本丸(へんぽんがん)」という名称で養 生薬として売られていたのである。 一方、米沢牛はその始まりがはっきりしているのが特徴である。 それには1人の外国人が関わっていた。 今回は米沢牛の恩人と言われるチャールズ・ヘンリー・ダラス(1 842〜1894)に焦点を充てながら、米沢牛の育成・発展のた めに奮闘した多くの人々の息吹を感じながら、米沢牛の歴史ロマン に触れていきたいと思う。 ◆・幕末明治の食肉状況と先駆者、中川嘉兵衛の活躍 肉食禁止令の先駆けは675年天武帝が牛、馬、犬、鶏、猿を禁 止したことに始まる。この時、鹿と猪は対象に入っていなかった。 江戸時代になると、キジ、カモ、猪などは食べられていたが、肉食 を原則的には禁ずる政策は継続されていた。しかし開国の後、横浜 に居留地が誕生すると、急速に近代化の波が押し寄せ肉食も解禁さ れてゆくのである。慶応元年(1865)5月に横浜の北方村小港 (現中区北方町小港)の海岸に、本格的屠牛場を設けると、ようや く新鮮な牛肉が手に入るようになった。その後は主に関西方面から 牛の生体を調達した。これにより国内の米沢以外の3大ブランド牛 (神戸、松阪、近江)が確立されていったのである。 このころ特筆すべき人物、中川嘉兵衛(1817=〜1897) が現れる。三河の生まれで、京都で漢学を学んだ後、横浜開港を聞 いて上京した。初代英国公使オールコックのもとでコック見習いと して働き、その友人であるジェームス・ヘボン(1815〜191 1)から様々な知識を吸収した。まずは牛乳に目をつけ、元町で搾 乳を始め、牛乳屋を開業する。さらに英国軍の御用商人となりパン の製造技術を習得して、パンやビスケットの製造を開始した。 横浜に屠牛場が設置されたものの、江戸高輪の英国公使館への輸 送は困難(当時はまだ鉄道はない)だったので、中川は慶応3年(1 867)5月荏原郡白金村(現港区白金)に屠牛場と牛肉販売店を 設立した。そして芝霞月町に初の牛鍋屋「中川屋」を開くのである。 ここに江戸において牛肉の生産、販売体制が整ったのであった。 ほぼ同時期に中川は製氷業にも進出する。これはヘボンのアドバ イスによるものであった。氷は食品保存にも医療にも大きな需要が あったが、当時の日本にはこれを大量に生産、輸送することはでき なかった。そのため、何と米国から天然氷「ボストン氷」を船便で 輸入していたのである。文久元年(1861)中川は氷室建設の許 可を受けて、富士山麓で天然氷の製造、採氷を始めたが失敗、以後 諏訪、日光、東北などで試行錯誤を繰り返し、明治2年(1869) 函館・五稜郭において、7度目の挑戦でようやく成功したのであっ た。前年の明治元年(1868)に中川は堀越藤吉に牛肉店と牛鍋 屋の権利を譲り、その後は製氷に専念した。 「函館氷」は価格、品質 でボストン氷を駆逐して、氷の利用が広まることに貢献してゆくの である。数々の事業のパイオニアとして文明開化に寄与したのち、 明治30年(1897)東京の自宅にて79歳の波乱に満ちた生涯 を閉じたのであった。 ◆ ・チャールズ・H・ダラスの登場 中川嘉兵衛が牛肉の事業化に取り組んでいた幕末の文久3年(18 63)、チャールズ・ヘンリー・ダラスは中国上海から貿易商として 来日した。この時、わずか22歳であった。彼の経歴に関しては『米 沢牛の恩人 チャールズ・ヘンリー・ダラス小伝』(尾?世一著:置 賜日報社)に詳しいが、それによると、天保13年(1842)英 国ロンドンにウイリアムとルイーズ夫妻の4男(ほかに1女)とし て生まれている。父ウイリアムは英国東インド会社の仕事に就いて いたようで、息子チャールズもその影響を受けてアジアへの漠然と した憧れを持っていたものと推測される。チャールズの兄達につい て触れると、長男と3男は早くに亡くなったが、2男バーネスは上 海で「紅茶」の販売に携わっており、チャールズとも親交があった ものと思われる。チャールズは神学校に進み英才教育を受けた後、 18歳のとき中国へ渡って広州、厦門、福州、上海と移り行き、相 当な中国通になっていたであろう。そして、22歳の時、ついに横 浜へとやってきたのであった。横浜居留地で、彼はまずフリーメイ ソン支部の設立の仕事で、手腕を発揮して、大きな信頼を勝ち取る ことになる。それで明治3年(1870)5月、大学南校(現東京 大学)に文部省のお雇い外国人の英語教師として招かれることにな るのであった。 次にダラスの家系について触れるが、母方のシーモア家も含めて 英国の上流階級の家柄だったようである。のちに高橋是清が自伝の 中で、 「ダラスという人は横浜の商人であったが、家柄の良い生まれ で、何でも祖父さんか、誰かが米国の副大統領になったことがある とか、聞いている。至極上品ないい人であった」と述べている。こ れはジョージ・ミフリン・ダラス(1792〜1864)のことで 1845年〜1849年まで副大統領を務めていたのであった。平 成18年に尾?世一氏がついにダラスの肖像写真(資料1)を発見し たが、これをみるとなかなかの好青年だったことが偲ばれるのであ る。文久3年(1863)に来日したダラスも元号が明治に代わる ころには、日本語を始め相当な日本通になっていたものと思われる。 それでも、まだ米沢とは何の縁もなかったのである。 当時の米沢についてみていこう。米沢藩では寛政5年(1794) 藩校興譲館に医学館好生堂を開校することになり、以後蘭学が隆盛 となっていた。幕末期になるとオランダに代わって英学が優位とな り、明治に入ると英学志向をさらに強め、明治4年(1871)興 譲館内に洋学舎を設立し、外国人教師を招聘しようとしていたので あった。こうした状況下で、ダラスと米沢を結びつけるきっかけと なる重要な事件が起こったのである。時に明治3年(1870)11月 23日夜半、大学南校の同僚リングと神田鍋町(現須田町)で攘夷 壮士数名に襲われ重傷を負ったのである(ダラス・リング事件)。な んとか命は取り留めたものの、療養の身となったため、給与の残額 と養生料の支給をもって大学南校を解雇されたのであった。 ◆ ・「米沢牛の恩人」ダラスの誕生 明治4年(1871)7月、廃藩置県令が施行され、米沢県が設置 された。同時に興譲館の洋学舎新設に伴い外国人教師を招聘するこ とになり、若干30歳のダラスについに白羽の矢が立つことになっ たのである。同年10月に教鞭をとることになるのだが、雇用条件 は大学南校と同様に破格のものとなった。月給は250円(現在価 値で大凡300万円ほど) 、当時は米1俵が1円12銭だったことか らすれば、とんでもない高給である。さらに3か月分の前払いとい うものであった。ダラスの契約書には「英仏の語学を教授」とあっ たが、フランス語は教えなかったらしい。 彼はなかなかの紳士だったようで、学生からも米沢の市民からも 敬愛されたようである。 「人と対話し、若しくは他人を訪問するとき は必ず服装を正し、また、人と対話する時曽て欠伸せしことなし」 と当時の明治事物起源にも書かれており、礼儀正しい人物だったこ とがうかがえる。洋学舎での授業は英語でおこない、英語のみなら ず代数、幾何、経済、地理、歴史などさらにはクリケット、器械体 操などにも及んだらしい。特筆すべきは英語の発音について、邦音 と対照させた発音入門書を著したことで貴重な文献として評価され ている。 明治6年(1873)ダラス32歳のとき、英国に一時帰国して エミリー・シャーロット・シーモア(23歳)と結婚した。米沢に 戻ってから2人仲良く乗馬しているのが評判になったという。米沢 に赴任する時に、ダラスは日本人女性とその間に生まれた女の子、 さらに横浜からコックとして万吉を連れてきたようである。万吉に 牛肉料理を作らせては学生・教師などに振る舞っては、食肉につい て話していた模様である。 明治8年(1875)3月置賜県(米沢県は置賜と改称していた。 こののち山形、鶴岡と合併して山形県となる)との契約が満了とな り、米沢を離れる時がきた。在任期間中に食べた牛肉がとても美味 しかったとみられ、コック万吉に米沢において牛肉店の開業を提案 し、開業資金も提供したのである。 「牛万」という屋号で米沢で初の 牛肉店と牛鍋屋が誕生したのであった。この時、万吉とダラスの愛 人である日本人女性が結婚して、ダラスの間にできた女の子も万吉 夫婦に引き取られたのである。ダラスは米沢を去るにあたり、 「米沢 からのおみやげ」として生きた牛を博労に引かせて出発した。横浜 まで7泊8日の行程である。横浜の屠牛場でこれを屠殺して知人に 振る舞ったところ、大変美味であると大好評を得たのであった。こ れがきっかけとなり、米沢産の牛肉が米沢牛として、神戸、松阪、 近江と並ぶブランド牛へと展開することができたのであった。 米沢ダラス協会の尾?会長は安部米沢市長との対談の中で重要な ポイントを指摘している。すなわち、 「米沢では熱心な教育者として 評価されていますが、横浜に帰り、そして上海に渡って貿易商に戻 ったダラスは、二面性を持っていたということも見のがせません。 逆に、貿易商としての素質があったから、米沢牛を横浜に持って行 って商売に結びつけようと思ったかもしれません」と。米沢牛の美 味しさならば、外国人相手に十分商売が可能と考えたとも推測され るのである。 ◆ ・その後のダラス 横浜に戻ったダラスは、当時東京、横浜の米英知識人たちで組織さ れていた「日本アジア協会」の委員や書記の仕事をしていた。そし て、協会の機関誌「Transaction」に「街道案内付置賜県収録」と「米 沢方言」という2つの論文を発表したのである。前者は東京〜米沢 間の旅行案内と置賜地方の産業の概説であり、後者は米沢の住民か ら聴取した内容に言語学的な考察を加えたもの。彼は赴任中、散歩 の道すがら、米沢弁で話しかけたという。この論文を発表してから 3年後の明治11年(1878)、英国の旅行家イザベラ・バードが 来日して、遠く陸路を北海道の日高・平取(びらとり)まで旅をし ている(詳細は昨年7月の例会で小生が発表した)。明治11年には ダラスも横浜に居たはずではあるが、バードの「日本紀行」の中に はダラスに会ったという記述はない。しかしながら、バードは旅行 記の中で米沢盆地を「東洋のアルカディア」と高く評価しているこ とを勘案すると、ダラス本人とは会っていなくても、研究熱心な彼 女ならば彼の論文には目を通したのではないか、と推測されるので ある。 明治9年(1876)協会からは身を引いて、居留地28番に事 務所を開設して、公認会計士を本業として、欧米向けの特急便の運 送会社代理店を営んだり、不動産の斡旋を手掛けるなど手広く商売 をしていた。その後、明治18年(1885)44歳になったダラ スは家族とともに上海の租界に移住、英国向けの石炭・銅の輸出を 業務とする貿易商に戻ったのであった。 その間、明治9年(1876)長女グレンドレイン、明治11年(1 878)次女ビルダ、明治14年(1881)三女リリアン、明治 16年(1883)四女アイリーン、そして明治17年(1884) には待望の長男ウイリアムと子宝に恵まれたが、長女と3女は早く に亡くなっている。彼の遺言書の中に「わたしは養女にしたエフィ ー・ダラスが私の遺産分配に参加することを(中略)望みます」と あることから、ダラスにはもうひとり女の子があったようで、これ が日本人女性との間に生まれた子であったとも考えられるのであっ た。数々の功績を残したダラスは、上海の租界に移って9年後の明 治27年(1894)病により上海の自宅にて、53年の短い生涯 を閉じたのであった。 ◆ ・米沢牛のあゆみ それでは次に米沢牛のルーツとその歩みについてみていこう。米沢 牛についても、ダラス小伝の著者である尾?世一氏が第一人者である ので、その著作やダラス協会のサイトから引用しながら紹介する。 それによると、南部地方(現在の岩手、青森県の一部)との関わり があるようだ。寛政元年(1789)南部の三陸沿岸で砂鉄の発見 により、南部藩は粗鉄生産を重要産業として振興奨励し、この輸送 のために南部牛の増殖にも力をいれた。これを鍛冶屋や鋳物屋の集 積している越後・三条へ運ぶのである。 「牛追い道中」と呼ばれてお り、春になると、牛1頭につき粗鉄30貫目を乗せ、1人の牛方が 7〜8頭を御し、総勢10人で70〜80頭の牛を追って輸送した のであった。南部を出て盛岡から奥州街道を南下、白石(宮城)か ら二井宿峠を越えて米沢領に入り、越後街道をさらに西へ進み、越 後・三条まで20日あまりの旅である。帰り道に牛の購入を希望す る者があれば、これを売って身軽になって帰るのだった。現在の小 国町、飯豊町、川西町流域には帰り道に売られた南部牛が米沢牛の ルーツとなった。それらの牛を2〜3年使役すると、肥って使い難 くなるために手放し、博労によって東京、横浜に売られてゆくので ある。そしてダラスの登場を迎えることになる。 彼の資金援助で開店した「牛万」は暫くは営業していたが、残念 ながら現在は残っていない。明治も中期になると米沢人による牛肉 店が開業する。いくつかあったようであるが、現在まで続いている のは明治27年(1894)尾?庄吉が創業した登起波牛肉店であっ た。当時は冷蔵庫もなく、牛鍋などを食べるのはもっぱら秋冬だっ たようである。その後大正元年(1912)になると、尾?世禄(登 起波牛肉店2代目)は粕や味噌の中に牛肉を漬け込んだ「牛肉トキ ワ漬」を開発し、冷蔵庫の普及していない時代にあって消費に大き く貢献することになったのである。 ブランド牛としての知名度を上げてきた米沢牛であるが、これに ふさわしい品質を維持するために様々な取組がなされている。なか でも最も重要なことは米沢牛の定義である。米沢牛と認められるに は、決まった定義を満たさなければならない。これが、他のブラン ド牛に比べて、相当に厳しいのである。一番新しい定義は平成26 年12月1日の取引分より適用されるもの。①産地制限(置賜管内 の3市5町) 、②牛種制限(黒毛和種の未経産雌牛) 、③枝肉の格付 け制限、④飼育月齢制限(生後32か月以上で3等級以上)、⑤放射 性物質の不検出、以上の5つの基準である。このうち、最も厳しい のは②の牛種制限である。昨年末からはついにメス牛だけになった。 肉牛生産者の生産効率、経済性を勘案すればオス牛や去勢牛もある 程度は不可欠だと思われるところであるが、ここをあえて厳しく設 定して、あくまでブランド牛としての品質と美味しさを確保してい こうとしているのである。ちなみに他のブランド牛にも定義がある ので、サイトなどでみてゆくとメス牛にこだわっているのは、松阪 牛以外ほとんど無いことに気づかされるのである。それでも前沢牛、 飛騨牛、宮崎牛などライバルもしのぎを削っているので、今後とも 品質向上にはより一層の努力が求められるのである。 ■、まとめ 私は今回のチャールズ・H・ダラスと米沢牛の研究を 振り返り、食肉文化と米沢牛というブランド牛の成り立ちにおいて、 大きく3つの貢献を見出すのである。 ●チャールズ・H・ダラス自身の貢献 貿易商であったダラスは自 ら牛を持ち帰るということが、かなり大きなインパクトになるだろ うということ、さらにそれが米沢に牛肉生産の産業育成につながる 可能性があることを十分予期していたものと思われる。偶然のエピ ソードのように語り継がれているが、彼自身はある程度、想定内だ ったのではないだろうか。4年近く世話になった米沢へのささやか な恩返しのように思えるのである。 ●牛肉産業とその関係業種に携わった多くの人々による貢献 中川 嘉兵衛が江戸に屠牛場と牛肉店を開いたのは慶応3年(1867) と幕府最後の激動の年である。また食肉の土台になる製氷業への進 出はさらに6年前の文久元年(1861)である。まだ尊王攘夷を 掲げた志士が割拠していた時代である。政治的にはかなり動揺して いる時であっても、しっかり前を見据えて果敢にも挑戦してゆく姿 には感動すら覚えるのである。中川のほかにも多数の牛鍋屋や牛肉 店、そして米沢でも牛肉店が開かれたのであり、彼らの貢献は大と 言わざるをえないであろう。 ●消費者として特に地元市民の貢献 ダラスと牛肉関係者の働きが あったとしても、やはり基本になるのは消費者である。米沢牛の場 合は出荷の内、地元での消費が7割程度にのぼるとのことで、地元 米沢で深く愛されていることがよくわかる。昨年平成26年8月8 日(金)第34回米沢牛肉まつりが開催された。これは「最高級の 米沢牛を七輪で!、すき焼きで!」と銘打って完全前売りのチケッ ト制で松川河川敷公園にて米沢牛を頂くのである。ちなみにチケッ トは4人分(1kg) :15000円、2人分(500g)で各種具 材、卵、タレは込である。このような地道な努力こそ、高級牛肉が 地元と遊離することを防止して地域で一体となった取り組みが可能 になるものと思うのである。 このような多くの人たちの汗の賜物として現在の米沢牛がある、 と言えるのである。 【参考文献】 「米沢牛の恩人 チャールズ・ヘンリー・ダラス小伝」 (尾?世一著:置賜日報社) 「わが人生を顧みて」(尾?世一著、置賜日報社) 「まぼろしのブランド牛 米沢牛物語」(尾? 仁著:エル書房) 米沢日報のダラスに関する各種記事(成澤社長様からご好意で頂いたもの) この他ウィキペディア、米沢ダラス協会、米沢牛銘柄推進協議会の各資料を参 考にした。 (以上)
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